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血の味ブラウニー/Novel by 田中M

血の味ブラウニー

46,673 character(s)1 hr 33 mins

大遅刻のバレンタイン槍弓です。
高校生最後のバレンタインに、槍にチョコを渡せなかったことを後悔している弓が、大人になってから槍と再会する話。
もしくは、振り回される槍の話。

*現パロです。
*ご都合主義。
*弓が槍を襲ったかもと悩む所はありますが、あくまで槍弓です。

ーーーーーーーーーー
ホワイトデーまではバレンタインデー(言い訳)

初めてのイベントを前にとてつもなく緊張しているので、気を紛らわせる為に書きました。
軽い気持ちで読んで下さい。いつもの感じです。
だらだらと書いてしまったので、お時間がある時にどうぞ。

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「好きな奴がいるんだ」

放課後の教室。
遠くから聞こえる陸上部の声と、吹奏楽部の奏でる音楽。
自分達以外に誰もいないその場所で、彼が言った。
その瞬間、夕陽に照らされた彼と自分だけが、この世界から切り取られたような気がした。
今日はバレンタイン。
エミヤの鞄の中にも、彼に渡す為のものが用意されていた。
それなのに。

「そう、だったのか」

気付かなかった、とエミヤは笑った。多分、ちゃんと笑えていたと思う。


エミヤが彼と出会ったのは、高校1年生の時。
海外からの留学生である彼と、偶然同じクラスになった。
1年目は彼と気が合わなくて、喧嘩ばかりだった。流暢な日本語でエミヤと言い合い、殴り合う姿はクラスの名物にもなった。
2年目はクラスこそ離れたが、一緒に昼食を食べることが増えた。テスト前、サボりがちな彼に勉強を教えたり、休日に遊んだりするようになった。
3年目は、また同じクラスになった。
クラス発表の時、『またよろしくな』と笑う彼に、エミヤの胸は不意に高鳴った。

たぶん、初恋だった。
だが、彼が日本にいるのは高校の3年間だけ。卒業と同時に母国に帰ってしまうことは知っていた。
嫌でも縁は切れる。好きになっても未来はない。
それ以前に男同士だ。女好きの彼が、男である自分をそういう目で見てくれるはずもない。
恋を自覚した瞬間、エミヤは絶望した。
だがそれでも、その恋心は捨て切れなかった。
受験勉強が加熱していく中、生まれた恋はじくじくと疼き、徐々に肥大していく。
エミヤには、どうすることもできなかった。

気付くと、2月になっていた。
2月には、バレンタインがある。
エミヤはバレンタインには毎年、弓道部の仲間にチョコレート菓子を作って持っていく。
今年はもう部活は引退しているが、先月受けたセンター試験の結果が良かった為、ほんの少しエミヤに心の余裕があった。だから、気分転換も兼ねて、今年もバレンタインデーに部活を頑張っている後輩達にチョコレートの差し入れを持っていくことにした。
その時ふと、彼の顔が頭をよぎる。
彼に渡せるチャンスは今年が最後だ。来年から、彼はここにいない。
ならば、最後の最後に、彼に渡してもいいだろうか。
それくらい、許されるだろうか。
言い訳は考えてある。
部活の後輩に配るお菓子が余ってしまった。捨てるのももったいないから君にやろう。
いつものように皮肉げに口を歪めて言えば完璧だ。
そうしてエミヤは昨夜、彼に贈るお菓子もこっそり作ったのだった。

四角く切られたクルミ入りのブラウニー。
それはエミヤの鞄の中で、今も息を潜めて出番を待っている。

「全く気付かなかった。その、いつ頃から好きだったんだ?」
「んー、高2の終わりくらいだ。日本に居られるのもあと少しだし、後悔しねぇように、ちゃんと言っておこうと思ってな。それに、今日はバレンタインだろ?告白するにはうってつけじゃねぇか」

どくり、どくりと心臓が鳴る。
変な汗は出ていないだろうか。
自分は、いつも通りの顔をしているだろうか。

「そうだな。確かに、告白するには最適な日だ」

細心の注意を払って、エミヤは答えた。
だが、どうして彼は、自分に告白することを言ってきたのだろう。
確かに今となっては、エミヤと彼の仲はとても良い。親友と言ってもいいくらいだ。
そうか。だからこそ、事前にエミヤに教えてくれたのかもしれない。
きっと彼は、友人としての言葉をエミヤに期待しているのだ。
ごくりと、無意識に唾を飲み込む。

「まぁ、君の告白を断るような贅沢者はこの学校にはいないから、心配することもないだろう」
「そう思うか?」
「思うさ。今日は君も朝から告白の呼び出しで大忙しだっただろう?学校一のモテ男じゃないか」

羨ましいことだ、とエミヤはいつもするように口の端を上げた。

「本当にそう思うか?アーチャー」

彼がエミヤのあだ名を呼ぶ。
中学から弓道をやっていた自分に付けられた呼び名だ。
彼と対になる、エミヤの特別な名前。
その声は、どことなく不安そうに聞こえた。

「いつもの君らしくない。何を不安がっている」
「告白ともなれば、俺だって少しは緊張するわ」

拗ねるように口を尖らせた彼に、エミヤの胸がぎゅうと締まる。
何も考えるな。友人としての言葉を吐き続けなければ。
恋人になれると期待していたわけではないだろう。エミヤに許されているのは、友人という立ち位置だけ。それ以上踏み込むことはできない。
ならば、この場所だけは絶対に死守しなくては。
だって、そうしないと、エミヤと彼との繋がりも、今までの友情も、いとも簡単に無くなってしまう。

「ならば、友人としてのアドバイスだ。二度は言わん。君はいい男だ。自信を持って行ってこい」
「アーチャー」
「情けない声を出すな。君なら大丈夫だ。私が保証する。なぜなら私は、君以上の男を知らない」

彼が黙ったのをいいことに、エミヤは話し続けた。
彼を褒め、彼の好ましいところや、彼の友人で居られることを嬉しく思ってること。
その気高い矜持や、漢気溢れる態度。大らかな心の在りようと、人好きのする笑顔。
多くの者が彼を羨み、憧れていることを。
自分の心が傷付いていることを自覚しないように、話して、話して、話して、話した。
必死だった。止まると、友人としての殻があっという間に剥がれてしまいそうだった。
だから、ただひたすら口を動かした。
本当は、泣き出したかった。
自分以外の誰かに惚れた男が、自分の知らない大人びた表情を浮かべる彼が憎く、悲しく、そして寂しかった。
そんなエミヤを止めたのは、聞きなれた彼の笑い声だった。

「そんなにお前に褒めてもらえるとは意外だったわ」

腹を抱え、晴れやかな顔でげらげらと笑う彼を、エミヤはぽかんと見つめる。
そこに、先程までの不安そうな面影はない。
きっと、エミヤの励ましが効いたのだろう。
エミヤは戸惑いながらも、そっと胸をなでおろした。

「ならば、私は邪魔にならないよう先に帰っておこう。次に会う時、良い知らせが聞けるのを楽しみにしている」

次は卒業式かもしれんな、と軽く手を挙げ、彼に背を向ける。
学校は明日から自由登校期間に入る。
今日は会えたが、明日以降、彼と会えるかどうかはわからない。
エミヤは受験まで登校して勉強する予定だが、彼は母国へ帰るための準備がいろいろあるらしく、あまり学校には来ないらしい。
確実に会えるのは、3月の卒業式だろう。

「相手は誰かは聞かないんだな」

エミヤが机に掛かっている鞄に手を伸ばした時、後ろから声がかかった。

「そこまで野暮ではないつもりだ。それに、君の選ぶ女性だ。よほどおかしな相手ではあるまい」

答えながら鞄を取る。
その中にはエミヤが作ったブラウニーがある。
生まれてしまったエミヤの恋心が、最後の悲鳴を上げる。
だけど、その声を漏らすわけにはいかない。
ぐっと鞄を持つ手に力を込め、彼に振り向く。

「では、またな、ランサー。幸運を祈っている」
「…ああ。じゃあな、アーチャー」

夕陽を背にした彼が、薄く笑う。
その後、彼の告白がどうなったのかをエミヤは知らない。
なぜなら彼は卒業式にも姿を見せず、これが彼に会った最後になってしまったからだ。



エミヤは目を開ける。
仕事の疲れと心地よい振動で、うっかり眠ってしまったらしい。

ひどく懐かしい夢を見ていた。
今から7年前。エミヤがまだ高校生だった頃の夢だ。
ずっと好きだった彼が、あのバレンタインの日に、告白しに行くとエミヤに告げた。
あの時のことを、エミヤは何度も夢に見る。
きっと、ずっと後悔しているのだろう。あの日、彼にブラウニーを渡せなかったことを。

女々しいことだ、とエミヤは口元を歪める。
こんなことなら、いっそのこと告白して失恋でもしていれば、20歳を越え、大人と呼ばれる年齢になった今でも、子どもの頃の初恋をひきずつることなどなかっただろう。

アナウンスが流れる。もうすぐ駅に着くようだ。
電車内にいた多くの人が、上の棚からバックを下ろしたり、荷物を持ち直したりしている。
しかし、なんともタイミングよく夢を見たものだ。いや、タイミングが悪いのか。
持っていた鞄を抱え直しながら、エミヤはぼんやりと考える。
なぜなら、これからエミヤは、ずっと好きだった彼に会いに行くのだ。


【今度日本に行くから会わねぇか?】

彼から突然そんなメールが届いたのは、ちょうど1週間前のこと。
仕事終わりにスマートフォン確認して、エミヤは思わず目を疑った。

高校を卒業した後も、彼との交流は細々と続いていた。
はじめは、実家に帰る時期が早まって卒業式には出られなかった、という彼の謝罪から。
それからぽつぽつとメールを送りあっていたのだが、年を経るにつれ回数は減り、今では年に2回、夏休みと新年に、季節の挨拶と近況を送って終わるだけものになっていた。

だから、突然彼から日本に行くというメールが来た時、ひどく驚いた。
この7年、彼がこんなことを言ってくることなどなかった。
動揺が文に出ていないかを何度も確かめ、エミヤが震える手で了承するメールを送れば、すぐに彼から返事が来た。

【じゃあ、昼過ぎに空港に着くから、夕飯一緒に食うか。次の日仕事ないなら、ゆっくり酒でも呑もうぜ。旨い日本酒出す店とか知らねぇか?】

展開の速さに目が回りそうだった。
君に日本酒の繊細な味がわかるのか、と憎まれ口を書いたメールを送りながらも、エミヤの心臓は口から飛び出してしまいそうだった。
彼が来る。7年ぶりに、彼と会える。
エミヤの身体中を、慌ただしく血液が巡り出したような気がした。

その後、あっという間に待ち合わせ時間が決まり、食事をする店も、エミヤが提案したものの中に彼が泊まるホテルの近くにあるものがあったため、そこですんなりと決まった。なんと彼の泊まるホテルは、エミヤの最寄駅のすぐ側だったのだ。
予約が取れた旨を彼に連絡すれば、じゃあ当日な、と簡潔なメールが届き、それで彼とのやりとりが終わった。
安心したのか、エミヤの体から、どっと体から汗が吹き出した。


電車をおり、駅前に出る。
エミヤの家の最寄であるこの駅は、いくつかの路線の乗り換え駅でもあるため、それなりに利用客も多い。有名な店がいくつか入っている駅ビルや、昔ながらの商店街が駅前に広がり、買い物する場所には困らない。エミヤが借りている部屋は、ここからバスで20分ほどのところにある為、休みの日には、エミヤ自身もこの辺りに買い物に来る。
エミヤが特に気に入っているのは、駅の向かいの小さなビルに入っているケーキ屋だ。
海外で受賞歴もあるパティシエがひっそりとやっているケーキ屋で、休日はいつも混雑している。その2階には同名のフレンチレストランがあり、いつかは行ってみたい、とエミヤは密かに思っていた。

