僕にとって、もっとも尊敬する人間であった父親、工藤定次が逝きました。どのような形で「お別れの会」についての情報を届けたらいいのか考えていたのですが、このご時世なのでネットの力を借りたいです。
ドラマのような最後でした。昨年11月から「いつ命を失ってもおかしくない」状況でした。肝臓がんで治療はできなくなったので、細かいことは置いときますが、医者からどこで命が尽きるかわからないという話をもらっていました。
それでも低空飛行かもしれませんが、それなりに安定していて、「あれ、実はこのひとは死なないのでは?」なんて、本気で思っていた時期もありました。
しかし、夏前くらいから体調も悪くなり、大量の吐血で入退院を繰り返し、夏の終わり頃、かなり危ない状況までいったんです。それでも、やっぱりそこから退院して、講演までこなし、家庭ではたくさんの話もできました。
それでもちょっと遺言モードみたいになっていって、痛みはなく、思考は相変わらずクリアで、話し出したら止まらないし、いつものように少し議論がヒートアップしたり。
そんななか、9月23日の夜にまた入院して、母親と妹二人が病院に集いました。「これはちょっと危ないのかもしれない」と思ったところ、またも安定基調になったので、「こういうことを繰り返すのだろうな」なんて気楽に考えて、いったん、夜に自宅へ戻り寝ました。
それでもなんだか胸騒ぎがしたので、病院にいる妹から電話がいつ鳴ってもおきられるよう、普段はマナーモードにしているところを、通常モードにして寝ました。
「ビー、ビー」
その音が耳に届いたとき、「やっぱり・・・」と思いながら身体を起こし、妹からの電話を取って、すぐに病院へ。家族のなかでもっとも遠い場所にいる僕も、車で30分くらいなので4時前後に病院に到着。
すると、そこにはギリギリの状態に見える父親がいました。意識はまだあったと思います。みんなで足をさすったり、手を握ったり、声をかけたり。僕が手を握ったとき、ちゃんと握り返してくれて、「もしかしたら、また低空でも安定するのではないだろうか」と思いました。
しかし、バイタルも下がって、いよいよまずいかもしれないと思ったとき、もうひとりの自分が出てきました。
「まさか、こんなドラマでしか見られないシーンってあるのだろうか。家族が全員集合し、痛みのないなかで、少しずつ意識が遠くなっていく。見守られながら最後を迎えるってこと、本当にあるんだ。僕の父親にあるんだ」と。
そして、早朝になり、眠るように逝きました。当直の医師が来られて、瞳孔を確認し、時計を見て、「ご臨終です」といって深々と頭を下げる。
目の前の現実は現実として受け止めていたし、ずっと気持ちの準備はしてきたし、余命は先刻されなかったけれど、だんだん遺言モードになっていたので、遂にかという気持ち。そして、もうひとりの自分が「これもドラマのワンシーンみたいだなぁ」と。
工藤定次という存在は、小さな世界かもしれませんが、40年以上前(つまり、僕が生まれる前)から、不登校やひきこもり、非行や障がい者など、生きづらい青少年を自宅に迎え入れ、共同生活を通じて自立支援をしてきましたので、少なからず知られた存在だったと思います。
物心ついたときから、入れ替わりのある血のつながらない30名、40名の青少年やスタッフのひとたちと朝ごはんを食べ、遊び、暮らしていました。夏休みのキャンプは、車を何台も出して、何十人単位でキャンプ場を貸し切ってました。
おぼろげながら、夢はかぎっ子で、自宅に両親はいましたが、仮にいなくたって、両親以外の家族が何十人もいました。血のつながった妹は2人ですけど、血のつながらないきょうだいが、入れ替わりながら何十人もいる生活は、家族は誰で、どこまでなのかという思考を頭から吹き飛ばしてくれました。
なぜか中学くらいまでファミコンを買ってもらえなかったんですが、他のひとが持っているファミコンをやるのはOKだったので、共同生活をしている何十人のひとたちの部屋に行って、それぞれが持ってるカセットを入れてファミコンしたり、漫画読んだり、音楽聞いたりしてました。本当に謎の家庭で、家業でした。
記憶は曖昧ながら印象的なことはたくさんあります。
僕は小学校のとき、ガンプラを作ってコレクションしていました。それはそれは大切にしていたのですが、あるとき、知的障害を持つ子(といっても年上)がそれを全部破壊しました。
烈火のごとく怒った僕は、泣きながら父親に衝撃の出来事を伝えました。たぶん、その子を叱ってほしかったし、代わりのガンプラを買ってもらえたらラッキーくらいなこともあったかもしれません。
しかし、父親は僕に怒りました。
「お前、彼がそういう性質(物を叩いたり、投げたりする)なの知ってるだろう?」
「知ってる・・・」
「それを知りながらプラモデルをそこに置いておいたお前が悪い」
そういわれて、「あぁ、そうだよな。一緒に生活をともにしている存在のことを理解しているんだから、それをわかってガンプラ置いといた自分がよくなかったよな」
なんて思うわけありません。すごく泣いたと思います。でも、いま思えば、これってさまざまなひとが一緒に暮らすなかで必要な配慮だったり、「当たり前のこと」だったんだと思います。振り返れば素晴らしい教育方針だったようにも思います。
もしかしたら、現代において、そのような多様なひとたちがともに暮らす生活は、少なからず理解もいただけるかもしれません。でも、30年も40年も前の時代です。やっぱり、嫌なこともありました。自宅の前を通るひとから、「お化け屋敷!」という声を投げかけられたりもしました。
