※一部モブによる穹さんへのDV表現あります。
hypnagogia
「年齢確認にご協力下さい。」
午前零時過ぎ。深夜のコンビニで、店員の声だけが異様に響く。
顔の綺麗な店員であった。何故、これ程優れた容姿の男が、深夜のコンビニでレジ打ちなどしているのだろうか。負け組を嘲る為だろうか。見慣れぬ名が刻まれた名札を一瞥し、穹は心中で皮肉った。
「身分証明の提示をお願いします。」
黙る穹に、店員が追い討ちをかける。否、店員に悪意はない。事実、並べられた商品は、穹の年齢で購入出来る筈のない物だ。店員は唯己の職務を全うしているに過ぎない。叱責されている。その様に思えるのは、穹に後ろめたさがある為に他ならない。
震える指先を叱咤し、穹はポケットに手を入れる。取り出したのは、店員が求めていた物。顔写真のない物を選んだのは意図的だ。然し乍。
それは本当に自分の物かと、店員に指摘をされ、穹は押し黙るしかなかった。穹の差し出した証は、確かに穹の物ではない。穹に買い出しを言い付けた男の物だ。
無論、店員にその入手経路が分かる筈もない。抑、未成年がこの様な深夜に来店し、年齢確認が必要な物を買い求めた時点で、お巡りさんのお世話になるのではないか。
奥で話を聞こう。落ち着いた声音で促され、穹は堪らず逃げ出した。自動ドアのベルが、穹に代わって退出を言い残す。店員が何かを言いかけた様だが、穹は立ち止まる事なく夜の街を駆け抜けた。
築年数はどれ程だろうという草臥れたアパート。戻る部屋が二階だったならば、周りに配慮し乍階段を上らなければならなかっただろう。
並ぶ色褪せた木製ドアの一つを、音を立てぬ様穹は開けた。閉める際にも、細心の注意を払う。男が眠っていてくれれば、不幸中の幸い。もし起きていたならば。穹は思考を停止させた。考えた所で意味はない。
遅かったな。背を向けた儘、男は告げる。この儘振り返らずにいてくれたならば。どれ程良かったか。望んだ所で無意味だ。
穹へと向けられた男の眼は、穹が手ぶらである事を確りと認識しただろう。瞬く間に寄せられる眉間の皺。
靴を脱いで部屋に上がれ。その様に命令をされ、穹は憂鬱な気持ちの儘それに従う。
座れと言われれば、穹は男の近くに腰を下ろした。尚、以前離れた場所に座った所、酷く叱られた事がある。穹はその経験から、男から数歩の位置を選んだのだ。無論、これで男の機嫌が良くなるなどという事はない。
容赦のない平手が穹の頬を打つ。その衝撃は、穹の身体が後方に倒れる程であった。
倒れた穹の上に、男が覆い被さる。裂帛の音。殴る代わり、男の手は穹の服を容易く裂いた。
「やめっ……!」
制止の為に発しようとした穹の声は、押さえ付ける男の掌の内に虚しく消える。
胸を、太股を、撫でる行為は恋人同士の戯れ。それは一般的な解釈に過ぎない。行き場のない穹を拾ってくれたこの男は、一応は恋人という事になっている。然し、それは言葉だけを借りたに過ぎず。謂わば、穹は隷属という立場だった。
声が枯れ、涙も枯れ、全身が痣と白濁に穢れようが、男が満足する迄穹が解放される事はない。男の背に腕を回す代わり、穹は畳に爪を立てた。
窓から差し込む淡い光を感じ、穹の意識は浮上した。目を覚ますには少し許り早い朝焼けの空。慈しむ様な光に抱かれ乍、穹は疲弊した身体を引き摺る様に起こす。
未だ隣の男は眠っている。穹は男を起こさぬ様、その脇を抜け出した。
本来ならば、頭からシャワーの水でも被りたい。然し、穹にその様な行為は、許可されていない。唯一許されているトイレに逃げ込んだ。