大きな道路をわたり、そのケーキ屋の前を通り過ぎながら、エミヤは未だに騙されている気がしてならなかった。
彼から送られてきたメールは、もしかしたら誰かがなりすましたスパムメールかもしれない。だから、店に行っても彼はいない。
今日のことは誰かがエミヤを傷つけるために仕組んだこと。そう考えた方が自然だった。
だって、そうでなければ、彼が突然日本に来てエミヤと食事をすると言い出す理由がわからない。
ぎゅう、とエミヤは鞄の持ち手を握りしめる。
金曜日の夜ということもあり、街は人で溢れていた。
人混みを抜け、路地に入れば、表通りの喧騒が遠くなる。
少し歩いた先に、紺色ののれんの下がる店があった。

時計を確認する。予約時間の5分前。
エミヤの仕事が長引く可能性もあったため、少し遅めの時間で予約していたが、ちょうどよかったようだ。
この扉の向こうに彼がいる。
息を一つ吐き、扉に手をかける。

「よぉ、アーチャー」

その直前、後ろから投げつけられた声に、思わず肩が跳ねる。
勢いよく振り向けば、青く長い髪を結んだ、美しい男がそこにいた。


がやがやと騒がしい店内で、エミヤはテーブルの向こうに座る男を盗み見る。
ランサー。本名、クー・フーリン。
エミヤの記憶よりも手も足も伸び、精悍な顔つきになった男は、満面の笑みで出された日本酒に舌鼓を打っていた。

「いやぁ、この店、酒も飯もうめぇなぁ!ここ、よく来るのか?」
「まぁ、そうだな。仕事終わりに時々」

この店は居酒屋ではあるが、一番の自慢は魚料理だ。店主の家族が魚屋も経営しているらしく、そこから仕入れた魚はどれも新鮮で、刺身だけじゃなく、焼き物や揚げ物も絶品だ。
酒があまり飲めないエミヤのように、食事だけして帰る客も多い。

「お前が食ってんの、何?」
「これは白子入りの粕汁…、酒粕入りの味噌汁だ」
「美味いのか?」
「ああ。冬になると、この店のこれが食べたくなる」
「へぇ、俺も食いたい」
「注文するか?」
「一口くれ」
「女子か。もうひとつ注文するから待っていろ」

店員を呼び止めて追加の注文をし、再び顔を戻せば、彼は拗ねたような顔をしていた。

「相変わらずケチだな。いいじゃねぇか、ひと口くらい」
「君のひと口はでかいんだ。昔、そう言った君に肉まんを半分以上取られたことを、私は忘れていない」
「なんでそんな昔のこと覚えてんだよ。しつこい野郎だぜ」

ふてくされる彼の言葉に、エミヤの心臓がどきりと跳ねる。
普通は、こんなに昔のことは覚えていないものなのだろうか。
エミヤは慌てて違う話を振った。

「ところで、どうして急に日本に来ることになったんだ?」
「ん?あぁ、実家で持ってる物件の確認にな」
「物件…?」

彼曰く、彼の実家は世界中に不動産を所有しているらしく、日本にもいくつか土地と建物を持っているらしい。今まで物件の管理などは、とある不動産会社にお願いしていたが、どこかの国でトラブルがあったらしく、その事件以降、所有物件は彼の実家がすべて管理することにしたそうだ。

「その為に新しい会社作ってよ。うちの一番上の兄貴をトップに据えて、今やってんだ。もう前の会社からの引き継ぎも無事に終わって、手続きも全部済んでるんだが、ちょっとごたごたして迷惑かけちまったから、一応挨拶しとこうと思ってな。それで、日本に来た」

つまり、彼は世界中に不動産を持っているような資産家の息子で、彼の兄がその不動産を管理する会社の社長をやることになった。で、彼はオーナー兼新しい管理会社の人間として、その物件を借りている人達に挨拶するために日本にやってきた、ということか。

「君は結構な家柄だったのだな」
「別に昔から持ってる物がちょっと多かっただけだぜ。俺が買ったもんでもねぇし」

彼はアジフライをかじりながら、さらりと答える。

「つーか、そっちは今何やってんの?サラリーマンやってることは知ってるが」
「私の職種か?私は学習教材を作る会社の経理をしている」
「経理!すげー似合う!」

げらげら笑いだした男に苛立ち、テーブルの下で男の脛を容赦なく蹴りつければ、彼は悲鳴をあげて黙った。

「痛ってぇ!相変わらず容赦ねぇな、お前」
「フン。ざまぁみろ」

男は涙目になって、脛をさする。

「じゃあ、あっちは?」
「あっちとは?」
「恋人とか」
「…今はいない」

目線を外して答えれば、男はふぅん、と呟いた。
大学生の頃、告白され、断りきれずに何人かの女性と付き合ったが、やはり恋愛という意味で好きになることができず、結局はすぐに別れてしまった。
エミヤの中には、何年経とうとも、彼への想いが消えずに残り続けていた。その状態でうまくいくはずもなかった。

「意外だな。お前高校の時からモテてただろ?だから、結婚を前提に付き合ってる奴でもいるんじゃねぇかと思ってたんだが」
「あの頃は君の方がモテていただろうが。そっちこそ、どうせ母国に戻って、爛れた女性関係を送っていたんだろう」
「まぁ、そうだな。その通りだ」

あっさりと返された言葉に、エミヤの心が抉られた。
だが、それを彼に悟られるわけにはいかない。
無理矢理口の端をあげて笑みを作る。

「盛りのついた犬だな。君には好きな人がいたのではないのか?」
「いたけど振られたからなぁ」

ぎくり、と体が強張った。
彼とメールのやりとりをする中で、あの日、彼の告白が成功したのかどうか、エミヤはどうしても聞けなかった。
ただ、彼が卒業式に出席しないという連絡を聞いた時、もしかしてうまくいかなかったのでは、と想像した。そして、彼の気持ちを無下にした相手に、吐きそうなほどの嫉妬を覚えた。
それをあっさりと肯定されたことで、眠っていたはずの醜い感情が、再びエミヤの腹をじりじりと焼き出した。

「振られたのか?」
「あぁ。まぁ、正確には俺が諦めたんだが」

そっと彼の目が伏せられ、手に持つ猪口に視線が向けられる。

「そうだったのか…。すまない、嫌なことを聞いて」
「いいや。今思えば、俺もそこで怯まずに、とりあえず言っときゃよかったんだ。中途半端に未練残しちまったから、今でも引きずっちまう。いくら女抱いても、結局忘れられなかったし」

自嘲するように笑う男を、エミヤは呆然を見つめる。
エミヤにはわかった。まだ彼がその相手を想っていることを。
何年経とうとも、彼もエミヤのように、相手のことを愛しく思っている。
腹が焼けるように熱い。ぐるぐるとエミヤの中で醜い何かが渦巻き出す。
君を振った相手のことなど忘れてしまえ。新しい恋に目を向けたらいい。ほら、目の前にいい相手がいるだろう。
冗談でもそう言う度胸があったら、エミヤだって、こんなに初恋を引きずらなかったかもしれない。
何と言うべきか迷っていると、不意に落ち込んでいるように見えた彼の目に、ぎらり、と強い光が宿った。

「だから、日本には、そっちの方の決着もつけに来たんだ」
「そっち?」
「ああ。いい加減、昔の恋を引きずり続けてんのも鬱陶しいだろ?」

笑って言われたその言葉で、エミヤの心から、どばりと血が溢れた。


その後のエミヤの記憶は、どこか現実味がなかった。
多分自暴自棄になって、どんどん日本酒を飲んだのが原因だろう。
だって、ずっと片想いしていた相手が、同じようにずっと別の相手を想い続けていたのだ。
そんなひどいことがあってたまるか。
そこまで相手のことを想っているのなら、そこにエミヤが入る隙間はない。
いや、もともと彼と付き合えるなんて、夢のようなことを思っていたわけではない。
だが、それ以前に、彼からそこまで想われる相手に対して、憎しみにも似た嫉妬を抱かずにはいられなかった。
とどのつまりは、ただのヤケ酒だ。

エミヤは酔っ払ってもあまり顔に出ない。
だから居酒屋を出て、また別の店に入って酒を飲んでも、彼がエミヤが酒に弱いなどと気付かず、二人で浴びるように酒を飲み続けた。
その結果、エミヤは2軒目に行った後の記憶はない。

アルコールの熱が肚を焼き、思考が鈍くなっていく。
体と意識が離れていくような感覚。ふわふわとした浮遊感。
あれだけ痛かった心が、今は全然痛くない。痛いということすらわからない。
ただ楽しくて嬉しい。
だって、彼が側にいる。エミヤの向かい側で笑っている。
それだけで、エミヤはとても幸せだった。


そして次に目を開ければ、エミヤは見知らぬ部屋にいた。
エミヤはぱちぱちと瞬きをして、明らかに家とは違う天井を眺める。
ここはどこだ。今は何時だ。
一瞬、会社は、と思ったが、今日が土曜日だったことを思い出す。
そうだ、確か昨日は彼が日本に来ていて、それで2人で食事を。
そこまで考え、エミヤは飛び起きた。
辺りを見渡せば、そこはホテルの一室だった。
ビジネスホテルのような狭い部屋とは違う。そこそこ広さのあるシングルルーム。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋を薄く照らしている。
窓際にあるデスクには、水に入ったコップ。
床には脱ぎ散らかされたような服が散らばっていた。そこには、見慣れた己の服もある。

エミヤは恐る恐る体を見下ろした。
見慣れた己の胸筋。
おかしい。どうして自分は服を着ていないのか。
慌てて布団を剥げば、かろうじて下着はつけていた。つけてはいたが、どうして、なぜ。

「起きたのか?」

隣から聞こえてきた声に、エミヤは体を強張らせる。
振り向けば、そこには昨日一緒に食事をしていた男がベッドに横になったまま肘をつき、こちらをじろりと見ていた。
いつも結ばれている絹糸のような髪が解け、白いシーツに散らばっている。

どうして彼が自分の隣に寝ているのか。
そして、シーツから覗く彼の体も裸だと気付いた時、ざぁ、とエミヤの顔から血の気が引いた。
嫌な予感が、エミヤの頭の中を駆け巡る。

「お前、昨日のこと覚えてるか?」

固い声。どことなく苛立ったような表情の彼に、エミヤの体はさらに硬直した。
彼は怒っている。
噴火して終わるような軽いものではない。
彼の視線は氷のように冷たく、その声に温度や温情はない。

彼の迫力に声を出せず、恐る恐る首を横に振れば、彼は深い溜め息を吐きながら体を起こした。
シーツがはらりと落ち、彼の彫刻のような美しい体が、エミヤの前に晒される。
気だるそうな彼から漂う男の色香に、思わず喉が鳴りそうになった。

「昨日、俺にしたことも忘れたのか」

その言葉に、エミヤは本当に息が止まったかと思った。
彼の赤い目が責めるようにエミヤを見る。
昨日の自分は彼に何をしたのか。
何も覚えていない。だが、確かに昨日はひどく酒を飲んでしまった。
酔っ払って箍が外れてしまった自分が、彼に何かをしてしまったのだろう。
ホテルのベッド。脱ぎ散らされた服。裸で寝ていた男。
しかも、エミヤは彼に恋慕を抱いている。
最悪な想像がエミヤの頭に浮かぶ。
自分は昨夜、彼に醜く迫ってしまったのではないだろうか。
もしかしたら、彼の意思を無視して、行為に及ぼうとしたとか。
一夜だけでもと、こうしてホテルに彼を連れ込んだ可能性すらある。

