【20年の軌跡-Vol.011】現場の温度も迷いも、言葉とビジュアルに変えて届ける"出入りの業者"の哲学 #SDN20
育て上げネットの歩みを紹介する企画「20年の軌跡」。
第11回は、育て上げネットのパートナーである永冨奈津恵さん。長きに渡り若者支援業界に身を置き、数々の団体と関わってきました。
育て上げネットでは広報や制作にとどまらず、さまざまなシーンでマルチに関わっています。
育て上げネットをご存知の方はもちろん、若者支援やNPOについて理解を深めてみたい方、フリーランスの方、NPOへのセカンドキャリアを考えている方、将来を模索する若者もぜひご覧ください!
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永冨 奈津恵(ながとみ なつえ)
1970年福岡県生まれ。大学卒業後、広告制作プロダクションに入社。
退社後はフリーランスとして、広告分野のコピーライティング、デザインなどを行うかたわら、若者支援に関する出版・広報などにも携わる。
近年、関わった書籍として『大卒だって無職になる』工藤啓著・エンターブレイン刊、『川崎モデルの実践』川崎市生活保護自立支援室著・ぎょうせい刊、『わが子のひきこもり、待つだけでいいのでしょうか?』河野久忠著・NPO法人青少年自立援助センター刊など。
永冨さんってどんな人?
納得できない仕事はしない
――永冨さんってどう紹介すれば…?
名刺には「Advertising Work・Editorial Work」と書いています。
これは「広告」と「出版・編集」の仕事をしますという意味。
コピーライターとしての打ち合わせなら「何でも屋です」って言うし、デザイナーの中に放り込まれたら「本業はコピーライターなんで…」って言うし、本職の版元の編集さんには「私は広告関係なんで」って逃げている(笑)
「広告」「出版・編集」に関わるほとんどの仕事はするけれど、全部80%程度しかできない半端者です。
――若者支援にたくさん関わっていただいている印象です
たくさんではないです。いくつかの団体の仕事をしています。
――団体によって違いがありますか?
もちろん全然違います。
共同生活型と通所型でも大きく違うし。
職業訓練が中心とか、小学生から関わっているところもあったり、全然違うよね。
――仕事を引き受ける上での指針などはありますか?
NPO分野での仕事では、理念に共感できない団体の仕事はできるだけ引き受けないようにしています。
やっぱり、人間の尊厳を傷付けているのではないかと思われるような団体からの仕事は受けられない。
いくらお金のためでも、自分が納得できない団体とは仕事はしないです。
――ではどんな仕事だったら受けたい?
あまり考えたことないな。
広告とか編集の仕事を受けるときによく言っているのは「カネ・ヒト・コト」。
すっごくギャラがいいか、一緒にやる人が面白いか、その仕事自体が面白い仕事か。
その三つのうち、一つがあれば受けられると思ってる。
広告屋の仕事はそれでいいけど、
若者支援関係のNPOの仕事になると…うーん、それだけじゃないんだよね。
――カネの部分が削られがち?
ギャランティーが安いってこと?
でも、育て上げも今関わっている他の団体も、安めではあるけどだいたい私の料金設定で払っていただいています。
だから、たまに驚く人もいるからね。
「私たちもこんなパンフが作りたいんです〜」と話しかけてくる団体の人がいるけど、制作費を伝えるとびっくりされる。
「その金額は普通ですよ、何千円じゃできないですよ」と、私は言いますね。でも、「私たちはいいことをやっているんだから、安くやってくれて当たり前」という図々しい人がたまにいる。
――それで飯食ってるわけですしね
NPOの仕事をするときはやっぱりヒト重視。お金ももちろん大事だけど、人だなと思って受けています。広告の仕事を受ける基準とは違っているかもしれないね。
――若者支援業界を長く見ていらっしゃいますが、思い入れがあるのでしょうか?
それはたまたま(笑)NPOは規模が小さいので、そもそもどういう広報戦略を取るかから考えられるし、人に発注するとしてもコピーもデザインも全部自分で差配できるところが自分に合っていると思う。
規模が大きい広告代理店の仕事では、自分はどうしてもただの一個の歯車になってしまう。コピーだけやるとか。
クリエイティブディレクターをやれたとしても、方向性はマーケティングの部署が決めてくるから、限られた範囲のなかで考えるしかない。もちろん、そこで力を発揮するのが本物のクリエイティブだと思うけれど、私の場合は全部を考えたくなるんですよ。
若者支援に関わったきっかけは?
