サッカー選手はたくさんの人に支えられている
ストライカーのゴールは
DFがボールを奪いMFがパスを繋ぐことで生まれる
だがそれは試合の90分間だけの話
ピッチを離れた残りの時間は周囲の人が見守る
特に家族の力は大きい
配偶者の佳代子さんに包まれてきたと言えるだろう
現役時代は結婚した後も離ればなれの時間が長かった
15歳のときからモデルとして活躍する佳代子さんは
どうやって出会い結婚に至ったのか
そしてどんな結婚生活を送っていたのか
ご本人にお勧めの店とともに語っていただいた
「ボーッとした千葉の田舎の子」がCanCamモデルに
夫との出会いって、最初はライターの方の紹介だったんです。
私って、今でもそうなんですけど、ずっとボーッとした子だったんです。中学3年生の時に美術の先生がコンテスト(国民的美少女コンテスト)の紙を持ってきて、「これ、あなた出しなさい」と言ったんですけど、そのときはピンとこないで「イヤだ先生、何言ってるの」っていう感じだったんです。
でもその1年後の高校1年生のときに、環境問題のことについて調べましょうという課題が毎月出ていて、新聞を読んでいたら同じコンテストの広告が出てたんですよ。「あ、これは先生が言ったやつだ」と思ってよく読んだらコンテストには年齢制限があって、私がコンテストに出られる最後の年だったんです。
「じゃあ出してみようかな」って軽い気持ちで応募したんです。そうしたらモデル部門賞をいただいて。その時にもうコマーシャルが決まってたのかな。
私が通ってた学校はとても厳しくてアルバイトが禁止だったんです。コンテストに出る前に母に相談したら、コンテストは夏休みの間に予選と本選があるから、出ちゃってから学校に報告した方がいいっていうことになって出てたんですよ。
それで先生に報告したら、テレビ放送もあったからもう先生も知っていて。先生は「将来蕎麦屋さんになりたい人が蕎麦屋で修行したいと言ったら学校としては応援する。君の場合はそれがモデルなのかもしれない」って言ってくれて、特例として認めてもらったんです。
今はモデルってたくさんいるけど、その時はそんなに人数もいなかったし、千葉でそういうことをする人もあまりいなかったので認めてくれた部分もあったと思います。
そもそもモデルっていう仕事があることや、どんなことをやるかなんてまるで知らないくらい、ボーッとした千葉の田舎の子だったんですけれど、そういうきっかけでモデルという仕事を学生をしながらやり始めて、そこで人生がガラリと変わりました。
「プチセブン」というティーン雑誌の表紙をやらせていただいたり、「CanCam」に載せていただいたり、コマーシャルに出たりと、それからは仕事をしながら学校に通ってたんです。一生懸命楽しくやってました。
サッカー選手はちょっと遊んでる感が出てる人たちがいっぱいいた
当時、夫は1996年アトランタ五輪に向けた合宿でいろんな国に行ってました。サッカーって練習時間がそんなに長くなくて、ホテルに缶詰になる時間がたくさんあるじゃないですか。それでみなさんゲームとか雑誌とか持ち込むんですけど、本の中に男性誌ばかりじゃなくて、「プチセブン」や「CanCam」があったらしいんですよ。
ちょうどそのとき、サッカーだけじゃなくて「プチセブン」の仕事もしているライターの方がいて、夫はその人に「この子を紹介して」って私のことを言ったらしいんです。私もそのライターさんと仲良しで、「今度ごはん食べに行こうよ」って誘われて、そのときに知り合った感じですね。1995年で、夫はジュビロ磐田にいたときでした。
でも私サッカーあまり知らなかったんです。家は野球が大好きで、サッカーはあまり見てなくて。ルールもボールをゴールを入れることぐらいしか知らなくて。
それに当時、雑誌がやっている忘年会にいろんな芸能人やサッカー選手が来てたんですけど、サッカー選手はちょっと遊んでる感が出てる人たちがいっぱいいて。だから会った時に「サッカー選手だから気をつけなくっちゃ」って思ってました。
夫はよく東京にいましたね。私はサッカー選手っていろんな所に試合に行くからそうなのかなって思ってましたけど、後から聞くとそうじゃないみたいですね。夫からよく「東京にいるからご飯食べようか」って連絡がありました。その時は時間があれば東京に来る感じだったのかな。
付き合い始めたのは、何回かご飯を食べたりしてる間に「付き合おうか」っていう感じになったからです。1996年に夫が清水エスパルスに移籍したころだったと思います。1997年にはジェフユナイテッド市原に移籍したんですけど、いろいろあった中で市原を選んだんで、私のためじゃなかったと思います。
