冬の北海道の川の水は、凍えるように冷たい。砂金を掬うための籠網を持つ手も、川に沈めた足も、感覚が鈍って鉛のようだ。
それでも、佐一は川底の石を丁寧に掬っては、その中に求める金色がないかを確かめた。
北海道に、もう砂金は残っていないのかも知れない。佐一も何度も、見切りをつけて別の金策に走ろうと考えたか知れない。だが、その度に、川底の石の中に小さな黄金が見つかるのだ。まるで佐一をこの地にとどめるように。もしかしたらこの広い北海道のどこかには、まだ見つけられていない黄金があるかもしれない。そう思えば、川底をさらう手を止めることは出来ない。
息が白く靄になり、霧散していく。手足は凍るようだが、体を動かしているからまだ耐えられる。それでも、しばらくしたら焚き火に手を当てて暖まらなければならない。
焚き火のそばには、一人で酒をやっている男がいた。男の名は後藤という。下の名は知らない。小樽の街で右も左もわからず戸惑っていた佐一の世話を焼いてくれた男だ。たいして働きもせずに佐一の見つけた砂金の分け前を取っていく男だが、街のことをよく知っていて、砂金の両替商に顔が聞く。それに冬の山には一人で入らない方が良いと聞いた。気のいいところもあり、話し相手としては悪い相手ではない。
佐一と後藤は、取り留めのない話を続けていた。手がかじかむ。何度掬っても、籠網に乗るのは石クズばかり。寒さにガチガチと歯が鳴り、一度温まるかと佐一が振り向いた時だった。
笹藪の向こうから、チカリと光るものが見えた。
ーーー双眼鏡。
一瞬の判断ののち、佐一の行動は速かった。
「ふせろ!」
後藤を引き倒し、佐一自身も身を伏せる。先ほどまで後藤の頭があった場所を、銃弾が通って川の水面に着弾する。素早く焚火のそばの銃を拾い、身構えた。殴り倒すように伏せさせた後藤は、何が起こったかわからず喚いている。
そこに、よく通る声が響いた。
「やめておけ。そこの男は脱獄囚だ。悪人を庇って殺される義理はあるまい?」
佐一は銃の肩紐を外すことはなく、ただ手から離して両手を挙げた。
囲まれている。かなりの人数で、しかも相手は武装している。
現れた声の主の肩章には、27の文字。
ーーー第七師団。陸軍最強と謳われる、北海道の誇る北鎮部隊。
しかも、声の主人が纏うのは肋骨服……徽章と袖口の飾りから判ずるに、中尉だった。
それより何より目を引くのは、男の額に当てられた白い独特な額当てと、目の下まで広がる剥き出しの真皮。
(お偉いさんが、こんな山奥に何の用だよ……)
「貴様、どこの所属だ?」
「……第一師団であります。満期除隊致しました。」
「第一師団か。では二◯三高地辺りですれ違っていたやも知れんな。悪い事は言わん。その男から手を引け。あの地獄からせっかく生きて戻ったのだ。つまらん事で命を無駄にする事はない。」
佐一としても、行きずりで行動を共にしていた後藤を命がけで庇ってやるつもりなど毛頭ない。だが佐一が返事をするよりも早く、後藤は脱兎とばかりに逃げ出した。
「あっ、」
ぱん、と軽い音がして、後藤の頭に赤い花が咲く。咄嗟に狙撃の方向を見ると、かなり遠くから打ってきているらしい。流石は音に聞く第七師団というところか。
佐一は降伏を示して両手を挙げながら、取りなすように微笑んだ。
「こんな山奥まで脱獄囚狩りとは、お疲れ様であります。知らぬ事とはいえ、中尉殿の邪魔をして申し訳ありません。」
「いやいや、こうして捕まえられたのだから問題はないさ。北海道の治安維持も我々の大切な任務だ。……ところで、貴様はこの男から何か聞いたかね?」
「何か?いえ、これといって何も。」
「そうか。ところで、貴様の名はなんと?」
「……杉元です、中尉殿。」
「杉元?第一師団の杉元。……不死身の杉元か?戦争の英雄がこんなところで何を、」
中尉がそれを言い切るより速く、佐一は中尉の襟首を引っ掴んで引き倒した。
その背後に、小山のように大きな羆がぬぅっと現れ、恐ろしい大きさの爪が空を切る。佐一が引いていなければ、中尉殿の背中は今頃ズタズタだったはずだ。
ぱん、と軽い音がして、羆の脳天に弾が命中する。だが、羆は止まらない。佐一はほとんど無意識のうちに、銃剣を着剣した。
「打て!」
山中に、銃声が何度も響く。
羆は唸り声をあげ、それでも止まらず中尉と佐一の方へと襲いかかってきた。
佐一は中尉を川の方へと蹴り飛ばし、咄嗟に銃剣を脇にしっかりと挟み込んだ。
「俺は!不死身の!杉元だぁああ!」
どぉん、と羆が杉元の上にのしかかる。
辺りは数秒、誰も動かずにシンと静まり返った。
静寂を破ったのは、もぞもぞと羆の下から這い出てきた佐一だ。
