4月 しゃきしゃき筍とぷりぷりエビの塩炒め
引っ越してきたばかりのアパートの部屋を飛び出し、駅までの道を走る。横目に見えた川沿いの桜は早くも散り始めていて、こっちに来てから早くも1週間以上が経とうとしていることに少しばかり驚いた。この3月に他の支店へと異動になり、急いで仕事の引き継ぎをして引っ越しもして、4月に入れば今度は新しい職場での引き継ぎを受けて、そうしてようやく日常が回り始めたところだった。
そろそろ暑くなってきたジャケットに腕を通しつつ足を動かしていれば、すぐに最寄りの駅が見えてくる。初めてのボーナスで買った腕時計は思っていたよりも早い時間を示していて、寝坊に気づいた時はどうしようかと思ったが、なんとか遅刻せずに済みそうだとひとまず胸を撫で下ろした。と、同時に腹の虫が鳴いて、朝飯を抜いたことを今更になって後悔する。どっかコンビニで何か軽く食ってから行くか、それとも買って行って仕事の合間に片手で食うか。そんなことを考えつつ、この辺のコンビニは、と脳内で地図を広げた時だった。
「手作り弁当、えみや…?」
ふと美味そうな匂いが鼻を擽った気がして、思わずきょろきょろと辺りを見渡す。匂いの出処を探してつられるままに道を一本入ったところで見つけたのは、小さなビルの1階の、これまた小さな店だ。オープンの札がかけられた扉の横には、商品の受け渡し口と思しき窓みてえなカウンターがあり、店の中が少しだけ見える。さっきの良い匂いは確かにここから零れてきていて、隣に立っていたのぼりには可愛らしいフォントで、「手作り弁当 えみや」と書かれていた。
いらっしゃいませ、と不意にかけられた声で我に返れば、カウンター越しに顔を覗かせていた、三角巾とエプロンを身に着けた女性と視線がぶつかる。衛生管理のためだろうが、三角巾にきちんと収められた前髪のせいで春の日差しに晒された丸い額に、なぜか心臓が跳ねた気がした。慌てて小さく会釈を返しつつ、店先に立てられていたメニュー看板に目を通すフリをして動揺を誤魔化す。
パッと見た限りは同い年くらいで、おそらくは店員の姉ちゃんってとこだろうか。…正直、こっちを見上げる表情に、素直に可愛いと思った。できればお近づきになりたい、あわよくば仲良くなりたい。そんな下心はなるべく表に出さないよう注意しつつ、代わりにこれで落ちねえ女は居なかったとびきりのスマイルを張り付けて、この美味そうな匂いって、とバカ正直に問いかける。こういう時はストレートが1番効くってモンだ、多分。
彼女は数度目を瞬かせた後、クセなのか髪を耳にかける仕草をして、しかしすぐに前髪は三角巾に綺麗に仕舞っていることに気づいて、ええと、と誤魔化すように手元のメニュー表に視線を落とした。今日の日替わりメニューで、と細い指先が示してくれたのは、これまた可愛いらしい手書きの「筍とエビの塩炒め」の文字だ。なるほど、これが良い匂いの正体だったらしい。美味そう、と素直に零れた感想に、旬ですからね、と彼女が微笑む。
んじゃそれひとつ、あとそっちのサンドイッチも。毎度あり、と手際よく会計を済ませた彼女から弁当とサンドイッチを受け取り、ダメ押しとばかりにもう一度スマイルをお見舞いすれば、ありがとうございます、と答えて僅かに目を伏せた耳がちょっと赤くなっていることに気づいて、心の中で小さくガッツポーズをしたのは許されたい。気を抜くと緩みそうになる頬をなんとか堪えつつ、後ろ髪は盛大に引かれるものの遅刻する訳にもいかず、店を出て今度こそ駅に向かう。
来た道を戻る途中、行儀が悪いとは思いながらどうしても我慢できずにサンドイッチに齧り付く。…その瞬間、俺の身体に衝撃が走った。絶妙な出汁加減の厚焼き玉子、しゃきしゃきのレタスにかりかりのベーコン、そして具材をふわりと包み込むパンの優しい香り。サンドイッチってこんな美味いもんだったか!?と思わず感動したくらいだ。気がつけば一瞬でなくなっていて、あと2つ、いや3つくらい買っておかなかったことが悔やまれる。