コピーライターとしてスタート
――30年近く前からNPOとつながるって相当レアですよね
大学卒業後は広告制作プロダクションに入りました。
就活は出版社一本。でも、当然全落ちしました。
――昔から憧れてたんですか?
高校の頃は生徒会の新聞をガリ版で刷ったり、壁新聞を作ったり。
大学時代はアマチュアバンドを集めてメジャーデビューさせるための芸能事務所みたいなところでバイトをしていて、そこでも手書きで会報を出していました。
この辺りから、将来は雑誌を作ってみたいなと本格的に思い始めて。
――それで出版社を受けたんですね
そう。でも「全部落ちた」とバイト先のプロデューサーに話したら、「じゃあうちの会社にくれば」という感じで、その人のプロダクションに入ったんです。いわゆる広告代理店の下請けの会社でした。
そこはフリーランスの寄せ集めみたいな感じで、マーケターもイベンターもプランナーもデザイナーもコピーライターも所属していました。
私はコピーライターとして入社したけど、小さい会社だから誰かがテンパると手伝わなきゃいけない。だから、必然的にプランニングやデザインも見様見真似で手伝いました。
――分業はあまりされてなかった?
基本的に分業はされていたけど、少人数だったのでみんなで手伝うという感じでした。
大手自動車メーカーや大手教育産業、大手時計宝飾メーカーの仕事がルーティンであったけれど、今考えるとコンペの仕事が多かった。広告代理店の代わりとしてコンペに出るわけです。コンペ用の企画書やカンプはたくさん作ったなぁ。そこにいたのは4年だけです。
――退社した理由は?
激務と薄給ですね。
――わかりやすい!
すごい額の請求書を書くのに「私の給与はこれだけ?」みたいな。
洗濯しているヒマがないからコンビニの下着ばかりが増えていく日々。90年代はまだバブルの名残があっからそこそこ景気は良かったけれど、当然残業代はナシ。コンプライアンスも皆無で「徒弟制」みたいな感じでした。
若者支援と出会うも「哲学がない」と言われる
――退社してからはフリーランスですか?
やっぱり「本を作ってみたい」という想いがずっと残っていて、会社員時代に知り合った出版社に「本を作る勉強がしたい」と頼み、アルバイトをすることにしました。
その出版社の社長と工藤定次さん(理事長・工藤啓の父)が友人だったんです。だから、「おい、俺の本を作ってくれねえか」「わかったよ」みたいな感じになったんじゃないですか?
ある日、社長から「永冨! お前、本を作るならいいとこあるよ」と言われ、工藤さん——私はタメさんと呼んでいましたけれど、タメさんの活動拠点である福生に足を運び、取材するようになりました。
ここで初めて「若者支援(当時はひきこもり支援)」に出会いました。私はそもそも不登校にもひきこもりにもまったく興味がなかったので、本当にたまたま出会ってしまったという感じです。
タメさんは2019年に亡くなりましたが、遺影は、そのとき作った『おーいひきこもり』という本に掲載した写真です。その出版社の社長が撮ったものでした。
――工藤定次さんを通して若者支援に出会ったんですね
そうそう。タメさんの所に通ったのはその本を作るためです。
タメさんは豪放磊落でいつもガッハッハと笑ってる人。
取材に行って泊まり込んだりすると、夜は当然飲み会になる。
当時のタメ塾※の食堂に、寮生たちとスタッフとタメさんが集まって、「とりあえず飲むか!」と宴会がはじまります。
※タメ塾:現在のYSC(青少年自立援助センター)の前身団体
――寮生はいわゆるひきこもりの方たちですか?
