ラスベガスの王子様
ベガスの恋に勝つルールパロ。ベガスで酔って一夜にして結婚する槍弓。実は結婚した相手のランサーが貴族でアーチャーを選ぶラブコメ。
大幅加筆しました。
このランサーのイメージソングはAviciiのThe Nightsです。ぜひMV見てください。
- 45
- 58
- 846
第一話
ラスベガスの陽光は、慈悲というものを知らない。
アーチャーが目を覚ましたとき、まず感じたのは頭痛だった。脳髄を金槌で殴打されているような、容赦のない痛み。テキーラの神は公平だ。昨夜の快楽に見合うだけの罰を、朝になって正確に請求してくる。次に気づいたのは、見覚えのない天井——いや、正確には見覚えはある。ベラージオの最上階スイート。一泊百万円はくだらない部屋。問題は、なぜ自分がここにいるのか、まったく記憶にないことだった。
ゆっくりと身体を起こす。シルクのシーツが肌から滑り落ちる。裸だ。全裸。三十二年間、完璧に管理してきた人生で、ホテルで全裸で目覚めたのは——数えるまでもない、初めてだ。そして身体のあちこちに——鮮明な痕跡。首筋の噛み跡。腰の指の痕。太腿の内側の擦過傷。
ああ、とアーチャーは理解した。セックスをしたのだ。それも、かなり激しく。
アーチャーの人生設計に、「ラスベガスで記憶を失うまで酩酊」という予定は存在しなかった。ましてや「見知らぬ相手とのワンナイトスタンド」など——
そして、隣を見た。
青い髪の男が、平和そうな寝息を立てている。
アーチャーの思考回路が、一瞬停止した。
青い髪。それも染めたのではなく、生来のものらしい鮮やかな青。地中海を思わせる色。顔立ちは——率直に言って、美丈夫という言葉がこれほど相応しい人間を、アーチャーは見たことがなかった。彫刻のように整った顔立ち。長い睫毛。わずかに開いた唇からは、規則正しい呼吸が漏れている。ミケランジェロのダビデ像を、生身の人間にしたらこうなるのかもしれない。
その裸の胸にも、アーチャーがつけたであろう引っ掻き傷が、赤く残っていた。証拠は、消せない。
そして、左手の薬指に——金の指輪。
アーチャーは、まるでスローモーションのように——自分の左手を見た。
同じ指輪があった。
「……は?」
声が、掠れた。喉が、サハラ砂漠のように乾いている。
ベッドサイドのテーブルに、紙切れが置いてある。手に取る。読む。理解する。理解したくないが、現実は非情だ。いつだってそうだ。
Certificate of Marriage - State of Nevada
結婚証明書。正式な、法的拘束力のある、ネバダ州が認める結婚証明書。偽造ではない。州の印章が、くっきりと押されている。
名前の欄には——Archer Emiya と、Cú Chulainn Lancer Ulster。
「……」
アーチャーは、紙を持ったまま、硬直した。
三十二年間、完璧に管理されてきた人生。東京大学工学部卒業、一部上場のセキュリティ企業CyberShield Japanに就職、順調なキャリア、適度な貯蓄、五年後の課長昇進、十年後のマンション購入——全てが、予定通りだった。その人生設計表に、「ラスベガスで酩酊状態のまま見知らぬ男とセックスして結婚」という項目は、どのセルにも入力されていなかった。
エラー。システムエラー。人生が、フリーズしている。
「……おはよう」
掠れた声が、聞こえた。
青い髪の男——ランサーが、目を覚ましていた。赤い瞳。血のような、あるいは炎のような赤。その瞳が、アーチャーを見つめている。朝の光を受けて、ルビーのように輝いている。そして——わずかに、口元が緩んだ。
「よく寝たな。八時間ぶっ通しだったぞ」
八時間。つまり、その前は——どれだけの時間、起きていたのか。いや、起きて何をしていたのか。
「……昨夜、何があった」
アーチャーの声は、予想以上に冷静だった。パニックになっている場合ではない。まず、事実確認だ。
「ああ、それな」
ランサーは欠伸をしながら身体を起こした。その動きで、シーツがさらに下がる。彼の身体にも、無数の痕跡。腹部に、爪で引っ掻いた跡。胸に、噛み跡。こちらも、かなり激しかったらしい。
「色々あった」
色々。その二文字に、どれだけの情報が圧縮されているのか。
「色々とは」
「まず、カジノでお前を見つけた。ブラックジャックのテーブルで、めちゃくちゃ冷静にカードカウンティングしてる東洋人がいるなって」
アーチャーの記憶が、わずかに蘇る。霧の中から、断片的に。ブラックジャック。確かに、勝ち続けていた。カードの流れを読み、パターンを認識し——ITセキュリティの仕事で鍛えた能力。
「ディーラーが真っ青になってたぞ。で、ピットボスが来る前に、俺が『もう止めとけ』って声かけた」
ランサーの声には、昨夜を思い出すような、楽しげな響きがある。まるで、友人との思い出話をするように。
「……それで?」
「お前、振り返って——『カウンティングがバレたか』って、めちゃくちゃ冷静に言った」
ランサーは、笑った。喉の奥から湧き上がるような、愉快そうな笑い。
「普通、否定するだろ? でもお前、堂々と認めた。面白い奴だなって思った」
面白い。つまり、興味を持たれた。それが——この惨事の、発端。
「それで、酒を」
「そう。バーに誘った。で、テキーラショット十二杯、マティーニ三杯、あとシャンパンをボトルで空けた」
アーチャーの胃が、その情報を聞いて悲鳴を上げた。テキーラ十二杯。マティーニ三杯。シャンパン一本。計算したくない。
ランサーは、ベッドから降りた。筋肉質な身体。傷跡がいくつか見える。古い傷だ。刃物による切り傷。銃創らしきものも。この男の過去には、何かある。彼は窓辺へ歩いていく。裸のまま、まったく恥じる様子もなく。ラスベガスの朝日が、その青い髪を後光のように照らしている。
「お前、酔うと饒舌になるんだな。『完璧な人生に飽きた』とか、『毎日がエクセルのスプレッドシートみたいだ』とか」
ランサーは、窓の外を見ている。その背中。傷だらけの背中。
「で、俺が『じゃあ、もっと面白いことしようぜ』って言ったら——」
ランサーは、振り返った。朝日が彼の青い髪を照らしている。その赤い瞳に、どこか熱っぽい色が混じっている。
「お前、俺にキスした」
「……は?」
「いきなり。バーのカウンターで。周りの客、拍手喝采だったぞ」
アーチャーは、絶句した。自分が——そんなことを? 三十二年間、誰ともキスをしたことがなかった自分が。
「で、そのまま、この部屋に来て——」
ランサーは、ベッドを見た。シーツは、乱れている。まるで、戦場のように。
「まぁ、見ての通り」
アーチャーの身体に、昨夜の記憶が——断片的に蘇る。熱。舌。指。侵入。快楽。叫び。そして——何度も、何度も。身体は、覚えている。頭が忘れても、身体は記憶している。
「……五回、だったか?」
ランサーが、にやりと笑った。その笑みには、昨夜の満足感が滲んでいる。
「お前、体力あるな。四回目でもう動けねぇと思ったのに、五回目は自分から——」
「黙れ」
アーチャーは、顔を覆った。耳まで熱い。体温が、急上昇している。
「で、最後にお前が『結婚しよう』って言い出した」
「……私が?」
「ああ。『この相性は、統計的に奇跡だ』とか、『一生手放したくない』とか」
ランサーは、肩をすくめた。まるで、困った友人を見るような、でもどこか愛おしそうな仕草。
「俺も、まぁ——悪くないかなって思って、チャペル行った」
「それで、結婚証明書」
「そう。お前『I do』を五回も言ってたぞ。一回でいいのに」
五回。執念深い。
「神父も困ってたぞ。『Sir, one time is sufficient』って」
ランサーは、笑った。楽しそうに、心の底から。
アーチャーは、頭を抱えた。酔っていたとはいえ、自分がそんなことを。いや、否定できない。身体は、確かに——昨夜の快楽を覚えている。この男との相性が、異常なまでに良かったことを。
「それで、どうする? 離婚届にサインするか?」
ランサーの声は、軽い。まるで、天気の話をするように。
「当然だろう。これは酩酊状態での契約だ。法的にも——」
「まぁ、待てよ」
ランサーは、アーチャーに近づいた。その足音が、カーペットの上で静かに響く。そして——その顎を、指で持ち上げる。強制的に、視線を合わせる。
「一週間だけ、この結婚を続けてみないか」
赤い瞳が、至近距離でアーチャーを見つめている。その瞳の奥に、何かが燃えている。
「……何?」
「一週間。その間、俺たちは正式な夫婦ってことで。で、一週間後、嫌だったら無効化すりゃいい」
「なぜ、そんな——」
「昨夜、良かっただろ?」
ランサーの声が、低く囁く。まるで、秘密を共有するように。
「お前も、感じてた。相性、抜群だったろ?」
「……それは」
否定できない。身体が、否定を拒否している。
「俺も、久しぶりにあんなに——」
ランサーは、わずかに笑った。その笑みには、昨夜の記憶が混じっている。
「気持ち良かった」
アーチャーの心臓が、跳ねた。この男の声は——何か、危険なものを孕んでいる。理性を溶かすような、熱を持っている。
「それに——」
ランサーは、アーチャーの首筋に——唇を寄せた。吐息が、肌に触れる。
「もうちょっと、お前といたい」
その吐息が、肌に触れる。アーチャーの身体が、反応する。昨夜の記憶が、鮮明に蘇る。この男の舌が、どこを舐めたか。この男の指が、どこに入ったか。
「……一週間だけだ」
アーチャーの声は、予想以上に弱々しかった。
「おう!」
「それ以上は、絶対にない」
「了解。一週間後、お前が『もう十分だ』って言ったら、綺麗さっぱり別れよう」
ランサーは、にっと笑った。その笑顔には、計算も打算もない。ただ——純粋な、喜び。まるで、子供がクリスマスプレゼントをもらったみたいに。
「でも、もしお前が『もうちょっと続けたい』とか言い出したら——」
「言わない」
即答。これは、譲れない。
「即答だな」
「当然だ」
理性は、まだ機能している。一週間。それ以上は、ない。
「まぁ、いいや。じゃ、とりあえず——」
ランサーは、アーチャーの唇に——軽く、キスをした。朝のキス。昨夜とは違う、柔らかいキス。
「朝飯、食いに行こうぜ」
「……その前に、シャワーを」
アーチャーの身体は、汗と——その他の体液で、べとついている。
「一緒に入るか?」
「却下だ」
「つれないな。昨日は、一緒に入ったのに」
昨日も——? 記憶にない。いや、記憶にないことが多すぎる。
「……記憶にない」
「じゃ、思い出させてやろうか?」
ランサーは、アーチャーを抱き上げた。まるで、花嫁を抱くように。
「ちょ——待て!」
「待たない」
バスルームへ。大理石の床。ジャグジー付きのバスタブ。そして——
シャワーを浴びるはずが、結局——六回目になった。
◇
一時間後。ようやく服を着た二人は、ホテルのカフェにいた。
ベラージオのカフェは、宿泊客専用の静かな空間だ。天井は高く、自然光が差し込む。観葉植物が配置され、水の流れる音が——どこか遠くから聞こえてくる。朝食ブッフェは豪華だが、アーチャーは——今は、固形物を受け付ける自信がなかった。
アーチャーは、ブラックコーヒーを啜りながら——自分の人生を、静かに見つめ直していた。
昨夜。カジノで勝ち続けて、青い髪の男に声をかけられて、酒を飲んで、キスをして、セックスをして、結婚して——そして、今朝もセックスをした。
三十二年間で、最も計画外の二十四時間。
「なぁ、アーチャー」
「何だ」
ランサーの声で、思考が中断される。
「お前、仕事は?」
「……一週間の休暇を取っている」
年次有給休暇。計画的に使用してきた休暇を、こんな形で消費するとは。
「マジ? ちょうどいいじゃん」
ランサーは、エスプレッソを一口飲んだ。イタリア製の小さなカップ。濃縮されたカフェイン。
「じゃ、この一週間——ベガス観光しようぜ」
「観光?」
「ああ。グランドキャニオンとか、バレー・オブ・ファイアーとか」
ランサーは、メニューを見ながら言った。その仕草——何気ない仕草が、妙に自然だ。まるで、何年も一緒にいる恋人同士のように。
「……君は、仕事は?」
「俺も、休暇中」
ランサーは、曖昧に笑った。その笑みには、何か——隠しているものがある。
「だから、ちょうどいいんだよ。二人とも暇」
アーチャーは、ランサーを見た。この男——何者だ。青い髪。赤い瞳。傷だらけの身体。そして、底知れない自信と、どこか危険な色気。普通の人間ではない。それは、確かだ。
「……一つ、聞いていいか」
「何?」
「君は、昨夜——本当に、酔っていたのか?」
ランサーの動きが、わずかに止まった。エスプレッソカップが、ソーサーの上で小さな音を立てる。そして——笑った。計算されたような、でもどこか本心を覗かせるような笑み。
「半分半分、かな」
「……どういう意味だ」
「酔ってたのは本当。でも——」
ランサーは、アーチャーを見た。その赤い瞳が、まっすぐに。
「お前を、部屋に誘ったのは——素面の判断」
アーチャーの背筋に、冷たいものが走った。つまり——計画的犯行。
「カウンティングしてる東洋人。冷静で、知的で——」
ランサーは、コーヒーカップを置いた。
「面白いなって思った。で、話してみたら——やっぱり面白かった」
「それで、セックスか」
「そう。で、セックスしたら——」
ランサーの声が、低くなる。まるで、秘密を打ち明けるように。
「最高だった」
アーチャーの心臓が、また跳ねた。この男は——危険だ。理性を、簡単に破壊する。
「だから、一週間。もうちょっと、お前を——」
ランサーは、立ち上がった。
「知りたい」
その言葉に、アーチャーは——何も言えなかった。胸の奥に、妙な熱がある。この男は——危険だ。だが、同時に——魅力的だ。計画外の、予測不可能な存在。
「……分かった。一週間だけだ」
「よっしゃ!」
ランサーは、にっと笑った。その笑顔は——少年のように無邪気で、でも——どこか、寂しげだった。
「じゃ、今日はグランドキャニオン行こうぜ。車、借りてくるから」
「車?」
「ああ。マスタング・コンバーチブル。オープンカーで砂漠を疾走——最高だぞ」
ランサーの目が、輝いている。まるで、子供のように。本当に、楽しんでいる。心から。
アーチャーは——その横顔を見た。
いつから、自分は——こんなふうに、何かを楽しむことがなくなったんだろう。
「あ、ちなみに——」
ランサーは、アーチャーの耳元で囁いた。吐息が、耳朶に触れる。
「今夜も、楽しみにしてるぜ」
その声に、アーチャーの身体が——反応した。ああ、と思った。この一週間は——きっと、忘れられないものになる。
ラスベガスの陽光が、窓から差し込んでいる。容赦のない光。でも——今は、それが心地よかった。
---
第二話
砂漠は、人間の傲慢さを嘲笑う存在だ。
ラスベガスから東へ車で四時間。I-15を北上し、やがて荒涼とした大地が広がる。人間の文明など、ここでは砂粒ほどの意味もない。地平線まで続く赤茶けた岩肌。灼熱の太陽。乾いた風。空気は乾燥していて、息を吸うたびに喉が痛む。湿度は、おそらく一桁だ。東京の梅雨とは、別の惑星。
そんな中を、真紅のマスタング・コンバーチブルが疾走していた。
レンタカー会社で借りた、2024年式。V8エンジン。450馬力。時速百キロで走っても、まだ余裕がある。アメリカの車は、こういう場所のために作られている。砂漠を、高速道路を、ひたすら真っ直ぐ走るために。まるで西部劇の主人公になったような錯覚。
運転席には、青い髪をなびかせるランサー。助手席には、サングラスをかけたアーチャー。オープンカーのため、会話は風に半分さらわれる。それでも、二人は——奇妙なことに——心地よい沈黙を共有していた。言葉がなくても、隣にいることが分かる。それだけで、十分だった。
ランサーは、ハンドルを握りながら——片手で、軽やかに操っている。その仕草に、迷いがない。まるで、車が身体の一部であるかのように。時々、カーブで——わずかにハンドルを切る。その動きが、流れるように滑らかだ。
アーチャーは、その横顔を見た。
青い髪が、風になびいている。サングラス越しでも分かる、整った顔立ち。昨夜——そして今朝——この男に、何度も喘がされた。その記憶が、妙に生々しい。身体は、まだ覚えている。腰が、少し痛い。
だが——今、この瞬間のランサーは——また違う顔を見せている。
ベッドの上では、獣だった。だが、今は——まるで、映画のワンシーンに出てくるような、余裕のある男。何かから解放されたような、軽やかさ。
「なぁ!」
ランサーが、風に負けじと声を張った。
「グランドキャニオン、見たことあるか!」
「ない!」
「マジ! じゃ、初めてか!」
「そうだ!」
「いいもん見せてやるよ!」
ランサーは、にやりと笑った。その笑みには——どこか、余裕がある。まるで、何かを知っている人間が、知らない人間に教えるような——そんな笑み。だが、嫌味ではない。ただ——楽しんでいる。
アーチャーは、その横顔を見た。
何歳なんだろう、この男は。
昨夜も、今朝も——そんなことを聞く余裕はなかった。だが——この軽やかさ。この、何かから自由になったような雰囲気。もしかして、年下なのでは。
「何見てんだよ!」
ランサーが、視線に気づいた。
「別に」
「惚れたか!」
「惚れていない」
まだ。そう付け加えるべきかもしれない。だが、口には出さなかった。
「つれないな! 昨夜は『離さないでくれ』とか言ってたのに!」
「……言っていない」
記憶にない。ということは、言った可能性が高い。最悪だ。
「言ってた! 五回目のとき!」
アーチャーは、顔を背けた。耳まで熱い。砂漠の日差しのせいだ。きっと、そうだ。
ランサーは、愉快そうに笑った。その笑い声が、風に乗って遠くへ消えていく。だが——その笑いには、どこか——大人びた響きがある。まるで、人生の酸いも甘いも知った人間の——それでも、今を楽しむことを選んだ——そんな笑い。
◇
二時間後。
グランドキャニオン、サウスリム。
アーチャーは、展望台の柵に手をかけ——絶句した。
言葉が、出ない。
眼下に広がるのは——峡谷。ただの峡谷ではない。地球の歴史が、そのまま露出している。何億年もの時間が、地層となって刻まれている。赤、茶、オレンジ、灰色——無数の色彩が、幾重にも重なっている。まるで、神が描いた水彩画。
そして、その深さ。1600メートル。東京タワーが、三つ重なる深さ。ジェットコースターの落下なんて、子供の遊びだ。
「……すごい、だろ?」
ランサーが、隣に立った。その声は、いつもより——少し、静かだ。だが——どこか、落ち着いている。まるで、何度も見てきた景色を——それでも、新鮮に感じているような。
「ああ」
アーチャーは、ただそれだけ答えた。それ以上の言葉が、見つからなかった。語彙が、枯渇している。何千行ものコードを書いてきた。だが——この景色を表現する言葉は、辞書のどこにも載っていない。
「俺、初めて見たとき——泣いたわ」
「……泣いた?」
