遠くの稜線に、沈み掛かった太陽が近づいている。赤い夕暮れが、眼下の町並みを同じ色に染めていた。所々、きらりと燦めくのは甍の反射光だ。どっしりとした瓦葺の屋根は、寺院、あるいは貴顕の人々の邸、丈高いのは名高い酒楼か。碁盤の目の形そっくりに街路で区切られた幾つもの「坊」と呼ばれる方形の中に、大小様々の家がひしめき合っている。条里は左右対称に作られ、当然のように都市全体を囲む城壁もほぼ方形を描いている。
季節は春。建物の間を縫うように、ふわりと明るい塊のように浮かんでいるのは花が咲いているのだろう。
中でも、一際立派な建物である、都市の中央最北にある宮城に続く御街は、両側に煉瓦と石で築かれた堀があり、その岸辺には桃・李・梨・杏などの木が植えられて、花の盛りに錦繍の如き眺めを呈していた。
東西南北の郊外にはそれぞれ、見事な庭園が幾つも設けられていて、やはり春の装いが満ちている。色彩の豊かな都市だ。
商店の固まる通りでは夜市の準備も始まっている頃合いか。ぽつりぽつりと灯火らしきものが滲んでいる。
華の都、と称されるとおりの美しい光景だった。むしろ絶景といっていいかもしれない。遠景であるだけに当然、人の姿は見えず、それが余計に風景画を思わせた。
(こんなに広かったのか)
高みから自分の生まれ育った都市を見下ろして、彼女はそんなことを思った。山の上からでも全容を一望できる、とはならないほどの広大さを、そこで暮らしているうちは実感できない。こうして離れてみて初めて、自分の知っている「世界」がいかに狭かったことを思い知る。
だが、もうあそこに戻ることはない。別名を「牡丹城」といわれるほど、初夏には牡丹の艶麗な花弁に包まれる様を、もう見ることはない。
夕暮れになり、昼間よりも涼気を増した山の風が、彼女の短い髪に飾られた釵子を揺らしてしゃらり、と澄んだ音を立てた。もしも崩れたら自分では直せないな、とそっと彼女は髪を抑えた。
ここまで自分を乗せてきてくれた馬と人足は、ここまでで良いと帰ってもらった。もう門はそこまで見えているし、どの道、その中に入るのは自分だけだし、載せて持ち込むような荷物もない。山はかなり見た目は急峻な斜面なのだが、山道を歩くには不相応な布沓でも平地を行くように進めるのは、やはり神が住まう霊山だからなのかもしれない。手入れされているわけでもなさそうなのに、松や杉が青々と茂り涼やかな樹の香りが鼻腔をくすぐる。
神、と呼び慣わされているその者は太陽の神の息子だと聞いている。
眼下の京師が出来る前から、この山に住んでいる荒ぶる神だと。今の世では、その姿を見た者は絶無に近いが、百年ほどの昔には何度か人の世に出入りしていたこともあるという。普段はそれこそ明るい太陽の如く気が良いが、戦いともなると凄まじく荒れ狂うと伝えられている。
そして、祟るのだという。
実際に、京師で50年余も続いている異常事態は、もはや祟りとしか説明のしようが無い。
つまりは、彼女はその神に捧げられる生贄としてやって来たのだ。神の怒りを鎮める、そのために。
普段は着付けぬ鮮やかな真紅の絹の長裙(長スカート)も、上に纏った羅衫(薄い上着)も、美しい刺繍を施され長く引いた披帛(肩掛け)も、玉鳴る金銀をあしらった釵も、珊瑚と真珠で飾られた珥(耳飾り)も、珠瓔(真珠の首飾り)も、宝玉を繋いで豊満な胸元を飾る瓔珞も、白玉を刻んで草花を象嵌した金を巻いた釧(腕輪)も、宝石と金をあしらった玉帯と玉佩(帯から提げる玉飾り)も、いずれも綺羅に彼女を飾り立てる全ては、生贄とされる彼女の「花嫁衣装」だ。
はて、かの神が実際に祟り神だとして、果たして自分の身一つでその祟りが収まるのだろうかと、彼女はやや皮肉げな笑いを薄く紅を引かれた唇に刷いた。
今まで何人もの女が生贄として神に捧げられてきたが、いずれ劣らぬ絶世の美女であり、そして誰一人として帰ってこなかった。彼女がどのように遇されるか、誰にも分からないのだ。ましてや、己が到底、麗人と言われるほどの容貌の持ち主ではないと、彼女は自身を割り切っている。
濡れたような黒い髪も、透けるような白磁の肌も彼女は持たぬ。それどころか、一般的な美人の基準に異を唱えるように正反対に髪は白く、肌の色は褐色。背も下手をすれば男ほどに高く、纏足も施しておらず、嫋とした金蓮歩など望むべくもない。似合わないからと、普段は一切の化粧もしない。口元の紅と、紅で描いた額の花鈿が、精一杯である。
