散らずば華も手折られまいて
春インテに合わせてエア新刊~~とか言ってドヤ顔ダブルピースしたかったんですけど見事に間に合いませんでした。槍弓現パロでちょっぴりホラーなお話が書いてみたかったんですが コレ…別に怖くなくない…? あと設定盛り過ぎじゃない…?? 突っ込みどころは多々あるかと思われますがお気になさらず雰囲気で流し読んでいただければ幸いです。
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・現パロで幽霊やらなんやらが普通に存在するファンタジー(?)要素有り
・どっかで見たことある設定が混じってたらたぶんそれの影響を強く受けているせいです どうかお見逃しくだされば幸い
・ホラーを謳っておきながらまったく怖くありません ちょっときもちわるいかもです
・モブが何人か出てくるわ全員名前が無いわで非常に分かりづらいかもしれません どうしても他のFate面子を宛てがいたくなかったので強行突破しました 雰囲気でお願いします
ゆれる。ゆれる。
自分よりも遥かに背が高いところにある、きれいなきれいな山茶花が、ゆれる。
己が閉じ込められている檻の向こう側、揺れる山茶花はまるで手招きでもしているかの如く、ふらふらと宙を彷徨っている。不思議なひらめきに誘われて檻の隙間へ手を伸ばすと、幼子らしい小さなエミヤの指先を、やわらかな花弁がそっと包み込んでくれた。
いつもの夢だ。
「──────……からの、季節外れの暖かさが続きます。十一月上旬としては記録的な気温となる見込みです。気温の高い状態は週末まで続きますが、来週頭には寒さが戻る見込みで……」
点けっぱなしのままになっていたテレビから流れるお天気情報の声に、は、っと目を覚ます。大学での講義担当教授に提出するレポートを執筆中であったにも関わらず、机に突っ伏したまま不覚にも眠ってしまっていたらしい。ここのところあまり良く眠れない日が続いたものだから、そのせいだろう。枕代わりに頭の下敷きとなってくれていた右腕がびりびり痺れて、指先に触覚が戻るまでの間、ほんの少しの悶絶を経ることとなる。
うたた寝していた時に見ていたものは、この十数年間ずっと見続けてきている"いつもの夢"だった。最早、それはエミヤという男にとって、起きていてもなお内容を諳んじることができる程に慣れ親しんだ代物である。同じ夢を何度も見る、という経験そのものは大して珍しくもないのだろうが、こうまで長期間、まったく変わらない内容の薄ぼやけたものをしつこく何度も夢に見ている人間はなかなか居ないだろう。
揺れる山茶花。なぜか自分を囲い込んでいる格子檻。包まれる掌───夢の主軸を構成する要素が変化したことは、これまでただの一度もない。そして、実際にそんな体験をした記憶もない。
記憶の整理を行う際にこれまで得てきたいろんな情報が頭の中でごちゃごちゃと練り混ぜられる、それが夢を見る仕組みであると聞いたことはある。だが果たして何をどう捏ね繰り回せばそんな生成物ができあがるのか、エミヤ自身はさっぱり解らないままであった。
まぁ、世の中にはいろいろと説明のつけづらいことがあるものだ。その不条理さと理不尽さをよくよく、身に沁みて知っているエミヤは、あえてその答えを執拗に求めるような真似はしないことにしていた。夢占いの結果より、今週出された課題の是非のほうがよほど身近で深刻な問題であった。そこまで心配せねばならぬほど、自己スケジュールの管理ができていないわけでもないのだが。
何が起こるか解らない以上、課された試練は速めにこなしておくに限る。例えば明日、最寄り駅のホームから突き落とされるかもしれないし、運転手が気絶した状態でアクセル踏みっぱなしの車が全速力で突っ込んでくるかもしれない。どちらも生憎経験済みである。心構えと備えにあって憂うものはないのだ。
ああいうものは、どこにどんなものが潜んでいるかわからないから。
衛宮エミヤは、世にも奇妙な『霊感体質』の人間だ。
いやいや霊がどうのこうの言う前にその名前はどうした、とこれまで多々初対面で疑問をぶつけられてきた白髪褐色のアジア人である男は、れっきとした日本生まれ日本育ちの由緒正しき孤児である。元から親が居なかったのではなく、遠いむかし、確かまだ10才にも満たない頃、何かがきっかけとなって両親を亡くし、たまたまそこに居合わせた衛宮切嗣という男性に保護されたのだ。故に孤児"だった"、という表現のほうが正しいのだろう。
自分の過去であるというのに他人事でしかないような感覚が凄まじいのは、保護された当時より以前の記憶がまったく残っていないからだ。エミヤの思い出せる限り、記憶の一番始めには、泣きそうな顔で自分を抱きかかえる切嗣の姿しかない。
子供であったエミヤも、大人であった切嗣も、にわか雨にでも打たれたのか、ぐっちょりずぶ濡れ鼠のままで。けれどエミヤが混濁から意識を取り戻したのを察した途端、自分のほうがよほど泣きそうな顔で「もう大丈夫だよ」と言ってくれたのは、覚えている。それは、覚えている。
けれど、どうしてそうなったのか、何があったのか。それを聞くことは終ぞ叶わなかった。ジャーナリストという収入の安定しない身でありながら、男手一つで自分を育ててくれたどこまでもお人好しな男は、身体に患っていた重篤な病に打ち勝てないまま、ずいぶん早くにこの世を去っていた。
彼が完全に居なくなるより前に、たくさんの想い出と、その名字を貰うことができただけでも幸運なのだろう。亡くなってしばらくは少しだけ気配がした事もあったが、四十九日を迎えた日、秋口の終わり、季節外れの雪と共にもう二度と出会えなくなった。
その時、エミヤはたしかやっとこ中学生になろうかというぐらいの歳で、何が迎えに来たのかまではわからなかった。しかし、とうとうひとりぼっちになるその瞬間、雪に濡れる髪を切嗣ではない"誰か"にやわく撫でられたような気がしたのを考えると、むしろ、待たせてしまっていたのかもしれない。
随一の拠り所を失った哀しみと同時に、大事なひとを横取りしてしまっていたのかもしれないという罪悪感で胸がいっぱいになったエミヤがそれでも生きていけたのは、切嗣の他にも自分を気にかけてくれていた人達が居てくれたおかげだろう。生きている人間との巡り合わせは良いほうである。確実に何かは知っていたはずの切嗣が、それでも何も教えてくれなかったのは、ひとえに幼いエミヤを想ってのことだったのだろう。
それでも、あの毒々しいほど紅い山茶花を目蓋の裏で揺らすたび、エミヤは一度だけ、ほんの一度だけでいいから、かつて養父であった男の胸ぐらに縋り付きたいような気分になる。
どうして自分がこの世ならざるものに対してこんなに敏感であるのか、その理由の切れっ端ぐらいは教えてほしかった。
***
──────人間の目はおおよそ二千ルクス程の照度を直視し続けることによって失明する、とされている。
それならたぶん、あれは、真夏の海岸の一万ルクスそのものだ。あるいはよく晴れた昼間の太陽光だろうか。ともかく、まるでなんの遠慮もなく視界に割り込んできた極光の輝きに、二年間慣れ親しんだ大学構内を友人と並んで闊歩していたはずのエミヤは、思わずその場でびたりと立ち止まざるを得なかった。
エミヤの隣に居て先程まで会話を続けていた、美しい少女とも呼べる黒髪の女性が、廊下の曲がり角の直前にて唐突に動きを止めた男を訝しげに見上げる。
「アーチャー、どうしたの? 眼の前にヘビぶん投げられた猫みたいな顔して」
投げかけられた例えがあまりにも飛躍していることには目を瞑って、そう、物理的に思いっきり両目を閉じて。エミヤはなんと答えればいいのか解らず、一瞬言葉に詰まった。
なにか、とんでもなく眩しいのが居る。
無駄に視力の高い淡灰色の虹彩を思いっきりバチバチと焼いてくれやがった発光物は、未だ曲がり角の向こう側に鎮座しておられた。漏れ聞こえてくる話し声から察するに、同じ大学の男性生徒なのだろう。耳を擽る声音の明るさからすると、親しい友人かだれかと楽しく歓談中であるようだった。恐らく、あちらからはなかなか退いてくれそうにない。
そもそも相手側に退いてもらおうとすることもできないのだから、エミヤはただ苦く笑って、傍らに待つ女性へひっそり弁明するより他無かった。
「……いや、なに。少し相性の悪そうなのが居る気がしてね。君さえ良ければ、別ルートを案内させていただきたいのだが」
「相性、ねぇ。……あー、まぁ確かに合わなさそう……じゃなくて。構わないわ、ちょうど私も寄り道したいところがあったの」
「すまない、凛」
「あんたが謝ることじゃないでしょ。しっかし大変ね、あんたの"霊感体質"も」
だいぶ言葉をぼやかしたものの、それでもエミヤが言わんとしている事の本質を読み取ったのか、聡明かつ優雅な友人は溜息混じりに学友の特殊な身の上を慮ってくれる。
するりと軽く身を翻した女性、凛の長く美しい後ろ髪を追いかけながら、エミヤはたいそう気疲れした風に緩く首を振った。
彼女はあの曲がり角の先に”悪いなにかがある”のだと思ってこちらを気遣ってくれたのだろうが、あの光輝くものの正体は、おそらくその反対だ。実際、直接ではなく廊下の角越しにであるとはいえ、今朝から数えてかれこれ数時間ほどはエミヤの左肩に覆いかぶさっていた怨念の残り滓は、たった少しの光を浴びただけで跡形もなく消滅していた。結構な距離が離れていたにも関わらず、おかげで肩が軽いのなんの。もう自分の左側へ人を寄せ付けないよう執拗に注意し続ける必要もない。
時たま、ああいう人間を見かけることがある。祓いの力が異様に強い、陽の側に寄った魂を持つ者。彼らのだいたいは、自分の力が強すぎるあまり、霊障や霊害のほとんどを気付く前に跳ね返し、何にも気付かぬまま日々を過ごしてゆく。
それが、どれだけ幸運で幸福であることなのかも知らずに。
エミヤのように、毎分毎秒この世のものではない何かを感知せざるを得ない者の感覚など、幸せな彼らには到底理解できないだろうし、その殆どは理解しようともしてくれないだろう。
別に、それはそれで構わない。むしろ全人類がそうであれば誰も何も困らずに済むのに、とさえエミヤは考えている。それはそれで逆に魂の殆どが陽の側に寄りすぎて良くないことが起こるのかもしれなかったが、少なくとも陰に依る者、例えば怨霊だとか悪霊だとかに悩まされ続けるよりはマシ、なのかもしれない。
生憎、エミヤには視えも聴こえも臭いも感じもしない状態など生まれてこの方想像し得たことさえ有りはしないのだ。全ては願望と理想の混ざりものに過ぎなかった。
まぁ、凛の言う通り、少なくとも気が合わない事だけは確かだろう。先程軽くなったはずの肩に、また別の冷たい気配が忍び寄るのを感じる。凝りを解すように見せかけながら左腕をぶんぶん振り回して抵抗するエミヤは、自分より幾分も小さな凛の可憐な歩幅に合わせながらも、出来うる限り急いでその場を後にした。
が、よくよく考えてみなくとも、同じ大学の中に居て、同じような通り道の最中に居る人間を、しかも自ら激しく発光している(ように見える)ものを二度と見かけないことなど不可能に近い。
講義室に忘れ物をした。よりにもよって、いつかの誕生日に凛からもらったプレゼントを。全感覚のうちでも特に眼が良すぎるらしいエミヤのために、と、古馴染みの知り合いから譲ってもらってきたのだという、不思議な眼鏡。サンプル品と同じくただの薄いプラスチックを嵌め込んであるようにしか見えないそれは、エミヤが掛けると眼を"悪く"してくれる。
通常、あちら側とこちら側にはなかなかの隔たりがあって、こちら側からあちら側を認識するのは難しく、故意に認識したとして、あちら側は"視られている"ことを知らなかったりする。しかし一部の力あるものは、こちら側が"視た"事を悟って行動を仕掛けてきたりもする。
それが、今も昔もさんざっぱらあちこちで撒き散らされる用語で言うところの『守護霊』だとか『先祖霊』だとか、比較的良いものであるとされている存在であればまだいい。しかし大抵、エミヤの体感で言うとだいたい七割五分はその真逆だ。
視た。聴いた。認識した。そう悟った瞬間、こちら側に干渉しようとしてくる連中のほとんどは、所謂『悪霊』の類だ。死者と生者の垣根を越えてまで己が意思を持ち出そうとするような存在がロクな代物であるはずもない。
エミヤは、それを生業とする人々のように自分の感覚を制御することはできなかった。しない、のではない。できないのだ。どう頑張っても。機械修理と分解が趣味の料理好きな男であっても、生身の手先がいくら器用でも、中身までそうであるとは限らない、ということだ。
