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ドラァグクイーンなランサーとリーマンアーチャーの話【完結】/Novel by たね

ドラァグクイーンなランサーとリーマンアーチャーの話【完結】

40,620 character(s)1 hr 21 mins

ドラァグクイーンなポールダンサーのランサーに恋をしたリーマンアーチャーの現パロ。ランサーが女装してますのでご注意ください。設定の都合上序盤がひたすらに弓槍くさいですが槍弓です、ランサーを好きすぎるアーチャーの槍弓です。
※このページにて続きを少しずつ書き足して完結予定です。文字数増えていたら更新してます。
※10/3 完結しました。お付き合い下さいまして本当に有難うございました。

※スパコミで当スペースにお立ち寄り下さいました皆様、本当にありがとうございました。ありがたい事にすべての本がお嫁に行かせて頂いた事と完売した後も本の事をお尋ね下さった方が居たと売り子さんからお聞きしましてとても恐縮しております。この場を借りてではありますが心よりお礼申し上げます。本当に、本当にありがとうございました。
とても嬉しかったです…!

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愛されているという驚きほど、神秘的な驚きはない。
それは人間の肩に置かれた神の指だ。
              (出典チャールズ・モーガン)




「エミヤ、お前この後暇か?」

 就業時間を三時間程過ぎ、エミヤがパソコンの電源を落として凝り固まった肩を鳴らした時に背後から声が掛けられた。深みのある声は、今年入社したエミヤの指導役として面倒を見てくれているフェルグス・マックロイのものだ。

「ええ、今夜は来客の予定もありませんし、暇と言えば暇ですが……?」
「おお? 実直真面目、お堅いと評判のお前に良い仲が居るなど狙っている女共が泣き叫ぶな。いやなに、花の金曜に残業してくれた新入社員に酒でも驕ろうかと思ったんだが……どうやら要らん世話だったか?」

 厳つい顔ににやにやとした笑いを乗せたフェルグスに覗き込まれ、苦笑しながら首を振る。

「何ですかそれは。違いますよ、偶に幼馴染みが夕食を食べに来るだけで」
「そうかそうか、それならば遠慮は要らんな! 遠慮なく着いて来い、若造!」

 最後まで言い切る前にフェルグスに鞄を持った手を握られ、長時間座り続けた椅子から勢い良く立たされたエミヤは初めての給料で買ったレザー製のブリーフケースを慌てて引っ手繰る。持ち手に付けた赤い輝石が乱暴な扱いを咎めるように、きらりと光った。
 視界の端を霞めるキーホルダーに贈り主の幼馴染みの少女の顔が過るが、明日は弟の弓道の試合が朝からあった筈で恐らく来ないだろうと当たりを付ける。

(……桜と応援弁当を作ると張り切っていたしな)

 今頃愚弟の為に弁当へと詰める献立を二人で考えている事だろう。少しだけ、いや大分腹立たしい事この上ないが、彼女達が嬉しそうに話していた顔を思えば横槍も入れられない。それに、大学を卒業してまだ一年と経っていない新社会人の給料では、仕送りや貯金をしていると酒代も馬鹿には出来ないのだ。それを、この先輩は奢ってくれるのだと言う。
 元々酒に強い訳ではないが、晩酌に呑む程度には好きな方だ。折しも先日買い置きしていた酒が無くなり、そろそろ一杯飲みたいと思っていたところでもある。
 少々強引なきらいはあるが、フェルグスは気の良い男で話も面白い。若干の人見知りがあるエミヤには珍しく、話していても気後れを感じない男で断る理由はなかった。
 なかった、のだが。
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       ※※※※
 甘い声がホップの弾けるエールを運んでくる。

「お待ちどう様、へレス二つね!」
「ああ、ありがとう」
「……ここは」

 お得気分に浮わつき掛けた気分は一点、重力が圧し掛かるようにエミヤの皮靴をべたりと床に付けていた。
 薄暗い店内を照らす照明は眩しく点滅を繰り返し、けたたましい音楽と供に客の高揚を煽る。流れているのは、ニュースとスポーツ番組程度しか視ないエミヤでも知っている、ビルボードで一位に輝いた嘗ての名曲ばかりだ。

「なにって、旨い酒が飲める所だが?」
「し、しかしマックロイ先輩、ここはその……」
「新卒にはちと早かったか?」

 言い淀んだエミヤの横で、骨ばった指でグラスを傾けたフェルグスはにやりと笑った。
その前ではバーテンを囲うように円に広がった大理石のテーブルから天井に向かってポールが伸び、肌を覆う生地が圧倒的に少ないドレスを纏う肢体が絡み付いている。ホールを囲うように四方に取り付けられたスピーカーから鳴り響く音に合わせ、テーブルの上で数人の華やかな女達が真鍮製のポールに沿い踊る光景はエミヤにとっては酷く刺激が強く、咄嗟に眼を逸らした。
酔いだけではない熱が頬に集まってくる。

