【再録】こえに、焦がれる
リーマン槍×車掌弓のおはなし。
車掌弓の声に恋焦がれるリーマン槍さんが色々とがんばります。
2023年蒼天で頒布したコピ本です。
会場で、通販でお手に取って下さりありがとうございました。
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こえに、焦がれる
ガタン、ガタタン、と車輪がレールの上を走る音がする。午前七時三十分、通勤ラッシュの時間帯。駅から駅へと速度を上げて走る電車が、緩やかなカーブを切った。
「ぐっ……」
斜めになった身体に、容赦なく周りの重心が圧し掛かる。乗客率250%の電車内は身動き一つする事さえ難しい。吊革に掴まってはいるものの、腕一本だけでは支えきれず、攣りそうになる足で踏ん張って耐えた。
窓の外は流れるように風景が過ぎていく。だがそれを楽しむ余裕さえ、今のランサーには欠片もない。
周りよりも頭一つ分高い長身のせいか、周りよりも大柄なせいか。満員電車の中で無意識に彼に寄りかかる人間は少なくない。支えきれるから良いものの、夏場は暑いし、重いので、正直、やめて欲しいと思わずにはいられない。
疲れる以外の何物でもない密閉した空間。
なのに何故、毎日毎朝この電車を利用しているのか。
それには一つ、大きな理由があった。
『本日は冬木中央本線をご利用頂き、誠にありがとうございます。この電車は──経由、──行き……』
(きた────!)
ランサーは待っていましたとばかりに耳をそばだてる。一字一句、聞き落としの無いように必死で声を追った。
艶のある、深味のある声。毎日、毎朝、この通勤電車でしか聞くことの出来ない車内放送。
これこそ、自分がこの満員電車に文句一つ言うことなく乗っている理由である。
『この電車の運転手は──、車掌はエミヤです』
じんわりと腰にくるベルベットボイス。ほぼ毎日、この声に送りだされていると言っても過言でないほど、耳に馴染んでしまっている。
(エミヤ、さんか……)
駅の到着アナウンス、他線の運行状況、その他諸々、マニュアル通りの言葉であると分かっているが、この声に乗せて発せられれば忽ち癒しの音源へと変化する。
『お降りの際はお手回り品を今一度確認の上、忘れ物の無いようお気を付けください』
『本日、──駅は大変込み合っております。押しあわず、順次、お降りくださいますようお願い申し上げます』
雨天日限定ボイスの『本日は雨ですので、足元にお気をつけて』が聞けた日は運がいい。
己の運が良くない方だと、ランサーは自覚している。だからこそ、この台詞が聞けた日はじっくりと幸せを噛みしめていた。憂鬱しかなかった雨の日も、この声のために乗っているのだ、と思えば気分が高揚するというもの。
『次は○……ンンッ、失礼いたしました。△△駅、△△駅でございます。──線へお乗り換えの方は……』
なんてボイスが聞けた日は幸運だ。エミヤさんには悪いが、思わずガッツポーズをキメてしまう。
実はこのエミヤさん、車内放送で間違える事が殆どないのだ。訂正ボイスなぞ、レア中のレア。まさにSSR。普段の流れる様な車内放送の中に、不意打ちで聞ける『失礼いたしました』ボイス。間違えに気付いた時の掠れた咳払いも含め、最上級のご褒美となっている。