元ひきこもりの人たち。
彼らが夕ご飯を食べてる食堂で飲んでました。寮生が酒盛りに入ってくることもあるし、お酒だけせしめて別で飲んでいる人もいて。いろんな人がタメ塾に来ていたから、それが日常だったんだと思います。
タメさんは、人を試すようなことを言う人で怖いんですよ。怖かった。
「お前には哲学がない」「なんにもわかってない」とよく言われました。
タメさんのところに行くたびに、青梅線で泣きながら帰ってましたね。
――当時26歳くらい?悔しいですね
うん。それが本当につらかった。
無事に『おーいひきこもり』という本が上梓されたときも、「お前はひきこもりのことを何もわかってない」と怒られました。今、思えば、私が偉そうに語ったから、注意してくれたんだと思う。
でも、私は生意気にも「タメ塾に来てる塾生を見ているだけなんだから、タメさんだってひきこもりのことを何もわかってないよね」と反発したんですよ。
当時は行政の援助なんてないから、そこそこ高い寮費を払える家庭の子しか利用できない。そういうひきこもりしか見てないんだから、タメさんの見方にだってバイアスかかってるじゃんと思っていました。
だから、タメ塾というバイアスのかかっていないひきこもりの人たちと出会いたいと思ったんです。
キレイに話をまとめれば、ひきこもりについて、タメさんとちゃんと真っ当に話し合える関係になりたいと思ったから、若者支援に関わりはじめたということですかね。
――若者支援というより、定次さんとの関係構築をしようと…
関係構築というか、もう青梅線で泣きたくない(笑)。
言われたら反論できるぐらいには学ばなければいけないと思った。
一方、いやらしい心もありました(笑)。
当時「ひきこもり」はあまり知られていなかったんです。
その頃、朝日新聞の塩倉裕さんという記者が「ひきこもる若者たち」という特集をスタートさせ、話題になっていました。私はその記事を見て「これは大きな社会現象になるな」と思いました。
だから、「ひきこもり」をテーマに一冊本を書いて当ててやろうという気持ちもあった。「これ、ちゃんと書いたら大宅ノンフィクション(※)いけるんちゃう?」みたいな(笑)
ちょうどインターネットが盛り上がってきた頃で、そんなときにひきこもりの子どもを持つ保護者が作っているホームページを見つけました。
その掲示板に集っている人たちの感じが良かった。
読み応えがあって、いろんな人が赤裸々に書いている。それに対して、冷静なレスがあって……。
それで、そのホームページの管理人にちょっと話を聞いてみようと思ったわけです。
※大宅壮一ノンフィクション賞:ノンフィクションにおける芥川賞や直木賞のような文学賞
「ひきこもりについて考える会」を発足
――ホームページの管理人に会いにいった?
はい、管理人はひきこもりの子どもを持つお母さんでした。
その方は私の作った本も読んでくれていて、意気投合しました。あるとき「オフ会をやりたい。ひきこもりの勉強会みたいなのをやりたい」と言われて、「それなら手伝いますよ!」と。当時、その掲示板に出入りしていた人たちと「ひきこもりについて考える会」を立ち上げました。
――おぉ…運営側に入り込みましたね…
運営側というか、無料の勉強会だから、サークルみたいな感じかな?
毎月、飯田橋のボランティアセンターに集まって、ひきこもりの勉強会を開催したわけです。
そこには自由な雰囲気があって、掲示板と同じようにみんな赤裸々に話をする。みんなで真摯に話を聞く。最初は10人くらいだったけど、だんだん大きくなり30〜40人が集まるようになりました。
現在ひきこもり状態の人も、元ひきこもりという人もいた。
保護者もいたし、取材者もいた。支援者も研究者もいました。
「誰が来てもいい」
「ひきこもりについて考えたい人が来ればいい」という会でした。
――40人は大規模ですよね
管理人がファシリテーターを担っていました。
ただ者じゃなかった。ものすっごいおばさんだったの(笑)。物腰が柔らかくて、考え方も柔軟で、本当にすごかった。彼女がいたから、話しやすい雰囲気があったんだと思う。
参加者はほとんどがリピーターで、考え方は違っていても仲間でしたね。林恭子さん(ひきこもりUX会議代表理事)も草創期のメンバーです。
みんなでお金を出し合って、話を聞きたい人を会に呼んだりもしました。
朝日新聞の塩倉さん、精神科医の斎藤環さんなどに来てもらいました。
ひきこもり事情に精通する有名なジャーナリストの池上正樹さん(現KHJ全国ひきこもり家族会連合会副理事長)や森口秀志さん(『ひきこもり支援ガイド』晶文社刊の編著者)もよく顔を出してくれました。
――若者支援の立役者ばかりのような…
当時はちょうど「ひきこもり」問題が注目されはじめていた時期。
当事者だけの会とか、親だけの会は全国にもあったと思うけど、
誰が来てもいい会というのはこの会だけだったと思う。
だから、保護者と当事者のヘビーな議論もあった。来ている人同士が激しく言い合うときもあったし、誰かが感極まって泣いちゃうこともあった。
でも、終わるとみんなで飲みに行く(笑)。
――仲間意識がより強くなりそうですね。当事者は結構来てたんですか?