「そ、んな事、は……」

 図星を誤魔化すようにエールを煽ると、
「はははっ、まあ何事も人生経験だエミヤ。しかしその反応……さてはお前さん、童貞だな?」

 大きな掌で背中越しに図星を叩かれてしまう。

「――っぶほっ?! な、なんですかいきなりゲホッ」
「うお? ああ、すまん。大丈夫か」

 噎せたエールが気管に入り激しく咳き込めば、備え付けの紙ナプキンを差し出された。汚れた口元や拭いているとフェルグスが「悪い悪い」と言い、カウンター内に居る店員へと追加を頼んでくれる。
注文をして二分も経たない内に、0・5リットルのグラスへ並々と注がれたエールが二人の前に置かれた。

「いや、お前さん堅物ではあるが中々派手な外見しているだろう? 少々癖のある性格だが根は実直素直、加えて体格も姿勢も良い。人並み以上に経験が在ると踏んでたんだが……」
「マックロイ先輩……っ」

 違ったようだと声高に笑うフェルグスに、来るべきではなかったかといよいよ頭痛がしてきたエミヤの視界がふっと暗くなる。
先程まで色彩を変えて店内を湧かせていた照明が落とされ、同時に音楽も次第にボリュームを絞られていく。それはやがて無音になり、テーブルの上を所狭しと踊っていた女性達の姿も暗闇に紛れ、何時の間にか消えてしまっていた。
 ざわめいていた客席さえもが静まり返っている。
闇に慣れる事を覚えた、メラニン色素の薄いエミヤの榛色の瞳にはテーブルへと視線を送り続ける何十人もの客が映り、それはどこか、期待する様な沈黙を伴っている気がした。
そわそわとした落ち着かない空気、とでも言えば良いのだろうか。

「……? 停電……ではないですよね? マックロイせんぱ」
「しっ、本番が始まるぞエミヤ」
「は?」

不審がるエミヤの声を遮りフェルグスが小さな声でそう言った瞬間、天井の真ん中に吊るされていた大きなシャンデリアが光を灯し、飴色の穏やかな光が狭くないホールを照らしている。先程とはジャンルが違うヴァイオリンの音色が静まり返ったホールへと反響した。
ほんの少しの間で音質さえもが違う。
そう思ってエミヤが周りを見渡せば、つい少し前にフェルグスへビールを手渡した店員がカウンターの奥でヴァイオリンを弾き鳴らしていた。
そして、その店員の。ブルネットの髪を緩く巻いた美しいバーテンダーの背後からカツカツと、硬質なものを叩くような音がテーブルの端を歩いてくる。きらきら輝くシャンデリアの下、橙色の世界へと暗闇が揺らいだ。
磨かれた大理石の上を銀の爪先が臆する事なく進み、硬質な音はピンヒールの鋭い踵の音色だと知れる。
ゆっくりと、澱みなく進む靴音はやがてエミヤ達の前でピタリと止まった。
光源が遮られ、薄い闇が落ちる。
エミヤがヴァイオリン弾きのバーテンダーから眼を離し、影を落とすその先に視線を向ければ驚きに息が詰まった。

「――っ」

光を受けて煌く銀のポールの前に、眼を見張る程に美しい女が佇んでいたのだ。
エミヤの真っ白な、老人と見間違えられるような白髪とは違う、夏の空のように青い鮮やかな長い髪を赤い薔薇で結い上げ晒された首筋の白さのコントラストに眼が奪われてしまう。
目にも鮮やかな髪色より少しだけ濃い藍色の、両サイドに深めのスリットが入ったマーメイドドレスは腰の位置の高さを強調し、首元を彩るブラックレースのチョーカーから同色のチェーンと泪の形にカットされたブラックオ二キスがデコルテの美しさを引き立てている。けれど、何よりも。豪奢なドレスやアクセサリーよりも髪を飾る薔薇の美しさよりも――それらを身に纏い少しも掠れないその人自身の美しさに、エミヤの眼は吸い込まれるように強く奪われた。
ヒールを抜いても恐らくエミヤと同じ位に背が高く、鍛えている事が窺える身体はそこらの女性より厚い。
けれどそんな事は彼女の魅力を何一つも損なわない。
柘榴の赤い実を嵌めこんだような瞳の物憂げな目元に惹かれた、青を基調としたアイメイクは色合いに反して決して下品にはならず、けれど危げな色気を出している。目尻に続く睫毛には何色もの小さな羽が付けられており、女が瞬きを繰り返す度に羽ばたいていた。
理想的な輪郭に収まった眼鼻立ちは、薄い闇を想定して強いメイクを施されているだろうにただ美しくて。

「……綺麗、だ」

 思わず口を突いて出た言葉にハッとし、慌てて口を押さえた。が、茫然と出た呟きは女の耳に届いたようで、カツカツとヒールを鳴らしてエミヤの正面へくると、薔薇の口付けを受けたように赤く薄い唇を見せ付けるように艶然と笑った。
「――っ」