失礼いたしました、と流れる音源に向かって「むしろご馳走様です。今日も仕事、頑張れそうです。ありがとうございます。できればまた、不意打ちで聞かせてください」と感謝の意を述べたい。
毎日の憂鬱な通勤ラッシュでこの声に出会ってから、満員電車に対する意識は大きく変わった。相変わらずの密集率で辟易することもあるが、エミヤさんの声があれば全てを乗り越えられる気がする。
『次は新都、新都です』
幸福なひと時の終わる合図が、愛おしい声を通して聞こえてくる。電車は速度を落とし、ランサーの勤める会社の最寄り駅へと入っていく。今日の癒し時間はこれで終わりかと、背に流した青髪をしょんぼりさせながら、出口へ向かう人流に抗うことなく下車したのだった。
『いつも冬木中央本線を利用している者です。
通勤時間帯に利用させて頂く事が多いのですが、車掌のエミヤさんの声に毎日とても癒されています。
毎日、満員電車の中で苦しい思いをしていたのですが、エミヤさんの車内放送に出会えたことが自分の中で救いでした。
またエミヤさんの車内放送の正確さに、感銘を覚えています。
先日、他車線の人身事故の影響で大きく遅延になった日、自分は偶々普段と違う場所に向かう予定でした。どの線を使えば早く着くのか全く見当がつかず迷っていたのですが、エミヤさんの連絡線アナウンスのおかげで無事に遅刻することなく到着することが出来ました。本当に感謝しております。
それだけでなく、普段のちょっとしたアナウンスもとても助かるものばかりで、エミヤさんの車内放送のおかげで降り忘れもしたことがないですし、忘れ物も気付くことが出来ました。いつもありがとうございます……(以下、感謝の意を述べる長文)』
「……これは、ありがとう、というべきか?」
社員の休憩室で一枚の用紙を片手に唸る声がひとつ。
冬木中央本線の社員、衛宮アーチャーは、耐え切れないとばかりに頬を引き攣らせた上司から「ふふっ、貴方宛てよ?」と渡されたお客様用お問合せフォームの長文を、何とも言えない表情で眺めていた。
名指しで、問い合わせフォームの決して少なくはない文字制限限界まで入力された言葉の羅列。どれもこれも全て、自分の声の魅力と、対応が如何に良いものか、そしてそれがどれだけ日々の仕事や生活の糧になっているのか、という賞賛で溢れている。
「良い、ん、じゃないっすか?……ぶふっ」
「笑いながら言われても説得力にかけるぞロビン」
「いやいや、この仕事しててこんなに褒められる事、滅多に無いですって。困惑するのも分かりますけど、変なことは書いてないですし、上もそれを見越して渡してきたんでしょ」
手中の紙を覗き込み、腹を抱えて笑う同僚のロビンに、胡乱気な眼差しを向ける。
「お願いごとまで書いてありますよ」
「お願い?」
ここ、と、指で差された、メッセージの最後に視線を向ける。そこに記載された文を見て、思考が一旦停止した。
『ひとつ、お願いしたいことがあります。難しいようでしたら構いません』
『一度だけでいいので、通勤ラッシュ時間帯に新都駅のアナウンスをする際、「いってらっしゃい」と言って頂くことは可能でしょうか』
「は?」
横で紙を覗き込んでいた同僚はついに腹筋が崩壊したのか、休憩室の床に転がりそうになる勢いで笑っている。
エミヤは硬直したままの思考で、再度、メッセージの文字を見つめた。
いってらっしゃい……?見送りの挨拶を、アナウンスで?しかも、特定の駅の時に言って欲しいと?