エミヤは今すぐ窓から飛び降りたい気分になった。
彼に対して、自分は何てことをしてしまったのか。
この姿を彼の前に晒していることが耐えられない。
だが、それはただの逃避だ、とエミヤは必死に踏み止まる。
まずは彼に謝罪しなくては。そして、彼の望みを聞こう。死ぬのはその後でいい。
彼の望みがエミヤの死ならその通りにするのでもいいし、昨日受けた心的被害の賠償の為に金銭を求めるのならば、それを支払い終えるまでエミヤは生きていなくてはいけない。
彼が再び口を開こうとした時、エミヤは正座をし、額をベッドに擦り付けた。

「すまなかった!!」

土下座の体勢だ。これ以上の謝り方をエミヤは知らない。

「すまない!酔っ払ってしまって君に大変なことをしてしまった!謝って済むことではないことはわかっている。私でできる償いはしよう!なんでも言うことを聞くから、言ってくれ!」

それはエミヤの心からの言葉だった。
彼の心が晴れるならなんでもする。
殴ってくれてもいい。金を要求するのも、エミヤに消えろと言うのも構わない。
エミヤは彼が好きだった。
その彼が、自分のせいで傷付いていることが耐えられなかった。
そんなことをした自分が、心底許せなかった。
死にたくなるような沈黙の後、彼がゆっくりと口を開く。

「…何でもっつったか?」
「ああ。私に出来ることなら何でもする。それで、詫びになるかどうかはわからないが」

そう返せば、彼が顔を上げるように言ってきた。
恐る恐る視線を上げれば、ビー玉のような温度のない赤い目がエミヤを見下ろしていた。
彼からそんな目で見られたことなどない。再び体が強張った。
やはりベッドの上では謝罪にならないかと、改めて床で土下座しようと腰を上げれば、彼の大きな手に、がしりと頭を掴まれ、阻まれた。
彼の指が、ぎち、とエミヤの頭皮に食い込む。

「おい、逃げるな。…お前、本当に昨日のこと、覚えていないんだな?」
「…あぁ。だが、私は君に礼を欠く行為をしてしまったのだろう。本当にすまない」

掴まれている為、顔を下げることはできない。せめて、と目線を下げて答える。
すると、視界の隅で、彼がゆっくりと口を開くのが見えた。

「じゃあ、今日から1週間、お前の家に泊まらせてくれよ。それでチャラでいい」



月曜日。
仕事が終わり、自分の住むマンションの前で、エミヤは立ちどまった。
エミヤの住むマンションは、3階建のこじんまりとした建物だ。1階は大家が住んでおり、戸数も全部合わせても6部屋しかない。
駅からは少し遠いが、値段の割に部屋が広く、設備も綺麗で、エミヤは気に入っていた。
ぼんやりと2階の自分の部屋を見上げれば、窓から部屋の明かりが見えた。
あの中に、彼がいる。
手に持つ鞄をぎゅうと握り、エミヤは重たい足を引きずるように、前に踏み出した。


彼がエミヤの部屋で寝泊まりするようになって、2日経った。
2日前の土曜日。
あのベッドの上で、ランサーは次の土曜日までエミヤの部屋に泊めさせろと言った。
そんなものでいいのならとエミヤも承諾し、その後、2人は簡単な食事を済ませ、彼の布団や歯ブラシなどの雑貨を、ホームセンターに買いに行った。
彼と2人で買い物する時間は、きっと楽しいものだったはずなのに、前夜に自分のしでかしたこともあり、エミヤは心に鉛を抱えているような気分だった。

反対に、彼はいつも通りだった。
彼は昔から切り替えがうまい。
引きずってしまうエミヤとは違い、すぐに感情を切り替えて動くことができた。
今回のことも、過ぎたことだと割り切って行動しているのかもしれない。
もやもやした物を抱えながら、買い物を終えたエミヤは、彼を自分のマンションに連れて行った。

エミヤの部屋は1LDKだ。
カウンターキッチンのあるリビングダイニング。その隣には、寝室に使っている6畳の洋室がある。
彼はいそいそとリビングの一画に荷物を置き、意外と広いじゃねぇか、と機嫌良さげに笑った。
彼の寝床がリビングに決まり、その後、エミヤが簡単な夕食を作り、2人で食べた。
いつもはひとりで食べる夕食が、彼ひとりいるだけで鮮やかに色づいた。
だが、すぐに自分がしでかしたことを思い出し、盛り上がる気持ちは萎んだ。
何を自分は浮かれているのか。そんなことを思っていい立場ではないくせに。
考え込んでいたせいか、眉間にしわを寄せ、無言で食べ進めるエミヤに、彼が急にこんなことを言った。

『後でよ、調理器具とか食器とかの場所を教えてくれねぇか?』
『…何故だ?』
『何故って、1週間もタダ飯喰らう気はねぇよ。明日から、飯は俺が作るから』
『は?』

言われている意味がわからず、思わず彼を見返す。
そして数秒止まった後、もしかしてエミヤの作ったものを食べたくないのでは、と思い当たった。
なるほど、確かにその気持ちはわからないでもない。食事に何か入れられでもしたら、と思うと不安なのだろう。
だからエミヤは快く了承した。

『わかった。冷蔵庫の食材も好きに使うといい』
『おう、任せとけ。じゃあ、明日の朝からだな。お前、朝はパン派?』

この質問に、エミヤは首を傾げた。

『いや、特にこだわりはない。もし君がご飯のほうがいいなら、米は炊いておくが?』
『それじゃ意味ねぇだろ。俺はお前の好みを聞いてんだよ』
『何故私の好みが関係ある?君が好きなものを食べたらいいじゃないか』
『は?お前の食うもんも作るんだから、好み聞くのは当たり前だろ?』
『どうして君が私の食べるものを作るんだ?』
『あ"?!てめぇ、俺の話聞いてたのか?!明日から俺が飯作るっつってんだろ!』

目をつり上げて怒鳴ってくる彼を、エミヤはぽかんと見返した。

『…君が自分の分だけ作るのではないのか?』
『そんなわけねぇだろ!作るっつったらお前の分も一緒に作るに決まってんじゃねぇか!お前の中で、俺はどんだけ冷たい人間なんだよ!』
『いや、そういう意味では…!…ちょっと待て。そもそも君は料理ができるのか?』
『俺だって、あっちで一人暮らししてたんだ。料理くらい普通にできる』
『…まぁ、最近は美味いチルド食品も増えたからな』
『馬鹿にしてんのか!ちゃんと切ったり焼いたりしてたわ!』
『だが、君にも実家から頼まれている仕事があるだろう。無理しなくていい。料理は私が作ろう』
『お前も仕事あるじゃねぇか!だから、俺が作るって言ってんだろ!』
『私はいつもやっていることだから気にしなくていい。むしろ君の方が…』

ぎゃーぎゃーとしばらく押し問答を続けるが、向こうに引く気はない。
ならば、と、エミヤが妥協案を提示した。

『わかった。君には昼食をお願いしたい。朝と夜は私が作ろう』
『ふざけんな。明日はともかく、平日はお前仕事でいねぇじゃねぇか。夜も作らせろ』
『仕事だったら君もあるだろう』
『そうだが、俺の方が時間の融通はきくし、帰ってくるのも早い。それなら俺が作ったほうが、結果的に早く飯が食えるじゃねぇか。それとも、お前が帰ってくるまで俺に飯を食うなと?』
『そうじゃない。その場合は先に食べててくれて構わない。私の分は気にしなくても』
『なら、俺がついでにお前の分も作ってもいいじゃねぇか。そんなに俺の腕が信用ならないか?』

どこか拗ねるような口調の彼に、エミヤは押し黙った。
確かに料理の腕に不安はあれど、彼はもともと器用だった。彼がそこまで言うのであれば、料理だって普通にできるだろう。
ただ、エミヤが彼に食事を作ってもらうということが申し訳ないだけだ。
何も答えないエミヤに、ランサーは深く息を吐いた。

『てめぇの気持ちは、よぉくわかった』

彼が低く唸るような声を出した。
箸を置き、がたりと椅子から立ち上がるランサーに、慌てて呼びかける。

『ら、ランサー』
『じゃんけんだ』
『は?』

突然言われた言葉に、エミヤは目を丸くする。

『いいか、1回勝負だ。俺が負けたら昼飯だけで我慢してやる。だが、俺が勝ったら、お前は黙って朝も夜も俺の飯を食え。ほら、じゃんけん』
『は?!ちょ、ちょっと待て!』
『ぽん』

彼を制止するためにエミヤが出した手のひら。
ランサーの手はチョキの形。
数秒それを眺めた後、彼はにんまりと笑った。

『よし、俺の勝ちだな』
『ちょっと待て!今のは無しだ!そんな不意打ち、認められるか!』

エミヤも椅子を鳴らして立ち上がる。

『終わった勝負に後から文句言うなんて、男らしくないぜ?アーチャー』
『そっちが勝手に言ってきた勝負だろう!やり直しを要求する!』
『じゃあ、もっかい勝負しようぜ。3本勝負で、勝った方が負けた方のいうことを聞く』
『望むところだ。さっきの発言を撤回させてやろう』

そうして2人は睨み合っったままじゃんけんをし、結果、エミヤは負けてしまったのだ。


2日前のことを思い出し、エミヤは部屋の扉の前でため息をついた。
どうしてあの時、自分はグーを出してしまったのか。
チョキを出してさえいれば、彼に食事を作らせることもなかったのに。
勝負に負け、それでもぐずぐずと彼と押し問答をした結果、彼がいる間は朝食はエミヤが担当、昼食は各自、夕食はランサーの担当ということで落ち着いた。
なんとか彼に全食作ってもらう事態を回避できたことに、エミヤは胸をなでおろした。

それにしても、彼はなぜ自分が食事を作ると言い出したのか。
エミヤにはその理由が全くわからなかった。
再び吐きそうになる息を飲み込み、鍵を開け、自分の家に入る。

「…今、戻った」
「おかえり、アーチャー。飯できてるぜ」

エミヤが普段使っている黒いエプロンを身につけた彼が、髪を翻して迎えてくれた。
その現実離れした姿に、なんだかめまいが起こりそうだった。


実際のところ、彼の料理の腕はなかなかのものだった。
和食のように丁寧さと細やかさが求められる料理は苦手のようだったが、彼の作るパスタもスープもサラダも、どれも誰に出しても恥ずかしくないレベルの味だった。今日テーブルに並べられているハンバーグも肉汁がたっぷりで、ぶつ切りの蒸し野菜もソースと良く合い、ご飯一杯では足りないと思うほどだった。
皿の端にソースが飛び跳ねているのは、きちんと拭いて出せと言ってしまったが。

「美味いか?」
「…まぁ、食えないほどではない」

テーブルに並べられた料理を食べるエミヤに、彼が機嫌よく問いかけてくる。
正直、素直においしいと告げたくなくなってしまうくらいの美味さだった。
ちらりと目を上げれば、にやにやとこちらを見ている男。
その表情に苛立ち、エミヤは言おうとしていた礼を野菜と一緒に飲み込む。

