ネトウヨが人死にはしゃぐカスだということを記録する記事
沖縄の平和学習で辺野古の基地建設現場を見学していた船が転覆した。乗客だった高校生1名が死亡する事態となり、胸を痛めている。楽しい思い出になるはずだった修学旅行で起きていいことではない。まともな人は誰しもそう思うだろう。
つまり、まともではない人も大勢いる。ネトウヨである。
事故直後からネトウヨたちのはしゃぎようは下劣極まるものだった。これでサヨクの平和教育にケチを付けられるぞと喜び勇んだアホたちの快哉がSNSに響き渡る様は、この国の終わりを確信するに足る状況だった。
ネトウヨはデマや侮辱を日々大量に生み出し続けることで、誤った印象をばら撒きつつ追及のリソースを枯渇させ責任から逃れる。そうしたカスの所業に抗う一助としてこの記事を書く。数年後や数十年後に、あのときのネトウヨはカスだったと忘れ去らせないために。
全てを党派性にするネトウヨ
抗議活動ですらないが……
本件でとりわけ下劣さを晒しているのが産経新聞である。ほかの各紙が単なる事実関係の続報に留めるなど抑制的な報道を行うなか、全国紙を自称するこのネトウヨ向けまとめサイトはここぞとばかりに喜び勇んで出鱈目を垂れ流している。
<主張>辺野古沖で転覆 「平和学習」はき違えるなhttps://t.co/N2kCg1uPha
— 産経ニュース (@Sankei_news) March 18, 2026
抗議船に生徒を乗せることが「平和学習」になるという学校側の姿勢もおかしい。辺野古移設は日米合意に基づく政府方針であり、教育に求められる政治的中立を逸脱している。学校側や管轄する京都府などは検証すべきだ。
出航の判断は妥当だったのか疑問だ。抗議活動とは別に、見学者らを乗せることがあったというが、転覆した2隻は海上運送法に基づく事業登録がされていなかった。
そのような船になぜ生徒を乗せたのか。学校側は原因究明へ第三者委員会を立ち上げる方針という。厳しく問われるべきは、生徒の安全対策が十分にとられていたかどうかだ。
抗議船に生徒を乗せることが「平和学習」になるという学校側の姿勢もおかしい。辺野古移設は日米合意に基づく政府方針であり、教育に求められる政治的中立を逸脱している。学校側や管轄する京都府などは検証すべきだ。文部科学省も指導を強めてもらいたい。
現場周辺では辺野古移設反対の活動家らが小型船で激しい抗議活動を繰り広げており、海保の警告を無視して制限区域内に入り込もうとするなど危険な行為がしばしばみられる。
沖縄県の対応にも問題があろう。現場周辺で抗議船が転覆する事故は過去にもあり、危険性は認識していたはずだ。玉城デニー知事は、危険な抗議活動を放置せず、安全対策を講じなければならない。
記事中、産経は転覆した船を抗議船と表現したが、これは正確性に欠ける。抗議船と保留なしで書けば、読者は建設現場に接近して海保の船とも激しくぶつかり合うことのあるような抗議活動の様相を思い描く。記事の後段はまさにそのようなイメージを狙った蛇足だ。
だが、事実は違う。関係者が指摘するように、そもそも高校生が乗った船のサイズと特性では建設現場の規制エリア内部まで入れない。そのため、船は建設現場を遠巻きに見る格好となる。そもそもすでに明らかなように、転覆の原因は天候と高波である。抗議活動とは一切関係がなく、あえてこう表現するが単なる海難事故だ。
こうした事実関係があるにもかかわらず、ネトウヨたちはそれすら無視している。これを「人死にに喜び勇んで気に入らない派閥のバッシングに使っている」と表現するのはむしろ丁寧すぎると言うべきだろう。
教育介入の欲望
挙句、産経記事は『辺野古移設は日米合意に基づく政府方針であり、教育に求められる政治的中立を逸脱している』と書くが、中立性をはき違えているのは彼らだといえる。学校教育における中立性は、政府見解への服従を要請していない。基地について考える情報を提供する一環として現場を見学することは、当然学校教育の中立性にも平和教育にも適う。
本件における懸念のひとつは、自民党政権がこれをきっかけに学校の平和教育に介入するのではないかということだ。生徒児童の安全を建前に、政府が認めない見解を子供に伝える平和教育を徹底的に弾圧する、という懸念は非現実的ではない。なぜなら、性教育で過去に一度起こったことだからだ。