いやしかし、と首を横に振った。サンドイッチがこれだけ美味いのなら、弁当の方もかなり期待できるに違いねえ。こりゃ昼休みが楽しみだ。それに、店員の姉ちゃんは可愛いしメニューも美味いし、こんな良い店を見つけるなんざ、今日の俺は間違いなくラッキーだっただろう。そう思うと会社へ向かう足取りはこれまでで1番軽かった。
俺は走っていた。電車を降りて改札を抜け、今朝の記憶を頼りに駅前を全速力で駆け抜ける。何故って、あの弁当屋を探しているのだ。確かこの辺の道を曲がったところに、と辺りを見回せば予想通り、今朝と同じく受け渡し口と扉の並んだ小さな店があった。幻ではなくちゃんと存在していたことにホッと息を吐きつつ、だがのぼりは出ておらず、扉にはクローズの札がかけられている。定時で会社を飛び出したものの、完全に閉店時間を過ぎているらしい。急に全身の力が抜けるのと一緒に、あ~~~、と思わず情けない声が漏れた。
サンドイッチもさることながら、昼に食った弁当に入っていた筍とエビの塩炒めがまた途轍もなく美味かったのだ。シンプルな塩炒めながらも、味付けが筍とえびに良く合っている上に、しゃきしゃきとぷりぷりの食感も最高だった。一緒に入っていた白飯では足りず、コンビニで追加のおにぎりまで買ったほどだ。一瞬で胃を掴まれた俺はどうしても塩炒めがもう一度食べたくて、だが確か日替わりメニューと言っていたからには今日中に店に行かねば、と焦っていたというわけだった。
閉まっちまってんなら仕方ねえ。明日は明日できっと別の美味いメニューが出ているだろう。良い店を見つけられただけでラッキーだった。そう自分で自分に言い聞かせ、よし、と顔を上げたところで、こんばんは、とかけられた挨拶に振り向いた先。…あ、と抜けた声が出た。そこに居たのは、三角巾もエプロンもつけてねえし前髪も降りているが、あの弁当屋の姉ちゃんだ。彼女も俺のことを思い出したようで、あぁ今朝のお客さん、と手を叩く。
どうされましたか、もしかして弁当が口に合いませんでしたか。買い物袋を片手に、そう言って心配げに問いかけてくる彼女に、いやいや逆で!と全力で首を横に振った。すっげー美味くてまた食いたくて、まだ売ってたら買おうと思って。あとサンドイッチもめちゃくちゃ美味くて、もっといっぱい買えば良かったとか思って。…多分、今めちゃくちゃにダサいっつー自覚はある。それでもなんとかあの弁当が美味かったことを伝えたくて、だから必死で言葉を探した。
彼女は嬉しそうにしつつも申し訳なさそうに、ごめんなさい、午前中で売り切れてしまって、と眉を下げた。や、ホント押しかけた俺が悪いってか、明日のメニューもすっげー楽しみにしてるんで。料理作ってる人にも伝えてもらえたら嬉しいっつーか。胃をガッツリ掴まれた俺はただただそうやってしどろもどろにしか話せず、今朝稼いだポイントがどんどん減っていくのをひしひしと感じる。あ~、本当に情けねえ。
「あ、料理は私がやっています」
店も私1人で回していて。そんなに褒めていただいて、とても嬉しい。そう言って照れくさそうに目を伏せた彼女に、え、と思ったよりデカい声が出て、慌てて口を押えた。おいおい、可愛いし料理も美味いし最高過ぎるだろ。急いで当社比200%増しの顔を作り直し、そうだったのか、とオーバー気味なリアクションをしてみせる。なんとかこの場で連絡先くらいは聞いておきたい。そしてゆくゆくは俺のために味噌汁を…ってのは流石に気が早過ぎるか。
日替わりですけど、またあのメニューは作ると思います。SNSでお知らせしているので良かったらフォローしてくださいね。そんな俺の下心なんざ露知らず、彼女がそう言って渡してきた小さな紙切れは、どうやら店の情報が書いてあるショップカードらしい。ソッコーで適当に作ってから全く動かしていないほったらかしのSNSを立ち上げ、店のアカウントをフォローすれば、割引券も差し上げます、また来てくださいね、と彼女が笑う。
それでは、お疲れ様でした。小さく会釈をして店に入って行く彼女の背中を見届け、めちゃくちゃに減った腹を抱えたままふらふらと帰り道を歩き始める。…まだまだ人気の多い夜の駅前で、ッシャ!と盛大にガッツポーズを決めたことも、きっと今夜の俺なら許されるだろう。