【セタ弓】御子は従者を連れて旅立った5
■故郷を追われた兄殺しの御子に与えられたのは痩せた馬、折れた剣、錆びた槍。そして弓を携えた従者がただひとり。御子と従者の織り成す恋と冒険のジャポネスクファンタジー! ようやく屋根のあるところに着きました。MVPは馬です。
■前話はシリーズ一覧(novel/series/846086)からどうぞ。ナンバリングがおかしなことに…次話はいっぺんに上げられるといいなと思います。
■2018/12/30冬コミ2日目に参加します。東1 E-53b 梨園堂です。
Zero雁夜スペですが、お隣が槍弓というミラクル配置に大感謝。新刊は愉悦まとめ再録予定、槍弓は既刊のみ(芝生、番犬、受難1)です。お近くまでお越しの際はどうぞよろしくお願いします~
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大きな四角の辺にちょんちょんと区切りを入れるのは門の位置、真っ直ぐ南北東西に引かれた線は街道で、そこへ白い指先に示された端から丸印を書き入れます。
それが二桁に達したあたりで、アーチャーは地面を引っ掻くのに使っていた細枝を放り出しました。
「結局、正面突破か」
「えー。オレの仕事が無駄みてえに言うなよ」
結論の早すぎるアーチャーに、キャスターが口を尖らせます。
斥候を務めてくれた彼から齎された最新情報と、事前からの記憶を照らし合わせながら、以降の計画を練っているところでした。四角は目的地である斎宮、丸印は配された物見の位置です。
「とんでもない。私ではここまで探れなかった。あなたのおかげで、勝ち筋のない選択肢を潰しておけたということだよ、キャスター」
アーチャーは微苦笑を乗せ、言いました。
ただし目線は地面に当てたまま。一瞬きで、元の硬質な武人の顔に戻ります。
「夜陰に乗じて駆け抜けたいところだが……」
「いや、はええわ」
「何がだ」
「おまえの切り替えが」
態度が悪いと言いたいようです。面倒くさいから褒めておこうと思ったのは確かですが、これには呆れました。
「虚礼を廃して構わぬと仰ったのは兄御子様だったかと存じますが。諧謔とは察せられず、申し訳ありません。ご覧の通り無骨者ゆえ」
「なんでぞんざいか馬鹿丁寧にぞんざいかなんだよ。中間ってねえの?」
中間とは何でしょう。よくわからないので、放っておくことにしました。キャスターの知恵を借りられる時間は限られています。やっつけだろうと懇切丁寧だろうと、そこに含まれる謝意を過たず読み取れる賢者の駄々に構っている場合ではないのです。
戦術の相談を続けます。
「門が開いていなければ立ち往生の狙い撃ち。裏口から通してくれるほど甘くはない。そも陽動の人員もない。であれば」
土へ描いた絵図を抉るように、アーチャーは踵で太い一本の線を引きました。
「最短、真っ直ぐ」
こちらの動きが政敵に知られていないと思うほどおめでたくはありません。当然のごとく待ち伏せがあるだろうとアーチャーは踏んでいましたが、常駐の物見――それは狙撃手をも意味します――でさえこの数です。キャスターの協力があったとて、密かに抜けるのは困難でしょう。
そして一度姿を見つかれば、そこらの民家に隠れ潜んでいる兵が押し寄せます。こちらは膂力に欠ける弓兵と、敏捷を利とする少年です。数を頼みに囲まれるのだけは避けなければなりません。
「そうさな。避けられねえ矢数なら、頭から飛び込むのが最も傷は少なく済む。ま、これくらいも切り抜けられねえじゃ先は見えてるからな」
これでいて歴戦の将であるキャスターが頷くのを確認し、絵図を完全に消し去りました。
ともかく斎宮の敷地内へ入ってしまえば何とかなるのです。
中立を掲げる立場上、外での争い事には関知しませんが、客人となれば話は別です。戦勝祈願をした御子は斎姫の加護を得、彼女の目の届くところでは手出し出来なくなるでしょう。簒奪者にとって、神託――王権の承認を行う斎宮には決して不当を知られてはならないからです。
国境を出れば、そこは敵地。自由に兵を動かせるわけもなく、下手を打てば自身が大国の怒りを買います。王位は取ったが滅ぼされたでは意味がありません。
裏を返せば、セタンタに逃げ込まれては好機を失うのです。門前の戦闘は避けられぬものになると思われました。
「なんだ? 今度はおまえが、それだけかって顔してるな?」
「いえ……」
冷たいようですが、彼の言う通りです。こんなところで手間取っていては、大儀を成して凱旋を果たせるはずもありません。
