武士には「士道」がある。
その基本は儒教の「君に忠」「父母に孝」であるという。
しかし、時には君に忠を尽くそうとすれば、父母に対する孝が立たないことがある。忠臣蔵においても、「主君に忠たらんと欲すれば、親に孝ならず」と悩み自刃する者もいた。主君の仇を討とうとすれば、親が願う士官の道をあきらめなければならず、親を哀しませることになる。その板ばさみのなかで死を選ぶというのは切ない物語である。だからこそ忠臣蔵の物語は今もなお日本人の心をうち、繰り返し映画やテレビドラマとして描かれ続けてきた。
矛盾に悩み、苦しみぬいて選ぶ「道」がある。「武士道とは死ぬこととみつけたり」と有名な言葉があるが、簡単に命を投げ出せばそれが武士道なのかといえば、多分違うのだと思う。自分の命の大切さを知り、親や家族との絆の深さを知り、それでもなお死を覚悟してより公的な道を歩むところに崇高な「士道」があるのだろうと推察する。
キリストが「人がその友のために命を捨てること、これより大いなる愛はない」と語っているが、これもまた自身の命がどれだけ尊いかがわかっていて、その命を投げ打つことができるとき、最高の愛の姿があらわれるということと解釈できるのではないか。どうでもよいと思っている命を投げ出してもらっても、それが愛であるかどうかはかなり怪しいといわざるをえないからである。
自身が大切だと思っているモノを、より公益のために投げ出す決意と勇気を生み出すためには相当な矛盾と葛藤を通過しなければならないだろう。実はこの過程に人間的な深みを刻まれるのではないかと思う。葛藤の末に出した結論は「深み」がある。この過程を通じてはじめて、誰も反論できない迫力をかもし出すことができるのではないだろうか。
いうなれば矛盾に悩み、葛藤しない人は人間的な「深み」を手にすることができないということである。
山本七平氏は「人望の研究」のなかで、リーダーには九徳が必要であると主張する。
九 徳
寛(かん) にして栗(りつ) (寛大だが、しまりがある)
柔(じゅう)にして立(りつ) (柔和だが、事が処理できる)
愿(げん) にして恭(きょう) (まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
乱(らん) にして敬(けい) (事を治める能力があるが、慎み深い)
擾(じゅう)にして毅(き) (おとなしいが、内が強い)
直(ちょく)にして温(おん) (正直・率直だが、温和)
簡(かん) にして廉(れん) (大まかだが、しっかりしている)
剛(ごう) にして塞(そく) (剛健だが、内も充実)
彊(きょう)にして義(ぎ) (剛勇だが、義しい)
この徳目をみれば、左側の徳と右側の徳は正反対である。
寛大である人は意外としまりがないし、しまりのある人はなかなか寛大になれない。この矛盾を統合することができる人は相当な人格者ということができるだろう。山本氏は左側の徳があるでだけでも素晴らしい人格であるといい、右側の徳を同時に備えることでより高い人格となると指摘する。
山本氏は、どちらか一つの徳をもっていればまだしも、両方の徳のないリーダーのもとで仕事をするのは大変なことであるといって、困ったリーダーを次のように表現した。
十八不徳
*こせこせとうるさいくせに、しまりがない
*とげとげしいくせに、事の処理ができない
*不真面目なくせに、尊大でつっけんどんである
*事を治める能力がないくせに、態度だけは居丈高である
*粗暴なくせに、気が弱い
*率直にものを言わないくせに、内心は冷酷である
*何もかも干渉するくせに、全体がつかめない
*見たところ弱々しくて、内も空っぽ
*気の小さいくせに、こそこそと悪事を働く
(尚書の皐陶謨編/人望の研究より抜粋)
人間的な「深み」は、どれだけ公益のことを意識し、矛盾と向き合い葛藤することで結論を出す過程のなかから生み出されるものではないかとあらためて思う。矛盾と向き合い葛藤することは本当はとても素晴らしく、美しいことなのかもしれない。
