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陽炎稲妻水の月/Novel by 闇鍋ジョージ

陽炎稲妻水の月

8,592 character(s)17 mins

フォージャー家(ユーリくん含む)と〈オレ〉と〈ロイド〉さんの話。
〈オレ〉くんの心理が薄暗くて、プールや温泉のロッカー室のような、足裏がぞわっとくる感じ。
最後はほんわかするけれど、大分遠回りします。

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 夢をみる。
 クソみたいな夢ばかりだ。
 夢の中のオレはひたすら爆撃から逃れ、ドブネズミ生活を送っていた。
 子供はリスク回避のために集団で行動をする。まるで群れをなして肉食獣から逃げ回る草食動物のようだ。
 時には食料を奪い合うライバルともなるが、同時に大切な仲間でもあった。
 ケガや病気をすれば手当ても看病もするし、死ねば悲しい。死ぬやつがあまりに多すぎて、随分早いうちに涙は出なくなってしまったが。
 あのころ、明日のことすら考えたこともなかった。瞬きひとつ後の世界ですらわからなかったから。
 気がついたら話していた相手が瓦礫の下で死んでいて、気がついたら何日かぶりにありつけたカビの生えたパンが誰かにかっさらわれていて、気がついたら敵兵に銃撃されていた。
 そんな世の中で未来を思い描くのは無駄以外のなにものでもなかった。
 そんなヒマがあったら、新たな食料を探すべきだったし、少しでも安全な場所へ逃げるべく足を動かす方がずっといい。
 そうやって生きてきたことを、夢をみる度に思い出す。
 オレは眠るのが好きじゃない。〈ロイド〉になってから、より一層鮮明な夢をみるようになって、睡眠時間はどんどん減っていった。
 爆撃も餓えもない、こんなにも穏やかな日常を送っているというのに。
 クソみたいな過去は、どこまでもオレに付きまとう。
 
 水でも飲もうかと部屋を出たところで、リビングが明るいことに気付いた。
 ヨルさんだ。
 時間は深夜3時。いつもの彼女ならとうに寝ている時間。
 歩み寄ってみれば、彼女は器用に棒針をあやつり、編み物に勤しんでいた。
「ヨルさん、精が出ますね」
 声をかけると、ヨルさんは顔をあげて苦笑いだ。
「こんばんは、ロイドさん。
 明日……というか、もう今日ですね。ユーリにプレゼントするつもりなんですけど、終わらなくて」
 持ち上げて見せてくれたのは袖だろうか。二本のケーブル編みを中心に、細かな模様がびっしりと施されている。
「力作ですね」
「ふふ、針仕事はちょっと得意なのです!
 ……でも、ユーリが来るまでに仕上がるでしょうか」
「もし間に合わなかったらアーニャと一緒に外へ連れ出しますよ」
 憂い顔がぱっと輝くのを見届けてから、オレはキッチンへ入ってコーヒーを淹れはじめた。
「本当はもっといいものを、といつも思うんです。これだって一昨年編んであげたものをほどいて編み直したものですし。もう何年前に買った糸かも忘れてしまったぐらいです」
 ヨルさんがほどいた毛糸を、アーニャが突き出した二本の腕に巻きつける。大きな輪になった毛糸の束を取ったヨルさんが、ぐつぐつと沸いたお湯の蒸気にそれを当てると、細かく縮れていた毛糸がまっすぐになっていく。
 毛糸がかわいたら、またアーニャの腕にかけて、今度は毛糸玉に巻き直す。
 糸を引っ張られるのと同時に片腕ずつ上下に動かすとスムーズに糸がほどけていくのだと言われて、アーニャが体ごと前後左右に揺れていた。
 昔はユーリに手伝ってもらったんですよ、と目を細めるヨルさんは、これ以上なく幸せそうな顔をしていた。
「ユーリくんにとっては何よりも嬉しいプレゼントだと思いますよ」
 ぽたぽたと落ちていくコーヒーを見つめながら言うと、ヨルさんの照れ笑いが聞こえた。
 誕生日プレゼントのリクエストをきかれたユーリくん本人が、セーターを持参して編み直してほしいと言ったのだ。金で買えるものは自分で買うから、と。
 なるほどその通り。大切な人からの手編みのセーターなんて、金で買えるもんじゃない。
 揃いのカップにコーヒーをいれる。オレの分にはたっぷりのミルク。
 ヨルさんの前に置けば、目元を緩ませて微笑んでくれた。
「こぼさないように気をつけて下さいね」
「はい! ありがとうございます、ロイドさん」
 輝くばかりの笑顔に頷き返して、コーヒーを手に部屋へと戻る。
 誕生日か。
 オレはいつ生まれたんだっけ? 今何歳だろうか。そんなことすら忘れてしまった。
 〈ロイド〉の誕生日は、ふたりと出会う前に済んでいた。祝われる姿が想像できなくて……それ以前にふたりから祝われるという前提で物思いに耽っていた自分に驚く。
 任務とは関係ない、未来のことを考える時間は、今でもやはり無駄だ。ひとつひとつ、目の前の仕事を確実に。そうしなければ昔も今もオレに未来などないのだから。
 本棚から数冊一気に本を取って、テーブルに置く。
 パララと紙が立てる音を聞きながら、ゆっくりと本の世界へと潜った。
 