そんなエミヤが余計なものに巻き込まれないよう、余計なものを視て心を擦り減らさぬよう。エミヤの事情を知って尚それを笑わず信じてくれた貴重な友人が、わざわざ伝手を使って探してくれた大切な骨董品。
凛とは高校時代からの付き合いになるが、普段遣いするにはもったいなくて、エミヤはいつもそれを簡素だが瀟洒な専用のケースに仕舞って持ち歩いていた。嫌な予感がしたら身につける、という使い方をするために、常に持ち歩き、しかし肌身からは離して持っていたのが全て裏目に出たのだろう。せめて盗まれていなければいいのだが、とたいそう気を揉みつつ、昼休み前に入った講義室まで向かってみれば、もう扉の隙間からあの超絶キラキラオーラ(物理)がはみ出していた。
うわ、近寄らんとこ。……と、いつもなら踵を返しているところだが、今に限ってはそんなわけにもいかない。明らかにどう考えても扉の向こうにあの光の塊のような男が居るのは間違いなかろうが、凛がくれたあの眼鏡は、エミヤにとってまさしく生命線であると言っても過言ではないものだ。デッドオア目潰し。どちらを選ぶか考える余地もなく、エミヤは出来うる限り目蓋を落として目を細めながら、講義室への扉を開いた。
はたして、やっぱり男はそこに居た。九割薄目で足元だけを見ているエミヤの限られた視界では男の全容を窺い知ることはできなかったが、これだけ眩しい光を放つ魂になど今まで出逢ったことはない。というかこれまでどの講義であってもこの光の御子(仮称)と出くわしたことは無かったはずなのだが。どうしてエミヤが履修している科目の講義室に居るのだろうか。友人か誰かがここに居て、食堂やテラスではなく、講義室で食事を摂るためにやってきた、とか?話声が聞こえないことから、今はその友人がまだ到着していなくて…………
エミヤの淡い期待は、一歩足を進めるほどに裏切られていく。どうもあの光の御子、よりにもよってエミヤの座っていた席の近くにいる。というか下手をするとそこに座っているんじゃなかろうか。
確かに、大学の講義室においては、高校の時のように『誰々の席』というものが個別に用意されているわけではない。よく座る場所、というものは存在しているだろうが、別に誰がどこに座ろうと、真面目に講義を受けるのであれば特に何の問題もありはしないだろう。例えその直前に誰かが使った痕跡が残っていたとして、特に頓着しないのであれば"誰も座っていなかった"のと同じだ。
一向に退く気配の無い直視日光の塊から少し離れた場所で、すぅ、と自分を落ち着かせるための深呼吸をひとつ吸って吐き出したエミヤは、そちらに向かって進軍を始める。
「あの、すみません」
「んぁ?」
何気ない素振りを装って話しかけたエミヤに、男は不意を突かれたように間抜けな声を上げた。残念ながらやはり顔は見えない。見ることのできないよう、精一杯目を細めているからだ。そんな傍からしてみれば完全に相手を睨みつけているようにしか見えないエミヤは、自分の印象については特に頓着せず、淡々と口を開いた。
「その席の近くに、赤い眼鏡ケースがあると思うんですが。ありますか?」
「あ。コレ、もしかしてお前のか?」
「ええ、そうです。良ければ手元に戻させていただいても?」
「ああ、オレも今からこいつの持ち主を探してやろうと思ってたとこなんだ。その様子だと全然見えてないんだろ? ほれ、手ぇ出せ」
言われるがままに右手の掌を上にして差し出せば、そこに慣れ親しんだ重さのケースが手渡されたのがわかった。中身もきちんと入ったままでいるらしい。まぁ、あれだけ清廉かつ見事な光を放つ魂の持ち主であるのだから悪い人間ではなかろうとは思っていたが。わざわざこの広い大学構内を忘れ物の持ち主探しに奔走するつもりでいたなどと、どことなく親近感を覚えてしまう。きっと逆の立場であったとしたら、エミヤも彼と同じ行動を取っただろうから。
「……私が取りに来るのを待っていてくれたんですか」
「なんだ、見た目通り察しがいいな。こいつァ結構な上等品だろう、置いといたら何処かの誰かさんが持って行っちまうかもわからん」
「すみません、お手数をお掛けしました」
「気にすんなよ。そうまで大したことはしてねぇ」
深々と恐縮するエミヤに、いかにも気の良さげで快活な声音の男はけらりと笑ってみせる。
見た目(というか中身)からして絶対に相容れないものだと考えていたが、なかなかどうして話の解る男だ。エミヤが目を細めている理由も、眼鏡ケースを探していた、というところから察してくれたのだろう。生憎本当に目が悪いわけではないので、少しばかり騙すような形になってしまって申し訳ない気持ちもあったが、今はとにかく、せっかくの宝物を失わずに済んだことがただひたすら嬉しかった。
慣れた手付きでケースを開き、中にある眼鏡を取り出す。見た目はなんの変哲もないただの黒縁眼鏡であったが、ツルのところに剣を象る細やかな装飾が施されているそれは、確かレンズの特殊さに合わせてオーダーメイド式の工夫が成されているのだという。具体的に言うと護りの加護、触れずの加護、視られずのお守り……これ一つで幾つかの霊障を同時に防ぐことができるという優れものである。さり気ない瀟洒さはエミヤの野暮ったい格好を悪目立ちさせる事無く、しかし気風あるように仕立て上げてくれていた。
少しの間とはいえ手放してしまっていた大切なもの。硬い縁を慈しむようにそっと撫でてから、良すぎる視力を補うため、かちゃり、と眼鏡を身に着けた。
──────やっっっっっぱり、眩しい。
いや。いやいやいやいや。この眩しさは何も、先程まで視えていたあのとんでもない光によって齎されているものではない。エミヤの眼の前に座ってこちらを見上げてくる男の容姿が、あまりにも美麗であったからだ。
一般女性の努力を嘲笑うかの如くさらりと艷やかに流れる、確実にどう考えても地毛であろうスカイブルーの髪。けぶる睫毛の長さ。よく磨き抜かれた紅玉の嵌め込まれたような、鋭くも甘やかな瞳。シャープな顎のラインは思わず指でなぞりたくなるほど整っており、それでいて男性特有のワイルドな魅力は損なわれていない。大自然の手によって長年慈しみ育まれ完成した世に二つと無い貴重で希少な天然石のオブジェ。
そんな代物が、エミヤの真ん前でにかりと笑っていた。
(なんだ……なんだこいつは……?? こんな人間どう考えても見たことがないぞ!)
対峙する男のあまりの顔の良さに困惑するエミヤは、眼鏡を掛けてまともに正面から向き合え得るようになってもなお、恩人の正体が解らなかった。いくらこの大学構内の敷地がだだっ広いからとって、こんなにも目立つ男を二年も見逃し続けることができるわけがない。
考えずとも思いついたのは、短期留学生の可能性だ。
そういえば、エミヤの通う大学は外国との異文化交流学習を推し進めるために、日本以外の国、主にイギリスやアメリカなどからやってくる外国留学生を積極的に受け入れている。こちらから海の向こう側へ留学しに行く者も少なくはない。大学に入ってから二年、真面目に通い続けているエミヤが今の今まで彼を見たことが無かったのは、つい最近こちらにやってきたばかりの留学生であるから、ではなかろうか。
「あ。わりぃ、自己紹介が遅れちまった。オレはクー・フーリン・ランス・アルスター。クッソ長ぇから『ランサー』でいいぜ。あと二年こっちで勉強させてもらうことになってる。お前はどこの国のやつだ? オレはアイルランドの……アレッ、もしかして先輩?」
「い、いや……よく誤解されますが、私はれっきとした日本人です。あと二年、というのであれば私と同期ですので、先輩でも後輩でもありませんよ」
「ああ、そりゃ良かっ…………ニホンジン!? そのナリで!?? いや確かに顔立ちはアジアンだけど絶対オレより年下だと思っ……」
そこまで口走って流石にまずい、と気付いたのか、『ランサー』はパッと自分の口を塞ぐ。仮にも初対面の人間相手にいろいろと無礼であったと思っているのだろう。確かに、先程までのランサーは完全にエミヤのことを自分と同じ留学生の後輩である、と思い込んでいるようであった。気さくなフランクさも、堂々とした態度も、エミヤが自分より年下の男であると考えていたからだ。
けれど、エミヤからしてみれば、そんなものいつものこと過ぎて特に気にもならなかった。白髪灰眼、褐色の肌にがっちり威圧感のある大きな体躯と、自分の容姿がどこからどう見ても日本人のそれでないことは重々承知している。更に、エミヤは今現在、本来であれば常にきっちりと撫で付け上げている前髪をたらりと垂らしたままでいた。眼鏡が手元に無い間、ほんの少しの抵抗に過ぎなかったが、そんな時の己がどういった評価を成されるのか、友人たる凛以外からもさんざっぱら指摘されてきているおかげでよくよく解っている。
エミヤは童顔なのだ。どうしようもなく。体躯の大きさからなんとか男性としての矜持は守れているようだが、下手をするとちょっとばかし発育のいい未成年として見られることも少なくはなかった。友人の頼みで煙草を買いに行った時、年齢認証確認ボタンを押してなお免許証を提示するはめになった想い出は今も苦々しく残っている。まして、エミヤは敬語を使っていたのだ。初対面のランサーが勘違いしてしまうのも無理はない話であると言えた。
やっちまった、という顔をありありと表に出しているランサーに、エミヤは不器用ながらも小さく笑いかけた。ランサーはエミヤの失くしモノを守っていてくれた恩人なのだ。そんな彼を不必要に後悔させ続けるのは趣味でない。
「よく言われる事だ、気にしないでくれたまえ。それより、昼食を摂らなくてもいいのかね? 今頃なら食堂のほうも少しは空いてきているだろうさ」
「……ん。そうだな、もう行くわ。なぁ、おすすめのメニューとかあるか?」
「ふむ。野菜と肉、どちらが好みだ」
「肉!」
「素直でよろしい。ならば……」
それまで畏まっていたはずのエミヤが突然敬語を取り払った理由を違いなく察したのだろう、ランサーは少しだけ目を瞠ると、人懐っこい笑顔を浮かべてそのまま何事も無かったかのように流してくれた。顔だけでなく勘もいいとは。魂が綺麗だと姿もつられて綺麗になるのだろうか、なんて詮無き事を考えながらしばらくなんでもない会話が続く。そのうち、ぎゅるるるる、と盛大な腹の虫の鳴き声が聞こえてきたのを皮切りにして、エミヤはランサーと別れることとなった。
エミヤはエミヤで手料理を作ってきている。それを待ち遠しく思ってくれている友人も居る。眼鏡を探しに行く前、すでにそれらは手渡してあったが、義理堅い彼女らのことだ。きっとエミヤの食べる分まで残してしまっているだろう。昼食を共にする二人の友人のうち、理性と本能の葛藤に悩まされているであろう金髪碧眼の留学生のことを思えば、なるべく早く戻ってやらねばなるまい。例えもう食い尽くされていたとして、きちんと平らげてもらえたならば、作られた品々もきっと幸せだろうと思うのだけども。
それからなにか、それこそ妙な縁でも繋がってしまったのかもしれない。
あの邂逅をきっかけにして、エミヤはそれからちょくちょくランサーから話しかけられることが増えた。ランサーもランサーで相当に目立つ男であるが、それを言えばエミヤとてそう変わらない目立ち方をしている。できるだけ面倒事に巻き込まれないよう大人しくしていても、学内一の秀才とまで称される遠坂凛、イギリスからの留学生にして剣道の達人セイバーと行動を共にしている時点で、実のところそこまで隠れきれていないことは解っていた。だが今はそこに加えて、アイルランドからの流星、みんなの兄貴ことランサーからも何かしらとちょっかいを掛けられている。
ランサーは聡い男だ。エミヤが普段は前髪を下ろしておらず、ああしてわざわざ探しに来た眼鏡すらあまり身に着けていない事への違和感に、いち早く気付いてみせた。そんな風に人の機微を細かく見て気遣うことができるからこその『兄貴』なのだろう。確かに、その背中には思わず寄りかかってしまいたくなるような、確固たる芯を軸とした程よい安心感があった。
だが、そう。陰に依らねば生きていけぬ者は、所詮、陽の許で生きることを許された者と相容れることはない。
凛は、エミヤほどではないにせよ同じく霊媒体質だ。セイバーはあちらでいうところの魔術師───たぶん、こちらで言う霊能者───と繋がりがあるようで、エミヤや凛がどういう者であるのかも、一目確認しただけで理解してくれた。では、ランサーはどうだろうか?