だが、エミヤにとって、仕事の後にすぐに夕食を食べられるというのは、ありがたいことだった。お陰で家事の時間が短縮され、家でのんびりできる時間が増えた。その点だけは、彼に感謝しなくてはいけない。
黙々と箸を動かしていると、先に食べ終わって暇そうにしていた彼が、そういえば、と思い出すように言った。

「お前って、甘いもん平気だったよな?」
「…物にもよるが」
「今日、物件のひとつに挨拶行ったんだが、そこの店でケーキ買ってよ。よかったら後で食わねぇか?」

そう言って、立ち上がった男が冷蔵庫から出してきた箱を見て、エミヤは目を見開いた。

「それはもしかして、駅前にあるビルのケーキ屋か!」
「うおっ?おお、そうだが。有名なのか?」
「有名も何も休日は必ず混雑している、この辺りでは人気の店だ。たまにテレビが取材に来ている。どのケーキも焼き菓子も美味だが、中でもチョコレートケーキは格別で、濃厚でありながら甘すぎず、味には深みがある。スポンジとクリームの層の間に薄いチョコレートと砕いてキャラメリゼされたアーモンドがあり、トロリとしたクリームと、パリパリとカリカリとした食感の差で舌を楽しませてくれる。そしてケーキの味もさることながら、店のオペレーションも素晴らしく、あれだけの列を作りながら長時間待つこともないため、また買いにこようと思える。立地がこのあたりではなく、もっと都会にあれば、間違いなく知名度は上がっていただろう。だが、それでもパティシエでもある店長が、有名になって売れるより、地元に美味しいケーキを提供したいという信念のもと、海外で何度も賞を取ろうと他に出店せず、ここでケーキを作り続けている姿勢は」
「わかった!お前が気に入っているケーキ屋っつーことは、よーくわかった!」

いいから座れ、と言われ、エミヤは渋々腰を下ろした。

「じゃあ、後で一緒に食おうぜ。そのお前が言うチョコレートのケーキと、店長お勧めのケーキを買ってきてあるから、お前にチョコのほうやるよ」
「いや、君は食べたことないのだろう?ならば、一度食べたほうがいい。私はいつでも食べられるしな。甘いものをそこまで食べない君でも、必ず気にいると思う」
「そうか?じゃあ、お前がそこまで言うなら、チョコレートケーキ食ってみるかな。…つーか、俺が甘いもの食べないってよく覚えていたな」

思わぬ指摘に、ぶっと食べていたものを噴き出しそうになるのを何とか堪える。
エミヤは平静を装って答えた。

「まぁ、なんだかんだ高校3年間は君とよく過ごしていたからな。嫌でも覚えているさ」
「そんなもんかね」
「なんだ?私の記憶力が羨ましいのか?」

鼻で笑えば、彼は別に、と答えた。

「ということは、あのケーキ屋が入っているビルのオーナーが君だということか?」
「正確には俺の家のもんであって、俺のじゃねぇけどな」
「…2階にあるレストランにも行ったのか?」
「覗きはしたが、食べてはねぇなぁ。そこも美味いのか?」
「いや、行ったことはない。だが、きっと美味いはずだ」

エミヤはごちそうさま、と手を合わせ、空のなった食器を持って立ち上がった。

「あ、食器は洗うから、シンクに置いといてくれ」
「皿くらいは洗わせろ。何もしないのは落ち着かん」
「あー、じゃあ、紅茶淹れてくれよ。ケーキ食べるなら、飲み物あった方がいいだろ?」

早く食いたいし、と男が紙箱を掲げた。
確かに、ケーキを食べるのであれば、洗い物はまだ増えるだろう。全部終わってから洗った方が効率もいい。

「わかった。じゃあ、飲み物を持っていくから、君はテーブルの上を拭いてくれ」
「了解」

食べ終わった皿を全てシンクに運び、彼に布巾を渡せば、彼は快く受け取ってくれた。
エミヤは手を洗った後、ポットでお湯を沸かす。
そしてシンクの後ろの戸棚を開け、紅茶の缶を探していると、いつのまにか彼がそばに来ていた。

「この皿、借りるぜ」

思わず肩が跳ねそうになるのを、なんとか堪える。
彼は隣の食器棚から、小さめの皿を取り出すところだった。たぶん、ケーキをのせる為のものだろう。

「さっきの話だけどよ」
「さっき?」
「あれだよ。ケーキ屋の上のレストラン」
「あぁ」

突然の急接近に、胸がどくりどくりと鳴り出す。
平静を装って答えながら、目的の紅茶の缶を手に取る。

「そのケーキ屋の店長からよ、よかったらレストランにも食べに来てくれと言われてんだよ。明日の仕事終わりに、一緒に食いに行かねぇか?」
「は…?」

信じられな言葉が聞こえ、思わず見返せば、そこにはにかりと笑う彼の顔があった。



彼はもう怒っていないのだろうか。
電車に揺られながら、エミヤはぼんやりと考える。

あのホテルで目覚めた時、確かに彼は怒っていた。
だからこそ、自分は彼に醜く迫って不快な気分にさせたのではないかと思い、頭を下げた。
そして彼は、エミヤを許す代わりに、エミヤの家に1週間宿泊することを求めた。

そこで、エミヤは首をひねる。
エミヤが本当に彼に襲いかかったのだとしたら、その相手と1週間も同じ屋根の下で一緒にいたいと思うだろうか。
それに彼は、エミヤの家にいる間、食事作りもすると言い出した。自分の分ではなく、エミヤの分まで。昨日はケーキまでくれた。さらに今日、夕食も誘われた。
そこまで考えて、エミヤは眉間にしわを寄せる。
彼が宿が予約できないほどお金に困っていて、背に腹が変えられない状況だとは考えにくい。
それなのに、どうして。

ふぅ、と気持ちを落ち着かせるように息を吐く。
彼は割り切るのが上手い。
エミヤのしでかしたことも、もう過ぎたことだと許してくれたのかもしれない。
だが、とエミヤは思う。
自分が醜く迫ったのなら、彼はエミヤの気持ちに気付いたのではないだろうか。
しかし、ここ数日の彼に、そんな素振りはない。
はじめは、彼が妙にエミヤに優しいのも、叶わない想いを抱いたエミヤに対する憐れみからかとも思ったが、彼はそんなことをする男ではない。
だとすれば、考えられることはひとつ。
あの夜、エミヤは彼に襲いかかってはいないということになる。

ならば、彼はなぜあの日、エミヤに対して怒っていたのか。
駅に到着するアナウンスが鳴り、エミヤの思考はそこで途切れた。


「よお。時間ぴったりだな」

改札を出れば、青い髪の男が柱に寄りかかって待っていた。
その少し後ろで、女子学生がランサーを見て色めきだっている。
この男は本当に見た目がいい。そこにいるだけで、その周りだけスポットライトが当たっているようだ。
しかもこの男がタチが悪いのは、いいのは見た目だけではないというところだ。
面倒見がよく、男気が溢れ、その心は気高い。
彼と話せば、男も女も彼に心を奪われる。それは恋愛に限らず、高校時代は彼を兄貴と慕う後輩もたくさんいた。
男女問わず惹きつける彼。そんな彼を、エミヤはずっと横で眺めていた。
こんな想いを抱いたまま彼の側にいることが耐えられず、実はエミヤは、何度も彼から距離を取ろうとしたことがあった。
だが、それが成功したことは一度もない。
エミヤが離れようとすれば、勘のいい彼はすぐに気付いて、どうしたのかと声をかけてきた。
君が好きになったから距離を取りたい、と馬鹿正直に告げることも出来ず、うやむやなまま彼との関係はいつものものに戻っていた。

今思えば、たぶん、馬鹿正直に告げておいた方がよかったのだろう。
しかし、あの頃のエミヤは、彼から見損なわれることが怖かった。
距離を取ることはできても、嫌われたくはなかったのだ。

「アーチャー?」
「なんでもない。では、店に向かうか」

そのまま前を通り過ぎれば、彼は軽い足取りでエミヤの横に並んだ。
夜の駅は人が多く、その合間をぬって外に出る。
歩行者用の信号が変わり、歩き出す人波に流されるように駅の向かい側に渡る。
少し進み、見慣れたケーキ屋の看板前でエミヤは足を止めた。
2人の後ろを、塾に行くと思われる学生が足早に通り過ぎていく。

「…それにしても、本当に私でいいのか?」
「何が?」

同じようにケーキ屋の看板を見ていた彼が問い返す。

「君なら一緒に食事をしてくれる女性など簡単に作れるだろう。それこそ、君の想い人を誘えばいい。何も男2人で行かなくとも」
「まだそんなこと言ってんのか。ただ、飯を食うだけじゃねぇか。気にすんなよ」

彼が呆れたように言い、ケーキ屋の看板の隣にある狭い階段に足をかける。ここが2階のレストランに繋がっているようだ。
彼にとっては食事のお供が誰であろうと、たいしたことではないのだろう。
気にしているのはエミヤだけだ。
だが。

「君は私に怒っているのではなかったのか?」

階段の下から問いかける。

「…別にもう怒ってねぇよ。言っただろう。1週間泊めてくれたらチャラだと」
「それで、なかったことにしてもらえるのか」
「ああ。いいから行くぞ」

髪を翻し、彼は狭い階段を上っていった。エミヤは目線を下げ、1段目に足をかける。
革靴の裏が、ぎち、と音を立てた。


念願のレストランでの食事中も、エミヤはどこか上の空だった。
料理は間違いなく美味しいはずなのに、なんとなく素直に喜べない。
楽しそうな彼に合わせて言葉を返しつつも、エミヤの胸にはもやもやとした重たいものがのしかかっていた。
デザートに出されたケーキは、色とりどりのドライフルーツで飾られた蜂蜜入りのミルクムースとピスタチオのクリーム、そしてふんわりとしたスポンジの三層から成るもので、普段だったら、ホールで食べたいと思っていただろう。
そのはずなのに、エミヤの心は弾まなかった。

もちろん勘の鋭い彼が、そんなエミヤの態度に気付かないはずはない。
食事を終え、家に着いた時に、しびれを切らしたように彼が言った。

「お前は何をそんなに思いつめてるんだ?」

彼からの問いに、エミヤの体が跳ねそうになる。

「特に何も悩んでいないつもりだが」
「嘘つけ。ずっとなんか考えこんでるだろ」

考えているのは、目の前の彼のことだ。
どうしてあの夜、自分は彼の横で裸で寝ていたのか。そして、どうして彼は怒っていたのか。
いくら考えても、エミヤが納得できるような答えは出てこなかった。
せっかく彼が流してくれたというのに、わざわざ掘り起こしてしまう自分が心底愚かだと思う。
だけれども、そこをはっきりさせないことには、このまま彼の側にいてはいけないような気がしたのだ。

「では聞くが、酔っ払ってしまったあの日、私は君に何をしたのだ?」

あの日、彼はとてつもなく怒っていた。だから、自分はとんでもないことをしたと思った。例えば、彼に迫るとか、襲いかかるといった、彼の矜持を踏みにじるような行為をしたと。
でも、そうじゃなかったとしたら、一体彼は、何に対してあそこまで怒っていたのか。
エミヤの問いに、ふぅ、と彼は息を吐いた。

「…酔っ払ったてめぇが、俺の服に吐いた後、そのまま眠ったんだよ。放置するわけにもいかねぇし、俺のホテルの部屋に連れて帰った」

それだけだ、と彼は吐き捨てた。
エミヤは目を瞬かせた。

「…え、それだけ?」

思わず、ぽかんと言葉を返す。

「それだけってなんだよ!あの時着てたシャツ、俺のお気に入りだったんだからな!」
「いや、それは申し訳ないことをしたと思うが…、え、本当にそれだけか?」
「だから、それだけってなんだよ!」