当事者が7割ぐらい。
私は「当事者」とは言わず「経験者」と言ってた。
外に出てきたらもう「ひきこもり」じゃないよね。
ましてこんな大人数が集まる会に来られる人たちは、もはや「経験者」だと私は思っていました。
そんななかで2000年に佐賀のバスジャック事件があって…。
――世間の見方が大きく変わった事件ですね
加害者がひきこもりだったとメディアで報じられて、それを機になお参加者が増えちゃって。予約制じゃなかったから、知らない人がガンガン来る。
すごく気を遣うし、人数が増えすぎてみんなが発言できない。大きくなりすぎて、自由に話せる雰囲気はもうなかった。
管理人も私もみんなも疲れちゃったんだよね。
トラブルらしいトラブルはなかったけど、最終的に2003年に会を閉じることになりました。
タメさんを陰で支える
――タメさんとのつながりは続いていたんですか?
「ひきこもりについて考える会」をやりながら、その間もずっとタメさんから「今日飲みに行くぞ」「今度俺はここに講演に行くからついてこい」とガンガン言われてました。
――認めてくれたんですね
うーん、あの人は多分一生認めてなかった。ほかのことでは認めてくれていた部分があったかもしれないけど、ことひきこもり支援については、私が言うことをいっさい認めないまま死んだと思いますよ。
――心は開いてたんでしょうね
ものすごく腹立つことも言われましたが、心自体は最初のうちからずっと開いてくれていたと思います。
――「ひきこもりについて考える会」を運営しながらも、タメさんの講演会についていったりしたんですね
当時はお金も暇もあったんです。
フリーランスになって二年目ぐらいから、大手企業の季節労働のような広告仕事をずっとやってました。
1年のうち4ヶ月は休みなしで一日十二時間以上働いて死にそうなんだけど、それをクリアすればそこそこの年収になったんです。ただ4ヶ月は身も心もその仕事に捧げなくてはならないので、他の時期にも仕事を入れづらい。なので、あとの8ヶ月は割とヒマだった。
その状況をタメさんはよく知っていたから「お前ヒマだったら来いや」と自分の講演に私を呼びつけていました。東北にも九州にも行きましたね。
給料も交通費もまったく出なかったけど酒だけは飲ませてもらえた(笑)。
――そんな中、00年には「ひきこもり・知る語る考える」も?
出版社から声がかかってブックレットをポット出版で出しました。また、2001年には『激論!ひきこもり』という斎藤環さんとタメさんの対談本も出版しました。あまり売れなかったけど、これは反響が大きかったと思う。
――両雄激突というか、まさに激論?
相容れない2人だと思われていたけど…(笑)
斎藤さんは「ひきこもりについて考える会」に来てもらったこともあったので、「考える会の永冨ですー」と言って交渉し、対談してもらいました。
他の出版社からも「ひきこもり絡みで本を出しませんか?」みたいな話はありました。当時は新書ブームが始まりかけていたので、けっこう声をかけてもらいました。
仲間の人生は切り売りできない
――永冨さん自身では出版しなかったんですか?
書けなかったよね。
最初は一発当ててやろうと思ったけど、結局はいろんな事例を書いてほしいと言われるでしょ? 読者が知りたいから、書かざるを得ない。
でももう、私はその人たちの「仲間」だったから。
彼らの人生を売ってまで商売はできないなと思ったんだよね。
たぶん、きちんとしたノンフィクションの書き手だったら、取材相手と距離感を取って書けると思うんだけど、私はその距離感がつかめなくて「仲間」になっちゃったから。
――最初の尊厳の話にもつながりそうです
もう書けないと思ったの。
当時は講演に呼ばれたりもしてたけど、事例よりは支援団体の種類とか、利用の仕方とか、そんな話をしていました。
「こういう人がいました」とかはほとんどしゃべってないよね。だから、講演の評判は悪かった(笑)。
――飯の種にできなかったんですね・・
彼ら・彼女らが自分でしゃべる分にはいいけど、私が勝手にしゃべっちゃダメでしょ?