 その瞬間、どくりと。
エミヤの心臓は大きく跳ねて。
元来の肌色の所為で余り目立たない筈の頬は熟れた林檎の皮のように、一層に赤く染まってしまう。エミヤの反応に気を良くしたのか、女はエミヤの前のポールを背に「ここに決めた」と、意外にも低目の声で後ろに控えているヴァイオリン弾きへと首だけを廻して告げた。

「エミヤ、お前ラッキーだな! 初見でこいつのダンスを眼の前で見れるとは!」
「は、え?!」

 フェルグスはそう愉快そうに笑うが、エミヤには何の事かが解らない。解るのは、眼の前の人に自分の心臓がどくどくと早い鼓動を繰り返し続けている事だけだ。
 瞬きすら忘れて青いドレスの女に視線が奪われる。
 エミヤがごくりと、乾く喉を潤すように生唾を飲み込んだ瞬間――女はカツ、と大きく足を踏み出し。
エミヤの眼をひたりと見据え、やはり低目の、けれどよく通る声でホールに響くように言い放った。

「――その心臓、貰い受ける!」
「ランサーっ!」
「きゃぁぁあああランサーさんんんん!」
「うお……?!」

 青いドレスの女が物騒な言葉を言い終わった途端に、静まりかえっていたホールに悲鳴にも似た歓喜の声が満ちる。何十何百、もしかしたら何百の声が。
「な、何なんだ?!一体なにが……」
「言っただろう? さっきまでのダンサーは前座。こっからが、『ここ』の本番だ」

 事態を飲み込めず、戸惑い困惑するエミヤにフェルグスが身を寄せて耳打ちした。
『本番』――確かに先程フェルグスはそう言っていたが、成る程、確かにこのカリスマ性は主役そのものなのだろう。散漫だった客の視線がテーブルへ一心に注がれているのが解る。
その熱い目線の先には、たった一人しか居ない。

「さっきまでのダンサー達が甘い花の蜜だとしたら、このランサーってのは毒のある蝶だ。うっかり燐粉吸い込んで……囚われてしまうなよ、エミヤ」

 フェルグスの声が外耳道を通って鼓膜へと渡るが、その言葉の意味を理解する前に鈍く光るポールへと視線が縫い付けられてしまう。
絡み付くのは、銀糸で編まれたレースグローブから覗く指先と青いドレスを纏った肢体で。
眼が視線が瞬きすらも許されず、視界の全てが奪われる。ポールを愛撫するように身体全身でヴァイオリンの音色の旋律を追う『ランサー』の姿は、先程までそこで踊っていた女達とはまるで別物だった。クラシカルな衣装と音楽の違い、照明の違い云々ではなく、根本的に何かが違っているのだ。
 質が違う――とでも良いのだろうか。
 銀色のハイヒールがスポットライトを浴びる程に高く上げられ、スリットの入った太腿ギリギリまで青いドレスが捲り上げられると、男だけではなく女達さえもこぞってテーブルへと乗り出しては生唾を飲み込む音が聴こえてしまう程に囚われている。
ランサーはそんな客達を嘲笑うように唇だけで笑みを形取り、ポールを両腕で掴みむと体重を感じさせない動きでふわりとテーブルから浮き上がった。そのまま天井へと身体を反転させ、黒の薄いストッキングに包まれた足を見せ付けるようにポールへと絡ませていく。
真鍮の棒を軸に自在に動くランサーの背中にはまるで羽が生えているようで、エミヤの口からぽつりと言葉が漏れてしまう。

「翼だ……」

 勿論そんな事が有り得はしない事位解っている。だが、それ程までに軽やかに華麗に自由に、一本のポールだけを使って橙色の世界を縦横無尽に舞い踊るその姿には、剥き出しの肩甲骨から視えない翼が、けれど確実に羽ばたきをエミヤに魅せていた。いや、エミヤだけではなく、――今このホールに居る全ての人間の視線を巻き込んで虜にし、青いドレスを鳥の羽根のように蝶の羽のように翻すランサーは。
比喩でもなく美しい夜の女王だった。
 見下げる表情は彼女をこんな場所で在るにも関わらず高潔に魅せ、客の興奮を音ではなく視線で煽る。
上体を逸らし、柘榴の眼を細めてランサーが笑った。
 見ろ、見ろ、欲望を孕んで自分を見ろとでも耳元で囁くように、赤い唇に笑みを乗せたまま、丁寧に視線をエミヤにも運ぶ。その壮絶な程に色香を孕んだ目尻の妖艶さにごくり、と。自覚のないまま喉が鳴ってしまう。
それは隣のフェルグスも同じようで、食い入るようにランサーを見詰めていた。
熱を孕んだ眼で君臨する女王を崇拝するように。
会社でエミヤを指導する、面倒見みの良いやり手の営業マンの顔はもう何処にも無い。在るのは、ただ盲信するようにランサーに熱い視線を送る男の姿だ。雄の性が嫌がおうにも面前へと引き摺りだされている。
そしてエミヤも。
 恋だの愛だの、誰が綺麗で誰が可愛くて誰が好ましいなど思った事がなかったエミヤは、今まで基本的に人に興味を持たず生きて来た。幼少時から、学生時代を経ても心を開ける人間は片手程も居ないままだ。両親を早くに亡くして腹違いの弟と供に孤児院で育った所為もあり、持てなかったと言っても良いかもしれない。
けれど――けれど。
 どくどくと、全力疾走でもしたかのように心臓が戦慄いて鼓動を打ち、頭に血が上る。角膜を通して水晶体へ、硝子体へと送られるランサーの姿が今まで視て来たどんな人よりも綺麗で。
 ――綺麗、で。
 ホールを満ち尽した弦の音が緩やかにクライマックスへと鳴り響き、それに合わせてランサーの動きも大胆になっていく。青いドレスから覗く白い肌に汗が光り、それすらもただ彼女の美しさを引き立てるアクセサリーのようで、フェルグスの言葉が鼓膜の奥から耳朶を食む。

