第一幕:開戦
マンハッタン家庭裁判所第七法廷は、ニューヨーク市で最も効率的に人間関係を貨幣価値へ換算する場所だ。
平均審理時間三ヶ月、平均財産総額三千万ドル、和解率32%。残り68%は判決まで争う。
つまりこの法廷を通過するカップルの七割近くは、かつて愛し合った相手を完膚なきまでに叩きのめす道を選ぶ。
人類の配偶者選択能力がいかに杜撰か、あるいは弁護士という職業がいかに優秀か。どちらの証左とも取れるデータだった。
午前九時、定刻通りに扉が開いた。
エミヤは、まるで外科手術に臨む医師のような正確さで法廷に入った。187センチの長身に完璧に沿うチャコールグレイのトム・フォードのスーツ。鉄色の瞳は、感情を読み取らせない研磨された金属のようだった。彼が歩く姿勢は軍人的な規律を思わせるが、実際には彼は生涯で一度も軍に所属したことはない。ただ、自己規律という名の私設監獄に三十年間収監されているだけだ。
彼の隣を歩くのは、デヴィッド・カーシュナー。ニューヨーク離婚訴訟弁護士ランキングで常にトップ5に名を連ねる男で、年間報酬は五百万ドル、勝訴率87%、そして何より重要なのは――彼のクライアントで「負けたがっていた」人間は一人もいなかった、という事実だ。カーシュナーは勝つ。クライアントが心の底で望んでいようがいまいが、彼は法廷で勝利する。それが彼の職業的美学だった。
「被告側」
書記官の声に応じて、クー・フーリンが立ち上がった。
ネイビーのブリオーニのスーツは、価格的にはエミヤのそれと同等だが、ネクタイは既に緩められ、最上部のボタンは外されている。まるで、法廷での勝敗などどうでもいい、と全身で表明しているような着こなしだった。
彼の弁護士は女性、サマンサ・ワイズ。四十代半ば、赤いパワースーツは戦闘服だった。「財産分与の魔女」――業界でそう呼ばれる彼女は、カーシュナーと並び称される離婚訴訟のエキスパートで、特に「感情を排除した完璧な財産評価」において右に出る者はいない。彼女のクライアントは、離婚後に元配偶者の財産状況を正確に把握できる。一ドルの誤差もなく。
マーガレット・ストーン判事が書類に目を落とした。六十代、灰色の髪を厳格にまとめた彼女は「鉄の女」として知られ、彼女の下した判決の90%は控訴審でも維持される。つまり、ここで決まったことは、ほぼ覆らない。
「本件、アーチャー・エミヤ対クー・フーリン離婚訴訟。主な争点は以下の通りです」
判事が読み上げる項目は十を超えた。婚姻資産総額一億二千万ドル。マンハッタンのペントハウス、ハンプトンズの別荘、投資ファンド『Gáe Bolg Capital』の株式、非営利団体『Unlimited Foundation』への寄付金の扱い――
傍聴席を埋め尽くす記者たちは、まるで競馬場のギャンブラーのように、どちらが勝つか予想を立てているだろう。エミヤとクーという二頭の競走馬が、財産というゴールに向かって全力疾走する様を、彼らは観察し、記事にし、広告収入に変換する。資本主義とは実に効率的なシステムだ、と誰かが言った。その「効率」の中には、人間の不幸を商品化する能力も含まれる。
「では、原告側から」
カーシュナーが立ち上がり、iPadを操作した。法廷のスクリーンに、銀行取引記録が映し出される。
「裁判長、我々は本日、被告クー・フーリン氏が婚姻期間中に開設していたケイマン諸島のプライベートバンク口座について、新たな分析を提出いたします。この口座には、毎月二十万ドル、総額にして約七百万ドルが送金されていました」
傍聴席が静かにざわめいた。ざわめきにも種類がある。驚愕のざわめき、期待のざわめき、そして――今ここにあるのは、「ついに来たか」という、予期されていたスキャンダル暴露への集団的興奮だった。
「異議あり」
サマンサ・ワイズが即座に立ち上がった。彼女の動作には一切の無駄がない。まるで予めこの瞬間のために筋肉の動きをプログラムしてあったかのような正確さだった。
「その口座は既に開示済みです。我々は何も隠匿しておりません」
「開示されたのは『存在』だけです」カーシュナーは冷静に応じた。「その『使途』については、一切の説明がない。なぜ婚姻期間中に、フーリン氏は個人名義の海外口座に、これほどの金額を?」
「投資用の――」
「投資ならば、なぜ彼が経営する『Gáe Bolg Capital』の法人口座ではないのですか? なぜ個人名義なのか。なぜケイマン諸島なのか」
ワイズが一瞬――本当に一瞬だけ、言葉に詰まった。それは0.3秒にも満たない沈黙だったが、法廷という場所では、0.3秒は致命的だった。
カーシュナーは畳み掛けた。「我々は、この口座が婚姻資産隠匿の意図をもって開設されたものと考えます。フーリン氏は結婚当初から、離婚を見越して財産を隠していた」
傍聴席のざわめきが大きくなった。記者たちのペンが紙を走る音、ノートPCのキーボードを叩く音が、法廷に奇妙なリズムを作り出す。
クーは、しかし、表情一つ変えなかった。彼はただ、テーブルの上で軽く指を組み、まるで他人事のようにスクリーンを眺めていた。そして――ほんの一瞬だけ、その赤い瞳が向かい側のテーブルに座るエミヤを見た。
