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水瓶の中、その星よ/Novel by U2K

水瓶の中、その星よ

32,345 character(s)1 hr 4 mins

「彼はガニュメデスのようですね」

神に召し上げられた少年は幸福だったのだろうか。
注がれた紅茶を片手に考える。人類なんて、頑張って面白いことして頂戴、ぐらいのものだったけど───そもそも私、どうしてこの器がしっくりくるのかしら。

******

第一部 七章バビロニア、及び
冥界のメリークリスマス終了後の捏造話。

Fateシリーズ15周年、おめでとうございます。アーチャー召喚日にも凛の誕生日にも間に合わず、バビロニア舞台記念も完全に時期を逸しましたが公開いたします。

異聞帯ギリシャをはじめFGO本編とひどい齟齬が発生した場合、削除の予定でしたが、大丈夫そうですのでもう少しだけ置かせていただきます。2部5章アトランティス楽しかったです。ありがとう。

【追記】

久方ぶりの拙い投稿ながら、身に余る評価と閲覧をありがとうございます。
東京オリンピックではネロやアキレウス達にも思いをはせて頂けたら嬉しい限りです。

【追記2】

ヘパスイストス→ヘファイストス、アスクレーピオス→アスクレピオス、に表記を修正しました。

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長く狭い。産道のような重苦しさが、辺りの暗闇から迫り来る。

「…………本当に、どうしてこんなことになったのかしら」
「ほう。君が、それを言うか」

生まれてくる時の記憶などないが、光を求めて足掻く赤子は、このような息苦しさを抱えてくるのだろうか。

豊穣と多産を司る女神は、自分の誕生を覚えていない。

(生まれながらの完成品だもの、しょうがないじゃない)


純白系偶像女神ゴスロリアイドルデュオステンノとエウリュアレのように、神とは初めから役目に沿った形で産み落とされる。
だから自分のあり方に、間違いなどないはずだ。
───そのはずなのだが。

「ここはギリシャだ。土地にゆかりのある賢者ケイローンが案内を申し出た。許可したマスターの判断も含め、今回のレイシフトに関して、そこまでは何も問題はなかっただろう」

男はゆっくりとした足取りで歩く。組み上げた石壁に似た真っ直ぐな背中は、呼吸をしているか疑いたくなるほど静かだ。そこからたびたび言葉とともに発せられるのは、挑発まじりの皮肉と嘆息、そして、領域を侵略された獣のごとき警戒感である。

「ところが。その賢者の指示を無視して、乗機ごと調査対象の神殿に突っ込んでいった異郷の女神が居たものでね。その女神、はたして何処へ行ったのだろうな」
「〜〜〜、っさい!ここにいるわよ!こーこーに!」

前方の暗がりの中に、松明と見まごう赤い布がひらめく。

彼女を守り導くかのように先行するそれは、行動に反して、こちらを隙あらば引っ掛け転ばせんとする、からかいと警告の響きを含ませ問いかけてきた。

「そもそも君は軽率が過ぎる。聞いた話では以前、自分の神獣すら落っことしたそうだな。───何故そこまで重要なものをぽろぽろ落とせるのやら。懐具合を根底から測定し直す必要があるな。そこまで深くはないのを知る、良い機会になるだろうさ」
「う……っく」
「限度も考えず欲張って詰め込み、肝心な時にいつも破裂する癖はどうにかしたまえ」
「癖じゃないわよ!?」

自爆が趣味みたいに言わないでと、強く抗議する。しかしそれも、前を行く男の背中に当たり、むなしく跳ね返されただけだった。
男は呼吸をするようにこちらに喧嘩を売ってくる。
なんだってのよ、こいつ。

「釈迦、もとい女神に説法するわけにもいくまい。そろそろ終いといこう」

唐突に東洋の救世主を引き合いに出され、言い返そうと用意していたものが引っ込む。彼の声音の中に諦めの色が追加され、嫌な予感をかき立てた。対抗する次の言葉を探せないまま、彼女はまた先手を許してしまった。