何か重たい抱えものがあるだろう。吐き出してみれば少しは楽になるのではないか。
そんな言葉を投げかけられたエミヤは、間違いなくここが分岐点になるのだと確信した。いくらでも誤魔化すことはできる。適当な理由を並べ立てれば、納得こそしてはくれないだろうけども、『それでも話したくない事情があるのだ』とそれ以上は触らず放っておいてくれるだろう。そういう適度な気遣いができる男だ、ということぐらいは、ほんの短い接触期間の間であっても見受けることができた。
だが、真実を話してみればどうなるか。
エミヤは、一つの賭けに出てみようとしていた。賭け、といっても、どちらに転ぼうが損はしないノーリスク・ハイリターンのものだ。嘘を吐いて貴重な友人、うすっぺらい偽りの上に築かれる友情を得るか。本当のことを話して、遠ざけさせ、これ以上目立たないようより孤独に近づくか。そうだな。賭けというより選択肢と称するほうが近かったのだろう。
とりあえずエミヤは、この天に祝福されて生まれてきたような光と光と光で構成された眩しき生命体が、それと真逆の存在を知った時、どんな反応をするのか確かめてみたかったのだ。
「霊媒体質?」
「ああ、そうだ。霊魂、怨霊、そういったこの世ならざる者を、私は視て、聴いて、感じることができる。今もそうだ。この眼鏡は少しばかり特殊な仕掛けがしてあってね。私の"そういうもの"を視る目をわざと悪くしてくれる。そしてこれが無ければ、私は君を直視できない」
「……そりゃどういう意味だ?」
「気分を害してしまったのなら申し訳ないが、君はあまりに眩しすぎるんだ。祓いの力が強すぎる、と言えば解りやすいかね? 恒星を丸ごと一つひとの身体に仕立て上げたようなものに見える。だから、私は君に会う時、必ずこの眼鏡を付ける必要が出てくるわけだ。誰だって失明はしたくないだろう」
「お前が最初、やたらめったら目が悪そうにしてたのもそのせいか? オレがあんまりにも眩しすぎたから、って?」
「そういうことになる。理解が早くて助かるよ」
エミヤが言葉を連ねるほどに、ランサーは怪訝そうな顔つきを深めていく。
ああ、やっぱり。理解し得ないし、理解され得ないのだ。自分達のような者達は。
今は、ランサーが側に居るおかげで、エミヤの周りには何も近付けない。近付こうとした物体は即座に滅殺され、じゅわりと輪郭を失くしていく。重かった肩も動かしづらかった足も、割れるように痛かった頭も、全てが浄化され、とても心地良い。この都合のいいヒールポイントを失うのは勿体無かったが、エミヤが彼と関わり続けることによって、何らかの不都合が出ないとも限らない。
エミヤの側に居る者達は、皆、自己防衛手段をきちんと知っていて、身に付けている。けれどランサーはきっとそうでない。霊媒体質のことについて知らなかったというのなら、たぶん、こういった世界のことなど"御伽噺"だとでも思っていただろう。そんな人間が、いくら強い陽の力を持っているとしたって、陰の力の塊のような物体であるエミヤによって齎されるであろう、いくつもの問題に対処しきれるとは到底思えない。
だから、ここが諦め時なのだ。そうしてエミヤは、決定的な言葉を聞くべきか、それとも聞かずにもう去ってしまうべきか、少しばかり迷ってしまった。
そんな見え見えの隙を与えたのが、たぶん、いけなかったんだろう。
「んんんーー……こうか? いや、こんな感じの……こう、もっと、ギュオッと、あー……」
「…ッ待て、待て!! 何をしている!?」
「あ? いや、眩しくて困るってんなら眩しくなくなりゃあいいんじゃねぇかと、こう」
エミヤは、ランサーの行動力と決断力について、少しばかりナメていた節がある。まさか、まさか、ランサーがエミヤの言を否定も拒絶もしないどころか、自分の放つ光を抑えようと身を捩りだすだなんて考えてもいなかったのだ。
そして本当に少しずつ魂から放たれる光の奔流が収まりつつあるのを視て、エミヤはさぁっとこれまでに無いほど勢いよく顔を青褪めさせた。魂の光とは即ち、その個体の生命力の顕れでもある。それを自ら収縮させようとするなど、ほとんど自殺行為に近い代物だった。というかどうしてそんな真似ができるのか。そんな真似をしようだなんて発想に至るのか。
「そういう問題ではないしこれは私ではなく君の未来に関わる話で、あああああやめろやめろとりあえず一旦やめろ! どうやっているんだいったい!!」
「勘」
「勘……」
「こんな? こう? お、来たんじゃねぇかコレ。どうだよ、眼鏡外せるか?」
「…………」
腰を捻り、腕を回し、身体をぐねぐねとストレッチさせる要領で自分の魂に干渉するという次元離れな技をやり遂げてしまったらしい男は、ちょっとした達成感に満ち溢れた表情でエミヤのほうを見上げてきた。いや、勘でどうにかできる問題なのだろうか。そんな問題だったのだろうか。
だが、確実に、どう視ても、ランサーが不器用に踊りだす前に比べてその輝度は明らかに落ちている。ランサーはこれっぽっちも堪えていない様子で、何なら健康的度合いで行けば十人が十人『元気だ』と言い表す程度にはぴょんこぴょんことはしゃいでいた。自分の中に眠っていた新たな力を引き出す事に成功した時、人はどうしても喜びの感情を覚えてしまうが、どちらかといえば今、ランサーは自分の力を封印したのではなかろうか?
少なくとも、エミヤはランサーの努力に報いる必要がある。ともすればやはり眼が潰れてしまうかもしれない恐怖より、ランサーの光を弱めてしまう原因になってしまったことのほうがよっぽど恐ろしい。
息のし辛い喉をなんとか緩めて、エミヤはがたがたと震える手で眼鏡を外した。顔から血の気が引いていく音なんて何度も聞いてきたはずなのに、この時ばかりは頭から爪先まで全身の血液が抜かれてしまった時のような悪感がする。
レンズ越しでない有りの侭の灰眼が、ランサーの紅い双眸と視線を交わらせた。
「おお。大丈夫か?」
「…………頭が痛い」
「そりゃあどっちの話だ」
「精神的なものの方だ」
「じゃあいいか」
「良くない…………」
こめかみを抑えてずるずるとその場に座り込んだエミヤの気持ちをどうか汲んでみて欲しい。もし、万が一、奇跡的にランサーがエミヤを拒絶しなかったとしても、せいぜいが『お前、そんなこと信じてんのか』といったものから『オレにはわからん世界だけど、そういうのもあるんだな』といったセリフと共に腫れ物扱いされるようになるだけだ、としか考えていなかったのだ。
こんなのは予想していない。予想できたはずがない。これまでエミヤが、どれだけ信じて、どれだけ裏切られてきたのか。積み重なった諦観は今、見事に打ち崩されて、蹲るエミヤの足元を無遠慮にぐらぐら揺らした。
「なぁ、エミヤ」
エミヤの"信じて"きた世界の常識をいとも容易く破り捨てた男が、今度はエミヤを見下ろす形で声を掛けてくる。エミヤがランサーと関わった時間はまだまだ短い。それでもなんとなく、ランサーがいつもの快活な笑みとは少し違う表情を浮かべているのだろう、ということを声音の柔らかさで悟ってしまった。
「飯、食いに行こうぜ」
「……要らん。私は……自分で作ってきている、から」
「は!? ンだそれ初耳だぞ! オレにも食わせろよ!!」
「生憎、君の分は初めから作ってきていない。大人しく食堂に行け、君の好きなBランチセットが待っているぞ」
「いーーやーーだーーー」
「駄々を捏ねるな、可愛くないぞ」
いつの間にか先程までの空気はどこかに消え去ってしまって、エミヤはもう、それ以上なにを突き詰めることもできない。蹲るエミヤの背中に脱力した猫さんよろしく伸し掛かってきたランサーが思いのほか重量があるので、立ち上がることすらままならないのだ。横を通り掛かる別の学生達がぎょっとした顔でこちらを二度見していく。ええい、と振り払う頃にはもう、エミヤのしっかりと整えられていたはずの髪の毛はランサーの手でぐちゃぐちゃに掻き乱されてしまっていて、御守代わりの大切な眼鏡は胸元にしまってあるケースの中に収まっていた。
それが、ランサーとの『本当の出逢い』たる想い出だ。
***
人生何があるかわからないもので、エミヤは今や昼食を共にする程度にはランサーとの親交を深めている。というより、エミヤが独りで食事を摂っていると、何処からともなく現れては「一緒に食おうぜ」だなんだと隣に居座ろうとしてくるのだ。エミヤが大学の食堂を利用しないのは単純に己の趣味が料理作りで、手先のストレッチとストレス発散を兼ねて弁当を持参しているためだ。しかしランサーのほうは、エミヤの秘密を知るまでは確かに食堂利用者のうちの一人であったはずである。それなのにどうして菓子パン一つだけ持って追いかけてくるのか。
聞けば、ランサーは留学生限定の援助金制度を利用しつつも、夜な夜なアルバイトに明け暮れている勤労学生なのだという。このいかにも何でもさらりと熟す要領の良い男であっても、いや、だからこそだろうか。実家からの仕送りは皆無であるらしい。ランサーが日本留学をたびたび『修行』だと言い表していたのはそのせいか。
朝昼は大学での勉強、夜はアルバイト、そんな生活を強いられているのなら休みの日だってろくにありはしないだろう。食費だって馬鹿にならない。思えば、ランサーが好んで食べている(と思っていた)大学食堂のBランチセットは、あそこのメニューのなかで一番安いものではなかったか?