「セタンタ様ならやり遂げます。万に一つも傷など負わせない。私が、必ず」
頭から飛び込まねばならぬのなら、自分が盾になればいいだけのこと。アーチャーは顔を引き締めます。少年の兄へ約すように、己の神へ誓うように。
「おまえ、初っ端にそれやって怒らせてなかったか」
「む」
「言い付け破ったらどうなった? 二度目はねえぞ」
そうでした。己の体とて主の物、粗末にしてはならぬと命じられたのです。しかし盾や刃とはそのように使うもの。守護すべき主の危険となれば、己は幾度でも飛び出すでしょう。弱りました。
「……呆れてくださる、ということは…?」
すると、キャスターは声を立てて笑い出しました。アーチャーは眠るセタンタを気に掛けましたが、キャスターの声は彼には聞こえません。夜な夜な心霊となった兄と従者が会合を開いているとも知らず、ぐっすり眠っています。
それはつまり、従者が主人に情をいただいた夜である、ということでもあるのですが。
「やめとけよと一応言ってやるがな。まあ、怒らせたらひとつ、口でも吸ってやりゃあいいのさ。ちぃとしな作って、怪我したとこ舐めてくださいってな」
オレなら誤魔化されてやるけど、ガキんちょはどうかなあ。と、キャスターは赤い瞳を細めて愉しそうです。
アーチャーには幾度も言いよどんで、言い出せなかったことがありました。しかし今がその時と、アーチャーは膝を詰めます。
「それは、どのように」
「ぅん?」
「閨の作法をお教えくださるとあなたは言った。是非に」
空中で寝転び、揶揄うようにアーチャーの顔を覗き込んでいたキャスターはぽかんとなりました。
怒るか恥じるかと思っていれば、アーチャーは大真面目です。まるで師匠から武道の心得を伝授される弟子みたいに、膝に拳を置き、ぴんと背筋を伸ばしています。
「……本気で言ってんのか?」
呆れ返ったそれを、覚悟を訊ねられたものと思いました。
「無論」
そして、それほどに難解な作法なのだ、己は彼らがはっきり物申せぬほどに不躾な振る舞いをしているのだ、と眉尻を下げます。
「困っているんだ。どうしたものかわからなくて。私に触れるだけでは意味がないと思うのだが、術式として必要なことかもしれないし、そ、粗相してはならぬと思っても耐え難く、気を遣ると手を退いてしまわれることもあるのだが、もしや私のほうから何かせねばならなかったのかと」
何せ模範とすべき常識がわかりません。どう考えてもふつうではないと思われる行為に諌言を述べても、一回りも年下の少年にえ?という顔をされると、自分が間違っているような気になります。
セタンタは高頻度に――これも平均など知らないので、己との比較ですが――従者の夜伽を必須とするようです。きちんとお勤めが出来なければ、解任されてしまうかもしれません。
「ハ、おまえ。そんなもん教えたらオレが殺されるわ。いや、もう殺されてんだけどな!」
今度はキャスターが弱っているアーチャーを笑うことはありませんでしたが、ええ、とても笑えぬ冗談です。
「キャスター」
「そのまんまでいいんだよ。でなきゃ、そっくりあいつに言ってみな」
アーチャーの顰められた眉間を弾くように指を振り、そのうちに青年の姿は消えてしまいました。
「……言えるものか」
考えてみれば揶揄い癖のある男です。教えを請うたとて、真実を教えるとは限りません。真に受けてセタンタに驚愕されたり、倦厭されては堪ったものではありません。
今のところセタンタの指図は“嫌だと言うな”と、これだけです。不躾を気にする主人ではありませんし、アーチャーはセタンタ以外の男性に仕えることはないので、世間一般など知らずともよいと言われればそうなのですが。
「……むしろ女人に訊ねるべき、だったか…?」
いずれ少年が何処かの姫君を恋い慕った時、閨での振る舞いが原因で破談になっては困りものです。
夜伽はそういったことの練習相手でもあるのですから。女性の立場で好悪を伝え、きちんと教え諭さなければなりません。
「女人。誰に。何をどう」
例えば、疲れているだろうからとこちらを労いながらひたすらに胸を揉みしだいていたり、挿入するでもないのに延々と股座を捏ねていたりするのはあなたには許容できることだろうか、などと女官に訊ねて回るのでしょうか。よくて平手打ち、悪くて官吏を呼ばれます。
「経口で精を受けるのはまだしもわかるが、あれらには何の意味が……?」
呟きを聞いて、見えない姿でキャスターが腹を抱えていることなど、あくまでも真剣に悩んでいるアーチャーには知る由もありませんでした。
