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ドロボウのはじまりは嘘つき/Novel by さて

ドロボウのはじまりは嘘つき

15,432 character(s)30 mins

⚠️腐向け⚠️

フォージャー家で二人きりにさせられるユリロイの話。
無自覚ユリくんが義兄に対して色々やらかしたうえ、自覚を通り越して暴走して結局気づいてない(気づきたくない)まま平行線。
そんなおじと、家族に対してはセンサーゆるゆるになりがちなちちが好きです。

⚫原作コミックス5巻までの内容、アニメ5話の内容が含まれています。
⚫公式タイトル、公式キャラタグはご遠慮ください。

表紙お借りしましたillust/94532255

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 ユーリ・ブライアが玄関前の呼び鈴ボタンに指を伸ばしてから、かれこれ五分が経とうとしていた。
 その腕には書類がぎっしり詰めこまれた仕事鞄がかけられていて、もう片方の手には色鮮やかでふっくらとした花束が握られている。
 扉の向こう側は、この世で唯一大切で愛する家族である姉が身を置く、忌々しい世界──フォージャー家。それが姉、ヨルの新しい姓であった。
 ヨル・フォージャーから食事のお誘いの連絡をもらったのは昨夜のことだ。
 ──アーニャさんのテスト赤点回避記念パーティーなんです。
 電話口から聞こえる愛して止まない美しい姉の声は高揚していた。
 ──ロイドさんが、アーニャさんの勉強に付き合ってくれたユーリのおかげだと、ぜひユーリもお招きしましょう、と言ってくれてるの。明日の予定はどう?ユーリ。
 憎き義理の兄の憎き娘、アーニャ・フォージャーの苦手とする勉学を見てやったのは、つい先日のことだ。他ならぬ姉からの懇願を無下にするなど天と地がひっくり返るほど有り得ないことだから引き受けた。仕方なく家庭教師を受けてやった。あの馬鹿娘の頭の出来の悪さには心底呆れたが、姉がこうして喜んでくれているので、終わりよければ全て良し……と心地良く片付けたいのは山々だ。
 だが、愛しの姉からのお誘いに間髪入れず返答できない理由はただ一つ。
 あの馬鹿チワワ娘よりも遥かに憎い存在、ロイド・フォージャーが愛しの姉との逢瀬の邪魔をする。
 処刑してやりたい相手を目の前に食事をするのは、苦痛でしかないのだ。
 姉には心から会いたいし、頭を撫でてほしいし、褒めてほしい。しかしロイド・フォージャーには会いたくないし、顔も見たくないし声も聞きたくない。
 ああ、どうすればいいんだ。ユーリは電話を握り締めたまま頭を掻きむしる。
 行きたいのに行きたくない。そもそも愛しの姉に会うのに、なぜ邪魔されなければならないのだ。ロイド・フォージャー、処刑するに値する人物が奴以上に存在するだろうか。いや、いない。姉を奪った憎き賊は処刑されて然るべきなのだ。
 いっそのことパーティーの席で処刑宣言でもしてやろうか。ああ、でも顔も見たくないのだ。行きたくない。行きたい。姉の顔はいくらでも拝みたいし飾りたいし、刻みつけたい。ああ……どうしたらいい。
 そうやって悶々と天使のヨルと悪魔のロイドを格闘させていたユーリの耳に、決着の兆しが舞い込んできた。
 ──夜のパーティーのお料理は全てロイドさんお手製なの。
 天使が勝利を手にした瞬間だった。
 ──行くよ。
 
 
 ジリリリ。
 来客を伝える音が鳴ると同時に、ユーリは三人と犬一匹に盛大に迎えられた。
「ユーリお疲れさま!」愛して止まない姉、ヨルは今日も美しく気高い。
「おじ、いらさいませ」憎きフォージャーの連れ子の娘は今日も賢そうに見えない。
「ボーフ」白い毛に覆われた大きな犬は今日もただの犬だ。
「ユーリくん、こんばんは」ロイド・フォージャーは今日はオフだったのか、服装も髪型もラフなものだった。姉のために寝る間も惜しんで働くべきなのに。ユーリはジロリとロイドを睨んでから、ヨルに向かって満面の笑みで「お招きありがとう、姉さん」と答えた。
 