意外だった。この男が、泣く。想像できない。
「ああ」
ランサーは、峡谷を見つめた。その横顔に——わずかな哀愁。だが——それは、センチメンタルなものではない。もっと——深い、諦観のようなもの。
「なんか——ちっぽけだなって思って」
それだけ。説明も、説教も、人生論もなく——ただ、それだけ。
だが——その言葉は、アーチャーの胸に、深く刺さった。
ちっぽけ。
そう、ちっぽけだ。
自分の人生。完璧に構築された、Googleカレンダーのような人生。キャリアパス。貯蓄計画。五年後、十年後の目標。退職金の計算。年金の試算。全て——予定通りに、進行している。
それらが——この峡谷の前では、確かに——
ちっぽけだ。
だが——ランサーは、それを嘆いているわけではない。ただ——受け入れている。そして——それでも、今を楽しんでいる。
風が、吹く。峡谷の底から、遥か昔の風が吹き上げてくるような気がした。何億年も前の、恐竜が生きていた時代の風。乾いた風。容赦のない風。だが——どこか、清々しい。
「なぁ、写真撮ろうぜ」
「……写真?」
「ああ。記念に」
ランサーは、スマートフォンを取り出した。iPhone 17 Pro。おそらく最新モデル。その動作が——慣れている。何度もこういう場所で、写真を撮ってきたのだろう。
「ほら、こっち来い」
「別に——」
記念写真など、撮る必要があるのか。どうせ、一週間後には——
「いいから」
ランサーは、アーチャーの肩を抱き寄せた。強引に。体温が、伝わってくる。筋肉の感触。昨夜、何度も触れた身体。
そして、カメラを構える。自撮り。背景に、グランドキャニオン。まるでInstagramのインフルエンサーみたいだ——いや、違う。ランサーの構え方は——もっと、洗練されている。角度、光、構図——全てを、瞬時に計算している。
「はい、チーズ!」
シャッター音。デジタルの、機械的な音。
「……もう一枚!」
「何枚撮る気だ」
「いいじゃん、減るもんじゃねぇし」
二枚目。三枚目。ランサーは、角度を変えながら——何度もシャッターを切る。その動作に無駄がない。プロのカメラマンのよう。
「よし、完璧!」
ランサーは、画面を見せた。
写っているのは——青い髪の男と、白髪の日本人。ランサーは完璧な笑顔。計算されたような、自然な笑顔。そして、アーチャーは——
笑っていた。
わずかに、だが——確かに、笑っていた。口角が、上がっている。目元も、柔らかい。
「お前、笑うんだな」
「……笑う」
当たり前だ。人間なのだから。
「昨日から、ずっと真面目な顔してたから」
ランサーは、にやりと笑った。
「てっきり、表情筋が死んでるのかと」
「死んでいない」
アーチャーの声が、わずかに硬くなる。
「じゃ、もっと笑えよ。その方が——」
ランサーは、アーチャーの頬に手を伸ばした。指先が、肌に触れる。その手つきが——慣れている。まるで、何度も——誰かに、こうしてきたような。
「可愛い」
「……可愛くない」
三十二歳の男に、可愛いという形容詞は——不適切だ。
「可愛い」
「可愛くないと言っている」
「でも、昨夜は可愛いって言ったらビクビクして——」
ランサーの声が、低くなる。まるで、秘密を共有するように。
「可愛かったぞ」
「……っ」
アーチャーは、言葉を失った。昨夜——そんなことが。記憶にない。いや、記憶にないだけで——
「知らない!」
アーチャーは、ランサーの手を払った。だが——その動きに、力はなかった。本気で拒否しているわけではない。それは、二人とも分かっている。
ランサーは、愉快そうに笑った。その笑い声には——どこか、大人の余裕がある。まるで、相手の反応を——全て、予測していたような。
「なぁ、アーチャー」
「何だ」
「一緒にいて、楽しい」
その言葉が——突然、出た。
説明も、前置きもなく。ただ——純粋に、今の気持ちを。だが——その声には、どこか——達観したような響きがある。まるで、楽しいことが——どれだけ儚いか、知っているような。
アーチャーの胸が——わずかに、疼いた。
楽しい。
そう言われたのは——いつ以来だろう。
東京での生活。ITセキュリティエンジニアとして、Fortune 500企業のシステムを守る仕事。年収は一千二百万円。業界内での評価は高い。だが、楽しいと言ってくれる人間は——
いなかった。
同僚は、仕事の話しかしない。上司は、成果を求めるだけ。友人は——そもそも、いない。大学時代の友人とは、もう何年も会っていない。LINEグループも、既読スルーの墓場になっている。最後にメッセージが投稿されたのは——去年のクリスマス。誰かの結婚報告。それ以来、沈黙。
「……私もだ」
小さく、呟いた。風に、半分さらわれる。
「ん? 何?」
「何でもない」
「聞こえなかったぞ」
ランサーの声には——余裕がある。分かっていて、聞いている。
「だから、何でもないと——」
ランサーが、アーチャーの腰を抱いた。強引に。身体が、密着する。筋肉の感触。体温。昨夜、何度も抱かれた腕。
「言ってみろよ」
「……楽しい」
「何?」
「だから、楽しいと言っている」
アーチャーは、ランサーを睨んだ。この男は——わざと、聞こえないふりをしている。確信犯だ。
「君と、一緒にいるのは——」
「おう!」
ランサーは、満面の笑みで——アーチャーの額に、自分の額を押し当てた。
「俺も、めちゃくちゃ楽しいぜ」
その距離。吐息が、触れ合う距離。アーチャーの心臓が、激しく跳ねた。
「……人が、見ている」
周囲には、観光客が——何十人もいる。アジア系、ヨーロッパ系、様々な人種。カメラを構えている人。子供を抱いている人。老夫婦。
「誰も見てねぇよ」
ランサーの声には——余裕がある。まるで、人目など——どうでもいいと言わんばかり。
「観光客が——」
「みんな、峡谷見てる」
ランサーは、アーチャーの唇に——軽く、触れた。
「ん——」
「甘い」
「……甘くない」
唇に、味などない。だが——否定する言葉が、力を持たない。
二人は、笑い合った。
峡谷の風が、吹く。何億年もの時間を刻んだ風が、二人を——優しく、包んだ。時間は、流れる。何億年も、何千年も、何十年も——等しく。そして、この瞬間も——いつか、過去になる。
アーチャーは——その瞬間、思った。
この男は——何歳なんだろう。
この余裕。この、どこか達観したような——でも、それでも今を楽しんでいる——そんな雰囲気。まるで、人生の酸いも甘いも知った上で——それでも、笑うことを選んだような。
もしかして——年下?
いや、でも——この落ち着き。この、洗練された仕草。普通の若者が持つものではない。
「……ランサー」
「ん?」
「一つ、聞いていいか」
「何?」
「君、何歳だ」
ランサーは、わずかに笑った。その笑みには——どこか、予想していたような響きがある。
「二十七」
「……は?」
「二十七歳。お前より——」
ランサーは、にやりと笑った。
「五つ下」
アーチャーの思考が、一瞬停止した。
二十七歳。
五つ、年下。
「……そうか」
それだけ言うのが、やっとだった。
二十七歳。まだ、二十代。だが——この落ち着き。この、余裕。
自分が二十七歳の時——どうだったか。
まだ、入社三年目。必死に仕事を覚えていた。先輩に怒られ、深夜まで残業し——それでも、どこかに希望があった。「いつか、自分も」という。余裕など、なかった。毎日が、必死だった。
だが、この男は——
「……年下だったのか」
「気にすんなよ」
ランサーは、肩をすくめた。その仕草が——洗練されている。
「年齢なんて、ただの数字だろ?」
ただの数字。
その言葉が——また、アーチャーの胸に刺さった。
この男は——本当に、そう思っているのだろう。年齢も、肩書きも、年収も——全て、ただの数字。
だが——その言葉には、どこか——諦観が混じっている。まるで、何かを——諦めた上で、そう言っているような。
◇
夕暮れ。
帰り道。
マスタングは、夕日に染まった砂漠を走る。
空は、オレンジから紫へ、やがて深い藍色へと変わっていく。地平線には、最後の光が残っている。太陽が、沈む。一日が、終わる。そして——新しい夜が、始まる。まるで、映画のエンドロールみたいだ。
ランサーは——片手でハンドルを握り、もう片方の手を——窓枠に置いている。その姿勢が——余裕に満ちている。まるで、この道を——何度も走ってきたような。いや、違う。まるで、どんな道でも——同じように走れるような。
アーチャーは、その横顔を見た。
二十七歳。
五つ、年下。
だが——この男は、自分よりも——ずっと、多くのものを見てきた気がする。その目には、何かが宿っている。諦観。達観。そして——それでも、今を楽しむという、選択。
風が、吹く。砂漠の、乾いた風。容赦のない風。だが——ランサーは、それを——心地よさそうに受けている。
「なぁ、アーチャー」
「何だ」
「今夜、何食う?」
「……何でもいい」
「じゃ、ステーキ」
ランサーは、即答した。その決断の速さ。迷いがない。
「でかい肉を、ガツンと食う。いいだろ?」
「……そうだな」
「よし、決まり」
ランサーは、笑った。その笑顔には——どこか、儚さが混じっている。まるで、今この瞬間を——大切にしようとしているような。
アーチャーは——その笑顔を見て、思った。
いつから、自分は——こんなふうに、瞬間を大切にしなくなったんだろう。
毎日、同じコンビニ弁当。あるいは、会社近くの定食屋。効率的に、栄養を摂取する。それだけ。味わう、という発想が——なかった。デスクで食べる。パソコンの画面を見ながら。メールをチェックしながら。会議の資料を読みながら。
食事は——タスクの一つだった。
楽しむもの、ではなく——こなすもの。
だが、ランサーは——違う。
この男は——食事を、楽しもうとしている。今夜のステーキを、楽しみにしている。その顔を見れば、分かる。
砂漠の道が、続く。真っ直ぐに。地平線まで。人間が作った道が、自然の中を——貫いている。永遠に続くような錯覚。だが——やがて、終わる。全ての道は、いつか——終わる。
◇
夜。
ホテルに戻った二人は、ルームサービスで夕食を取った。
ステーキ。T-ボーン。一ポンド。約450グラム。ロブスター。丸ごと一匹。ワイン。カリフォルニア産の赤。ナパバレーの、高級品。
全て——一流の味。ベラージオのルームサービスは、ミシュラン一つ星レベルだ。部屋で食べられる、最高級の料理。
ランサーは、ナイフとフォークを——完璧に扱っている。
その手つきが——洗練されている。まるで、幼い頃から——こうした食事をしてきたような。ナイフの角度。フォークの持ち方。肉の切り方。全てが——教科書通り。いや、教科書以上。
だが——その食べ方には、どこか——解放感がある。
「うめぇ!」
ランサーは、満面の笑みで——肉を頬張った。
その顔。純粋に、美味しいと感じている。マナーを守りながらも——心から、楽しんでいる。
「……行儀はいいのに、表現が悪いな」
「いいじゃん、誰も見てねぇし」
「私が見ている」
「お前、俺の——」
ランサーは、にやりと笑った。ナイフとフォークを持ったまま。その仕草すら、様になっている。
「夫だろ?」
「……形式的なものだ」
法的には、確かに夫婦だ。だが——実質的には。
「でも、法的には夫婦」
「一週間だけだ」
期限付き。それを、忘れてはいけない。まるで、Netflixの無料トライアルみたいだ。
「まだ二日目だぜ?」
ランサーは、ワイングラスを傾けた。その動作が——優雅だ。まるで、ワインの飲み方を——幼い頃から、叩き込まれてきたような。
「あと五日もある」
「……」
「その間——」
ランサーは、ワイングラスを置いた。
「楽しもうぜ」
楽しもう。
その言葉を——この男は、何度も口にする。
まるで、それが——人生の目的であるかのように。
だが——その声には、どこか——儚さが混じっている。まるで、楽しめる時間が——限られていることを、知っているような。
アーチャーは、ランサーを見た。
この男は——何者なんだろう。
完璧なマナー。洗練された仕草。だが——同時に、この軽やかさ。この、何かから解放されたような雰囲気。
何かの檻から、逃げ出してきたような。
「……ランサー」
「ん?」
「君は——」
アーチャーは、言葉を探した。
「普段は、何をしているんだ」
ランサーの動きが、わずかに止まった。
ナイフが、皿の上で小さな音を立てる。
そして——笑った。
「色々」
「色々とは」
「まぁ——」
ランサーは、ワイングラスを傾けた。
「今は、休暇中ってことで」
その答えは——何も答えていない。
だが——それ以上は、聞けなかった。
ランサーの目に——わずかな、影が浮かんだから。
「なぁ、アーチャー」
「何だ」
「今夜も——」
ランサーは、立ち上がった。椅子が、カーペットの上で小さな音を立てる。その動作が——流れるように滑らかだ。
「楽しもうぜ」
そして、アーチャーの手を引いた。
「ちょ——待て」
「待たない」
ベッドへ。シーツの上に、倒れ込む。
「今日、七回目な」
「……数えているのか」
記録を取る必要があるのか。まるで、スマートウォッチの歩数計みたいだ。
「当たり前だろ」
ランサーは、アーチャーの服を脱がせ始めた。ボタンを、一つ一つ外していく。その手つきが——慣れている。まるで、何度も——誰かの服を、脱がせてきたような。
「記録、作ろうぜ」
その顔。笑っている。だが——その笑顔には、どこか——
今しかない、という切実さが——混じっている気がした。
アーチャーは——その表情を見て、思った。
この男は——何かを、背負っている。
「……好きにしろ」
「おう!」
ランサーは、アーチャーの唇に——激しく、キスをした。
そして——
長い、長い夜が始まった。
窓の外では、ラスベガスの夜が——煌めいている。ネオンが、星よりも明るく。だが——その光も、いつか——消える。全ての光は、いつか——消える。
---
第三話
ネバダ州における射撃場は、観光資源だ。
ラスベガスから車で三十分。砂漠の真ん中に、"Desert Eagle Shooting Range"という看板が立っている。全米でも有数の規模を誇る射撃場——観光客向けに、拳銃からマシンガンまで、ありとあらゆる火器を体験できる施設だ。駐車場には、レンタカーが並び、入口では笑顔のスタッフが「Welcome to Vegas!」と叫んでいる。アメリカらしい、狂気と娯楽の混合。
「なぜ、射撃場なんだ」
アーチャーは、車から降りながら尋ねた。
三日目の朝。昨夜は——結局、十回に到達しなかった。九回で、二人とも力尽きた。身体が、悲鳴を上げている。特に腰が。ランサーは平然としているが、アーチャーの身体は——三十二歳の限界を示している。筋肉痛。あちこちに残る痕跡。シャツの襟で隠れない首筋の噛み跡を、朝、鏡で見つけた時——恥ずかしさと、妙な満足感が混ざった。
「面白いから」
ランサーは、車のドアを閉めながら——あっさりと答えた。
それ以上の説明はない。この男は、いつもそうだ。理由を並べ立てない。ただ——やりたいから、やる。
受付。
金髪の女性スタッフが、愛想よく迎えた。三十代前半。典型的なアメリカンビューティー。ポニーテール。白い歯。笑顔が、職業的に完璧だ。
「Hi! First time?」
「彼はね」ランサーが答える。「俺は、常連」
「Oh, Mr. Lancer! Long time no see!」
女性の顔が、ぱっと明るくなった。本物の笑顔。職業的なものではない、もっと——親密な反応。ランサーは、ここで——何度も、銃を撃ってきたのだろう。
「まだラスベガスに?」
「ちょっとな。休暇中」
休暇。その言葉が——また出た。だが——ランサーの「休暇」が、何からの休暇なのか——アーチャーは、まだ知らない。
女性は、書類を準備し始める。慣れた手つき。ランサーの情報は、すでにシステムに入っているらしい。パスポート番号も、クレジットカード情報も——全て。
「いつものパッケージ?」
「ああ。あと、初心者向けのも一つ」
「了解!」
アーチャーは、ランサーを見た。
「……常連?」
「たまに来る」
たまに、の頻度が問題だ。だが——ランサーは、それ以上何も言わなかった。
受付が終わり、二人は射撃レーンへ案内された。
◇
屋内射撃場。
防音壁に囲まれた空間。十五のレーンが並び、それぞれに標的が設置されている。銃声が、絶え間なく響く。硝煙の匂い。金属の匂い。そして——奇妙な高揚感。空気が、緊張している。ここでは、銃は——娯楽。
インストラクターが、アーチャーに拳銃を手渡した。
四十代の男性。筋肉質。短く刈り込んだ髪。退役軍人、という雰囲気。迷彩柄のTシャツ。腕には、タトゥー。
「Glock 17. Nine millimeter. Good for beginners」
金属の塊。冷たい。そして——重い。思ったよりも、ずっと。命を奪う道具。その重さは——物理的なものだけではない。
インストラクターが、基本を教える。構え方。引き金の引き方。安全装置の扱い。リコイルの制御。全て——丁寧に、ゆっくりと。だが、アーチャーの頭は——すでに、情報を整理している。
構え。両手。利き目で照準。呼吸。引き金は、ゆっくりと。
弓道で学んだことと——似ている。大学時代。サークルで。二年ほど。的を見る。呼吸を整える。放つ。同じ原理。
「OK, try it」
アーチャーは、標的に向けて——引き金を引いた。
バン!
耳を劈く銃声。手首に、衝撃。予想以上の反動。だが——
標的を確認する。
中心から、わずかに右。だが——かなり近い。
インストラクターが、目を見開いた。
「……Good shot. Very good for first time」
アーチャーは、銃を見つめた。自分の目は——いい。それは、分かっていた。仕事で、画面を何時間も見続ける。細かいコードのエラーを見つける。パターンを認識する。視力は、2.0。動体視力も、平均以上。デスクワークのせいで衰えているかと思っていたが——どうやら、まだ——
二発目。中心。
三発目。中心。
四発目。中心。
五発目。中心。
インストラクターが——口笛を吹いた。
「……You have natural talent, sir」
ランサーが、隣で——笑った。
「やるじゃん」
その声には——どこか、嬉しそうな響きがある。まるで、自分のことのように。
アーチャーは、何も答えなかった。ただ——銃を見つめた。この感覚。的を見る。呼吸を整える。放つ。弓道と——同じだ。
ランサーは、インストラクターに何か告げた。英語。速い。アーチャーには、聞き取れなかった。
インストラクターが頷き、別の銃を持ってくる。
「Desert Eagle. Fifty caliber」
巨大な拳銃。まるで小型の大砲のような。
ランサーは、銃を受け取った。
その動きに——迷いがない。
まるで、身体の一部のように——自然に、銃を構える。重いはずの銃を、まるで——羽根のように。足の位置。肩の角度。腕の伸ばし方。全てが——完璧だ。
そして——
ドン!