「まあ、他車線だと時々そういうアナウンスする人いますよね」
「しかし、個人の判断でこんなことを勝手にやってしまって良いのだろうか」
「それを言うなら、遅延で迂回ルートを馬鹿丁寧にアナウンスするのも同じだと思いますけど」
「うちの線は色々な路線と繋がっているんだ。いつもと違う乗り換えに不慣れな人もいるだろう。駅案内で調べたとて、本当にそれであっているのか不安になる人もいる。そういう人の助けになればと……!」
「分かってますって。変なこと言わなきゃ多少は許してくれますよ。駄目ならその手紙、渡しませんって。それに新都駅ってオフィス街が多い駅なんで、多少アナウンスが違ってても違和感ないと思いますよ?」
「そう、かね」
「そうですって」
「とりあえず、許可は必要だろう」
「やっぱりアンタは真面目だなあ」
「社会人として当たり前のことをしているだけだがね」
何かあったら困ると、翌日、直属の上司に確認したところ「そんなの全然いいわよ!むしろ好評だったらアンタ以外の人もじゃんじゃんやっちゃって!」と即OKの指示が下りる。
「ということになった」
「うわぁ」
ご愁傷様、と呟く同僚にどこか吹っ切れたのか、好評だったら君もやるんだぞと、とても朗らかな(諦めた、とも言う)笑顔を向けたのであった。
◇
今日も今日とて、乗客率250%を越える満員電車に押しつぶされそうになりながら、乗客のひとりであるランサーは朝のラッシュを迎えていた。
月末が近いせいでランサーの会社では連日、残業祭りが開催されている。
名の知れたホワイト企業で、残業代は翌月の給与できっちり支払われる。が、毎日、大量に舞い込む仕事を捌ききるのは大変で、苦痛の一言に尽きる。処理しても処理しても次から次へと舞い込んでくる仕事の山。内容によっては納期がシビアなものもあり、全身が疲労を訴えていた。
そんな状態でもなんとか仕事をやりこなせているのは、ひとえにエミヤさんの車内放送のお陰である。
(あああああ……)
乗客が詰め込まれた車内で揺られながら、ランサーは内心、頭を抱えていた。
終業時刻がギリギリ終電に間に合うかどうか、という残業が五日間続いた日。
遂に抑え込んでいた衝動が爆発したのである。
終業後、身支度を整えたランサーは終電列車に飛び込むと、虚を見つめる瞳で携帯端末のロックを解除した。遅延情報を見るために待ち受け画面にブックマークした冬木中央本線のホームページを開くと、お問合せフォームをタップする。そして黙々と、帰路に着くまでの間、胸に抱え続けた衝動をそのまま送ってしまったのである。
(何で自動送信メール削除したんだオレ……。ご丁寧に削除済アイテムまで全消去してるし、何送ったのか分かんねぇじゃねぇか!)
完全に詰み、である。
薄っすら『返信は不要です』と記載したことだけは覚えている。もっと別の、重要なことを記憶してろよ……と唸ってしまうのも仕方ないだろう。せめて、変なことは送っていないと過去の自分を信じたい。
『この電車は急行──行きです。次の停車駅は──駅となります。各駅停車にお乗り換えのお客様は次の──駅でお降りください』
今日も疲労感に苛まれている身体を労わるように、じんわりとしみ込む癒し度一〇〇パーセントボイスが聞こえてくる。
いや、内容はマニュアル通りの車内放送なのだが、エミヤさんの声帯を介しているだけで、全身が蕩けるくらいの破壊力が追加されるのだ。
ほんと、すげぇいい声だよなぁ……。
ぼう、と呆けた頭でランサーはただひたすら、声に集中していた。
『次は新都、新都です』
終わりの時間が近づいてくる。これで終わりだなんてあんまりだ、もっと聞かせてくれ!と喚きたくなるが、通勤で使用している身で我儘は言っていられない。せめて行ってらっしゃいの一言でもあれば、それを糧に頑張ることが出来るのだが。
後ろ髪を引かれる思いを抱きながら扉に近付いた所で、いつもなら『お降りの際は──』と続く言葉が流れてこないことに気付く。