空はきれいな茜色に染まっていました。
赤く、燃えるような斜陽が山頂に掛かります。
「では、参ります。よろしいですか」
「おう!」
主従を背に乗せた馬のセタは一気に山道を駆け下り、街道へ飛び出すと、夕陽に向かって蹄を駆りました。
あの陽が山裾に隠れるまで。
細かなことを覚えないセタンタに、時刻の目安としてアーチャーが示した指標がそれでした。斎宮の開門閉門の時刻はきっちり決まっているため、日没と同時に閉じられた門は、それきり夜明けまで開くことはありません。
人通りも途絶え、今日はもう現れまいと討ち手が油断する日暮れ。閉門寸前に滑り込もうというのです。
ふたりは正体の知れぬよう頭から襤褸を被っていましたが、わずかばかりの時間稼ぎにしかなりません。
「……御子だ!」
「セタンタ様だ…!」
さざ波のごとく広がる声は慄きのようにも鼓舞のようにも、聞こえました。
矢羽がヒュゥと空を切り裂くを合図に、方々で弓が起こされます。
「痴れ者どもが。御子と崇めておいて、矢を射掛けるかッ!」
剥いだ襤褸で矢を払い除け、セタンタは疾走する馬上に立ちました。馬蹄の音以外のすべてが風に千切れ、後方へと流れていきます。その中にあってなお、セタンタの大音声はあたりに響き渡りました。
少年の体から発されたとはとても思えません。膚が痺れるようでした。
なびく青の髪が、茜の空に映えています。
「たわけ…っ」
はっと我に返ったアーチャーは主の無鉄砲に目を剥いて、そのちいさな頭を鷲掴み、押し潰しました。
「名乗ってどうします! おとなしくしがみ付いているように言ったでしょう!」
遠慮がどうのと論っている場合ではありません。まあ、日頃からさして遠慮のない従者でしたが。
従者の逞しい胸に押され、馬のたてがみに埋もれたセタンタは恨みがましそうに後ろへ首を捩じります。
「どうせ当たらねえよ」
「何を、馬鹿なことを!」
忽然と現れ、駆け抜ける人馬に慌てて放った矢は襤褸布にすら弾かれる有様でも、ここから先は違います。標的を待ち受け、充分に引き絞られた強弓が前方から、追い抜いた後方からも襲いきます。急所たる頸、的のでかい胴を晒すなど持っての外です。
少年の気概は誇らしいものですが、楽観に過ぎます。
再度叱り付けようとしたアーチャーの前で、灼眼が煌めきました。
「あの程度の胆力で、このオレに当てられるものか」
見慣れた己ですら思わず息を飲むような、それでした。
快活でいて冷酷、鷹揚でありながら気高い。“御子”の言葉に、アーチャーは己を恥じました。主の楽観が従者に寄せる信頼ゆえと思うなど、なんという不埒な思い上がりでしょう。
「だとしても、あなたをむざむざと的にするようなことは承服しかねます」
「向こうにおまえがいたら、脳天を撃ち抜かれていたな」
「……それは、背信をお疑いですか」
「惑わず畏れず、真実崇める神すら射殺しそうな弓兵は、おまえぐらいだ」
思い上がり、ではないこともないこともない、のかもしれません。お褒めいただいているのかどうかもぎりぎりです。アーチャーはふてくされて答えます。
「主に似たのです」
「ハッ。ああ、そうだとも」
兄殺しも神殺しも似たようなものだと、少年は笑い飛ばします。
セタンタの言った通りに、矢はまともに飛ばぬか、見当違いのほうへ流れていきました。
先程の大音声に呼び起こされた射手の、御子に対するおそれゆえです。まだ少年ではないか――そのような迷いも生じたことでしょう。確と狙ったつもりでも、自ずから天へ地へと逸らしてしまうのです。
自分の体が思い通りに動かない、当たるはずの矢が当たらない。それは更なる畏怖を呼び、連鎖していきます。
あれこそ神がかりの御子よ、と。
しかしその静穏も一瞬のことでした。誰かが「馬だ!」と叫んだのです。
その叫びもまた、水面に石を投げ込むように波紋を広げました。御子を射落とせぬのなら、その足を止めればいいのです。よく見れば騎乗はみすぼらしい痩せ馬です。喘鳴しながら心臓も破れよと駆ける姿が同情を誘うことは、残念ながらなく、己を取り戻した兵により一斉に矢が射掛けられました。
それは、夕焼けに影差すほどでした。
「チィッ」
セタンタが鞍から取り上げた槍を振り回します。アーチャーが手直ししてなお鈍器と酷評した粗末な槍ですが、矢を振るい落とすには錘と棒があれば充分です。
馬の鼻面のある前方の護りをセタンタが、後方を双剣のアーチャーが担いました。
すり抜ける矢が、馬のセタの胸に、横腹に、腿に、とすりとすりと刺さっていきます。
(すまない、堪えてくれ……!)