――2002年にはNHK「ひきこもりサポートキャンペーン」の編集者に?
当時、ひきこもりがすっごい話題になってたから。
NHKのディレクターの人から連絡があって、全国の支援団体を回りました。この機会に、なかなか会えない人に会ってみよう、と。
「NHKの取材で」と言ったら断る人はいないので、タメさんに反感を持つ人たちとも会えたわけです(笑)。
――既に全国に支援団体があったのが意外です
全国に民間団体はいっぱいあったよ。
行政もやり始めているところがあったし、川崎、札幌、横浜……先進的な自治体はひきこもり支援に乗り出してた。
この頃かな? タメさんから「息子が帰ってきたから飲まないか」というお誘いがあって、そこで初めて工藤啓と会った。留学から帰ってきた頃かな?
若者支援の現場に
――育て上げネットに関わるようになったのは?
2003年のYJS(ヤングジョブスポット)からじゃないかな?
「ヤングジョブスポット横浜」は厚生労働省の「地域若者サポートステーション」の前身なんですよ。モデルケースとしてはじめたところで、何をやるかもまったく決まっていなかった。
タメさんに、当時の横浜市の最低賃金で「お前アルバイトしろ」と言われたので、工藤啓さんの元で働きました。週1日〜2日、1年くらいいましたね。
――相談員をしていた?
相談員ではなくて、一緒に遊ぶ人(笑)。あとは手書きポップを書いて張り散らかしてた。得意だし。
タメさんに「おめえ、うめえな」と言われたけど、「どちらかというとこっちが本業に近いっす」みたいな(笑)
――そこで現場に関わってたんですね
「ひきこもりについて考える会」の延長みたいな感じだった。
一応お金はもらっていたけれど。
――若者に関わることは得意だった?
いや、大嫌いです(笑)
――えっ?
若者と直接関わるのは大嫌いなんだけど、できちゃうんだよねえ。
しかも、わりと上手なんですよ。知らない人同士を一緒にトランプに誘ったり、話しかけたりするのは大得意。だけど、きちんと話を聞いてあげたり、アドバイスしたりはできない、無理。
スタッフにひきこもり経験者の子を雇ったりしてたので、その子たちのフォローをしたりもしてましたねぇ。
――でも嫌いなんですか…?
そもそも人付き合いが嫌いだからさ。
あんまり好きじゃないんだよね。
――「ひきこもりについて考える会」を発足したのに…
ものすごく面倒だった(笑)
だから管理人さんが辞めたいと言ったときに「私もついでに辞めよう」と。
――たしかに、これだけ関わっても支援者としての話がないですね
私が絶対に支援員になれないと思うのは、ひきこもりの子たちを見ても「支援できる」とは思えないからなの。一緒に遊んだり、ご飯食べに行ったりぐらいしかできない。
「そっか大変だったんだね」って話を聞いたりはするけど、
それは仕事じゃないからできるのであって、仕事としてはできないですね。
手書きのポップは好きだったからやってただけ。
時給で稼いだ一日のお金以上を人におごって帰ってた。今も育て上げの事務所に来るとそうだからやってることはほとんど変わりがない(笑)。
――すみません、いつもごちそうさまです。
若者支援はどう変わったか?