エミヤは書類を見つめたまま、微動だにしなかった。彼の表情は完璧に統制されていて、まるで法廷の空気が彼に触れることすら許していないかのようだった。
「被告側、反論は?」ストーン判事が促した。
サマンサ・ワイズは、深呼吸をした。それは彼女が何かを決断したことを示すサインだった。
「裁判長、我々もまた、本日提出すべき証拠があります」
彼女が差し出した書類を、書記官が判事に渡す。ストーン判事は眉をひそめた。彼女が表情を変えることは稀だった。つまり、その書類には、彼女ですら予想していなかった何かが記されている。
「これは……」
「アーチャー・エミヤ氏の運営する非営利団体『Unlimited Foundation』の会計記録です。より正確には――婚姻期間中、エミヤ氏がこの財団に寄付した金額の詳細です」
カーシュナーが即座に立ち上がった。「異議あり! 財団への寄付は合法的な慈善活動であり――」
「総額八千万ドルです」
法廷が凍りついた。
凍りつく、という比喩は正確ではない。より正確には、法廷内の全ての人間が一斉に呼吸を止め、その結果として空気中の二酸化炭素濃度が一時的に低下し、温度感覚が変化した、と記述すべきだろう。
「婚姻期間三年の間に、エミヤ氏は夫婦の共同資産から、自身が運営する財団に八千万ドルを寄付していました。クー・フーリン氏の同意を得ることなく」
傍聴席が騒然となった。今度のざわめきは、先ほどとは質が違う。これは純粋な驚愕だった。誰も予想していなかった爆弾が、法廷の真ん中で炸裂した。
ストーン判事がガベルを叩いた。「静粛に!」
カーシュナーが反論に立った。「財団への寄付は共同口座からの正当な支出であり、また、Unlimited Foundationは国連からも表彰された国際的に認められた――」
「『正当』?」ワイズの声は鋭かった。まるで手術用メスのような精密さで、相手の主張を切開する。「月に二百万ドル以上を、配偶者に相談もせず寄付することが? そして興味深いことに」
彼女はスクリーンに新たな資料を映し出した。
「この財団の理事には、エミヤ氏の旧友が複数名含まれています。実質的には、これはエミヤ氏の個人的な――より率直に言えば、離婚時に差し押さえられない資産の隠し場所なのではありませんか?」
「それは侮辱だ!」カーシュナーが声を荒げた。彼が感情的になることは稀だった。つまり、この指摘は彼にとっても予想外だったのだろう。「Unlimited Foundationは第三者機関の監査を受けており――」
「では説明してください」ワイズは冷静だった。彼女は常に冷静だった。たとえ法廷が炎上しても、彼女だけは氷点下に保たれている。「なぜ、離婚調停が始まった直後に、この財団は突然『緊急医療支援基金』として三千万ドルの新規プロジェクトを立ち上げたのですか? その資金源は?」
カーシュナーが言葉に詰まった。
エミヤの表情が、初めて動いた。鉄色の瞳に、何か――怒りとも違う、痛みに似た、名前のつけられない感情が走った。それは一瞬だったが、法廷にいる全員がそれを見た。
「休廷します」ストーン判事がガベルを叩いた。「一時間後に再開。双方、この件について整理してきなさい」
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法廷を出ると、エミヤは控え室に行かず、廊下の窓際に立った。
四十階から見下ろすマンハッタンは、まるで精巧に作られたジオラマのようだった。あの無数のビルの中に、三年前、二人で選んだペントハウスがある。トライベッカ、ハドソン川を見下ろすガラス張りの部屋。当時の価格で一千二百万ドル。今は誰も住んでいない。家具はそのまま、冷蔵庫には賞味期限切れの食品が残されたまま、ただ空気だけが循環している箱。
「やるじゃねえか」
背後から声がした。振り返ると、クーが一人で立っていた。弁護士はついていない。サマンサ・ワイズは有能だが、クライアントの感情的な瞬間に付き添うほど暇ではないのだろう。
「八千万ドルの寄付、ねえ。俺が知らなかったとでも思ってんのか、あいつら」
エミヤは答えなかった。彼は相変わらずマンハッタンの街を見下ろしていた。
「……知ってたよ」クーは彼の隣に立った。窓ガラスに二人の姿が映り込む。白髪と青髪、褐色の肌と白皙、鉄色の瞳と赤い瞳。まるで対照的な二つの存在が、ガラスという薄い膜を挟んで並んでいる。「お前が毎月いくら財団に回してるか。口座の明細、ちゃんと見てたからな」
「なら」エミヤの声は低かった。まるで地下深くから響いてくるような、抑制された音だった。「なぜ今更、それを争点にする」
「そりゃこっちのセリフだろ」クーが振り返った。その赤い瞳には、怒りが燃えていた。それは炎というより、むしろ溶鉱炉の中で赤く煮えたぎる鉄のような、高密度の熱だった。「ケイマンの口座を隠匿? 俺がいつお前に隠した? あの口座の存在、お前に最初に話したの俺だぞ」
「……それは」
「『もしもの時の備えだ』って言ったよな。二人で老後に使おうって。ハンプトンズに小さいヨット買って、週末は釣りでもしようって。そういう話だっただろうが」
エミヤは黙った。彼の沈黙は、肯定とも否定とも取れる、曖昧なものだった。