「ふぅ……また命拾いしてしまった。おい、誰か手を貸してくれないか。重くて出られん。」
「お、おお。」
軍服の上から暖かそうな毛皮のチョッキを着ている男が、杉元に手を差し伸べる。
そこに、ぱらぱらと場違いな拍手の音が響いた。
「素晴らしい!」
音の出所は、川に突き飛ばされて水に濡れた中尉殿であった。部下が毛布を差し出すのも気に留めず、傑作の劇でも見たかのごとくに熱心に拍手を続けている。
「不死身の杉元。旅順で貴様の奮闘を見たよ。遠目だったが、鬼神の如き戦いぶりであった。今もまた、獰猛な羆に恐れる事なく立ち向かい、私の命を救ってくれた。どうか礼をさせてほしい。一緒に兵舎まで同行してくれないか。」
杉元は周囲を見回した。この中尉の部下が5人。いや、遠くで狙撃していたやつを含めて、6人。この山中で杉元が死んだからといって、探してくれる人は誰もいない。
佐一はうっそりと笑って言った。
「もちろん、喜んで。今日は羆鍋かな。久しぶりのご馳走だ、たのしみだなぁ。」
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宣言された通り、杉元は第七師団歩兵第二十七聯隊の兵舎へと連れて行かれた。先ほど手を貸してくれた男はマタギの出で谷垣というらしく、慣れた手つきで羆を解体し、他の数人と協力して兵舎へと運んだ。
杉元は、何故か中尉殿と二人きりで、鍋をつついていた。
羆がことことと煮える。鶴見中尉に差し出された酒を、杉元は両手で受けた。礼儀として、鶴見中尉にも注ぎ返す。
お猪口からちろりと舐めた酒は、澄んだ北の味がした。
よく煮込んだ羆は、思いのほか美味だった。
この中尉の前であまり飲まないようにしようと決めていたのに、つい酒を過ごしてしまったのは、そのせいかもしれない。
「それで?貴様はなぜ北海道くんだりまで来て、砂金をさらっていたのかね、杉元一等卒。」
「……戦友の、最期の頼みでして。残された女房の目の治療費を稼がないといけないんです。そうでなくとも、俺の幼馴染だ。出来ることはしてやりたい。」
「ほう。立派なことだ。お前はいい男だな、杉元佐一。」
「そんなんじゃ、ないんです。」
「それにつけても、中央のやりようは悔やまれる。戦場で大いに活躍した武功抜群のお前を、勲章も恩給もなしに放り出すとは!風の噂に、上官を半殺しにして勲章取り消しになったと聞いたが、本当かね。」
杉元は無言で顔を上げ、やや首を傾げた。
クソ上官を殴ったことは、後悔していない。あの外道はそれだけのことをした。だが、それをここで語るつもりはなかった。梅子のことだって、話すつもりはなかったのだ。中尉殿の酌が抜け目なさすぎて、つい酒を過ごしてしまった。
杉元は、眼前の男をこれっぽっちも信用していない。
この中尉殿からは、戦場の匂いがぷんぷんする。
危ない人種だ。本来ならば、関わり合いになるべきではない。
だが、次の鶴見の言葉が立ち上がろうとする杉元を押しとどめた。
「いくら必要なんだ?杉元。」
「……200円。」
「大金だな。パッと手に入るような金額ではない。私にとってもそうだ。だが、私はお前が欲しい。先程の羆との立会いもそうだがね。旅順でのお前を忘れられない。強いものは美しい。お前は美しい、杉元。」
「……俺に、何をしろと?」
鶴見は笑った。
まるで役者のように大仰な手振りで、両手を広げて、笑った。
悪魔というのがいるなら、多分こういう風に笑うのだろうと杉元は思った。
「お前を200円で買おう。私のために働け、不死身の杉元。」
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その後、雪山で出会ったアシリパに杉元は己が鶴見中尉の下で動いていることを隠さなかった。
「俺は鶴見中尉という人の下で動いている。危ない人だし、底の知れない人だ。でもアイヌの金塊の真実を知りたいなら、あいつに協力するのが近道だと思う。アシリパさんは金塊は要らないんだろう?俺は刺青を集める。アシリパさんは、知恵を貸してくれ。」
「……わかった。だが、私が協力するのは杉元だ。その鶴見という男じゃない。」
「それでいいさ。」
「よし、行こう、杉元!」
足元で、雪が軋む。
漏れ出た息が、白く靄になって天に昇っていく。
200円は、そろそろ梅ちゃんの元に届いただろうか。
親友からの最期の頼みを叶えて少し身軽になった分、杉元には首輪がつけられた。
それでも、前に進むしかない。
生き残ったものは、生き延びていくしかないのだ。
体重に沈む雪を一歩一歩踏みしめながら、佐一は雪の山を歩いていった。