あとになって夫はメディアに対して尖ってるところがあったって聞いたんですけど、そういうところがあるって知らなかったです。それに私、サッカーのことがあまりわからなかったのでサッカーの話をしなかったですし。選手だからプライベートは休むのが基本で、一緒にのんびり過ごしてました。でも全然尖ってなくて普通だったと思います。
むしろ優しい一面があると思ったんですよ。お年寄りとかちっちゃい子に対してとても親切だったんで。それから付き合いだしたころだったか、ものを受け取るときにひったくるような取り方をしたんで「そういう取り方をしちゃいけないんだよ」と言ったらちゃんと直してくれたから、言えば改めてくれるんだと思って。
だから尖った感じは私が感じてなかったんですけど、今考えると不良少年だったのかもしれないという部分はありました。でも、そんなに気にならなかったですね。
父は「あぁ、サッカー選手なのか」とショックを受けた
私、結婚相手を何人の中から選ぶとかそういう感覚がなくて、付き合っててそのまま自然な流れで結婚するんだろうって思ってたんです。大人になって「結婚相手の条件」を話す人がいて、それでそうやって選ぶ人がいるんだっていうのが分かったくらいで。
だから私は付き合ってて「結婚して」って言われたんで、「じゃあ結婚しようかな」って。そこもボーッとしてるんですよ(笑)。あんまり他のこと知らなかったんで。
それで夫を両親に紹介したんです。最初は市原にいた1997年に父を「サッカーの試合見に行こうよ」って誘って一緒に行って、試合中に「あの人と付き合ってるんだ」って教えたんです。
私がそう話したときに父は「ふーん」って言ってたんですけど、「あぁ、サッカー選手なのか」ってショックを受けたみたいで。父も弟も野球が好きで、弟は今も千葉西シニアというチームで監督をしていて、父が事務局長で手伝っているくらいなんですよ。それに、サッカー選手には遊び人というイメージもあったし。
サッカーって練習時間が短くて、髪の毛も伸ばしててチャラチャラしてるっていう印象を持ってて。野球部は坊主で練習はしっかりして挨拶のときに握手とかしないみたいな、キリッとしたイメージが昔はあったから。だからサッカーの印象はあまり良くなかったみたいで。
かといってすごく反対されたわけでもなくて「そうか……」っていう感じでした。1998年に夫は市原から磐田に戻って、試合の出場機会がなかったりして大変だったらしいんですけど、私、サッカーってあまり分からないから。それに活躍してるから結婚するとか、活躍してないから結婚しないというわけじゃないでしょう?
それで1998年の年末にウルグアイに2人で旅行に行って、夫の向こうの知り合いに教会を頼んでいただき、1999年にその知り合いや向こうの友達に来てもらって、ちっちゃな規模で挙式しました。帰国して日本ではちょっとしたパーティーをやったんです。
それで結婚したんですけど、1998年に夫は磐田との契約が終わっていて、今後のチームをどうしようかってことになったんです。夫はヨーロッパでプレーするということで海外に行って、ドイツに行ったりして最後にクロアチアのチームが決まりました。だから結婚した途端に別居でしたね。
私は父が単身赴任で出張が多い会社にいたので、子供のころから母と弟と3人でいることが多くて、父親が仕事でいないという生活に違和感がなかったのかもしれないです。それに私も仕事でバタバタもしていたし、付き合っていたときもずっと遠距離だったから、別居してても距離はそんなに気にならなかったです。
それに私「結婚生活はこうだ」というのを思い描いてなかったのかもしれないです。「なるようになる」とか思ってたのかな。仕事も影響してるかもしれないですね。モデルの仕事って1つのいい写真を撮るためにたくさんの大人の人がとても一生懸命にやって、なんとか作っていくっていう感じで。私はそれがすごい好きだし楽しかったんですよね。
ただ、制作過程って「普通に考えると違うよね」っていうことがあったりするんですよ。風邪をひいて熱があっても仕事をするとか、何があっても仕事をベストにとか。ショーだったら、もし何か落としちゃっても臨機応変にやっていくというのがあって。目の前のやらなきゃいけないことをやるという環境に16歳ぐらいから慣れていたから、「結婚生活とはこうじゃなきゃいけない」というのがなかったのかもしれないですね。
だけど、ときどきヨーロッパには行ってました。最初にドイツでテストを受けてる時にも行ったし、クロアチアに決まったあとは、クロアチアに1ヶ月行って1ヶ月戻って仕事をして、クロアチアの後にスイスに行ったときは3ヶ月行って、3ヶ月帰ってきてとか、そうやってました。
