「後悔してもしきれないほどの情けなさだった」。平成19年に発覚した大阪有数の高級料亭「船場吉兆」の食品偽装問題。当時任されていた福岡市の物販店でも、賞味期限が切れた洋菓子のラベルを貼り替えて販売する不正があった。
その年の12月には、3回目の謝罪会見を行った。「なんとかうまくいってくれ」。祈るような気持ちでテレビ画面を見つめていた。視線の先に映っていたのは船場吉兆の取締役だった兄と、母の佐知子さん(88)の姿だ。
母と兄は弁護士とともに練習を重ね、想定問答を暗記していた。だが、極度の緊張からか当日言葉が出なくなった兄に、母が助言。そのささやきがマイクに拾われ「ささやき女将(おかみ)」と揶揄(やゆ)された。会見は失敗に終わった。
翌20年には食材の使い回しも発覚し、船場吉兆は廃業。両親は自己破産し、湯木さんには99万円の財産のみが残った。売り上げを追求するあまり、結果として現場を追い込んでいた。「重い十字架」を抱えた気持ちだった。
あきらめなかった料理の道
創業者の祖父の代から培ってきた吉兆ブランドの信頼、伝統、財産…。何もかも失ったが、料理の道はあきらめられなかった。迷惑をかけた関係先におわび行脚を続け、長野県の温泉旅館での料理や接客指導の仕事に就けた。
3年ほどたったころ、転機が訪れた。働きぶりを評価してくれた人から大阪・難波にある6坪ほどの物件を紹介された。カウンター7席のみの小さな物件だが「和食なら出せる」。挑戦を決めた。
「吉兆」の名を背負う資格はないと自分の名字を使って、店名は「南地ゆきや。」に。「一期一会、一客一亭」の精神で、妥協なく最高の料理を提供し、客をもてなすことに集中した。かつての常連客の支えもあり順調に売り上げを伸ばした。
そんなとき、大阪・北新地の一等地にちょうどよい空き物件を見つけた。ただ出店には資金が足りず、銀行の融資も門前払いだった。あきらめかけていたある日、店を訪れた客が「この料理なら新地(北新地)でもいける」と名刺を差し出してきた。信用組合の幹部だった。担当窓口につないでもらい、融資が決まった。
さらに身が引き締まることも起こった。新地の店に見合う器をそろえようとなじみの和食器店を訪ねたときのこと。「いつかこういう日が来ると思っていた。湯木さんの料理にはこの器が似合う」。店主が差し出してきたのは、船場吉兆で使っていた器の数々。廃業後、すべての器は競売にかけられたが、店主は一部を競り落として保管してくれていた。
まるで「船場吉兆」の伝統が受け継がれる「そのとき」を待っていたかのようだった。ずしりとした責任の重さを感じた。
北新地に店オープン、今では系列4店舗に
初出店から1年後の平成23年、北新地に「日本料理 湯木」をオープンさせた。今では大阪市内に系列の4店舗を展開。かつての教訓から「食の安全」を何より大切にする。4店の料理で使う食材はすべて自ら確認し、組織内でのチェック体制も徹底した。店にはかつての常連客や政財界の大物も足を運んでくれるようになった。佐知子さんが顔を出すこともある。
いつしか過去に背負った十字架は「道しるべ」となっていた。「毎日、最高の料理を出すことに集中していたらチャンスが与えられた。周囲には感謝しかない。どん底からでも、人間は何度だってやり直せる」(永井大輔)
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「頂」へ 「険しい山々」に挑んだからこそ、見ることができる光景がある。「頂(いただき)」を目指し、歩み続ける人々は、立ちはだかる困難をいかに乗り越えてきたのか。それぞれの道程と不屈の歩みに迫る。