一度思い至ってしまえばもう、エミヤはランサーが自分の元に駆け寄ってくるのを止められなくなってしまった。それどころかそのうちランサーの分の弁当まで作って持ってくる始末である。大層、本当に、若干涙目になられたぐらいには喜ばれたので結果オーライなのかもしれなかったが、なんとなく、偶然にしたって距離の縮まり方が早すぎる気がした。
陰陽は一対で一つの存在であるとも言える。陰に振り切った己と陽に振り切った彼が近付けば、こうなるのも必然であった、のか。最初のほうはともかく、近頃など凛もセイバーもそれぞれの諸事情によりこの国を離れてしまっているので、エミヤが交流する相手なぞ必然的にランサーぐらいしか残っていない。
だからまぁ、仕方ないのだ。自分を納得させるための言葉が案外あっさり出てきてしまうあたり、毒されているな、と感じてしまう。
大学構内、一階ロビーから程近いフリースペースにて。十一月も中旬を迎える頃となったいつも通りの昼下がり、ランサーが口にした話題のひとつが、不穏な気配を呼び込んだ。
「音信不通?」
「そ。何かと出掛けちゃあ写真撮って送ってくるアクティブな奴ではあったんだがな、最近はもっぱら音沙汰無し。家にも居ないし、授業どころか大学にも来ちゃいねぇ。このままじゃ単位落とすぞって電話しようとしたんだが、それも繋がらなかった。電源が入ってなかっただけらしいが」
これ、アイツから送られてきたヤツな。といって見せられたのは、どこかの背景を無造作に切り取った質素な写真の数々だ。若者達の間で流行しているメッセージアプリのトークルームにて送りつけられているそれは、人に見せるため、というよりも自分がどこに行ったのかを示す意味合いで撮られた、記念写真的な意味合いのほうが強いように見える。
「その友人のご家族の連絡先は?」
「いんや。アイツ、一人暮らしだったしな。こっちからはなーんも手の届かせようが無いんで、ちっとばかし心配なんだわ」
「なるほど。何か良からぬことに巻き込まれたのではないか、と。それは心配だな」
「心配してるのもあるし、お前がもし同じような事になっちまったらマジでどうしようもねぇじゃねーか、ってふと思い出してな。ほれ、スマホ出せスマホ」
だし巻き卵を頬張りながら、す、と掌を差し出される。いつかとは真逆の光景だ。確かにエミヤは、自分に何が起こるか、それがどんな規模であるのか、予想もつかない。誰もエミヤへ連絡する術を持たなければ、そのうちあっさり孤独死したりしていないとも限らないだろう。
だが、もしもエミヤが己に降りかかる災いに対処しきれなかった時、"それ"をランサーが知ってしまえば。きっとこの男は駆けつけようとしてしまう。エミヤの連絡先を知っているのは今の所、かかりつけの病院や贔屓にしている本屋など、個人の話で言うなら凛ただ一人だけだ。凛は聡明で賢く、己が領分と損得の計算がきちんとできる強かな女性だ。だから教えた。もしエミヤが何かしらのトラブルに見舞われた際、"相応しい"対応のできるひとだと信じているから。
エミヤがランサーのように多くの友人を作らないようにしているのだって、その人達を万が一にでも巻き込んでしまわないようにするためだ。触らぬ厄災に祟り無し。もしかすればエミヤと同じか、あるいはそれより酷い性質に悩まされている人間だって居るかもしれないのだ。そんな人々にまで要らぬ迷惑を掛けるぐらいなら、独りで居たほうがよっぽどマシであった。
そんなエミヤの逡巡を、ランサーは意にも介さずエミヤの懐へ手を突っ込んでくる。やめろ、と抵抗してはみたものの、この男、エミヤよりは痩躯であるくせして殊のほか力が強い。するりと抜き取られた無骨なデザインのシンプルなスマートフォンは、大学からの緊急連絡通知を受け取るために買ったものだ。
「えー、とりあえずオレの番号は…………なんだったか」
「勝手に人の端末を弄って勝手に他人の連絡先を登録するのがアイルランド風のやり方なのかね?」
「だってこうでもしなきゃお前、絶対教えてくれないだろ。オレのほうにも登録しといたから、後でメッセ送るわ。どうせロクなアプリ入れてねぇだろうし」
「……一応はホーム画面も写真欄も好き勝手にできる状態で、本当にただ連絡先を交換するためだけに使って、素直に返してくれる。その潔さは君が多くの人に好かれる要因の一つであるとは思うがね」
「お、どうした。今日はやけに素直だな」
「はは。君はまだ日本語の読み取り力がいまいち足りていないらしいな」
冷笑と共に放った皮肉はミートボールと一緒にランサーの口の中へ吸い込まれていった。
しかし、頻繁に旅行ができるということはそれなりの資金を持ち合わせている人間であるはずだし、先々で思い出を切り取っては友人に送りつけるような人物が、音信不通。あまり明るい話題ではないため昼飯時にあれやこれやと掘り返すのも気が引けるが、どうにも気になってしまう。旅行先で何かあったのか、それともただ単に連絡手段を一時的に失ってしまっているだけか。
ランサーの交友関係は広い。どこの誰がそんな不穏な事態に陥っているのかなんてさっぱり解らないし、そもそもエミヤにはまったく関係の無い話だ。それでもどこか引っかかる。
なんなのだろう、と山菜の炊き込みご飯を口にしようとしたその時、二人の座る席のすぐ近くを美しい黒髪の女性が通り掛かる。
そうして二人の後ろを通り過ぎていった女性の身から、腐り落ちた果実の甘やかさにもにた『臭い』がふわりと香った。
ひゅっ、と撓った喉が空笛を吹く。臭気とも瘴気とも取れないそれは女性が去っていくのと同時に消え去っていったが、一度感じてしまった悍ましい感覚はしばらくエミヤの嗅覚を苛むだろう。アレは、エミヤにとっては慣れ親しんだとも言えるものであったし、もう二度と嗅ぎたくなかったものだ。
───────死臭。
それも彼女自身が発していたわけではない。彼女に纏わりつく『なにか』が、腐り、蔓延り、絡みつきながら、酷い臭いを発していたのだ。そういった臭いを放つものにはいくつか心当たりがある。この世に未練を残す地縛霊、神格を失った禍津神の成れの果て。あるいは常世の屑端が凝り固まって漏れ出したもの。どれも出来うることなら関わりたくない代物である。
「……エミヤ?」
「っ、あ、あぁ、なんだ」
「何だも何も、お前、今めちゃくちゃ顔色悪いぞ。……まさか、あの女か?」
自分達の後ろを通り過ぎていった黒髪の女性の存在については、ランサーも認識していたらしい。あの女性が通りがかってからエミヤの様子がおかしくなったのだから、彼女が何かしら不味いものを抱えているのだとアタリを付けたのだろう。それは決して間違いではなかったが、正しくもなかった。問題なのは彼女そのものではない。彼女に纏わりついている『なにか』のほうだ。
そこで、エミヤはランサーの魂の輝きを想う。どうにかした、という一言だけで済んでしまったものの、今のランサーはエミヤのために自らの祓いの力を抑え込んでいる状態だ。でなければそもそもエミヤはここに居ない。だから、それならば、きっと。ランサーなら、アレをどうにかできるかもしれないから。
迷って、躊躇って、結局エミヤはかさつく唇を震えながら開いてみせた。
「におい、が……」
「におい?」
「死んでいるものの臭いがしたんだ、彼女から。アレは……彼女に強く執着したまま死んだ人間のもの、だと、…………」
自分の事情を話したことはある。誰かの事情を聞いたことはある。けれど、今まさに起きた事象について誰かに説明するのは、これが初めてだ。長年培われてきた疑念が再び喉を詰まらせて、ぎゅうぎゅうと締め付けてくる。本当に話してしまっていいのか。何もなかったことにしておくべきではないのか。笑いもしないだろう、信じてはくれるだろう、だが、それが全て自分の勘違いであったなら───
途端、視界が急転し、鼻先がなにか暖かいものにぶつかる。何が起きたのか把握するのは簡単だった。ランサーがエミヤの頭を自分の首元へ抱き寄せるようにしてかかえ込んだのだ。
「な、っにを」
「後ろ通ってったから視ちゃいないとはいえ、嗅いじまったんだろ。オレぁ、確かとんでもなく"眩しい"んだったよな? どうだ、ちょっとは楽になるか」
「は……」
反射的に息を吸い込めば、外国人らしく少し濃い目な獣じみた体臭と、薄く付けられているフレグランスが混じった『ランサーの匂い』が、肺の内側をじわりと満たす。お互い体勢がとんでもなくこっ恥ずかしいことになっていることにこの男は気付いているのだろうか、それとも解っていて頓着していないだけか。
普段の己なら鳩尾をぶん殴ってでも逃げ出しているところだが、思いがけない場所で感じた死臭に些か正気を乱されていたエミヤは、すり寄るような真似こそしないものの、すん、とランサーの首元でしばらく大人しくしていた。ランサーの広く肉付きの薄い掌が、エミヤのうなじを労るように擦る。その手付きは子供をあやす時のそれと似通っていたが、喉元に支えていた重石は優しい掌の熱に砕かれて消えていった。
息がしやすい、だなんて感じられたのは何時ぶりのことだろう。ああいうものに遭遇すると、毎回と言っていいほどに首を縄かなにかでぎゅうぎゅうと締め付けられるような感覚に陥る。呼吸器官系には特に異常無しと診断されている以上、単なる錯覚であることに間違いはなかったのだが、こうして思いっきり息を吸い込むことができたのは、思えば、初めてのことではなかろうか。
一時、いやしばらくはそうしていただろうか。ランサーの尽力によって無事心の平穏を取り戻したエミヤは、ようやっとここが大学構内の、しかもいつ誰が来るかも解らないフリースペースであったことを思い出し、自分の頭をべりりとランサーの首元から引き剥がした。幸い、ここは比較的人の来ない隠れ家的スポットであったのが幸いしてか、周りに他の人の気配は感じなかったが、一応は人目があっておかしくない場所で、エミヤは、いったい、なにを。いや仕掛けたのはランサーのほうであるのだが。
「んだよ、もう大丈夫なのか?」
「ああもちろん平気だ問題無い、迷惑を掛けた。すまなかったな」
「いやいやいやなんで逃げようとしてんだよ」
「君こそ野郎相手に何てことをしたのか自覚してみてはどうだね!?」
「はーぁ? 馬鹿言え、毎日世話になってる奴が死にそうな顔してたら助けてやりたくなるもんだろうが! つーか、お前もしかして髪の毛石鹸で洗ってんのか?」
「なぜ解った」
「頭から牛乳石鹸の匂いがした」
「嗅ぐな!!」
「ブーメラン刺さってんぞ」
「ぐぅ……」
さんざっぱらランサーの匂いに助けてもらった身であるところを突かれてしまえばぐうの音しか出ない。とうのランサーはこれっぽっちも気にしていない様子で、エミヤはもしかしてこれが本来の友人同士の距離感なのだろうか……? と自分自身の常識を疑わされることになった。
まぁ、そんなエミヤの葛藤はともかく、だ。先程過ぎ去っていった件の女性が、遠くの曲がり角の向こうへ消えていくのを目で追いかけていたらしいランサーは、んん、と小さく首を捻った。そして何かに気付いた風にあっと目を見開く。
「あの女、なんか見覚えがあると思ったらアイツが好きだって言ってた奴だ!」
アイツ、とは、音信不通になってしまったのだというランサーの友人のことを指しているのだろう。その男が好意を寄せていた女性というのが、なんと彼女であるらしい。
「一年の時のミスコンに出てたのを見てハートを奪われちまったらしくて、追っかけみてぇな真似してたな。取ってる講義調べて一緒に授業受けようとしたり、食堂に行く時間合わせたり」
「…………」
そういえばそうだった、といった感じで連ねられるランサーの言葉を聞いて、エミヤは除々に眉間の皺を深めていかざるを得なかった。それは、一歩間違えばストーカー行為に当たるものだ。そこまで大げさな話でもないのかもしれないが、もしも彼女が男の存在に気付いてしまっていたとしたら、相当な恐怖を覚えたことだろう。彼女と男の間に面識があったのならまた違ってくるのかもしれなかったが、ランサーの口ぶりを聞く限り、どうも男が一方的に好意を寄せていただけであるようだった。
音信不通の友人。女性に纏わりつく死霊の気配。なんだか、とてつもなく嫌な予想図が頭の中に浮かんでしまう。その友人が今も生きている保障なんてどこにもありはしないのだから。
エミヤには何も関係が無い。関係しようとする必要もない話だ。けれど一度気付いてしまった可能性を無視してのうのうと過ごすことができるのなら、エミヤはわざわざ自分の周りから人を遠ざけようとなんかしていない。
誰かが、その人の生きる世界とは違う存在によって平穏を脅かされているのかもしれない。
エミヤは、自分が面倒事に巻き込まれるのも御免であったが、他人までもがそうなってしまうのもまた、どうしても許せない悪癖の持ち主であった。
「……ランサー、その友人の家の場所は知っているんだったな?」
「おう。前に尋ねたのが一週間前ぐらいだから、そっから引っ越しでもしてない限りアイツん家は変わってないはずだぜ。……行きたいのか?」