  
「なんでボクが自分用の酒を買いにいかなきゃいけないんだよ」
 前を歩くユーリくんが、ぶつくさと文句を垂れている。
 結局ヨルさんのセーターは間に合わず、アーニャとふたりでユーリくんを連れ出した。もちろんユーリくんはこの通りの怒りっぷりだが、このあと極上のひとときが待っているのだから、この程度の我慢は我慢とも言えないのではないだろうか。随分と贅沢に生きてきたようだ。
「ちち、おじのこときらいか? 」
 手をつないでいたアーニャに突然そんなことを訊かれて、オレは瞬きをした。
 ものごとに優劣をつけることはあっても、好き嫌いで判断をする感覚はずいぶん昔に忘れていた。
「おじはちちのこと、きらいじゃない」
「そうか?」
 とてもそうとは思えないけど、と前を歩くわかりやすすぎる背中を見る。
 嫌い。……嫌いか。
 オレの何がアーニャにそう思わせたんだろうか。表情も声色もうまく作っているつもりだ。オレは良き義兄であるように振る舞っている。
 ユーリくんは小舅根性丸出しでオレにつっかかってくるのだが。
 結局オレが何をしようと、ヨルさんの夫である限りはオレへの態度は変わらないのだろう。それなのにあれこれやってしまうのは、秘密警察であるユーリくんをうまく取り込んで情報を得るためだ。
「ちち、まとはずれ」
「どうした。機嫌悪いのか?」
 ケーキ作りのときにクリームを分離させたのを怒ったのがまずかったか?いちごの並べ方を算数にたとえて指示したのが気に障ったのか?
 やたらつっかかってくるアーニャにそうたずねてみれば、両手を広げて抱っこをねだられる。
 そろそろそんな年でもなかろうにと思いながらも抱き上げれば、アーニャは同じ高さになったオレと鼻を突き合わせて睨んだ。
「きげんわるいのは、ちちのほう」
「いや、全然」
 本当に何を言われているのかわからない。感情のコントロールは技術として身に付けている。それに追いつかないような事態……たとえばアーニャの面接試験やら壊滅的なテストの点を見たときのような事が起こりでもしなければ、乱れないようになっている。
「コラそこォ! ボクが姉さんとイチャイチャできないのに、親子でイチャイチャするな!」
 振り返ったユーリくんに、びしぃ、と指をつきつけられて、首を傾げた。
 アーニャとイチャイチャしてるように見えるのか。一方的に謂われのない指摘を受けているだけなのだが。
「おい、ロッティ。ワインはどこで買うんだ」
「高台の公園の近くにあるケーキ屋の横ですよ」
「地味に遠いな」
「がけからとびおりるとはやい」
「ハァ?」
 アーニャはいまだに “くさいめし” 事件がお気に入りだ。
 そういえばあのあと、財布をとどけたときに “すてきな家族” だなんて言われたっけ。そう見えたのなら、この作戦はうまくいっているということだ。
「ワインを取り寄せていたんですよ。本当は先週には届いている予定だったんですが、船便が遅れたそうで」
「……ああ、なるほどね」
 そうそう、東がいらんちょっかいを仕掛けたせいで一時的にフーガリアへの海路が塞がれたのだ。自業自得なのでおとなしく納得してほしい。
「おとりよせのさけ、おいしい?」
「どうかな。人によって好みがあるんじゃないかな」
 公園横の階段を降りながら答えると、隣でユーリくんがふんと鼻を鳴らした。
「一緒に飲む相手によるんだぞ、チワワ娘。姉さんと飲む酒なら、どんな酒でも極上。よけいなヤツがいると半減するけどな!」