轟音。
アーチャーの耳が、痺れた。Glock 17とは、まったく違う。空気が、震える。
標的を見る。
中心。
完璧な、ど真ん中。
ドン! ドン! ドン!
連続して、三発。
全て——寸分違わず、同じ位置。
穴が、一つしかない。まるで、一発しか撃っていないみたいだ。
アーチャーは——言葉を失った。
自分の腕前は——初心者にしては、いい。だが——これは。プロだ。いや——プロ以上。
「……昔、訓練受けててな」
ランサーが、銃を下ろしながら——呟いた。
「俺の育った環境じゃ、必要だった」
それだけ。説明も、言い訳もなく——ただ、それだけ。
アーチャーは——ランサーを見た。
この男の過去には——何がある。
青い髪。赤い瞳。傷だらけの身体。そして——プロ級の射撃技術。全てが——普通ではない。
だが——ランサーは、それ以上何も言わなかった。
ただ——標的を見つめている。その横顔に——わずかな、影。
アーチャーは、それ以上追求しなかった。
この男にも——触れられたくない過去があるのだろう。自分と、同じように。誰にでも、見せたくない傷がある。クローゼットの奥に隠した、古い写真みたいに。焼却したいけど、焼却できない——そんな記憶。
「じゃ、もうちょっと練習しようぜ」
ランサーは、にっと笑った。その笑顔には——もう、影はない。まるで、何かを——吹っ切ったような。
そして——口笛を吹き始めた。
軽やかな、メロディー。何の曲かは分からない。だが——その音色は、この射撃場に——妙に、似合っている。銃声と、硝煙と、口笛。
アーチャーは——その横顔を見た。
この男は——本当に、軽やかだ。
重いものを背負っていても——それを、感じさせない。まるで——羽根のように。切り替えが、早い。過去を背負っていても——今を、楽しむ。
二人は、再び撃ち始めた。
アーチャーの腕前は——驚くほど、上がっていく。十発撃てば、九発が中心。視力。集中力。パターン認識。全てが——銃に、向いている。
ランサーが、アーチャーの後ろに立った。
「姿勢、直してやる」
体温が、伝わってくる。
「もうちょっと、腰を落として」
ランサーの手が——アーチャーの腰に触れた。
「肩の力、抜いて」
吐息が、耳元に触れる。
アーチャーは——引き金を引いた。
バン!
完璧な、中心。
「おお、いいじゃん」
ランサーの手が、アーチャーの腰から——離れた。
「お前、マジで才能あるわ」
その声には——どこか、嬉しそうな響きがある。
だが——アーチャーの胸には、わずかな不安が残っていた。
この男は——何を、隠しているのか。
そして——なぜ、こんなにも——銃の扱いに、慣れているのか。
◇
射撃場を出た後。
二人は、近くのダイナーに入った。
古びた建物。赤いビニールのブース席。カウンターには、腹の出た店主。壁には、ルート66の写真。典型的な、アメリカのダイナー。時代に取り残された、アメリカの残骸。
ランサーは、チーズバーガーとミルクシェイク。
アーチャーは、クラブサンドイッチとコーヒー。
ウェイトレスが去った後——しばらく、沈黙。
アーチャーは、コーヒーを一口飲んだ。
「お前、射撃——めちゃくちゃ上手かったな」
ランサーが、テーブルに肘をついた。その仕草が——だらしない。だが——同時に、リラックスしている。まるで、何かから——解放されたような。
「弓道を、少しやっていた」
「ああ、なるほど」
ランサーは、納得したように頷いた。
「だから、構えがいいんだ」
それだけ。それ以上の詮索はない。この男は——いつも、そうだ。深く掘り下げない。表面を、軽やかに滑っていく。
ウェイトレスが、料理を運んできた。
ランサーは、チーズバーガーを——豪快に、齧った。
「うめぇ!」
その顔。満面の笑み。
さっきの——射撃場での、影のある表情が——嘘だったみたいだ。
アーチャーは——その横顔を見て、思った。
この男は——何者なんだろう。
完璧な射撃技術。だが——今は、チーズバーガーを頬張って、子供のように笑っている。
「今夜——ゆっくり、したい」
ランサーが、ミルクシェイクを啜りながら——アーチャーを見た。
その視線に——熱が宿っている。
「昨日まで、回数ばっか気にしてたけど——今夜は、お前を——じっくり、感じたい」
アーチャーの心臓が、跳ねた。
「……好きにしろ」
「じゃ、覚悟しとけよ」
ランサーは、にやりと笑った。
そして——また、口笛を吹き始めた。
軽やかな、メロディー。
アーチャーは——その音色を聞きながら、思った。
この男は——本当に、軽やかだ。
◇
夜。
ホテルに戻った二人は——約束通り、ゆっくりと愛し合った。
ランサーは、アーチャーの身体を——丁寧に、愛撫していく。首筋。鎖骨。胸。腹。太腿。全ての場所に——唇を這わせる。まるで、地図を辿るように。だが——その動きには、どこか——余裕がある。まるで、何度も——この道を、辿ってきたような。
「声、出していいぜ?」
「……出さない」
「強情だな」
ランサーは、笑いながら——アーチャーの最も敏感な場所に、舌を這わせた。
アーチャーの身体が、震えた。
「ほら、出た」
「……っ、君——」
「可愛い」
ランサーは、アーチャーの脚を開かせた。そして——ゆっくりと、指を滑り込ませる。丁寧に、ほぐしていく。まるで、陶芸家が粘土を扱うように。その手つきが——熟練している。
「痛いか?」
「……平気だ」
「嘘つけ。顔、歪んでるぞ」
ランサーは、もう一方の手で——アーチャーの頬を撫でた。
「無理すんな」
その声に——優しさが混じっている。
やがて——ランサーは、ゆっくりと、自分自身を——アーチャーの中へ。
「……っ!」
「大丈夫か?」
「……ああ」
「動くぞ」
ゆっくりと。昨日までとは、違う。焦らず。急がず。ただ——感じるために。
「……アーチャー」
「……何だ」
「好きだ」
その言葉に——アーチャーの目が、見開いた。
ランサーは、アーチャーの目を見つめた。
「お前が、好きだ」
「……まだ、三日しか——」
「関係ねぇ」
ランサーは、腰を打ちつけた。
「三日で分かるもんは、分かる」
アーチャーは、ランサーの首に腕を回した。
「……私も——君が——好きだ」
ランサーの動きが、止まった。
そして——笑った。
「……そっか」
「ああ」
「じゃ、もっと——感じさせてやる」
ランサーは、さらに深く——アーチャーを貫いた。
長い、長い夜。二人は——何度も、何度も——愛し合った。回数など、もう数えなかった。ただ——互いを、求め合った。
窓の外では、ラスベガスの夜が——煌めいている。
◇
翌朝。
朝日が、部屋を照らす。
アーチャーは、ランサーの腕の中で——目を覚ました。
「……おはよう」
「……おはよう」
二人は、微笑み合った。
「あと、四日——足りるかな」
ランサーの声が——わずかに、震えた。
「お前と、一緒にいる時間」
アーチャーの胸が、締め付けられた。
そう、あと四日。この蜜月は——終わる。
「……分からない」
「そっか」
ランサーは、アーチャーを抱きしめた。
「じゃ、残りの時間——大切にしようぜ」
「……ああ」
二人は、静かに抱き合った。
窓の外では、ラスベガスの朝が——始まっていた。四日目が——やってくる。そして——この蜜月の終わりも、少しずつ——近づいていた。
---
第四話
砂漠の夕暮れは、神の残酷さを示す芸術作品だ。
バレー・オブ・ファイアー州立公園——ラスベガスから北東へ一時間。アステカ砂岩が織りなす、燃えるような赤い岩の大地。四億年前、この地は海底だった。堆積した砂が、時間と圧力によって岩となり、酸化鉄が赤く染め上げた。その岩肌は、まるで炎が固まったかのよう。
午後六時。
太陽が、地平線へと沈みかけている。赤い岩が——さらに赤く、燃え上がる。空気が、オレンジ色に染まっている。まるで、世界全体が——炎に包まれているような。
「……すごいな」
アーチャーは、呟いた。
二人は、巨大な岩の上に座っていた。足元には、うねるような赤い岩肌。まるで、波が固まったような形状。眼下には、砂漠が広がっている。地平線まで——何もない。ただ——赤い大地と、青い空。
風が、吹く。
乾いた風。だが——夕暮れの風は、昼間ほど容赦なくない。わずかに、涼しい。アーチャーは、その風を——心地よく感じていた。
四日目。
あと三日で——この蜜月は、終わる。
だが——今日、ランサーは——どこか、様子がおかしかった。
朝から、口数が少ない。いつもの軽やかさが、ない。車の中でも、口笛を吹かなかった。ただ——ハンドルを握り、前を見つめていた。その横顔に——わずかな、緊張。まるで、何かを——決意したような。あるいは、何かを——告白しようとしているような。
「だろ? ここ、俺の——」
ランサーは、言葉を切った。
わずかな、躊躇。
「お気に入りの場所なんだ」
アーチャーは、ランサーを見た。
青い髪が、夕日に照らされている。その横顔に——また、あの影が浮かんでいる。昨夜も、ベッドの上で——何度も、見た表情。愛し合っている最中でさえ——時々、この男は——遠くを見るような目をした。まるで、何かを——思い出しているような。
「……君、何か言いかけたな」
「ん?」
「『俺の』の後。何か、隠した」
ランサーの動きが——わずかに、止まった。
「……鋭いな」
苦笑。だが——その笑みには、どこか——観念したような響きがある。
「まぁ——ここは、昔——」
彼は、空を見上げた。
夕日が、沈んでいく。オレンジ色の空が、少しずつ——紫色に変わっていく。一日が、終わる。そして——新しい夜が、始まる。
「逃げてきた場所なんだ」
「逃げてきた?」
「ああ。色々あってな」
ランサーの声が——低くなる。
いつもの、軽やかな声ではない。もっと——重い、沈んだ声。
「俺、ずっと——息苦しい場所にいた」
風が、吹く。
ランサーの青い髪が、なびく。
「何をするべきか、誰と会うべきか、どう振る舞うべきか——全部、決められてた」
ランサーは、膝を抱えた。
その仕草が——子供っぽい。だが——同時に、どこか——疲れているような。
「で、疲れて——ここに逃げてきた」
アーチャーは、何も言わなかった。
ただ——ランサーの言葉を、待った。
この男が——自分の過去を、話そうとしている。それを——邪魔してはいけない。
砂漠の風が、二人を包む。
遠くで——鳥の鳴き声。猛禽類の、鋭い声。
「俺は、ただ——」
ランサーは、アーチャーを見た。
その赤い瞳に——わずかな、痛みが宿っている。
「普通に、生きたかった」
「自分で、選びたかった」
アーチャーが、続きを言った。
その言葉が——自然に、出た。まるで——ランサーの心が、読めるような。
「……ああ」
ランサーは、小さく笑った。
その笑みには——どこか、安堵が混じっている。
「お前、分かるんだな」
「……私も、同じだ」
アーチャーは、空を見上げた。
夕日が、沈んでいく。一日の終わり。そして——この蜜月の終わりも、近づいている。
「期待に応え続ける人生。完璧であり続ける人生」
その言葉を——口にした瞬間、胸が——わずかに、軽くなった気がした。
「息苦しいよな」
「ああ」
二人は、しばらく黙っていた。
言葉は、必要なかった。
この沈黙が——二人を、繋いでいる。
風が、吹く。砂漠の、乾いた風。容赦のない風。だが——今は、それが——心地よい。
「なぁ、アーチャー」
「何だ」
「お前と結婚したのも——」
ランサーは、わずかに笑った。
だが——その笑みは、自嘲的だ。
「その一環だった」
「……一環?」
「ああ。どうせ破棄するつもりだったし。一週間だけの——」
ランサーは、言葉を探すように空を見た。
夕日が、完全に沈もうとしている。最後の光が、空を——赤く、染めている。
「自由、っていうか」
その言葉が——アーチャーの胸に、刺さった。
自由。
そう、この一週間は——二人にとって、自由だった。
過去も、未来も、責任も——何もかも、忘れて。ただ——今を、楽しむ。
だが——それは、終わる。
全ての自由は——いつか、終わる。
「……そうだな」
アーチャーは、平静を装った。
声が——わずかに、震えそうになる。それを、必死で——抑える。
「私も、同じだ。どうせ無効にするつもりだった」
「だろ?」
ランサーは、にっと笑った。
だが——その笑みは、どこか——寂しげだった。まるで、何かを——諦めたような。
沈黙。
風だけが、吹いている。
やがて——ランサーが、口を開いた。
「でもさ」
「何だ」
「来月——婚約発表があるんだ」
その言葉を——ランサーは、まるで——爆弾を投下するように、言った。
アーチャーの動きが、止まった。
心臓が——一瞬、停止したような気がした。
「……婚約?」
「ああ。家同士で決まった縁談」
ランサーの声は——まるで、天気の話をするかのように平坦だった。
だが——その平坦さが、逆に——痛々しい。まるで、感情を——無理やり、押し殺しているような。
「スコットランドの名門との」
スコットランド。名門。縁談。
その言葉が——アーチャーの頭の中で、反響する。
「……」
「ビジネス婚だけどな」
ランサーは、苦笑した。
その笑みには——どこか、諦観が混じっている。まるで——運命を、受け入れたような。
アーチャーは——言葉が出なかった。
婚約者。
この男には——婚約者がいる。
そして——来月、発表。
つまり——もう、決まっている。変えられない。
「で、その後——俺は、色々と——」
ランサーは、言葉を濁した。
「まぁ、忙しくなる」
「……忙しく?」
「ああ」
それ以上——ランサーは語らなかった。
だが、アーチャーには分かった。
この男は——何かを、隠している。
婚約だけではない。もっと——大きな、何か。
「……何者だ、君は」
アーチャーの声が——低くなる。
「ん?」
「射撃の腕前。それに—」
アーチャーは、ランサーを見た。
その赤い瞳を、まっすぐに。
「婚約者がいる、家」
「……」
ランサーは、しばらく黙っていた。
その沈黙が——答えだった。
やがて——ランサーは、ため息をついた。
深く、重い——ため息。
「……言わなきゃ、ダメか」
「ああ」
「でも、言ったら——」
ランサーは、アーチャーを見た。
その目に——わずかな、恐れが宿っている。拒絶されることを、恐れているような。
「お前、引くかもな」
「引かない」
即答。
「本当に?」
「ああ」
アーチャーの声には——迷いがなかった。
この男が——何者であろうと。どんな過去を持っていようと。もう——関係ない。
ランサーは——わずかに笑った。
その笑みには——安堵と、諦観が、混じっている。
「……俺の本名、クー・フーリン・ランサー・アルスター」
その名前を——ランサーは、まるで——呪文を唱えるように、言った。
「アルスター……?」
アーチャーの思考が——回転し始める。
アルスター。どこかで——聞いたことがある。
「アイルランドの、貴族」
その言葉で——全てが、繋がった。
アーチャーの思考が——一瞬、停止した。
貴族。
アイルランド貴族。
アルスター。
「伯爵家の、次期当主」
その言葉を——ランサーは、まるで呪いのように吐き出した。
声が——わずかに、震えている。
アーチャーは——何も言えなかった。
アルスター伯爵家。
その名前は——アーチャーも、聞いたことがあった。いや、正確には——ヨーロッパの貴族に関心などなかったが、仕事柄、セキュリティ業界の情報は耳に入る。アルスター家は、ヨーロッパでも有数の資産を持つ名門だ。
そして——その一人息子。次期当主。
それが——
目の前の、この男。
青い髪。赤い瞳。二十七歳。
昨夜まで——何度も、抱き合った男。
「……そうか」
やっとの思いで、声を絞り出した。
喉が、渇いている。砂漠の空気のせいだけではない。
「君は——」
「ああ」
ランサーは、自嘲するように笑った。
その笑みにはどこか、苦しみが混じっている。
「クー・フーリン・ランサー・アルスター。アルスター伯爵家の次期当主」
その肩書きを——まるで、鎖のように、背負っている。
「……」
「で、来月——スコットランドの名門、マクレガー家との婚約を発表する」
ランサーの声が——重く、沈む。
夕日が、完全に沈んだ。空が、暗くなり始めている。星が——少しずつ、輝き始めた。
「両家で三億ポンドの投資が動いてる。不動産開発、共同事業——全部、この縁談が前提」
三億ポンド。
その金額が——どれほどのものか。
アーチャーの年収——一千二百万円。日本円で。ポンドに換算すると——約七万ポンド。
三億ポンドは——その四千倍以上。
想像もつかない、金額。
「……」
「破談になったら、家が傾く」
アーチャーは——何も言えなかった。
胸が、痛い。
この男は——最初から、手の届かない場所にいたのだ。
東京のワンルームマンションに住む、年収一千二百万円のサラリーマンと——
資産十億ポンドを持つ、アイルランド貴族の次期当主。
まるで——別の世界。
別の次元。
「……どうせ、破棄するつもりだったのだろう」
アーチャーの声が——わずかに、震えた。
自分でも——驚くほど、冷静な声だった。
「この結婚を」
「……ああ」
ランサーは、小さく頷いた。
その動きが——わずかに、重い。
「ならば——」
アーチャーは、立ち上がった。
脚が、震えている。それを——必死で、抑える。
「問題ない」
「おい——」
「私も、同じだ。最初から、一週間だけの——」
その言葉を——無理やり、口にする。
胸が、痛い。何かが——引き裂かれるような。
「待てよ」
ランサーも、立ち上がった。
「お前——」
「暇つぶしだった」
その言葉を——無理やり、絞り出した。
嘘だ。
嘘だと——分かっている。
だが——言わなければならない。
「だから——」
「本当に、それでいいのか」
ランサーの声が——わずかに、震えた。
その声には——痛みが、混じっている。
「お前、本当に——俺のこと、暇つぶしだと思ってんのか」
「……当然だろう」
アーチャーは、平静を装った。
顔が——引きつりそうになる。それを——必死で、抑える。
「一週間だけの約束だった。それ以上でも、それ以下でもない」
「嘘だろ」
ランサーの声が——大きくなる。
「嘘ではない」
「昨日——お前、『好きだ』って——」
昨日。
ベッドの上で。
ランサーが——「好きだ」と言った。
そして——自分も、答えた。
「私も——君が——好きだ」
あの瞬間。
あの、幸福な瞬間。
それが——今、胸を——えぐる。
「そう言えば、君が喜ぶと思った」
アーチャーの声が——冷たくなる。
自分の声とは——思えないほど、冷たい。
「所詮、一週間の関係だ。多少の演技くらい——」
「嘘つけ!」
ランサーは、アーチャーの腕を掴んだ。
力強く。
「お前、あの時——泣いてただろ!」
「……泣いていない」
泣いた。
確かに——泣いた。
ランサーの肩で。幸福すぎて——涙が、溢れた。
「泣いてた! 俺の肩で!」
「それも——」
アーチャーは、ランサーを睨んだ。
視界が——わずかに、滲む。それを——必死で、抑える。
「演技だ」
「……っ」
ランサーの手が——震えた。
その手の温もりが——アーチャーの腕に、伝わってくる。
昨夜も——この手に、何度も——触れられた。
アーチャーは、腕を引いた。
ランサーの手が——離れる。
その瞬間——胸が、空っぽになったような気がした。
「貴族の次期当主と、平民のサラリーマン。釣り合うわけがない」
「そんなこと——」
「釣り合わない」
アーチャーの声が——震えた。
もう——抑えきれない。
「最初から——君は、私の手の届かない場所にいた」
「……アーチャー」
「だから——」
アーチャーは、背を向けた。
ランサーの顔を——もう、見られない。
このまま見ていたら——泣いてしまう。
「これで、いい」
「待て!」