一斉に放って“しまった”矢は、次の射までに間隙が生じます。門前を塞ぐよう居並んだ盾持ちを飛び越えれば、というところでした。
“彼”にそれほど高く、遠くへなど翔べるはずもなかったのです。
兵の突き上げた槍を受けた馬のセタはいななきを上げ、もんどり打つように人垣の只中へ倒れ込みました。
地に投げ出された主従を囲もうと、兵が一所へ向かって群がります。
「セタンタ様!」
「問題ない! 走れ!」
あとは自らの足で駆けるしかありません。遅れを取れば、弓を槍や剣に持ち替えた射手も追い付いてきます。セタが転げて薙ぎ倒してくれた盾兵の上を、跳んで駆けます。
騎手を失った馬には、もう誰も見向きはしません。阻まれる主従をよそに、塀にそって後ろ足を引きながらも門の中へ入っていくのが見えました。彼を迎え、手当てを始める白い人影も見えました。常よりセタンタを知り、愛する者たちでしょう。
助けには行けず、声も掛けられず、しかし少年が飛び込んでくればすぐに護ってやれるよう、そうして門の近くへ集まり、固唾を飲んで見守っているのです。
陽が落ちようとしていました。門が閉ざされ始めます。
「っらぁ!!」
セタンタはすでに槍を壊してしまい、敵兵から奪った得物を手にしていました。小柄な体で、身の丈を越える長槍を振り回します。囲みの薄らいだ一ヶ所にアーチャーが畳み掛け、前方に道が開けました。
「先に行け!」
アーチャーは驚愕に振り返りました。ともに、いえ、自らこそが先を駆けねばならぬセタンタが、駆ける従者とすれ違い、ようやっと抜けた後方の集団へ躍り掛からんとしていたのです。
咄嗟に剣を捨て、伸べた腕は、かろうじて少年の腰帯を掴みました。
「ッ、何す…!?」
「はき違えるな! 目的は倒すことか、おまえが逃げねばオレが逃げられんだろうッ!!」
馬のほうがよほど賢いというものです。あれほど勇ましく駆けていた彼は足手纏いとなったと知るや、一刻も早い戦線離脱だけを目指したのですから。
敵兵にとっては従者も馬と同じ、捨て置く物です。二手に別れたところで、囮にすらなりません。ですから、無謀に殿を務めようとする主にこそ、従者はそれを言います。
「おまえが先に行っていろ!」
ぶんと放り投げられたセタンタは、門の中で待つ女官たちにやわらかく受け止められました。
「アーチャー、テメェ……!!」
相変わらず主を主とも思わぬ行いです。すぐに身を起こし、従者へ牙を剥きます。
その眼前で、ゴゴンと音を立て、門が鎖されました。
「――アーチャー!!」
しばし意味がわからず呆けたあと、少年は絶叫しました。
湯だの布だのを持ち寄ってくる女たちを押し退け、奥へと引っ張ろうとするか細い腕も払い除け、門扉に縋り付きます。
「何故閉めた! まだオレの従者が外にいただろう!」
「刻限ですので……」
「貴様ら…! アーチャー!」
叩いても蹴っても、門は開きません。刻限に忠実であり堅牢であるから逃げ込めると、自分たちとともに災いを持ち込むことだけは避けねばならんと、元よりそうして立てた作戦です。
登ろうにも壁に取っ掛かりはなく、まして飛び越えられる高さではありません。
「開けろ! あいつを入れぬのならオレを出せ!」
御子の怒りに、一様に似通った白い女たちはおろおろするばかり、負傷したセタまでが主を宥めるようにぶるりと鼻を鳴らします。
ああそうか、門番を脅せばいいのだ――。放り投げられた時に武器は取り落としてしまいましたが、ここ斎宮では門番も女です。携えた大斧を振り下ろされる前に、細首を締め上げることが出来るでしょう。
セタンタが後先考えぬ思い付きを、実行に移そうとした時でした。
「はあ、やはり思い上がりだな……」
あからさまな溜め息とともに、天から影が降ってきました。
アーチャーです。宙でくいと手首を捻ると、彼の黒い愛刀が後を追うように飛んできて、褐色の手の中へ吸い込まれました。着地と同時、無粋なものがうつくしい女たちの目に触れぬよう、背の鞘に収めます。
「主ともども驚かせて申し訳ない。それと少々、壁に穴を開けてしまった」