『うっかり燐分吸い込んで……囚われたりするなよ』

 光源が押さえられたシャンデリアの、淡い光の中できらきらと輝くランサーの肌に浮いた汗は、まるで蝶が持つ発香燐のようだった。翅を彩るだけでは無く、雄が雌を惹き寄せる為の燐粉へと錯覚させる。早くなる弦の音とエミヤの心臓の音が追い掛けて追い着いてしまう。
どくどくと。
エールのせいだけでは無い酔いに頬が紅潮したまま、意識は眼の前にだけ連れ去られて。

「……ランサー、さん」
 興奮に乾いた唇からは覚えたばかりの名前が零れる。

 時間にしては五分にも満たない程のパフォーマンスはエミヤの全神経を奪ったまま、ヴァイオリンの音とシャンデリアの消灯と供に終わりを告げた。
そして――フェルグスの忠告も空しくランサーの発香燐を胸元へ大きく吸い込んだエミヤは、足繁く『彼女』の居る店へ通う事になったのである。




          ※※※※
毎週金曜日の夜。残業はしたりしなかったり。
偶に幼馴染みの少女が寮生活の弟と供に現われる夜は在れど、特にやりたい事はなく、ただ疲れた身体を引き摺り掃除と洗濯と趣味の料理だけ何時もより丁寧に作っては眠りへ付いていた夜は一転し、エミヤは逸る胸を押さえて今日も今日とて二十二時きっかりに店のドアを開いた。
 重いドアを開けた瞬間、音と光が洪水のようにエミヤを迎え入れる。初めてエミヤが訪れた時から何も変わらず、腹の底へ響くような重低音と疲れ眼には少し億劫な、色とりどりのスポットライトがテーブルの上で挑発的に踊るダンサー達を照らしていた。
そしてその奥の、テーブルを囲うように楕円形に作られたカウンターからひょっこりと眼鏡を掛けたバーテンダーが顔覗かせる。エミヤを視て気安い笑みを口元に乗せるのは、エミヤへ一番初めに声を掛けてくれた店員だ。

「いらっしゃいエミヤ。……ってあれ? 今日はフェルグスの奴一緒じゃないのかい?」
「こんばんは、ダヴィンチ女史。その、マックロイ先輩は今日彼女とデートで」
「あ、そうなの。やるねぇあの色男……。んー、だとしたらエミヤ、一人なら私の前においで。何時もの所は君だけだと少々頂けない」

 心当たりが在るのかダヴンチはにやりと笑い、それから何時もの席に座ろうとするエミヤを自分が立つテーブルの前へと手招きした。そこはエミヤが何時も座っている、楕円形のテーブル席の真ん中辺りでは無く、従業員が先程から忙しなく出入りしているバックヤードの出入り口に近い末席だった。
この店は基本的にスタンドバーのスタイルを取っており、ホールの真ん中に在る楕円形の大きなテーブルを取り囲むように高いテーブルが四方八方へと設置されている。そして真ん中にはまるで檻のように真鍮の棒が高い天井へと伸び、その棒には甘い笑みを浮かべた露出の高い女性達が今日も肢体を絡ませて踊っている。
 所謂ポールダンスと呼ばれるものだ。

「だが、ここの席ではあの人がよく見えないのでは……?」

 エミヤが片手を越える程に通い詰めて解ったのは、ランサーは踊る場所を決めてはいないが、基本的にはテーブルの中央で踊る事が多い事。そして――エミヤと同様に、ランサー目当ての客が殆んどを占めている事だ。
時刻はそろそろランサーのステージが始まる時間で、客達は今か今かとバックヤードへ続くテーブルの暗い先を見詰めている。

「まあね。でもここに居た方がエミヤの為だよー? どうしてもって言うなら何時もの定位置、止めはしないけどさ」

 少し含んだ言い方にエミヤは首を傾げた。
けれど、出来る事ならランサーの姿を近くで観たい。ダヴィンチが示す席は奥まっていて、ランサーの姿を見続けることは位置的にも難しい気がした。

「……? ええと、何時もの席で視ても良いだろうか?」
「良いけど、大人の忠告は聞くもんだぜエミヤ。似たような忠告を、きっとフェルグスにもされているとは思うけどね?」
「忠告など……私だって立派な大人だ」