 
「あら、いけない!」
 キッチンで皆のぶんの紅茶を用意していたヨルから突然声があがった。
「どうしました?」
 リビングからロイドが尋ねる。義理の兄と世間話という腹の探り合い会話をしていたユーリもまた、「姉さん?どうかしたの?」と心配そうにソファから立ち上がる。
 人の心が読める超能力者アーニャだけが、この時点でヨルの次なる言葉を知っていた。
「ロイドさん、わたしウッカリしてました。ボンドさんのご飯を買い忘れてしまったようです。ですので、出かけてきますね」
 どこか凹凸のない不自然な声音で告げるヨルは、ロイドの返事を待つことなく、アーニャに声をかけた。
「アーニャさんも行きましょう。ボンドさんもついでにお散歩に」
「アーニャるすばんしてる」
「ええっ」思わぬ即答にヨルは困惑した。
 というのも、ヨルには切なる願いがあった。弟のユーリが夫のロイドと仲良くなり、理解し合える間柄になれること。偽りの家族だということは打ち明けられないけれど、ユーリの理解者が自分以外にいるという安心感を弟に与えてあげたかった。
 ヨルには友人と呼べる存在もいないので、他人と仲良くする有効な術は見当もつかなかったが、二人きりの場で会話をすれば嫌でも親密度は増すだろうと考えたのだ。安直な考えかもしれないが、ヨルにはこれが精一杯で最大限の仲良し作戦だった。
 いっぽう、母の思惑の全容を知るアーニャもまた、スパイの父と秘密警察の叔父が真正面から対決している場を離れるわけにはいかなかった。アーニャにとって好奇心を満たすには最適な二人なのだ。
 だが、ヨルも引くわけにはいかず、胸中で色んな誘い文句を逡巡した挙句、「では、スペシャルなピーナッツも買いに行きましょう」と直截簡明に誘うと、アーニャはキリッとした顔で「いく」と母に駆け寄った。
 一緒に付いて行こうとしていたユーリの動作は全く追いつかず、あっという間にヨルたちは出かけてしまった。一気に室内が不穏な空気に包まれる。
 ヨルが注いでくれた紅茶をちびちびと咽喉に流し入れた。なんて美味しいんだ。姉の手から作り生み出されるモノはすべて、ユーリの胃や胸や脳を甘美に満たしてくれる。
 いつだったか、同僚が言っていた。
 ──食事は何を食べたか、じゃない。誰と食べたか、が重要なんだ。
 ユーリにはその意味が未だに理解できていなかった。ヨルの作ってくれた食事を堪能してるあいだは、周囲に誰がいようと、ユーリには目の前の物体しか眼中にない。
 たとえ街中の雑踏のど真ん中でも、獣臭が充満した檻の中であろうとも、登場人物は姉と自分だけだ。
 ユーリにはヨルがすべてだった。もちろん現在もこの先もそれは変わらない。
 ヨルの素晴らしさに恍惚としていたユーリを現実に引き戻したのは、他ならぬ悪の根源、悪の侵略者だった。
「ユーリくん、先日は娘の家庭教師を引き受けてくれて本当にありがとう」
 ニコッと笑むロイドの顔はすこぶるリラックスしていて、ユーリを苛つかせた。
 ソファの端から端、一番遠い距離からでもはっきりとわかるロイドの端正な顔立ち。カップを口許に運ぶ、しなやかな仕草。姉のいれた紅茶を静かに飲んでいるだけなのに、なぜこうも絵になるのか。姉はこんな奴のどこを好きになったのか。
「いえ、姉さんのお願いでしたので」
 素っ気なく返事をすると、ロイドの視線がふたたびユーリへと向いた。
「ウチの娘が赤点を免れたのは君のおかげだよ」
 その謝礼は偽りのない心からの感謝だと伝わってきたが、ユーリは何か引っかかりを憶えて眉根を寄せた。
 ロイドの放った“ウチの”という言葉に嫌悪感を抱いたのだ。もし、外──例えば職場などでロイドが姉のことを、“ウチの嫁が”と口にし話題に出していたら……。
 想像するだけで腸が煮えくり返りそうになる。ソファの皮を毟り破りたくなる衝動を、ヨルの笑顔を思い浮かべることで抑えこんだ。
「ボクはヨルさんみたいに家族を立派に育てあげるほどの器量も教養力もないし……恥ずかしながら子育てに関してはまだまだ未熟もいいところで」
 少し伏し目がちに話すロイドはどこか寂しそうで、孤独感すら感じられた。
 姉さんが傍にいるだけで一生分の充実感を味わえる贅沢な身でふざけたことを言いやがる。
「ヨルさんには色々教えてもらってばかりだよ」
 ユーリは膝の上の拳を震わせる。
「……姉さんをあらゆる脅威から守ると誓った口で、そんな情けないことを言わないでもらいたい」
 視線も合わせなかったが、声色でユーリがいま良い気分ではないことは判別できるだろう。
 ロイドはカップをソーサーに置きながら、短く息を吐いた。
「これからも精進するよ。一緒にヨルさんを幸せにするって約束したんだからね」
 そう言って微笑んだロイドを目の当たりにしたユーリに突然、どこからともなく風が吹き上がった。ここは窓も開いていない屋内なので突風は比喩に過ぎなかったが、髪がぶわっと後方に引っ張られる感覚を受けたのは現実だった。
 ──姉弟で支え合って生きてきたんですね。色々苦労もあったでしょう。
 初対面のとき、姉の夫だとのたまう男は、慈愛のこもった瞳でヨルとユーリを見つめて言った。多量の飲酒とヨルからの愛の鞭を浴びて意識が朦朧としていたが、その言葉ははっきりと記憶に残っている。
 嬉しかったからだ。そんなことを言ってくれる大人はいなかった。自分たちを援助して支えてくれる大人がいない世界で、二人きりで生きてきた。ユーリはヨルが傍にいてくれるだけで幸せだった。
 年上は年下を守るもの。だが、弟の幸せを維持するために血塗れドロ塗れ怪我だらけになる姉の姿は痛々しくて、悔しくて、でも幼い自分ではろくにお金の稼ぎ方も知らなければ実践なんてもっと困難だった。
 姉を助けることができなかった弟は、ただ見聞を広め、あらゆる分野の知識を我がものにすることで将来への希望を見出してきた。それはひたすらに姉の心身の安穏のためで、ヨルの笑顔を守り、幸せな生活を送れるようにするためだ。
 幼少から大人になっても、その役目は自分ただ一人だけだと自ら鼓舞してきた。
 必死に勉学に努めたおかげで、国を守る栄誉ある職には就けた。だが、姉の幸せを守る道は、ここからが本番だった。国内外どの地で生きようと災厄もあれば悪意もある。ユーリはいまも多忙な日々をきわめる。
 ──もし、姉さんが辛い目に遭っているときに、すぐに駆けつけてやることができない場合どうする?
 国外調査で長期留守にしているあいだに、姉の身になにかあればどうする……すぐに連絡して姉を助けに向かってくれる大人など存在しない。そもそも姉を安心して任せられる人材なんて自分以外存在しないのだ。
 ──核爆弾からもヨルさんを守ります。これからは一緒にヨルさんを幸せにしましょう。
 そう一寸の迷いなく宣言した初めての人間は、姉の夫となる人だった。
 ユーリは一筋の風を受けたことで、当時の状況を思い出し、鼻の奥がじんと痺れた。口角を歪ませたのは、悔しさも混じっている。ロイドがヨルを守る存在になりうるに値する男だと認めたくないのに、認めたいと思ってしまう自分に腹が立つのだ。
 そのとき、膝の上で燻らせていた拳に、ふと温かい感触が被さった。驚いたユーリが切情と悔いに俯いていた顔を上げると、いつの間にかとなりにロイドが座っていた。
 長いソファの端が成人男性二人ぶんの重さでギシッと軋む。
 衝撃のあまり退けないどころか、手を振り払うことすらできない。ユーリはロイドの顔と膝の上の手を交互に首を上下させながら、「はっ、えっ?」と素っ頓狂な意味のない文字を発する。