壁に突き立てた刀を足場に、門を飛び越えたようです。しかも柄と手首とを結んでおき、回収までする周到さです。ひとつきり足場を残しておいたとて、そうそう真似の出来る者はいないでしょうが。
「従者殿。ご無事でしたか」
「ああ、あなたがたが気に病むことはない。最善を尽くしていただいた。ご厚意、感謝する」
女官の乏しい表情はとても気に病んでは見えませんでしたが、アーチャーは丁重に礼の言葉を述べています。
「彼の手当てをありがとう。世話を頼……」
ついで、無理をさせた馬の様子を気に掛けるアーチャーに、セタンタは飛び付きました。突然横腹に子供の襲撃を受けた彼は驚いて言葉を切ります。
「乱暴にして申し訳ありませんでした。お怪我は?」
と、笑いの混じって訊ねられ、硬い武装に額を擦り付けるように首を振ります。ない、というのと、そうじゃない、の両方です。優先されずに拗ねたわけではありません。
とてもとても心配したのです。かすかに聞こえる剣戟がいつ聞こえなくなるかと、気が気ではありませんでした。そのように裏技じみた手があるのなら、先に言っておくべきです。
「……あなたが血気に逸らなければ、二人とも間に合ったと思うのですが」
言わずともいいことは先に言われ、セタンタは憮然とします。しかし主が何に文句をつけようとしたのか、承知しての答えでしたので、許すしかありません。
アーチャーがそうしてくれなければ、共倒れになっていたばかりか、ここにいる非武装の女官たちまで戦闘に巻き込んでいたかもしれないのです。だから殲滅しておけばよかったのに、ではなく、その逆なのです。
「悪かった」
「いいえ。私が至らぬせいです。セタンタ様はご立派でした」
過ちを認めたセタンタを、アーチャーは膝ついて己の肩へ抱き寄せました。途端、首根っこにしがみ付かれ、苦笑して軽い体を抱え上げます。
(まだまだだな……)
と、従者が内心こぼすのは、自らの不甲斐なさです。セタンタの行いはアーチャーに“前科”があったから。門外に取り残されて後の動揺も、アーチャーが信に足りぬせいでしょう。
もっと強くあらねばと、心に誓います。
ともあれ子供扱いを嫌う少年がこの様ですので、相当に堪えたようです。従者に禁じておいて、自ら言い付けを破らせるような主には、ぞんぶんに反省していただきたいところです。
「御子様。どうぞこちらへ」
いつもこうおとなしいと楽なのにと思いながら、アーチャーは先導する女官について歩いていきました。
しかしそれでは、こうしてお仕えすることもなかったな。とも、思いながら。
*
セタンタは床畳の上に胡坐を掻き、頻りに体を揺すっていました。
――お会いになるそうです。
そう言われ、だだっ広い板の間に通されてから、かれこれ四半時ほど待たされています。もちろんぴしりと背を伸ばし微動だにせず待つことも出来ますが、早くしろという主張を込めて貧乏揺すりをしているのです。
すかさず行儀を咎めそうな男は、セタンタの傍らにはおりません。
視線を流すと、庭の左右に焚かれた篝火の一方に、陰にひそむように膝をついた白い頭が窺えます。
(頑固者め)
セタンタは供をせよと言ったのに、アーチャーは御前に上がれる身分ではないからと聞かず、ああして庭石のひとつのようになっているのです。
まあ、男子禁制のため、王族でもなければ謁見どころか庭へも招かれぬそうですので、ひどい扱いというわけではありません。むしろ破格です。雨でも降っていれば、セタンタは引き摺ってでも彼を伴ったでしょうが。
破格といえば、日没後の謁見も想定外でした。
門の刻限が示す通り、何しろ斎宮というものは、やたら決まり事の多いところです。神気と秘術の運用が基本に、その偽装が上乗せされ、外部の者には厳粛な掟なのか嫌がらせなのかも定かではありません。
(早々に追い出すつもりか、急ぎ伝えねばならん報でもあったか……)
いずれにせよ、ろくな理由ではないでしょう。ともかく明日でいいだろなどと言っていられる身の上ではなく、案内させてみましたらば、ひたすら待たされているこの現状。文句のひとつも言っていいはずです。