ぎゃんぎゃんと噛み付いてくる彼の声を呆然と聞きながら、エミヤの体からがくりと力が抜ける。
なんだ、そうか。そういうことだったのか。
彼が怒っていたのは、酔っ払ったエミヤの世話をさせたことと、お気に入りの服を駄目にされたからで、エミヤが想像していたようなことは一切なかったのだ。
ここ数日の悩みから一気に解放されたように、エミヤはフローリングの床に膝をついた。
そんなエミヤの様子に、彼が眉をひそめる。

「あー、…逆にお前、俺に何したと思ってたんだよ?」
「…裸で寝ていたのだ。もしかしたら、その、何かの間違いで、襲ってしまったのではないかと…」

ぼそぼそとうつむいたまま返せば、少しの間の後、彼がぶっと吹き出す音が聞こえた。

「ぎゃはははははは!んなわけねぇだろ!服は、寝ぼけたお前が自分で脱いだんだよ!裸で寝てたからってヤッたんじゃないかって、お前、よっぽど健全な学生生活を送ってたんだな。変な女に騙されるぞ」
「ううううううるさい!貴様の爛れた生活と一緒にするな!二日酔いでぼーっとしていたから、余計に頭が働かなかったんだ!いつもならそんな勘違いはしない!…だいたい、そっちこそ、服を駄目にされた程度であそこまで臍を曲げることはないだろう!」
「気に入ってる服駄目にされたら誰だって怒るだろうが!つーか、だからお前、妙に俺に遠慮してたのか」
「当たり前だ!もし自分が君の合意なくそういう行為に及んだのなら、それは犯罪だ!」
「それはそうだが、お前が俺を襲うことなんか、あるわけねぇだろ」

彼が不快そうに顔を歪めて言う。
襲う可能性があるからこそエミヤが最も恐れていたことを、彼は知らない。

「だいたい酔っ払ったお前に襲われたところで、俺が負けるわけねぇよ。俺の方が力は強いんだから」
「いや、君は知らないかもしれないが、私もそれなりに鍛えているのだ。高校の時と同じだと思わないでもらおう。君くらいなら簡単に組み伏せられる」
「おいおい、その程度で俺を押さえこめるとでも?こちとら実戦で鍛えてんだ。そんな室内で育てたヤワな筋肉に負けるわけがねぇだろ」
「ほう?そうか、むやみやたらに野山を駆け回ることしか知らない君は、最近のトレーニング技術の高さを知らないのだな。いや、君が無駄に汗水垂らしてひいひい言ってる中、効率的に鍛えてしまってすまない。そういえば駅の近くにドッグランがあるんだ。野山が懐かしくなったら、そこで駆けてくるといい」
「あ"ぁ?噛み付く相手見てから言えよ、温室育ちが。怪我する前に謝ったほうがいいぞ」
「やれやれ、野生児は凄めば誰でも言うことを聞くと思っている。愚かしい。怪我をするのはそっちだというのに」

さっきまでの空気が一転、ぴり、とした緊張が2人の間に走る。
2人はリビングで睨み合ったまま動かない。
彼が腰をわずかに降ろす。
エミヤも右足を少し後ろに下げた。
そして、飛びかかったのはどちらが先か。
気付けば2人は、約7年ぶりに取っ組み合いの喧嘩をしていた。


「あー、すっきりした!」

数分後、ランサーは晴れやかな顔でソファに座っていた。
その頬には、エミヤが殴った時についた青あざがある。エミヤは無言で湿布からシートを剥がし、彼の頬に叩きつけた。

「痛って。やるならもっと優しくやれよ」
「フン」

エミヤは鼻を鳴らし、もう一枚シートをはがした湿布を、自分の左腕に貼る。そこには男の掴んだ跡がくっきりと残っていた。
エミヤが着ているシャツのボタンも、彼に胸ぐらを掴まれた拍子にいくつか飛んでしまったようだ。まぁ、服が破れなかっただけマシだと言えるが。

「大人しそうな顔して、相変わらず容赦ねぇなぁ」
「煽ったのはそっちだろう」
「でも、お前ものってきたじゃねぇか」

男との取っ組み合いの喧嘩は、高校時代から数えきれないほどやってきた。
スポーツのように軽い感じで喧嘩することもあれば、意見のぶつかり合いで本気で殴り合うこともあった。
ふと懐かしい思い出が蘇り、ほんの少し口元が緩む。

「お前も、ちょっとはすっきりしただろ?」

ソファに座る彼が、にやりと笑う。
悔しいが、彼の言う通りだった。
ここ数日、ずっと彼への悶々とした思いを抱えて過ごしていた。聞くに聞けず、腹に溜めていたものが、先ほどの喧嘩で、汗と一緒にどこかに吹き飛んでしまったようだ。
久しぶりに清々しい感覚に、エミヤは口の端を上げる。

「たわけが。調子にのるなよ、ランサー」
「へいへい。それくらい、ふてぶてしいくらいがちょうどいいわ」

風呂に入って寝ようぜ、と明るく言って立ち上がる彼に、エミヤは密かに感謝する。
この太陽のような快活さと大らかさ。
それは、エミヤが憧れた彼そのものだった。
ぎゅうと締まる胸を堪えながら、エミヤは彼を盗み見る。
叶うはずのない恋だ。それはわかっている。
だから、会わなくなれば、遠く離れてしまえば、この恋心もいつのまにか消えるものだと思っていた。
それなのに、エミヤは未だに、彼に恋をしている。
大人になった彼を見て、彼に触れて、昔以上に彼への想いを募らせてしまっている。

『だから、日本には、そっちの方の決着もつけに来たんだ。いい加減、昔の恋を引きずり続けてんのも鬱陶しいだろ?』

数日前に彼が言っていた言葉。
わかっている。彼には好きな人がいる。
高校からずっと一途に想いを寄せ、他の誰かを抱いても忘れることができなかった、たったひとりがいるのだ。
エミヤに勝ち目なんてない。それでも、エミヤは好きでいることをやめられない。
だけれども、彼の言う通り、エミヤもいつまでも昔の恋を引きずり続けているわけにはいかないのだ。

これで最後にしよう。
そう静かに心に決める。
彼がこの家からいなくなる時。それをエミヤの初恋の終わりにしよう。
だから、それまでは。

「アーチャー?」
「…いや、なんでもない。風呂に湯を張ってこよう」
「今日はシャワーでよくねぇか?」
「久しぶりに全身がくたくただ。ゆっくり湯に浸かりたい」
「…じじくせぇ」
「なるほど、まだ体を動かし足りないか?」
「お前と殴り合うのは悪くねぇが、今日はもう遅いから明日にしようぜ」
「むぅ、そうだな」

彼がエミヤの隣にいる間だけは。
彼の友人の振りをすることを許してほしい。
ちゃんと諦めるから、とエミヤは心の中で小さく呟いた。



次の日の水曜日。
ランサーがエミヤの部屋を出て行くまで、あと3日。
エミヤは会社終わり、近くにあるファッションビルに寄ることにした。
目的は、彼の新しいシャツを買うことだ。

昨日の彼の話によると、あの日、エミヤは彼のお気に入りのシャツを駄目にしてしまった。
だから、その詫びは必要だろうと、こうしてエミヤはその代わりになるシャツを買いに来たのだ。

ファッションビルの中は、バレンタイン一色だった。
バレンタインは明後日の金曜日。
売る側も買う側も、今が追い込み時期なのだろう。
エミヤの目的の店にも、バレンタインのプレゼントを買いに来たと思われる女性客が何人かいた。
真剣な目で商品を見つめ、どっちがいいかと店員に相談している様は、健気でかわいいと思う。
あんな風に、自分も彼にバレンタインに何かを贈れたらいいのに。
そんなことを考えてしまい、エミヤは自嘲するように唇を歪めた。
自分は彼を諦めると決めたのだ。
これ以上、未練がましい真似をしてはいけない。
彼にチョコレートを贈るなんてしたら、エミヤの中の恋心は余計に燃え上がってしまうだろう。

このプレゼントはあくまで詫びの品であり、決して彼へのプレゼントではない。
自分に言い聞かせるように、頭の中で繰り返す。
もう自分は、彼に対して何の行動もしない。
あと数日、彼の側にいられることができれば、それで幸せなのだ。
幸せだと、思わなければ。

エミヤは軽く頭を振り、女々しい感傷を追い出す。
いくつもの洋服が飾られた棚に目を向け、彼に似合うものを選ぶことに集中する。
どんなものがいいだろうか。彼はスタイルがいいから、きっとどんなものでも着こなせるだろう。
だが、せっかく贈るのならば、着まわしがきく方がいい。
いろいろと頭を悩ませながら、エミヤはなんとか2着まで絞った。
しかし、そこからがなかなか決まらない。
迷った挙句、最終的にエミヤは2つとも彼に贈ることにした。
1枚は駄目にしたものの補填、もう1枚はその詫びに。
シャツなら、何枚あっても困らないだろう。
そう言い訳しながら、エミヤは時間をかけて選んだ2枚のシャツを持って、レジに向かった。


「おかえり。今日は遅かったな」

帰宅すれば、ランサーがリビングからひょこりと顔を出した。

「すまない。少し買い物をしてたんだが、店が混んでてな」
「あー、バレンタインだろ?今はどこもかしこもすごい人だよなぁ。前に日本にいた時よりも盛り上がってる気もするし」

さっさと飯食おうぜ、とランサーはリビングに戻ろうとした。
それを呼び止める。

「ランサー。これを」

紺色の紙袋を差し出せば、彼はきょとんと目を瞬かせた。

「その、あの夜、君の服を駄目にしてしまったのだろう?着まわしの利くものを選んできたつもりだ。君のお気に入りには程遠いだろうが、まぁ、穴埋めくらいにはなるだろう」

驚いて固まっているのか、彼はうんともすんとも言わない。
だんだんと気恥ずかしくなり、エミヤは強引に紙袋を彼に押し付け、彼を追い越すように先にリビングに入る。
鞄を椅子の上に置き、上着を脱いだところで、彼がようやくリビングに戻ってきた。
その目は、どこかまだ戸惑っているようで。

「どうした?ランサー。…やはり、気に入らなかったのか?」
「あ、いや、そうじゃねぇよ。お前からの贈り物なんか珍しくてな」

不安になったエミヤが声をかければ、男はなにかをごまかすように笑った。

「いやあ、なんか俺らも大人になったもんだ。昔はプレゼントと言えば食い物とかくだらないジョークグッズばかりだったからなぁ。こんな大人びたものをもらえるとは感慨深いぜ」
「…もしサイズが合わなかったら、1週間以内なら交換が可能だ。言ってくれてばレシートを渡すが」
「おう、合わなかったら言うわ。サンキューな」

へへ、と嬉しそうに笑う男の顔は、いつも見るものと変わらない。
だが、彼が紙袋を受け取った時の戸惑ったような表情が、エミヤの胸に一抹の不安を残した。


一夜明けて木曜日。バレンタインの前日だ。
定時に仕事を終え、帰ってきて彼と夕食を食べる。
こんな夢のような日々も、もうすぐ終わりだ。
彼は母国に帰る。
次に会えるのはいつになるのだろう。
そもそも、次はあるのだろうか。『また会おう』という社交辞令を最後に、彼とはもう会えなくなってしまうのか。

湧き上がる寂しさをぐっと堪えながら食器を洗い、風呂に入る彼を見送る。
エミヤは最後にもう一度手を洗い、会社帰りに買った材料をキッチンの上に並べた。
チョコレート、くるみにバター、薄力粉。
ブラウニーの材料だ。
もちろん、これは彼に贈るために作るものではない。
明日、会社に持っていくためのものだ。