 大きな手のひらで覆われた拳が段々と熱を帯びてきて、ますます振り解けなくなる。その触れ合っている部分がまるで接着剤で固定されているかのように、身動きできずにいた。
「大丈夫?ユーリくん」
 ロイドが心配そうな顔で、ユーリの握り締めたままの拳をゆっくりと包みこんだ。
「えっ?」
 温かくがっしりとした手に包まれた自分の拳が、ロイドの胸のあたりまで持ち上げられる。
「え、えっ?」
 直接は体に触れていないのに、ロイドの心臓の鼓動が手に伝わってきそうだ。いや、これは自分の心臓の音か?生命の危機を無意識に感じとっているのか?
「血が滲んでるから」
 ほら、指を開いて見せて、とロイドがユーリの強く握っていた拳をゆるゆると解いていく。
 その瞬間、現実に弾き戻されたユーリは素早く手を引き離した。
 どういう表情をすればいいのかわからない。うるさいくらいに響く胸の警告音と全身にわき立つ血は、怒りなのか呆れなのか嫌悪なのか、どんな種類の感情が占めているのか、ユーリにはわからなかった。
 ロイドが慌てて立ち上がり、リビングの本棚から救急箱を持ってくる。有無を言わさない素早さで、再度ユーリの手を掴み手のひらに滲む血をガーゼで拭き取っていく。
 今度は引き離すことは不可能だった。ロイドの力が強いのか、自分に力が入っていないのかはわからない。ただ、されるがままに、ユーリは自傷の手当てを受けるしかなかった。
「さすが外務省勤務だね。手を強く握るだけで血が出ちゃうなんて」
 いや、この血は姉を奪った馬の骨への憎悪から溢れ滴ったものだ。
 煩かった鼓動が段々と治まっていく気配をユーリは感じていた。
 止血したあと、爪の形にくい込まれた手のひらの患部に消毒液を少量垂らしたガーゼを当てる。
 ロイドの手当ては手際よく、慣れていた。
「……精神科には暴れる患者もいると聞きました」
 ユーリがボソッと感想文のようにつぶやくと、ロイドが顔を上げて「まあね」と困り顔で微笑んだ。そうしてまたすぐに手当てする手許へと視線を戻す。
「こちらが血を流すこともあるとか……」
 ユーリの発した“こちら”とはロイドを指すのだが、名前を呼ぶことになぜか躊躇いが生じたため曖昧な表現になってしまった。だが、ロイドは文面の意味を正しく受けてくれたようで、感想文に率直に応えてくれた。
「精神科には色んな状況で心を痛めてしまった人たちが来るからね。あえて話したくないこともあれば、何かしら聞いてほしいこともある。その手段を少しばかり難しく考えてしまって、自暴自棄を起こしてしまうだけ。ボクはそういう人たちの受け皿になれたらと思いながら、この仕事に務めてるんだ」
 ロイドは救急箱から名刺ケースほどの大きさの箱を取り出す。手当てがもうすぐ完了しそうだ。
「それって……おまえはマゾってことか?」
「えっ?」
 ロイドの手から小箱が落ちた。今度はユーリの言葉の意味をすぐには理解できていないようで、しばらく経ってからのろのろと箱を拾った。
 二人の目が合う。ユーリの真剣な問いに反して、ロイドは肩を小さく震わせながら、ついに口から軽快な息が吹き出された。
「本当に姉弟でよく似てるね」
 柔らかい笑みを浮かべて言うロイドに、ユーリの胸中がふたたびけたたましく鼓動した。でもその大袈裟な音は一度だけで、直後は通常のリズムを刻んでいる。
 ──なんだったんだ、いまの一瞬の動揺は。
 姉と似ていると言われて憤慨したのか、はたまた狂喜に昂ったのか。
 ──どうにも、この男といると自分がわからなくなる。感情の管理が狂わされる。
「ヨルさんの一言は、うーん……なんて言うか、ギザギザを柔らかくしてくれるような気がするんです。こっちがどれだけ神経を尖らせてても、彼女の一言が純粋な安心を与えてくれる」
「そこが、ボクと似てると?」
 仕上げに傷あてパッドが患部に覆い貼られる。
「はい」ロイドが頷きながら、ユーリの手をポンと優しく叩く。
「手当て終わり」
 肯定されたのか、疑問を投げたのにスルーされたのか区別がつかないままで、ユーリは密かに舌打ちをした。
「……それ以上スペックをあげてどうする気だ」
 救急箱に器具を片付けていたロイドの手が止まった。透き通るような青の双眸は無言のままユーリに向けられている。
「気遣いができて料理ができて顔もよくて背が高くて、手当てもできて──」
 真実を並べているうちに目も合わせられなくなり、ユーリはついに癇癪を起こし、テーブルの上に無造作に置かれていた瓶を鷲掴みにした。そうして大きく開けた口にドバドバと酒を流しこみ、豪快に瓶を空にさせる。 
「ユーリくん!そんな飲み方したらダメだって!」
 ブライア家の酒癖の特殊さは把握していたはずなのに、ロイドの制止の手は時すでに遅しで虚しく空を仰いだ。酒を大量に体内に含んだユーリの体がユラユラと揺れだし、座る姿勢が崩れていまにも床に倒れそうだ。ロイドが咄嗟にユーリの腕を掴む。
「ボクに近寄るな!」
 その瞬間、ユーリが大声でソファから飛び退いた。凄まじい勢いで後ずさった先の棚にぶつかり、写真立てが一つ倒れ落ちた。ユーリが床に赤らんだ目を向ける。朧げな視界にぼんやりと映る小さな輪郭──家族写真だろうか。
 拾おうとして屈んだ一瞬の間に、床にあったはずの写真立てが消えていた。写真は幻だったのか、それとも魔法のようにポンと消え去ったのか、泥酔する頭でそんな非現実的な空想をしつつも、ユーリは傍らから瞬速に伸びて引いていく肌色をうっすらと捉えていた。ユーリはゆっくりとその肌色が去っていった方向に体を向けた。
 手中に写真を収めたロイドが苦笑いをして立っている。
「……ボクが落としてしまったので元に戻しますよ」
 だから寄越せ、と手当てをしてもらった手のひらをロイドに差し出す。
「いえ、これは戻さなくて大丈夫。ボクの私物だから」
 ロイドは写真立てを後ろ手に隠した。
 様子がおかしい。明らかに見られたくないモノなのだとわかる態度だ。ユーリの酒で満たされた腹の中に黒い渦がグルグルと巻いてくる。
 憎きロイド・フォージャーの狼狽える姿──隠蔽していた見つかったらまずいモノが他者によって暴露される前の、必死に平常心を装っている様相だ。職務経験上間違いない。
「ちらっと見えたかぎり、普通の家族写真でしたけど」
 ユーリの手がグッとさらに詰め寄る。
「これはヨルさんに撮ってもらった写真で……えっと、娘もボクもあまり人に見せられる顔をしてないから……」
「なんだ、貴様!姉さんの撮影技術が雑だと言いたいのか!」
「違うよ、そうじゃなくて」
「むしろ姉さんが撮ってくれた写真など、リビングのど真ん中に額縁に嵌めて飾るべきだろう!ボクがやるから早く寄越せ!」
 憎き馬の骨がこれほど焦って隠したいモノだ。いざというときの脅しの材料としてぜひ所持しておきたい。保険といってもいい。
 ユーリはロイドの背中目がけて手刀のごとく指先を刺しだすが、サラリと躱されてしまう。
 なんだコイツ。ただの精神科医のくせに反応が常人の速さではない。
 ならば背中に隠された両腕を拘束してやろうと飛びかかった。だが、それも無駄のない動きで躱された。
「なっ、なんなんだ、おまえ……武術でも習得してるのか?」
「いや、別に……」ロイドが口をもごもごさせながら答える。写真は未だその体の後方にある。
 ならば手加減はいらないな、とユーリは身構え拳を振ろうとしたが、軸足の足首がぐりゅっと捻り、予想外の体勢に腰が曲がった。床との足の支えを失くしたユーリの体は、関節を整える隙もなく、拳の繰り出された先に向かって無様に倒れ落ちた。
 全身に強い痛みはない。着地したところは確かに硬い感触ではあったが、押し返される反発力もあり、猫背矯正に適していそうなクッションのようだった。