『君には赤が一番似合うね。よく映えているよ』
と、亡くなった義父は彼女を褒めてくれたことをふと思い出した。
もう随分と遠い話だ。心残りがあるとすれば、義父に向かって最後まで「父」と呼びかけられなかったことくらいか。それも今では、かの人が亡くなっている以上は詮無きことだ。
それきり、彼女は下を振り返るのはやめた。
諦観、というのとは少し違う。
生贄となることを承諾した以上、もう自分は今まで身を置いていた世界からは死んだ者でしかない。戸籍も、名も抹消された。もしも本当に命を落とすことがあっても、それは覚悟の上で、ここまで来た。いや、そんな覚悟がなければ生贄など受け入れるわけがない。
彼女の面貌に悲壮さはない。彼女はただ、気負いもなく止めていた足を踏み出した。
門を見上げる。
扉はなく、瑠璃色に聳えるこの門が、人の世と神の世を隔てる境界である。恐らくは、ここを抜けたら人の世界にはもう戻れない。
ああ、これで「死ぬ」のだな。
その下を、彼女はくぐり抜けた。何処か他人事のように思いながら。
そして、彼女は目を瞠った。
本当に一瞬で、景色が変わったのだ。
書物などに書かれている仙境、というのはこういう場所なのかと。
植わっている木は全て花をつけている。見たこともない色とりどりの花が咲き乱れ、隙間を縫うようにして亭や郭といった建物が配されている。それに、ここに辿り着いたのは夕暮れのはずなのに昼間のように明るい。季節を感じさせないことといい、ここには「時間」という概念が存在しないかのようだ。
何と言っても、空気が違った。一つの塵埃の存在も許さぬ、というほど清浄に澄んでいて、少し彼女には息苦しいくらいだった。門の外にある山の空気も薄青い靄に包まれたように清澄だったが、それはあくまでも人の世界の空気だった。また、光に朧に霞がかっており、あまり遠くまでは見通せない。
(それにしても)
建物はあるが、人がいる気配はない。彼女は辺りを見回した。
五層の壮麗な楼閣が建っている。主がいるならあそこだろうかと、当りをつけて彼女はそこへ向かった。
果たして。
階段を最後まで上りきった楼閣の最上階は一間になっていて、無造作に置かれた榻(長椅子)に寝そべる、その姿はあった。
青い髪がいかにも人ではないものの証のような男のごろりとした寝姿から、彼女は何となく大型犬を連想した。彼女の跫音もまるで耳に入っていないかのように、神と呼ばれている男はただ寝ている。
起こして後々面倒なことになるのは厄介なので、彼女は延べられてある錦の縁取りのしてある筵の上に座って、楼閣の主の目覚めを待つことにした。
座った姿勢のまま、疲労は感じなかった。やはり、ここには時間は意味がないものなのかもしれない。そういえば、桃花の溢れる仙境に迷い込んだ漁師の話で、その里の者は今が何時の御代であるか知らなかった、というくだりがあった。
そう思ったとき、ふと彼女の眼前で男が身じろいだ。
緩く何度か瞬きした後、男は彼女の存在に気付いた。胡服に似た衣服を任侠や浪子(遊び人)のように着崩した上半身を起こし、顔を彼女に向けた。
その眸は赤かった。太陽を思わせる色ではあるが、先ほど見た没しつつある夕陽よりも、上り来る清々しい暁の太陽に似ている、と彼女は思った。光がちらちらと瞳の中に踊っているように見えるのは、目の錯覚だろうか。それが、悪童めいた、または肉食獣めいた印象を共に与えてくる。
顔立ちそのものは明眸皓歯、非常に端正かつ精悍だった。上背からして、立ち上がればすっきりとした長身であろうことは明らかだ。今は衣服も座り方もだらしなく乱しているが、きちんと服装を整えていれば戦神と畏れられるに相応しい威儀は充分にあるだろう、真に美丈夫である。
「……誰だお前」
神から至極当然の疑問が向けられる。
「お休みの所、断り無しに失礼を」
彼女は恐れもせず、悪びれもしない。堂々と拱手の礼を執り、膝をついて頭を下げる。
「この霊山の主、ランサー神とお見受けするが、相違ないか」
華やかな女の装いにはまるで似つかわしくない彼女の生硬な男の言葉遣いに、ランサーと呼ばれた相手は、少し面食らったようだ。
「いやまあ、……それオレの呼び名か?」
「槍術を能くする神だというので」
彼女が言うと、ランサーは苦笑を浮かべた。