エミヤが入社して2年目の頃、貰うばかりでは申し訳なく、ふと思い立って、もらったらその場で返せるように、小さなチョコクッキーを作って持っていったことがある。こうすれば、誰にもらって誰に返してないかわからなくなることもないし、ホワイトデーまでに何を返せばいいのか悩むこともない。
それからエミヤは、毎年バレンタインには、会社にお返し用のお菓子を作って持っていくことにしている。
そして今年はいろいろ考えた末、一度にたくさん作ることのできるブラウニーにすることにした。

過去、エミヤが彼に贈ろうとしていたブラウニー。
彼がいる時に無意識にそのお菓子を選んでしまったことに、エミヤは思わず唇を歪める。
彼に恋することを止めると決めたはずなのに、彼に渡せなかったものを今また作るなど。
本当にわかっているのか、と自嘲しながらチョコレートを刻み、湯煎で溶かす。
くるみを粗く刻み、オーブンで軽く焼いておく。
バターを練り、砂糖を入れ、卵を混ぜる。
エミヤは無心で、ぐるぐると泡立て器を動かした。
高校生だったあの日も、エミヤはこうして実家のキッチンで夜中にひとり、ブラウニーを作っていた。
建前は部活を頑張っている後輩の為に。本音は、彼の為に。
想いを受け取ってもらえなくても、せめて心のこもったこれだけ食べてもらえれば、エミヤはそれだけでよかった。
恋人なんてものになれなくても、それだけで報われるような気がしていた。

だが、結局、エミヤのブラウニーは彼の口に入ることはなく、エミヤの想いも宙ぶらりんなったまま、あの日でずっと止まっている。


「何作ってんだ?」

ふと気付けば、風呂上がりの彼が、カウンターの向こうから、こちらを見ていた。
エミヤは型に流し込んだ生地に、くるみを散らしながら答える。

「ブラウニーだ。…というか、きちんと髪を乾かして出てこいといっただろう」
「今から乾かそうと思ってたんだよ。つーか、すげぇチョコの匂いだな」

不機嫌そうに言われたそれに、ふと彼が甘いものがそこまで得意ではなかったことを思い出す。

「すまない。換気扇を強めに入れよう。焼きあがったらすぐに片付けるから、あと少し我慢してもらえるか」
「いや、いいけどよ。それ、明日のバレンタイン用か?」
「ああ、会社に持っていく用だ。気付けば毎年の恒例行事になってしまってな」
「ふぅん」

彼はつまらなそうに鼻を鳴らし、エミヤの手元を覗きこんだ。
エミヤはその視線を振り切るかのように背を向け、オーブンに生地を入れる。
ゔぅん、と音がして、オーブンの中に灯りがともる。
それを確認してから、エミヤは使った器具を洗い始めた。

「置いといてくれたら、俺やるぞ」
「君はまず髪を乾かせ」
「へいへい」

男は面倒くさそうに顔を歪ませ、洗面所に戻っていった。
少しのあと、ドライヤーの音がエミヤの耳に届く。
彼の髪は長く、乾かすのも大変だろう。
面倒なのはわかるが、せっかくの綺麗な髪なのだ。もう少し大事にしてもらいたい。

ブラウニーが焼きあがるまで約30分。
焼けたら冷まして、切って。ラッピングは明日の朝にするか。
頭の中で手順を確認しながら、使ったボウルや泡立て器を洗っていく。
大方洗い終わったあたりで、水音に混ざって聞こえていたドライヤーの音が途切れた。
ペタペタと足音を立てて戻ってきた彼の髪は、どう見てもまだ濡れていた。

「…おい、それで乾かしたつもりか?」
「うん?ちゃんと乾いてるだろ」
「どこが。表面しか乾いてない。子どもじゃないのだから、ちゃんと全部乾かせ」
「めんどくせぇ。母親かよ。放っておいてもそのうち乾く」
「ちゃんと乾かさないと髪が傷んで、頭皮が臭くなる。ハゲても知らんぞ」
「うちはハゲる家系じゃないから大丈夫」

聞く耳を持たない男にエミヤは舌打ちをひとつ落とし、最後のボウルを洗っていた手を止めた。
タオルで水気を拭き、洗面所に行ってドライヤーを引っ掴んで戻ってくる。

「そこに座れ、ランサー」
「何?乾かしてくれんの?」
「いいから座れ」

からかってきた男の髪を掴んで引っ張れば、わかったわかったと、男はカウンターから離れ、大人しくリビングの椅子に座った。
男の肩にかけっぱなしだったタオルで青い髪を拭きながら、ドライヤーをかけていく。
やはり男の髪はまだしっとりとしていて、完全に乾いている状態とは程遠い。
せっかくの髪なのだから、もっと大事にしてほしいと、苛々しながら乾かしていると、男が居心地悪そうに、もぞもぞ動いていることに気付いた。

「暇なのはわかるが我慢しろ。もう少しだ」
「ん?なんか言ったか?」

どうやらドライヤーの音でこちらの声が聞こえにくいらしい。
だから、ともう一度言いかけて、言葉を飲み込む。
言っても聞こえないのだ。わざわざ言うことでもない。

「ランサー」

手を止めずに、ぼそりと呟く。男からの返事はない。

「ランサー」

小さな声でさらに呼ぶ。
振り向いてほしいわけではない。
ただ、彼の名を呼びたかった。

「ランサー」

未練がましい真似はしないと決めた。
明日だって、彼には何もしない。彼の為のチョコレートも用意していない。
エミヤは彼から身を引く。
その方が彼の為だから。
かちり、とドライヤーのスイッチを切る。

「終わったぞ。よくじっと我慢できたな」
「動物扱いすんじゃねぇよ。あー、サンキューな」

椅子から立ち上がった彼が、ぐっと背伸びをする。

「そういえば、君は明日どうするのだ?」
「どうするって?」

振り向いた彼はきょとんとしていた。

「明日はバレンタインだろう?君の想い人を食事に誘ったりしないのかね?」
「あー、まぁな」

ドライヤーのコードを巻きながら平静を装って尋ねれば、彼から煮え切らない言葉が返ってきた。

「まだ誘っていないということか?君らしくもない。絶好の機会だろう?」
「誘っちゃいねぇが、まぁ、一緒に飯を食うとは思う」

彼の言葉が、エミヤを抉った。
ああ、ついにこの時が来たのか。

「そうか。せいぜい頑張るといい」
「おう」

そうなると、明日はエミヤは彼と食事をするわけにはいかない。
彼がいつ帰って来るかもわからないから、先に食べて寝ていてもいいだろう。
そもそも、彼は帰って来るのだろうか。
もちろん振られたら帰って来るだろうが、そうじゃなければ、そのまま一夜を共にする可能性だってある。

「そういえば、君はうちに1週間泊まって帰国すると言っていたが、フライトはいつなんだ?」
「土曜日の夜だ。明後日だな」

なるほど。じゃあもしかしたら、ギリギリまでその想い人と一緒にいる可能性もあるだろう。
明日彼は荷物を抱えて、彼女に会いに行くのかもしれない。
そうなったら、エミヤが仕事から帰る頃には、この部屋から彼の痕跡は消えている。
彼がいたことすら嘘のように、エミヤだけの部屋に戻っているはずだ。

「ん、なんかいい匂いがしてきたな」

彼の声につられるように、顔をキッチンに向ける。
さっき作ったブラウニーの焼き上がりが近いのだろう。
なんとも言えない感情が、エミヤの中に湧き上がる。
これは、高校生の自分が作ったブラウニーではない。
彼に渡せず、捨てることも出来ず、部屋でひとりで隠れて食べたものではない。
あのブラウニーのほろ苦い味を、さくりとした感触を、暗い己の部屋の景色を、エミヤは未だに覚えている。

「…そうだな」

あのブラウニーを、君にも食べてほしかった。
エミヤの想いを、全て飲み込んで、綺麗さっぱり無くしてほしかった。
あの日、彼にそう言えたら、何かが変わっていただろうか。


そして、ついにバレンタインデーの朝が来た。
まだ薄暗い中、エミヤはリビングで寝ている彼を起こさないよう静かにキッチンに入り、電気を点ける。
朝の床は冷たい。暖房のスイッチを入れ、上着を羽織り、手を洗う。
そして冷蔵庫から、昨日型から外して寝かせておいたブラウニーを取り出した。
音を出さないようにそっと包丁で切り分け、ひとつずつ買っておいた透明な袋に入れ、シールを貼る。
全部できたら、まとめてひとつの紙袋に入れ、忘れないように鞄のそばに置いておく。
これでバレンタインの準備は完了だ。

後は、いつも通り、朝食を作るだけ。
そこまで考えて、はたと手を止める。
2人分の朝食を作るのは、今日が最後だ。
明日からは、エミヤの分だけ。彼はもう、ここからいなくなる。
ぶわりと溢れそうになるものをぐっと堪える。
決めたではないか。きちんと諦めると。
彼にチョコレートを贈るような真似はしない。
友人として最後まで見送る。それがエミヤの役目なのだ。
カーテンの向こうが、ぼんやりと明るくなって来る中、エミヤは調理台の上で手を握りしめた。
最後。これで最後だ。
彼と2人で過ごすことも、彼を想うことも。

エミヤは冷蔵庫を開け、今日の朝食の材料をとりだす。
彼にチョコレートを贈ることはできない。贈らないと決めた。
だからせめて、今日の朝食は丁寧に作ろう。
作り置きのものではなく、ちゃんと一から出汁を取ろう。
野菜も全て同じ大きさになるように。青菜の色も、鮮やかな緑になるように。
卵焼きの焼き加減も、炊きたてのご飯も、味噌の香りも、一番最高の状態で彼に食べてもらおう。
彼が誰と付き合っても、誰と生活を共にしても、あの日の朝ごはんだけは妙にうまかったと思い出せるように。
いつかエミヤのことは忘れても、この味だけは覚えていてもらえるように。
チョコレートには込められない想いは、全てこの食事に溶かしてしまおう。
あの日のブラウニーの思い出も、高校生のエミヤの涙も、全部全部、最後に2人で食べて無くすんだ。
エミヤの初恋と一緒に。

「すげぇ、いい匂いがする。」

寝ていた彼がむくりと体を起こす。

「おはよう、ランサー。顔を洗って来い。そうしたら食事にしよう」
「へいへい。あー、腹減ったぁ」

食事を並べ、席に座る。
さらりと揺れる青い髪。紅玉のような赤い目に、透き通るような白い肌。
箸を持つすらりとした指先。
美味しそうに食事を頬張る顔。
怒った顔、拗ねた顔、笑った顔。
アーチャー、と自分を呼ぶ低く優しい声。
どれもこれも全てが愛おしい。
エミヤの恋した男。エミヤの初恋。
目の前の皿が空になる。
エミヤの込めたものは全て彼の腹の中におさまった。
それで満足できるはずだったのに、エミヤの心は余計に寂しくなる一方だ。
振り切るように立ち上がり、荷物を持って玄関に行く。
すると、彼が見送りに来てくれた。