 しかしソファの皮製の冷たさは感じない。
 自分がいまどこにいるのか理解するのにしばらくかかった。
「うう……」
 ユーリが呻きながら恐る恐る目を開けて上体を起こし見下ろすと、処すべき憎き馬の骨が無防備に仰向けに転がっていた。視界が全開に広がる。
 ロイドの両太ももに乗っていた尻を浮かせ、膝から下で体重を支える。ソファの革素材の冷たさがひんやりとユーリの足から上体へ伝わってきた。
 咄嗟にユーリは思った。この好都合の状況を吉として、このまま首を絞めてやろうか。……いや、姉さんが悲しむことは絶対にあってはならない。
 成人男性二人ぶんの体重に、ふたたびソファの軋みが小刻みに悲鳴をあげている。
 不安定な格好で倒れるユーリをロイドが受け身で抱えとめてくれたのだ。それに気づいたユーリはお礼など言う気力よりもまず、ロイドの頭の傍に落ちている写真を目敏く見つけ拾った。
「あっ……!」
 下から伸ばされたロイドの手をぴしゃりと払う。
 ヨルが撮った写真。そこには童話のお姫様のようなティアラを頭に乗せたアーニャと、満面の笑顔の娘を横抱きにしたロイドが写っていた。背景は月と星が浮かぶ夜空で、被写体の後ろには頑丈そうで立派な柵があり、その柵を越した上空には花火が派手に花を咲かせている。どこか高い建物で撮られたのだろう。風景を遮る建築物が一切なかった。
 単なる家族写真。誰が見ても何の変哲もない親子の写真だ。旅行先や遊園地、公園などでの戯れの一場面、ポーズを決めて撮った記念写真。そうとしか見えない写真を、被写体の一人であるロイドがなぜ必死に隠匿しようとしたのか。
 ユーリはその理由がようやくわかった。
 父親にお姫様扱いに抱っこされて満足げな娘とは逆に、唇を固く結んで微妙にカメラ目線から顔を逸らしている父親。その頬は花火よりもはっきりとした赤色に染まっていた。
 ユーリの下で仰向けに寝転がるロイドが微かに身動ぐ。ソファに乗りきらず外にだらりと垂らされた片足が写真越しに見えた。わなわなと震えている。ユーリの胸中に発生した黒い渦が勢いを増す。
 写真のなかでさえ照れて赤くなっている自分の姿を見られるのが、そんなに恥ずかしいことなのか。
 ユーリはそう疑問を抱きながら、写真の被写体をあらためて凝視する。いや、さきほどから見ているのだが、どうにも目が離せないでいる。
 会ってまもない歳上の男の恥じらう顔など、できれば見たくもないし遭遇したくないし、なんならこの世に無くても困らない無意味なものだ。それなのに、写真から目が離せない。
 気遣いができて料理もできて、背が高くて顔もよくて、躱し身も上手くて、手当てもできて──同性に対して初めて憶える感情と、わき立つ黒い渦の正体は一体何なのか。
 ユーリが写真から視線を外し見下ろすと、そこには被写体と同じように頬と耳を赤らめた同一人物がこちらを見上げていた。恨めしそうな、屈辱に歪んで怒っているような、それでも歳上としての矜恃を保とうと内心で懸命に藻掻いている表情だった。
 黒い渦がついには竜巻のように轟音と化し、ユーリの耳奥から後頭部へと吹き飛んでいく。跡に残ったのは、渦の残骸ではなく、元の原型に戻った渦の正体だったもの──。
「かっ……」
 思わず出かかった言葉を写真へと意識を逸らすことで飲み込んだ。だが、その行為はむしろ逆効果だった。それに気づいたユーリは、首を振りながら写真を持つ手を下ろして視界から遠ざけた。
「か……返して」
 下から大きくて骨格がしっかりとした健康色な肌色の手が、遠慮がちにユーリに近づいてくる。いっぱいに開かれた瞼のせいで、真上からでもロイドの青い瞳が細かく揺れているのがよく見えた。最小限に唇を動かして発せられた「返して」だったが、ユーリにはまだロイドの口がわずかに開いたままに見えた。
 お願い、という幻聴まで酒に侵された脳みそに貫通する。
 飲み込んだ言葉が急速に逆流して、咽喉をのぼり、舌の上を坂道のように滑っていく。
「かっ……」
 弱味を握れたことへの愉悦なんてもんじゃない。これはむしろ逆の──。
「か、かわっ……」
 唇の端が腫れているかのように痙攣する。おそらくその症状は、舌先と歯のあいだに挟まった単語を吐き出せば治まるのだろう。だが、それは絶対に発するべきではない──。
「ロッティ!」
「ロ……えっ、なに?」
 幸い痙攣は治まってくれた。口直しに酒を貪り飲みたいのに、テーブルには酒瓶らしきものが見当たらない。
「おまえにこんなスペック必要ない!」
 真上から強烈に浴びせられる大声に、ロイドはただ呆然としていた。唾が飛び散っていようが、ユーリの放つ言葉の端々を汲み取って吟味することに全神経を集中させていた。残念ながら意図はすぐには掴めそうになかった。西国一のスパイの観察力を持ってしても、ユーリの言動ははちゃめちゃでロイドを困惑させた。
「この写真はボクが預かっておく」
「は?なんで?」
 これまである程度義兄としての演技を織り交ぜてきたロイドだったが、度重なる義弟の奇行に素の声をあげてしまう。
「ボクは姉さんの家族だからだ」
 ユーリの目は厳つく据わっている。
「勘違いするなよ。ボクは姉さんだけの家族であって、おまえを家族と言ってるんじゃないからな」
「か、家族写真なら……ヨルさんに写真撮ってもらえばいいだろ。そうだよ、ボクが撮るよ。君たち姉弟の家族写真」
 ロイドの申し出に、ユーリは指を顎にあてて考えるポーズをとった。特に何か考えを巡らせているわけではなく、ユーリのなかで答えは始めから決まっている。
 ユーリは手にした写真を見せつけるようにかざして、写る被写体のうちの一人、ロイドを指さした。
「じゃあロッティ、きさまはそこでこの顔で写ってくれるんだな?」
「なんでだよ、しないよ」
 ロイドが間髪入れずに突っこんだ。
 その突っ込みを真下から受けたユーリは、しょうがないな、とでも言いたげな表情で「じゃあやはりこれは貰っておく」と左手に持つ写真を高く掲げた。
 起き上がって写真を奪おうとするロイドの胸を右手で押し返す。酒の力も借りてなのか、右手に全体重をかけたせいなのか、下からわずかな呻き声が聞こえた。
 その瞬間、心臓に溜まっていた血が血管を突き破って四肢に荒く浸透するような感覚に襲われて、ユーリは一瞬目眩がした。
 右手の指先が異常に熱い。分散した血が右手に集結したような──。
「うっ……」
 ふたたび真下から苦しそうな声がする。構わずユーリの指は関節の曲がるほうへと動く。無言のまま、ひたすらにロイドの胸を片手で押す。このまま心臓が止まったりしないだろうか。いや、ダメだ。姉さんを悲しませることは絶対にダメだ。
 がっしりとした、だが爽やかな弾力がある胸筋──やはり武術を心得ているのだろう筋肉の張り具合、硬さと柔らかさが無駄なく融合されている。
 ユーリの右手は止まることを知らず、写真をジャケットのポケットにしまい左手も自由にする。人間の胸部は体の中央を対称として一つずつ膨らみがあるからだ。
 なるほど。両側の胸板の感触はそれぞれ似ているようだ。
 精神科医のくせになぜここまで胸がふくよかなんだろう。
「やっ、あ……、あの、ユーリくん」
 戸惑う声を耳にしたユーリは、はっと閃く。そうか、手のひらにフィットする胸の柔らかさは服のせいか。早速原因となる薄手のニットをたくしあげる。
「ちょっ、えっ?」
 その下の衣服は職場でも着ているのだろう、普通の白いワイシャツだ。
 胸筋の真実を探るため、改めてその上から感触を確かめれば胸のふくよかさは正真正銘本物なのだと思い知る。
 それどころか、ほぼ直に肌に触れているような生々しさだった。
 