「すまない。私の邪推は、間違いなく君に不快な思いをさせる。だが、どうしても気になるんだ」
ランサーは大雑把でざっくばらんとしているように見えて、存外人の機微を見極める力に長けている。エミヤが言葉を濁したところで、言わんとしていることは汲み取ってしまえたのだろう。
つまるところ、その友人は既に何らかの原因によって死亡していて、常世の国に逝き損ねたそれが、生前の執念を元にして彼女に纏わりつく死霊になっているのではないか、と。
ふむ、と少しばかり考え込んだ後、ランサーは静かに首を縦に振った。
善になるか悪になるかは解らないにせよ、事は迅速に運んでしまったほうがいい。その日の夕方、大学終わり。ちょうどランサーも夜のアルバイトまでには時間が空いているのだということで、音信不通となった友人の自宅へとその足で向かうことになった。大学から二駅ほど離れた集合住宅。マンションというよりアパートと称したほうが似つかわしいだろう。少し錆の目立つ鉄階段を通り過ぎた先、一階の角部屋が男の住居であるらしかった。
ピーン、ポーン、と挨拶代わりのインターフォンが鳴らされる。合間を空けてもう一度、更にもう一度、合計三回ほど、反応の悪いドアベルボタンを押しては耳を澄ませていたランサーは、それでも返事が無いのを悟ると、ドアを直接叩き始めた。周りの迷惑にならないよう配慮された、控えめなノック音が響く。
「おい、オレだ。ランサーだ。居るなら返事なり何なりしてみてくんねぇか。大学の連中も、お前が来なくなって寂しがってるぜ」
節くれだった男らしい指の背が、こん、と木製のドアを叩いては鳴らすものの、相変わらず部屋の中からは何の音沙汰もない。やはり本人はここに居ないようだ。しかし覗き見てみたこの部屋の電気メーターは、稼働中である事を示すようにちりちりと振れている。本人不在のまま、あるいは見事な居留守を決め込んだまま、何かを使用中ではあるらしい。
「あーー……あの子、お前が言ってた、黒髪の。今日、大学で見かけたぞ。追っかけに行かなくていいのかよ?」
確実に友人の琴線へ触れるであろう言葉を吐いてみても、扉の向こうからは淋しげな沈黙が返ってくるばかりだ。一応確認してみたランサーの携帯端末も、一週間と少し前ぐらいからぱったりと連絡が途絶えてしまっている。どうも本当に音信不通どころか行方不明状態であるらしかった。
これは、エミヤが心配しているのとはまた違う方向で、良からぬトラブルが起きているに違いない。まずは警察に相談してみるより他ないだろう。仮にも友人のうちの一人が忽然と姿を消してしまったことに、流石のランサーも幾分かのショックを受けているようであった。慰めの言葉など己のうちからは見つけることができなかったので、ランサーがエミヤにしてみせたように、ちょっとばかし丸まった背中をやわやわと撫で擦ってやる。
そうこうしているうちに、ランサーのアルバイトの開始時間が近付いてきた。いくつかの駅を乗り継いで向かわなければならないのだというランサーに、帰る方向が同じであるエミヤも自然と付き添う形で、二人揃って最寄りの駅へと向かう。
「確か、明日は休講日だったはずだよな」
「ああ。警察に届け出るのなら朝方からにしておいたほうがいいだろう」
「こっちの警察にお世話んなったことは無いんだがなぁ、こういうのの第一発見者? ってやたらめったら時間を取られるんだろ? お前に代わりに行ってもらうってのもな……」
「私は君の友人となんの面識も無いし、連絡を取り合っていた記録もない。どちらにせよ君か、君の他に彼と仲の良かった人物に話を聞く必要があるだろう。私は特に役立たない。大人しく明日を待つしかないだろうな」
「ちくしょう、いったいどうしちまったんだっての」
ぼそり、と呟く声音はいかにも悔しげで、ランサーがかなり友人想いな人物であることがそれだけでも見て取れる。もしもエミヤが同じようなことになったときも、ランサーは、その整ったかんばせをこうして苦々しく歪めてくれるのだろうか。
「……詮無き事を考えていても無駄にエネルギーを消費するだけだ。そら、もうすぐ電車が来るぞ。私はともかく、君は確かコレに乗るんじゃなかったか?」
「げ! もうそんな時間かよ!」
じゃあまた明日な!! と改札に向かって勢いよく走り去っていったランサーの捨て台詞に、エミヤは思わず自らの眉尻を困ったようにゆるゆると下げてしまう。明日は休講日で、警察に相談しに行かねばならぬのはランサーのみであるというのに、どうしてエミヤとまた会うつもりでいるのだろうか。きっといつもこうして『また明日』と言って別れているから、その言葉が癖になってしまっているのだろう。凛もセイバーも居ない今、親しい者など皆無であるエミヤに対してそうした"明日の約束"を持ちかけるのは、ランサーのような変わり者ぐらいだ。
その、『また明日』という言葉が存外悪いものでもない、と知れたのは、ランサーのおかげだ。
ランサーの乗った電車が駅を出ていくのを見送ったエミヤは、くるり、と踵を返し、足早に駅のホームから遠ざかる。向かう先は、先程訪れたかの友人の家。エミヤにできることなど何もないのかもしれない。けれど、もしもなにか協力できることがあるのなら、あの死臭を感じ取って以来渦巻いている疑念を少しでも晴らすことができるのなら、やれることはやっておいてしまいたかった。
ああいった古いアパートのドアや窓というのはだいたい建て付けが悪くなってしまっており、少しばかり工夫すれば簡単に忍び込むことができてしまう。賃貸住宅の一階が家賃安めに設定されがちなのは、そういった防犯面での不安があるためでもある。ランサーが友人宅のドアを叩いている間、エミヤはその反響音を聞いて、ドアのがたつき具合を確かめていた。
予想が正しければ、あのアパートは築二十年以上は経っているかなり古めの建物で、整備もろくにされていない。棲家の良し悪しには特に頓着しないエミヤもまた、似たようなアパートの三階に住んでいる。趣味の機械弄りで培った手先の器用さを犯罪行為に転用するのは気が引けたが、もしかすればその友人たる男、部屋の内側で御遺体と化している可能性だってあるのだ。その場合は、このアパートに住んでいる他の住人達には申し訳ないが、偽のボヤ騒ぎを装っていち早く騒ぎ立てるつもりでいた。
目立つ白髪をそこらの店で買ったキャスケットで隠し、友人宅の前へと訪れなおす。夜中ではなくあえて夕方に近い夜分の時間を選んだのは、もしも誰かに見つかって不審に思われた時、先程のランサーがやっていたように『たまたま尋ねてきた知人』のフリができるからだ。誰だって夜中に誰かの部屋のドアやら窓やらを触っている人間が居たら問答無用で犯罪者だと思うだろう。だが"おかしくはない"時間であれば、多少おかしな行動をしていても、逆に目立たなくなるものだ。ぐ、ぐっ、と雨風に晒されたせいでか、少し風化が進んできているアパートのドアの具合を掌で押して確かめる。
そこで、妙なことに気が付いた。この玄関ドア、鍵が掛けられていない。
家を空けるなら当然鍵は閉めて行くだろうし、家の中に居てもまず玄関の鍵を開けっ放しにしたままでいることはない。ましてアクティブにあちこち旅行して周る人物であったというのなら、セキュリティ意識は人一倍高いほうだろう。この周辺は特に犯罪率が高いというわけでもなかったが、だからといってゼロだと言い切れるほどでもない。ランサーもエミヤも常識的な先入観によって失念してしまっていたが、そもそもこの部屋は、誰でも入れる状態にあったのだ。
ならば、余計に事件が起きた可能性が高い。物盗りの仕業か、押し入り強盗か、はたまた。何にせよまだ生きていることを証明しない限り、エミヤはあの女性に纏わりついていた死霊がかの友人のものである可能性を捨てきれないままであるのだ。
人道的な躊躇を振り切り、そ、っとドアノブに手を掛ける。軋む蝶番が耳障りな音と共に曲がり、部屋の入口はいとも容易く開かれてしまった。
そうして薫る、覚えのある臭い。冬の気配を忍ばせた風が吹き抜け、漂った臭いごと部屋の内側へと吸い込まれていく。
(……くそっ!)
あの時、自分達の後ろを通りがかった彼女から強く感じたものと、まったく同じものだ。死臭。瘴気。腐り落ちた果実にも似た背筋の凍る甘やかさ。
エミヤは思わず弾かれたように部屋の中へと押し入り、ランサーの友人である男の姿を探す。生身がこの場にあるのかないのか、どちらにせよこれでハッキリしてしまった。ミス・コンテストに出場できる程度には容姿の整っている彼女に惚れ込んだ男は、死した後もその恋慕というには少しばかり重たすぎる執念を抱えて、生身の彼女に付き纏っているのだ。
きょろり、と見渡した狭い四畳半の和室は、特に何のおかしさも見当たらない、適度に散らかった一般的な成人男性の居住であるように見える。だが、エミヤはあえて眼鏡を外し、銀灰に鈍く光る眼を床下のほうへと向けた。足元からむわりと煙立つ、怨念の気配。胸元のポケットに入れていたケースに眼鏡を仕舞い込んだエミヤは、うっすらと埃の積もっている畳のうち明らかに浮き上がっているもの、まるで"一度外されたことがある"畳を一枚見つけ、そのへんから拝借したマイナスドライバーを隙間にねじ込み、力任せにそれを持ち上げ、ひっくり返した。
「……ッ!?」
木造建築であるが故にできる床下の隙間。畳を剥いだその下には、手製で付け足されたらしい小さな床下収納じみた空間が広がっていた。そこから噴き出る、未練の想。
『なんて綺麗なんだろう、綺麗だ、ああ、どうしてみんな彼女の美しさがわからないんだ』
『綺麗だ、綺麗だ、綺麗だ、綺麗だ。どこを見てもどこを切り取っても可憐で、完璧で、あんなにも美しい女性がこの世に存在しているだなんて』
『もっと見ていたい。もっと近づきたい。彼女の側に居たい。彼女もきっとそれを望んでる。あの子が欲しい。あれが。あの女が欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい』
『寄越せ』
ともすれば胃がひっくり返りそうになるのをなんとか堪えて、エミヤは瘴気の噴き出す床下へと入っていった。土は簡素な木板で覆われ、その周りの四方にもベニヤ板が張ってあるおかげで、拙く創り上げられた小部屋のような構造になっている。
下手をすると足の踏み場がないほど積み上げ、散りばめられているのは、美しく咲き誇る白い山茶花の花萼だ。おそらく造花だろうが、あまりにも場に似つかわしくない装飾品に、余計気持ちが悪くなる。
壁一面に所狭しと貼られているのは、あの黒髪の女性の姿を切り取った写真達。恐らく無断で勝手に撮ったものたちばかりなのだろう、写っているのはだいたいが女性の後ろ姿や横顔ばかりだ。それらはただ単に貼り付けられているだけではなく、彼女以外の人物が黒いペンで塗り潰されていたり、一度濡れてから乾かされたもののように妙なよれ方をしていたりと、明らかに狂気へ侵された人間の犯行であることが伺える。聞いたこともない男のやけに粘着質な"声"が、ぞわぞわとこの空間全てを這い回っていた。
気分が悪い、どころの話では済まされない。これは明らかに悪質なストーカー行為だ。男がどういう経緯で死に至ったのかまではわからなかったが、知りたいとも思わなかった。
エミヤは、ともすれば何かしらの事件に巻き込まれたのかもしれない人物の助けになりたくて、ランサーの友人がエミヤの疑念とまったくの無関係であることを証明したくて、こんなところへ忍び込むような真似をしたのだ。決して恋にとち狂った男の妄執に触れるために訪れたわけではない。
しかも、所狭しと貼られている写真の背景をよくよく見てみれば、どこかで見覚えのある光景であった。……ランサーのメッセージアプリに送りつけられていた写真と、同じ場所だ。
つまりあれは『旅先の思い出』ではなく、『ストーカー行為の証明』であったのだ。あの日あの時、自分は彼女の側に居たのだ、と。彼女の姿が写ったものを送り付けてしまえば流石に異常さを気付かれてしまうだろうから、解らぬように、けれど伝わるように、巧妙に隠しながらも、その"想い"をランサーや他の友人であっただろう人々へ見せつけ続けていたのだ。
ひとは、恋に狂うとこんなにもおかしな事を平気でこなせるようになってしまうのか。
生憎、エミヤには恋い慕う誰かを想うあまり凶行に走る人間の気持ちなぞ、まったくもって理解できない。理解したくもない。こんな場所、もうあと一時だって長居していたくない。
ただ、明日ランサーが警察へ相談しに行った後のことを考えると、剥がした畳はそのままにしておいたほうがいいだろう。友人の安否を真摯に心配していたランサーには申し訳無いが、世の中には何を犠牲にしてでも詳らかにしなければならない罪というものが存在する。これが明らかになって彼女に纏わりついている怨霊が少しでも薄まるのか、と言われればそんなことも無いのだろうが、少なくとも彼女は警察によって保護されることだろう。これで物理的な身の危険は抑えられるかもしれない。