夫が2000年にヨーロッパから戻ってきて湘南ベルマーレに入って、そのときやっと一緒に暮らすようになりました。2人で住んでみて特に大変とも思わなかったし、のんびりしてました。選手だと時間が結構ありますでしょう。だから振り返ると私たちよく散歩してたなって。平塚に住んでた時もお散歩してました。そう言えばクロアチアへ訪ねたときもよく散歩してましたね。
湘南のときもチームの状況は大変だったと思うんですけど、私は試合とか順位とか全然見ないんで。だから今、思うんです。私がもっとストイックにお尻叩いてたら、もっといい選手になったかもしれないなって(笑)。
夫は湘南を辞めた後、一度ウルグアイに行って、戻ってきて2001年にアビスパ福岡に入ったんです。私の両親の実家は北九州で馴染はあったし、福岡って美味しいものがとてもたくさんあって、私は福岡ってすごくいいところだったと思ってるんです。楽しかった思い出がたくさんあって。千葉の実家と行ったり来たりしながら仕事をして、飛行機のマイルも貯まるし何かとても楽しかったです。
それで福岡を辞めた2002年、夫はもう一度ウルグアイに行きました。ウルグアイに行くことになったときに長女の妊娠がわかって、お腹出てきたら仕事できないということになったんです。
「じゃあ仕事できないから、後から行くね」みたいな感じで夫を追ってウルグアイに行ったんですよ。よく考えたら大変な時期だったんですけど、夫も私も子供というか。子供ができて自然に生まれるとしか考えてなくて。今だったら「子供を育てるのは大変だ」って思うんでしょうけど、そのときは普通のことだから、ぐらいにしか考えてなかったですね。
それでウルグアイで妊婦健診に行ったら、日本で受けた検診の機材とウルグアイの機材がまるで違って。日本だと3Dで見られたんですけど、向こうだと白黒の平面で、それって私がちっちゃいころにあったような機材だったんですね。
たぶんちゃんとしたいい病院だったと思うんです。今のウルグアイはよくなったんですけど当時はそれくらい差があって。それでもし生まれる時に何か不具合があって、助かるものも助からなかったらどうしようと思って、日本に帰って生むことにしたんです。
そのころ夫は、プロとしてウルグアイのチームでプレーできると思ったら実は違ったということでショックを受けてたみたいなんですけど、その話を私は覚えてないんです。きっと夫は私に私にショックを与えないよう、言ってなかったんじゃないかって思います。そして指導者の資格を取るために一生懸命勉強しているということだったので、私もそれでいいんじゃないかと思ってました。
子供が生まれるとき、夫は一度帰国して、すぐにまたウルグアイに戻ったんです。ところが夫が通っていた学校でストライキが始まって、資格が取れないかもしれないっていうことになって。
私は結婚生活の中でそのころが一番不安だったみたいで。生まれたての長女がいて、私は仕事に復帰できるかどうか分からなくて、夫もどうなるか分からなくて。「どうしよう」とは思ってなかったんですけど、過呼吸になったことが何回かあって、あとから「あれはストレスだったんだ」って思いました。
でもその後、私がまた働けるようになって、母も子供の面倒を見てくれてたので安心して仕事できました。2003年に夫が日本に戻ってきて沖縄かりゆしに入団した後は、何週間か沖縄に行って、また戻って仕事をするというペースになりました。そのころは、もうやれることをやるしかないと、一生懸命仕事をしてました。
でも仕事はやりがいがあるし、子供はかわいいし、沖縄もいいところだし、たまに美ら海水族館に行ったりして。だから沖縄も楽しかったんです。沖縄では大きなお弁当2つ買ってきて子供と3人で分けて食べてたとかそういうこともありました。当時は夫より私の方が稼いでいたかもしれないんですけど、別れるとか、そういう選択肢は一切なかったです。
2005年、夫が現役を辞めた後は、私の実家に同居したんですよ。そうするしかないというか、私が仕事をする間、子供を見てもらえるのでそうするのが楽というか。夫が私の実家に一緒に住むっていうのはびっくりというか、よく夫も頑張ったと思います。
夫について困ったことは……出産して子育てしているとき、私は仕事に影響しないようにしたいと思ってたんですけど、夫はあまり理解してくれないというか。子供がいても父親の感覚じゃなかったというか、父親になるのに時間がかかりましたね。そのころは「まったくもう!」と思ってました。