「なのに何だよ、あれ。『離婚を見越して』? 『婚姻資産の隠匿』?」クーの声に、初めて感情的な響きが混じった。それは怒りだけではなく、もっと複雑な――裏切られたという痛み、理解されないという孤独、そして何より、かつて信じていたものが崩れ去る音が含まれていた。
「お前の弁護士、俺をどんな人間だと思ってんだ。金に汚い詐欺師か? 結婚初日から離婚を計画してた悪党か?」
「それは――彼らは、彼らの仕事をしているだけだ」
「仕事、ね」クーは嘲笑うように鼻を鳴らした。「お前もな、エミヤ。お前の弁護士だって同じだ。俺の口座を『隠匿』って言い張ってる。あれはお前の指示か?」
「違う」エミヤは即座に否定した。しかしその否定は、どこか空虚に響いた。「私は――私はただ、正当な財産分与を求めているだけだ」
「『正当』、ね」
クーは、エミヤの横顔を見た。完璧に整った横顔、彫刻のような輪郭、そして――どこか遠くを見ているような、焦点の合わない瞳。
「なあ、エミヤ。俺たち、いつからこんなんなった?」
エミヤの表情が、僅かに揺らいだ。
「お前の財団に俺が文句言ったこと、一度でもあったか? 八千万だろうが一億だろうが、お前がそれを必要だと思うなら、俺は何も言わねえよ。世界のどっかで誰かが助かるなら、それでいい。そういう奴だって分かって結婚したんだから」
「……クー」
「でも今、お前の弁護士は俺を詐欺師みたいに言ってる。俺の弁護士はお前を守銭奴みたいに言ってる。慈善事業を隠れ蓑にした資産隠匿だって。これ、誰が望んだんだ?」
エミヤは答えられなかった。彼の口は僅かに開いたが、そこから出てくる言葉は見つからなかった。
廊下に、沈黙が落ちた。それは真空のような静けさではなく、むしろ何か重いものが空気中に垂れ込めているような、呼吸するたびに肺が痛むような、息苦しい静寂だった。
「……もう、後戻りできないのかもな」クーが呟いた。「ここまで来ちまったら」
「そうだな」エミヤは小さく答えた。「もう、遅すぎる」
二人は、それ以上何も言わずに、それぞれの控え室に戻って行った。廊下には、ただ冬の陽射しだけが差し込んでいた。
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第二幕:泥沼
裁判は、三週間にわたって続いた。
法廷という場所は、ある意味で最も残酷な記録装置だ。そこでは全てが文字として、証拠として、公的記録として保存される。愛の言葉も、喧嘩の記録も、共同口座の入出金履歴も、深夜二時に送られた「まだ帰れない」というテキストメッセージも。全てが等しく、法的文書という形式に変換され、判決の材料として秤にかけられる。
二人の三年間は、こうして一行ずつ、一ドルずつ解体されていった。
第二週目、原告側は証人としてクーの元同僚を呼んだ。三十代半ば、ゴールドマン・サックスのアナリスト。彼は証言台に立つと、まるでプレゼンテーションでもするかのように、淀みなく語り始めた。
「フーリン氏は、結婚後も頻繁にミッドタウンのバーに通っていました」
「それは仕事の後ですか?」カーシュナーが尋ねた。
「はい。夜十時過ぎ、市場が閉まってからです。週に三回、いや、四回は見かけました」
「配偶者――エミヤ氏には連絡を?」
「していなかったと思います。彼はよく『あいつは忙しいから邪魔したくない』と言っていました」
傍聴席がざわめいた。カーシュナーは満足げに頷いた。
「つまり、フーリン氏は配偶者を放置して、夜間の飲酒を繰り返していたと」
「異議あり」サマンサ・ワイズが立ち上がった。「『放置』という表現は事実を歪曲しています」
「では『頻繁な不在』に訂正しましょう」カーシュナーは皮肉っぽく微笑んだ。「いずれにせよ、婚姻関係への配慮を欠いた行動だったことに変わりはない」
クーは、証言台の男を見つめていた。その顔には、怒りも弁解もなかった。ただ、どこか遠くを見るような、諦めに似た表情があった。まるで「ああ、やっぱりこうなったか」とでも言いたげな、既に予見していた結末を目の当たりにした人間の顔だった。
エミヤは、書類を見つめたまま、顔を上げなかった。
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カーシュナーは続けた。「証人、フーリン氏はバーで誰かと会っていましたか?」
「時々、女性と一緒にいました」
法廷が静まり返った。
「女性、ですか」
「はい。金髪の、恐らく三十代前半の女性です。二人で親しげに話していました」
「その女性の名前は?」
「分かりません。ただ――」証人は一瞬躊躇した。「一度だけ、二人が手を繋いでいるのを見ました」
傍聴席が騒然となった。ストーン判事がガベルを叩く。
「静粛に!」
サマンサ・ワイズが立ち上がった。「異議あり! 証人は『親しげに話していた』というだけで、不適切な関係があったとは証言していません」
「では証人に確認しましょう」カーシュナーは冷静だった。「あなたの目から見て、二人の関係は?」
「……恋人のように見えました」
クーが、初めて大きく反応した。彼は立ち上がろうとしたが、サマンサ・ワイズが手で制した。
「証人」ワイズが鋭く尋ねた。「あなたは、その女性とフーリン氏が物理的に親密な行為をしているのを目撃しましたか? キスや抱擁を?」
「いえ、しかし――」