便座の縁にしがみ付き、穹は胃の内容物を吐き出す。濁流みたく濁った心が広がった。
何処かへ行こうか。
行き場のない願いと身体は、虚しく圧し殺した泣き声になった。
***
東の空より現れし茜は、ゆっくりと街に朝を告げる。響き渡るのは、鳥の囀り許り。大変静かな朝であった。それは休日であるという事も一因だろう。
勤め先を出た丹恒は、一人自宅への道を歩く。交通機関を頼る程の距離でもないが、早朝という時間故に眠気を切り離す事は出来ない。
この様な苦労などせずとも。丹恒を知る者は、皆口を揃えて宣う。それは丹恒の一族が資産家であり、端から見れば御坊っちゃまという立場にある為だ。然し乍、丹恒は随分と前に父親と激しい言い争いの後、絶縁状態にある。生きるに困らぬだけの資金を与えられたのは、周りの説得による情けに過ぎない。無論、その金額は世間の常識から外れており、本来ならば深夜のバイトなど不要だ。あくまでも社会勉強の一つとして、丹恒は捉えていた。
バイト先から暫し歩いた所、おおよそ丹恒の住むマンションとの中間点程の場所に公園がある。日中は幼子も走り回っているだろうが、幾ら休日と言えど今は甲高い声もない。故にその人影はよく目立った。
揺らされぬブランコには、一人の男。遠目でも、丹恒は直ぐに気が付いた。寂し気に俯く彼は、深夜一人でコンビニに現れた少年だ。
何故、あの様な深夜に現れたのか。何故、他人の身分証明を持っていたのか。非行少年ならばいざ知らず。彼がその様な人物に、丹恒は思えなかった。
彼という存在に引き寄せられるが如く、丹恒は公園へと足を踏み入れる。静かな公園に、ざくりざくりと土を踏み鳴らす音が響く。
丹恒が目の前で立ち止まった時、少年はその顔を上げた。銀灰色の髪から、ぽつりぽつり雫が滴り落ちる。雨上がりでもない。彼は意図的に頭から水を被ったのだろう。そして、それを拭いもせずにいるという事だ。証拠に彼の服も随分と水分を含んでいた。濡れた衣服の間から見え隠れするのは、鬱血の痕。古い物の上に次の物を、幾重にも刻まれたのだろう。
厄介事に関わらぬが吉。多くの者が異口同音するに違いない。然れど、丹恒は彼に手を差し伸べた。
「一緒に来るか。」
驚いた様に見開かれる金色の眼。彼の反応は正常だろう。見ず知らずの人間に、その様な事を言われたのだ。当然だ。
「何処かへ行きたかった。違うか。」
「俺は……何処かへ行きたかった。きっと帰る場所がないから。俺、誰なのかな。」
少年の言う事は支離滅裂だった。然し、丹恒は彼を否定出来なかった。家という柵から逃げ出した丹恒も、彼と同じ迷子なのだろう。
衝動的に丹恒は彼の手を引いていた。
「……俺。」
「今は、何も言わなくて良い。」
何も話したくない時は、決して口を開く事はない。それは他者に対しても同じ。強要はせず、唯その両腕で相手を受け止める。彼はその様な人物だった、と丹恒は記憶している。さて、彼とは誰か。丹恒にも分からない。然し、何故だろう。丹恒は今手を引く人物に、その様に接したいと思ったのだ。
曇天も何時か消える様に、季節は巡り。
「おかえり!」
腹の虫を誘う様な芳しい香りと共に、エプロン姿の新妻が迎えてくれる。未だ着慣れぬスーツに息苦しさはあるものの、彼の笑顔を前にすれば丹恒の顔も思わず綻んだ。
「ただいま。」
「丹恒。今夜は大宇宙チャーハンだ。」
「またアレを作ったのか?」
「大丈夫!今回はしっかり量を考えて作ったから。」
満天の星空の様に、丹恒の愛する彼は笑った。
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