不登校ではなく若者の問題へ
――2004年には「脱!ひきこもり」を出版されてますね
タメさんと出した1冊目の『おーいひきこもり』はタメ塾のときのものだったんです。
NPO法ができて、タメ塾からYSC(青少年自立援助センター)になってだいぶ経ったので改訂したいと。「だったらイチから作ろう」と二人で考えました。
――それで改訂版を
最初の本を出版した97年頃と比較して、なんとなくひきこもりに対しての雰囲気が変化していました。もともとは「不登校の延長」というイメージだったけど、それが「青年」や「若者」の問題になってきていた。
言葉が生まれた当初は、「ひきこもり」は、小・中学生から不登校で、学校という所属がなくなったから不登校ではなくなって、部屋から出られなくなった人々という印象だったんですよ。
でも、その人たちが年を経て青年になり、論点が変わってきた。
この年になったら労働も絡んでくるよねという話になって、
「働く・働かない・働けない」問題になってきた。
そんななかで、玄田さん(東京大学教授の玄田有史さん)が「ニート」という言葉を提起した。私がアルバイトしてたYJS横浜の話も出てくる『ニート:フリーターでも失業者でもなく』(幻冬舎刊)という本の影響はすごく大きかったと思うよね。
時代の要請もあったんだと思うけれど、「ひきこもり」は本質的な問題を残しながら、「働けない若者」の問題にスライドしていったわけです。
――今の若者支援の言説に近づいてきた?
多分、若者の雇用問題の対策を講ずる「若者自立・挑戦プラン」が策定されたのもあると思う。
若者支援の拡がり
――そろそろ育て上げネットが立ち上がりそうですが
石山さん(現:事務局長)と工藤啓ともう一人、若者がいて、これが本当の最初期の育て上げメンバーの3人。任意団体を立ち上げた時期に、ロゴが欲しいという話を彼らがしていたので、「しょうがないから私が作るよ」みたいな感じで育て上げとは関わり始めました。このときのロゴは無料(笑)
私はこの時期に『首都圏版 社会的ひきこもりガイドマップ』という本を、『ひきこもり支援ガイド』を作った編集者の森口さんと自費出版したんですよ。
――自費出版とは思い切ってます
当時、大阪にあるA´(エーダッシュ)ワーク創造館というところが、関西版の『社会的ひきこもりガイドマップ』を作っていて、すごく感銘を受けたんだよね。この首都圏版がなかったので作ったんです。
知っている団体にも知らない団体にもとにかくアンケート用紙を出して、返送されてきた内容をそのまま掲載した本。自費出版でなくてもよかったもしれないけど、こちらの意見や考え方は入れずに、団体が言ったそのままを掲載したかったんです。それに納得してくれる版元はなかったと思います。
しかも、支援を受けるためにかかる費用を絶対に明示したかった。
当時はほとんど明示されてなかった。でも、支援を受けるうえで一番知りたい部分じゃないですか。それだけは絶対に掲載しようと森口さんと話しました。
出版記念に報道説明会みたいなイベントも開催しました。講演とパネルディスカッションのあとに、行政機関と民間団体を並列にした各団体のブースを作って個別相談を受けられるようにしました。これも大阪でやっていたのをそのまま真似しただけ(笑)。だけど、行政も一緒になって行うのは、今の合同相談会の走りじゃないですか? 保護者の方がいっぱい来たなあ。
大阪のA´(エーダッシュ)ワーク創造館で『社会的ひきこもりガイドマップ』やらイベントを企画していたのが、今は法政大学にいる社会学部教授の樋口(明彦)くんです。
――経験者の方は?
ほとんど保護者でしたね。
――やっぱり出版だけじゃなくて全部やってますね
いやでも、イベント実施はできないから、手配は森口さんに全部おまかせ。
仕事仲間や私の夫が一緒にチラシを配ったり、当日も手伝いに来てくれました。
――その後も今にいたるまで数々の若者支援関連の本の編集に関わり、団体の広報や制作に携わっておられます。
次から次に本の刊行やイベントを立ち上げてますが、声がかかるんですか?
「永冨さん、こういうのを作ろうと思ってるんだけど」と言われて、「ああ、私作れるよ!やろうか?」みたいな流れですね。
――人間関係が嫌いな割にすごい人脈が・・
たまたまじゃないですか!たまたまですよ!!
