少し黄みがかった白紙の上に、柔らかな薄紅の鱗が舞い落ちた。
アーチャーは、その視界を横切った欠片を追うようにして、ゆっくりと顔を上げた。数時間、同じ姿勢で文庫本を繰っていたせいだろうか、凝り固まった肩を回せば、視界がわずかに爆ぜるように揺れる。
それが読書に耽りすぎたせいなのか、あるいは、広げたブルーシートを完全に呑み込み、地面との境界を消し去ってしまった「桜の海」に酔ったせいなのか、彼自身にも判別がつかなかった。
見上げれば、春の晴天を塗り潰すほどの満開。
千里眼を持つ彼の瞳には、遠くの枝先の一本一本、その蕾が膨らみ、内に秘めた命の色を世界へと解き放つ刹那までもが、鮮明に映っている。
「これは……凄いな……」
語彙の乏しい感嘆は、自覚するよりも早く、乾いた唇から零れ落ちた。
圧倒的な色彩の暴力だ。人は、あまりに純粋で、かつ一時的な美しさを前にすると、ただ呆然と立ち尽くすしかない。あるいは、その美しさがいつか失われることを予感して、胸を締め付けられるか。
ふと視線を下ろすと、そこには薄紅の隙間に隠された「空の色」があった。
瞳を射抜くような、鮮烈な青。
星が尾を引くように、アーチャーの足元へ伸びたその長い後ろ髪を辿ると、男──ランサーは、春の陽だまりに溶けるようにして、穏やかな寝息を立てているのが目に映る。
そもそも、なぜこのような、本来ならば剣を交えるべき英霊二人が、のどかに花見の場所取りなどしているのか。事の始まりは、アーチャーのマスター──遠坂凛の、いつもの気まぐれだった。
『明日、みんなでお花見をするから。貴方、暇でしょ? 早めに行って、一番いい場所を取っておいてちょうだい』
準備という概念をどこに置き忘れてきたのか。なぜ前日の深夜にそれを言うのか。
そんな主の無茶振りに深い溜息を吐きつつ、今朝、買い出しに出た商店街の角で、朝一番の魚屋の手伝いをしているこの男と鉢合わせたのだ。
「よお、花見か! いいじゃねぇか、風流で。ま、オレもあっちの連中に誘われちゃいたんだが……テメェ一人にこんな雑用を押し付けんのも、どうにも寝覚めが悪ぃ。場所取りだろ? いいぜ、付き合ってやるよ」
顔を合わせれば牙を剥き合うどころか、隙あらば心臓を貫こうとする仲だというのに、そんな底抜けに明るい善意を見せられては、アーチャーとて無下にはできなかった。
結局、二人は午前中のうちから公園の特等席を確保し、酒の肴を広げることもなく、ただ静かにその時を待っていた。
あまりに平穏な空気に、毒気を抜かれたのだろう。
アーチャーは、何となく。本当に、深い意味などなく。
読み終えたページの栞代わりになっていた花びらを指先で摘み取り、隣で眠る青い髪へと、そっと添えた。
それは、彼なりの、ほんの些細な悪戯のつもりだった。
だが、微かな指の震えを、その獣じみた本能が敏感に察知したのか。
ランサーの瞼が、弾かれたように跳ね上がる。
その隙間から射し込んだ、燃えるような真紅の瞳。見つめられたアーチャーは、思わず肺の空気を凍らせたように息を呑んだ。
「……んぁ? なんだ、アーチャー」
寝ぼけ眼のまま、ランサーが低く唸る。
しまった、と後悔が脳裏を過る。悪戯を笑われるか、あるいは春眠を妨げられたと怒るか。
アーチャーが取り繕うように、何事もなかった体で読書に戻ろうとした時、逃げ道を塞ぐような声が彼を止めた。
「……今、オレに何したんだよ。あぁ?」
「……いや、ただの花遊びだよ。君の寝顔があまりにも無防備だったのでね。つい、悪戯心が出てしまったというわけだ。」
動揺を隠すため、精一杯の皮肉を混ぜて返すと、ランサーは「ふん」と鼻を鳴らしてむくりと起き上がった。その拍子に、鼻先を滑り落ちた一枚の花びらを、彼は驚いたように見つめ、大きな指で器用に掬い上げる。
そして、なにか思うところがあったのか、その薄紅を自分の耳元に飾り直すと、不敵に、そしてどこか優しげに笑った。
銀色のイヤリングに薄紅が反射して、どこか可愛らしい。
アーチャーはその意外な行動に、思わず目を丸くする。
いつもの戦場での剣呑な空気はない。ただ、春の光に当てられて、少しだけ境界線が曖昧になったような、柔らかな沈黙が二人を包んだ。
「…………なんだ。テメェも、そんな顔すんじゃねぇか」