「『しかし』はいりません。イエスかノーかで答えてください」
「……ノーです」
「つまり、あなたは二人が手を繋いでいるのを『一度』見ただけで、それ以外の証拠はない。そうですね?」
「はい、ですが――」
「ありがとうございます。これ以上の質問はありません」
ワイズは座った。しかし、傍聴席の記者たちは既にメモを取り終えていた。明日の見出しは決まっている。「フーリン氏、婚外交際の疑惑」「億万長者の二重生活」――
エミヤは、その間ずっと、書類を見つめていた。彼の表情は完璧に統制されていて、まるで今聞いた証言が自分とは無関係な、遠い国の出来事であるかのようだった。
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午後の休廷時間、クーは控え室でサマンサ・ワイズと向かい合っていた。
「あの女は誰だ、と聞かれるでしょうね」ワイズは冷静に言った。「答えを用意しておいてください」
「姉貴だ」クーは低い声で言った。「俺の義理の姉。リズ」
「証明できますか?」
「できる。彼女はアイルランドに住んでる。必要なら証人として呼べる」
「そうしましょう」ワイズはメモを取った。「しかし、なぜ彼女と頻繁に会っていたのですか? しかも配偶者に言わずに」
クーは黙った。
「クー」ワイズは珍しく、ファーストネームで呼んだ。「私はあなたの味方です。でも、嘘をつかれたら守れません」
「……俺は」クーは天井を見上げた。「俺は、エミヤに相談できなかった。リズは心理療法士でな。俺が、その、カウンセリングを受けてた」
「カウンセリング?」
「結婚生活が、上手くいってなかったから。でもエミヤには言えなかった。『お前との結婚が辛い』なんて、どうやって言えばいいんだ」
ワイズは、長い沈黙の後、小さく息をついた。
「……分かりました。では、リズさんに証人として来てもらいましょう。彼女の証言があれば、婚外交際の疑惑は晴れます」
「でも」クーは苦笑した。「『結婚生活に悩んでカウンセリングを受けていた』って証言は、俺たちの婚姻関係が破綻してたことの証拠になるんだろ?」
ワイズは答えなかった。それが答えだった。
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第三週目、被告側の反撃が始まった。
証人として呼ばれたのは、Unlimited Foundationの元経理担当者、六十代の女性だった。彼女は三十年以上、非営利団体で働いてきたベテランで、その証言には重みがあった。
「エミヤ氏は、財団の資金を個人的な目的で使用したことは?」ワイズが尋ねた。
「一度もありません」女性は断言した。「彼は信じられないほど誠実でした。むしろ、自分の給料すら最低限に抑えていました」
「では、彼の勤務態度は?」
「異常でした」
法廷が静まり返った。
「『異常』とは?」
「週に百時間は働いていました。土日も、深夜も、常にオフィスにいました。私が『休んでください』と言っても、『大丈夫だ』と答えるだけでした」
「それは情熱的だったということでは?」
「いえ」女性は首を振った。「私には――逃げているように見えました」
エミヤの肩が、僅かに強ばった。
「何から逃げていたのだと思いますか?」
「分かりません。でも」女性は証言を続けた。「彼が電話を取る時、発信者がフーリン氏だと分かると、彼は一瞬だけ――とても苦しそうな顔をしていました。まるで、痛みに耐えるような」
「異議あり」カーシュナーが立ち上がった。「証人の主観的な印象は――」
「却下します」ストーン判事が言った。「証人は自分が観察した事実を述べているだけです。続けてください、ワイズさん」
「エミヤ氏は、配偶者からの電話に出ないことが多かったのですか?」
「はい。『今は会議中だ』『後でかける』と言って、保留にすることが多かったです。でも――実際には、その後かけ直さないことが多かった」
傍聴席が再びざわめいた。
クーは、証人台の女性ではなく、エミヤを見ていた。しかしエミヤは、テーブルの上で組んだ自分の手を凝視し続けていた。まるでその手の中に、全ての答えがあるかのように。
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「証人」ワイズは続けた。「エミヤ氏は、なぜそこまで働いていたのだと思いますか?」
「分かりません。でも、一度だけ――」女性は躊躇した。「一度だけ、深夜のオフィスで、彼が一人で泣いているのを見ました」
法廷が息を飲んだ。
「彼は気づいていませんでした。私は黙ってその場を離れました。でも――彼は何かに、とても苦しんでいました」
エミヤの手が、僅かに震えた。
「ありがとうございます」ワイズは座った。「証人への質問は以上です」
カーシュナーが立ち上がった。「証人、あなたはエミヤ氏が『何に』苦しんでいたか、知っていますか?」
「いえ」
「つまり、それは仕事上のストレスだったかもしれない。財団の運営上の問題だったかもしれない。必ずしも婚姻関係とは関係ない、ということですね?」
「……そうかもしれません」
「ありがとうございます」
カーシュナーは座ったが、ダメージは既に与えられていた。傍聴席の記者たちは、新たな見出しを考えている。「エミヤ氏、深夜のオフィスで涙」「完璧な慈善家の隠された苦悩」――