 ほらな、オレが一方的に嫌われている。ハハハと苦笑いをしたところで、アーニャのパンチが炸裂した。
「は?」
 インパクトの直前で手のひらで受け止めたユーリくんが、体勢を崩してぶら下がっているアーニャを呆然と見る。
 オレも驚きのあまり、しばらくアーニャを逆さ吊りにしたままにしてしまった。
「おじは おじ! ちちは ちち! はは は ふたりともだいじ! なかよくしろ!」
「え? あ。あぁ」
 ユーリくんが思わず反射で、という感じで頷く。
 オレは逆さ吊りのアーニャを抱え直しながら、内心ため息をついた。
 どんなやつだってふたりの間には割り込めやしない。そんなこともわからないのか、と。
「ハハハ、言われてしまいましたね」
 それにオレはこの中で誰よりも大事だと言われるような資格のない存在だ。
 ドブネズミ生活でイヤというほど思い知らされた。
 オレには価値がない。名前も家族の記憶も、人としての良心もない。
 今も〈黄昏〉としてチヤホヤされているが、所詮ただの駒で、パーツだ。よく動くから評価されているだけで、止まれば終わり。
「おい、チワワ娘。なんでオマエが泣くんだよ! ボクはケンカなんかしてないだろ?」
 ユーリくんに言われてアーニャを見ると、アーニャがぼたぼたと大粒の涙をこぼしている。
「アーニャ、ちちのことすき。ははもおじもすき。みんななかよしがいい」
「わかったよ、わかったって。泣くなよ、ホラ」
 ユーリくんがハンカチでアーニャの涙をふく。
 色褪せたハンカチ。縁取りはユーリくんの瞳と同じ赤い糸で、少し斜めによれたYのイニシャルがちらりと見えた。
 ヨルさんの手作りか。大分くたびれている。一体いつのものだろうか。
 オレが持っている一番古いものはなんだっけ。ほんのわずかな持ち物も〈黄昏〉になるときに全部燃やしたからな。銃あたりかな。
「びぇーーーーーーー!」
 声まであげはじめたアーニャに、男ふたりであたふたする。まるで誘拐犯みたいじゃないか。
「アーニャ、泣くな。ユーリくんとボクは仲良しだからな。だよね、ユーリくん?」
「お、おう……ボクもロッティと、その、なっ仲良しだぞ!」
 お互い大変白々しい。なんだこの茶番は、と内心ため息をつく。
「やくそくか? ずっとなかよしでいるか?」
 ズビビと鼻をすすりながらアーニャが聞いてきた。もとよりオレはそのつもりだがな。ユーリくん次第だが。
「ちかいの ゆびきりげんまんだ」
 ずいっとアーニャが小指を出してくる。はいはい、という気持ちで指を絡めてからユーリくんを見ると、唇をとがらせて、頬を赤らめながらそろそろと小指を差し出している。
 素直だなあ。大切に育てられたんだろうな。アーニャもヨルさんに育てられたらこんな風に育つだろうか。……秘密警察になるのは勘弁してほしいが。
 アーニャとふたりでユーリくんの小指を迎えにいって、ぶんぶんと上下にふる。
「ゆびきりげんまん、うそついたら、ははが “すぺさるぱんち” か~ます♪ゆびきった!」
「はっ?」
「えっ?」
 往来の真ん中で交わされた約束は、とんでもない条件付きだった。
 ヨルさんのパンチは危険だ。それがスペシャルになったら、回避できるかどうか怪しい。当たったら錐揉みしながら壁に激突だ。
「ふふ、やくそくはぜったいだ」
 オレとユーリくんは激しく首を縦に振って、和解したのだった。そもそもケンカなどしてないが。
 