「今日は大荷物だな」
「まぁ、バレンタインの荷物があるから」
「そうか。じゃあ、気をつけていってこいよ。アーチャー」
「ああ。じゃあな、ランサー」

君の幸せを願っているよ。
心の中で彼に告げ、エミヤは見送る彼に背を向け、歩き出した。



バレンタインの夜。
エミヤは居酒屋でひとり、夕食を食べていた。

ここは1週間前にランサーと2人で食事をした場所だ。
カウンターに腰掛け、温かい食事を黙々と食べる。
今頃彼は想い人と一緒にバレンタインディナーでも食べているのだろうか。
諦めると決めたはずなのに、頭の中では未練たらしく彼のことを考えていた。
律儀な面のある彼の為に、念のため、昼頃に今日の夕食はいらないと連絡をしてある。
これで彼は気にせずに出かけることが出来るだろう。
何時頃帰ってくるのか、というメッセージが来ていたので、『かなり遅くなるから気にするな』とだけ返しておいた。

不意に胃が重くなったような気がして、エミヤは箸を止めた。
ほかほかと湯気のあがる白米、色鮮やかな野菜がたくさん入っている粕汁。身がふかふかの焼き魚に、程よい酸味の酢の物。どれもこれも美味しいはずなのに、食欲が全くわかなかった。
気が重い。胸も思い。
これから誰もいない家に帰るのも、帰って、彼から想い人との話を聞かされるのも。
彼の恋がうまくいっていた場合、聞かされるのは惚気だろう。あの赤い目をどろどろに蕩けさせて話されるそれに相槌を打ち続けなければならない。
逆に彼の恋がうまくいかなかった場合。端的に言えば振られてしまった場合。
いかに彼がその相手のことを好きだったのかを聞かされるのだろう。彼は何も言わず、いつも通り明るく振る舞うかもしれない。でも、その態度からが本当に相手のことが好きだったことを感じられて、きっとエミヤは憂鬱になるだろう。

家に帰りたくない。
エミヤは一人暮らしをしてから、初めてそう思った。
もともと彼には遅くなると連絡してあるから、多分朝帰りになったとしても問題はないだろう。
明日は土曜日で、仕事にも影響はない。
あの男の帰る日ではあるが、やるとしたら見送りくらいだ。それなら多少寝不足でも大丈夫だろう。

ならば、どこで時間を潰そうか、とエミヤは考える。
行きつけのバーなどあれば良いのだが、いかんせんエミヤはそこまでお酒が好きではない。
ひとりで酒を飲むにしても限界がある。それに、以前彼にしてしまったように、誰かに迷惑をかけてしまうかもしれない。だから、夜通し飲む、ということはできない。
ならばカラオケだろうか。ひとりカラオケ。やったことはないが、絶対に暇を持て余してしまいそうである。これも却下だろう。
となると、無難なのは漫画喫茶だ。
適当に漫画を読みながら映画でも見ていれば、きっと一晩などあっという間だ。
エミヤはそう決めて、目の前の食事をかきこんだ。

会計を終え、店の外に出る。
大通りに出れば、そこはいつもの週末の街だった。
バレンタインだからどう、と言うことはない。ただの金曜日の夜。それだけだ。
心なしかカップルが多い気もするが、それも気がする程度だ。
今日は特別な日なんかではない。そう心を慰めてみるも、なんの効果もなかった。

一番近くの漫画喫茶行くと満席だった。
支店が駅の向こう側にあるというので、そちらに向かって歩き出す。
途中、エミヤの好きなケーキ屋の前を通った。
まもなく閉店のようで、なんとなくガラス戸を覗けば、店の中に人はいなかった。
ふと、中のショーケースが目に入る。
そこには、エミヤがお気に入りのチョコレートケーキがひとつだけ残っていた。
あれは売れ残りだろうか。
あたりをきょろきょろと見回すが、周りに人気はない。
閉店間近だ。客はもう来ないかもしれない。
あれは捨てられてしまうのだろうか。それとも店員が食べるのだろうか。
なんとなくエミヤはあのケーキがものすごく欲しくなり、気付けば店の中に入っていた。
店員はたったひとつのケーキを、いつも通り手際よく箱にいれ、渡してくれた。
お金を払い、礼を言って店を出る。
漫画喫茶に行くつもりだったが、ケーキを持ったまま店に入るわけにもいかない。
エミヤは立ち止まった。
そしてしばらく悩んだ後、大人しく家に帰ることを選んだ。


部屋の鍵を開ければ、中は真っ暗だった。
玄関の電気を点け、部屋に上がる。

なんだ。彼がいないのなら、もっと早く帰ってこればよかった。
そんな勝手なことを考えながらコートを脱ぎ、手を洗う。
リビングの電気を点け、持っていたケーキをテーブル置く。
中を開けば、小さな直方体のチョコレートケーキがぽつんと入っていた。
表面のチョコレートが、照明を反射しててらりと光る。
その取り残されている様子が、宙ぶらりんになったままの己の恋心と重なって、なんだか無性に悲しくなった。

いつもだったらケーキに合う紅茶を淹れ、机を拭き、皿とフォークを出して、テレビでも流しながら食べていただろう。
だが、エミヤは立ったまま、ケーキのナイロンを剥がし、そのまま手づかみでケーキにかぶりついた。
様々なチョコレートの味が、エミヤの口内に広がる。
とろりとしたチョコレートクリーム。ふわふわのスポンジに、カリカリのアーモンド。
それは涙が出るほど、美味しい味だった。

ひとくち、ふたくち、みくち。
小さなそれは、齧り付くたびに、どんどん小さくなっていく。
彼への想いも、こんなふうになくなってしまえばよかったのに。
ずっと捨てられなかった。忘れられなかった。
ひとりで食べたブラウニー。立ったまま噛り付いたチョコレートケーキ。
結局、エミヤはなんの進歩もしていない。
ずっと自分は、宙ぶらりんのままだ。

このまま自分は、未練たらしく、彼への想いを持ち続けることしかできないのか。
ごくり、と押し込んだチョコレートケーキを飲み込む。
甘い味が喉を焼く。

そんなことはない。そんなのは嫌だ。
今日は後ろに引いたけれど、何も変わらなかった。
彼を忘れることはできず、むしろ余計に寂しくなるだけだった。
ならばもう、前に進むしか道はない。
どうせ明日には彼は帰るのだ。
何かしても、しなくとも、明日以降彼に会うことはない。
これがきっと、本当に最後だ。

エミヤは口を拭い、コートをひっつかんで近くのコンビニに駆け込んだ。
小麦粉や卵、くるみはまだ家に残っている。足りないのはチョコレートくらいだ。
ビターチョコレートを手に取り、レジに出す。
ラッピングなんてものはいらない。
明日の朝食の時にでも、一緒に出せばいい。
なん言おうか。材料が余ったから作ってみた。それとも、会社で好評だったから、気分が上がって作ってみた。
どれもこれも大嘘だ。
高校生のエミヤは渡せなかった。大人になったエミヤも渡すことを諦めた。
でもやっぱり、最後に渡したいと思った。
じゃなければ、高校生のエミヤの心も、今のエミヤの心も、ずっと宙ぶらりんのままだ。

家に駆け戻って来て、手を洗う。
チョコレートを刻み、湯煎で溶かす。
深夜のキッチンに、甘い匂いが広がる。
彼が帰って来る前に、消臭スプレーを使わなくては。
そんなことを考えながらバターを練り、砂糖を入れ、卵を混ぜる。
この時間まで彼が帰ってこないと言うことは、きっと想い人とうまくいったのだろう。
ならばそれでいい。そんなに幸せならば、エミヤの恋心くらい受け止められるだろう。
冗談だと思ってもいい。笑い飛ばしてくれていい。
酔っ払っているのか、と呆れたように、あの綺麗な赤い目でエミヤを見るなら、それでもいい。
気持ち悪いと、罵ってくれても構わない。
宙ぶらりんのエミヤの足が地につくためには、どんなに辛辣でも、どんなに辛くても、彼の言葉が必要なのだ。

本当は自分でなんとかするべきだと思った。介錯を彼に頼んでしまう自分が情けない。
でも、エミヤが彼をふっ切るには、もう彼に振ってもらうしかない。
かき混ぜたボウルの中身を型に入れ、くるみを飾り付けてオーブンに入れる。
甘いものが苦手な彼でも食べられるようにビターに仕上げた、正真正銘の、エミヤの本命チョコレートだ。
作った。作ってしまった。
呆然としながらエミヤは、あかりが付いているオーブンを眺める。

「なんだ。案外、普通に作れるものだな」

呟いた声は、オーブンの音にかき消された。



焼きあがったブラウニーを冷まし、型から外したところで、玄関の方で音がした。
時計は深夜二時を過ぎたところ。
まさかこの時間に彼が帰ってきたのか。正直、もう朝まで帰ってこないと思っていた。
リビングに入ってきた彼は、エミヤを見てひどく驚いた顔をしていた。
エミヤはブラウニーを作ったせいか、それとも深夜のせいか、不思議と気分が上がっていた。
にこやかに彼を迎える。

「おかえり、ランサー。バレンタインの夜は楽しめたか?」
「おかげさまでな」

彼の声が妙に刺々しかった。
ふと、エミヤの鼻にアルコールの香りが届く。
彼は酒を飲んでいたのかもしれない。
中途半端な時間だ。もしかして振られて、ヤケ酒とかしていたのだろうか。

「…なんで、チョコレートの匂いがするんだ?」

彼から低い声が聞こえる。
もし振られてヤケ酒をしたのなら、振られてヤケ食いというのもありではないだろうか。
エミヤは意気揚々と答えた。

「実は、ブラウニーを焼いたんだ。君と一緒に食べようと思ってな」

昨日のものよりもうまくできたんだ。
そう言う前に、エミヤの体は後ろに吹っ飛んでいた。
腰が強かに床に打ち付けられる。
頬がじんじんと熱い。
顔を上げれば、ひどく暗い目をした彼がこちらを見下ろしていた。

「何言ってんの?お前」

それはエミヤも聞いたことのない、冷え切った声だった。
そこでようやく、エミヤは彼が怒っていることに気付いた。
ゆらりと彼の頭が動き、尻餅を付いているエミヤの前に立つ。
照明が彼の真上にあるせいで、彼の顔は真っ暗だ。
ただ、赤い目だけが、ぎろりとそこに浮いている。

「すまない、ランサー」

エミヤはとっさに謝った。

「すまない。無神経だった。悪かった」

自分が振られて帰ってきた時に、能天気に『実はお菓子作りをしていたんだ。一緒に食べようと思って』なん聞いてきたら腹も立つだろう。
これはエミヤのミスだ。浮かれ過ぎて、最後にやってしまった。
焦るエミヤに、彼はぎり、と歯を噛みしめる。

「お前なんなの。本当に、何考えてんだよ」
「すまない!君を馬鹿にするつもりは」
「馬鹿にしてるだろうが!急に今日は遅くなるから夕飯いらないとか言ったくせに、黙って帰ってきて急にブラウニーなんぞ作りやがって。しかも俺に食えだと?無神経にも程がある。俺を振り回してそんなに楽しいのか?」
「そんなつもりは…!」

否定するが、それでも彼の怒りはおさまらない。
ぐしゃぐしゃと彼が髪をかき乱す。

「あああああ、くそったれ。お前は本当に最悪だ。最低な男だ。高校の時から、お前はひどい奴だった」

なぜ高校の時の話が掘り起こされる。
つまり彼はエミヤのことを、その頃から最低最悪と思っていたのか。

「だいたい、こんな夜中にお菓子作りとか頭沸いてんじゃねぇのか?バレンタインだからって浮かれてんじゃねぇぞ、馬鹿野郎。いい大人のくせに、世間の行事に踊らされやがって。ガキか」