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そして第四週目。裁判は、最も泥沼化した。
「では」カーシュナーは冷静に、しかし確実に相手を追い詰める口調で言った。「フーリン氏、あなたは昨年のクリスマスイブ、どこにいましたか?」
証人台に立つクーは、一瞬だけ視線を彷徨わせた。
「……バハマです」
「配偶者と一緒に?」
「いえ」
「では誰と?」
「一人です」
カーシュナーは書類を提示した。「これは、バハマのリゾートホテル、『Four Seasons Ocean Club』の宿泊記録です。確かにあなたの名前がある。しかし予約は『オーシャンビュー・スイート、ダブルベッド』になっている」
傍聴席がざわついた。
「説明してください。なぜダブルルームを? しかもスイートを?」
「……予約のミスです」
「ミス?」カーシュナーの声は厳しくなった。「クリスマスイブの高級リゾート予約で? しかもこの予約は六ヶ月前にされている。あなたは誰かと行く予定だったのではありませんか? そして土壇場でその相手が――」
「異議あり!」サマンサ・ワイズが激しく立ち上がった。「完全な憶測です!」
「では事実を述べましょう」カーシュナーは畳み掛けた。「フーリン氏は婚姻期間中、配偶者との大切な記念日を無視し、一人で――あるいは誰かと――海外旅行に出かけていた。これは婚姻関係の破綻を示す明確な――」
「それは違う!」
クーの声が、法廷に響いた。
証人が感情的になることは珍しくない。しかしクーは、これまでの三週間、常に冷静だった。まるで全てが他人事であるかのように、淡々と証言台に立ち、質問に答えてきた。
だから、この瞬間の彼の叫びは、法廷中の人間を凍りつかせた。
「それは――」クーは声を震わせた。「それは、エミヤが『今年は財団の緊急プロジェクトで忙しいから、クリスマスはなしでいい』って言ったからだ。だから俺は――俺は一人で行ったんだ。本当は、あいつと行くはずだった場所に」
法廷が静まり返った。
「あそこは」クーは続けた。まるで堰を切ったように、言葉が溢れ出した。「あそこは、俺たちが新婚旅行で行った場所だった。あのビーチで、夕日を見ながら、『十年後もまた来ような』って言ったんだ。だから俺は、一年前から予約してた。サプライズでまた連れて行こうと思って」
エミヤの手が、テーブルの上で強く握りしめられた。
「でもエミヤは、三週間前になって『行けない』って言った。『今、重要なプロジェクトの最中だ』って。だから俺は――」
クーの声が詰まった。
「俺は一人で行ったよ。あいつとの思い出がある場所に。あのビーチに立って、夕日を見た。一人で。もう二度と、あいつと一緒には来られないかもしれないから」
クーの赤い瞳が、エミヤを見た。
エミヤは、初めて顔を上げた。その鉄色の瞳には――
それは何だったのだろう。後悔か。罪悪感か。それとも、もっと複雑な、言葉にできない感情の混合物か。
「俺は」クーは声を落とした。「俺は、ダブルルームをキャンセルしなかった。もしかしたら、あいつが気持ちを変えて来てくれるかもしれないって。最後の最後で『やっぱり行く』って言ってくれるかもしれないって。そう思ったから」
「でも来なかった」
「ああ。来なかった」
エミヤの表情が、崩れた。
それは一瞬だった。ほんの一瞬だけ、完璧に構築されていた彼の理性的な仮面が、ひび割れた。まるでガラスに走る亀裂のように、彼の顔に――痛みが浮かんだ。
「これ以上の質問はありません」カーシュナーは、しかし、勝利宣言のような口調で言った。「明らかに、婚姻関係は既に修復不可能なまでに破綻していました」
ストーン判事は、長い沈黙の後、口を開いた。
「休廷します。明日、最終弁論を行います」
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法廷を出ると、エミヤは控え室に行かず、ビルの屋上に向かった。
四十階の屋上。マンハッタンの夜景が、眼下に広がっていた。十二月の冷たい風が、彼の白髪を容赦なく揺らす。気温は華氏40度を下回っている。しかし彼は、寒さを感じなかった。あるいは、感じることを拒否していた。
「逃げんなよ」
背後から声がした。振り返ると、クーが一人で立っていた。弁護士はついていない。彼もまた、寒さの中にコートも着ずに立っている。
「……逃げてなどいない」
「嘘つけ」クーは彼の隣に立った。「お前、ずっと逃げてたじゃねえか。俺から」
エミヤは黙った。
「あのクリスマス」クーは夜景を見つめた。「お前が『行けない』って言った時、俺は分かってたんだ。本当は、お前は忙しくなんかなかった。財団の緊急プロジェクトなんて嘘だ。お前のスケジュール、全部把握してたからな」
エミヤの肩が、僅かに震えた。
「お前はただ――俺と二人きりになるのが、辛かったんだろ」
「……なぜ」エミヤの声は掠れていた。「なぜそう思った」
「だって明らかじゃねえか」クーの声には、怒りではなく、むしろ深い疲労が滲んでいた。「お前、俺が触れようとすると、逃げてた。俺が話しかけると、仕事の話に逸らしてた。俺が『今夜は一緒に夕食を』って言うと、『今日は財団で重要な会議が』って断ってた。毎回、毎回だ」
