大祝宴の喧騒は遠く退き、萬燈の部屋は静寂に包まれていた。
天井の高い和室。天窓から差し込む青白い月光だけが、畳の上に歪な四角い光の模様を描いている。その光を切り裂くように、萬燈は比鷺を壁に押し付けた。
「先生……っ」
背中に感じる冷たい壁の感触と、目の前に迫る萬燈の圧倒的な体温。その温度差に、比鷺の身体が小さく震える。
萬燈の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
比鷺の視界の端にあった月光の模様が、萬燈の広い肩によって遮られ、急速に闇に塗りつぶされていく。至近距離で対峙した萬燈の瞳は、残ったわずかな月光を集めて、獣のように銀色に輝いていた。冷徹で、同時に狂おしいほどの情欲を秘めた眼差しに射抜かれ、比鷺は瞬きすることさえ忘れる。
萬燈の指が、比鷺の顎を軽く掬い、上向かせた。
視界のすべてが、萬燈夜帳という男の顔だけで埋め尽くされていく。逃げ場など、最初からなかった。
唇が重なった瞬間、比鷺の意識は熱によって弾けた。
最初は、唇の柔らかさと、そこから伝わる萬燈の唇の熱、そして微かに香る、彼が好むお香の匂い。だが、それはすぐに、貪るような口吻へと変わる。
「……ん、っ……あ……」
比鷺の微かな喘ぎは、萬燈の唇によって吸い尽くされる。
萬燈の舌が、比鷺の口内を蹂躙し、支配領域を広げていく。萬燈の唇の温度、萬燈の髪が頰に触れる感触、そして鼻腔を突く萬燈の匂いによって、完全に閉塞された。ただ「萬燈夜帳」という存在だけが、比鷺の脳髄に直接、劇薬にも似た悦びを流し込み、網膜の裏側に焼き付いている。
比鷺のうなじの化身が熾火(おきび)のように疼き、金色の粒子を散らす。
口吻の熱が、化身の脈動を狂わせ、比鷺の背筋を焼くような愉悦へと変えていく。
萬燈の二の腕にある化身もまた、比鷺の昂ぶりに呼応して強く光を放ち、二人の間に溢れる光の粒子が妖しく舞う。
萬燈の唇は、比鷺の唇を離すことなく、さらに深く、強く、比鷺のすべてを自分の中に閉じ込めようとする。
比鷺の手は、萬燈の胸元の布を掴み、彼にぶら下がるようにして、辛うじて立っていた。
カミも、覡の宿命も、大祝宴も遠ざかっていく。
今、比鷺の世界のすべては、この熱い唇と、自分を支配する萬燈夜帳という男の存在だけで、絶望的なまでに埋め尽くされていた。
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