 口を尖らせて言えばダヴィンチは苦笑し、「ピルスで良かったかな?」そう言って、テーブル内に設置されているビールサーバーへグラスをセットする。
「ああ。それと、ミックスナッツを」
 ダヴィンチがエールの準備をしている間にエミヤはいそいそと何時もの定位置へと向かった。ダンサーに視入る人混みを掻き分け、初めてダヴィンチと付いたテーブルの前へと身体を滑り込ませる。
最初はただただ人の波に圧倒されていたが、回数を重ねた今は何とか位置を確保出来るまでにはなった。
週末と言う事も勿論あるのだろうが、混雑した店内はこの店の人気の高さを物語っている。
テーブルに肘を突き、ほっと息を吐いてダヴィンチを探そうとエミヤが顔を上げると、眼の前のポールに縋って亜麻色の髪を靡かせていた女が悪戯気に頬笑んだ。
「……っ」
 エミヤが咄嗟に眼を逸らすと、女は赤い唇を楽しげに舐め上げ、そのままポールへ背中を預けて大股を広げながらしゃがんでいく。豊かな胸を強調したチューブトップから扇情的に続く、下肢の右側を主に覆うシフォンスカートの隙間からは今にも下着が視えてしまいそうな程である。
 人に興味を持たないエミヤも男である以上、やはりこういった事には興味はあるが、実物を眼の前に出されて『さあどうぞ、視て御覧なさい』とねっとりとした視線で煽られても尻込みしてしまう。だってエミヤは以前フェルグスが指摘した通り童貞なのだ。
今まで誰かと付き合った事も無ければ、ここ数年は就職活動と、入社してからも覚える事ばかりで、泥のように重く疲れた身体では進んで自慰に耽る事もそれ程なく。溜ったら仕方なしに出すと言う日々を送っていたのだ。
 エミヤがどうしたものかとテーブルを見詰めていれば、そこへコルクで作られたコースターが滑り込んでくる。

「……あ」
「はい、ピルスとミックスお待ちどう様」

ダヴィンチが苦笑しながら、並々と注がれたハーフグラスをコースターの上に。その隣にロック用のグラスに入ったミックスナッツを置くと大股を開くダンサーへと声を掛けた。音楽に負けないような大きな声で。

「マタハリ、そろそろあの子の出番だからウォーキングに入りな」
「えぇー? これからが面白いのに。だって彼、あの子のキャンディボーイなんでしょ?」

 ロリポップのような甘い声で女が言った。

「こらこら、そんな事言ってたら君と言えどどうなるか分かんないよ?」
「んもう、良い所だったのに。……またね、キャンディちゃん」
「キャン……?」

 ダヴィンチの言葉に女は赤い唇を尖らせ、渋々といった具合に立ち上がりエミヤへとウィンクを投げかける。
 二人の遣り取りの意味が解らず、困惑の表情を浮かべるエミヤを尻目に女はヒールを鳴らしてバックヤードを続くテーブルを歩いて行った。

「た……助かった。ありがとう、ダヴィンチ女史」

 知らず詰めていた息を大きく吐いたエミヤに、ダヴィンチが「言わんこっちゃない……。ま、飲みなよ」と呆れを交えて笑い、泡が蓋をするグラスが乗ったコースターを押してエミヤへ進める。
落ち付け、と言う意味合いなのだろう。

「今まではフェルグスが一緒に居たから粉掛けられなかっただけなんだよ、エミヤ。今貴方はあいつのお気に入りって皆知って――っと、これはまだ禁句か」
「あの子……?」

 エミヤは言い掛けた口を手で塞ぎ、わざとらしく腕時計に視線を遣ると大袈裟な口調で言った。

「おおっと、もうこんな時間だ! 私も早く準備をしなくちゃね! じゃあエミヤ、また後で」
「え、あの、あの子って――」

 エミヤの言葉を遮る様にくるりと背を向けると、ダヴンチは素早い動きでバックヤードへと戻って行く。

「……なんだったんだ、今の……」

 一人喧騒の中に取り残されたエミヤは手持無沙汰にナッツを探り、胡桃の欠片を口に入れて咀嚼しながらグラスを手に取って煽る。常温より少し低目のピルスが喉を潤す旨さを噛み締めながら、先程ダヴィンチが言った言葉を思い返した。

『似たような忠告を、きっとフェルグスにもされているとは思うけどね?』

 ナッツを噛砕きながらそんな事あっただろうかとエミヤが意識を空へと向けていると、床からも振動が伝わるようなボリュームで鳴っていたポップスのボリュームが絞られていく。どくん、と。エミヤの胸が条件反射のように跳ねた。

(――っ、一週間振りのランサーさんだ!)