エミヤは、何も言えなかった。
「俺はな、エミヤ」クーの声には、初めて――本当の感情が滲んでいた。それは怒りでも憎しみでもなく、ただ純粋な、痛みだった。
「お前が俺に飽きたんだと思った。ウォール街の成金なんかより、もっとマシな相手が欲しくなったんだと思った。お前みたいな、世界を救ってる聖人には、金儲けしかできない俺なんか、つまらなく見えたんだろうって」
「違う」エミヤは即座に否定した。「違う。私は――」
「じゃあ何だったんだよ」クーが振り返った。その赤い瞳には、涙は無かったが――それよりももっと深い、癒えることのない痛みがあった。「なんで、なんでお前は俺を避けたんだ。なんで俺に触れさせなかった。なんで俺の目を見なかった」
エミヤは、夜景を見つめたまま、震える声で言った。
「怖かったんだ」
「何が」
「君を――君を失うことが」
クーは、息を飲んだ。
「私は」エミヤは続けた。言葉は、まるで彼の内側から無理やり引き出されるように、痛々しく出てきた。「私は、君にふさわしい人間じゃない。君は輝いている。成功していて、魅力的で、誰からも愛される。でも私は――私はただの偽善者だ」
「何言って――」
「財団の活動だって」エミヤは自嘲的に笑った。「本当は自己満足かもしれない。人を救ってるつもりで、実際には自分の罪悪感を癒してるだけかもしれない。『世界を良くしたい』なんて綺麗事を言いながら、本当は自分が善人だと思いたいだけなのかもしれない。そんな人間が、君のような――」
「バカか、お前」
クーの声は、怒りではなく――むしろ呆れと、そして何か温かいものが混じっていた。
「お前が偽善者? お前が俺にふさわしくない? 何だそりゃ。俺なんか、他人の金を動かして手数料稼いでるだけの、ただの寄生虫だぞ。世界に何一つ価値を生み出してない。でもお前は、毎日、誰かの命を救ってる。世界を少しでも良くしようとしてる。それなのに――」
「でも君は」エミヤは、初めてクーを見た。その鉄色の瞳には、涙が光っていた。「君は私を愛してくれた。こんな私を。何の価値もないかもしれない、偽善者かもしれない私を。だから――だからもし、君が私の本当の姿を知って、失望したら。もし君が去って行ったら。私は――」
エミヤの声が、途切れた。
クーは、ただ、彼を見つめていた。
「だから遠ざけたのか? 傷つく前に? 捨てられる前に、自分から距離を取ったのか?」
エミヤは頷いた。涙が、彼の褐色の頬を伝って落ちた。
「……バカ」クーは呟いた。「とんでもねえバカだ、お前」
「ああ」エミヤは小さく笑った。涙と笑みが混じった、奇妙な表情だった。「私は、バカだ」
二人は、しばらく黙って夜景を見ていた。マンハッタンの無数の光が、まるで地上に降りてきた星々のように煌めいている。
「なあ、エミヤ」クーが口を開いた。「明日で終わりだ。判決が出る」
「ああ」
「どっちが勝つと思う?」
「分からない」エミヤは正直に答えた。「でも――どちらが勝っても、もう意味はない」
「そうだな」
風が、二人の間を吹き抜けた。
「俺、バハマでな」クーが唐突に言った。「一人で、あのビーチに立ってた。お前と新婚旅行で来た時、砂浜に座って夕日を見ながら、『一生一緒にいような』って言ったよな」
エミヤは黙って頷いた。
「俺、その時思ったんだ。『一生』ってなんだろうな、って。三年で終わるかもしれないし、三十年続くかもしれない。人間の寿命なんて、宇宙の時間軸から見たら一瞬だ。でも――」
クーは、エミヤを見た。
「たとえ三年でも、俺は後悔してねえよ。お前と過ごした時間、全部、宝物だった。お前と朝食を食べた日も、お前と喧嘩した日も、お前と黙って映画を見た日も。全部」
エミヤの瞳から、また一筋の涙が流れた。
「私も」彼は掠れた声で言った。「私も、だ。君と過ごした三年間は――私の人生で、最も幸せな時間だった」
二人は、もう何も言わなかった。ただ、夜景を見つめていた。
そして――気づけば、クーの手が、エミヤの手に触れていた。エミヤは逃げなかった。二人は、屋上の寒さの中で、手を繋いだ。
明日、法廷で何が起ころうとも。
少なくとも今この瞬間は、二人は繋がっていた。
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第三幕:最終弁論から判決
法廷は、最後の日を迎えた。
傍聴席は満席を通り越して、立ち見が出ていた。記者たちは前列を占拠し、カメラの列が法廷の後方に並んでいる。この「世紀の離婚裁判」の結末を、全員が固唾を飲んで見守っている。
ストーン判事が入廷すると、法廷中が静まり返った。
「では、原告側の最終弁論を」
カーシュナーが立ち上がった。彼は、この四週間で積み上げた証拠を元に、完璧な論理構成で語り始めた。クーの資産隠匿の疑惑――実際には隠匿ではなかったが、疑惑として提示された事実。エミヤへの配慮の欠如――夜のバー通い、クリスマスの一人旅行。婚姻関係の破綻――カウンセリングを受けていたという事実。
「以上の理由から」カーシュナーは結論づけた。「我々は裁判所に対し、婚姻資産の六十五パーセントを原告エミヤ・シロウ氏に分与することを求めます。これは単なる財産分与ではありません。破綻した婚姻において、より誠実であった側への、正当な補償です」