そうして、吐き気を堪えながら床下から這い上がろうとした時、ふとどこからか突き刺さるような視線を背後に感じた。
すわ他にも誰か入ってきたのか、と思い辺りを見渡してみてもエミヤ以外には誰も居らず、耳を澄ませても狂った男の戯言ばかりが聞こえてくる。気の所為だろうか。あるいはこの空間の瘴気に毒されてしまったのだろうか。
そんな平和的思考ができたなら、どれほど良かっただろう。全部気の所為、勘違いだ、と切り捨ててしまえたのなら、どんなに幸せなことだろう。けれどエミヤは、床下から出ようとしていた身を歪な小部屋の底へと戻し、振り返らざるを得なかった。エミヤの感覚が"勘違い"であったことなど、ただの一度もありはしない。誰かが見ている。こちらを。エミヤを。
勢いよく振り返った先にあったのは、一枚の写真であった。それだけは他の写真と違い、画面の端に写っているだけであるとはいえ、件の女性がカメラのほうを向いて、にこにこと微笑みかけている。カメラと女性との距離は近くもなく遠くもなく、他に被写体も存在しない。『たまたま真正面から写すことができた』ようにも見える代物でもあった。単なる偶然、奇跡的な盗撮写真の一つ。そう思える。
──────うすらと開いている女性の真っ黒な瞳が、カメラのレンズをしっかりと見据えていなければ、の話だが。
周りには誰も居ない。写された女性と、写した男以外、そこには誰も居ない。女性は手荷物すら持っていないし、背景はどこか人気の少なそうな場所に見える。
それなのに、どうして、彼女は『カメラのほうを向いて微笑んでいる』のだろうか。
彼女は、全てわかっている。
ぞ、っと湧き上がってきたのは、これまで感じたことの無いほど悍ましい恐怖の塊であった。
今もエミヤの肌を突き刺す視線は間違いなくこの写真から発せられている。身体を、喉を、頬を辿って、あり得るはずもない視線がエミヤの身体をうすらと撫ぜた。品定めでもするような調子でエミヤのことを"写真越しに"見つめるどす黒い瞳から、どうしたって眼が離せない。
今、眼を逸らせば、確実に喰われる。
ここに来てようやく、エミヤは事の本質を見定めることができた。男が狂っていたのではない。女がわざと狂わせたのだ。おかしなのは男のほうではなく女のほうであった。
普通、どんなに鈍感な人間であろうと、死臭を感じ取ることができるほどの怨霊を身に纏わせていれば、何かしらの不具合を覚える。それなのに彼女は至って普通に大学へ通い、普通に大学生活を続けていた。
あの時、エミヤは臭いのほうに気を取られて彼女のほうをよく見ていなかったが、ランサーはその姿をしっかりと認識している。そしてランサーはエミヤの様子については言及したものの、女性の容態については特に何も言わなかった。ランサーがわざと口を閉ざしたのではない。わざわざ開くだけの理由が彼女に見当たらなかったからだろう。
大学内で年に一度開かれる、ミス・コンテスト。去年の優勝者は凛であった。しかし黒髪の女性はおそらく、優勝するために参加したわけではない。
きっと『餌』を垂らしに行ったのだ。それに引っかかる者、例えばかつてランサーの友人であった男のような人間を囚え、恋い焦がれさせ、己に執着させるために。心どころかその魂から魅了し、自分を追い求めるだけのものにするために。
ミス・コンテストの参加者は普段どれだけ目立たぬ人間であろうと、エントリーした以上は大衆の目前に晒され、その美醜を評価される。逆に言えばそれだけ多くの人間によって見られ、自分の存在を認識させることができる場でもあるのだ。さぞかし都合の良い釣り場であったことだろう。
そして、そうして釣り上げた餌の安否を確かめに来た者もまた、彼女の獲物と成り果てるのだ。こんなふうに。
ぎゅう、と喉が締まる。喉仏に荒い綱のような何かが擦れ、首を引き絞られているかのような痛みと苦しさを感じる。自分の内側、肉の身のなかにある魂そのものを視られ、透かされ、掴まれそうになっているのがわかった。
身を捩り、頭を振り、なんとかこの拘束から抜け出そうとするものの、ああそうだ、エミヤはなんでも感じ取れるくせして、肝心たる祓いの力だけは持ち合わせていない。胸ポケットに仕舞い込まれたままの眼鏡に手を伸ばしたくとも、もはや指の一本たりとて動かせそうになかった。
息ができない。
いきが、できない。
くびがしまる。
溺れる。溺れる。おぼれてしまう。
あたまが、ゆらいで、からだが、きえて──────
「エミヤ!!」
首元に絡みついていた何かを断ち切り、地獄の底からエミヤを救いあげたのは明朗快活に響く男の呼声であった。
脱力していた身体がずるり、と引っ張られ、床下から畳の上へと引き上げられる。酸素不足で霞む視界の中、見覚えのある紅い瞳が険しい剣幕のままこちらを見下ろしていた。
ランサーだ。時間的には未だ勤務中であるはずのランサーが、どうしてかここにいて、エミヤはランサーに間一髪のところで助けられた。……らしい。
どうして?
「お前、お前なぁ、オレこっちの警察のことよくわかんねぇから明日着いてきてくれって電話したのに出やがらねぇし、嫌な予感がしてこっちに来たらなんでか玄関開いてっし、居たと思ったら死にそうになってるし」
エミヤがギリギリ聞き取れる範囲内で滔々と連ねられた言葉と共に、ランサーの掌がエミヤの喉元をゆるく擦る。途端、それまでぎゅうぎゅうと締め付けられていた首がふっと緩み、息苦しさが消えた代わりに大量の酸素が肺を直撃した。ゲホゲホと咳込みながら、飛びかけていた意識をゆっくりと目覚めさせていく。冗談抜きで死にかけたのだ。いくら何度も同じような経験をしたことがあるとはいえ、何度体験したところでこんな感覚、慣れることはない。
「……げぇぇ……なんだ、こりゃ」
ひとまず勢いで助け上げた相手が先程まで沈んでいた床下の中身を、うっかり覗いてしまったのだろう。明らかに異様であるとしか言い様のない光景を目の当たりにしたランサーは、心の底から嫌悪を滲ませながら、苦々しく顔を歪めた。
「は、っげほ、はぁ、は……きみの、友人は……ケホッ、被害者、だ」
「あーー待て待て、事情は後で聞かせてくれ。今はとにかくここから離れんぞ。お前ん家どこだ? 少なくともオレん家よりは近いよな」
真実を捻じ曲げて理解してほしくないあまり息も整わないまま事情説明しようとしたエミヤを制して、事態の深刻さを鑑みたランサーはアパートから早急に離れようとする。とりあえず一旦落ち着く時間を設けたほうがいいと考えたのはエミヤも同じであったが、如何せん、短時間でかなりの体力を消耗していた。自分の住所をうまく動かぬ口で伝えるのがやっとで、せっかく正気を取り戻したというのに、まともに動くことができない。
回らぬ舌できちんと言葉を発せられていたのか、それすらも確認できないまま、エミヤの意識は再びぷつりと闇に呑まれていった。
***
かーごーめ、かーごーめ。
いーつ、いーつ、でーやぁる。
よーあーけーのー、ばーんに。
つーるとかーめがすーべった。
うしろのしょうめん、だーぁれ?
幼い頃聞いた童謡の中で一番強く記憶に残っているのは、その歌だった。曲調が短調でありどこか薄ら寒いメロディラインに聞こえること、歌詞がうっすらと意味深であることなど思いつく理由は多々存在するが、エミヤは、その『かごめ』という単語を別のどこかで聞いたことがある。それはきっと切嗣に拾われるよりも前、エミヤが孤児へ至るまでの失われた記憶の中に存在していたのだろうが、二十年弱経った今でも、失くしたものは取り戻せていない。
エミヤがそうして自分の記憶の有無について悩む度、「無理して思い出す必要はないんだよ」と、養親である男、切嗣は幼いエミヤの頭を撫でて優しく慰めてくれた。生まれた場所も、自分の本当の両親の顔も、自分の名前さえ覚えていなかったエミヤは、「柄宮」というもともとの名字だけを残して、ほかのものは全て忘れてしまっている。『衛宮 エミヤ』。それが今現在の己が名であり、名字と名前の読みが全く同じであるという事に関しても決して後悔してはいない。
それでも時たま、今でも考えることがある。エミヤの本当の名前はなんだったのだろう、と。
ゆれる。ゆれる。きれいな山茶花が、エミヤよりもずいぶん高い位置で、ゆれる。それは風に吹かれて揺れているわけではない。山茶花の枝が独りでに揺れて動いているのだ。
最初は幻だろうと思った。
どうしてあんなところに花が咲いているんだろう。それも、いっとうきれいな、うつくしい山茶花。檻の中にいる自分に向かって、おいで、おいで、と手を振っているようにも見えるそれは、これまでに見てきたどんなものよりも美しかった。
だから、そうだ。子供はそれに手を伸ばした。恐怖など微塵も感じなかったし、嫌悪など欠片も覚えなかった。その山茶花がどこか寂しげに咲いているようであったから。そのまま手を伸ばさなければ、せっかく咲き誇っている綺麗な花弁がぽろぽろと落ちていってしまうような気がして。
誰にも好かれず、誰にも求められず、誰からも厭われて過ごすのはとてもとても辛いことだ。もしこの山茶花が同じ思いをしているのなら、自分こそが救けてやらねば、とさえ感じていた。
そ、っと差し出した小さな掌を、柔らかな花弁が包み込む。瞬間、首に掛かっていた飾り紐が荒削りな綱へと変わった気がしたが、息苦しいのは今更だ。
暖かな山茶花は、檻の中から自分を連れ出してくれて。気付けば、花弁に包まれていたはずの掌は、大人の男の、広く頼りがいのある手に握られていて、
それで、それで──────そうだ。
あの夜、雨なんか降っていなかったじゃないか。
***
目覚めの気分は最悪と言って相応しかった。少しの間とはいえ、魂そのものへ干渉されたことによって、忘れ去っていた記憶の一部が夢として蘇ってきたのだろう。いざ思い出したそれらは、整理整頓して考え直してみれば、やっぱりいつまでも思い出さないでいたほうが幸せな代物であった。切嗣がことにつけ「思い出さなくていい」と言っていたのは正しかったのだ。望んで思い出したわけではないにせよ、養父の言いつけを破ってしまった言い様のない居心地の悪さが、きゅうっと胸を締め付ける。
エミヤは、若い両親の駆け落ちに巻き込まれた赤ん坊だった。何の事情があったのかまでは知らないが、とにかく、エミヤの本当の両親は、自分達を知る人間が一人も居ない場所へと逃げ着く必要があったのである。そうして辿り着いたのは、遠き山麓にある人知れない小さな集落であった。
そこは時代錯誤な価値観が未だに横行している古き文化を尊ぶ村でもあったから、エミヤ自身はよく覚えていないとはいえ、両親共々"他所者"達はずいぶん忌み嫌われたことだろう。それでも、村外れにある寂れた空き家を借り受けて、慎ましやかな生活を送り、できるだけ軋轢を起こさないよう細心の注意を払って日々を過ごしていた。村八分にされてはいたものの、村人の中にも外の世界と同じように広い視野を持つ者が居て、そんな人々に支えられながら、なんでもない日常を送ることができていたのだ。
──────エミヤの両親が病に倒れ。村のほうでも『エミヤの両親と同じ病』に罹る者が出るまでは。
外の世界から病原菌を持ち込んだ? 鬼を呼び込んだ? 何をどう文句付けられたところで、満足な治療を受けることも叶わなかった両親は至極あっさりとこの世を去ってしまったのだから、エミヤにはどうしようもない話であった。けれど、村の者達からしてみれば"どうしようもない"では済まされない。
その村には、なんと驚くべきことに未だ"人身御供"の習慣が遺っていた。続く日照りを抑え、恵みの雨を願うため。氾濫する川の流れを静め、土砂を固めるため。あるいは、村を襲う流行り病から救ってもらうため。神の食物もしくは生贄として差し出せる最上級の代物は人間そのものである、とされている。人の身を文字通りを柱にして神に祈願を伝える儀式。そのオカルト極まった風習は、倫理観の変性が進んだ現代に至るにつれ衰退していったはずであったが、あまりにも外界から閉ざされ続けてきた小さな小さな集落の中では、未だ一番の有効手段として信じられていたのだ。
エミヤは、まさにその人身御供の生贄として選ばれた。
それもまた当然の話である。そもそもエミヤの両親が病を持ち運んできたのだと思われていて、なおかつその子供であるくせに、エミヤだけはいつまでも元気なままであったのだ。これこそが犠牲にすべきものだ、として誰もが疑わなかったし、反論の声一つ出てこなかった。
エミヤは確かその時六歳になったかどうかという年頃の少年であったはずだが、エミヤ自身もまた、その決定に異を唱えなかった。両親が死んで、村の人が死んで、それでもエミヤだけは生きているのが不思議で不思議でならなかったからだ。
自分がなにかしらの役目を負うことによって村の人々を救えるのなら。自分だけが痛い目に遭えば、他の人達が元気になれるというのなら。幼心ながらに抱えた罪悪感は、エミヤの自由をいとも容易く絞め殺して投げ捨てたのだ。
