あぁ、頭痛がする。
今朝から微かにあった頭痛は、旦那であるクー・フーリンを玄関先で見送った時から、明らかに悪化していた。携帯電話のバイブ音や着信音も頭に響くので、昼ごろには諦めて電源を落とした。
旦那の幼馴染であり、私の友人である、メイヴ。彼女は私たちと同じマンションの階数違いの部屋に住んでいるのだが、その彼女に、私たちの双子の子供たちの小学校の迎えとおつかいを頼む程、悪化してしまったのだ。
「薬くらい飲んでおきなさい」というメイヴの忠告を聞かなかった罰だろうか、心なしか身体のだるさまで出てきた。
「…………だるい」
ふと口をついた言葉に、自分自身でも驚いたが、結局のところ身体は言う事を聞かない。その事実があるだけでも、私を苛つかせていた。
自分の身体なのに、まるで何かに乗っ取られているみたいだ。
ぼうっとする頭で、そんな事を考えていた所だった。
「たでーまー」
呑気な声と共に玄関口からやってきたのは、私の旦那であるクー・フーリンだ。
とある会社でサラリーマンとして働く、ごく普通(?)の美青年である。
「あぁ…………おかえり、早かったな」
先ほど座ったソファに身を沈めながら、私は旦那を出迎えた。
「あれ、お前メール見てくれたか?」
旦那は慣れた手つきでシュルシュルと首元のネクタイを緩めながら、器用にビジネスバッグを開け、中から水筒やら弁当箱やらを、ダイニングテーブルに広げていく。
「メール…………?すまない、今日は……電源を切っていて……」
普段ならば、その広げられた弁当箱などを私がすぐに片付けていくのだが、どうにも身体が動かない。
あぁ、これは風邪だ。完全に風邪だ。
そう自分でも納得した時だ。
「冷てーな、電源くらい入れとけよ」
いつものようにカラリと放たれたその言葉は、私の中の何かをプツリと切らせた。
「すいませんでしたね、そうですね、私が悪かった、あーそうだ、全部全部全部、ぜーんぶ、私が悪いんだ」
「なっ、何怒ってんだよ……」
「いい、今は話したくはない。話しても無駄だ」
気怠い身体を起こし、ダンと足を踏み込む。火事場の馬鹿力というやつか、と良く分からない事を考えた。リビング横の寝室にそのまま飛び込むと、勢い良く寝室の引き戸を閉じた。バァン、という大きな音が頭痛に直結した。ズルリとドアに寄りかかり、髪を纏めていたヘアゴムを解き、適当に放り投げた。
…………怒らせちゃったな。
後で謝っておこう、そう思いながら、私は一人で寝るには大きすぎるベットに身体を投げるように倒した。
「ーーーんだよ、なんで怒ってんだよ」
勢い良く閉じられた寝室のドアに向かって、聞こえないであろう疑問とも文句とも取れる思いを、ポツリと投げかけた。久しぶりに定時上がりできた事、そして、先日同僚に代わって休日出勤になった日の振替として、明日が急遽休みになったから、子供たちが居ない間にデートがしたい、という事。メールでその事と夕食のリクエストを送って、少しウキウキとした気分で帰ってきたら。
嫁がご機嫌斜め。
なんということか。思い出せ、何故嫁はあそこまで怒ったか。俺の軽口程では怒らない嫁が何故。うんうんと唸りながら頭をフル回転させるが、全く分からない。とりあえず、と空の弁当箱をシンクに有る桶で水に浸けた時だった。
「ただいまーーッ!」
「ただいまー」
賑やかな二人の声が玄関から聞こえてくる。おかえり、と声をあげようとした時に聞こえた、(若干トラウマのある)幼馴染の声も。
「ハイハイ二人とも、手洗いとうがいしておいで」
げっ、メイヴ。
三つ程年上の幼馴染、メイヴは同じマンションに住んでるという事で、たまに子供たちの子守りを頼む時があるのだが。
「なんで今日…………」
はぁ、と溜息を思わずついた。
「あら、クーちゃん帰ってたのね。おかえり」
「おー…………、って、なんだその買い物袋」