てっきり今宵は休んで明朝にお呼びが掛かるものと思っていましたので、働き者の従者に休めとうるさく言うことをしませんでした。
アーチャーにたらいの湯で足を濯ぎ、揉んでもらうのが捨て難かったからですが、そうしてセタンタはある程度こざっぱりして上等な衣服に着替えてもいるのに、その世話を焼いてあれこれ立ち動いていたアーチャーはまだ、旅装を解いてもいません。
彼をはやく、屋根のあるところで休ませてやりたいのです。
食糧配分を気にせず食事をさせてやりたいし、温かな湯に浸からせてやりたいし、やわらかな布団へ寝かせてやりたいのです。
そしてその“わがまま”を叶えるためには、おそらく確実に、一時泊まりの御者や随身に準拠して厩舎近くの粗末な小屋を寝床とするであろう彼を、主人と同じ対屋へ引っ張っていくという難題が待ち受けています。
実力行使も辞さない押し問答になるでしょう。良い顔をするはずのない女官たちも丸め込まなくてはなりません。
ですのでセタンタは、早く早くと体を揺すっているのでした。
その頭目たる斎姫に悪印象を懐かれては元も子もないのでは?と、アーチャーなら呆れたかもしれません。あるいは、女性の身支度には時間が掛かるものですよと諭したでしょうか。
(……あいつ、意外と女慣れしてたな…)
あのような堅物はたいがい女に対してぶっきらぼうになるか、挙動不審になるものですが、柔軟に対応していた彼の声や表情はなんだか気に食わぬ感じがしました。あとでそこらへんも問い詰めてやろうと決めます。
彼のことを考えていると、退屈だけはせずに済むようでした。
そうしてもう四半時ほども経った頃、すっと遣戸が引かれました。
戸の両側に額ずく女官の間を、しゃなりしゃなり、銀刺繍の入った白い衣を纏わせた少女がゆっくりと歩み出ます。白銀は斎の一族の象徴、衣の複雑な文様は斎姫の位を表すものだそうです。
少女が客人であるセタンタよりも一段高く設えられた床畳に腰を下ろし、深々と頭を垂れると、長い銀の髪が舞い、雪の積もるようにふわりとその肩へ降りました。
「ようこそおいでになりました。ご初陣、お慶び申し上げます」
お決まりの挨拶を告げ、再びゆっくりと頭を擡げる所作も、静謐に整った容貌も、まるでうつくしい人形のようでした。
しかし、
「なぁんだ。まだちっちゃい子犬さんじゃない。ぜんぜん戦士っぽくなーい」
ぽふんと座り直した少女は、その印象をがらりと変えました。白皙を反らし朱唇に弧を描き、紅玉象嵌じみた瞳を眇めて――非常にわかりやすく、これから意地悪してやるぞという顔付きをします。
ああ、そうだろうそうだろう。頷くセタンタも対抗すべく、半眼に嗤笑を浮かべます。
「相変わらずの性格ブスで嬉しいぜ。ちったあ出るとこ出たのか、おチビさん」
前回会ったのはセタンタ五歳、前々回は三歳を祝う儀式の際でしたが、どちらの時も大人の前では澄ましているこの少女に、おチビおチビと小突き回されていました。
男女差でしょうか、今や己のほうが背丈が伸びて見えます。満を持しての仕返しでした。
「いっやらしいわねー! 子供の振りして皆にべたべたしてたの、知ってるんだからー!」
少女は肩を怒らせ、淑やかな斎姫にあるまじき金切り声を上げます。
「振りってなあ。子供だったぜ、あん時は。まだ」
「――殺すわ」
せめて身内に手を出したらって付けてくれねえか。と思う間もなく、少女が立ち上がり、セタンタも立ち上がります。やはり段差のある床畳を足してなお、セタンタのほうが目線が高くなっていました。
少しばかり、勝ち気な少女が怯んだように見えました。もちろんセタンタにはこの年齢になって、武人でもない少女と取っ組み合いをするつもりなどありませんでしたが、
「イリヤスフィール」
たおやかに、少女を窘める声が掛かりました。
もしやすると、セタンタは物理の及ばぬところで叩きのめされていたのかもしれません。
「お母様」
「めっ、よ。先に良くないことを言ったのは、あなたでしょう」