 
 ──突き飛ばすわけにもいかない。
 ロイドは下唇を噛んで声を抑えていた。
 手足を拘束されているわけでもないのに押し返せないのは、力の加減がコントロールできそうもないからだ。強すぎるとユーリに大袈裟な怪我を負わせてしまう恐れがあるし、弱すぎても現状維持のままに最悪相手を激昂させてしまうかもしれない。
「退け」という拒絶の言葉すら発せないのは、咽喉が枯渇しているからだ。実際に水分を欲しているわけではなく、体のデリケートな部分を無遠慮に他人に侵されているという緊迫感のせいだ。
 酔っぱらいの相手なんて、いままでこなしてきた数多の任務の一部に過ぎなかった──そこに関して苦労も疲労も蓄積したことなどなかったのに。
 ロイドがこの状況を打破するための何通りかのシュミレーションを組み立てていたところへ、特段強すぎる違和感が胸部を襲った。
 ユーリの指先が胸の一番高い箇所を掠ったのは一瞬だったが、それを機として敏感な部分に一気に異物感が集中する。シャツ一枚を隔ててもなお、指の爪先が胸の先端の側面に何度も当たっているのがわかる。
 ロイドは身震いした。男の本能的な性に対する支配欲を、ほんのわずかに真上から感じとったからだ。ユーリは瞼を半分ほど下げた真っ黒い目で、口を固く閉ざしている。鼻から吹き出される息の音が、ユーリの人間としての生活反応を示していた。ロイドにはまるで、捕えた悪人を無心に拷問して悦に浸っているような禍々しささえ感じた。
「ゆっ、ユーリくん」
 ふっと息を吐きながら、ロイドはようやく動いた腕を突っぱねて真上にあるユーリの上半身を押した。もう限界に近かった。怪我を負わせれば、ヨルに不審に思われて本来の任務自体に穴が空くかもしれない。その理性だけは崩さずに、しかし確実に退かせるぐらいの力で押した。
 予想に反してユーリの体は徐々に離れていく。そうして二人そろってソファの上に上体を起こし体勢を元に戻した。
 