『……朝早くからのご利用、誠にありがとうございます。お気を付けて、行ってらっしゃいませ』
「……へ?」
はた、と足が止まった。
イッテ、ラッシャイ、マセ。いってらっしゃい、ませ。行ってらっしゃいませ──……
耳からするりと流れ込んだベルベットボイスが、瞬く間に全身を駆け巡る。
初めに自覚したのは両の手だった。ぶわ、と火傷しそうなほどの熱が手に籠もり、次々と点火して全身に広がってゆく。最後は胸の中心まで。その威力たるや、疲弊した脳が処理落ちし、息が止まるほど。
「……っは!……はっ、はっ、は……っ」
──────やばい。
ドクリ、と心臓が大きく跳ねる。
詰まった息を整えようと、胸に手をあてた。全身が一つの心臓になったように大きく脈打ち、呼吸が荒れる。バクバクと激しく心臓が収縮するせいで胸が痛い。急速に、顔に熱が集まっていくのが分かる。周りから見たら、今、己の顔は真っ赤に染まっていることだろう。
暴れ狂う心臓は収まる気配を見せず、むしろ、より激しさを増すばかり。何より、下半身の熱の集まりようが酷かった。
降りる直前で本当に良かった。ランサーは前かがみになりながら、駆け込むように駅のトイレへ走って行ったのだった。
◇
そういやエミヤさんってどんな人なんだろうか。
昼時、自分のデスクで二個目のカップ麺を啜っていた時のこと。ぼんやりと、かの癒しボイスに想いを馳せていたランサーは、車掌のエミヤさんについて声以外、何も知らないことに気が付いた。
先日、股間の息子が暴発寸前にまで追い込まれる経験をした突然の車内放送。その日から新規ボイスとして導入されたらしい『行ってらっしゃいませ』は、ランサーの活力の源となっている。
今朝も、降りる直前に叩き込まれたボイスで全身が硬直し、膝の力が抜けそうになった。が、逆にやる気と気力は急速充電以上の速さで充填され、それを糧に今月の中で最上級の処理スピードで仕事を片付けたのだ。
一度くらいは見たことあるか?と自問してみるも、脳裏には輪郭すら浮かばない。声だけなら何パターンも再生できるのに。淡々と紡ぐ声、少し焦りを含んだ声。間違えた時の息を止める音。掠れた咳払い。鉄道関連イベントで料理のお知らせをするときの、ちょっと浮足立つような生き生きとした声。
いつも効率重視でエミヤさんの姿が見られる最後尾に乗らないからか。休日も時折この路線を使うが、乗るのは中間車両。
(……。よし、乗るか!最後尾!)
ガタリ、と勢いよく椅子を立つ。
だがしかし、仕事の日は難しい。朝の時間は貴重なのだ。今週末の休日でも、と逡巡したが、今までの経験上、あの愛おしい声に当たるのは殆どが平日の朝。
ならば、コレを使わない手はない。幸い、手持ちは山ほどある。普段使うことのないコレをいつ使う?そりゃぁ、今だろう────!
思い立ったら即行動。ランサーは愛しの声の主の姿を一目見るため、有休申請書を片手に上司の元へ向かうのであった。
「すんません社長!!明日有休下さい!!」
「たわけ!急すぎるわ!だが此度(月末処理)の働きで一番貢献した雑種に褒美をやらぬなど、コトミネが良くてもこの我が赦さん!いいだろう!くれてやる!ただし、分かっているな?」
「他に影響が出ないようにしろって言うんだろ?まかせなぁ!」
翌朝、午前七時三十分。
普段のスーツ姿ではなく、ラフな白シャツ、風よけのための深い青色のカーディガン、革のズボンという格好でランサーはホームに立っていた。
本当は、始発駅から利用したかった。
だが如何せん自宅の最寄り駅は、始発駅から十駅離れた場所。目的を考えるといつも通り、同じ電車に乗るほうが出会える可能性が高いと踏んだのである。あわよくば渡せないかと思い、昨晩、残業でヘロヘロになりながら閉店間際の洋菓子店に滑り込み、購入した焼き菓子を片手に持つ。
(ICカードのチャージは十分だ──!)