「なんの策もなしに突っ込んでいったわけではないのだろう? 冥王ハデスに対抗する手段を、どれほど用意していたか。是非とも、君の考えを聞かせてはくれないだろうか」

赤い外套に剣呑な気配を纏った弓兵は、こちらを振り返ることすらせずに言い放った。

ここに今、海神ポセイドンを打ち負かしたという女大海賊はいない。
メソポタミアの女神と名もなき英霊は、カルデア本隊と分断されたこの状況において、たった二騎で、ギリシャ地下世界を支配するハデスの迷宮に立ち向かわねばならなかった。

(無事に戻れるのかしら、これ)

何も考えてませんでしたとは、あらゆるプライドにかけて言えはしない。
そして彼女───イシュタルは、冥界の罠というものと大昔から、相性がとんでもなく悪い。

目の前には薄暗い石の迷宮が続く。どこから入ったかもわからないこの場所で、刻々と時間が過ぎていた。



1.ストーム・イン・ア・ティーポット



天よりただ一点を貫く。
かの宝具は一発必中。空に瞬く射手の弓のは、彼の弓だ。地にあまねく者は皆、その目と矢からは逃れられない。

勇猛な半身馬ケンタウロスの姿でありながら、ギリシャの大賢者としても知られるケイローンは、一瞬前までのどかであったお茶会に、天蠍一射アンタレス・ スナイプのごとく、超鋭角から恐ろしい一撃を突き刺してきた。

「おや、いつものガニュメデス君は居ないのですか?」

その一言は、ぼべぶぅ!とウルクの賢王に紅茶を噴き出させ、しかもそれが目の前に座っていた戦女神の顔に直撃する、という大惨事を引き起こした。

三秒間ほどたっぷり時間をかけ、状況の理解が染み渡っていく空間の中を、ぽたり、ぽたりと雫が滴る音のみが響く。

「ギル、お代わりは?」

ぷっと小さく笑い、視線をそらせたエルキドゥの、涼やかな一声が余計に場を凍らせた。

「あー……」

共にその場にいたギリシャの大英雄、俊足のアキレウスは、ケイローンの後ろに控えたまま、手のひらで自らの顔を覆った。
微笑みながら古代ウルク王の笑いのアキレス腱をぶち抜いた我が恩師もそうだが、よりによってガニュメデスに例えられた奴のことを考えると、なんともいたたまれなくなったのだ。

時は午後。暖かい地中海であれば、うららかな日差しがオリーブの木々からこぼれ、午睡の誘惑が舞い降りる昼下がりだ。だが残念ながらこの地では、どこまでも分厚い雪雲が広がるばかり。今日も人類最後の砦は、白く深く、延々と風雪に包み込まれていた。

まだ空に荒れる気配はない。しかし突然吹雪く時も多く、砦の管理者達は環境維持に気が抜けない。山頂に座していることもあり、カルデア基地の空模様は、常に気まぐれで破天荒だった。それは実に、文字通りに。

中央にティーポットと、バターのふくいくたる香り立ち込める焼き菓子を乗せた丸いテーブルは、大惨事の中、まだかろうじて無事と平静を保っていた。
ティーサロンと呼ぶには少し殺風景な窓際の一角を囲み、この場に集まっていた中で、紅茶を吹き出すようなことをやらかしたのは、ウルクの賢王だけである。

メソポタミアの奔放なる天の女神イシュタル。その姉である冥界の女主人、エレシュキガル。大地にそよぐ緑の髪色をした、穏やかな笑みをたたえる神造兵器エルキドゥ。

まさに錚々そうそうたる面々の中で、人類最古の大英雄、ギルガメッシュだけがテーブルに伏せ、謎の痙攣をしているのだから、通りすがりの立場であったケイローンははて、と首を傾げた。
名馬の尾のごときしなやかな栗毛が、ケイローンの頭の動きにあわせ肩を流れる。

「これは何か、おかしな事を言ってしまいましたか」
「…………ガニュメデス。ガニュメデスとな」

腹の筋肉をくつくつと引きつらせ、卓上に伏せたままウルクの王は笑う。
人の営みに隅々まで目をくばり、弱くも愚かしくも何度も立ち上がる魔術師を叱咤激励するこの賢王は、時々、妙に笑いの沸点が低い。

ひとしきり笑った後、自身を落ち着かせるよう額をかきあげた男は、指の隙間より溢れる金糸の向こうに、赤い針に似た虹彩を覗かせた。
神の直系にあたるこの古代の王は、女神達や、神々の子であるケイローンを前にしても、微塵も気後れするところがない。