ごめんなさいね、とセタンタへ困ったような微笑を向けたのは、先代の斎姫アイリスフィールでした。類稀な才を持って生まれた娘へ早くに位を譲り、今は補佐をしているのだと聞いています。
母というより姉のように若く、その豊満な胸に抱えられた在りし日の感触を、セタンタは今もこの手に思い出せます。
「お久し振りです、先代様」
「はい。御子様もお元気で何よりです」
微笑に少しの憂いを覗かせるのは、亡くした兄御子のことでしょう。対外的には急な病死とされているその真実を、知ってはいても慰めることは当人の心情を思えばこそ憚られます。
この宮で生まれ落ち、祈祷の甲斐なく産褥で母親をなくしたセタンタにとって、母とはこういうものかと思える女性でした。
内心はどうあれ、居住まいを正した少年の視線がまず母の胸にひたと当てられたことが、少女の癇に障らぬはずもありません。
「用向きはわかっているわ。あなたに私の加護なんて必要ない。馬も連れていっていいから、あとはお母様と相談して」
宮の主人として備品持ち出しの許可を与えると、ぷいと外方を向いてしまいました。
「ありがとう。助かる」
不承不承ですが、職務に関わるところでは意地悪をしない少女です。セタンタとすぐに喧嘩のようになる口の悪さも、大人に囲まれて暮らしている彼女なりの歓迎のしるしなのだと、今ではわかっています。
いじめたのに屈託なく笑みを寄越し、さっそく母と話し始める少年をちらと見て、イリヤスフィールはまた外方を向きます。
(だって、神託だもの)
そうなるとわかっているから、無駄なことはしないだけ。
禍を避ける助言をすれば、等価以上の幸を摘んでしまうから、何も言わないだけ。
助けてなんかいない。ちっともやさしくなんて、ないんだから。
少女は思考を振り払い、庭のほうへ向けた瞳を凝らします。そこには親切めかして詮議の場へ招き入れた男がひとり、静かに跪いておりました。
セタンタが郷から連れてきた従者だそうです。仕えてまだ日も浅いというのに少年はたいそう懐いている様子で、「あいつの意見も聞かなければ」「明日は連れて上がってもいいか」「ていうか、オレの部屋に泊めたい」と先代に打診しています。
門前でも危ういところを救われたらしく、ぶんぶん振られる尻尾が見えるようです。
(なんなの、あれ。ものすごくきな臭いんだけど……)
少女が明朝を待たなかった、待てなかったのは、門番の報告を聞いたためでした。
結界の揺らぎについて質してみると、その従者は斎姫の神力で護られている外壁に武器を突き立て、あろうことか、軽々その上を飛び越えたと言うのです。確認した壁に痕跡が残っていなければ、一笑に付していたところです。
男をきな臭いと思った理由のひとつが、前歴が優秀な術師の――少年を仇とする兄御子の配下であったことですが、といっても下級の一弓兵、こうして目の当たりにしても術師には見えませんし、力もとんと感じません。
体術に傾倒して鍛錬をおろそかにしていたとはいえ、潜在能力は抜群の御子を、男の身で魅了に掛けるような芸当はとても出来ないでしょう。
そして少年の政敵に推挙されたわりに、まっとうに従者を務め上げています。ここまでお膳立てしてやっても、少年の後援になろうという斎の母娘を害するつもりはないようです。
変な男です。
どう考えてもきな臭いのに、これではただの忠臣です。
お気に入りの従者の危機に瀕して、少年が火事場の馬鹿力でも発揮したのでしょうか。
腑に落ちませんが、元より征西大将など名ばかり、光の射さぬ道行きに何があろうとすべて少年が自身で乗り越えねばならぬ試練です。自衛の名目でもなければ、手出し口出しはなりません。
私たちは関わらない。そう決めていながら、少女の赤い双眸は、異民族らしいその男を見つめ続けました。
警戒心とは別のところで、何故か目が離せなかったのです。
(白い、髪……)
篝火の当たって仄かに赤みがかったそれが、本当は真っ白い髪なのだと気が付きました。毎日見ている自分の髪と似て、けれどこんなに冷たくない、綿のような白が脳裏に浮かびます。
――私とおそろいが嫌なの!?
