「地上の楽園は、この世の地獄だった」北朝鮮に渡った日本人妻の慟哭、3年で帰国のはずが40年にわたる苦しみ… 金総書記に8800万円の賠償命令、異例判決が認定した「帰還事業」の実態
▽「なぜ北朝鮮に来たの?」答えられなかった問い 1993年、夫は結核でこの世を去った。時を同じくして大規模な飢饉が北朝鮮を襲い、配給は一切途絶えた。極限状態の中で多くの市民が生活のよりどころにしたのは、操業できなくなった工場の機械を壊して、中にある銅線を中国に売りさばくことだった。全ては生きるため。子どもたちと何度も街に繰り出し、密売に手を染めた。 ある日のこと、移動中の列車で銅線を持っていたことが警察官に見つかり、車掌室に連行された。しばらくすると赤ん坊を背負った若い女性が入ってきた。女性はひどく憔悴した様子で泣くばかりで、赤ん坊は身じろぎもしない。終点駅について警察官が「子供を下ろせ」と命令した。机の上に横たえられた赤ん坊を見て、思わず息をのんだ。肌着は真っ赤に染まり、縦に裂かれた腹部には銅線がぎっしり詰まっていた。女性は、餓死したわが子の遺体を使ってでも生き延びようとしていたのだった。「この国では、ここまでしないと生きていけないのか…」。その場は解放されたが、絶望的な気持ちにのみ込まれて、ただ体が震えた。
その後も、明日をも知れない生活は続いた。三女は嫁ぎ先で餓死し、長女と次女は銅線盗の罪で刑務所に送られた。「お母さんは、なぜ北朝鮮に来たの?」。捕まる直前、30代になっていた長女の問いが斎藤さんは今でも忘れられない。「この子を連れて行くと決めたのは私。何も言えませんでした」。その後、人づてに長女は獄中で亡くなったと聞いた。次女の行方は今も分からない。 ▽「日本に行ってみないか」利用された望郷の思い それからまた数年がたった頃、日本からの帰還者を探しているという中国人ブローカーに声をかけられた。「日本に行ってみないか。金を稼いで仕送りすれば家族を楽にできる」。40年間、一度も帰れなかった日本の土を踏める。望郷の思いは日に日に募り、ついに脱北を決意した。 2001年、古タイヤを浮輪代わりに国境の川を越え、中国へと渡った。落ち合った別のブローカーは日本への渡航について、ある「交換条件」を持ち出してきた。「自分の妻をあなたの娘として連れて行ってほしい」。断ることはできなかった。その年の8月、斎藤さんは60歳で帰国を果たした。