サラサラな桃色の髪をなびかせ、今日は白を基調としたフリルの多い服……ロリータとかいう服を着ている年上の幼馴染の両の手には、その服装には似合わない、スーパーのレジ袋が二つ程下げられていた。
何って、と言いながら、メイヴは勝手知ったる何とやらの勢いで、冷蔵庫に買ってきたらしい食料を突っ込んでいく。
「シェロに頼まれたのよっ、二人のお迎えとお使いっ!もぅ、今日はエステ行こうと思ってたのにぃ」
シェロ、というのは俺の嫁の呼び名の一つだ。ちなみに俺は未だ、旧姓のエミヤで読んでしまう事が多い、が。それよりもだ。子供たちの迎えとお使いなら、俺にだって。思わず少し口を尖らせてしまう。
「ぁんでエミヤがお前に頼んでるんだよ、家に居たろ」
「クーちゃん……、あなた、バカなの?」
はぁ、と大袈裟に溜息をつかれる。いや溜息つきてーのはこっちだ。
食料を冷蔵庫に入れ終わったメイヴは、とても静かに、はっきりと言葉を紡いだ。
「シェロ、風邪引いたみたいよ?しかも自分では自覚ナシの」
真っ白になる頭。風邪を引いた。俺の嫁が。体力なら自信があると豪語していた俺の嫁が。
気が付いた時には、俺は初めてメイヴの前で膝をついていた。
「………………………………スイマセンでした」
「謝るならワタシじゃなくて、シェロに謝りなさいよ、バカクーちゃん。あと邪魔」
このあと数分間、凹みすぎて子供たちにからかわれた事は、もう思い出したくない。
「シェロー、ごはん食べれるー?」
ふて寝を始めてからどのくらい経ったのだろうか。ガラリと寝室の引き戸を開けたのは、子供たちの迎えを頼んでおいたメイヴだった。なんだかんだ言いつつ、私の食事まで用意してくれる世話焼きだ。
「あぁ……すまない、メイヴ」
寝起きでぼうっとする頭を片手で抑え、ベットから起き上がった。咳は今のところ無いが、なんとなく抑えた部分から感じる熱が上がっている気がした。
「もー、アンタの事だからどうせ熱、計ってないかもー…とは思ったけど……」
はぁ、と溜息をついたメイヴは、食事を乗せたお盆をベット脇の小さなテーブルに置きながら、体温計を放り投げてきた。
「お粥、面倒だったからレトルトのやつにしちゃったわ。二人とクーちゃんのごはんはアンタの作り置きのやつで済ませちゃったから」
「何から何まで……………………」
はぁ、と何度目かの溜息をつきながら、体温計を服の隙間から脇に差し込んだ。体温計の先の冷たさが、やけに強い刺激に思える。
「今はクーちゃんが二人をお風呂に入れてるわ。全く…………、自分が風邪引いてる事くらい自覚してくれたかしら?」
「…………した」
「ならいいわ、でも、クーちゃんがちょっとへこんでて面倒だから、そこはアンタがどうにかして頂戴?さすがの私も、夫婦間のナンタラまで口出しはねー」
思い当たる節がポンと浮かぶ。確か、頭痛と怠さで苛ついていて……。うぅ、と思わず唸る。彼には悪い事をした。
あのね、とメイヴが口を開いたタイミングで、ピピッ、と音を鳴らした。体温計を引き抜き見ると、38.2の数字が表示されていた。スイッチを切ろうとしたところで、メイヴに体温計を奪われた。
「ちょっと高いわね、ごはん食べて薬飲んで寝なさい、バカシェロ」
ふぅ、と溜息をついたメイヴはもう一度、あのね、と言葉を紡いだ。
「風邪引くのは普通だし、イラついて当たるのも普通よ。だから、アンタはもうちょっと自分を大事にしなさいよ。ホント、昔っから自分の事には疎いんだから」
たまにはお姉さんぽい事言ってみるわ、とメイヴは私の頭を撫で、寝室から出ていった。
メイヴが置いていったレトルトのもの、と言われたお粥には、溶き卵と梅干しが入っていた。
二人の子供たちを寝かしつけ、時計を見ると短針は九を指していた。
「クーちゃん、落ち着いたなら私、帰るけど」
「おー帰れ帰れ。助かった」