七生養護学校事件、といえばわかる人も多いはずだ。これは養護学校で知的障害を持つ子供たち向けに独自の性教育を行っていたところ、保守派の政治家が学校を襲撃し教育を妨害・弾圧した事件である。襲撃と書いたが、学校を訪れた土屋敬之・古賀俊昭・田代博嗣の三都議は学校から教材を強奪しており、これを視察と表現するのはあまりにも襲撃犯に都合のいい記述となる。
なお、七生養護事件はその後訴訟となり、降格となった元校長の処分が取り消されたほか、襲撃犯である都議三名と都教委に損害賠償命令が下った。しかし、公権力が公然と暴力を用いて性教育を弾圧した影響は未だに残り、現代においてもまともな性教育が行われていない学校が多いのは、それこそ学校教育を経験してきた我々には周知のとおりである。
そして、この事件に乗じて性教育弾圧を全国に広げようとしたのが現総理である高市早苗と思想的つながりの強い安倍晋三である。加えて、一連の性教育弾圧を嬉々として報じたのがほかでもない産経新聞であった。
ここまでのことからもわかる通り、ネトウヨは全ての出来事を自身の身勝手なイデオロギーを押し通す道具としか思っていない。障害のある子供が困らないように手をかけた教育も、修学旅行で高校生がなくなる悲劇も、彼らにとっては都合のいいきっかけであり祭囃子に過ぎない。
サヨクを叩けるときだけ饒舌なネトウヨ
人の死を悲しめる左翼、できないネトウヨ
左翼は人の死を悲しむことができる。一方、ネトウヨにはそれができない。これは客観的事実である。
左翼サイドの言動を知るに一番良い題材は、やはり安倍晋三暗殺事件だろう。安倍晋三は左派にとってのパブリックエネミーだったが、この件で安倍の死を喜んだ左派はほとんどいなかった。ある議員が発言を歪曲され安倍の死を喜んだことにされていた記憶はあるが、裏を返せばそうでもしない限り実例が出てこないということだった。
もうひとつ題材として挙げられるのが、中曾根康弘元首相の死である。彼は新自由主義を日本に持ち込んだ大きな契機となった人物であることから、イギリスにおけるサッチャーの死と比較されて言及された。イギリスでは新自由主義を推進したサッチャーは嫌われており、その死は喜ばれたという。もっとも、日本の左派はそういうエピソードを紹介するにとどまり、中曽根の死を直接喜んだ人は稀だった。
もっとも、両者に共通して、国葬という扱いに対する批判は相応にあった。税金の無駄であり、法的根拠も希薄な国葬の強行はガバナンスを破壊する腐敗政治の象徴的セレモニーだった。ネトウヨはこれを指して左翼が死者を冒涜していると喚いたが、手続き論を理解できない阿呆の妄言を出なかった。マジモンの葬儀に突撃するような気合の入った左翼は (いいのか悪いのか) 存在しなかった。
客観的な事実として、左翼は人の死を悼むことができている。少なくともそれをテコに自信の主張を押し通そうという下劣な発想を持つことはない。
ネトウヨはいつ騒がないのか
一方、ネトウヨは自分たちに都合のいいときだけ騒ぐ。もちろん、死者を悼むためではない。利用するためだ。彼らの知性と品性はイナゴといい勝負らしい。
実例のひとつは米兵の犯罪である。未だに、沖縄では定期的に米兵が犯罪を犯し、場合によっては死者が出て、そして裁かれることもなく逃げていく。このような状況を愛国者を自認する者が許しておくはずもないはずだが、ネトウヨが米兵の犯罪に怒り狂っているところを見たことは全くない。全くだ。
以前、基地建設の抗議活動で死者が出る痛ましい事故もあった。そのときもネトウヨははしゃいでいたので、試しに米兵の犯罪に何を言ったか調べてみたことがある。上の記事がそれだが、読む必要はない。誰一人何も言っていなかったからだ。
彼らは沖縄のことなどどうでもいいと思っていることがよくわかるだろう。
なぜ「命がけの抗議活動」が行われるのか
この記事は『九段新報+α』の連載記事です。メンバーシップに加入すると月300円で連載が全て読めます。
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金のない犯罪学者にコーヒーを奢ろう!金がないので泣いて喜びます。



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