オランダはなぜ鎖国中も貿易を許されたのか?ポルトガルとの決定的な違い
日本は江戸時代、長く鎖国政策をとっていたが、そのなかでも続いていたのがオランダとの南蛮貿易である。豊臣秀吉の「バテレン追放令」にはじまり、江戸幕府が「禁教令」を出すと、スペイン、ポルトガルといったキリスト教国は締め出されてしまったが、なぜオランダとは貿易を許されたのだろうか。歴史作家・河合敦さん監修の『世界史と絡み合う日本史』(青春出版社)から、分けては考えられない日本と世界のつながり、その大きな流れについてひも解く。 ● 圧政に対する不満が引き起こした島原の乱 1637(寛永14)年、九州の島原や天草地方で大規模な農民の反乱が起こった。歴史にその名を残す「島原の乱」である。 その原因としては、農民たちの困窮がある。1616(元和2)年、島原に入封した松倉重政(まつくらしげまさ)は、築城費調達のために領民に重い年貢をかけ、築城を急ぐあまり、農民を重労働にかり立てもしたのだ。 かくして農民は完全に窮乏してしまったのだった。 その後、重政の跡を継いだ勝家(かついえ)も、重政以上に苛酷な税の取立てをおこない、年貢を納めない農民に対しては両親や妻子まで水牢に入れたり、蓑(みの)を着せて火を放ったりするなどの残虐な拷問をおこなうようになった。 また不運にも、当時の島原地方は天候不順により、毎年のように凶作がつづき、飢饉(ききん)が起きていた。とくに寛永14年の春から夏にかけては、餓死者が続出する事態となった。 こうした苛酷な状況が、農民たちを一揆(いっき)に向かわせたのである。
ところで、松倉重政ははじめのうちは比較的、キリシタンに寛容だった。が、1625(寛永2)年、将軍家光からキリシタン取締りの手ぬるさを叱責されると、態度を一変させてキリシタンを徹底的に弾圧するようになった。領内にはキリシタンが多く、それゆえこうした弾圧に対する不満も、島原の乱の背景にあった。 乱の直接のきっかけは、口ノ津の農民、与3右衛門の妊娠中の妻が、年貢米の未納のかたに捕らえられ、水牢に入れられて1週間後に死んだことだった。このむごいやり方に激怒した農民たちはついに蜂起し、代官の林兵左衛門を殺害したのである。 かくして島原の乱が勃発する。 これに改易された有馬・小西氏など旧領の浪人たちが加わり、彼らが農民たちを扇動して乱を拡大していった。海をへだてた唐津(からつ)藩の天草でも、これに呼応して農民たちが蜂起、富岡城の城代三宅藤兵衛(みやけとうべえ)を殺害し、島原半島に渡って島原の一揆勢と合流した。 天草一揆の総大将は、なんと14歳の少年だった。名を天草四郎時貞(ときさだ)という。この少年を盟主に、やがて一揆勢力は、島原半島の廃城であった原城に籠城した。総勢3万7000人。 乱の発生を知った幕府は、上使として板倉重昌(しげまさ)を派遣した。重昌は佐賀、久留米(くるめ)、柳河(やながわ)、肥後などの諸大名を動員して、原城を包囲した。参陣した大名は全部で17家(253万石)、12万人以上に及ぶ大勢力だった。 ● 乱をきっかけにキリシタン禁教と鎖国政策へ 幕府は、この反乱は簡単に鎮圧できるだろうとタカをくくっていた。だが、当初の予測と違って、一揆勢力の抵抗は激しかった。幕府軍は何度も城攻めしたが、反撃をくらってそのつど敗退してしまっていた。 そんななか、2人目の上使として老中松平信綱(まつだいらのぶつな)が派遣されることが決まった。信綱は戦後処理を任務としていた。だが彼が大坂に着いてもなお、乱は鎮圧されていなかった。新たな上使の派遣にあせった板倉重昌は、信綱到着前に一気に決着をつけようとするが、味方の諸大名が乗り気でなく、それぞれがばらばらな戦いをする。