「賢者よ。お前の時代では水瓶座と、そう呼ばれているそうだな。───天の『グラ』は」
「天のグラ? あの星の? のことなのだわ?」
「ええ」

ギルガメッシュの言葉に、エレシュキガルが首を傾げる。何やら聞き慣れない単語にも、ケイローンは頷いた。

「あの星々は、こちらではガニュメデスという少年であるとされています。……いつも彼を見ると、神々に酒を注ぐ、その少年のことを思い出しまして」

懐かしそうに微笑むケイローンに、悪気はまったく見られない。素直な気持ちから述べられた、賛辞に似たようなものだったのだろう。

「ギルガメッシュ……?これはどのような献上品、なのかしら」

声音の表面は優雅を保っているが、そろそろ笑顔の方は限界らしい。ギルガメッシュの対面に座っていたせいで、甚大な紅茶被害をうけた黒髪の娘───イシュタルが問う。

金星の女神イシュタル。その華のかんばせから、紅茶だったものの雫が一滴、また一滴と、よく手入れされた黒髪や、睫毛や顎を伝ってテーブルに落ちていた。
その間、始終笑顔であった彼女はまさに愛の女神にふさわしい振る舞いだった。と、思われる。

その美の女神がやっと次の一言紡ぐだけの間に、何回彼女の口の端がぴきぴきと痙攣していただろう。
いつもは柘榴石グラナティスのような瞳が、黄金に揺らめく兆しさえみせていた。

「しかも、グラ、って、んの!? 何言ってー!?」

紅茶の雫も蒸発する勢いで、イシュタルは顔を沸騰させる。そのままぎっと音が鳴らんばかりに眼球を動かし、顔より紅い双眸がケイローンを睨んだ。
それを見たギルガメッシュは、とうとう腹を抱えてテーブルを叩き出した。我、腹筋大筋肉痛の図だ。

忘れてはならないのは、愛は憎しみと紙一重の感情であり。そこの彼女は、今でこそ可愛らしい人の形を借りてはいるが、本質は『愛と戦の女神イシュタル・アヌニトゥム』と呼ばれたる戦神である。
その苛烈さたるや、軍神の末裔たるアマゾネス達にも引けを取らないという。

(わざと怒らせているな。気が知れねぇ……)

どこかのバーサーカーには聞かせられないことを、自分のことは棚に上げたアキレウスが思う。

紅茶をひっ被った分を差し引いても、その娘は美しかった。見た目はまだ子供と大人の境目のところではあるが、それでも内からの輝くような神気と、溌剌とした瞳は、十分に賛美に値する。

神話やその姿を残した像によると、イシュタルとは、女性の魅力を最大限に兼ね備えた、肉感溢るる妙齢の美女のはずなのだが、ここにいるのはまだ、花開く前といった、清楚なラインの娘である。

むき出しの手足は脇や太腿の付け根まで露わになっているというのに、艶かしい印象があまりない。全体的になだらかな流線型の体付きは、若々しい魚のようだった。

小さめながらするりとした曲線を描く鼻梁と、微笑みが似合う紅い口元は、彫刻のような彫りの深い顔立ちでもないものの、異郷の不思議な魅力も併せ持っている。

傍に座るイシュタルの姉、エレシュキガルも、かのゴルゴン姉妹ほどではないが、そっくりな容貌だ。色違いの二柱が揃うと、かなりの見応えである。

神気に満ち溢れた古代ギリシャの英雄にとっても、たとえ仮初め、依り代を借りているとは言え、歴史のさらなる深部にある神々が目の前に存在することに、底知れないものを感じていた。

「あああなたも!なんであいつがその、ガニュメデスとか言うの!?」

だが神々しさで語るには、どこか人の気配が強すぎるふしがこの女神達にはある。時々信じられないほどうっかりなところや、時々とんでもない博打を仕掛けて大損するところなど。
そういったものが可愛らしく見えるのだろうか。

どこかから、それは危険な思考だぞ、という天か誰かの囁きが聞こえたような気がする。だが女性の魅力とは、古来そのようなものではなかろうか。凄惨に戦いながら、中に優しさや美しさを秘めるような。その激しい差に、より心の内を揺るがされるものではないだろうか。