傍聴席がざわめいた。六十五パーセント――約八千万ドル。
「被告側」
サマンサ・ワイズが立ち上がった。彼女もまた、完璧な準備をしてきた。エミヤの財団への過剰な寄付――配偶者への相談なしに共同資産から八千万ドル。クーへの無関心――電話を取らない、会話を避ける。仕事への逃避――週百時間労働、深夜のオフィスでの涙。
「被告クー・フーリン氏こそが」ワイズは力強く述べた。「この婚姻において、最後まで関係を維持しようと努力し続けました。カウンセリングを受け、記念日の旅行を計画し、配偶者を気遣って夜の帰宅を避けた。一方、原告は一貫して被告を避け、拒絶し、そして最終的には――捨てました」
法廷が静まり返った。
「よって我々は、婚姻資産の六十パーセントを被告に分与することを求めます」
再びどよめきが起こった。
ストーン判事は、両方の弁護士を見渡した。そして――
「双方の主張は理解しました。では――」
「裁判長」
エミヤが立ち上がった。
カーシュナーが驚いて彼を見た。「エミヤさん、何を――」
「私から、最後に陳述させていただけますか」
「本人陳述は既に終了して――」
「もう一度、お願いします」エミヤの声には、これまでにない強さがあった。「これが、最後です」
ストーン判事は、珍しく表情を緩めた。まるで、何かを予期しているかのように。
「許可します」
エミヤは、証言台に向かった。その背中を、クーが――そして法廷中の人間が見つめていた。
宣誓を終え、エミヤは口を開いた。
「私は」彼の声は、これまでのどの証言よりも静かで、しかし確かだった。まるで、長い間押し殺していた何かを、ようやく解放するかのような。
「この裁判で、多くの嘘をつきました」
法廷が凍りついた。
「クー・フーリンの資産隠匿を疑うような証拠を提出しましたが――彼は何も隠していません。あの口座のことは、彼は結婚直後に私に話していました。『二人の将来のための備え』として。私が『記憶していない』と主張したのは、嘘です」
カーシュナーが青ざめた。「エミヤさん、あなた今、何を――自分の訴訟を台無しに――」
「彼が夜、バーに行っていたことを問題視しましたが」エミヤは構わず続けた。
「それは私が、彼に『家に帰りたくない』と思わせるほど、冷たく接していたからです。私が彼を拒絶していたからです」
傍聴席がざわめき始めた。記者たちのペンが猛烈に走る。
「彼がクリスマスに一人で旅行に行ったのは――私が、彼を拒絶したからです。私が仕事を理由に、彼から逃げたからです。本当は」エミヤの声が震えた。「本当は、仕事なんてなかった。ただ――彼と二人きりになるのが、怖かった」
「エミヤさん!」カーシュナーが叫んだ。「あなたは今、自分の――」
「彼は何も悪くありません」エミヤは続けた。その鉄色の瞳は、まっすぐクーを見ていた。
「悪いのは、全て私です。私が彼を傷つけました。私が彼を遠ざけました。私が――私が、私たちの結婚を壊しました」
クーは、証言台のエミヤを、ただ見つめていた。
「だから私は」エミヤの声が詰まった。「だから私は、この訴訟を――取り下げます」
法廷が騒然となった。
「私は、財産など要らない。彼が幸せになれるなら、全てを彼に渡してもいい。ただ――」
「待て」
クーが立ち上がった。
「待てよ、エミヤ」
彼は弁護士を手で制し、証言台に向かって歩いた。ストーン判事が「被告、証言台に近づくのは――」と言いかけたが、クーは構わず進んだ。
そしてエミヤの前に立った。
「お前、何言ってんだ」クーの赤い瞳は、エミヤを捉えて離さない。「全部お前が悪い? お前が壊した? 違うだろ」
「クー――」
「俺だって悪かったよ。お前が苦しんでるの、気づいてたのに、ちゃんと向き合わなかった。『どうした』って、『何が怖いんだ』って、ちゃんと聞けばよかったのに、お前が話すまで待ってた。お前が心を開いてくれるまで、ただ黙って待ってた。それで距離ができて――」
クーの声が詰まった。
「俺も、逃げてたんだ。お前に嫌われるのが怖くて、本音を言えなかった。『寂しい』って、『もっと一緒にいたい』って、そんな当たり前のことすら言えなかった。だから――だから、半分は俺のせいだ」
エミヤは、涙を流していた。
「でも」クーは続けた。「でも、もう終わりなんだろ? これで」
「……いや」エミヤは首を振った。「終わらせたくない」
法廷が、静まり返った。
「私は」エミヤの声は震えていた。「私は、君を失いたくない。財産など、どうでもいい。この裁判など、どうでもいい。ただ――もう一度、やり直させてほしい」
クーは、彼を見つめていた。
「本気か?」
「本気だ」
「お前、また逃げるんじゃねえのか?」
「逃げない」エミヤは断言した。「もう、逃げない。君から逃げるのは――もう、終わりにする」
クーは、長い沈黙の後――
法廷中が見守る中で、エミヤの手を取った。
「俺も」クーの声は掠れていた。「俺も、お前を失いたくねえ」
法廷がどよめいた。記者たちのカメラが一斉に光った。
「三年前も、今も、これからも。お前以外、考えられねえ」
エミヤは、声にならない声で――
「私も」と言った。「私も、君だけだ。最初から、ずっと」