何年のときか忘れましたが、小学校で「お父さん(お母さん)のお仕事は何か」を前からひとりずつ言っていくとき、僕は自分の父親の仕事を一言で表せませんでした。車屋さんでも、八百屋さんでも、何かを作っているわけでもない。
呆然と立ち尽くしていた僕に対して、先生が何かフォローしてくれるのかなぁとちょっと期待して待ってたら、そのまま僕は飛ばされ、僕の後ろの生徒に順番が行きました。あれは結構堪えました。
そういう環境下で、そのような教育的なものを受けていましたが、基本的には放置されてました。他の子どもたちはある意味お客さまであって、僕らは何でも比較的後回し。当然なんですけど、なかなかうまく受け入れられないこともありました。
大きな家族で生まれ育っているので、自分たちだけを見てほしいみたいなものはないんですが、なんで後回しなの!みたいなのはありました。なにせ、家族5人で(記憶に残る限り)旅行に行ったの、僕が23歳くらいのときです。しかも、その理由は、父親と母親がいなくなっても、会社が回るのか確かめる、みたいな謎の理由で。
本当に私利私欲の「私」を持たず、なんでも「公」を前提に思考を組み立て、子どもたちに話す父親でした。面白いなと思ったのは、医師からもう最後なので自分がやりたいこと、なんでもやってください、と言われたとき、実際に自分がやりたいことが何にもなくてすごく困ったということです。嘘のようですけど、本当に困ってました。
人間の人生が長くなれば、それだけ成人年齢、子どもである期間も延びるはずなのに、成人が20歳から変わらないのはおかしいってずっといってました。僕が小さいころから。そして、ウチの成人式は30歳だから、30歳までに自立すればいい。それまでは自立しても、しなくてもいいってずっといってました。最後の最後まで、いまの子どもたちは30歳とか、40歳で大人になればいいし、それだけの時間を社会的に渡す必要があると言い続けてました。
ただ、話し方がちょっと粗雑で、しかも恥ずかしがりやな性格のため、言葉が強くなることもあって、誤解も受けたと思いますし、正直、ずっと嫌いだというひとがいると思います。曖昧な言い回しが好きでなく「言い切る」ことにこだわりも持ってました。よくそこらへんは怒られました。小さい頃もそうですし、20歳を超えて、他のひとを交えて話したり、取材などを受けたときに抽象論に逃げたり、語尾をぼやかしたりすると怒られました。
別に許してくださいね、というつもりはありませんが、そういうひとであったのは、子どもの前でも同じで、ブレることは最後の最後までなかったひとでした。
お酒は剣菱、煙草はチェリー、行く場所はパチンコと公営ギャンブル。小学生でほぼすべての公営ギャンブルの場に足を運び、足しげくパチンコ屋にいた人間もいないと思います。よく連れてってもらって、買ったときは景品とってもらってました。ファミコンだめなのに、ファミカセオッケーというルールも謎でした。
そんな豪胆で繊細、「私」がなく「公」を口にする父親も、68歳で他界しました。家族だけの葬儀は終わりました。骨は海に撒くように言われています。そして、これまでお世話になった方々のために三日三晩飲み会の場を開き、最後は万歳三唱で終わってくれ、というのも幼少期から言われていて、遺言的な話のなかでも言ってました。
本当に三日三晩やるのはちょっと大変なので、半日と翌日(午前・午後)の半分は公式に、残りの半分は有志に任せようと思います。万歳三唱は・・・仮にやるにしても、足を運んでくださった方々に流れるだろう微妙な空気を想像するに、どうなんでしょう。
そういう父親(と母親)のもとに育ち、何かにつけてひとと違う環境に身を置き、それに対して不平不満のようなものを言えば、論拠を持って否定され、誰かと比べてしまうような感覚を持たないように育てられた僕ですが、本当に心から尊敬している父親でした。
父親の交友範囲があまりに広く、全国にまたがり、また40年以上そのような事業をやってきましたので、どうやって知らせていいのかわからないままでおりますが、多くのひとに父親の最後の、最後のお別れの会の情報が届くことを願います。
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【日時】
(第一回) 令和元年10月25日(金曜日)
19時00分~21時00分
(第二回) 令和元年10月26日(土曜日)
10時00分~12時00分
(第三回) 令和元年10月26日(土曜日)
13時30分~16時30分
※第三回目は、みなさまとゆっくり、故人との思い出について語り合えるような時間を設ける予定でおります。
※第一回~第三回まで、ご都合の良い回へお運びください。もちろん、三回通してのご参加も歓迎いたします。
【場所】
セレモア 立川会館 白峯殿
東京都立川市柏町1-26-4 TEL042-534-1111 地図
平服にてお越しくださいますようお願い申し上げます
【問い合わせ】
特定非営利活動法人青少年自立援助センター
東京都福生市福生2351-1
TEL042-553-4485
(担当:お別れの会実行委員)
【供花等の問い合せ】
株式会社 セレモア
TEL 0120-470-470
FAX 042-534-1234
詳細はこちらのサイトをご覧ください。
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