アキレウスのその華美のない率直な感想というものが、かつて大惨事を引き起こしたこともあった。現在、直接これらを女神に伝えないだけ、大英雄も学んでいる。

このような畏れ多き神々や、神霊に匹敵する力を持つ英霊達に、正々堂々と給仕をし、茶を淹れる。そんな物好きな者が、ここカルデアには数名存在する。

生前母親として過ごした延長として炊事を好む者もいれば、メイドなのか王なのか水着なのか、猫なのか犬なのか、はっきりしない者もいる。だがその中でも、『彼』といえば概ね一人の英霊を指す。

現在卓上で芳しい饗宴をしている紅茶とバターフィナンシェも、その彼の手によるものだ。
英国由来の英霊のみならず、紅茶を好む者がカルデアに増えたのは、だいたいその者の入れた紅茶が、大変美味だったためという。

赤いブラウニーだのキッチンの英霊だのお菓子のおじ様だの、彼の振る舞いに対する呼び方は様々だ。
だが、ガニュメデスは、その中でもかなり斬新な渾名であった。

黄道十二宮の星座の一つ、水瓶座。数ある星座の中でも、半人半馬のケイローンを表した射手座に並ぶ、有名な星座である。天に描かれたガニュメデス少年が水瓶を持ち給仕する姿は、元々は射手座と同じく、遥か古代メソポタミアの星座に由来する。

偉大なものグラ』───創造神ヌディンムドにして、魔法と水の神であるエンキと、アッカドの英雄が結びついた偉大なる者。水瓶を携えし者。
その水瓶から注がれる流れはチグリスとユーフラテス、二つの川を示すという。水瓶座の原型・グラとは、古代メソポタミアにおいても、重要な星座の一つであった。

偉大なもの、グラのモチーフとなった神エンキ。その神と女神イシュタルは、浅からぬ因縁がある。巻き込まれた姉エレシュキガルも、二柱の間柄をよく知っていた。

「良い。ケイローンよ、ザブトンを後ほど部屋に遣わす。存分にこれからも気の利いた話芸に励むがいい」
「ラクゴのつもりはなかったのですが……」

極東に伝わる話芸について、ケイローンは自身の顎に触れながら否定する。
先程からのイシュタルの、星をも射抜きそうな目線にも動じない。心底不思議、といった具合だ。

ギリシャ神話における水瓶座、ガニュメデスとは、神々を虜にする絶世の美少年である。あまりの美しさに見惚れた神が、我らの側に置くべし、と親の断りなしに誘拐するほどのだ。
古代ギリシャにおいて美とは、称えられると同時に、天と地、正義と悪がひっくり返るほどの価値がある。

それに対し、話題の『彼』の後ろ姿ときたら。まったく美少年というものとはかけ離れた、取りつく島もない、鋼と意思と筋肉の塊だ。
アキレウスはふぅと小さな息を零す。師には、どうしてもそこが分からないらしい。

アキレウスがケイローンの肘を突き、目線と表情で合図する。元々通りすがっただけだ。これ以上おかしな空気にしないうちに、すみやかに撤退したほうがいい。
しかし、なんでしょう、と少年のような目で聞き返す師の姿に、またどうしようもなく肩を落とす。

大賢者と名高いケイローンは、視野も広く機微にも聡いのに、たまにこうして、命に関わらない範囲でたがが外れることがある。

愛弟子の幼少期について慈愛の笑みと共に周囲に語られた日には、その日一日、アキレウスは穴を掘って人前に出ていきたくなくなる。
話を聞いた周囲の生暖かい視線が、ことさら踵への矢のように痛いのだ。
まだ修行でボコボコにされるほうがましだ。これでは勝てない。

どうか先生。頼むから、大の英霊ともなった男に『可愛い』だの『美しい』など、これ以上血迷ったことを言ってくれるな。あの巨軀のヘラクレスですら、彼にかかってはいまだ可愛い弟子の一人だ。