二人は、法廷の真ん中で、手を繋いでいた。
ストーン判事は、長い沈黙の後――小さく、しかし確かに笑った。
「……双方の弁護士」彼女は言った。「あなた方のクライアントは、もはやこの裁判を望んでいないようです。訴訟を取り下げ、和解交渉に入る意思はありますか?」
カーシュナーとワイズは、顔を見合わせた。
そして――
「裁判長」サマンサ・ワイズが先に口を開いた。「被告側として、訴訟取り下げと和解を――受け入れます」
「原告側も」カーシュナーが続いた。まるで全てを諦めたように、しかしどこか安堵したように。「同意します」
ストーン判事は頷いた。
「では、本件フーリン対エミヤ離婚訴訟は、ここに双方の合意により訴訟取り下げ、和解成立とします」
ガベルが叩かれた。
法廷中が、拍手に包まれた。それは前代未聞のことだった。離婚裁判で、傍聴席が拍手をする。しかし誰も、それを止めなかった。
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エピローグ:やり直し
法廷を出ると、報道陣が殺到した。マイクが突きつけられ、カメラのフラッシュが二人を包む。
「エミヤさん! 和解の内容は!」
「フーリンさん! 復縁するんですか!」
「財産分与はどうなったんですか!」
しかし二人は、何も答えず、ただ手を繋いだまま裁判所を後にした。報道陣の声が後ろで響いているが、もはや二人には関係なかった。
タクシーに乗り込むと、クーが行き先を告げた。
「セントラルパーク、シープメドウまで」
エミヤが驚いて彼を見た。「そこは――」
「ああ。俺たちが最初に会った場所だ」
三年前の夏、チャリティーマラソンのイベント。クーはスポンサー企業『Gáe Bolg Capital』の代表として、エミヤは主催団体『Unlimited Foundation』の代表として、そこにいた。
「最初にお前を見た時」クーは窓の外を見ながら言った。「お前、スピーチしてたよな。『私たちは、世界を変えることができる』って。めちゃくちゃ真面目な顔で」
「覚えている」エミヤは小さく笑った。「君は、スピーチの後に近づいてきて、『世界を変える前に、まず俺と夕食に行かないか』と言った」
「ああ。そしたらお前、『世界を変える活動には資金が必要です。寄付していただけますか』って即答したよな」
「私は真面目だったんだ」
「で、俺は『寄付の代わりに、デートしてくれ』って言った」
「そして私は――」
「『それは取引ですか』って、マジな顔で聞いたんだ」クーは笑った。「お前、本当に真面目だったよな」
「君は、私の真面目さが気に入ったと言っていた」
「ああ。今でも気に入ってる」
タクシーはマンハッタンの街を抜けて、緑の広がる公園へと向かって行った。十二月のセントラルパークは、夏の喧騒とは打って変わって静かだった。
タクシーを降りると、二人は手を繋いだまま、シープメドウに向かった。
芝生は冬枯れていて、木々は葉を落としている。しかし――この場所には、確かに二人の記憶が残っていた。
「もう一回、最初からやり直そうぜ」クーは言った。「今度は、ちゃんと」
「ああ」エミヤは頷いた。「今度は、逃げずに。君と、ちゃんと向き合う」
「俺も。お前が苦しんでたら、ちゃんと聞く。お前が逃げようとしたら、追いかける」
「追いかけてくれるのか?」
「当たり前だろ」クーは笑った。「お前が地の果てまで逃げても、俺は追いかけるよ」
エミヤは笑った。涙を流しながら。
「なら、私はもう逃げない。君の隣にいる」
冬の午後の陽射しが、二人の繋いだ手を照らしていた。
「なあ、エミヤ」クーが言った。「今度結婚する時は、こういう裁判抜きでやろうな」
「……今度?」
「ああ。今度」
エミヤは、クーを見た。
「君は、まだ私と結婚したいのか?」
「当たり前だろ」クーは真っ直ぐに彼を見た。「お前以外、考えられねえ」
「私も」エミヤは涙を拭った。「私も、君以外は考えられない」
二人は、シープメドウの真ん中で、抱き合った。
周囲にいた数人の散歩者が、遠くからその光景を見ていたかもしれない。しかし二人は、もう誰の目も気にしなかった。
裁判という公開処刑の場で、互いの傷と罪を晒し合った末に――二人は、初めて本当の意味で向き合うことができた。
愛は終わっていなかった。ただ、恐怖に隠されていただけだった。
そして今、彼らは再び始めることができる。
今度は、嘘も逃避もなく。
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三ヶ月後、ニューヨーク・タイムズの片隅に、小さな記事が載った。
「元離婚訴訟の当事者、エミヤ・シロウ氏とクー・フーリン氏が再婚。式はプライベートで執り行われ、招待客は両家の家族のみ。両氏のコメント:『今度は、最後まで』」
そしてその記事の下に、小さく追記があった。
「なお、両氏は婚姻資産を全て非営利団体『Unlimited Foundation』に共同寄付することを発表。『私たちが裁判で無駄にした時間とお金を、少しでも世界のために使いたい』とのこと」
人生とは、時に回り道をする。
しかしその回り道の先に、本当の目的地がある。
二人は、ようやくその目的地に辿り着いた。
ああ感動しました……泣きます