 赤や青、黄色や紫と忙しなくホールを照らしていた照明も音楽に合わせ一つずつ消えていき、光源を失くした店内は夜を流し込んだ闇に支配される。
 どくどく心音は早くなって、期待に頬が熱くなる。
 エミヤの期待をゆっくりと浚うように、ダヴィンチのヴァイオリンが何時もより小さな音で弦を奏で始めた。

(あ、これ……)

 何処かで聞いた事がある。
そうエミヤが思った時、ダンサー達が舞い踊るテーブルに酷く小さな光源がスポットで充てられる。
そこへ、尖った黒の爪先が音を経てて入り込んだ。

(――っ、きた、来た!)

 カツ、カツ、カツ、と。夜を含んだ小さな爪先がにび色のテーブルを歩く度に、まるで蛍のような淡い光が爪先だけを照らしていく。焦らされている焦燥に心が焼かれてしまう。はやく、早く彼女に会いたい。

「――ラン……ッ?!」

 溜らず彼女の名前が唇から零れた瞬間、背中を押されテーブルへと前のめりになってしまう。
エミヤ同様、ランサー目当てに通う客のボルテージも焦らされて最高潮になっていた。そして、そのタイミングを待っていたかのように最後に灯された小さな光は丁度シャンデリアの真下で消え――一瞬で。硝子のダイヤカットが光を灯し乱反射させる中に、ランサーの姿が浮かび上がる。
真っ黒な、太腿まで紐で編み上げられたピンヒールの編み上げブーツがまず眼に飛び込み、次いで黒のハイウェスト、ショートパンツへと続く絶対領域に頬が熱を帯びた。光を受けて冴える真っ白なシャツは首元まで釦が留められ、夜を閉じ込めた黒のネクタイが色白の首元を一層に細く魅せ付けるようで、自然と喉が鳴る。
 彼女のメイクは服によって変えられており、禁欲的な、けれど何処か退廃感を伴う今日の衣装に合わせランサーの顔は顔の上半分を薄く汚れた包帯で巻かれ隠されていた。ただ、片眼だけが薄く開けられた隙間から覗いており、ちらりと流されるその柘榴の瞳が古色の付いた包帯の合間から視えると、ぞっとする程に美しくて。

「――っ」

 言い知れない背筋の震えがエミヤに走る。
腹の奥が、臍の奥の奥が疼くそれは彼女を視た時にだけエミヤに訪れるものだった。全力疾走した時みたいに心臓が五月蠅い位に高鳴って、自身でも解る程に頬が熱くなるのだ。今までどんな女性に対しても抱いた事のない感覚だった。
 会いたい、と。心が急くのだ。
彼女に、ランサーに会いたいと人間に希薄だったエミヤの心臓が五月蠅く跳ねてしまう。けれど、会えば、一目その姿を見れば喜びと供に切なさが湧いて胸が締め付けられるように痛んだ。ランサーのステージは短くて五分、長くても十分にも満たない。そして、パフォーマンスが終われば汗を拭う事もなく、また踵を鳴らして大理石の上を足早に去っていく。
アンコールは一切無しで、テーブルの上で舞い踊る数分の彼女にしかエミヤは会えないのだ。

(ランサーさん……っ)

だから、少しでも近くで見たくて。
ダヴィンチが奏でる一曲が終わるまでの数分を、ランサーに少しでも近く見ていたくてテーブルに腹が食い込むまで前のめりになった瞬間――尻に違和感が走った。

(……うん?)

 前傾姿勢になっている所為で尻を後ろへ突き出すような形になり、夏用の薄いスラックスは体勢のせいで尻にぴたりと張り付いてしまっている。
そこに、ぺたりとした生暖かい感触が。
 けれどこれだけの密着率だ。ランサーを近くで見ようと、誰も彼もがエミヤのように身体を前のめりにしてランサーを覗き込んでいる。誰かの身体が当たったり、手が当たったりする事もあるのだろう。
 エミヤはそう思って尻に未だ当たったままの、掌のようなものの感触を無視してテーブルの上へと意識を戻した。何てったって今日のランサーは目隠しバージョンなのだ。綺麗な顔を薄汚れた風の包帯が隠して、けれど柘榴の鉱石が、この美しさを閉じ込められるものかと――哂うように合間から右目だけが覗く。
汗でしっとりと濡れた前髪が乱れると周囲から悲鳴が上がって。

(ああランサーさん、今日もなんて綺麗――)

 例に漏れず、軽やかに舞い踊るランサーの姿にエミヤも見惚れて陶酔する中――尻に当たっていた違和感がまたもぞりと動いた。

(……んんんんん?)