美しいと言われ激怒したアマゾネスの女王の気持ちが、彼にもほんの少しながら、分かったような気がしたのであった。




イシュタルと、エンキと、エレシュキガルの話とは。かつて冥界において、ふわふわした羊のサンタクロースが教えてくれたように、だいたいこのように伝わっている。

かつて姉エレシュキガルの領地、冥府へ意気揚々と勝手に乗り込んだ妹イシュタルであったが、冥界の護りにより女神の権能をことごとく奪われ、それは散々な敗北を喫した。

負けたイシュタルは罰として冥府に吊るされた。石版を抱いて正座の刑もかなり似合っていたが、あられもない姿で吊るされる様はなんとも痛快だったと、どこかの誰かは語る。

不可侵の地下冥界まで、天の女神であるイシュタルが足を伸ばした理由は、様々に伝えられている。天の女主人とまで呼ばれたその権能を、鼻にかけた傲慢さゆえだとも。伴侶を失ったばかりの姉を、ただ慰問したかったのだとも。真実は見たものや、当人達にしか分かるまい。

万が一に備え、冥界で何かあった時には助けてくれ、とイシュタルは方々の神に掛け合っていたのだが、手を差し伸べたのは、かつて自分が散々な目に合わせた淡水の神エンキのみ。
祖父である風の神エンリルも、父である月の神ナンナも、彼女を救おうとはしなかった。

イシュタルの当時の夫ドゥムジも、彼女が冥界に落ちている隙に、ウルクの新たな神の座にちゃっかり収まり、宴を開く始末である。

エンキの手を借り黄泉帰ってきたイシュタルは、当然、都市の有様を見て激怒した。ウルクは元々イシュタルの街だ。
ここに天地を挟んだ壮絶な夫婦喧嘩が勃発し、夫ドゥムジはすったもんだの末とっ捕まり、イシュタルの身代わりとして冥府に投げ込まれた。

その後の話は姉にして冥界の女主人、エレシュキガルにまかされた。
妹も妹だが、その夫も夫である。
もはやただの夫婦喧嘩に巻き込まれたようなものだったエレシュキガルは、粛々と冥界の法に則って彼らに裁きを下したのだった。

世界各地に冥界下りや黄泉還りの話は数あれど、その中でもかなりのドタバタぶりである。

───こうして冥界へ助けに入ったエンキと、イシュタルの因縁とは。

数々の神と婚姻を結んだ恋多き女神、イシュタルを口説こうとし、ひどく袖にされた男というのが、その淡水神エンキであるという。
そんな彼がなぜイシュタルを助ける気になったのかも、当人、いや当神に聞いてみなければ真実は分かるまい。神話とは様々に伝えられ、好きなように解釈されるものなのだから。

真意はさておき、自分で蹴り落としたことのある男神におめおめ助けられるなど、プライドも天より高いイシュタルはどんな心地だったのだろう。
彼女が冥界より帰還したしばらくの間、猛然と振る舞ったのは、そのあたりの心の機微にも原因がありそうである。

これらを「すべてをみたひと」と伝えられ、事象を見通す千里眼の主たる、ギルガメッシュが知らぬわけがない。あらゆる事を把握した上での「あれがエンキ役とは、まこと腹が痛い」である。

たかが一人の英霊、魔術使いの成れの果てを、間接的にではあるが、創造神であり魔術の神に例えた不敬も、かの賢王の笑い所だったのかもしれない。




「そこまで慌てるようなことではないでしょう、イシュタル。一度は振った相手だもの。今更話題にされても過去のことなのだわ」

背筋を伸ばし、無事だった焼き菓子を手に一口齧ると、エレシュキガルは言った。妹に比べれば恋愛経験などゼロに等しいというのに、まるでこちらも全て知ったように言う。

と、冥界の主と恐れられた、その澄ました彼女の説教顔が、次の瞬間、みるみる喜色に染め上げられる。先ほどまでの姉としての毅然とした態度は何処へやら、ほふほふと頬を動かし、おそらく感動を表す震えで挙動不審になりながら、目を瞬かせていた。

女神エレシュキガルは訳あって、美味しい食べ物というものにひどく免疫がない。星が溢れそうなほど輝く彼女の目が、菓子の豊潤な味わいを物語っていた。

「あーはいはい、美味しかったのね」

なぜか負けじとイシュタルも、焼き菓子を摘む。
本日のお茶請けは、マスターから聞いたという、バビロニアの菓子に近いものを用意したらしい。風味や材料は同じではないが、現代風のこの菓子、フィナンシェとやらも良いものだった。さくさくほろほろと口に消えながら、舌に広がるしっとりとした柔らかな甘さが紅茶に合う。