「待たない」
アーチャーは、車へ向かって歩き出した。
足が、震えている。それを——必死で、抑える。
「話を——」
「もう、話すことはない」
その背中。
まっすぐな、背中。
だが——その背中は——今にも、崩れそうだった。
ランサーは——追いかけようとした。
だが——
アーチャーが——遠ざかっていく。
その背中が——どんどん、小さくなっていく。
夜の闇の中に——消えていく。
そして——ランサーの胸に、激しい痛みが走った。
失う。
この男を——失う。
「……待てよ!」
ランサーは——走り出した。
砂漠の岩の上を。暗闇の中を。
「アーチャー!」
アーチャーが、車のドアに手をかけたところで——振り返った。
「……何だ」
その顔。
月明かりに照らされて——わずかに、見える。
その目に——涙が、光っている。
「俺——」
ランサーは、息を切らした。
走ってきたせいだけではない。心臓が——激しく、跳ねている。
「お前を——失いたくねぇ」
「……」
「婚約も、家も——どうでもいい」
「何を——」
「お前が——」
ランサーの声が、震えた。
「お前がいればいい」
その言葉を——心の底から、吐き出した。
アーチャーの目が——見開いた。
「……何を言っている」
「俺、分かったんだ」
ランサーは、アーチャーに近づいた。
二人の間の距離が——縮まる。
「お前が離れるって分かって——初めて、分かった」
月明かりが、二人を照らしている。
「……」
「俺、お前を——」
ランサーは、アーチャーの肩を掴んだ。
その肩が——わずかに、震えている。
「本気で、愛してる」
その言葉に——アーチャーの胸が、激しく疼いた。
愛してる。
この男は——本気で、言っている。
その目を見れば——分かる。
だが——
「……信じられない」
「え?」
「信じられないと言っている」
アーチャーは、ランサーの手を払った。
その手が——冷たい。
「君は——今まで、私に嘘をついてきた」
「……っ」
「身分を隠し、婚約者がいることを隠し——」
アーチャーの声が——震える。
もう——限界だ。
「そして今——『愛してる』だと?」
「本当だ!」
「嘘だ」
アーチャーは、ランサーを睨んだ。
視界が——涙で、滲む。
「君は——私が離れると分かって、焦っているだけだ」
「違う!」
「では、証明してみせろ」
アーチャーの声が——冷たくなる。
最後の、理性。
「……」
「婚約を破棄しろ。家を捨てろ。全てを捨てて——私を選べ」
その言葉を——突きつける。
残酷な、言葉。
だが——それしか、ない。
「できるのか?」
ランサーは——答えられなかった。
口が、開いている。だが——言葉が、出ない。
その顔に——苦悩が、浮かんでいる。
「……今すぐには——」
「ほら、見ろ」
アーチャーは、車のドアを開けた。
「結局、君は——何も捨てられない」
「待ってくれ! 時間を——」
「時間など、ない」
アーチャーは、運転席に座った。
車内の、狭い空間。
ここで——四日間、何度も——ランサーと、笑い合った。
「さようなら、ランサー」
「待て!」
「……もう、私に触れるな」
アーチャーの声が——震えた。
涙が——頬を、伝う。
「これ以上——傷つけないでくれ」
エンジンをかける。
車が、振動する。
「アーチャー!」
ランサーの声が——窓越しに、聞こえる。
だが——アーチャーは、アクセルを踏んだ。
「待て! 車! 俺、どうやって——」
「Uberでも呼べ」
冷たく、言い放った。
その言葉が——自分でも、信じられないほど——冷たい。
「……っ、アーチャー!」
車が、発進する。
ランサーが、追いかける。
その姿が——バックミラーに、映る。
青い髪が、月明かりに照らされて——銀色に光っている。
だが——砂漠を走る車に、徒歩で追いつけるはずがない。
ランサーの姿が——バックミラーの中で、小さくなっていく。
やがて——見えなくなった。
アーチャーは——涙をこらえた。
もう——無理だ。
涙が——止まらない。
「……さようなら」
小さく、呟いた。
車は——砂漠の道を、ラスベガスへ向かって走った。
ヘッドライトが、闇を照らす。
だが——その光も、すぐに——闇に飲み込まれる。
全ての光は——いつか、消える。
◇
残されたランサーは——砂漠の真ん中に、立ち尽くしていた。
「……くそ」
拳を、握りしめる。
爪が、手のひらに食い込む。痛い。だが——その痛みすら——今は、感じない。
周りには——何もない。
赤い岩と、砂と、空だけ。
月明かりが、砂漠を照らしている。
静寂。
風の音だけが——聞こえる。
「くそっ!」
砂を、蹴った。
砂が、舞い上がる。
だが——もう、遅い。
アーチャーは——行ってしまった。
「……Uber、か」
ランサーは、スマートフォンを取り出した。
画面を見る。
No Service
電波が、ない。
「……マジかよ」
ランサーは、天を仰いだ。
星が——無数に、輝いている。
バレー・オブ・ファイアーの奥地。観光客が少ない場所は、電波が入らない。最寄りの幹線道路まで——少なくとも、数キロは歩かなければならないだろう。
砂漠の夜は、冷たい。
昼間の灼熱が嘘のように、気温が下がる。
ランサーは——スーツの上着しか着ていない。
寒い。
だが——それでも——
「……最悪だ」
呟いて——歩き出す。
砂漠の中を。
電波の届く場所を探して。
一歩、一歩。
砂を踏む音だけが——静寂の中に、響く。
「……俺は」
ランサーは——空を見上げた。
星が、輝き始めていた。
無数の星。
遠い、遠い——光。
「何やってんだ」
自分に——問いかける。
愛してる、と言った。
本気だ、とも言った。
だが——
何も、捨てられなかった。
婚約を破棄する、とは言えなかった。
家を捨てる、とも言えなかった。
三億ポンドの投資。
家の期待。
何百年もの歴史。
それらが——自分を、縛っている。
「……臆病者が」
自分を——罵った。
声が——砂漠に、吸い込まれていく。
誰も、聞いていない。
だが——
「……でも」
ランサーは——拳を握りしめた。
爪が、再び——手のひらに食い込む。
「まだ、終わってねぇ」
目が——決意に燃える。
月明かりに照らされて——その赤い瞳が——光っている。
「アーチャー——」
ランサーは——歩き続けた。
星空の下を。
一歩、一歩。
寒い。
脚が、痛い。
だが——止まらない。
「待ってろ。俺が——」
砂を踏む音。
呼吸の音。
それだけが——静寂の中に、響く。
「証明してやる」
やがて——遠くに、幹線道路の灯りが見える。
ランサーは——走り出した。
---
第五話
マッカラン国際空港。
午前六時。ターミナルには、まだ人影がまばらだ。清掃員がモップを押し、カフェのスタッフが開店準備をしている。蛍光灯の白い光が、床のリノリウムを照らす。どこか非現実的な、夢と現実の狭間のような時間帯——人間が最も無防備になる時間帯。判断力が鈍り、感情が露出し、理性の壁が薄くなる。心理学の研究によれば、午前五時から七時の間に人間が下す決断の約六十七パーセントは、後に後悔される。だが今、アーチャーは——その統計の外側にいると信じていた。
アーチャーは、チェックインカウンターの前に立っていた。
スーツケース一つ。無印良品で買った、黒いハードケース。三年前、東京赴任の際に購入したもの。角が少し擦れている。キャスターの一つが、わずかにガタつく。手には、成田行きの予約確認書——昨夜、モーテルの薄暗い部屋で、震える指でプリントアウトしたもの。JAL便、午前八時五十分発。エコノミークラス。座席番号42K——窓際。十三時間のフライトの後、成田に着く。そして——東京の、あのワンルームマンションに戻る。
全てを——あの青い髪の男を、砂漠の星空の下に置いてきたように——忘れるために。
人間の記憶は、場所に紐づいている。神経科学の研究が示すところによれば、特定の場所と結びついた記憶は、その場所から物理的に離れることで——完全にではないが——弱まる。海馬の空間記憶システムと、扁桃体の感情記憶システムの接続が、距離によって希薄化する。つまり、理論上は——ラスベガスから一万キロ離れれば、あの男の記憶も、あの夜の記憶も、少しは——。
だが、アーチャーは知っている。それが、嘘だということを。
記憶は——特に、身体に刻まれた記憶は——距離では消えない。
昨夜は、空港近くのモーテル6に泊まった。全米チェーンの格安ホテル。一泊七十九ドル九十五セント——クレジットカードの明細に、この金額が記録される。将来、何年か後に、ふとカードの履歴を見た時——「2025年1月6日、Motel 6, Las Vegas, $79.95」——この数字が、全てを思い出させるのだろう。人間の記憶は、数字に弱い。感情は時間とともに風化するが、数字は——冷酷に、正確に、永遠に残る。
部屋は——予想通りだった。壁紙は黄ばみ、シャワーの水圧は弱く、エアコンは五分ごとにガタガタと異音を立てる。ベッドのマットレスは中央が凹み、誰かの背骨の形を記憶している。枕は、安物のポリエステル——首に負担がかかる角度。隣の部屋からは、夫婦喧嘩の声が——「You never listen to me!」「Well, you never shut up!」——延々と漏れてきた。アメリカの中流下層階級の、典型的な夫婦喧嘩。統計的には、この手の喧嘩をする夫婦は五年以内に離婚する。
ベラージオの最上階スイートとは、天と地ほどの差だ。
いや——天と地どころではない。別の宇宙だ。ベラージオのスイートは、一泊五千ドル。このモーテルの六十二倍。シャンパンは一本八百ドル。キングサイズのベッドは、イタリア製のシルクシーツ。窓からは、ラスベガスの夜景が一望できる。そして——あのベッドで、あの男と——。
やめろ。
考えるな。
アーチャーは、壁を見つめた。黄ばんだ壁紙。染み。誰かが昔、拳で殴ったような跡。そして——自分の顔が、薄暗い鏡に映っている。疲れた顔。目の下に、クマ。髪は乱れ、シャツは皺だらけ。三十二歳の、平凡な日本人男性。年収一千二百万円のITセキュリティエンジニア。東京都渋谷区、築二十年のワンルームマンション、家賃十二万円。貯金は、それなりにある——約二千万円。将来設計も、完璧だ。四十歳までに三千五百万貯めて、投資信託で運用し、六十歳でセミリタイア。計画通り。全て、計画通り。
貴族の次期当主など——最初から、縁のない世界だったのだ。
社会学的に見れば、階級を超えた恋愛は基本的に成功しない。どちらかが妥協するか、破綻するか、あるいは——一方が完全に自分の階級を捨てるか。だが、捨てた側は、ほぼ確実に後悔する。五年後、十年後——失ったものの大きさに気づき、相手を憎み、自分を憎み、そして——。
統計は、残酷だ。
だが——統計は、正しい。
「Next, please (次の方どうぞ)」
カウンターの女性が、手招きした。四十代半ば。疲れた目——おそらく、夜勤明け。だが、プロフェッショナルな笑顔を浮かべている。接客業の、よく訓練された笑顔。口角は上がっているが、目は笑っていない。アメリカの航空会社職員の平均年収は、約四万五千ドル——決して高くはない。この女性も、おそらく——住宅ローンを抱え、子供の学費を心配し、夜勤手当を必死に稼いでいるのだろう。人間は皆——それぞれの檻の中で、必死に生きている。
「Passport, please」
「Here」
アーチャーは、パスポートを差し出した。紺色の表紙。金色の文字で「日本国旅券 JAPAN PASSPORT」。中には、自分の顔写真——四年前、更新した時のもの。まだ、もう少し若く見える。目に、希望があった頃の写真。
女性が、バーコードをスキャンする。ピッ、という電子音。画面を見る。そして——眉をひそめた。
何かが、おかしい。
アーチャーの背筋に——予感が走った。
「I'm sorry, sir. Your flight has been cancelled (申し訳ございません。お客様のフライトは欠航となりました)」
アーチャーの思考が——一瞬、停止した。
「……What?」
自分の声が——遠くから聞こえる。
「Technical issues with the aircraft. I'm terribly sorry (機材の技術的な問題です。大変申し訳ございません)」
Technical issues——技術的な問題。航空業界の、便利な言葉。この言葉の背後には、無数の可能性がある。エンジントラブル、油圧系統の故障、電子システムの不具合、あるいは——単なる予約の調整。だが、統計的には——本当に技術的な問題が原因で欠航になるフライトは、全体の約二十パーセント。残りの八十パーセントは——。
「Technical issues? (技術的な問題?)」
「Yes, sir. The airline has cancelled the flight. We can book you on the next available—— (はい。航空会社がフライトを欠航にしました。次の利用可能な便をお取りできます——)」
「待て」
アーチャーは、カウンターに身を乗り出した。頭が、急速に回転し始める。何かが——何かが、おかしい。
「次の便は?」
「Let me check… The next JAL flight to Tokyo would be tomorrow morning at 10:15 (確認いたします……次の東京行きJAL便は明日の朝10時15分になります)」
明日——。
二十八時間後。
「明日? 今日は?」
「I'm afraid all flights to Tokyo today have been cancelled, sir (恐れ入りますが、本日の東京行きフライトは全て欠航となっております)」
アーチャーの背筋に——冷たいものが走った。
警告信号。脳の扁桃体が、危険を察知している。心拍数が上がる。血圧が上昇する。アドレナリンが分泌される。Fight or flight——戦うか、逃げるか。だが今、相手は——見えない。
「全便?」
「Yes, sir. JAL, ANA, United… all showing cancellations (はい。JAL、ANA、ユナイテッド……全て欠航と表示されています)」
女性は、画面を——回転させて、アーチャーに見せた。
成田行き——全便欠航。
羽田行き——全便欠航。
関西国際空港行き——全便欠航。
日本へ向かう、全ての便が——赤い「CANCELLED (欠航)」の文字で埋め尽くされている。
赤。警告色。人間の脳は、赤色に対して——本能的に反応する。危険、血、死——赤は、生存に関わる情報を伝える色。そして今、画面は——真っ赤だ。
「……これは」
アーチャーの頭が、さらに加速する。
一つの航空会社なら、あり得る。機材トラブル。メンテナンスの遅れ。人員不足。様々な理由——統計的に、年間約〇・五パーセントのフライトが、こうした理由で欠航になる。
だが——全ての航空会社が、同時に?
しかも——日本行きだけが?
確率論的に——ほぼ不可能だ。
三つの独立した航空会社が、同時に、同じ目的地への全便を欠航にする確率——いや、つまり——偶然ではない。
誰かが——意図的に。
「Technical issuesとは、具体的に何ですか」
アーチャーの声が——鋭くなる。
「I don't have the details, sir. The system just shows technical issues—— (詳細は分かりかねます。システムには技術的な問題としか表示されておりません——)」
システム——。コンピュータは、嘘をつかない。だが、人間は——コンピュータに、嘘をつかせることができる。
アーチャーの声が——低くなる。
「システム障害なら、全路線に影響が出る。日本行きだけが欠航など——」
「Sir, I understand your frustration, but I'm just seeing what the system shows—— (お気持ちは分かりますが、私もシステムに表示されているものを見ているだけでして——)」
女性の目に——困惑が浮かぶ。彼女は、本当に知らないのだ。ただのオペレーター。システムが表示する情報を、読み上げるだけの——。
だが、システムを操作したのは——誰だ。
「誰が、止めた」
「I beg your pardon? (どういう意味ですか?)」
「誰が——」
その時——
「それは、俺が止めさせたからだ」
背後から——聞き慣れた声。
低く、だが——どこか愉快そうな響き。獣が、獲物を追い詰めた時の——そんな響き。
アーチャーの全身が——凍りついた。
心臓が、一瞬止まる。そして——激しく、打ち始める。毎分八十回の安静時心拍数が——瞬時に、百二十回に跳ね上がる。血液が、脳に殺到する。視界が、鮮明になる。音が、クリアになる。時間が——スローモーションになる。
これは——。
アーチャーは——ゆっくりと、振り返った。
そこに、現実が——立っていた。
青い髪の男が——そこに立っていた。
ランサー。
だが——昨日、砂漠で別れた時とは——まるで違う。
まるで——別人だ。
黒いスーツ。三つ揃い。ウールの質感から判断するに、おそらくサヴィル・ロウ仕立て——ロンドンの伝統的なテーラー街で作られる、完全オーダーメイドのスーツ。一着、最低でも五千ポンド。日本円で約百万円。アーチャーの月収に相当する。袖のボタンホールは手縫い——機械では作れない、職人技。肩のラインは完璧に身体に沿い、腰の絞りは自然で、裾の長さは——靴のかかとに、ちょうど触れる程度。これは——本物の、貴族の服だ。
青い髪は、完璧に整えられ、後ろで一つに束ねられている。昨日までの——砂漠で風に乱れていた、あの無造作な髪ではない。計算され、制御された——。
赤い瞳には、昨日までの柔らかさはなく——冷徹な、貴族の目。
人間を——駒として動かすことに、何の躊躇もない者の目だ。
そして——その周りには、黒服の男たちが四人。
全員、190センチを超える巨漢。筋肉質の身体——おそらく元軍人。イヤホンをつけ、無表情で周囲を警戒している。目の動きが、プロフェッショナルだ——常に、複数の方向を同時に監視している。手は、スーツの内側——おそらく、拳銃の位置——に、自然に添えられている。ボディーガード。それも——国家元首クラスの要人につくような、一流の。
周囲の人々が——ざわめいている。
誰もが——この異様な光景に、気づいている。
だが、誰も——近づこうとしない。
本能が、警告しているのだ——この男たちに、関わるなと。
「……君」
アーチャーの声が、掠れた。喉が、乾いている。唾を飲み込もうとするが——唾液が、出ない。ストレス反応。交感神経が優位になり、唾液腺の活動が抑制される。
「よう。逃げ足、速いな」
ランサーは——にやりと笑った。
だが、その笑みは——昨日までのものとは、違う。
昨日までの笑みは——どこか、無邪気だった。子供のような、屈託のない笑み。だが今、その顔に浮かぶのは——。
獣が、獲物を見つけた時の——そんな笑み。
狩りを楽しんでいる——そんな笑み。
「全部止めさせた。お前が使いそうなルート、全部だ」
ランサーは、ゆっくりと——まるで散歩でもするかのように——近づいてくる。革靴の音が、リノリウムの床に響く。規則正しい音。一歩、一歩——確実に、距離を詰めてくる。
「……何を言っている」
アーチャーは、一歩——後ずさった。背中が、カウンターに当たる。逃げ場が、ない。
「日本行きの便、全部。今日一日、止めた」
その言葉の意味が——脳に浸透するのに、数秒かかった。
全部——?