「……そりゃかまわねーけど、一応、オレにゃクー・フーリンって名前があるんだがな」
「祟れる神の真の名は、みだりに口にするなと」
にこりともせずに、顔を上げた彼女は真っ直ぐに神の貌を見つめる。淡々とした声音の中、身に覚えがないといった一つの単語を、ランサーは訊き返した。
「祟り?」
「と、人は言っている。確かに人智では如何ともし難い異常故に、祟りとでもしないと解せぬこと。人為によるものでなければ、神意以外あり得ぬだろう。君子は怪力乱神を語らずといえど」
「ちょっと待て。だから祟り祟りって、何のことだ。つか、原因オレなんかい」
「五十年余前から、生贄を捧げることを止めてから、ちょうどこの異常が始まった。であれば、原因はあなたであると考えられてもおかしくあるまい」
「生贄……?」
顎に手を当て、暫くランサーは考え込んだ。それから、得心いった、という風にぽんと掌を叩いた。
「あー、最近そういや、下から女が来てなかったな」
「それで神が怒って祟っているのだろうと、久方ぶりに生贄として私が寄越されたというわけだ。そこは納得いただけただろうか」
「そこは、な」
少しだけ、居住まいを正したランサーは改めて、眼前にいる彼女を眺めやった。
「生贄、なあ……。城内に巣くっちまった手に負えない魔物を退治して欲しい、その見返りとして女を差し出すっていうのはそういう意味だったのか」
彼女は表情を動かさない。だが、
「だったら帰れ」
と言われたのは流石に意外なことだったため、灰色の目を見開いた。そうしてみると、彼女の顔つきは稚く見えた。
「来た女は、まあどれも皆、長生き出来ずに早く死んじまった。ここは、人の世界とは違う。色々と『合わない』んだろうよ。弱った女が死ぬのを看取るのは、あまり気分の良いもんじゃねえ。大体、祟りといっても、オレにゃ全く心当たりがねえんだから、どうしようもねえだろ。だから、お前を貰ってもしょうがねえってこった」
「……原因不明、でおめおめと帰るわけにはいかない。どのみち、私はもう死人同然で、帰る場所もない、待っている係累もいない。今更、何を惜しむものもないというのに、少なくとも、この異変の原因だけでも突き止めなければ、私は何のために来たのか分からないではないか」
それまで、石のように硬かった彼女の口調が、初めて感情を帯びた。
不意に、ランサーは腰掛けていた榻から立ち上がった。彼女の頤に手をかけて、貌を上向かせる。その際、彼女はほんの少しだけびくりと肩を引きつらせた。
「――お前、今まで来た女とは毛色が違うな」
「見目麗しき美女でないことは申し訳ないが」
そうやって僅かに伏せられた、眸の淵を飾る白い睫毛は長く、柳絮のようだった。
「? いや、佳い女だろ、充分以上に」
「……」
彼女は思わず絶句した。容姿を褒められた経験が彼女にはなく、どう反応していいのか分からないからだ。
ただ、今まで賛美されたことはないというのは、彼女の持つ独特の色彩と、女にしては高い背のせいである。実際には、顔の作りは麗人という華々しさには当たらないが、佳人といっても差し支えのない整い方をしている。その上、女物の衣装を身に着けてはっきりと分かるしなやかな体つきは、豊かな胸に反して腰の辺りはほっそりとしており、魅惑的なことこの上ないのだが。
「からかわないでいただきたい」
やっと、彼女はそう口に出来た。
「本気なんだがなあ」
言いつつも手が放されて、ほっと秘かに彼女は安堵の息を吐いた。
「……いずれにせよ、私がここから出るとしたら、それは問題が解決されてからだ」
そして、強情なほどに主張する。この意を枉げるのは、相当に困難だと想像するのは容易なことだった。
「オレが原因じゃなくてもか」
「他に思い当たる節がない。怪異を解くなら、人以外を恃む他あるまい」
ランサーが小さく頭を振ると、束ねられた青い髪が揺れた。
「お前、名前は?」
「は?」
脈絡のない質問に、彼女は首を傾けた。
「何にせよ、暫くここにいるってんなら、名前聞いとかねえと不便だろ。いちいちおい、とかお前、とか呼びつけるのもな」
「……元の名前は、ここに来るときに捨てたのだが……」
「姑娘、でもいいのか?」
嫌がる反応を見越してわざと言っているのは分かるが、それでもやはり反射的に彼女は顔を顰めざるを得なかった。
気を取り直すように一つ咳払いして、
「では、……アーチャーと」
彼女は、そう名乗った。