この紅茶も、イシュタル好みであった。飲んだはずのなかったこの茶は、なぜかこの口によく馴染む。

(相変わらず、憎たらしいほどの味)

たまには違う茶葉の風味がいいと思えば、何故かちょうど、その通りのものが出てくる。一息つきたいときに、まるで狙ったかのように、食堂から芳しい紅茶の香りが漂ってくる。

千里眼で自分を覗かれているのかと、イシュタルは最初は疑った。だが実際は大いに違った。神代の者が持つ眼とは比べるものでもない。なんと、ただの観察眼と後に分かったのだ。相当研ぎ澄まされすぎたものとはいえ、逆にそっちのほうがなんなのよ、とイシュタルには面白くない。

まだ高次元の不思議な力で分かりました、のほうが、こちらの矜持が保たれる。だのに、せいぜい人間の視力強化魔術ぐらいの、あとは経験からの観察眼でとは。そう、ただの。
そんなもので、神が見透かされてたまるものですか。

そうだ。何かとあいつは、あの弓兵はイシュタルにとって面白くない。
在り方や考え方、なにかつけて、理由もなく怒りのようなものが不意に沸く。

元々『イシュタル』としては憎からず想っていたはずの、ギルガメッシュと茶会を共にしているのに、この菓子と紅茶のせいで、違う事ばかりを思い出してしまう。もっと世間知らずの姉をからかったり、王の宝物庫から何か引きずり出してやろうと、会話を楽しむ予定だったのに。
加えて、先ほどのケイローンの一撃である。

もう和やかにウルク流の腹の探り合いといった空気でもなく、イシュタルと犬猿の仲であるエルキドゥも、笑い上戸な親友につられくすくすと笑っている。
しばらく茶会の方向性は、この話題からかいになりそうだった。

この意味不明な怒りの出所が、現在の肉体にあるとしたなら。なぜイシュタルはこの器を選んでしまったのだろう。
ただ降臨の器にするのであれば、彼女の神殿には信心深い美女など沢山いた。魔術の素養はおいておくとしても、波長の合う者もいただろう。
聖杯に関わった故ともいうが、時に煩わしいしがらみを持つこの体が、しっくりくるだけに余計、苛立たしい。

イシュタルが握りしめたティーカップの中で、紅い液体は静かに波紋を作り、ゆらゆらと揺れているばかりだった。



カルデア司令部より緊急招集がかかり、ギリシャの師弟とウルクの古代王は、慌ただしく茶会を後にした。
紅茶も残り少なく、菓子も話題もちょうど途切れたところの呼び出しであった。元凶達の鮮やかな勝ち逃げを、イシュタルは歯噛みしながら見送った。

女神らと同じく、茶会の席に残されたエルキドゥはというと、親友を見送った後、自分たちの分だけをてきぱきと綺麗に片付けた。

「じゃあこれで。『ガニュメデス』には、僕からもよろしく言っておくよ。美味しかったってね」

念押しするような笑顔を女神達に叩き込むと、自称・壊れかけの兵器は、颯爽と席を去っていった。

かつてエンキに助けられたことがあるのは、実はイシュタルだけではない。エルキドゥもまた、かの神に冥界にて助けられた経緯がある。神造兵器である彼に、まるで人と同じように差し出された菓子や飲み物を通じて、今日は何かを思い出していたのかもしれない。

「あのぽんこつ……! 人間らしさに磨きがかかってんじゃないの!? うちのシャムハトの顔をしてなけりゃ、三回はぶっちぎってるわ」
「女神の品格にかかわる発言はやめるのだわ……」

げんなりした様子でエレシュキガルがなだめる。この星見台カルデアでも妹とエルキドゥの喧嘩が原因で世界を滅ぼしてしまいました、では洒落にならない。

ようやく結び直された縁により召喚され、女神エレシュキガルは、出会った時より少し成長したカルデアの魔術師と再会を果たした。

その若き人間は、たった一人の従僕サーヴァントを連れて太古のメソポタミアへとやって来た。はるか未来の星見達から使命をうけ、人類滅亡を回避するため、時を超え訪れたという。それがどれだけ危険な事か。度外視しすぎの、とんだお人好し魔術師マスターだった。