まあ声だけはかかる。飲むのが好きだから。
酒が好きってことなのかな(笑)
飲んでる場が好きだから、飲んでたら自然とそういう話になるんです。
孤立は良くない
――2006年のアイメンタルスクール事件に衝撃を受けたと聞きました
あの事件は痛ましすぎて、すごく衝撃を受けたよね。
いてもたってもいられないというか。気になって気になってしょうがなくて。
支援者や支援団体のほとんどは、考え方のちがいはあるけれど「マトモ」なんです。でも、人としての尊厳を踏みにじるような支援者や支援団体がいる。こういう人たちのことを検証・批判しないと、「マトモ」な支援者や支援団体が浮かばれないと思いました。
――それで『共同生活の施設のルール』を自費出版した
でも、知り合いの団体に「あれどうしたらいいんだろうね」と相談に行くと、「いやあそこが異常だったんだよ」とみんな驚くほど危機感がない。
「自分たちの所ではあんなことは絶対に起こらない」と信じこんでいる。それはどうしてなのか、突き詰めて考えているようでもないから、それはそれで不安になった。
――成功と失敗の積み重ねが業界でされていない?
若者支援は基本的に福祉ではないし、身体障がいや介護の対人支援とは違ってノウハウの蓄積がないんです。ないから、支援者は、たまたま成功したかもしれない事例をもとに支援手法を作り上げてしまうんだよね。
どんなにデタラメな支援をしても、たまたま成功することがある。それは人と人とのコトだからそういうこともある。
でも、たまたま成功しちゃって支援者がその成功譚に酔っちゃうと、ずっと同じことをつづけちゃうんだよね。本当は一人一人違うのに、違う人にも同じことをしちゃう。それを客観的に判断する機関もいない。
支援ってこんなことでいいのかな、と思い続けています。
――永冨さんなりの解って出たのでしょうか?
究極的には、やっぱり被支援者である当事者に声を上げてもらうしかないと思っているけれど……。
支援者の人は「ひきこもっている人で“出たくない”と言う人に会ったことがない」と言うけれど、そこも疑ったほうがいい。たまたま、そういう人にしか会っていない可能性だってあるから。
――支援者の知らない若者がまだたくさんいるんでしょうね
支援に関する私なりの考えのなかには「人はやっぱりひとりでは生きていけない」ということがどうしてもある。
孤立は良くない。「その人なりの孤立の回避の仕方を一緒に考えるのが支援」というのが当面の私の回答です。
ひきこもりは生き方の問題
――永冨さん的に今後どういう支援が必要かとかってあるんですか?
ひきこもり問題は労働と密接に関わっているけど、実際に家が裕福でお金があったら働かなくてもいいわけです。
でも、孤立はしない方がいいと思う。やっぱりひとりだと生きていくのがきついから。
孤独を愛する人もいるだろうけど、孤独と孤立はちがうよね。
やっぱり、ひきこもり支援は福祉ではなく、生き方の問題だよね。人生の問題。
本人がどうなりたいかを聞いて、その人のなりたい道にちょっと進めるようにしてあげるというのが本来の支援だと思うんだけど、最近の支援は「普通」を目指しているだけのように見える。
「仲間づくりをしましょう」
「働けるようになりましょう。できれば週20時間以上働きましょう」
そういうのはいらぬお世話だなと思う。
そのことに迷いを見せない支援者がいることは、ときどき怖くなる。
支援者だって迷っていいと思うんだよね。
「この人を本当に働かせていいのかな?」
「この人は友だちがいなくても大丈夫なんだ」
「いろいろな生き方があるよね?」
そんなふうに。
自分の生き方とは違うけど、こういう生き方もあるんだと驚いてもいいだろうし。
でも、画一化したところに当てはめる支援も少なからずあるような気がします。
――いろんな団体を見てきて思うこと?
資金源の都合とか、いろんな制約があるのもわかっているから、支援団体や支援者を責めるつもりはまったくないよ。
タメさんに「お前には哲学がねえんだよ」って言われて「なくて悪いですかね?」と思っていたけれど、人を支援するんだったらやっぱり哲学はいるんだよね。
何か芯みたいなものが必要だと思う。
――永冨さんだからこその発言ですからね。外部委託の・・
「出入りの業者」だからね!
でも私にメリットないよね!このインタビュー受けても私のメリットは全然なくない?
――うっ…すみません…でも、永冨さんからタメさんからつながったマインドをつなぐためにも勇気を出して残しておきたいです。
今回はここまで!
読んでいただきありがとうございました。20周年企画「20年の軌跡」はいったんここまで!また不定期にスタッフや取り巻くみなさんのインタビューを今後も掲載してきます。
大変多くの方に読んでいただき誠にありがとうございます。
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