 視線だけは踊るランサーを捉えながら、エミヤは内心で首を傾げる。どうにも、蠢いているような気がするのだ、当たっている『何か』が。
確かにこの人波の密着率からすると、抜け出そうと踠きたくなるのは解るが、しかし。

(なにか……揉まれてるような)

 尻たぶを包み込むように置かれた生暖かいそれはエミヤの尻から離れようとせず、どころかゆっくりと撫でているような、気がした。生暖かい――恐らく掌のその感触にエミヤの背筋へと、先程ランサーに抱いた種類とは全く違う悪寒が走る。ぞわぞわと、背筋に毛虫が張り付いたような気持ち悪さにエミヤが背後を振り返れば、すぐ真後ろに。眼鏡を熱気で曇らせた中年の男が俯いて立っていた。周りはランサーのダンスに眼を奪われているのに、男は一人食い入るように下を――。

(――こ、いつ)

 肩が跳ねる程の嫌悪がエミヤに走り、気持ち悪さで一瞬の内に全身に鳥肌が沸いた。誰もがテーブルの上を崇めるように見詰める中で、けれども男は曇った眼鏡をエミヤの尻へと向けている。妙に荒い息を上げながら。
 エミヤが凝視している事にも気が付かず、男は右腕を動かした。その動きに合わせてスラックス越しに尻が撫でられる。尾骨から尻の割れ目を探るように辿り、生地越しに窄まりへと指を押し込んでくる始末だ。ぐりぐりと布を巻き込んでくる感覚に肌が粟立った。

(――なんでさ!?)

 何故そこに指を突っ込んでくるのかが理解出来ないが、しかし。これはもう確信的だろう。
因りにも因って、こんな体格の良い男相手に不埒を行う男へ肘鉄をお見舞いしてやろうとエミヤが顔を俯かせた途端――、


「おい。そいつに触んじゃねぇよ、発情豚が」

ヴァイオリンの音がホールを支配する中、凛とした低音がホールへと響いたと同時に、エミヤの尻をまさぐっていた無骨な男の手がぴたりと止まった。熱狂していた周りの客も何事かと静まり返っている。

(この声……っ)

エミヤが反撃にと伏せた顔を恐る恐る上げれば、そこにはやはり、彼女がいた。テーブルの手前で両腕を組み、誰もが跪いてしまいそうな程に冷徹な眼をしたランサーが。いや――正確に言うのなら、エミヤが恋焦がれるランサーが、大理石のテーブルからその魅惑的な足をエミヤの後方へと突き出している。少し筋肉質なのだろうか。ショートパンツから覗く発達した内腿の筋肉がやけに眼に付いた。

「え?」
白く張りの在る内脚を追えば、その足先はエミヤの真後ろにいたスーツの男の頭を踏み付けていた。

「ディル、こいつここから摘み出せ」

太腿まで細かく結い上げられたピンヒールブーツの、鋭い九センチの踵が男の頭を踏み付けたまま左右へと軋んだ音を起てる。それに併せて、男の口から呻き声が太く上った。人波の熱気だけではないだろう、曇っていた眼鏡は引き倒された衝撃でその顔を覆ってはおらず、苦悶に歪んだ顔をエミヤへ向けて。

「――っ、」

湧き上がる嫌悪にエミヤが一歩後ずさった時、波が引くように人波が左右へと分かれて道を作った。その中を、黒のスーツを隙なく着こなした男が歩いてくる。
野暮な黒縁眼鏡で顔の大部分を隠した細身の男だ。
その男にランサーは羽の付いた目元を流すと顎だけを上げ、合図のようなものを送って寄越した。
ディルと呼ばれたスーツの男は軽く頷くと、エミヤの後ろでランサーに未だ踏み付けられている痴漢の傍へ寄り、男の首元から垂れ下がるネクタイを引っ張った。

「ぐぇ……っ」

潰れた蛙のような声を出して床に引き倒された痴漢は往生際悪く逃げようともがくが、細身の男は痴漢のネクタイを引き寄せ無理矢理に立たせると、そのままドアに向かって半ば引きずるように歩いていく。
先程まで群がっていた群衆は、いつの間にかモーゼのように左右に分かれ出入り口への道を築いていた。その中を無言で歩く男の背中に呆気に取られたまま見送っていると、頭上から「おい」と声が降ってくる。
そう、正しく降って。

(――降ってくる?)

出口から視線を引き剥がして振り向けば、ランサーが包帯の合間から赤い眼を細めてエミヤを見ていた。
 痴漢にあったせいで顔から引いていた血の気が、頬へと上がっていく。だって、ランサーがエミヤ見ているのだ。宝石みたいに綺麗な眼で、エミヤだけを。

「おい、フェルグスは一緒じゃねぇのか?」
「へ?! あ、は……はい!?」

 ランサーの口からフェルグスの名前が上り、動揺のままにエミヤはこくこくと首を上下に降った。逸る心臓を押さえランサーの質問に応える。

「マックロイ先輩、は。彼女とデートで。あ、あのランサー、さん。さっきはその、ありがとうございました」
「礼は良い。……だが、フェルグスが居ない時に店に来るならそこの隅で観てるんだな。それが守れないようなら、もうこの店にお前は来るな」

 そう言って、ランサーは最初にダヴィンチに示された場所を指差した。今現在ヴァイオリンを弾き、従業員が忙しなく出入りする、バックヤードの出入り口に近い末席を。

「は? あ、あの?!」

 どうして二人ともあの席をエミヤへと進めるのだろう。
 困惑を顔に乗せ、けれどランサーの言葉は聞かなければとダヴィンチが立つ末席へとエミヤは足早に移動した。
 急ぐエミヤの頭上でスピーカーから仕切り直しとして、ランサーがもう一曲踊るとのアナウンスが入る。衣装を変えての再度パフォーマンスとの声に歓声が上がった。