様子を覗き見るだけのつもりだったエレシュキガルに、なんの疑いもなく、外の世界の素晴らしさを良く喋る。能天気で無遠慮な振る舞いは、女神の威厳を保っているのも馬鹿らしいほどに、人懐こく暖かかった。
生きている人間とはこうしたものだったのかと、あの時エレシュキガルは今更ながら気付かされたのだ。
自分が守っていた世界とは、支えていた世界とは、そんな輝きに満ちていたのだと。

そして古代バビロニアにて世界の終わりを共に乗り越えた後、冥界とは異なる時の流れの中にいた人間の側では、一年の時が過ぎていた。

激しい戦いの中に身を置きながら、若者にとっては数年分にあたるであろうその間、ずっと自分を忘れずにいてくれた事だけでも、エレシュキガルの胸にはほのかな暖かさが灯る。

自分を冥界の外へと連れ出してくれたマスターのためにも、頑張って役に立たなければだわ。
張り切って決意したものの、早々にエレシュキガルは悩んでいた。

この妹、なんとかしなければ。

「エレシュキガル」
「ひあっ!?」
「私。あんたがなにかの、万に一つの可能性でここに現れたら、絶対に聞いてやろうって思ってたことがあるの」
「な、なななんなのだわ??」
「もう涙目になるなっ!……あの時。どうしてあんなことしたのよ」

全ての神権を投げ打つ覚悟での、冥界の加護。
全身の血の気が引くとはあのことだ。あれほど己を律し戒めてきた姉エレシュキガルの、唐突な自殺行為に、イシュタルは今も思い出すたび怒りが収まらない様子だった。すでに握り拳に血管が浮いている。

「───あの時、あの時は」

希望を感じたのだわ。

あわあわと理由を述べるより先に、ぽろりとそんな言葉が溢れでた。
希望、という意外な内容に、答えたエレシュキガル自身もきょとんとしている。答えを引き出した側のイシュタルも、拳を握ったまま、どう反応したものか動かなくなる。

ああ、でもその通りだ。氷が解けるように、心が言葉の意味に追いつく。
かつての恐れを打ち消したように、自然とエレシュキガルの口に微笑みがのぼる。

天から降り注ぐ剣の雨と、泥濘を打ち払う星の輝き、その命の奔流を見たとき。エレシュキガルの中に湧き上がったのは、恐怖を流し去るほどの勇気だった。
絶望の淵で、泥の中で、必死に手を伸ばしたとき、誰かが自分のその手を待っているという確信と。現れたその光の流れが、手を取り合った。

青き騎士王と赤い弓兵と共に落ちて来た魔術師が、何度も膝を折りそうになりながらも、冥府と世界の闇を塗り替えていった───あの光景は。

大丈夫。きっと大丈夫。『私たち』はあのお人好しの魔術師を救える。この世界も何とかしてみせる、と。

あの魔術師を勝たせるのだと、逆境に対し、力強く吠え立つ凛々しい心が、あと少しの何かを必要としたエレシュキガルの背中を押した。

結果は少々へっぴり腰で涙目のご存知な有様だったが、彼女の献身なくして、あの地獄の底のような事態は収まらなかっただろう。

「あ…………」

長い夜が終わりを迎える、その直前の。黎明が差し込む隙間に放たれた、最期の一撃と煌めき。
それは初めて見る、どこかで見た光景だった。

「なによ……それ……」

2人の女神は同じ景色を見ていた。それがかつてのバビロニアを襲った大災害であったか、遠き器の記憶であったか。
大きく異なるはずの二つの破片は、見事に溶け合い、あの場の彼女達にはめ込まれたのだ。

「この器には、なるべくしてなった理由があると思うのだわ」

自らの胸を押さえ、中に眠るものに囁くよう呟く。
何も後悔のない晴れやかな顔で、冥界キガルの少女は一輪の花のように笑った。



Comments

  • なぎさん
    Feb 8th
  • paru
    May 29, 2019
  • 沼落ちロベリー
    April 26, 2019
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