今日一日——?
「JAL、ANA、United、Delta——全部な」
ランサーは、アーチャーの目の前——約一メートルの距離——に立った。その目が、アーチャーを見つめている。身長差、約二センチ。だが今、その差は——もっと大きく感じられる。
「……できるわけが」
「できるんだよ」
ランサーの声が——低く、危険な響きを帯びる。
まるで——事実を、淡々と説明しているかのように。
「アルスター家の影響力、舐めるなよ」
アーチャーは——言葉を失った。
影響力——。
その言葉の、本当の意味を——今、初めて理解した。
貴族の、権力。
それは——単なる金や地位ではない。
システムを——社会を——動かす力。
電話一本で、航空会社を動かす力。
法律の外側にいる——そんな力。
「電話一本だ」
ランサーは、アーチャーの目の前に立った。その顔が——近い。あまりにも、近い。赤い瞳が、アーチャーの顔を——まるでスキャンするかのように——見つめている。
「『今日一日、ラスベガス発日本行きの全便を、技術的問題で欠航にしろ』。それだけ」
その口調は——恐ろしいほど、軽い。
まるで——レストランで、コーヒーを注文するかのように。
「……狂っている」
「その通り」
ランサーは、アーチャーの腕を——掴んだ。
力強く。
逃がさない——そう言っているかのように。
「だがな、アーチャー。お前を失うくらいなら、もっと狂ってやる」
その瞳。
赤い瞳が——アーチャーを見つめている。
怒りでも、悲しみでもなく——
ただ——執念。
燃えるような、執念。
人間の目が、これほどの感情を表現できるのか——アーチャーは、初めて知った。心理学の研究によれば、人間の感情の約七十パーセントは、目の表情から読み取られる。そして今、この目は——。
全てを、語っている。
「話をさせろ」
それは——命令ではなかった。
懇願だった。
「……話すことなど」
「ある」
ランサーの手が、震えている。
アーチャーの腕を掴んだ——その手が。
「俺の——全部を、聞いてくれ」
アーチャーは——その手を見た。
大きな手。
力強い手。
だが——震えている。
この男は——怒っているのではない。
恐れているのだ。
自分を——失うことを。
人間が最も恐れるものは死ではない。孤独だ。愛する者を失うこと。繋がりを失うこと。そして今、この男の目には——その恐怖が、剥き出しになっている。
「……五分だけだ」
「十分くれ」
「五分だ」
「……分かった」
ランサーは、アーチャーの手を引いた。
「こっちだ」
周囲の人々が——二人を見ている。
だが、誰も——何も言わない。
黒服の男たちが、無言で——道を作る。
アーチャーは——引きずられるように、歩いた。
抵抗できない。
いや——抵抗したくない。
それが——恐ろしい。
◇
VIPラウンジ。
ターミナルの奥、一般客は立ち入れない場所。廊下の突き当たり、目立たないドア。入口には、「Private - Authorized Personnel Only (プライベート - 許可された者のみ)」の札——真鍮製、磨かれている。黒服の男が一人、直立不動で立っている。身長195センチ。元海兵隊——その立ち方で、分かる。
ランサーが近づくと——男は、無言でドアを開けた。
まるで——王が通るかのように。
中は——別世界だった。
いや、別世界などという生易しいものではない。別の次元だ。
高い天井——おそらく、五メートル以上。シャンデリア——クリスタル製、百を超える電球が、柔らかな光を放っている。革張りのソファ——イタリア製、おそらくポルトローナ・フラウ。一脚、五十万円以上。大理石のテーブル——カッラーラ産の白大理石。ミケランジェロが、ダビデ像を彫った、あの大理石。壁には、抽象画——おそらく本物。マーク・ロスコか、バーネット・ニューマン。一枚、数億円。
そして——静かに流れる、バッハの無伴奏チェロ組曲。
ヨーヨー・マの演奏——音の粒が、完璧に揃っている。
誰もいない。
広大な空間に——誰も、いない。
貸し切りだ。
このラウンジ全体を——一人のために。
「……座れ」
ランサーが、ソファを示した。その声には——命令の響きがある。だが同時に——どこか、不安定な響きも。
「命令するな」
「頼む、座ってくれ」
アーチャーは——渋々、ソファに座った。
革が、身体を包み込む。柔らかい。最高級の革——おそらく、子牛の革。人間工学に基づいて設計された、完璧な座り心地。モーテル6のベッドとは——宇宙が違う。
ランサーも、向かいに座る。
テーブルを挟んで——約一メートルの距離。
黒服の男たちは、外で待機している。ドアが——静かに、閉まる。完璧な防音。外の音が、一切聞こえない。
しばらく、沈黙。
バッハだけが、静かに流れている。
無伴奏チェロ組曲第一番——プレリュード。孤独な、だが——美しい旋律。チェロという楽器は、人間の声に最も近い音域を持つ。だからこそ——この曲は、これほどまでに——心に響く。
アーチャーは、ランサーを見た。
この男は——今、何を考えているのか。
「……昨夜、砂漠で三時間歩いた」
ランサーが、口を開いた。
その声は——昨日までの、軽薄なものではなく。
重く、沈んでいる。
まるで——告白をするかのように。
「電波の届く場所まで。星を見ながら、ずっと歩いた」
アーチャーは——息を飲んだ。
砂漠——ネバダ砂漠。夜間の気温は、摂氏五度以下。野生動物が出る。道に迷えば——死ぬ。
「……」
「途中で、コヨーテに遭遇した。二匹」
ランサーは、苦笑した。だが、その笑みは——どこか、自嘲的だ。
「マジで死ぬかと思ったわ」
「……それで?」
「ようやく幹線道路まで出て、Uber呼んで——」
ランサーは、窓の外を見た。窓の向こうには——ラスベガスの朝。砂漠の街。乾いた空気。遠くに見える、赤茶けた山々。
「ホテルに戻った。午前二時」
午前二時——アーチャーが、モーテル6のベッドで——眠れずに天井を見つめていた頃。
「……」
「シャワー浴びて、着替えて——」
ランサーは、アーチャーを見た。
その目には——決意が、宿っている。
「家に、電話した」
アーチャーの目が——見開いた。
心臓が、また——激しく打ち始める。
「……家?」
「ああ。アイルランドの、本家」
ランサーの声が——さらに重くなる。
「親父に、直接」
親父——ランサーの父。アルスター家の現当主。ヨーロッパ有数の貴族。おそらく——王族とも、直接話ができる立場。
「……何を」
「『婚約を破棄する』って」
その言葉に——アーチャーの胸が、跳ねた。
鼓動が——一瞬、止まる。
そして——激しく、打ち始める。
「君——」
「『マクレガー家との縁談、断る。理由? 他に好きな奴ができた』」
ランサーは、自嘲するように笑った。だが、その笑みは——どこか、誇らしげでもある。
自分の愚かさを、誇っているかのように。
「怒鳴られたわ。一時間くらい」
「……」
「『家を何だと思っている』『何百年の歴史を、お前一人の我儘で』『恥を知れ』——」
ランサーは、目を閉じた。
まるで——その言葉を、もう一度——脳内で再生しているかのように。
「色々言われた」
アーチャーは——想像した。
電話の向こうで、怒鳴る老人。
何百年もの伝統を背負った、貴族。
そして——その怒りに、一人で耐える——この男を。
「……それで」
「で、最後に——『勘当する』って」
ランサーは、ポケットから——封筒を取り出した。
クリーム色の、上質な紙。触れただけで分かる——これは、普通の紙ではない。おそらく、コットン含有率百パーセント。手漉きの、高級便箋。封蝋には、赤い蝋——アルスター家の紋章が、刻印されている。盾に、ケルトの槍。何百年も前から、使われ続けている、その紋章。
「これ、朝、ホテルに届いてた。執事長が、直々に」
アーチャーは——その封筒を見つめた。
封蝋が、まだ破られていない。
つまり——。
「……開けていないのか」
「開けてねぇ。中身、分かってるし」
ランサーは、封筒をテーブルに——ゆっくりと、置いた。
まるで、爆弾を扱うかのように。
慎重に。
だが——恐れてはいない。
「正式な勘当状。父親の署名入り」
その声は——不思議なほど、平坦だ。
まるで——他人事のように。
だが、アーチャーには分かる。
この男は——全てを、理解している。
この封筒の重みを。
この決断の、取り返しのつかなさを。
「……」
「でも、いいんだ。もう、決めたから」
「何を——」
「お前と、生きるって」
ランサーの声が——震えた。
初めて——その声に、感情が滲んだ。
「家の期待も、地位も、金も——全部、ぶっ壊す」
「……っ」
「理由? 簡単だ」
ランサーは、立ち上がった。
そして——アーチャーの前に、ゆっくりと——膝をついた。
大理石の床に。
冷たい床に。
貴族が——平民の前に。
膝を——ついた。
アーチャーの脳が——この光景を、処理できない。
社会学的に——歴史的に——この行為が意味するものは。
服従。
降伏。
そして——愛。
「お前が、好きだからだ」
その言葉に——アーチャーの胸が、激しく疼いた。
涙が——溢れそうになる。
視界が、滲む。
だが——まだ、信じられない。
信じてしまったら——。
「……信じられない」
「え?」
「信じられないと言っている」
アーチャーは、ランサーから目を逸らした。涙を——見られたくない。
「君は——今、感情的になっているだけだ」
「違う」
「明日になれば、後悔する」
「しねぇ」
「全てを失って——家族を失って、地位を失って、金を失って——」
「失ってねぇよ」
ランサーは、アーチャーの手を——掴んだ。
両手で——包み込むように。
「お前がいるだろ」
「……っ」
「それだけで、十分すぎるくらいだ」
アーチャーは——その手を、見つめた。
温かい。
大きな手。
昨夜まで、何度も——自分の身体に触れた手。
自分を——抱きしめた手。
「アーチャー、俺——」
ランサーは、アーチャーの顔を——両手で包んだ。
強制的に——目を合わせる。
赤い瞳が——アーチャーの目を、見つめている。
「お前と、一緒にいたい」
「……ランサー」
「日本に行く。お前の国で、お前の隣で——」
ランサーの手が、震えている。
その震えが——アーチャーの頬に、伝わってくる。
「生きたい」
その言葉——「生きたい」という言葉が。
アーチャーの——最後の防壁を、壊した。
涙が——溢れた。
止められない。
堰を切ったように——溢れる。
「……馬鹿か、君は」
「バカだよ」
ランサーは、笑った。
泣きながら——笑った。
その顔は——もう、貴族のものではない。
ただの——一人の、男。
「バカだから——こんなことしてる」
「全てを、捨てて——」
「捨てて、何が悪い」
ランサーは、アーチャーの額に——自分の額を押し当てた。
温かい。
体温が——伝わってくる。
「お前がいれば、それでいい」
「……っ」
もう——我慢できない。
理性が——崩壊する。
統計も、確率も、社会学も——全てが、どうでもよくなる。
アーチャーは——ランサーを、抱きしめた。
力いっぱい。
この男を——失いたくない。
「私も——」
声が、震える。
涙で、声が歪む。
「私も、君が——好きだ」
「……っ」
ランサーも、アーチャーを抱きしめた。
力強く。
まるで——二度と、離さないと誓うかのように。
二人は——長く、抱き合った。
アーチャーは、ランサーを見つめた。
「……一つだけ、聞かせろ」
「何だ」
「なぜ——ここまで、俺を?」
アーチャーの声が、震えた。
「婚約を破棄して、家を捨てて、全財産を失って——」
「……」
「俺は——ただの平凡なサラリーマンだ。
君とは、釣り合わない」
「釣り合う、釣り合わないじゃねぇ」
ランサーは、窓の外を見た。ラスベガスの朝。乾いた光。
「お前は——」
言葉を、探している。
「俺の、全部を知ってる」
「……全部?」
アーチャーは、眉をひそめた。何を言っているのか、分からない。
「初めて会った夜、覚えてるか?」
「……セックスと、結婚なら」
「その前だ」
ランサーは、アーチャーを見た。その目には——わずかな、痛みが宿っていた。
「バーで、俺ら——めちゃくちゃ飲んだ」
「……ああ」
「で、俺——全部、話した」
「全部?」
「ああ」
ランサーは、ため息をついた。深く、重い——ため息。
「俺が貴族だってこと。
家に縛られて生きてきたこと。
婚約者がいること。
生きてる意味が分からないこと——」
アーチャーの目が——見開いた。
「……何?」
「全部、言ったんだよ」
ランサーの声が——低くなる。
「で、お前——泣きながら聞いてくれた」
「……っ」
「『君は一人じゃない』って。
『俺も同じだ』って。
『一緒に、檻から出よう』って——」
ランサーは、笑った。涙声で。
「そう言って、俺を抱きしめてくれた」
アーチャーは——言葉を失った。
記憶に、ない。
まったく、ない。
「……俺、そんなこと」
「覚えてねぇだろ? お前、めちゃくちゃ酔ってたし」
ランサーは、肩をすくめた。その仕草は——どこか、諦めたような。
「でも、いいんだ」
「……」
「だって、お前の身体は——覚えてる」
ランサーは、アーチャーに近づいた。
「俺を、受け入れたこと。
俺の孤独を、抱きしめたこと」
その手が、アーチャーの頬に触れる。
「で、朝起きて——お前、全部忘れてた」
ランサーの声が、震えた。
「『貴族? 婚約者? 何それ』って顔して」
「……っ」
「でも——」
ランサーは、アーチャーの額に、自分の額を押し当てた。
「お前は、また——『普通に』俺を見てくれた」
「……」
「『昨夜の告白を知った上で』じゃなくて。
『何も知らない』状態から、もう一度——
俺を、好きになってくれた」
アーチャーの目から——涙が、溢れた。
「だから——」
ランサーは、笑った。本当に、嬉しそうに。
「二回も、お前に惚れたんだよ」
「……っ」
「一回目は、初めて会った夜。
二回目は——お前が、また俺を選んでくれた時」
アーチャーは——ランサーを、抱きしめた。
力いっぱい。
「……ごめん」
「謝んなよ」
「でも——」
「いいって」
ランサーは、アーチャーの背中を撫でた。
「お前が忘れたおかげで——
俺、もう一回——お前に恋できた」
どれくらいの時間が経ったのか——分からない。
時間の感覚が、消えている。
バッハが、静かに流れている。
無伴奏チェロ組曲第一番——プレリュード。
孤独な、だが——美しい旋律。
そして——二人は、もう——孤独ではない。
---
第七話
結局——二人は、その日の便には乗らなかった。
理由は——極めて現実的なものだった。空港のVIPラウンジで抱擁を交わした後、アーチャーは気づいたのだ。自分のパスポートが、モーテル6のセーフティボックスに入ったままだということに。慌てて戻ろうとしたが、ランサーが「どうせなら、もう一泊しようぜ」と提案した。
そして——もう一つの理由。
ランサーの黒服の一人——執事長の部下らしき男が、静かに告げたのだ。「クー・フーリン様、現在アルスター家の法務チームが動いております。勘当に関する正式な手続きには、最低でも七十二時間を要します。その間、クー・フーリン様の資産は凍結状態となり——」
つまり。
今、ランサーは——クレジットカードが使えない。
銀行口座も、凍結されている。
手持ちの現金は——わずか二千ドル程度。
貴族の権力というものは——与える時は惜しみなく、だが奪う時は——容赦ない。まるでスイッチを切るように。一瞬で。アーチャーは、この時初めて理解した——ランサーが背負っていたものの、本当の重さを。それは単なる金や地位ではなく——システムそのものだった。社会の、最上層に組み込まれた存在。そして今、そのシステムから——切断されようとしている。
「……マジかよ」
ランサーは、頭を抱えた。その仕草は——昨日までの彼なら、決してしなかっただろう。貴族は、動揺を見せない。だが今、彼の手は——わずかに、震えていた。
「飛行機のチケット、どうすんだ」
「私が出す」
「いや、でも——」
「構わない」
アーチャーは、冷静だった。いや——冷静であろうと、努めていた。この状況で、二人とも取り乱すわけにはいかない。誰かが、地に足をつけていなければ。
「ビジネスクラスは無理だが、エコノミーなら——」
「エコノミーで十分だって」
ランサーは、苦笑した。だが、その笑みは——どこか、自嘲的だ。
「てか、エコノミー乗ったことねぇんだよな」
「……何?」
「いつもファーストクラスだったし」
アーチャーは——呆れた顔をした。同時に——複雑な感情が、胸に去来する。この男は、本当に——何もかもを失おうとしているのだ。ファーストクラスという、些細なことすら——もう、過去のものになる。
「……貴族め」
「元、な。もう違う」
ランサーの声には——どこか、吹っ切れたような響きがあった。
そして——もう一つの問題が、浮上した。
ランサーには、日本への入国ビザがなかった。
アイルランド国籍。通常、観光目的なら九十日間のビザ免除がある——これは、日本とアイルランド間の相互協定だ。だが——ランサーの場合、状況が複雑だった。勘当手続き中。資産凍結。帰りのチケットも、まだ手配していない。そして何より——入国審査官は、職業的に疑い深い。「観光です」と言って入国しようとする外国人のうち、実際には不法就労目的の者が——統計的には約十五パーセント。特に、片道チケットで、現金をほとんど持っていない場合——。
「入国審査で、絶対引っかかるわ」
ランサーは、ため息をついた。彼の予測は——残念ながら、正確だった。
「最悪、強制送還とか」
「……それは困る」
アーチャーは、考え込んだ。思考回路が起動する。問題の分析。リスクの評価。解決策の探索——。
「ならば——明後日にしよう」
「明後日?」
「ああ。その間に、必要な書類を揃える。帰りのチケットも、往復で購入する」
アーチャーは、スマートフォンを取り出した。画面を操作しながら——頭の中で、チェックリストを作成していく。
「それに——君、日本での住所が必要だ」
「住所?」
「入国カードに書く。滞在先」
日本への入国時、外国人は「出入国記録カード」を提出しなければならない。そこには、滞在先住所の記入欄がある。ホテル名でもいい。だが——ランサーの場合、ホテルに泊まる金がない。ならば——。
「……お前の家?」
「他にないだろう」
アーチャーは、わずかに笑った。だが、その笑みには——どこか、不安が混じっていた。自分のアパート。三十平米のワンルーム。家賃十二万円。風呂とトイレは別だが、キッチンは——コンロが二口の、狭いもの。ベッドは、シングル。二人で寝るには——。
「狭いぞ。ワンルーム、三十平米」
「十分だって」
ランサーは、にっと笑った。その笑顔には——昨日までの、あの屈託のない明るさが戻っていた。
「お前がいれば」
その言葉に——アーチャーの胸が、温かくなった。
こうして——二人は、もう二泊することになった。