ぐっと、ICカードアプリの入った携帯端末を握りしめる。毎日、通勤で利用している電車がホームに到着した。
通勤で乗っている中間車両ほどではないが、時間が時間だからか電車内はほどほどに混みあっていた。車掌室が見える窓側に行こうにも人が多く、座席側に移動する他ない。
人よりも頭一つ分抜き出ている長身を活かして、何とか人影だけでも見られないかと車掌室の方へ視線を向ける。幸い、窓枠のある壁で区切られていたため、中の様子が伺えた。
目に飛び込んでくる、己と同じくらいの体格をした男。帽子から覗く白髪と、首筋から分かる褐色の肌。鍛えているのか、制服で包まれているにも関わらず、その下に立派な筋肉が隠されているのが分かる。
階段やエスカレーター、エレベーター付近の中間車両から乗り込む乗客が全て乗り終えたのを確認したのだろうか、腕を伸ばし、指差し確認をひとつ。
「────よし」
小さく聞こえた声に、背がぞくりと震えた。
ジリリリ、と扉が閉まる合図が鳴る。車掌室に戻った男は、扉についた小窓から少し顔を出す。白の手袋に覆われた手が、電車の開閉スイッチを慣れた手付きで押した。ゆっくりと、進行方向に向けて電車が動き出す。
次の駅まで、急なカーブはない。それでも揺れるときはあるので、ランサーは吊革を掴んだ。毎日乗る電車に私服姿でいるから、だろうか。何故かすこし、むず痒いような気持になる。
ガタン、ガタタン、と乗り慣れた揺れが足を伝う。それに対し、重心を動かし、周りの迷惑にならないよう体幹に力を込めた。毎日すし詰め状態の中間車両では、眺める余裕のない窓の景色も、今日は見てみようと思える。乗る場所が違うだけでこんなにも変わるのか、と流れる景色に目を向けた。
『本日も冬木中央本線をご利用頂き、誠にありがとうございます。この電車の運転手は──、車掌はエミヤです』
先程、背を震わせた愛おしい声が車内放送用のスピーカーを通して頭上から聞こえてくる。
やはり聞き間違いではなかった。ランサーは心の中でガッツポーズをキメた。
車掌室を覗ける窓にちらりと視線を向ければ、腕の時計を見ながらマイクを片手に、淡々と言葉を紡ぐ車掌の姿。
(あいつが、この声の持ち主、エミヤさんだったのか……)
焼菓子を持つほうの手で目を覆う。ありがとう神よ。そんな面持ちで天を仰いだ。
正直に言おう。とても好みだったのだ。以前からその欠片はあった。だが確信は無かった。それが実際に姿を見て、はっきりと自覚した。
──自分は車掌のエミヤさんに恋をしている。
だからと言って、急に距離を詰めることは出来ない。それをすれば、この気持ちは相手にとって迷惑以外の何物でもなくなってしまう。ひとまず、エミヤさんへの気持ちを確認できたことが本日の大収穫だったと思おう。できれは、この右手にある甘味を受け取ってくれると嬉しいが。
ランサーは携帯端末で今日の予定をふり返る。有休を使ってまで作った休日。愛しの声に頭がいっぱいで、エミヤさんをひと目見る以外、なんの予定も入っていなかった。それも達成された今、この後の時間は全て自由時間。となれば、折角の機会だと、普段やれないことを思う存分堪能することに決める。すなわち、〝エミヤさんの声を思う存分聞きまくる〟という、通勤時では決して出来ない、贅沢な時間の使い方。
昨日までの残業の日々を思い出す。それくらいのご褒美を貰ってもいいのではないか、とタイミング良く空いた車掌室側の端座席に腰を下ろした。
『次は新都、新都です』
会社の最寄り駅を告げる声が流れる。いつもであれば「今日の癒しタイムは終わりか……もっと聞きたかった」としょんぼり肩を落とす所だが、今日は存分に堪能できるという事実に胸奥から幸福感が沸き起こる。
そういや、そろそろ、あの破壊力抜群の『行ってらっしゃいませ』ボイスが聞けるんだよなぁと車掌室へちらりと視線を投げた。
『……』
そこには眉間に皺を寄せ、マイクを片手に、口を閉じているエミヤさんの姿があった。どうしたのだろう、と思わずガン見し続ければ、自分の視線に気づいたらしい。バチリと灰色の瞳と赤が交わる。制服に包まれた肩がビクリと揺れ、頬に朱が差した。
『……っ、朝早くからのご利用、誠にありがとうございます。お気を付けて、行ってらっしゃいませ』
(え?何あの可愛い生き物)
ランサーの赤い瞳が興奮で散大した。初めての『行ってらっしゃい』ボイスも途轍もない衝撃を受けたが、まさか、こんな追撃があったなんて。
(こんな事なら、もっと早く最後尾車両に乗ればよかった!)