 
 ユーリは黒目を数回じっくりと瞬かせて、横並びに座るロイドを正面から見つめる。顔を赤く染めて時おり小さく咳をしながら、咽喉に詰まった息の塊を少しずつ吐き出すように唇の先を動かしている。乱れたシャツを胸の中心に掻きあわせ、鋭い視線で何かを訴えてくる。
 ユーリに芽生えていた未知の感情が、男の性からくる情欲だと結論付けたのは、たったいま。いま、姉を奪った憎きロイド・フォージャーの羞恥と堅実に塗れた風貌が、否応なしにユーリを自覚させた。
 処刑対象にこんな穢らわしい──かわいいとか気持ちいいとか、色気があるとか、要らぬ情を抱かせるとは、フォージャー家所有の酒は毒でしかない。
 ユーリはあくまで酒のせいだと思いこむことで我に返った。
 ロイドもまた同じく、整然と呼吸をしながら本来の面倒ごと回収へと足を踏み出す。ギシッと軋むソファに手をついて、ロイドは精悍な面持ちでユーリに詰め寄った。
「……返してくれ」
 差し出された手が何を求めているのかはわかっていたが、ユーリは応えなかった。
「返してくれたら今日はユーリくんが食べたい料理作るから」
 その瞬間、ユーリの漆黒に塗り潰されていた目に光が宿った。
「えっ」
 スープからデザートまで一通りのメニューを考えたのに、ユーリは頭を振って理想の食卓を霧散させた。
「な、なんだ、その交換条件。それじゃまるでボクがおまえの作った料理目的に来たみたいじゃないか」
 ロイドが「あれ?」と態とらしく首をかしげる。「ボクの作る料理食べないの?」
「食べる!あ、いや……食べてやるけど」
 なるほど、とロイドはうなずく。組織の天敵であり貴重な情報源ではあるが、歳の離れた姉弟ってのはこんな感じなのか、とロイドはヨルを思いだし羨んだ。市民から恐れられる秘密警察といえども、ユーリにはまだ素直な子どもの一面もある。たったいま男特有の支配欲に昂っていた一面は、ロイドの頭の片隅に放置することになった。
 だが、写真は取り返さなければ──一家の主としての尊厳と沽券に関わる。
「よし、それじゃそろそろ調理にとりかかるとするか」
 ロイドは何事も無かったかのように、空になったカップをトレーに載せてソファから腰を上げた。
「ユーリくん、そのあいだにシャワーどうぞ」
 場所はそこの手前のドアね、とロイドが指さすほうにちらっと視線を向けたユーリは真面目な口調で訊ねる。
「は?ここの風呂は男二人が入れるほど広いのか?」
 キッチンのシンク内に食器を移していたロイドの手からスプーンが落ちた。カチャンとステンレスがシンクに衝突する音が響く。カウンター越しにソファのほうを見ると、座ったまま黒目を光らせたユーリが回答を待っているようだった。
「いや……そこまで広くは……ないかな」
 