人生の転換点というものは——常に、こうした些細な事務手続きと、現実的な問題に阻まれる。ロマンチックな物語のように、劇的に何かが変わるわけではない。パスポート、ビザ、銀行口座、住所——全てが、一つ一つ、解決されなければならない。愛だけでは、国境は越えられない。
◇
タクシーを拾い、ベラージオへ戻った。
午後一時。太陽が、容赦なく照りつけている。ネバダ州の砂漠気候——夏は摂氏四十度を超えることも珍しくない。だが、今は一月。気温は快適な十五度程度。乾燥した空気。湿度は、おそらく二十パーセント以下。日本の冬とは、まるで違う。東京なら——今頃、湿った冷たい風が吹き、曇り空が広がっているだろう。
タクシーの運転手は——六十代の白人男性。人懐っこい笑顔。ラスベガスのタクシー運転手の平均年収は、約三万五千ドル——決して高くはない。チップが重要な収入源だ。
「Where are you gentlemen from? (どちらからいらしたんです?)」
「Japan (日本です)」
「Oh, Japan! I love Japanese food. Sushi, ramen—— (おお、日本! 日本食が大好きでね。寿司にラーメン——)」
典型的な、観光客向けの会話。だが——悪意はない。ただ——チップを稼ぐための、プロフェッショナルな親しみやすさ。
アーチャーは、適当に相槌を打った。窓の外を見る。ラスベガス・ストリップ。昼間の、その姿。夜の煌びやかさとは対照的に——昼間のストリップは、どこか——疲れて見える。ネオンは消え、建物の古さが露呈し、路上には——昨夜のゴミが、まだ残っている。清掃員が、ゴミを拾っている。この街は——夜のために存在する。昼間は——ただの準備時間に過ぎない。
ベラージオ・ホテル&カジノ。
ラスベガス・ストリップの中心に位置する、五つ星ホテル。客室数三千九百三十三——この数字を、アーチャーは覚えていた。なぜか分からないが、数字は——記憶に残る。従業員数一万人以上。MGMリゾーツ・インターナショナルが所有する、旗艦施設の一つ。年間宿泊客数は——正確な数字は公表されていないが——推定で百万人を超える。一日あたり、約二千七百人。ピーク時には、三千人以上。この巨大なホテルが——常に、ほぼ満室状態で稼働している。
ホテルの前には、有名な噴水がある。
八エーカーの人工湖——約三万二千平方メートル。東京ドームのグラウンド面積が約一万三千平方メートルだから、その二・五倍。千以上のノズル。音楽に合わせて踊る水のショー。十五分ごとに、無料で上演される。建設費用は、約四千万ドル——当時のレートで、約四十五億円。維持費は、年間——おそらく、数百万ドル。だが、この噴水が集客に貢献する効果は——それを遥かに上回る。
観光客が、スマートフォンを構えて撮影している。家族連れ。カップル。一人旅の中年女性。皆——同じように、水のショーに見入っている。この瞬間だけは——誰もが、日常を忘れている。
「……懐かしいな」
ランサーが、噴水を見ながら呟いた。その声には——わずかな、感傷が混じっていた。
「懐かしい?」
「ああ。初めてラスベガス来た時、ここに泊まった」
ランサーは、遠い目をした。視線は、噴水に向けられているが——見ているのは、噴水ではない。過去だ。記憶の中の、十四年前。
「十八歳。父親に連れられて」
十八歳——二〇一三年。アーチャーは、その頃——大学二年生だった。サークル活動に明け暮れ、バイトをし、平凡な学生生活を送っていた。一方、ランサーは——父親に連れられて、ラスベガスで。
「……何の目的で?」
「ビジネス。不動産投資の視察」
ランサーの声が——わずかに、沈む。
「『お前は次期当主だ。全てを学べ』って、ずっと言われてた」
アーチャーは——想像した。十八歳の、ランサー。まだ青年。だが——すでに、次期当主としての教育を受けていた。ビジネスミーティング。契約書。投資計画。普通の十八歳なら——友人と遊び、恋愛をし、将来を夢見る年齢。だが、ランサーは——。
「……」
「で、昼間は会議に出て、夜は——」
ランサーは、苦笑した。
「社交パーティー。つまんなかった」
社交パーティー。ヨーロッパの貴族社会における、重要な儀式。そこでは——ビジネスが決まり、縁談が進み、権力の再編が行われる。表面的には、優雅な会話とダンス。だが、実際には——冷徹な駆け引き。誰と誰が話しているか。誰が誰を紹介したか。全てが——意味を持つ。
そして——十八歳の少年にとっては、退屈で、窮屈で、逃げ出したくなるような場所だったのだろう。
アーチャーは——何も言わなかった。
言葉は——時に、無力だ。
代わりに——ランサーの手を、握った。
大きな手。温かい手。この手が——もう、あの世界には戻らない。
「……でも、今は違う」
ランサーは、アーチャーを見た。その目には——もう、過去の影はなかった。
「今は——楽しい」
「……ああ」
二人は——ホテルに入った。
◇
フロント。
大理石の床——イタリア産のカッラーラ大理石。ミケランジェロが、ダビデ像を彫った、あの大理石と同じ産地。一平方メートルあたり、約十万円。このロビーだけで——おそらく、数億円。高い天井——約十メートル。音響効果を計算された設計。シャンデリア——クリスタル製、一つあたり数千万円。
ベラージオのロビーは、それ自体が芸術作品だ。
天井には、ガラス作家デイル・チフーリの巨大な彫刻——「Fiori di Como」。二千枚以上の手吹きガラスで作られた、花のような、炎のような、色とりどりのオブジェ。赤、青、黄、緑——全てが、有機的に絡み合い、天井から——まるで、天国の庭園が降りてきたかのように——吊り下げられている。制作期間、二年。総工費——公表されていないが、推定で一千万ドル以上。
アーチャーは、何度見ても——この作品に、圧倒される。
人間が作り出せる美の——一つの極致。
チェックインカウンターには、数人の客が並んでいる。だが——ランサーが近づくと、スタッフが——わずかに目を見開いた。認識の光。そして——プロフェッショナルな笑顔。
「Mr. Lancer! Welcome back (ランサー様! お帰りなさいませ)」
二十代後半の女性スタッフ。ブロンドの髪を、きっちりとまとめている。制服は——完璧に着こなされ、姿勢は——軍隊式に真っ直ぐ。ベラージオのスタッフは、全員が——徹底的な訓練を受けている。
「よう」
ランサーは、軽く手を挙げた。その仕草は——昨日までの、貴族のそれではなく——どこか、フレンドリーだ。変わった。この男は——確実に、変わり始めている。
「Your Penthouse Suite is ready, Mr. Lancer. $5,000 per night as usual?
(ペントハウススイートをご用意しております、ランサー様。いつも通り一泊5,000ドルでよろしいですか?)」
「ああ、頼む」
スタッフが、キーカードを用意する。カードリーダーに通し、エンコードする。ピッ、ピッ、という電子音。
だが——その時、別のスタッフが——マネージャーらしき男が、慌てて近づいてきた。四十代。黒いスーツ。少し太っている。額に、汗が浮いている。
「Mr. Lancer, I'm terribly sorry, but—— (ランサー様、大変申し訳ございませんが——)」
彼は、小声で言った。周囲に聞こえないように。プロフェッショナルな配慮。だが——その表情には、明らかな困惑が浮かんでいる。
「Your credit card has been declined (クレジットカードが承認されませんでした)」
ランサーの顔が——一瞬、強張った。
予想していた。だが——実際に言葉にされると、やはり——。
「……あー、そうだな」
彼の声は——わずかに、掠れていた。
「Is there another card you'd like to use? (別のカードをお使いになりますか?)」
「いや——」
「私が出す」
アーチャーが、割って入った。
ランサーの横に立ち、マネージャーを見る。そして——財布から、クレジットカードを取り出す。三井住友VISAカード。ゴールドカード。利用限度額、三百万円。
マネージャーが——わずかに、眉をひそめた。
その表情は——ほんの一瞬だったが、アーチャーには分かった。疑念。この東洋人は、本当に支払えるのか——という。
「Sir, the Penthouse Suite is $5,000 per night—— (お客様、ペントハウススイートは一泊5,000ドルになりますが——)」
一泊、五千ドル。日本円で、約七十五万円。二泊で、百五十万円。アーチャーの年収の、約八分の一。
「構わない」
アーチャーは、冷静だった。表情を、変えない。
「二泊、お願いします」
マネージャーは——カードを受け取った。
カードリーダーに通す。画面を見る。数秒の、沈黙。
システムが、与信審査をしている。アーチャーの信用情報、利用履歴、残高——全てが、一瞬で照会される。
承認。
「Thank you, sir. Here are your keys (ありがとうございます。こちらが鍵でございます)」
マネージャーの声には——わずかな、安堵が混じっていた。そして——プロフェッショナルな笑顔が、戻る。
二人は——キーカードを受け取り、エレベーターへ向かった。
ロビーを横切る。カーペットの上を歩く。周囲の視線が——わずかに、感じられる。だが——もう、気にならない。
エレベーターホール。金色のエレベーターが、到着する。ボタンを押すと——柔らかな電子音。ドアが開く。
中に入る。
ランサーが——わずかに、うつむいている。
「……悪いな」
その声は——小さかった。まるで——自分自身に言い聞かせるかのように。
「気にするな」
「でも——」
「君は、全てを捨てた」
アーチャーは、ランサーを見た。その顔を、しっかりと。
「ならば——私が、支える」
ランサーの目が——わずかに、潤んだ。赤い瞳に、光が宿る。涙ではない。だが——何か、感情が——溢れそうになっている。
「……ありがとう」
「礼には及ばない」
エレベーターが、上昇する。静かな機械音。階数表示が、次々と変わる。5、10、15、20——。
アーチャーは、ランサーの手を——そっと、握った。
二人は——何も言わなかった。
言葉は、必要なかった。
◇
スイートルーム。
最上階。三十六階。ドアを開けると——またあの空間が、広がっていた。
リビング。キングサイズのベッド。大理石のバスルーム。窓からは、ラスベガスの街が一望できる。昼間の——その姿。砂漠の街。乾いた空気。遠くに見える、赤茶けた山々。
だが——もう、二人は慣れていた。
この豪華さに。この非現実に。
最初に来た時は——圧倒された。まるで、映画のセットの中にいるような感覚。だが、人間は——どんな環境にも、適応する。三日もすれば——慣れる。そして——それが、当たり前になる。
「……とりあえず、休むか?」
ランサーが、ソファに座りながら言った。その身体は——わずかに、疲れているようだった。精神的な疲労。この数日間で——彼は、あまりにも多くのものを、失った。
「いや」
アーチャーは、窓の外を見た。太陽が、まだ高い。午後二時。時間は——まだ、ある。
「まだ、時間がある」
「時間?」
「ああ。残り——」
アーチャーは、腕時計を見た。セイコーの機械式時計。五万円。大学卒業の時、父親から貰ったもの。文字盤には、細かい傷。だが——正確に、時を刻んでいる。
「四十八時間」
「……」
「この街で、君と過ごせる時間」
アーチャーは、振り返った。ランサーを見る。その目を、しっかりと見つめる。
「無駄にしたくない」
ランサーは——わずかに、目を見開いた。そして——笑った。声を出して、笑った。
「……お前、ロマンチストだな」
「そうか?」
「ああ」
ランサーは、立ち上がった。その顔には——もう、疲れの色はなかった。
「じゃ——どうする? カジノ? ショー?」
「……君は、何がしたい」
「俺?」
ランサーは、少し考えた。窓の外を見る。そして——アーチャーを見る。
「お前と、一緒にいられれば——何でもいい」
「……具体性がない」
「じゃ、カジノ」
ランサーは、にっと笑った。その笑顔は——無邪気だった。昨日までの、貴族の仮面を脱ぎ捨てた——本当の笑顔。
「お前のカウンティング、もっと見たい」
「……また、それか」
「だって、カッコいい」
アーチャーは——ため息をついた。だが——その口元は、笑っていた。この男は——本当に、単純だ。だが——その単純さが、心地いい。
「……分かった。行こう」
二人は——部屋を出た。
最後の、二日間を——楽しむために。
二度と戻らない——この時間を。
◇
カジノフロア。
午後二時三十分。エレベーターを降りると——すぐに、その音が聞こえてくる。
スロットマシンの電子音。チャリン、チャリン、チャリン——。ルーレットの玉が回る音。ディーラーがカードを配る音。人々の歓声。そして——時折聞こえる、悲鳴のような叫び。
勝った者の歓喜。負けた者の絶望。
全てが、混ざり合っている。
人はまばらだ。ラスベガスのカジノは二十四時間営業だが、昼間は——比較的、静かだ。夜になれば、観光客が押し寄せる。週末には、身動きが取れないほど。だが、今は平日の昼間——。
プロのギャンブラーと、時間を持て余した中年男性くらいしかいない。スロットマシンの前に座る、七十代の女性。おそらく地元の人間。毎日、ここに来ているのだろう。機械的に、レバーを引き続けている。表情は、無い。ただ——習慣のように。
テーブルゲームのコーナーには、スーツ姿の男性が数人。ビジネスマン風——だが、仕事をサボって来ているのだろうか。あるいは——仕事そのものが、ギャンブルなのか。
ベラージオのカジノフロアは、十万平方フィート——約九千三百平方メートル。東京ドームのグラウンド面積が約一万三千平方メートルだから、その七割程度。だが、そこに——スロットマシン二千三百台以上、テーブルゲーム百三十九卓が、所狭しと並んでいる。
天井は高く——約六メートル——シャンデリアが煌めき、カーペットは——複雑な幾何学模様。赤と金を基調とした、目が回るようなデザイン。これは——心理学的な計算だ。カジノは、客を長時間滞在させるために、あらゆる工夫を凝らしている。
時計がない。窓がない。外の時間が分からない。
カーペットの模様は、酔いを誘う——長時間見ていると、平衡感覚が狂う。
照明は、常に一定——昼も夜も、区別がつかない。
そして——無料のアルコール。ウェイトレスが、定期的に巡回し、飲み物を配る。客は——酔い、判断力を失い、さらに賭け続ける。
アーチャーは、この仕組みを——冷静に、分析していた。
心理学。行動経済学。ゲーム理論——全てが、ここには詰まっている。人間の弱さを、システム化したもの。それが、カジノだ。
だが——同時に、アーチャーは思う。
自分も——結局は、その罠にかかっているのではないか、と。
ブラックジャックのテーブルに向かった。
最低ベット百ドル——約一万五千円。緑色のフェルト。カード置き場。チップ置き場。全てが、計算され尽くされた配置。
「Good afternoon, sir (こんにちは)」
ディーラーは、三十代のアジア系女性。おそらくフィリピン系——ラスベガスのカジノ労働者の約二十パーセントは、フィリピン系だ。プロフェッショナルな笑顔。だが、その目は——笑っていない。彼女にとって、これは仕事だ。感情を込める必要は、ない。
ラスベガスのディーラーは、全員が訓練を受けている。ディーラースクール——約六週間のプログラム。カード配りの技術、心理戦、そして——カウンティングを見抜く能力。
「Place your bets, please (ベットをお願いします)」
アーチャーは、財布から——百ドル札を五枚取り出した。五百ドル。日本円で、約七万五千円。
「Change, please (両替お願いします)」
ディーラーが、札を受け取る。テーブルの上に広げる——カメラに見せるため。そして——チップに交換する。
五ドルチップが百枚。
アーチャーは、そのうち二十枚——百ドル——をベット枠に置いた。
カードが配られる。
シュッ、シュッ、という音。ディーラーの手さばきは、機械的に正確だ。何千回、何万回——繰り返してきた動作。
アーチャーの手——キングと7。合計17。
ディーラーの表向きカード——6。
アーチャーの頭の中で——瞬時に計算が走る。
ブラックジャックのベーシックストラテジー。統計的に最適な行動パターン。プレイヤーの手が17で、ディーラーの表向きカードが6の場合——正解は、「Stand (スタンド)」。カードを引かない。
理由——ディーラーは、17以上になるまでカードを引き続けなければならない。現在、表向きカードが6。裏のカードが10である確率は、約三十パーセント。その場合、合計16。さらにカードを引く。バーストする(21を超える)確率——約六十二パーセント。
つまり——ディーラーがバーストする確率が高い。ならば——こちらは動かない方がいい。
「Stand (スタンド)」
アーチャーは、手を横に振った。国際的な、「カードを引かない」のジェスチャー。
ディーラーが、裏のカードをめくる。
10。合計16。
もう一枚引く。
9。合計25。
バースト。
「Player wins (プレイヤーの勝ちです)」
ディーラーが、チップを支払う。百ドルのベットに対して——百ドルの配当。合計、二百ドル。
「……お前、やっぱすげぇな」
ランサーが、後ろで呟いた。その声には——明らかな賞賛が込められていた。
「運だ」
「嘘つけ。絶対、計算してるだろ」
「……少しは」
アーチャーは、わずかに笑った。
ブラックジャックのカードカウンティング——厳密には違法ではない。アメリカの法律では、頭の中で計算しているだけなら——問題ない。外部デバイスを使ったり、複数人で協力したりすれば——違法だが。
だが、カジノは嫌う。
なぜなら——カウンティングをされると、カジノ側の優位性(ハウスエッジ)が、ほぼゼロになるから。通常、ブラックジャックのハウスエッジは約〇・五パーセント——つまり、長期的には、カジノが勝つ。だが、カウンティングを使えば——プレイヤー側が、わずかに有利になる。
そして——カジノは、それを許さない。
あまりにも勝ち続けると、「出入り禁止」になる。法的根拠はない——カジノは私有地だから、誰を入れて誰を入れないかは、カジノの自由だ。
だが——アーチャーのやり方は、巧妙だった。
完璧には、勝たない。時々、わざと負ける。ベット額を変えすぎない——カウンティングをしている者は、有利な時に大きく賭け、不利な時に小さく賭ける。だが、それをあまり露骨にやると——すぐにバレる。
表情を変えない。ディーラーとの会話も、適度に。酔っ払った素人を——演じる。
プロフェッショナルなギャンブラーではなく——運がいい素人、を。
次のゲーム。
カードが配られる。
アーチャーの手——エースと9。
ブラックジャック!