三年に一度の頻度で差し出されるのだというそれは、「かごめ」と称されていた。籠の姫、と書いて、"籠姫"。満月の夜、盛大に祝いながら神の元へと送り出されるのだというそれは、神の花嫁だとされている。つまるところ綺麗なお嫁さんをあげるから村を護ってくださいね、とそういうことだ。しかし、いつだって情報は劣化し、儀式は形骸化していく。最初はそれこそ美しい女だけを差し出していたのだろうが、これだけ規模の小さい集落だ、そのうちそれも難しくなって、老若男女問わず捧げるようになってしまったのだろう。
"籠姫"に選ばれた者はまず、簡素な格子牢の中で水のみを与えられながら空腹に耐える『三の禊』を過ごす。この間、"籠姫"は余計な真似をして自殺できないよう常に猿轡を噛まされ、水を飲む時は、専用の見張り番に口と猿轡の隙間へ漏斗で水を注いでもらう形で水分補給することとなる。
次に、おそらく神へ捧げる供物としてより相応しい状態に持って行くためだろう、『二の篝』と呼ばれる呪術的な儀式が行われる。この工程が一番"籠姫"にとっては辛い。なにせ痛い。とんでもなく痛い。痛く、辛く、苦しく、それこそ三日間の絶食が生温く思えるほどの苦痛と共に、魂の何かが変えられてしまう。エミヤの髪色が抜け落ち、肌が浅黒く灼けてしまったのもその時の衝撃によるものだ。副作用、とも言えるだろう。すっかり別人の形相と化したエミヤは大した成功作だとかなんだとか言われていたような気がするものの、あまりよく覚えていない。何しろ痛みで九割がた意識が飛んでいたので。
反抗意識をごっそりこそげ落とした後、今度は『一の濯』として汚れた身体を清められ、身嗜みをきっちりと整えられる。小さく、幼く、痩せ細った身体は大人の力で簡単に着せ替えてしまえた。成されるがままに袖を通し、帯を締められ、昔ながらの着物を着せられた時には、これでもう終わりなのだ、と妙な諦観すら湧き上がっていた。
そうして三日の間絶食し、二日を掛けて呪いを刻み、一日掛けて着飾られた子供は、清潔で豪奢な装いを纏い、格子牢の外へと連れ出される。
頭には煌めく髪飾りを。首には彩る飾り紐を。手足にはしっかりと鞣した丈夫な縄を。陳腐な花嫁衣装のような出で立ちを取らされた子供は、"嫁入り"と称して人力で担ぐ運び籠に乗せられ、神の待つ山の中へと送られる。エミヤはその全ての過程を経て、そのうえで"助けられた"子供だ。
山中深くは天辺近くにある、麓の集落が丸ごと入ってもまだ溢れないほど広い湖の底が、"かみさま"の寝床なのだとは聞いていた。漕ぐ度に揺れる舟の上で体勢を崩さないようにするのが大変で、せめて足の縄だけでも解いてはくれないかと思いもしたが、それができるならそもそも子供を躊躇いなく人柱に立てたりなどしないだろう。
ぎぃ。ぎぃ。舟の揺れる音は首吊り縄のそれと似ている。
寒い冬の間では水底に着く前に死んでしまうから、暑い夏の間に鎮める事になっているのだという。それでも、有無を言わさず突き落とされた水の中は、昏く、冷たく、恐ろしく。水を吸って重くなる着物が肌に吸い付いて。ばたつこうとする手足はぎっちり縛られた縄で封じられていた。すっかり色の抜けてしまった白い髪が、藻屑よりも無様に散らばる。
たぶん、長い長い時間を掛けて、ようやっと小さな足の裏が湖の底へ辿り着いたその時にはもう、全てを手放しかけていた、はずだ。
そう。おそらく、ジャーナリストであった切嗣は仕事のために「怪しげな風習の残る村」について真実を調べに来て、たまたまエミヤの存在を知ったのだろう。あともう少しでも切嗣が来るのが遅れていれば、エミヤはそのまま水底より帰れぬ者と化していた。目が覚めたその時、お互いの身体がずぶ濡れだったのは、手足の縛られたまま湖に突き落とされたエミヤを助けるために、切嗣もまた水の中へと飛び込んでくれたからだ。
今更、かつての養父が命の危険を侵してまで自分を助けてくれたのだということを思い出したって、謝れもしないし、感謝もできない。切嗣の魂はあの季節外れの雪が降った日に連れて行かれてしまった。きっと現世のエミヤがどれだけ言葉を尽くしたところで、それが常世の切嗣に届くことはないだろう。
今、この時ばかりは、何も話してくれなかった自分の養父に恨み言の一つでも言いたい気分だった。生者の言葉を正しく受け取ることができるのは同じ生者だけだ。死者と生者は相容れることなどできない。それができてしまうのなら、今頃この世界は常世と現世が混ざりあいどちらもぐちゃぐちゃに乱れ果てていただろう。
……混ざる。交ざる。そういえば、あの山茶花はいったいなんだったのか。エミヤが見続けてきた夢は確かに記憶の断片であったが、いざだいたいの事を思い出してみれば辻褄が合わないところが多すぎる。
「なーに寝起きで難しい顔してんだ、コラ」
知らぬ間に深まっていく思考を、突如として横入りしてきたランサーの一声がすっぱりと遮ってしまう。
そういえば、エミヤはあのまま男の部屋の中で気絶してしまっていたのだった。寝転がっていた身体を起こして辺りを見渡してみれば、なるほどここはエミヤの自室である。どうにかこうにか現住所を伝えることに成功はしたのだろう。
担いできたのか背負ってきたのか、とにかく、重く大きいエミヤの身体を、ランサーはここまで持ってきてくれたのだ。それに対して感謝の意を述べれば、まだ調子が悪いのか、なんて心配そうにドアップで覗き込まれたため、思わずその横顔に軽い張り手をかましてしまった。
そうだ。今は過去の記憶に囚われている場合ではない。あの黒髪の女性について何か対策を練らなければ、ランサーの友人が狂い堕ちてしまったように、また別の人間が巻き込まれるかもしれないのだ。エミヤが気絶している間にランサーのほうでも彼女のことについていろいろと調べてくれたようで、それらの情報によると、彼女が今も現在進行形で生きている普通の人間であることは間違いない。過去の写真越しに此方を認識してきた辺り、死者を相手取るよりも厄介な存在であるのも確かなのだが、だからといってこのまま手を引くわけにもいかないだろう。
「……かといって、これといった解決法は思いつかない、か」
「あん?」
「いや、……そういえば何があったのかをまだ話していなかったな。正直、君にはあまり話したくないのだが」
「アイツがオレのダチだったことは確かだが、それとあのヤバイ地下空間はまったく別の話だろ。しかも、そうそう簡単に片付く問題じゃないんだろ?」
「……君は本当に鼻が利くな」
仮にも友人であった男が何をされて何をしでかしたのか、友人思いのランサーであれば聞きたくない話なのではなかろうかと思いやってはみたものの、話の優先順位付けに関してはランサーのほうが一枚上手であった。
とりあえず、これまでの経緯と、知り得た情報からエミヤが推測した事項を含めた簡単な事情説明を行う。もちろん、エミヤの憶測が全て合っているわけではない。だが、エミヤが感じたあの視線と悪寒の主は間違いなく"彼女"だ。影を凝縮して詰め込んだような真っ黒い瞳を思い出すだけでも、ほんの少し息が詰まる。
「…………つまり、あの女をどうにかしないといけないわけだな?」
「まぁ、そういうことになる。そうそう簡単にはいかないだろうがね」
つい重たい溜息を吐いてしまったのは、本当にどうしたらいいのか解らないからだ。それこそ死霊相手ならまだいくらでもやりようがある。彼女に取り憑いている男を祓う事だって、今は抑えてくれているランサーの圧倒的な輝きを借りればそう難しい話ではないだろう。だが、それが生身の人間に効くかどうか。
「とりあえずオレがそいつの肩とかさり気なく触ってみたらいいんじゃね?」
「馬鹿を言え、それで君が次のターゲットになってしまったらどうする。彼女がどうやって人を狂わせるのか、その方法がまだ解っていない以上、軽率な行動は謹んでくれ」
「心配してくれんなら素直にそう言やぁいいのに」
「何か言ったか?」
「いいえーなんにもー」
ふいっと横を向いて知らんぷりをしてみせるランサーが、わざとおどけた振る舞いをしてくれていることぐらいには流石のエミヤとて気付いている。ランサーは視えも聴こえもしない人間であるが、だからこそ、過敏な反応を示すエミヤの感覚を出来うる限り慮ろうとしてくれた。彼と共に居る間は、妙なものなど寄ってこないし。彼の声を聞いている間は、余計なものを耳にすることもない。考えが合わないと感じる瞬間は多々あるものの、こういう時、ランサーの器の広さを思い知らされる。
そんな彼だからこそ、エミヤはほんの少し、ほんの少しだけ、頼ることができているのかもしれない。
ひとまず落ち着いたところで、時刻は既に夜の十一時過ぎを回っていた。そういえばどうしてランサーがあの場にあのタイミングで駆けつけられたのか、というと、勤務先の店長がシフトの伝達を間違ってしまっていたらしく、今日は別にランサーの勤務日ではなかったのだという。ぽっかり時間が空いてしまったのでどうせなら明日の相談をしよう、としたところ、エミヤがあまりに電話へ応答しなかったため、嫌な予感を覚えてわざわざ戻ってきてくれたらしい。実際、エミヤのスマートフォンにはランサーからの不在着信が一件入ったままでいた。
……待て。十一時?
「ランサー、まさか君、終電は」
「ん? あぁ、もう無くなった。ッつーわけで泊めてくれ」
フワッとした調子で胡座をかいたまま軽く頭を下げられてしまい、エミヤは口を開けたまま固まってしまう。この男、まさかエミヤの様子を見守るためだけに自分の家へ帰る選択肢を投げ捨てたのか。エミヤがここに運び込まれてから目を覚ますまで、ランサーはずっと側に居てくれた。それはエミヤの身体に残ったあの害悪たる瘴気の影響をできるだけ取り除くためであろうし、感謝こそすれ、邪険にしていい理由などひとつもない。
だが、友人なんだかそうでないんだか微妙な距離感の男のためなんかに、ランサーのような人間がどうしてそこまでしてくれるのか。それがどうしてもわからなくて、エミヤは困惑したままとりあえず『良し』と返事をしてしまった。思えばエミヤが自分の秘密を打ち明けた時だってそうだ。どうしてエミヤの言を疑わないのか、どうしてエミヤの眼を優先してくれたのか。思えば、ランサーとは何度も意見の食い違いによる口論を交わしたことがあるものの、そのほかの考えに関しては、未だに解らないことだらけである。
考えなければいけないことが多すぎて、頭がパンクしそうだ。よろよろと立ち上がったエミヤは、精神統一とストレス発散、それと遅めの夜食も兼ねて、台所へ立つことにした。
「お、メシ作んの? 何か手伝えることあるか?」
「いや、一応君は来客者だ。そこでテレビでも見て待っていてくれ。何か食べたいものがあるなら、できる限りでのリクエストは聞くが」
「マジで!? オレ今すっげぇおじや食いてぇ!」
「おじや」
「シンプルイズベストって言うだろ。簡素な料理だからこそ腕の見せ所ってやつじゃねぇの?」
「はっ……言ってくれたな。覚悟していろ、今後二度と他のおじやを食えない身体にしてやる」
リクエストがあまりに予想外の方向過ぎて思いっきり動揺してしまったが、挑発されてしまったからには宣戦布告してやるより他あるまい。にや、と口端をニヒルに吊り上げてみせたエミヤに、ランサーもしたり顔の笑みを返してきた。そうやって、どんな態度が一番人を安らげることができるのかを即座に察知することができるから、あんなにも多くの人々から慕われるのだろう。
さて、冷蔵庫の中身の確認をして、調理器具……といっても鍋とまな板ぐらいしか使わないが、それらの用意をして。そういえば調味料が切れかけていたかもしれない、と何気なく調味料置き場と化している台所窓のほうを見遣る。
黒髪の彼女が、そこに居た。
「…ッッ!!!!」
咄嗟に息を詰めて叫び声を圧し殺したのは、それが自分の眼の錯覚である可能性を捨てきれなかったからだ。あの女性は確かに、間違いなく、生身の人間である。それが、アパートの三階に位置するエミヤの自室の、足場などどこにもない窓の外に"そのまま"立つことができるわけがない。
次に考えたのは生霊の可能性だ。エミヤは少なくとも彼女に存在を認識されている。だから、ランサーの友人の次なるターゲットとしてエミヤが選ばれ、こうして狙われている。どちらかといえばこちらの可能性が高いだろう。生霊というのは媒体を介さずとも自由に飛び回ることができる。大概は本人に生霊を飛ばしている自覚など無いものであるのだが、彼女に限ってはどう考えても意図的にやっていることだろう。
じり、じり、と窓から距離を取る。霊魂たる存在に物理的な距離感など意味を成さないことなど百も承知であったが、生物的本能として、身体が自然と後ずさっていた。そこで、後ろに下げた左足が不意に何か柔らかいものを踏みつける。
(…………白い……山茶花? なぜこんなところに?)
