「白石由竹は快よく我々に協力してくれたよ。なかなか目端の利く男だな、アレは」
鶴見中尉の独特な美声は、隣室にいてさえよく聞こえた。そのまま隣室で、何ごとか人の動く物音がする。恐らく先刻奪われた刺青人皮を杉元に見せているのだろう。白石は必死にもがいたが、縛られた上に屈強な軍人に2人がかりで床に抑えられては、さしもの脱獄王も流れようがない。ほんの少しでも気を抜いて目を離してくれたなら、脱獄王の名にかけて抜け出して見せるのだが、そこは鶴見中尉の部下であるだけあって、二人の男には隙というものがない。せめて声だけでも出せたらと思うが、口の中いっぱいに詰め込まれた布地のせいで、せいぜいふごふごという微かな音を立てるしか出来ない。
「不死身の杉元。私とともに来い。お前が忠誠を誓うなら、アシリパには手を出さないと約束しよう。お前の当初の目的であった200円も用意する。既に刺青人皮はほぼ私のもとに集まっている。白石由竹は裏切った。お前の負けだ、杉元。この刺青人皮争奪戦で、お前たち一味は驚くほど奮闘してみせた。私はそれを評価している。だがもう勝負は決しただろう。杉元佐一、私はお前が欲しい。お前は強い。強いものは美しい。私の元で、お前はもっと世の中の役に立てるはずだ」
鶴見の言葉は、どこか劇中の台詞めいて朗々と夜の闇に響いた。白石は無駄だと知りながら、また体をよじる。口の中の布が唾液を重く吸って不快だった。
杉元。杉元はなんと答えるだろう。意外に口の立つ奴だから、鶴見の味方になったふりをしてアシリパちゃんと合流するだろうか。そうなら、白石は白石でなんとか逃げ出して、二人との合流を目論むだけだ。
そこに、杉元の声が聞こえた。
「鶴見中尉、アンタは嘘をついている」
「嘘?アシリパの身の安全の保証なら……」
「アシリパさんのことじゃない。白石のことだ。白石は、裏切ってない」
「それは何を根拠に?アレは脱獄囚だぞ」
「それでも、裏切ってない。白石はここまで、俺達を裏切らなかった。約束を守ってくれた。俺が生きてるって信じてくれた。だから、今度は俺があいつを信じる番だ―――」
杉元の声が、きらきらと降ってくる。頰が熱い。白石は一瞬、その場の状況を全て忘れて杉元の声に聞き惚れた。きゅうっと心臓が幸せな痛み方をする。
―――杉元。杉元佐一。
お前、いつの間に、そんなに俺に入れ込んでたんだよ―――。
✳︎✳︎✳︎
「ノロノロすんな、シライシ!」
あれから窮地からなんとか脱した杉元と白石は、山中に逃げ込んで一夜を過ごそうとしていた。アシリパとも出来るだけ早く合流しなくてはならないが、まずは自分たちが逃げ切ることだ。一刻ほども無心で歩き続け、二人は無人の山小屋に辿り着いた。小屋と言っても、ごく簡単な掘建て小屋で、土間の上に申し訳程度に茣蓙が敷かれているだけだ。宵闇が濃くなり始めている。追っ手の気配はない。杉元はしばらく辺りを警戒していたが、ようやく納得したのか白石の隣にどっかと座り込んだ。
「煙は遠目に目立つ。火は炊けないから、今日はこれで我慢しろ」
そう言って杉元が渡してきた煎餅を、白石はありがたく食べた。代わりに飴ちゃんを一個渡す。杉元は無言で受け取って、かろりと口の中に放り込んだ。
沈黙が伸びると、小屋の外のフクロウの鳴き声や夜行性の動物の動く音がよく聞こえた。
「アシリパちゃん、大丈夫かな」
「そもそもお前がドジ踏んだんだろ、このうっかり脱糞王」
「ええ〜、ヒドーイ」
そんな風に責められても、白石はどこ吹く風だ。何しろ、先ほどの杉元の言葉がまだ腹のあたりでぽかぽかしている。こんな悪態をついても、こいつ実は俺のことを信じてるんだぜ、と白石は思わずほくそ笑んだ。
「寝るぞ、明日は沢山歩くことになる」
「うん。あー、いてて」
「……怪我してるのか?何で言わなかったんだよ。あいつらに何かされたのか」
「や、床に抑え付けられた時に打っただけだから。ただの打ち身だよ」
「見せてみろ、軟膏塗ってやる」
服をめくって腰のあたりを見せる。時間が経って青くなった打ち身に、杉元が取り出した軟膏を塗り込んでくれる。ひんやりして、杉元の手の感触が気持ちいい。杉元は真剣な顔をして、勝手にもっと服をめくって他の場所にも打ち身がないか調べている。その表情を上から見下ろしていると、杉元のまつ毛が長いのがよくわかる。すっと通った鼻筋、そこを横切る横一文字の傷痕。ほとんど無意識に手が動いて、白石は杉元の顔の傷痕を右手の親指でなぞっていた。
「……なに?」
顔を触れられても杉元は嫌がるでもなく、こてんと妙に幼い仕草で首を傾げた。
耳の中に、杉元の言葉がまだ残響している。
―――白石はここまで、俺達を裏切らなかった。約束を守ってくれた。俺のことを信じてくれた。
白石由竹の人生で、こんな風に誰かと信頼を築いたことはかつてなかった。しがらみがない自由の代わりに、寄る辺もない人生だった。その事を、哀しいとさえ思っていなかったのに。
―――だから、今度は俺があいつを信じる番だ。
心臓が、甘く揺れる。
無防備にこちらを見上げる杉元の顔を、片手で掬い上げる。抵抗もなく触れ合ってしまった唇の皮膚の柔らかさに、白石は呆然とした。
「……シライシ?」
「ス、スギモト」
互いにぽかんとした表情で見つめ合う姿は、多分はたから見たら間抜けだったろう。頰が熱くなってくる。杉元の頰も、じわじわと赤く染まってくる。そのまま固まっている白石に、杉元は頰を赤く染めたままきゅっと唇を閉じて目を瞑った。まるで接吻をねだるみたいに。
白石由竹は、呆然としながら、吸い寄せられるままに唇を寄せた。