ひどい言われようである。はじめは申し訳ないと思っていたエミヤも、だんだん苛々してきた。
これはたぶん、ただの八つ当たりであることはなんとなくわかった。
きっと彼は、想い人とうまくいかなかったのだろう。
それで振られて、ヤケ酒して帰ってきて、能天気なエミヤがムカついた。そうなんだろう。
だが、たとえそうだとしても、ここまで言うことはないのではないか。

「はっ、世間の行事を楽しむ余裕があるのが大人と言うものだ。そっちこそ、酔っ払って帰ってきて、人に当たるなど、そっちの方が子どもではないかね?」

最初の彼の一撃で、口の中が切れてしまったようだ。
溢れてきた血を手の甲で拭いながら、エミヤは立ち上がる。

「そもそも、ここは私の家だ。いつ何をしようと私の勝手だろう」
「ああ、そうだな。だが、その勝手さに苛々すると言ってるんだ」
「ほう?それのどこに苛つく要素があると?料理は私の趣味だ。君がいない間に何をしていても構わないではないか。それとも逐一君に報告しなければいけない法律でもできたのかね?」
「ガキくせぇこと言うんじゃねぇよ、アーチャー。その次は、何時何分何秒地球が何回回った時だとか言うんじゃねぇだろうな?」
「お望みなら言ってやろうか?ガキのような君に合わせるには、それくらいのことを言わなくては伝わらないようでな。子どものレベルに合わせてやるのも、大人の仕事というわけだ。やれやれ、子どもの相手は本当に疲れる」

じり、と二人の間で火花が散ったような気がした。
彼の目がぎらりと光る。

「テメェは本当にムカつく野郎だな。昔からそういうところだけは変わらねぇ」
「君こそ、ムカついたら、すぐに暴力に訴える野蛮人みたいなところは変わらないな。付き合わされるこっちの身にもなってみろ」

無意識に拳を握り、体の前で構えれば、彼も腰を落とし、こちらを睨みつけてきた。

「そっちこそ、常識人ぶった顔しながら、俺より喧嘩っぱやいじゃねぇか」
「獣相手だと、先手を取らなくては制圧が面倒でね。もちろん、後手になっても、負ける気はないが」
「ほら、昔からそうやってすぐに俺に張り合いやがる。そんなに俺のことが好きかね」
「そうだな。バレンタインにブラウニーを贈りたいと思う程度にはな」

言ってから、踏み込んで来ようとした彼より先に、彼の頬めがけて拳を突き出す。
おそらくスピードも力も彼の方が上だろう。ここ数年、エミヤも実戦の喧嘩からは遠ざかっている。
だから、まずは一発入れて不意を突く。
次に足を払い、マウントを取る。
エミヤの拳は彼を捕らえた。
一撃を食らった彼は、ふらりと後ろに下がる。
不意をついたとはいえ、やけにあっさり当たったことに驚きながらも、狙い通り足を払い、彼をリビングの床に押し倒す。
マウントは取った。
反撃が来ないよう押さえ込もうとするが、彼の体から力が抜けていることに気付く。
どうしたのかと見れば、彼はエミヤの下でだらりと寝転がっていた。
その顔は、腕で覆い隠されている。

「…お前、もう、本当に最悪だわ」
「何がだ?最近ろくに喧嘩もしていない私に負けて悔しいのかね?」
「違ぇよ。冗談でも、言っていいことと悪いことがあるだろうが」

憎々しげに吐かれた言葉に、エミヤは眉をひそめる。

「なんの話だ?」

エミヤの問いを無視して、口の中が痛ぇ、と彼が呻く。
さっきの一撃で、彼も口の中が切れてしまったのかもしれない。
でも、それはエミヤも同じこと。お互い様だ。
そう反論しようとした時、彼がぽつりと言った。

「人がどんな気持ちでいるかもしれないで、勝手なこと言いやがって。好きでもないくせに、好きとか言うんじゃねぇよ」

数秒前、エミヤが言ったことが蘇る。

『そんなに俺のことが好きかね』
『そうだな。バレンタインにブラウニーを贈りたいと思う程度にはな』

ああ、そうだ。その通りだ。
ずっとずっと好きだった。
大人になっても忘れられないくらい、遠いあの日をずっと後悔しているくらい、彼のことが。

「君のことが好きだから」

言葉が先に飛び出す。それはずっとずっと押し込めていたもの。
あの日の夕暮れの教室で、エミヤがどうしても言えなかったこと。

「好きと言って、何が悪い」

その言葉は、唐突に宙に投げ出された。
本当は、明日の朝にでも作ったブラウニーを渡して、今まで気持ちを込めて言おうと思っていた。
それを思い出したのは、もう言った後のことだった。
エミヤの言葉は宙に浮かんだまま、ふらふらと彷徨い、すっと空気に溶けた。
言ってしまえば、なんとあっけない言葉だろう
腹に隠しているときはあんなにも重かったのに、放り出してしまえば、こんなにも軽い。
エミヤの中のなにかが、ぽっかりと空いてしまった気がした。

「ふざけんな」

下から響いてきたそれは低く、地の底から這いずるような声だった。

「ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな!ふざけんじゃねぇぞ、アーチャー。そんなわけねぇだろ。お前が、俺のことを好きなわけねぇだろ」
「…ランサー」
「お前が俺のこと好きだったら、どうして俺と今日、飯を食わなかった。どうして今日帰ってこなかった。どうして」

彼が引き攣るように息を吸う。

「どうしてあの日、お前に告白しようとする俺に、あんなことを言った」

夕暮れの教室で、薄く笑う幼い彼がフラッシュバックする。

「バレンタインだから、卒業して日本を離れる前にお前に告白しようと思った。その後のことなんか考えなかった。とにかく、お前に気持ちを伝えておきたかった。だから言おうとした。だが、お前は、俺に言わせてもくれなかった!」

あの日、彼の表情は覚悟を決めたせいか妙に大人びていて、エミヤの知っている彼とは全く違うものに見えた。
自分以外の誰かに恋したことによって変わってしまった彼が憎くて、寂しくて、悲しくて、エミヤは早くあの場から立ち去りたかった。
鞄に潜めた恋心がバレる前に、逃げ出したかった。

「あの日のことを、俺はずっと後悔してた。強引にでも言えばよかった。そうしておけば、こんな大人になってまで、お前のことを引きずることはなかったんだ。お前の側にいる為に、お前を騙したりもしなかったのに」

騙すとはなんのことだろう。
あいにく、エミヤには彼に騙された記憶はない。
エミヤのよくわかっていない様子を感じ取ったのか、彼が溜息交じりに話し出した。

「…お前の久しぶりにあったあの夜、お前は酔っ払って寝たんだ。だから仕方なく泊まるホテルにお前を連れて行った。服はお前が自分で脱いだ。別に吐いてもない。何にもなかったし、なにかが起こるはずなんてなかった。だが、次の日、お前は世界が終わったような顔をして俺に頭を下げた」

彼にとってはそうかもしれないが、エミヤにとっては違った。
だってエミヤは、ずっと腹の中で彼への想いを煮詰めていた状態だった。
だから、裸の彼が隣にいてあそこまで怒っていたから、エミヤだって何かをしてしまったのではないかと思ったのだ。

「ちょっと待て。何もなかったのなら、なぜあそこまで怒ってたんだ?」

エミヤが尋ねると、彼は顔を隠していた腕をどかして、こちらを睨みつけてきた。
その顔はいつもの苛立っている彼だった。

「お前な、惚れている男が、下着1枚で、どろっどろに蕩けた目で、無防備に俺に甘えて俺の名前を呼んで擦り寄ってきたんだぞ。生殺しだし、酔っ払ったら他の奴にもこれやってんのかと思ったら、さすがに灸をすえないとまずいって思うだろ」

まさかの彼からの情報に、エミヤは言葉を失った。
酔っ払った自分が、そんな浅ましい真似を彼にしていたなどと。
エミヤはいっそ死んでしまいたい気分だった。

「それは、本当に見苦しい真似を…」
「見苦しくなかったから困ったんだろうが!だから、ちょっとキツく言おうとしたらお前は土下座してくるし、なんでも言うこと聞くって言うし。ほんと、お前、軽々しくあんなこと言うんじゃねぇぞ。俺みたいに騙そうとする奴もいるんだし」

呆れるように、彼は仰向けのまま息を吐いた。

「シャツ云々も全部嘘だ。お前がめちゃくちゃ思いつめてっから、なんでもいいから理由作ろうと思って適当に言っただけ。だから、お前が詫びだとシャツを持ってきたときは、流石に良心が痛んだ」

お前がクソ真面目だったのを忘れてたわ、と彼がぼやく。

「でも、今更本当のことも言えなかった。もう後には引けない。だから覚悟を決めて、お前に惚れてるってことを匂わせつつ、バレンタインにもう一度告白しようと思ってたら、急に今日の夕飯はいらないとか言われるし、しかも待っても全然帰ってこねぇし、ひとりで待ってるのが耐えられなくなって、酒飲みに行った」

つらつらと語っていた彼の声が、落ち込んだように少し沈む。

「それでもやっぱり気になって、ほどほどで切り上げて帰ってきたら、妙に晴れやかな顔で、ブラウニー作ったから一緒に食べようとかぬかしやがる。その空気を読んでいない感じに、めちゃくちゃ腹が立って、ぶん殴った」

そこで彼の言葉が止まった。
いつのまにか彼の赤い目がじっとこっちを見ていることに気付き、エミヤは困惑した。
そうでなくとも、彼が言ったことはエミヤの理解を超えていた。
彼の言葉を、どう捉えていいのかわからなかった。

「ずっとお前が好きだったんだ」

やっと言えた。
その小さな言葉で、エミヤの思考がさらに混乱する。

「で、結局のところ、お前はどうなんだよ」
「どう、とは」

ごくりと唾を飲み込もうとするが、口の中は乾いていて、血の味が少ししただけだった。

「私は」

エミヤも彼が好きだ。ずっと好きだった。でも、それはさっき言ったはず。
こういう時は、もう一度同じことを、改めて言ったらいいのか。
それとも、彼のように時系列順に、一から話した方がいいのだろうか。
エミヤの恋のはじめからというと、それは高校生の頃からの話になる。
結構長い話になるから、こんな床ではなく、ちゃんと椅子に座ってからの方が聞きやすいだろう。それ以前にもう夜も遅い。明日は彼にフライトもあるし、とりあえずは寝たほうがいいだろう。
そう告げようと彼を見下ろす。

床に散らばる青い髪、透き通るような白い肌。美しい赤い目。凛々しい眼差し。アーチャー、と呼びかける低い声。外見だけではない。その優しさも、気高さも、彼を形作る全てを、エミヤは愛していた。
その彼が、高校生の頃からエミヤのことを好きだったと言う。
一瞬にしてそのことが頭をよぎり、エミヤは言葉に詰まった。

そんなエミヤの下で、男が眉をひそめ、両手で顔を覆う。
聞こえたのは、深いため息。

「お前、そんな顔して俺に惚れてないとか抜かしやがったら、顔面変形するくらいぶん殴るからな」

あー、ちくしょう。結局最後まで振り回されっぱなしじゃねぇか。
そんな悔しそうな彼の声を聞きながら、エミヤは彼と両想いだった事実を受け止めきれず、しばらく彼の上に呆然と座り込んでいた。



(終わり)

ーーーーーー
次ページはおまけのあの夜のランサー視点のお話。

読んでてわかったと思いますが、これを書いていた時、めちゃくちゃチョコレートケーキが食べたかったんです。


Comments

  • 河童🕊️
    November 16, 2021
  • 相良
    October 12, 2019
  • 綾人

    後日談を、後生ですから是非後日談を…!

    March 3, 2019
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