エミヤの踵の下には、足の下敷きになって潰れてしまった白い山茶花の萼が落ちていた。これはあの男の床下に散りばめられていた造花ではない、本物の山茶花である。確かに今の時期は山茶花の見頃であるとはいえ、こんな場所に一房だけぽつんと落ちているのもおかしな話であった。
『それ、きれいでしょう?』
耳元で女の声がする。
今度こそ大きく飛び退こうとした身体は、しかし、金縛りにあっているのかぴくりとも動いてくれなくなってしまっていた。眼鏡は外したまま、ランサーの居るリビングの机の上に置いてきてしまっている。視てはいけない。視てはいけない。窓からできるだけ視線を逸らし、必死に目蓋を閉じようとするエミヤの努力を嘲笑うように、女はやけに耳触りの良い声音で甘やかに囁きかけてくる。
『あのひとがくれたの。私に似合うからって。あのひとがくれたのよ。私を好きだからって』
す、と視界の端にまたも白い山茶花の房が移った。やわらと満開になったそれは、状況が状況でなければとても美しく見える。
だがその山茶花を持つ女の手、正確に言えばエミヤに見えている範囲の身体には、無数の"唇"が付いていた。糸を引きながら開き、何かを咀嚼するように閉じ、そしてまた開くのを繰り返している唇が、元の白い肌を埋め尽くすかの如く、あちらこちらで蠢いている。その内側に歯は見えず、人間の皮下組織らしき赤黒い血管と脂肪層までもが丸見えになっていた。
にちゃ、にちゃ、と絶えず鳴っている粘ついた水音は、身体に顕れている無数の唇がそれぞれ僅かな唾液と共に開閉を繰り返しているせいで聴こえてくるものだ。背筋から脳髄へと走り抜ける生理的嫌悪感。微かに足が震えるせいで、足元にある山茶花がまたしてもぐしゃりと潰れる。
『でも、ちがうの。ちがうのよ。私は愛してほしいの。あのひとは恋してくれたけど、愛してはくれなかった。あのひとも愛してはくれなかった』
エミヤの首へ、まるで恋人に甘えるような仕草で女が腕を回してくる。もちろん、その剥き出しの腕にもあの醜い唇が開いている。それがひたり、と肌に当たり、にちゃにちゃと蠢いてはエミヤの肌を擽る。
気持ち悪い。気色悪い。どんな言葉を使えば今のこの酷い感覚をうまく言い表せられるのだろうか。伝い落ちる冷や汗の一粒すらも吸い取られていく。
『だから、愛させてあげることにしたの。ね、みて。みて。ほら。きれいでしょう?』
抗いようのない力で首を捻らされ、否応なしに女と真正面から向き合う形となる。その顔にもいくつかの唇が開いては物欲しげにはくはくと開閉していたが、やがてそれらが元々付いていたはずの口許へと集まっていき、女はぱかりと口を開いた。生温くてかる舌の上、一房の花が咲いている。
それは、白と赤の入り混じったような色合いをした花弁を持つ、桃色の山茶花の花萼であった。
しかし、よく視てみれば花弁の色合いが少しおかしい。桃色、というには色が濁りすぎていて、まるで白い絵の具に無理矢理赤色を足して造り上げたかのような違和感を感じる。どちらかといえば赤と白のマーブル色であるといったほうが正しいだろう。
エミヤの夢にも山茶花が登場する。そのため、一時期は何かしらの意味があるのではないかと、山茶花の花言葉について調べてみたことがあった。山茶花そのものは「困難に打ち克つ」「ひたむきさ」、あるいは「理想の恋」なんて意味合いを持つ花である。その中でもまた色別に花言葉が分けられていた。
白い山茶花は「愛嬌」、「あなたは私の愛を退ける」。
赤い山茶花は「謙譲」、「あなたがもっとも美しい」。
そして桃色の山茶花は「永遠の愛」を示すものである、とされている。
女は、白と赤を混ぜ合わせて無理矢理桃色を造り上げようとしたらしい。しかし出来上がったのは永遠の愛を示す桃色ではなく、ただ混ぜ合わされてぐちゃぐちゃにすり潰された哀れな造形物だけだ。
『ねぇ、ほら、ほら、きれいでしょう』
何度も何度も同じ言葉を繰り返す女は、それがどれだけ歪なものであるのか気付いているのか。首に、腕に、身体中に開いた唇が悍ましく開閉し続ける。本日二度目の窒息感は、空気の重苦しさが原因か、絡みつく女の細腕のせいか。ぎゅうぎゅうと喉が激しく圧迫され、荒縄の擦れるような粗い痛みが首全体をぐるりと走る。女が言葉を発する度に、首を締め付ける感覚がどんどん強くなっていった。引き絞られる咽頭が潰れた蛙のように苦しげな嗚咽を漏らす。
『愛してほしいの』
『愛して』
『愛して』
『愛して』
『愛してよ』
『どうせあなただって誰にも愛されないんだから』
「ずいぶん好き勝手言ってくれやがるな」
ブラックアウトしかけた視界が、誰かの暖かな掌によって物理的に遮られる。誰のものか、など決っている。ランサーだ。台所のほうへ向かったまま戻ってこないエミヤを心配して来てくれたのだろう。今日は、いや、ランサーと出逢ってからずっと、彼には助けられてばかりいる。ぎぃ、と引き攣った悲鳴と共に女の腕が首から離れて、その拍子に崩れ落ちた身体がランサーのほうへと背中から倒れ込んでいった。
自分よりも重たいエミヤの身体をそれでも難なく受け止めたランサーが、耳許で「もう大丈夫だぜ」と囁く。女の声を耳にした時とはまったく違う、ふわふわとした安心感が全身を駆け巡っていった。いつの間にこんなにも弱くなってしまったのだろう。それともランサーが強すぎるのか。ああ、きっとそうだ。あれほど眩しい光を放つこの男が、こんなものに怖じるはずがない。
「らん、さ……」
「ん。無理しないで寝たいなら寝ちまえ。大丈夫だ、っつったろ」
「……あぁ……そう、だな…………」
エミヤの両目を覆うランサーの掌があまりに暖かいせいで、先程までの緊張が一気に解けたのだろう、ずん、と頭の芯が重くなっていく。今日は少し、疲れてしまった。立て続けに二つの霊障へぶつかった身体は限界を訴えていて、ランサーに身体を預けた体勢のまま、うつらうつらと優しい眠りの気配が忍び寄ってくる。とても、ねむい。ねむくてねむくて仕方がない。
ランサーにならば、構わないだろうか。コレを、コレでさえ、ランサーならばどうにかできてしまうだろうか。彼ならば…………信じてしまっても、いいのだろうか。
やがてとうとう耐えきれなくなった目蓋がとろりと落ち、呼気が深くゆっくりとしたものへ変わっていく。
『ったくよぉ。やっとこ見つけられたっていうのに、余計なモンばっかり引き寄せやがって』
『ア゛ぁあ、ア゛! いた、い゛だい!! やめで、あづ、あ、ア゛ァァアッ!』
『熱いか? だろうなぁ。今じゃこっちに腰据えて"狗神"なんてやってっけど、オレぁ元々戦神でな。神霊のモンに手ぇ出しといて、タダで済むと思うなよ』
『いァ、あ゛ぁァア゛! ゆるし、ゆるして、ぇ゛!』
『山神から寝床を譲り受けただけで、黄泉の番人もする予定なんざ無かったし、まして人身御供なんざまったく趣味じゃなかったんだがなァ……いや、神生何があるかわかんねーわ』
『ゆ、る……ゆるし……ごめ、な…………』
『あ? ンだよ、まだ燃え尽きてなかったのか。仕方ねぇなぁ』
『ァ……ア゛……ゆるし、て…………』
『───この一撃、手向けとして受け取るがいい』
遠くのほうで聴こえてくるなにかの声のうち、片方がぷつりと途絶えたのと同時に、エミヤの意識も底のほうへと沈んでいった。
『なぁ、エミヤ。お前はどっちのほうが好みだろうな。人間としての"ランサー"か? それとも神霊としての"オレ"か?』
"クー・フーリン"はいつもの人好きする笑顔とは違う、どこか冷ややかで、しかし思わず縋り付きたくなるようなぞっとする笑みを浮かべながら、眠るエミヤの首をそっとなぞった。霊に狙われる度に浮き出る索条痕。エミヤはそれを霊障によるものだと勘違いしているようであったが、実質、それもあながち間違いではない。だが正しくもない。
これは、首輪だ。この人間が己のものであるという証。所有印。
元よりこの身は、遠き地にて幾多もの戦果を挙げた猛々しい戦神であった。人間達の勝手な宗教的都合で神格を貶められ、異国の地へと流れ着く羽目になってしまったものの、故郷の賢者達が好んで住み着きそうな良い場所を見つけることができたうえに、そこに居た古き神から神威を譲り受ける形で霊格まで取り戻すことができたのだから、あまり悪いことばかりであったわけでもない。
自分が山神の跡継ぎになったことによって山の霊脈が安定し、結果山の麓にヒトが住み着くことになったのも、それらが人身御供を行いだしたのも計算外ではあった。しかし少なくともそのおかげで、クー・フーリンはこの人間と出逢うことができたのだ。久方ぶりの僥倖は予想以上の収穫を齎してくれた。
エミヤが此度の"花嫁"として降りてきた時、クー・フーリンはまた人間が要らぬ世話を焼いてくれやがったのかと辟易したものであったが、この人間は初めてれっきとした神霊たる己のことを真正面から見据え、認識してみせた。そのうえで手を差し伸べてきたのだ。
さみしかったら、いっしょにいるよ。と。
ずいぶん面白いものを寄越してきたものだ、と思った。これまでの魂は、どうせ口減らしの元捨てられたものだ。帰る場所も有りはしまい、と黄泉の者達に嗅ぎつけられるより前に輪廻の輪へと返してやっていたのだが、この人間は文字通り"花嫁"として迎え入れてやるのもいい。そう考えて肉体の『檻』ごと魂を娶り召し上げようと首輪を付けた矢先に、あの男が寸でのところで助けにきてしまったのだ。
クー・フーリンは一瞬、それを殺してしまうかどうか迷ったのだが、結局は一度だけ逃してやることにした。どうせ魂はもう捉えている。ならばわざと現世に放って、その後を追いかけてみるのはどうだろう、と。
"狗神"の本体は今も湖の底にて霊験あらたかな山の平穏を護っている。それはそのままとして、クー・フーリンは試しに一つの分霊を生み出し、ヒトの女と交わり、その子として宿り直させる一種の"転生"を行った。結果、なんとそれは現し世を自由に動き回れる『分身』となり、人間として、人間らしく育っていった。
そうとも。"ランサー"には己が冥婚の末に産まれた黄泉子である自覚も無いし、自らの魂が"狗神"の分霊であることも知らない。しかしそれでも"ランサー"は無自覚的にエミヤのことを追いかけ続け、隣に捕まえようとした。振り下ろした穂先は無事エミヤの心に少しずつ穿ち傷を付けていっているようで、あれほど人間不信であったはずのエミヤが今こうして"ランサー"の真横ですやすやと呑気に眠っているのが何よりの証拠だ。"ランサー"の近くなら安全なのだと、心より先に魂のほうが覚えてしまったのかもしれない。それはそれで好都合だが。
エミヤは実に聡い。そのうち、"ランサー"が何であるのかに気付き、"クー・フーリン"の存在を知り、"狗神"のことを思い出すだろう。その時まで、まだ狩りは終わっていない。いいや、その時が来たところで、きっとエミヤは逃げ出したりなどしないだろう。
"クー・フーリン"は今度こそ柔らかな慈愛に満ち溢れた笑顔を浮かべ、眠るエミヤの白い睫毛が微かに震えるのを見守る。いとしい、いとしい、オレの『かごめ』。
いつかその身を喰い尽くす日を思い描きながら、彼もまた眠りに就いた。
ゆれる。ゆれる。
自分よりも遥かに背が高いところにある、きれいで真っ赤な山茶花が、ゆれる。
己が閉じ込められている檻の向こう側、揺蕩う山茶花はまるで手招きでもしているかの如く、ふらふらと水中を彷徨っている。
不思議なひらめきを慈しみたくて檻の隙間へ手を伸ばすと、幼子らしい小さなエミヤの指先を、やわらかな掌がそっと包み込んでくれた。
いつもの夢だ。