 ※
 
「はっなまるパーティー、はっなまるパーティー」
 アーニャは上機嫌に母親のヨルに手を繋がれて集合住宅のエントランスの扉をくぐった。スーパーから少しだけ遠回りをして港沿いまで散歩できたボンドもまた、アーニャの歌に合いの手をうつように「ボーフ」と尻尾を振っていた。
「たくさん買いものしちゃいましたね」
 ヨルの手には、パンパンに膨らんだ買いもの袋が二つ。その中にはドッグフードも含まれていた。
「アーニャのトニトかいひはなまるパーティーだから、ぴーなつとおかしいっぱい」
「ふふっ、楽しいパーティーです」
(それにしても……お二人とも大丈夫でしょうか……喧嘩とかしてないでしょうか。短時間ではありましたけど二人きりでしたし、多少は仲良くなってくれればいいのですが)
 アーニャの脳内にヨルの心配そうな心の声が流れてきた。
 スパイの父と秘密警察の叔父──父は叔父の裏の正体に気づいているが、叔父は父をただの精神科医だと信じている。この時点での腹の探り合いは父がリードしてるけれど、二人きりの直接対決の結末が気になるアーニャは神経を集中させて、階段上廊下の突きあたりに位置する我が家からの声を拾う。
 上階へと続く階段に差しかかったとき、父ロイドの声が聞こえてきた。
(いったいアイツはさっきから何を探ろうとしているんだ?……はっ!もしやこのやり口は保安局の専売特許とする尋問で、我々WISEもまだ掴んでいない心理操作を巧みに組み込ませた、情報操作を図るための奴らの新たな手口なのか?いや、待てまて黄昏……それはない)
 いつもみたいに父の心の声はいっぱいだった。幼いアーニャには、内容もよくわかっていない。でもなんだか物騒なことを言っているのはなんとなくわかった。
(そもそも首を絞めようとしたり、胸を執拗に攻めてきたり、写真を要求したり、一緒に風呂に入ろうとしたり……真の狙いは何なのか……)
 いっしょにおふろ?くびをしめる?おむね?しゃしん……?
 アーニャの顔色が一気に青ざめる。
 先日スパイアニメで見た映像が思い出される。アーニャが慕うボンドマンが敵に捕まり、両腕を縛られ、姫の写真を脅しの材料にされて、そっち側の情報を吐け、とムチで打たれていた──。
「はは!」
 ──ちちが“ てんてき ”におそわれてる!
 そうヨルに助けを求めるよりも、一刻も早く帰宅するのが吉だ、と悟ったアーニャはボンドをエサにすることを思いつく。
「どうしました?アーニャさん」
「はは、ボンドがおしっこもれそう!」
「ボ、ボフゥ」フォージャー家の飼い犬は、たまに空気を読む聡い犬だった。
「まあ大変!」
 