毎日、中間車両に乗っている自分をタコ殴りにしたい。誰だよ朝の時間は貴重、だとかぬかした奴。オレか。オレだよ。昨日までのオレ、とんでもないもの見逃し続けてたぞ。エミヤさん、あんな風に照れながら『行ってらっしゃい』ボイスを毎日言ってくれてたんだぞ。なぁ、昨日までのオレ!
(決めた、明日から毎日最後尾車両に乗る)
朝の時間は貴重?エミヤさんの照れ顔の方が何百倍も何千倍も貴重だたわけが。
向けたままだった視線がまた、ぶつかる。軽く会釈をすれば窓の向こうのエミヤさんもまた、律儀に、少し恥ずかしそうな顔で会釈を返してくれた。
『次は終点、冬木中央、冬木中央です。お忘れ物の無いよう、今一度お手回り品を確認の上、お降りください。本日は冬木中央本線をご利用下さり誠にありがとうございました』
時が経つのは早いもので、幸福に包まれていた時間が無情にも終わりを告げる。電車内にいつまでも居座ることなど出来ず、ランサーは愛しの声に従いホームに降りた。
この二時間で一ヵ月分の供給を受けたかもしれない。未だエミヤさんの声が鼓膜から離れず、脳内でリピートし続けている。事前にボイスレコーダーを準備しなかった自分を早々に悔いたランサーは、次回はちゃんと持ってこようと心に留めた。なおボイスレコーダーは、車内で通販ページを開き、高性能のものを注文済である。
自前の記憶力で再生することは余裕だが、人の記憶は徐々に薄れていくというもの。特に、真っ先に忘れゆくのは声だという。物理的に保管できる機器が使用できるのであれば、使わない手は無い。
近くのベンチに腰を下ろしていたランサーは、商品を発送しました、という通知が届いたことを確認し、端末をズボンのポケットへ仕舞った。
バタン、という音に顔を上げれば、丁度、車掌室から目当ての人物がホームに降り立つのが目に入る。その後ろを慌てて追った。
「あの……!」
「何か?」
立ち止まり、きょとりと見つめる灰色に、ランサーの白皙の頬がぶわりと赤く染まる。数分前までマイクとスピーカーを通して堪能していた声が直に鼓膜を擽る。感動で胸が締め付けられ、思わずゔ……と声を上げ蹲った。
「……!?大丈夫ですか!?」
「すみません、だいじょうぶです……」
エミヤさんからすれば自分は初対面の人間である。まさか貴方の声に感動しすぎて胸が苦しいです、などと口が裂けても言えず、大丈夫を必死で繰り返す。
「息が整うまで、事務所に行かれますか?」
己という個人に向けて発せられた声に頭がくらくらする。だがこの申し出はとても有難く、ランサーはこくこくと頷いた。
「ほんっとーに、スミマセン……」
「いえ、落ち着かれたのなら良かったです」
「あの、本当に大丈夫でしたか?エミヤさん、お忙しいですよね」
「心配は無用です。こういった対応も仕事の内なので。胸はもう、大丈夫ですか」
「ご心配おかけしました……」
職員が休憩する事務所で休ませて貰ったランサーは、対面で茶を傾けるエミヤに深々と頭を下げた。
「自分でもまさか感極まり過ぎてこんなことになるとは思わず」
「は、はぁ……。何かそんなに感動することが?」
口から滑り落ちた言葉に、何を言ってんだ!?と口を噤んでも後の祭り。こうなったらなるようになれと、徐に、脇に置いた焼菓子の入った袋を手に取った。
「実はオレ、いつもこの電車を通勤で使ってるんです」
「……?はい」