エースと10(または絵札)の組み合わせ。最強の手。
ディーラーの表向きカード——5。
「Blackjack! (ブラックジャック!)」
ディーラーが、チップを支払う。ブラックジャックの配当は、1.5倍。百ドルのベットに対して——百五十ドル。
そして、次のゲーム。
また、勝った。
ディーラーの手——22。バースト。
さらに、次のゲーム。
アーチャーの手——20。ディーラーの手——19。
勝ち。
三十分後。
アーチャーの前には——三千ドル以上のチップが積まれていた。五ドルチップの山。赤と白のチップが、タワーのように積み上げられている。
ディーラーの目が——わずかに、鋭くなる。
そして——ピットボスが、近づいてきた。
五十代の男性。黒いスーツ。無表情。筋肉質の身体——元軍人、あるいは元警官。ピットボスは、カジノフロアの監視責任者だ。不正を見抜き、トラブルを未然に防ぐ。そして——カウンティングをしている者を、特定する。
「Sir, congratulations on your wins (お客様、ご勝利おめでとうございます)」
その声は——丁寧だが、どこか——威圧的だ。
「Thank you (ありがとうございます)」
アーチャーは、表情を変えずに答えた。
「Would you like to move to a higher limit table? We have a private room—— (より高額のテーブルへお移りになりますか? プライベートルームもございますが——)」
これは——暗に、「もう、ここでは遊ばないでくれ」という意味だ。プライベートルームに移動させ、監視を強化する。あるいは——より高額な賭けをさせて、負けさせる。
「いや、十分だ」
アーチャーは、立ち上がった。潮時だ。これ以上勝ち続ければ——本当に、出入り禁止になる。
「Cash out, please (精算お願いします)」
ディーラーが、チップを数える。正確に。一枚も、ごまかさない。
「Three thousand two hundred dollars, sir (三千二百ドルです)」
チップをトレイに入れ、カウンターへ向かう。そこで——現金に交換する。
三十二枚の百ドル札。
日本円で——約四十八万円。
三十分で——。
「すげぇ……」
ランサーが、呆れたように言った。その声には——純粋な驚きが込められていた。
「三十分で、三千ドル稼ぐとか」
「運が良かっただけだ」
「謙遜すんなって」
ランサーは、アーチャーの肩を抱いた。その腕の感触——温かい。力強い。
「なぁ、これで——晩飯、奢ってくれよ」
「……ああ、もちろん」
ランサーは、笑った。その笑顔は——屈託がない。子供のような笑顔。
「でも、マジで——お前、すげぇわ」
「……」
「冷静に計算して、確実に勝っていく。惚れた」
その言葉に——アーチャーの胸が、温かくなった。
「……もう、惚れているだろう」
「何度でも惚れる」
二人は——笑いながら、カジノを出た。
◇
夕暮れ時のラスベガスは、昼と夜の狭間で奇妙な変容を遂げる。
午後六時。太陽が、砂漠の地平線へと沈みかけている。西の空が——オレンジ色に染まり、やがて紫に、そして深い青に変わっていく。グラデーション。自然が生み出す、最も美しい色彩の遷移。
ストリップ沿いのホテル群が——まだ完全には暗くならない空を背景に——ネオンを灯し始める。赤、青、緑、黄——全ての色が、一斉に輝き始める。この時間帯を、地元の人間は「マジックアワー」と呼ぶ。自然光と人工光が混ざり合い、街全体が——まるで舞台装置のように——非現実的な輝きを放つ。
写真家が最も好む時間帯。光の質が、柔らかく、温かく、そして——どこか、儚い。
アーチャーとランサーは、ベラージオ内のフレンチレストラン「Le Cirque」の予約を取っていた。
予約、といっても——通常は数ヶ月待ちの店だ。ミシュラン二つ星。ニューヨークの本店は三つ星を獲得している——ミシュランガイドにおける、最高の評価。ラスベガス店は、やや格が落ちるとはいえ——それでも、この街では最高峰の一つだ。一人あたり、コース料理で三百ドルから。ワインを含めれば、五百ドルを超える。
だが——ランサーが名前を告げると、すぐに席が用意された。
貴族の名前は——まだ、有効だった。少なくとも、この瞬間までは。
「Mr. Lancer, it's been a while (ランサー様、お久しぶりです)」
マネージャーが、恭しく迎えた。四十代半ば。フランス訛りの英語——おそらく、パリ出身。黒いスーツ。完璧に結ばれたネクタイ。ポケットには、白いチーフ。
「常連なのか?」
アーチャーが、小声で尋ねた。
「まぁな。昔、よく来た」
ランサーは、わずかに苦笑した。その表情には——どこか、複雑なものが浮かんでいた。
「父親と、な」
父親——アルスター伯爵。今は——ランサーを勘当しようとしている、その人。
二人は——窓際の席へ案内された。
ベラージオの噴水が、眼下に見える。ちょうど、ショーが始まるところだった。スピーカーから——アンドレア・ボチェリの「Con te partirò」が流れ始める。イタリア語。「君と共に旅立とう」という意味。美しい、だが——どこか、哀しいメロディー。
水が——音楽に合わせて、優雅に舞い上がる。低く、高く、左右に——まるで、生きているかのように。ノズルから噴き出す水は、最高で百四十メートルまで達する。ビルの四十階に相当する高さ。
観光客が、下で——スマートフォンを構えている。皆、同じ角度で、同じものを撮影している。デジタル時代の巡礼——誰もが、同じ体験を求め、同じ証拠を残そうとする。
「……綺麗だな」
アーチャーが、呟いた。何度見ても——この噴水ショーは、美しい。
「ああ」
ランサーは、窓の外を見ている。
だが——その表情は、どこか——寂しげだった。眉間に、わずかな皺。口元が、少し下がっている。視線は、噴水に向けられているが——見ているのは、噴水ではない。過去だ。記憶の中の、何か。
「……どうした」
アーチャーが、声をかける。
「いや——」
ランサーは、小さく笑った。だが、その笑いは——どこか、空虚だ。
「昔を、思い出してた」
「昔?」
「ああ。初めて、ここに来た時」
ランサーは、テーブルに肘をついた。その姿勢は——貴族としては、不作法だ。だが、もう——彼は、貴族ではない。
「父親と、な。俺が十八歳の時」
十八歳——二〇一三年。今から、十四年前。アーチャーは、まだ大学生だった。ランサーは——すでに、次期当主としての教育を受けていた。
「……」
「同じ席だった。で、親父が——」
ランサーの声が、低くなる。まるで——父親の声を、再現するかのように。
「『いいか、クー・フーリン。お前はアルスター家の次期当主だ。この景色を見ろ。これが——お前が守るべき世界だ』って」
守るべき世界——。
アーチャーは——その言葉の重みを、想像した。ヨーロッパの貴族。何百年もの歴史。土地、城、使用人、ビジネス帝国——全てを、守らなければならない。一人の人間の肩に、全てが——。
「……」
「当時は、意味が分かんなかった」
ランサーは、グラスの水を一口飲んだ。氷が、カラン、と音を立てる。
「でも、今なら——分かる」
「何が」
「父親は、俺に——」
ランサーは、アーチャーを見た。その目には——理解が、宿っていた。
「贅沢を教えたかったんじゃねぇ。責任を、教えたかったんだ」
責任——。
その言葉が——空気を、重くする。
「この景色。この食事。このサービス——全部、金で買える」
ランサーは、窓の外を見た。噴水が、まだ——踊っている。
「でも、その金は——何百年もの歴史と、無数の人間の努力で、作られてる」
アーチャーは——黙って、聞いていた。この男が——今、何を感じているのか。それを——邪魔したくなかった。
「アルスター家の土地。事業。投資——全部、先祖が築いたもの」
ランサーの手が——グラスを握る。少し、強く。
「で、俺は——それを、受け継ぐはずだった」
過去形。
「……」
「維持して、発展させて、次の世代に渡す。それが——俺の役目だった」
ランサーは、自嘲するように笑った。
「でも、俺は——それを、全部捨てた」
その声には——後悔は、なかった。だが——何か、別の感情が——混じっていた。
喪失感、だろうか。
それとも——解放感か。
「親父、どう思ってんだろうな」
アーチャーは——ランサーの手を、握った。
テーブル越しに。人目を憚らず。
「……後悔しているのか」
「してねぇよ」
ランサーは、すぐに答えた。その声は——確固たるものだった。
「ただ——」
彼は、アーチャーの手を握り返した。大きな手。温かい手。
「ちょっと、センチメンタルになってるだけ」
「……そうか」
二人は——しばらく、手を繋いだまま——黙っていた。
噴水のショーが、終わった。音楽が、フェードアウトする。観光客の拍手が、かすかに聞こえる。ガラス越しに——遠くから。
そして——静寂。
「なぁ、アーチャー」
「何だ」
「俺——」
ランサーは、わずかに笑った。その笑顔は——もう、寂しげではなかった。
「お前と出会えて、本当によかった」
その言葉に——アーチャーの胸が、温かくなった。心臓が、少し速く打つ。顔が——わずかに、熱くなる。
「……私もだ」
その時——ソムリエが、ワインリストを持ってやってきた。
五十代。白髪混じりの髪。黒いベスト。首には、タストヴァン——ワインをテイスティングするための、銀製の小さなカップ——を下げている。ソムリエの証。
「Good evening, gentlemen. May I recommend—— (こんばんは。お勧めは——)」
「Château Margaux 2015, please (シャトー・マルゴー2015年をお願いします)」
ランサーが、即答した。
ソムリエが——わずかに、眉を上げた。その表情は——プロフェッショナルなものだったが、明らかな驚きが——一瞬、浮かんだ。
「Excellent choice, sir. However, that particular vintage is $1,200—— (素晴らしい選択です。ただし、そのヴィンテージは1,200ドルになりますが——)」
千二百ドル——一本で。
日本円で、約十八万円。
ワイン一本が——アーチャーの家賃一ヶ月分以上。
「分かってる」
ランサーは、にっと笑った。その笑顔には——どこか、自暴自棄な響きがあった。
「最後の贅沢だ」
ソムリエが——わずかに頷き、去る。
アーチャーが——呆れた顔をした。
「……千二百ドル?」
「ああ」
「一本で?」
「そう」
「……君、本当に——」
「いいじゃん。お前、さっき三千ドル勝っただろ?」
ランサーは、肩をすくめた。その仕草は——どこか、子供っぽい。
「それは——」
「で、俺——明日から、無職の外国人」
ランサーの声が——わずかに、沈む。
「こういう贅沢、もうできねぇよ」
アーチャーは——何も言えなかった。
確かに、その通りだ。
明後日には——この男は、東京の、三十平米のワンルームマンションに住むことになる。シャトー・マルゴーどころか、コンビニのワインすら——贅沢に感じるだろう。スーパーの特売、三本千円のワイン。それが——新しい現実になる。
「……分かった」
アーチャーは、ため息をついた。だが——その口元は、笑っていた。
「今日くらい、好きにしろ」
「おう!」
ランサーは、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は——純粋だった。まるで——クリスマスプレゼントを貰った子供のような。
◇
食事は——芸術だった。
いや、芸術という言葉すら——陳腐に感じられる。これは——人間が生み出せる美の、一つの極致だった。
前菜。
白い皿の上に——フォアグラのテリーヌ。四角く切られた、黄金色の塊。その上には——薄くスライスされたトリュフ。黒い、宝石のような。周りには——バルサミコ酢のソースが、芸術的に配置されている。まるで——抽象画のよう。
フォークで、切る。
柔らかい。抵抗が、ほとんどない。
口に入れる。
「……」
アーチャーは——絶句した。
濃厚な旨味が——口の中に広がる。フォアグラの、クリーミーな食感。トリュフの、芳醇な香り。バルサミコ酢の、わずかな酸味が——全体を引き締める。
味覚、嗅覚、触覚——全ての感覚が、同時に刺激される。
これが——本物の料理か。
アーチャーは、今まで——それなりに美味しいものを食べてきた。東京には、良いレストランが沢山ある。だが——これは、次元が違う。
スープ。
ロブスターのビスク。オレンジ色の、クリーミーなスープ。表面には——生クリームが、渦巻き状に配置されている。
スプーンで、すくう。
一口、含む。
「……っ」
濃厚。だが——重くない。ロブスターの旨味が、凝縮されている。クリーミーで、かつ繊細。口の中で——複雑な味わいが、展開する。
そして——余韻。
飲み込んだ後も——味が、残る。舌の上に、記憶のように。
メイン。
和牛のフィレ、赤ワインソース。
皿の上には——完璧に焼かれた肉。表面は、キャラメリゼされ、黄金色。中は——ピンク色。ミディアムレア。最も美味しい焼き加減。
ナイフを入れると——肉汁が滲み出る。
口に運ぶ。
「……」
柔らかい。
信じられないほど、柔らかい。
噛む必要が——ほとんどない。舌の上で——とろける。
和牛の脂——甘い。そして——赤ワインソースの、深いコク。マッシュルームの、土のような香り。アスパラガスの、わずかな苦味。
全てが——完璧なバランスで、調和している。
そして——ワイン。
ソムリエが、戻ってきた。手には——ボトル。ラベルには、「Château Margaux 2015」の文字。
「May I? (開けてもよろしいですか?)」
「Please (お願いします)」
ソムリエが——ナイフでキャップシールを切る。コルクスクリューを差し込む。ゆっくりと——丁寧に——引き抜く。ポン、という小さな音。
コルクを嗅ぐ。確認。
そして——少量を、ランサーのグラスに注ぐ。
ランサーが——グラスを回す。香りを嗅ぐ。一口、含む。口の中で転がす。そして——飲み込む。
「Perfect (完璧です)」
ソムリエが——アーチャーのグラスにも注ぐ。
深い赤。ルビーのような色。
グラスを回す。ワインが——グラスの内側を這い上がり、そして——ゆっくりと落ちる。「涙」——粘性の高いワインに見られる現象。
香りを嗅ぐ。
カシス、ブラックベリー、わずかなスパイス——シナモン、ナツメグ。そして——土、革、タバコのような、複雑な香り。
一口、含む。
「……」
アーチャーは——再び、絶句した。
これが——千二百ドルの味か。
舌の上で、複雑な味わいが展開する。果実味——最初は、甘い。だが、すぐに——タンニンが現れる。渋み。そして——酸味。全てが、完璧なバランスで調和している。
飲み込む。
余韻——長い。口の中に、味が残る。果実、スパイス、そして——何か、言葉にできない複雑さ。
これは——ただの飲み物ではない。
これは——時間だ。
ブドウが育った時間。樽で熟成した時間。瓶の中で眠っていた時間——全てが、この一口に凝縮されている。
「うめぇだろ?」
ランサーが、にやりと笑った。その顔には——誇らしげな表情が浮かんでいた。
「……ああ」
「俺、初めて飲んだ時——」
ランサーは、グラスを傾けた。ワインが、わずかに揺れる。
「『ああ、これが本物か』って思った」
「本物?」
「ああ。世の中には、本物と偽物がある」
ランサーは、ワインを見つめた。その目には——どこか、哲学的な光が宿っていた。
「金で買える偽物と——金でも買えない本物」
アーチャーは——黙って、聞いていた。
「このワインは——本物だ」
ランサーは、アーチャーを見た。
「でも、お前も——本物だ」
「……何を言っている」
アーチャーの顔が——熱くなる。
「いや、マジで」
ランサーは、笑った。その笑顔は——柔らかかった。
「お前といると——『ああ、これが本物の幸せか』って思う」
アーチャーの胸が——激しく、疼いた。
心臓が——早く打つ。
「……詩人だな、君は」
「褒めてんのか?」
「褒めている」
二人は——笑い合った。
周囲の客が——わずかに、二人を見る。だが——もう、気にならない。
この瞬間——この時間だけが、全てだった。
◇
食事の後。
二人は——ホテルのプールサイドへ向かった。
ベラージオには、宿泊客専用の屋上プールがある。三十六階。ラスベガスの街を一望できる。昼間は——家族連れやカップルで賑わう。だが、夜は——静かだ。
エレベーターで、最上階へ。ドアが開くと——冷たい空気が流れ込んでくる。一月のラスベガス。夜は——冷える。気温、おそらく摂氏十度以下。
プールサイドへ出る。
青くライトアップされた水面。湯気が立っている——温水プールだ。だが、誰も泳いでいない。
周囲には——チェアが並んでいる。白いタオルが、きちんと畳まれて置かれている。
午後九時。
プールサイドには、ほとんど人がいない。数組のカップルが、チェアに座って話をしているくらいだ。小声で。親密に。
アーチャーとランサーは——端のチェアに座った。
服を着たまま。ただ——空を見上げている。
ラスベガスの夜空。
街の光が明るすぎて、星はほとんど見えない。光害——人工光によって、夜空が明るくなり、星が見えなくなる現象。天文学者にとっては、深刻な問題だ。だが、都市に住む人間にとっては——当たり前の光景。
だが——それでも、いくつかの明るい星は——かすかに輝いている。
おそらく、金星。そして、木星。明るい惑星は——光害があっても、見える。
「なぁ、アーチャー」
「何だ」
「日本って、どんなとこ?」
ランサーは、腕を枕にして——空を見ている。その姿勢は——リラックスしている。
「……どんな、と言われても」
アーチャーは——どう説明すればいいのか、分からなかった。日本。自分が生まれ育った国。だが——それを、言葉で説明するのは——難しい。
「いや、俺——日本、行ったことねぇんだ」
「……そうか」
「アジアは、香港と上海くらい」
ランサーは、わずかに笑った。
「で、どっちも——ビジネスで。観光なんて、してねぇ」
ビジネス——常に、仕事。次期当主として、学ぶべきこと。見るべきもの。全てが——教育の一環だった。
「……」
「東京って、どんな街?」
アーチャーは——考えた。
東京——人口一千四百万人。世界最大級の都市圏。高層ビル、満員電車、コンビニ、居酒屋——全てが、混沌と秩序の中に共存している。
「……人が多い」
「それだけ?」
「電車が、正確だ」
「ふーん」
ランサーは、笑った。
「お前、説明下手だな」
「……そうかもしれない」
アーチャーは——自分の説明能力のなさに、苛立った。もっと——何か、魅力的な言葉で、東京を説明したい。だが——言葉が、出てこない。
「……とにかく、忙しい街だ」
「忙しい?」
「ああ。皆、急いでいる」
アーチャーは、空を見上げた。ラスベガスの空。東京の空とは——違う。
「朝は満員電車。昼は仕事。夜は——」
「飲み?」
「……まぁ、そうだ」
日本のサラリーマン文化。仕事の後、上司や同僚と飲みに行く。居酒屋で、ビールを飲み、愚痴を言い合う。ストレス発散。だが——それもまた、仕事の一部。
「楽しそうじゃん」
「楽しくはない」
アーチャーは、苦笑した。
「疲れる」
「……」
「でも、まぁ——」
アーチャーは、ランサーを見た。その横顔。青い髪。赤い瞳。
「君がいれば、少しは——楽しくなるかもしれない」
ランサーの顔が——ぱっと明るくなった。まるで——ライトが灯ったように。
「マジ?」
「……ああ」
「よっしゃ!」
ランサーは、アーチャーの手を握った。大きな手。温かい手。
「じゃ、日本に行ったら——色々教えてくれよ」
「何を」
「全部」
ランサーは、にっと笑った。
「日本語とか、文化とか、美味い店とか」
「……日本語は、難しいぞ」
日本語——世界で最も習得が難しい言語の一つ。ひらがな、カタカナ、漢字——三種類の文字。敬語の複雑なシステム。曖昧な表現。
「大丈夫。お前が先生だし」
「給料は出ないんだろう」
「キスで払う」
「……却下だ」
「ケチ」
二人は、笑い合った。
プールの水面が、わずかに揺れている。風が、吹いている。冷たい風。だが——二人の間には、温もりがあった。
「なぁ、アーチャー」
「何だ」
「日本に行ったら——何して遊ぼうかな」
「遊ぶ気満々だな。仕事はどうする」
「うーん、考える。まぁ、何とかなるだろ」
「……楽観的だな」
この男は——本当に、楽観的だ。明日から無職になる。ビザもない。日本語も話せない。それなのに——「何とかなる」と言う。
だが——その楽観性が、この男の魅力でもある。
「楽観的でいいじゃねぇか」
ランサーは、アーチャーの肩を抱いた。その腕の感触——心地いい。
「お前が心配性な分、バランス取れてるだろ?」
アーチャーは、ランサーの青い髪に——指を滑らせた。
柔らかい。シャンプーの香りがする——ホテルのシャンプー。ラベンダーの香り。
「……後悔するなよ」
「しねぇよ」
ランサーは、アーチャーの手を握った。
「お前がいるんだから」
その言葉に——アーチャーの胸が、温かくなった。
心臓が——ゆっくりと、だが確実に——打っている。
「……部屋に、戻るか」
「ああ」
二人は、立ち上がった。
最後の夜——二人だけの、時間。
◇
スイートルームに戻った時、ランサーは窓際に立ったまま動かなかった。
ラスベガスの夜景が、ガラス越しに広がっている。ストリップのネオン。カジノの光。車のヘッドライト——全てが、煌めいている。だが、彼の視線は——どこか遠くを見ていた。焦点が、合っていない。まるで——ガラスの向こうではなく、もっと遠く——未来を、見つめているかのように。
アーチャーは——ドアを閉めた。カチャリ、という小さな音。二人だけの空間。外界から、切り離された。
「なぁ、アーチャー」
背中越しの声。いつもの軽薄さが、ない。低く、沈んでいる。
「明後日には、全部終わる」
「……ああ」
アーチャーは、ジャケットを脱ぎながら答えた。ソファに掛ける。ネクタイを緩める。一日の終わりの、儀式。
「お前の国に行く。俺の知らない場所で、知らない言葉で——」
ランサーは、ゆっくりと振り返った。
その顔には——不安が、浮かんでいた。
赤い瞳が——わずかに、揺れている。
「怖いんだ」
アーチャーは、その言葉に——息を呑んだ。
この男が、弱音を吐くとは。
あれほど——自信に満ちていた男が。全てを捨てると宣言した男が。
今——「怖い」と。
「何が怖い」
アーチャーは、ランサーに近づいた。ゆっくりと。まるで——怯えた動物に近づくかのように。
「全部」
ランサーは、苦笑した。だが、その笑みは——どこか、痛々しい。
「家を捨てた。金もねぇ。仕事もねぇ。頼れるのは——」
彼は、アーチャーを見た。
その目には——切実な何かが、宿っていた。
「お前だけだ」
沈黙。
部屋のエアコンが、低い音を立てている。窓の外では——車の音。遠くから聞こえる、誰かの笑い声。
アーチャーは、ランサーに近づいた。そして——その頬に、手を添えた。
温かい。体温が、掌に伝わってくる。
「なら、私を信じろ」
「……」
「君は一人じゃない。私が——」
言葉が、続かなかった。
何を言えばいい? 「大丈夫だ」と? だが——本当に、大丈夫なのか? 自分は——この男を、支えられるのか? 三十平米のワンルームマンション。年収一千二百万円。貯金二千万円——それで、貴族だった男を、養えるのか?