 
 家に帰れば、ヨルさんが満面の笑みで迎えてくれた。パチンとウィンクをされて、セーターが無事完成したことを知る。
「「「おたんじょうび、おめでとう!!!」」」
 パーティー……というにはいささか人数が少ないが、三人が声を合わせて祝いの言葉を述べて、ユーリくんの誕生会は始まった。
 壁にはアーニャとオレが作った色とりどりのガーランド。膨らませた風船は、アーニャがつくったものだけ、ほぼ原形のままだ。ユーリくんが頭にかぶっている紙の冠は、ヨルさんのお手製。幼少期からずっと続く、誕生日のマストアイテムなのだという。
 解毒剤を仕込んだ料理のおかげで二人はアルコールを分解して正気を保ったまま過ごしてくれている。
 多少見目が悪くなってしまったバースデーケーキは、粉砂糖でそれっぽく誤魔化した。
 生クリームが分離したせいで舌触りはよくないが、スポンジとイチゴはうまい。
 食事とケーキの時間が終われば、プレゼントタイムだ。
 ヨルさんが仕上げたセーターを見るなり、ユーリくんは声をあげて号泣だ。
 これは感動する。一目見ただけでわかる、手の込んだものだ。
「それから、ロイドさんとアーニャさんにもプレゼントがあります!」
 は? とユーリくんの低い声が聞こえたが、黙殺した。
「大丈夫ですよ。ユーリにも、それから私にもあるのです!」
 ヨルさんはソファの後ろから小さな紙包みを四つ取り出すと、ひとりひとりに手渡した。
「はは、あけていい?」
「もちろんです!」
 わくわく顔のアーニャにヨルさんが頷くと、アーニャが豪快に包み紙を引きちぎった。
 中から現れたのは、小さく畳まれた布。
 広げてみれば、ピンクが基調のチェック柄の布にAの文字が刺繍されている。
「アーニャのはんけち!! アーニャのA!!」
「ふふ、そうですよ。アーニャさんのAです。ユーリもロイドさんも開けてみてください!」
 ユーリくんが慎重に、でもありえない手早さで包みを開く。現れたのはYの字が刺繍された紺色のチェック柄。
 ヨルさんは赤いチェック柄にやはりY。
 三人の視線が集まって、初めてオレは自分の手におさまった紙包みを見た。
 三人揃いのハンカチに、イニシャルの刺繍。
 まさか、まさかな。
「ロイドさん……? あの、」
「ロッティ! 今すぐ開けろ! なんならボクが開けてやる!」
「おじ、ダメ。これはちちの。ちちがあける」
 アーニャの小さな手が、オレの膝を軽く叩いた。
「アーニャ、ちちのもみたい!」
 その言葉に操られるように、のろのろと包みをほどく。
 緑のチェック柄のハンカチ。イニシャルは〈ロイド〉のL。
 オレを襲ったのは強烈な痛みだった。
 ウソをついている。つきつづけている。これからも、任務が終わるまでずっとだ。
 施された刺繍は〈オレ〉の名前じゃない。〈ロイド〉のイニシャル。
 これはまやかしの器、〈ロイド〉に捧げられた、〈ロイド〉のためのハンカチだ。
 それが痛くて苦しくて仕方がなかった。
「すごいです、ヨルさん! ボクにまでありがとうございます!」
 笑顔で礼を言うと、ヨルさんはほっと息をついて、それからはにかんだ。
「色違いの布を見つけて、思い付いたのです。みんなでお揃いのものを持ったら、その、ちょっとステキじゃないかなぁって」
「ありがとう、姉さん!! 一生大事にするよ!!」
「ぼぇーーーー!! おろろい゛ーーーー!! おろろい゛ーーーー!! ながよじぃーーーー!!」
 アーニャが早速ハンカチの出番が来そうな勢いで泣きながら、オレに飛びついてきた。
「おそろい、な」
 いやいや、飛びつく相手を間違っているぞ。作ってくれたのはヨルさんだ。
「ふふ、編み針も小さな針を使うお仕事も久しぶりでしたので、ちょっと緊張しちゃいました! でも喜んでいただけてよかったです!」
 和やかな誕生会。
 主役以外にも配られた手作りのプレゼント。
 しあわせなしあわせな家族の情景が、これ以上なくオレの胸を深く抉った。
 