ランサーはため息を一つ吐くと、なにか思いついたように背中を丸める。そして、シートの上に雪のように積もった花びらを、両手いっぱいに掬い上げた。
刹那。
それは色彩の花火となって、春の空へと打ち上げられる。
視界のすべてを薄紅の雪が埋め尽くし、世界が、音が、桜の色に溺れていく。
「な、何をするっ! このたわけ!」
狼狽えるアーチャー。
こんな子供じみたことをされるなんて思ってもみなかった。近くに人がいたかもしれないというのに。だがそれを確認する術はもうない。
これではまるで犬だ、と皮肉を言おうとした時。
その花吹雪の向こう側から、ランサーが獲物を狩るような、あるいは愛しいものを捕らえるような速さで、彼の手にあった本を奪い取った。
遮るものが消えた視界には、もう、目の前の青しかない。
世界に二人きりになったかのような錯覚。
舞い散る花びらが地に落ちるまでの、永遠にも似た、たった一瞬。
ランサーの薄い唇が、アーチャーのそれに重なった。
それは、呼吸を交わすような。
それとも、ただの挨拶のような、あまりに軽い口付けだった。
それなのに。
唇が離れた時、アーチャーの褐色の頬は、周囲に乱舞するどの花びらよりも、色濃く桜に染まっていた。
「……貴様っ、何を考えて……!」
「いやなに、アンタの顔が、あんまりにも可愛かったもんでね。つい、オレにも悪戯心が芽生えちまったってワケだ。お互い様だろ?」
さっきの自分の言葉を、そっくりそのままの余裕で返され、アーチャーは反射的に顔を逸らした。
この男の笑顔は、時に太陽よりも眩しく、正視できないほどに強く胸を射抜いてくる。
「はっ、戯言を。可愛いだと? 犬の方が、もう少しマシな言い訳を思いつくのではないかね」
「なんだよ、文句あんのか? だったら、意趣返しに、もう一回くらい付き合ってやってもいいんだぜ?」
毒づいても、ランサーは気にする素振りも見せない。それどころか、満足げに喉を鳴らして、再び満開の天を仰いでいる。
「……怒らないのか。クランの猛犬としての矜持はどうした」
「ふはっ。こんなにいい景色で、隣に美味そうな面した野郎がいるんだ。そんな野暮な気分にはなれねぇよ」
その横顔は、見惚れるほどに端整で。
風に靡く青い髪は、どこまでも鮮やかで。
けれど、桜の持つ「狂気」のせいだろうか。その姿が今にも風に溶けて、淡い幻のように消えてしまいそうで──。
アーチャーは、自分でも気づかないうちに、その横顔へと手を伸ばしていた。
もしかしたら、これは本当に夢なんじゃないだろうか。
血生臭い記憶も、終わりのない守護者としての務めもない、ただの一時の、うたた寝が見せている夢。英霊は夢を見ない。それでも、もし、夢だとしたら──。
そんな恐ろしさに突き動かされたその手は、届く前に、ランサーの大きな掌によって優しく受け止められた。
ランサーは、捕まえたアーチャーの指先を自分の頬へと寄せ、愛おしそうに、主人に懐いた大型犬のように、何度も何度も擦り寄せる。
「……何をしている、離せ」
「離さねぇ。そんな淋しそうな顔すんなって。オレがどこへか消えるとでも思ったのかよ」
隠していたはずの、アーチャーの臆病な心を、紅い瞳が正確に射抜く。
だが、その鋭さは決して刃ではなく、凍えた傷口を温める陽光のようだった。
「なあ、アーチャー。来年もやろうぜ、花見」
それは、英霊という「記録」に過ぎない存在には、あまりに重く、そして残酷なまでの願いだった。
来年。
同じ場所で、同じ花を見ることは、きっと叶わないだろう。そんな予感がある。
アーチャーは、その誘いにどう答えるべきか、あるいはどう皮肉るべきか迷い──。
やがて、長年肌に張り付いていた皮肉屋の仮面を、自ら脱ぎ捨てた。
永遠などない。未来も約束されていない。
それでも、今この瞬間の温もりだけは、彼と共に過ごす、あり得ないはずの未来を信じてもいいのだと思えたから。
「……来年が、あればな」
僅かな溜めの後、絞り出したその言葉。
それは、限りなく「Yes」に近い、彼なりの精一杯の約束だった。
ランサーは、その答えを噛み締めるように目を細め、
「応! 覚えてろよ、約束だぜ!」
と、この世の何よりも力強く、命の輝きに満ちた声で応えた。
降り注ぐ花びらの中で、二人の手が重なる。
それは、春の陽だまりの中で交わされた、儚くも確かな、魂の契約だった。