むくれたら、斑で恥ずかしいのだと言いました。
――たくさん白粉をはたきましょう!
もうもうと粉が舞い上がって、無駄遣いを叱られました。
幼い日の、短くはないけれど長くもない時をともに過ごした“あの子”は今、どこでどうしているでしょう。
数瞬の回顧を己に許し、身を翻そうとした少女の、引き結ばれていた唇がふっと解けます。
(……黒い、刃…?)
言葉の拙い門番はそう言っていなかったでしょうか。きっと特別な鉄なのだ、イリヤは悪くないと続けられて、下手な慰めかと流してしまいましたが。力によらぬのなら、壁を穿ったのはその剣です。
破らず切り裂かず、小さな雫が大きな塊に溶けるように結界をすり抜けて。
――ねえこれ、お父様とお母様みたいね。
はしゃいで指を差すと、うん、ふたつでひとつなんだってとやわらかく笑いました。
どこにいても引き合うのだというその一振りを、蔵から盗んで“あの子”に押し付けた時、こぼれそうに見開かれた瞳は、まるで清く澄んだ冬の日の
「………ぅ…?」
小さな小さな呟きが、聞こえたはずもありません。ですが、微動だにしなかった男が、わずか肩を揺らした気がしました。
「―――シロウ!!」
あの耳の殻、あの額の丸み。矢も盾も堪らず、庭に飛び下りました。
引き摺ってしまう打掛を脱ぎ捨て、もう何年も地を歩いていなかった白い素足が泥に塗れ、石粒が刺さるのも構わずに、懸命に走ります。
板敷きの縁側から篝火まで、短い距離を懸命に駆け抜けて、男の頭に抱き付きました。
びっくりして顔を上げた、その瞳はやはり、いっとうきれいなお月様のようです。指先で撫でさすった鼻も眉も、覚えているままのかたちです。
「シロウ、だぁ…」
イリヤは息の追い付かぬ胸を喘がせながら、へにゃりと相好を崩します。
無駄じゃないもの。無駄なんかじゃ、ないもの。涙を堪える少女の頭を撫でてくれたその手と、思わずのように支えてくれたそれは同じです。肌の色は変わっても、逞しさは変わっても同じ、不器用であたたかい、男の子の手のひらです。
「……姫様、御御足が」
「だめ! シロウは様とか言わないの! 約束したでしょう!?」
ばちん!と両手で頬を挟むと、何度か目を瞬いた彼は仕方のなさそうに口元を緩めました。
「どうしてわかったんだ、イリヤ。オレはこんなに変わってしまったのに」
「おねえちゃんだもん! わかるもん!」
そしてわあわあと泣き出した少女を、やさしく抱き締めたのでした。
「あらあら、まあまあ」
困ったように頬に手を当てる彼女は、その実、少しも困ったようには見えません。
少女の悲鳴じみた声に驚いて、縁側へ走り出たまでは一緒でしたが、セタンタだけがおいてけぼりです。彼らが知り合いであったなど寝耳に水です。
アーチャーは他国生まれの異民族であり、イリヤスフィールは生き神とも崇められる巫女です。王族でもない位もない男子には、いえ、女子であっても遠目に見ることすら叶わぬ天上の存在なのです。
今宵だとてセタンタという賓客があってこそ、ただひとりの従者である彼は部屋に入れずとも中庭へ跪き控えていることが許されたのですから。
「あ。驚いたかしら、イリヤがあんな風で」
ようやく、隣で茫然としている少年のことを思い出してくれたようです。
「とても」
それもまた驚きでした。大人の前では猫をかぶっているというより動く感情のないかのような気位の高い少女が、跪く男に抱き付いて、ただの子供のように泣き喚くなんて。
「実はね。あの子たち、姉弟なの」
「ああ、きょうだ……は?」
どう考えてもおかしいことを言って、アイリスフィールは懐かしそうに目を細めて“子供たち”のじゃれ合いを見つめています。
彼らの外見も身分も年齢も、何一つ納得のいくものではありませんでしたが、その光景だけは理由を必要としませんでした。アイリスフィールは歌うように告げます。
大切な宝箱を、そっと開くように。
「とても可愛い小さな男の子がね、旦那様の外套の中に隠れていたの。それから十二の歳まで、あの子はここで育ったのよ」
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斎にルビを振るならアインツベルン
ミスリードっぽくなってしまったかもしれない師匠はきゃっすが覗いてた側にいる、はず…