 
 ささやかながらも騒がしいパーティーが終わり、ユーリくんは家路についた。
 徹夜で寝不足のヨルさんと泣き疲れたアーニャを早々に寝かせて、ひとり片付けを済ませて自室に戻る。
 ハンカチは紙包みごとテーブルの上においた。正直扱いに困る。これは〈オレ〉のではない。
 オレはいつも全てを捨てて、次の〈誰か〉になる。炎で燃やしつくして灰にして、誰もが元の形などわからぬように。
 Lと刺繍されたハンカチを眺める。
 これは〈ロイド〉のもの。
 〈オレ〉が触れてはいけないもの。
 そんな気がして直接触れてはいない。見たときも、この部屋へ運んだときも、すべて包装紙ごとだ。
 いつか触れるときがあるのならば、それはこれを燃やすとき。
 ああいやだ。今日は絶対クソみたいな夢をみる。
 オレはもう一度〈ロイド〉のハンカチを見ると、灯りを消した。
 
 
 夢をみた。
 クソみたいな夢だ。
 オレは三人とボンドとでピクニックをしている。手作りの弁当を平らげたあと、ボンドとアーニャが駆けずり回って、ユーリくんが巻き込まれた。
 負けませんよ、とヨルさんが参戦して、木の上に逃げたアーニャが降りられなくなった。
 オレが木に登ってアーニャをつかまえて、下で手を広げて待ちかまえているユーリくんにアーニャを託す。
 木の上にはオレひとり。
 たったひとりで、煙のように空へ消えていく。
 いつかはそうなる。
 クソみたいな夢だ。
 クソみたいに幸せで、クソみたいに泣きたくなるような夢だった。
 
 
 十年ぶりぐらいに寝坊をして、あろうことかアーニャに叩き起こされた。
 朝食を胃袋に詰め込んで、超高速で身支度を整える。軍隊生活の賜物だ。
 アーニャはせっせとオレのジャケットにブラシをかけると、テーブルの上においてあったハンカチをむんずとつかんだ。
「ちょ、」
 慌ててその手首を掴んで止める。
 これは〈オレ〉のじゃない。〈ロイド〉のものだ。乱暴にあつかわないでもらいたい。
「だいじょぶ」
「え?何が」
「だいじょぶ。これは、〈ちち〉のだから」
 知らないというのはこんなにも残酷なものなのか。ひとつの言葉がどれほどの重みを持っているか、アーニャは知らないのだろう。〈ちち〉は〈ロイド〉であって、〈オレ〉じゃない。
 ごそごそとアーニャが制服のポケットからピンク色のハンカチを取り出して見せた。
「これは〈アーニャ〉、〈わたし〉の」
 とん、と小さな手のひらが、ハンカチごと制服の胸に触れる。
「これは〈ちち〉、〈オマエ〉のだ」
 次にアーニャは〈ロイド〉のハンカチを振った。
 アーニャはいつになく真剣な眼差しでオレを見ている。
 〈アーニャ〉は〈アーニャ〉だ。〈ロイド〉のようにつくられた人間ではない。それでもまっすぐな言葉はあまりにも強く、あまりにも甘美で、オレの心の隙間にするりと入り込んだ。
 これは〈ロイド〉のもの。そして、〈ロイド〉を演じている〈オレ〉のものでもある。
 そういうことだろうか。そういうことにしてもいいのだろうか。〈オレ〉が〈ロイド〉のものを手にしてもいいと、そうアーニャは言っているのだろうか。
「ロイドさーん、アーニャさーん、遅刻しちゃいますよー」
 ヨルさんが玄関から呼んでいる。
 オレはほんの少し前までただ見ていることしかできなかったハンカチに、そろりと手をのばした。
 さらりとした感触が指に心地よい。人差し指に当たるのは、刺繍のL。本当の名前はとうに無くしたが、イニシャルがLであればよいと心の底から思った。
 変な皺がつかないように慎重にスーツのポケットに入れると、アーニャも同じように制服のポケットにピンク色のハンカチを入れて、オレの手を掴んで玄関へと走る。
「すごいです! 寝坊したのに、いつも通りのピシッとしたロイドさんですね!」
「ハハハ、お恥ずかしい」
「はは! はんけち!」
「あっ! コラ!」
 勝手にアーニャがハンカチを取り出すと、ヨルさんは口元に手をあてたあと、バッグからそっと赤いハンカチを取り出した。
「ふふ、みんなでお揃い、ですね」
「おろろい、おろろい!」
「動物の鳴き声みたいだな……」
「アーニャどうぶつえんいきたい!」
「ステキです! いつにしましょうか?」
 いつにしましょうか。
 オレはこれから、未来の話をしようとしている。
 今でも瞬きのあとでもなく、仕事でも義務でもつきあいでもなく、ただ自分が楽しむためだけに、今よりもっと先の話を。
「今週末はどうですか?」
「アーニャよていない!」
「おまえには聞いてない」
「ふふ、私も大丈夫です」
「ユーリくんも誘いましょうか」
「聞いてみます!」
 週末まで〈オレ〉もアーニャもヨルさんもユーリくんも生きている。そう信じて約束をした。
「おでけけおでけけー! おろろいはんけちで、おでけけー!」
「全部間違ってるな」
 また騒がしい一日が始まった。
 〈ロイド〉と〈オレ〉と、それからフォージャー家の一日だ。
 クソみたいに幸せな、夢のような一日だ。
 
 
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 アーニャ、おそろいは言えていましたが、どうしてもおろろい言わせてみたかった……
 


Comments

  • ミータン
    November 29, 2022
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