不安が——アーチャーの胸にも、広がる。
だが——今、この瞬間——言葉ではなく、別の方法で伝えたかった。
代わりに——唇を重ねた。
ランサーの身体が、一瞬強張る。だが、すぐに——力が抜けた。腕が、アーチャーの背中に回る。
キスが、深くなる。
今までとは、違う。
最初の夜——あれは、欲望だった。互いの身体を求め、貪り合った。
だが今は——違う。
確認するような、キス。
「お前がいる」——それを、確かめるような。
ランサーの手が——アーチャーのシャツのボタンに触れる。一つ、一つ——ゆっくりと外していく。急がない。まるで——時間を引き伸ばすかのように。
シャツが、床に落ちる。
アーチャーも——ランサーのシャツを脱がせる。筋肉質の身体。いくつかの傷跡——おそらく、幼い頃のもの。貴族の子供も——怪我をする。
「……ベッドに、行こう」
ランサーの声が、掠れていた。
「今夜は——ゆっくり、したい」
「昨日みたいに?」
「いや」
ランサーは、アーチャーの額に自分の額を押し当てた。体温が——伝わってくる。心臓の鼓動が——感じられる。
「昨日よりも——もっと」
二人は——ベッドへ向かった。
◇
時間の感覚が、消えた。
ランサーの手が——アーチャーの身体を撫でる。首筋、鎖骨、胸——ゆっくりと。まるで——地図を描くかのように。記憶するかのように。
「……お前の身体、覚えとく」
「……何故」
「忘れたくねぇから」
その言葉に——アーチャーの胸が、疼いた。
アーチャーも——ランサーの身体に触れる。広い肩。引き締まった腹。腰——全てを、記憶する。この感触を。この温もりを。
キスが——また、交わされる。
深く。長く。
息が——苦しくなるまで。
やがて——二人は、一つになった。
ゆっくりと。
痛みは——もう、ない。慣れた。身体が——受け入れている。
ランサーが、動く。
ゆっくりと。
昨日のような——激しさは、ない。
今夜は——違う。
まるで——愛を確かめるかのように。
「……アーチャー」
「……ん」
「好きだ」
その言葉——何度目だろう。
だが——何度聞いても、心が震える。
「……私も」
「もっと言ってくれ」
「……好きだ」
「もっと」
「……愛している」
ランサーの動きが——止まった。
そして——激しく、アーチャーを抱きしめた。
「……っ」
「俺も、愛してる」
その声は——震えていた。
二人は——長く、抱き合った。
結合したまま。
時間が——流れる。
窓の外では——ラスベガスの夜が、静かに——更けていった。
◇
翌朝。
朝日が、部屋を照らす。カーテンの隙間から——鋭い光。ネバダ州の太陽は、容赦ない。
アーチャーは、ランサーの腕の中で——目を覚ました。
温もり。
この感覚に——もう、慣れてしまった。
たった数日で。
人間は——適応する生き物だ。
「……おはよう」
ランサーの声。まだ、眠そうだ。
「……おはよう」
二人は、微笑み合った。
「よく寝たな」
「……ああ」
アーチャーは、時計を見た。
午前十時。
通常なら——もう、出勤している時間だ。東京の、あのオフィスで。パソコンに向かい、コードを書いている時間。
だが、今——ここにいる。
ラスベガスの、高級ホテルの、ベッドの中。
貴族だった男と、一緒に。
非現実的だ。
「……明日には、日本だな」
「ああ」
ランサーは、アーチャーを抱きしめた。力強く。まるで——離したくない、と言っているかのように。
「楽しみだ」
「……本当か?」
「本当だって」
ランサーは、笑った。その笑顔は——もう、昨夜の不安は消えていた。
「お前がいるんだから」
アーチャーは——ランサーの胸に、顔を埋めた。
心臓の音が、聞こえる。
規則正しい鼓動。
生きている証。
「……ありがとう」
「何が?」
「全てを、捨ててくれて」
「……」
ランサーは、アーチャーの髪を撫でた。大きな手。優しい感触。
「捨ててねぇよ」
「……え?」
「だって——」
ランサーは、アーチャーの顔を上げさせた。両手で、頬を包む。
「お前を、得たんだから」
その言葉に——アーチャーは、泣きそうになった。
涙が——溢れそうになる。
だが——堪えた。
今は——泣く時ではない。
「……そうだな」
二人は——キスをした。
朝の、優しいキス。
◇
午前十一時。
二人は——チェックアウトの準備を終えていた。
スーツケースをまとめ、部屋を最後に見渡す。この部屋で——数日間、過ごした。正確には、四泊。だが——人生が変わるには、十分な時間だった。
リビング。ソファ。テーブル——全てが、記憶と結びついている。
あのソファで、二人は——初めて、まともな会話をした。
あのテーブルで、朝食を食べた。
そして、あのベッドで——。
「……行くか」
ランサーの声が、アーチャーの思考を断ち切った。
「ああ」
二人は——部屋を出た。
ドアが、静かに閉まる。
カチャリ。
終わり——そして、始まり。
エレベーターで、ロビーへ。
チェックアウトを済ませ、タクシーを呼ぶ。
「空港へ」
「了解」
運転手が、陽気に答えた。六十代の黒人男性。人懐っこい笑顔。
車が、走り出す。
ラスベガスの街を——最後に見る。
ストリップ沿いのホテル群。ベラージオの噴水。シーザーズパレス。MGMグランド——全てが、朝日に照らされている。
昼間のラスベガス。夜とは——まるで違う顔。
疲れて、古びて、現実的な——街。
「……さよなら」
ランサーが、小さく呟いた。
窓の外を見ながら。
「……」
アーチャーは、その手を握った。
「……新しい始まりだ」
「ああ」
ランサーは、笑った。その笑顔には——もう、迷いはなかった。
「そうだな」
◇
マッカラン国際空港。
午前十一時三十分。ターミナルには、多くの人が行き交っている。チェックインカウンターには、長い列。セキュリティチェックを通過する人々。搭乗ゲートへ向かう家族連れ。
空港——人生の転換点を象徴する場所。
ここから——人は、旅立つ。
そして——戻ってくる。
あるいは——戻らない。
アーチャーとランサーは——チェックインを済ませた。
JAL便、午後一時発。成田行き。エコノミークラス。座席番号42K、42J。
「……初めてだな、エコノミー」
ランサーが、搭乗券を見ながら呟いた。その声には——わずかな、感慨が混じっていた。
「慣れろ」
「厳しいな」
「現実だ」
二人は、笑い合った。
セキュリティチェックへ向かう。列に並ぶ。ゆっくりと、進む。
だが——
その時——
ターミナルの入口が——騒がしくなった。
「何事だ?」
「あれは——」
「まさか!」
人々が、ざわめいている。視線が——一斉に、入口に向けられる。
アーチャーとランサーが——振り返ると。
報道陣が——なだれ込んできた。
カメラ。マイク。レポーター。十人以上。いや——二十人以上。三十人? もっと?
黒いスーツ。プレスバッジ。巨大なカメラ——放送用の。
「あそこだ!」
「ランサー氏!」
「クー・フーリン・ランサー・アルスター!」
フラッシュが、一斉に光る。
まるで——雷のように。
ランサーの顔が——強張った。
「……くそ」
報道陣が、殺到する。波のように。止められない。
セキュリティが——制止しようとする。だが——報道の自由。彼らは、違法なことはしていない。ただ——取材をしているだけだ。
「ランサー氏! 婚約破棄は本当ですか?」
「一緒にいる男性は誰ですか?」
「勘当の噂は本当ですか?」
「アルスター家からコメントは?」
「マクレガー家は?」
マイクが、次々と突きつけられる。カメラが、至近距離で回る。フラッシュが、目を眩ませる。
ランサーは——アーチャーの手を、強く握った。
「……行くぞ」
「待て」
アーチャーの声。
「何?」
「逃げるのか?」
アーチャーは、ランサーを見た。その目を、しっかりと見つめる。
「君は——もう、決めたのだろう」
「……」
「ならば——堂々としていろ」
アーチャーの声が——静かに、だが強く響く。
周囲の喧騒の中で——その声だけが、ランサーに届いた。
ランサーは——わずかに、目を見開いた。
そして——笑った。
「……そうだな」
彼は、サングラスを——外した。
赤い瞳が、露わになる。
貴族の目。
報道陣が——さらに、群がる。
「ランサー氏! コメントを——」
「一つだけ、言わせてもらう」
ランサーの声が——ターミナルに響いた。
低く、だが——良く通る声。訓練された、貴族の声。
演説の声だ。
報道陣が——一瞬、静まった。
全員が——マイクを、ランサーに向ける。
カメラが——全て、彼に焦点を合わせる。
「聞け。一度だけ言う。それ以上は、何も答えねぇ」
フラッシュが、さらに激しくなる。
「俺の名前は、クー・フーリン・ランサー・アルスター」
ランサーは——アーチャーの肩を抱き寄せた。
力強く。
「今日をもって、アルスター伯爵家との縁を切る」
ざわめきが広がる。記者たちが、メモを取る。カメラが回る。
「理由を聞きたいか? 簡単だ」
ランサーは——アーチャーを見た。
その目には——愛が、宿っていた。
そして——報道陣に向き直る。
「この男を——愛しているからだ」
会場が、静まり返った。
一瞬の——完全な、静寂。
そして——爆発的な、騒ぎ。
「ランサー氏!」
「もう一度!」
「詳しく!」
だが——ランサーは、続けた。
「婚約も、爵位も、財産も——全部、いらねぇ」
ランサーの声が——確固たるものになる。迷いが、ない。
「俺は、自分の人生を、自分で選ぶ。そして俺が選んだのは——」
彼は、アーチャーを——強く、抱きしめた。
人々の前で。
カメラの前で。
世界に——宣言するかのように。
「こいつだ」
フラッシュが、狂ったように光る。
シャッター音が、連続する。
「以上だ。これ以上は、何も答えねぇ」
ランサーは、アーチャーの手を引いて——報道陣をかき分けた。
「ランサー氏!」
「待ってください!」
「もう一問だけ!」
「Mr. Lancer!」
だが——ランサーは、振り返らなかった。
ただ——前を向いて、歩いた。
アーチャーの手を、強く握りしめて。
セキュリティが——道を作る。報道陣を、押しとどめる。
二人は——セキュリティチェックへ。
そこを通過すれば——報道陣は、追ってこれない。
◇
セキュリティチェックを通過。
搭乗ゲートへ。
そこで——二人は、ベンチに座った。
しばらく、沈黙。
心臓が——まだ、激しく打っている。アドレナリンが——まだ、血液中を駆け巡っている。
「……やっちまったな」
ランサーが、呟いた。その声には——どこか、清々しさが混じっていた。
「ああ」
「世界中に、報道される」
「……だろうな」
アーチャーは、想像した。明日の新聞。ニュースサイト。SNS——全てに、この映像が流れる。「アルスター家の次期当主、男性との恋愛を理由に勘当」。ヨーロッパの貴族社会は——震撼するだろう。
「俺の父親、卒倒するわ」
ランサーは、笑った。だが——その笑いには、痛みはなかった。
アーチャーは——ランサーの手を握った。
「後悔は?」
「ねぇ」
即答。
「スッキリした」
「……」
「ずっと、言いたかったんだ。『俺の人生は、俺が決める』って」
ランサーは、アーチャーを見た。
その目には——解放が、宿っていた。
「で、やっと——言えた」
その瞳には——決意が宿っていた。もう——揺るがない決意。
「……ありがとう」
「何が?」
「背中を押してくれて」
アーチャーは、小さく笑った。
「私は、何もしていない」
「いや、してくれた」
ランサーは、アーチャーの額に——自分の額を押し当てた。
温もり。
体温。
生きている実感。
「お前がいたから——言えた」
二人は——しばらく、そうしていた。
周囲の視線など——もう、気にならなかった。
やがて——
「JAL012便、成田行きの搭乗を開始します」
アナウンスが流れた。
「……行くか」
「ああ」
二人は、立ち上がった。
搭乗ゲートへ。
パスポートと搭乗券を見せる。スタッフが——わずかに、二人を見る。おそらく——さっきの騒ぎを、見ていたのだろう。だが——何も言わない。プロフェッショナルだ。
「Have a nice flight (良いフライトを)」
ゲートをくぐる。
ボーディングブリッジを歩く。長い通路。飛行機へと続く道。
そして——機内へ。
エコノミークラス。42列K席とJ席。窓際と通路側。
座席は——狭い。ファーストクラスとは、比べ物にならない。膝と前の座席の間——約七十センチ。身長185センチのランサーには——明らかに、窮屈だ。
「……狭いな」
ランサーが、座りながら呟いた。その声には——文句ではなく——どこか、新鮮な驚きが混じっていた。
「慣れろ」
「お前、冷たいな」
「現実だ」
二人は、笑い合った。
周囲の乗客が——わずかに、二人を見る。さっきの騒ぎを見た者もいるだろう。だが——何も言わない。日本人の、礼儀。
飛行機が、動き出す。
ゲートから離れる。ゆっくりと。
滑走路へ。
エンジンの音が——高まる。
加速。
座席に、身体が押し付けられる。
そして——浮遊感。
飛び立った。
窓の外——ラスベガスの街が、眼下に遠ざかっていく。
砂漠。赤い岩。そして——煌びやかな街。ストリップのホテル群。ベラージオの噴水——もう、見えない。
全てが——小さくなっていく。
点になり。
やがて——消える。
アーチャーは、窓の外を見ていたランサーの横顔を——見た。
少しだけ——寂しげだった。
当然だ。
あの街で——彼は、全てを失った。
家族。地位。財産——全てを。
アーチャーは、ランサーの手を——そっと、握った。
「……私が、いる」
「……ああ」
ランサーは、その手を握り返した。力強く。
「お前が、いるな」
窓の外——雲が、流れている。
白い雲。
その下には——アメリカ大陸が広がっている。
そして——その先には、太平洋。
さらにその先には——日本。
新しい人生の——始まりだった。
Comments
- HaruHaruFeb 1st