「それで、その……いつもエミヤさんが担当されている電車に乗ってて。アンタの声に、凄く助けられたんだ。こんなこと言われても困惑するって分かってます。でもどうしても直接、感謝を伝えたくて仕方なくて」
ラッピングが施された紙袋を差し出す。
「要らなかったら捨てて貰ってかまいません。良かったら食べてください。何が好みなのか分からないですけど、車内放送で料理のお知らせをアナウンスするエミヤさんの声、少し楽しそうだったから甘いものお好きかなと思って。中身は焼菓子です。誓って、変な物は入れてません」
「……」
流れる沈黙が、痛い。
自分でも、とんでもないことをしでかしているという自覚はある。紙袋を持ったままの手が緊張で震える。数秒か、数十秒か、はたまた数分か。目の前の男は黙って、己が突き付けた紙袋を見つめていた。
「つかぬことを聞くが……」
んん、と小さく咳払いをひとつ。その後、眉根を寄せ、男は褐色の手を組んだ。
「間違っていたら申し訳ないが、その……少し前に、弊社の問い合わせフォームに私を名指で、褒め殺ししたのは、君かね」
「えっ!な、なんでそれを……!?」
エミヤさんに認識されていた、という事実に、思わずガタリと、勢いよく席を立つ。
「ああ、いや……そうか、君が……」
男は何かを噛みしめるように、そうか……と言葉を繰り返すと、瞼を閉じ、ふむと小さく頷いた。
「滅多に無い経験だと思ってね。あそこまで人に何かを褒められたのは初めてだった」
「……他に何か思わなかったのか?気持ち悪いとか。しかもこんな同性に」
「何故、気持ち悪がる必要がある。純粋に君が思った事を書き連ねてくれただけなのだろう?」
「そう、だけど……」
「ならば嬉しいと思いこそすれ、厭う必要がどこにある」
「なら、いいけどよ……。実はあのメッセージを送った日は残業続きで、エミヤさんのアナウンスのお陰でなんとか仕事に行けてたんだ。だから、いつも押さえつけてる理性が何処か行っちまって」
気付いたら衝動のままにメッセージを送ってた。
「そうだったのか……」
「そうだったんだよ。まさか認知されてると思わなかったけど」
それで、もしよかったらなんだが。
「エミヤさん、オレとオトモダチになってくれませんか」
「……は」
灰色の瞳が大きく見開く。あそこまで不思議そうな顔をされたのは後にも先にも、あの時だけだった。
「それがいつしか友人の枠を超え、こうして一つ同じ屋根の下で暮らしてるなんてな」
ランサーは熱々のトーストに乗せたベーコンエッグを大きな口で頬張る。
「私もあの時はまさか、自分がこうして君と同じ食卓を囲むなんて思ってもみなかったさ」
「仕方ないだろ、一目惚れだったんだ」
「声に、だろう」
「初めはな。でも今はお前の外見も、中身も、全部が愛おしい」
「……、早く食べないと遅刻するぞ」
「やっべ!」
ランサーは手に持ったままだった食べかけのトーストをがぶりと一口で食べきり、コップになみなみと注がれた牛乳を一気に飲み干す。
「あーあ、今日みたいな重要なプレゼンの日にエミヤさんのアナウンスが聞けたら絶対成功するのによ」
「残念ながら今日は非番だな」
「だよなぁ」
「だから今日は、君だけのエミヤさんボイスで見送ってやろう」
「その約束違えるなよ!今準備してくる!」
洗面所に走って行ったランサーに、エミヤは灰色を細めると、慌てなくても私は逃げないぞ、と声をかけたのだった。
Fin