フィリピンの首都マニラから北に約50キロの都市サンイルデフォンソに、外壁の色の特徴から「赤い家」と呼ばれる2階建ての洋館がある。太平洋戦争での日本の降伏まで1年を切った1944年11月、ここは旧日本軍兵士による集団性暴力の現場となった。
過去の反省に根ざした平和外交をアピールしてきた戦後日本の姿勢も奏功し、今やフィリピンは世界有数の親日国だ。しかし、日本の侵攻による犠牲者は推定約110万人に上る。全土でさまざまな残虐行為が語り継がれ、中でも赤い家は、暴力に駆り立てられた人間の狂気を戒める象徴的な戦争遺跡として広く知られるようになった。
戦後80年を経た今、赤い家は朽ち果てる寸前になっている。所有者は、フィリピンでは知られた資産家一族の一員。サンイルデフォンソ市は記念館として再建させようとしているが、財政面で困難に直面し、計画の先行きは不透明なままだ。(共同通信マニラ支局=菊池太典)
▽「8歳の私にキスをした」
1929年に建てられた赤い家は、1944年11月23日に近くのマパニケ村で発生した、日本軍による残虐行為の記憶と結びついている。今もマパニケ村に暮らす生存者のマリア・クイランタングさん(89)は振り返る。
「あの日の朝、爆発に続いて『抗日ゲリラはどこだ!』と叫ぶ声が聞こえました。日本兵は村の全ての男たちを学校に集め、拷問しました。私の父と3人の男兄弟もその中にいました。私の家はただの農家でゲリラとは関係ありません。それでも4人とも、私の目の前で殺されました。拷問の後、日本兵は村の男たちを一つの部屋に押し込め、火を付けたのです」
日本兵は民家の食料や家財道具を略奪し、それを女性たちに命じて赤い家に運ばせたという。
「赤い家で日本兵にキスをされ、体中を触られました。8歳だった私はそれで解放されましたが、村の女性がそこでレイプを受けていたことを後に知ることになりました」
マパニケ村の住民を含め、当時は周囲の女性たちが赤い家に集められ、そこで日本兵の相手をするように強いられていたようだ。被害を語ることをタブーとしてきた多くの女性たちが口を開きだしたのは、従軍慰安婦問題が国際的に注目された1990年代に入ってから。国連女性差別撤廃委員会は2023年、フィリピン政府に対し、赤い家の被害者救済を怠ったとして是正を勧告した。
▽館に近づくと…
今、赤い家のすぐ脇には幹線道路が通り、車とオートバイがひっきりなしに行き交う。近づいてみると、ひび割れたむき出しの木の柱が屋根を支えているのが分かる。崩れ残った壁は、不安定な土台にかろうじて乗っていた。床を失った内部には草が茂っており、既に廃虚となっていた。
13年前からそばで食料品店を営んできたリチャード・ベラルデさん(55)は「来たばかりの時はまだ窓も残っておりきれいだった」と教えてくれた。当時は建物を管理する人がいたが、いつしか放置されるようになり、荒れてしまったという。ベラルデさんが見せてくれた昔の写真には、周囲の草が刈り込まれ、2階の壁まで一面に赤く塗られた建物の姿が写っていた。
▽「討伐スヘシ」の文字が
マパニケ村が襲撃を受けた事実は日本側の資料とも整合しており、クイランタングさんらによる証言の信頼性の高さを裏付けている。日本の国立公文書館から入手できる、当時のフィリピンに展開していた陸軍戦車第2師団内の作戦命令書からは、1944年11月23日にマパニケ村を襲撃する命令が出ていたことが読み取れる。
襲撃前日となる22日付の命令書では、マパニケ村付近で抗日ゲリラが食料を略奪中だとする分析が記載されている。少佐を隊長に任命した上で、詳細な部隊編成を示しつつ、23日に「『マパニキ』附近集結中ノ匪賊ヲ討伐スヘシ」と命じている。作戦内容を具体的に記した「参謀長指示」では「俘虜ヲ一團(団)ニ集合セシメ」て情報を聞き出すとし、戦いで勝ち取った食料や物品の持ち帰り先を詳細に指示していたことをうかがえる記述もある。
1944年は、10月20日に、連合国南西太平洋方面軍のマッカーサー司令官がフィリピン奪還を目指し中部レイテ島に上陸した。マパニケ村の襲撃は、日本にとっていよいよフィリピンでの戦いが苦境に陥った時期と重なる。日本側の資料と現地の証言からは、慎重に情報を分析して戦闘員と民間人を選別する余裕もなく、規律を失った兵士たちの姿が浮かび上がってくる。
▽予算が足りない
地元で起きた惨劇を今にしのばせる赤い家を後世に残そうと、サンイルデフォンソ市は廃虚を再建させたい意向だが、計画は進んでいない。市で問題を担当するデニーズ・ヘルナンデスさんによると、最大のネックは土地と建物が個人の所有物であることだという。
「所有者側からは、赤い家が建つ敷地の売却額として2千万ペソ(約5300万円)の提案がありました。しかし市の予算ではその額に応じる余裕がありません。フィリピン国家文化芸術委員会(NCCA)に補助を申請しましたが返答が来ません。国の補助や民間の支援で資金を確保するか、所有者が寄贈してくれるかしない限り、再建は不可能です」
所有者は、フィリピンでは知られた資産家一族の一員だ。共同通信マニラ支局のチームは寄贈の意志がないかメールで問い合わせたが「コメントはない」との返答だった。
▽再建には賛否も
NCCAメンバーでもある建築家ジョエル・リコさんは「赤い家は1年以内に倒壊しかねない」と警鐘を鳴らす。その上で、フィリピン政府は日本との関係を気にして再建に消極的なのだろうと推測する。
「過去の暴力の記憶を継承することは現在の日本を非難することにはつながりません。日本のみなさんにも赤い家の現状に関心を持ってもらい、再建に協力してもらいたいです」
ただ再建計画には誰もが賛成というわけではない。「今でもあの家の前を通るとつらい思い出がよみがえります。記念館などにしないで、朽ちていくままにそっとしておくのでよいと思っています」。幼少時のトラウマを引きずりながら80年以上を生きてきたクイランタングさんは願っている。
サンイルデフォンソのフェルナンド・ガルベス市長は、再建には賛否があることを理解しつつも、それでも市として計画を進めたい考えだという。市長は思いをこう強調した。
「既に赤い家は欠かすことのできない歴史の一部です。戦争の悲惨さを伝え続ける存在として、私たちには未来の世代に継承していく責任があるのです」