サッカー選手を夫に持って、私はとても面白かったです。私は特に何もしてなくて、ただ応援してただけだと思いますし、他の人と違うのはいろんなところへの引っ越しが多かったぐらいですけど、でも自分でもいろんなところに行って面白かったと思うので、本当に楽しかったです。
そして夫は昔、いろんな失敗があってみなさんにご迷惑かけてたのかもしれないと思います。ですが、自分が反面教師になった経験があるから、若い子たちにはこういう指導をしなきゃいけないということに気づけたと思うし、こうしてれば良かったという反省が、今の仕事に生きてるんじゃないかと思いますね。
娘はね、もう2人ともサッカーやってないんです。小さいころはやってたんですけどね。だから2人がサッカー選手になることはもうないですね(笑)。
料理はなるべく手作りを心がけている
私は普通に料理を作るだけでそんなに得意料理とかないんですよ。でも子供たちから「焼売はどこよりも美味しいから得意と言えばいいのに」とそそのかされたので、焼売にします(笑)。
それから「なるべく手作りしようと心がけている」という感じですね。市販のものも使うけど、簡単にできるものは手作りしたいと思ってて、マヨネーズはオリーブオイルから作ったり、パンとかピザとかは自分で焼いたりしてます。それからお味噌とか梅干しとかも作ります。体にいいものを研究してる感じですかね。
料理をやり始めたのは結婚してからですね。あと友達に紹介してもらったお料理教室が世界各国のお料理を教えてくれるので楽しくて、レシピを引っ張り出して今でも作ったりしてます。
おすすめのレストランは、私たちの事を振り返ってよく行ったのは白金の「金竜山」という焼肉屋さんですね。夫が選手のときから通っていつもパワーをもらって帰ってくるという感じでした。でもあそこは有名だし。
私の個人的なお気に入りとしてご紹介したいのは、恵比寿と渋谷の間にある並木橋の「アンティヴィーノ」というイタリアンレストランです。季節のものを美味しく出してくれるんです。お店のおすすめ料理、牡蠣とかボルチーニとか、そのときの旬のものを頼んでます。
あとは接客がすごく心地よくて。ヨーロッパのいろんなとこに行きましたけど、そのことをすごく思い出させる雰囲気があります。白いクロスを見るとヨーロッパを思い出すんですよ。とても居心地が良くて好きなんです。
今の夢はリバーサーフィンで波に乗ること
モデルの仕事は16歳の時からですから、大変というよりもずっとそういうものだということでやってきてます。他の人から見ると、暑い時に厚い服を来て撮影するとか、そういうのは大変そうに見えるみたいですけどね。
着物の仕事もすごく好きなんですよ。立ち方に特徴があって、体重のかけ方とか言葉にはできないんですけど、振袖の仕事がすごくたくさんあって身についちゃってるから。カカトを上げたほうがいいとか、裾の中で足を曲げた方が細く見えるとか、いろんなことがあるんです。立つときに不安定になりがちなんですけど、やっているうちに出来るようになりました。
そして私、一昨年からサーフィンにはまってるんです。プールのサーフィンです。
あるとき何の気なしに大井町のプールに行って、そこでサーフィンを経験したんです。プールなのでバーを立てて、それにつかまりながらボードの上に立つんですけど、その日のうちに波の上に立てちゃったんですね。その自分が立ってるっていう感動と喜びが忘れられなくて、そこからハマっちゃったんですよ。
今の夢は「プロサーファーになること」って言っちゃおうかなと思って。嘘ですけど(笑)。まだすごい下手くそなんですけど、「リバーサーフィン」というのがあって、それができるようになりたくて。川の水でサーフィンするんですよ。岩の影響で波というか流れが出来て、それに乗るんです。いま一生懸命やっていて、本当の今の夢はリバーサーフィンでちゃんと波に乗れることです。
サーフィンって最初の日は首から足首まで筋肉痛になったんですけど、体幹を使うのでいい運動になります。ダイエットには運動がいいと思いますし、それに筋肉は鍛えないと衰えますからね。おすすめです。ぜひ。
紹介したお店
山本佳代子(松原佳代子) プロフィール
1991年、第5回全日本国民的美少女コンテストでモデル部門賞を受賞し、芸能界デビュー。「プチセブン」「CanCam」の専属モデルを経て、現在も様々な媒体にモデルとして登場する。夫は松原良香。1975年生まれ、千葉県出身。
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。
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