「ちち!アーニャきかんした!」
「ボンドさんお手洗いに早く!」
「ボ、ボーフ」
 三者三様慌ただしく玄関のドアを開けたかと思うと、それぞれドタドタと床を踏んで室内を騒がしくさせた。
 キッチンにいたロイドの姿を見るや、アーニャは安堵して足に抱きついた。
「ちちぶじだった」
「うん?……おかえりアーニャ」
 頭を撫でてくれる手から甘い匂いがして、アーニャの思考がぐるりと入れ替わる。
「ちちのつくるくっきーのにおい!」
「正解。おまえは鼻が利くな。ヨルさんもおかえりなさい。買いものありがとうございます」
 ボンドのおしっこ(偽)が無事終わったのか、ヨルも安堵の息を漏らしながらどっしりとした買いもの袋をキッチンに置いた。
「いえ、とんでもないです。……あら?ユーリはどこですか?」
 そういえば、とアーニャもリビングを見回すが叔父がどこにもいない。
「ユーリくんはシャワー室です」
(やっと静かに調理にとりかかれた……)
 父の心の声は疲弊しているように枯れていた。
「まぁ、あの子ったら。弟が何か失礼をしたのでは……」
「違います、ヨルさん。ユーリくんお酒のせいでフラフラになってしまったので、シャワーで頭をスッキリさせてるんです」
「え?お酒?」
 ヨルが首を傾げながらシンクの下の棚を開ける。そこは比較的大きい容器の調味料や粉末袋の収納庫になっていた。綺麗に整頓された中から、ヨルが酒瓶を一本取りだしてきた。
「いまウチにあるお酒はこちらだけです」
 中身は赤ワインだ。
「……えっ?」
「ですので、お買いものでお酒も買ってきました」
 アーニャの背の高さからはキッチン台の上の買いもの袋は見れなかったが、確かにヨルはスーパーのお酒コーナーでワインを選び、カゴに何本か入れていた。
「あれ?じゃああの瓶は……」
 ロイドとヨル、アーニャの視線がリビングのテーブルの上にある空瓶に向けられる。
「ああ、緑の透明の瓶でしたら中は水です」
「みず……」
「ロイドさん、よく喉が乾かれてますし。それにロイドさんのお料理の前にお酒でお腹を満たすわけにはいきませんからね」
(ロイドさんの作るお料理は本当に美味しくて楽しみです)
 アーニャは心の中で、母の心の声に完全同意した。
 でも、おかしい。父の心が複雑で文字の流れが速すぎて一文どころか一文字も読みとれないのは相変わらずなのだが、“ てんてき ”の胃もたれするような怒涛の姉賛歌がさっきから聞こえない。
 バスルームからシャワーの音は微かにする。あの叔父のことだから大好きな姉が帰宅すれば、泡が残っていてもシャワーの栓を止めて飛び出てきそうなのに──。
 アーニャは忍び足でバスルームに近づいてドアに耳を当てる。やはりシャワーの音しかしない。心の声が聞こえてこない……。
「おじ!アーニャせっけんでてあらいたい!」
 ドアに耳をあてる。返事がない。娘の大声に何事かとロイドとヨルもバスルーム前に駆け寄ってきた。
「おじ、へんじない。ばたんきゅーかもしれない」
 アーニャの言うとおり、ユーリはバスタブに着衣入浴したままシャワーのお湯を無抵抗に浴びていた。
 ロイドは慌ててシャワーの栓を締めながらユーリを抱き起こし、ヨルは泣きながらぺちぺちと弟の頬を叩いた。
「おじ、へんじがない」
 目を白くして、心ここに在らずのように、ユーリの意識は彼方の淵に沈んでいた。

Comments

  • duck2.0

    May 8, 2024
  • October 18, 2022
  • おじ!しっかり!

    October 18, 2022
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