「生で観る野球」は具体的に何が凄いのかという話
考えてみれば、情報を得るという意味ではテレビの中継やネットの配信で野球を観戦した方が正確で確実ではある、実況も解説者もいるし。
しかし「生」での観戦が好きだという人はその人なりのこだわりを持っている。そのメリットというか魅力は何かと問われると、雰囲気とか臨場感とか迫力とか、アイコン化された表現しか出てこなかったりする。
それでも魅力があるのは事実なので、私の考えが万人共通ではないとは思うが、私なりにその「魅力」を言語化してみようと思う。
一本の「凄いホームラン」を見たとする。テレビやネットで試合を観戦している場合のそれを振り返ってみると、まずセンター後方からのアングルで投手が投げ、打者が打つ。この時視界には投手と打者と捕手と主審しかおらず、ボールは既にフレームの外である。
その後、打球がスタンドに入るまで、カメラは打者の表情、投手の表情、観客の様子、打球を追うのを止める外野手、そして着弾するボールを順番に収めようとする。必要な情報はこれで完璧だ。
同じシーンを、例えば一塁側内野席の上の方で見たとする。視界の左端には打者がいて、右端には外野スタンドがある。
視界の左端から発した打球はそのまま視界を横切り、右端に着弾する。さて、それがテレビの中継やネットの配信と何が違うのか。
映像では、「今映されているもの」以外は見えない。しかしその場で見ていた人たちは、「凄いホームラン」の一部始終を「同一の視界」に収めている。見え方は座っている場所によって違ってはくるが、インパクトから着弾まで、同一の視界で完結するのである。テレビの中継やネットの配信では、今のところ誰にでもそれはできない。
だから何なのかと言うと、テレビの中継やネットの配信がどう頑張っても、「打者の表情」や「投手の表情」や「観客の様子」や「打球を追うのを止める外野手」や、飛んでいるボールのアップは、それぞれがそのホームランに付随する断片的な情報以上のものにはならないのに対し、それを「生」で観た人々は、そのホームランが、野球場という、野球においては世界であり宇宙である空間においてどの軌道をどんな勢いで飛んだのか、という絶対値として知る事ができたわけだ。
例えば「彼はNo.1だ」というだけでは情報として不十分だが、「何のNo.1なのか」「何人中のNo.1なのか」がわかればその具体的な凄さがわかるのに近い。変な例えではあるが。
要は、断片的に伝えられる映像は「情報」であって、現場で見たそれは「実物」という事だろうか。「雰囲気」とか「臨場感」とか「迫力」という言葉を使わずに説明を試みるとホントに伝わらないものだと実感するが、少しでも伝われば幸いである。
「情報」という部分では、全体を俯瞰できる現場の観客は、テレビの中継やネットの配信では伝わらない部分を自ら取得できる、というメリットもある。例えば内野がスクイズを警戒している時の「レフト」の動きといった優先度の低い情報とか。あらゆる局面で自分が見たい部分が見れるという面も、生観戦のメリットには違いないが、「雰囲気」とか「臨場感」とか「迫力」という側面から語ろうとするとそうしたメリットは見過ごされがちではある。しかしこの要素こそが、一本のホームランを例にこれまで述べようとしてきた「生観戦の迫力」と実はイコールなのだとも言える。
ではテレビの中継やネットの配信で全体を俯瞰できるようになって欲しいかというと、固定カメラ1台でやっているような配信ではやはり欲求不満になるので、やっぱり映像は映像らしく臨機応変に必要な部分だけを見せて欲しいと思うところが不思議ではある。



コメント