しっしっ、と手を振りながら帰るよう促す。なによ失礼ね、と言いながらもちゃっかりエミヤの作り置きを一緒に食べてた事を俺は忘れない。
「どーせ明日も仕事だろ、さっさと帰れ」
「優しいんだか冷たいんだか……分からないわクーちゃん……」
ほぅ、と何処かうっとりした目で見られるが、帰れ帰れと促す。
「じゃあ、シェロの事頼んだわよ」
「へーへー、わぁーってる」
じゃあな、とドアまで見送り、戸締まりをキッチリと行う。パタパタとキッチンまで戻り、夕飯として食べたエミヤの作り置きの入っていたタッパーや、メイヴが使った小鍋、皿、自分の弁当箱などを洗っていく。エミヤはメイヴが持って行った粥をなんとか食べたらしく、米粒の残ったレンゲも一緒に洗った。水切り籠に並べ、冷蔵庫につけられたフックから下がるタオルで手を拭く。
…………エミヤ、起きてっかな。
キッチンからも見える寝室のドアを、恐る恐る窺う。音を殺してドアまで近づき、静かにドアを開ける。
すぅ、という小さな寝息が微かに聞こえた。うん可愛い。
そろそろと近付くと、気配に気付いたのか、エミヤは薄っすらと目を開けた。
「わり、起こしたか?」
無声音で声をかけると、エミヤは小さく首を振った。
「くー…………メール、ごめん」
「メール?あぁ……アレか。構わねーよ、それよか、悪かった。あんな言い方してよ」
風邪のことも気付かなくてゴメンな、と頭を撫でると、エミヤは俺の手に自分の手を重ね、また小さく首を振った。
「メール……」
「ん?なんだよ……気にしてねーって」
「ちがう…………なんて、打ってた?」
あぁ、この可愛い嫁は。メールの内容を知りたいのか、と尋ねると小さく、うん、と微笑んだ。畜生可愛い。
しかし、自分で打ったメールを改めて口にするのは、少しばかり恥ずかしかった。なにしろ、自分の中で伝えたかった話のメインが、少なからず下心を含んだものだからだ。
「あー…………っとな、まずは、早上がり出来たから帰るー……って事と、この前の休日出勤した分、あれが振替えされて明日休みになったぞー……って事と、夕飯にカレー食いてぇって事…………です」
ほぼこれで内容は全文だ。だが。
エミヤの調子悪いんじゃデート出来ねーしなぁ…………。
とまぁ、少しばかりしょんぼりしているワケだが。
「本当にそれで全部か?」
意識がはっきりしてきたらしいエミヤは、先程の可愛らしい微笑みではなく、からかうような微笑みに変わっていた。
あー、これはバレてんな。
こういう顔をしている時は、何かしらかの俺の嘘や内緒に気付いた時の顔だ。うん、やはり可愛い。
「あー…実は……アイツらが学校行ってる間に、久しぶりにデートでも出来たらなー……って思ってたんだが……」
無理だよな、と言いかけたところだった。
「……この前見られなかった映画、そろそろレンタルに出てるんじゃないか?」
「は……?」
「それと明日はスーパーの特売がある日だからな、数に限りのあるものも出るはずだから、人手がある方が助かる」
ふふっ、と微笑むエミヤに思わず笑い返した。映画館に行って、おしゃれなカフェで飯を食うだけがデートではない。少なくても俺たちにとっては。
「お昼はカレーにしよう、多めに作っておいて、夜はドリアにする」
昼の分にはカツもつけてやろう。そう言って、愛おしそうに俺の手を撫ぜる手が温かい。
「……おう、じゃあ明日の朝飯は俺が作る」
「いつもの目玉焼きとベーコンか?」
「あとはトーストとコーヒーだな。お前みてぇに美味い飯は作れん」
早く良くなれよ、そう言いながらベットに潜り込み、後ろから抱きしめる。いつもより高い体温が、段々と俺へと移ってくる。
明日のデート楽しみだな。そうエミヤに呟けば、私もデートしたかったんだ、と、可愛いことを言ってくれた。風邪を引いても、俺の嫁は、世界一可愛い。