その基本は儒教の「君に忠」「父母に孝」であるという。
しかし、時には君に忠を尽くそうとすれば、父母に対する孝が立たないことがある。忠臣蔵においても、「主君に忠たらんと欲すれば、親に孝ならず」と悩み自刃する者もいた。主君の仇を討とうとすれば、親が願う士官の道をあきらめなければならず、親を哀しませることになる。その板ばさみのなかで死を選ぶというのは切ない物語である。だからこそ忠臣蔵の物語は今もなお日本人の心をうち、繰り返し映画やテレビドラマとして描かれ続けてきた。
矛盾に悩み、苦しみぬいて選ぶ「道」がある。「武士道とは死ぬこととみつけたり」と有名な言葉があるが、簡単に命を投げ出せばそれが武士道なのかといえば、多分違うのだと思う。自分の命の大切さを知り、親や家族との絆の深さを知り、それでもなお死を覚悟してより公的な道を歩むところに崇高な「士道」があるのだろうと推察する。
キリストが「人がその友のために命を捨てること、これより大いなる愛はない」と語っているが、これもまた自身の命がどれだけ尊いかがわかっていて、その命を投げ打つことができるとき、最高の愛の姿があらわれるということと解釈できるのではないか。どうでもよいと思っている命を投げ出してもらっても、それが愛であるかどうかはかなり怪しいといわざるをえないからである。
自身が大切だと思っているモノを、より公益のために投げ出す決意と勇気を生み出すためには相当な矛盾と葛藤を通過しなければならないだろう。実はこの過程に人間的な深みを刻まれるのではないかと思う。葛藤の末に出した結論は「深み」がある。この過程を通じてはじめて、誰も反論できない迫力をかもし出すことができるのではないだろうか。
いうなれば矛盾に悩み、葛藤しない人は人間的な「深み」を手にすることができないということである。
山本七平氏は「人望の研究」のなかで、リーダーには九徳が必要であると主張する。
九 徳
寛(かん) にして栗(りつ) (寛大だが、しまりがある)
柔(じゅう)にして立(りつ) (柔和だが、事が処理できる)
愿(げん) にして恭(きょう) (まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
乱(らん) にして敬(けい) (事を治める能力があるが、慎み深い)
擾(じゅう)にして毅(き) (おとなしいが、内が強い)
直(ちょく)にして温(おん) (正直・率直だが、温和)
簡(かん) にして廉(れん) (大まかだが、しっかりしている)
剛(ごう) にして塞(そく) (剛健だが、内も充実)
彊(きょう)にして義(ぎ) (剛勇だが、義しい)
この徳目をみれば、左側の徳と右側の徳は正反対である。
寛大である人は意外としまりがないし、しまりのある人はなかなか寛大になれない。この矛盾を統合することができる人は相当な人格者ということができるだろう。山本氏は左側の徳があるでだけでも素晴らしい人格であるといい、右側の徳を同時に備えることでより高い人格となると指摘する。
山本氏は、どちらか一つの徳をもっていればまだしも、両方の徳のないリーダーのもとで仕事をするのは大変なことであるといって、困ったリーダーを次のように表現した。
十八不徳
*こせこせとうるさいくせに、しまりがない
*とげとげしいくせに、事の処理ができない
*不真面目なくせに、尊大でつっけんどんである
*事を治める能力がないくせに、態度だけは居丈高である
*粗暴なくせに、気が弱い
*率直にものを言わないくせに、内心は冷酷である
*何もかも干渉するくせに、全体がつかめない
*見たところ弱々しくて、内も空っぽ
*気の小さいくせに、こそこそと悪事を働く
(尚書の皐陶謨編/人望の研究より抜粋)
人間的な「深み」は、どれだけ公益のことを意識し、矛盾と向き合い葛藤することで結論を出す過程のなかから生み出されるものではないかとあらためて思う。矛盾と向き合い葛藤することは本当はとても素晴らしく、美しいことなのかもしれない。
コメント