※※※※
「ほらね。言った通りでしょう?」

 飴色に輝くヴァイオリンを肩から外したダヴィンチが困ったように笑う。どうにもこの美しいバーテンには最初から解っていたらしい。

「な、何が言った通りなんだね?! と言うか、どうして私が痴漢になんて!?」
「私はちゃんと最初から忠告したのに君が聞かなかったのが悪いんじゃないか? 八つ当たりはスマートじゃないね、エミヤ」

 呆れた顔で正論を言われ、言い掛けた言葉が喉の奥でぐぅと消える。ダヴィンチは確かにエミヤへ『忠告』していたのだ。自分の傍に居た方が身の為だと。高嶺の花だったランサーと言葉を交わせた事は思いがけない幸運だったが、しかし。その代償があんなおぞましい感触だとでも言うのだろうか。

「だからって、あんな言い方では分からないに決まってる! 大体男の私が痴漢にあうなんて――」
「そこだよエミヤ」
「は?」

 言い掛けた言葉を遮られ、弦を持った右手を鼻先へと突き付けられる。

「君はね、根本的な勘違いをしている。男の君だから痴漢にあっただけの話さ。常連で数少ない女性のブーティカがさっきの場所に居ても何も無かっただろう。つまりはそう言う事だよ」
「……数少ない? 此処の女性の入りは多いと思うが……第一ダヴィンチ女史。彼女なら確実に狙われるだろうに」
「あはは、節穴だなぁ君は」

今日は居ない、レッドチェリーの髪をした綺麗な顔立ちの常連客が脳裏に浮かぶ。エミヤと同じ、ランサー目当てでこの店に通う美しく、溌剌とした女性。彼女なら、エミヤよりもっと酷い事になっていただろう事は想像に難くない。だってブーティカは女性だ。そもそもエミヤは学生時代に弓道で鍛えた名残なのか、一般的な成人男性に比べて体格が良い。幼馴染みの少女には髪を下すと童顔だと揶揄される事もしばしばだが、根本的に性別が違うエミヤと比べるなんて、逆にブーティカに失礼極まりない話ではないだろうか。
彼女が此処に居たなら、絶対的なターゲットに。
 そこまで考えて、エミヤは「うん?」と首を傾げる。
 確か、エミヤの後ろにも女性は数名居た。
少し濃い眼のメイクをしたその存在を振り返って確認もしている。何故あの男は因りによってエミヤを選んだのだろう。それに。

「参った、あの子もそうだが君も大概猪突猛進型だね。頭が固いったらありゃしない。その分だと、ここの看板も碌に見てないだろ? ……じゃあ最大のヒントだ。前にあげた店の名刺、見返してごらんよ」
 その女子達の身長は気のせいだろうか、エミヤと似たり寄ったりな気が、した。――成人男性の平均より高い百八十七センチのエミヤと。
「え……?」

 過った違和感に慌ててスーツの内ポケットを探り、名刺入れを取り出す。そういえば初めて来た日に貰って以来、名刺を改めて視る事はなかった。開いた一番最初に入っている、カードの店名の横に書いてあるのは。
 流暢な筆記体で記された文字は。

「……うそ、だろ?」
「――ああ、ランサーが出て来たね。答え合わせは後で良いかなエミヤ」

 カツ、と。ピンヒールの踵が大理石を叩く音がフロアへと響く。背後の至近距離、すぐ耳の傍だ。
バックヤードから出て来たばかりの高い靴音は聞いたらすぐに解る程に焦がれた人で。店の名前が書いてある名刺を持ったまま、靴音に誘われるように顔を上げたエミヤの視界に衣装を変えたその人の姿が映り込む。
心を掴まれた時と同じ、深い海を連想させるような紺碧のマーメイドドレスを身に纏う――美しい翼を、羽根を背に持つ人が。

(そんなまさか)

エミヤが親指と人差し指が抓む名刺には、『ゲイバー』と小さく書かれていて。
ゲイ、ゲイバー。
噂に聞いた事のある『ゲイバー』なら、それは同性愛者のゲイセクシャルの店という事ではないのだろうか。

(それでは――彼女は)

ヒールを抜いても恐らくエミヤと同じ位に背が高く、鍛えている事が窺える身体はそこらの女性より厚い。
けれどそんな事は彼女の魅力を何一つも損なわない。
確かにエミヤはそう思った。思ったけれど。

(だって、こんなにも綺麗なのに?)

混乱した頭は、けれどランサーの為に弾かれるヴァイオリンの音に呼び戻される。

「――ランサー、さん?」

 茫然とした呟きがエミヤの口からするりと零れた。
 それは吐息にも似た小さな声だったけれど、エミヤが凝視するその人は呟きを拾ったのか、茫然とするエミヤへと赤い唇をくつりと上げて――意味有り気に微笑んだ。

Comments

  • わんわんお
    March 12, 2024
  • December 7, 2022
  • そー
    December 18, 2017
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