美しい獣を見つけた男の話
※大学パロ
※槍とモブとの絡みあります
※匂わせる程度の士凛要素あり
※みんな女々しい
※無駄に長い
それでもよろしければどうぞ。
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エミヤが尊すぎてしんどいです。
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それは、とても美しい生き物だった。
◇
エミヤの通う大学には、映画論という変わった授業がある。
それは夏休み明けの後期に始まり、どの学部生でも受講できる。
時間は水曜日の1限目。
週に1回、教授が選んだ映画を観てきて、それについて話し合う授業である。
一見とても楽そうな授業に思えるが、学生の間ではかなり厳しいことで有名だ。
週に1回映画を観に行かなければいけないということは、必ず出費が伴う。どこでも上映しているメジャーな映画ならまだいいが、ミニシアター系の限られた映画館でしか上映されていない作品が選ばれれば、そこまでわざわざ足を運ばなければならない。
旧作が選ばれることもあるから、その場合は自分でディスクをレンタルしなくてはいけない。
出席も毎回本人を確認しながら取るため、友人に代返を頼むことも不可能。
授業中も積極的に意見を求められるので、ただ教授の話を聞き流していればいいわけではない。
名前からして人気がありそうな授業だったが、この厳しさから、受講している学生はエミヤを含めて10人にも満たなかった。
エミヤは特段映画好きと言うわけではない。
気になったものがあれば、たまに観るといった程度のものだ。
しかし、そんなエミヤがどうしてそんな厳しい授業を受けることにしたのかというと、興味本位で見に来たその授業に、とある男の姿を見つけたからだ。
その男は、ランサーと呼ばれていた。
ランサー。
海外からの留学生で、本名はクー・フーリン。
エミヤと同じ大学2年で、後ろで1つにまとめられた青い長い髪と、赤い目が特徴的な男だ。
なぜランサーと呼ばれているかというと、彼は母国では名の知れた槍の使い手だったらしい。
そのことを聞いた仲の良い連中が彼をランサーと呼ぶようになり、その呼び名が広まったそうだ。
エミヤも、何度か大学構内で彼を見かけたことがあった。
多くの友人に囲まれ、人好きのする笑みを浮かべて笑う男。
留学生とはいえ、母国で日本語を習っていたようで、日本語も流暢だと聞いた。
一人でいることの多いエミヤとは対照的に、彼の周りは、まるで太陽に照らさられているかのように、いつも華やかで明るかった。
学部も違うため、授業も滅多に重ならいエミヤには、そんな人気者の彼と関わる機会などなかった。
しかし、たった一度だけ、エミヤは彼が槍を振るう姿を見たことがあった。
それは、大学が主催した新入生向けのオリエンテーションの時だった。
彼はその時、留学生代表として、新入生の前で槍の演武を披露した。
エミヤが所属する弓道部の紹介の後、体育館の隅からたまたま見たそれは、エミヤが見てきた何よりも美しかった。
いつもにこやかな彼の赤い目が、獣のようにぎらぎらと燃え上がる。
彼の動きに合わせて、絹糸のような青い髪が揺れる。
舞のような軽やかな足さばき。
それは、まるで違う世界の生き物のようだった。
その姿に、エミヤは目も心も奪われた。
それから、彼を大学で見かけるたび、あの美しい獣の姿がエミヤの心を揺さぶるようになったのだ。
同じ授業を取るようになってからも、エミヤとランサーに特に接点はなかった。
受講している生徒は、映画にしか興味のない変わり者が集まっているせいか、他人には基本無関心だった。
エミヤ自身も、こっちは知っていても向こうは知らないだろうと声をかけなかったし、授業時間に余裕を持って来るエミヤと、時間ぎりぎりに飛び込んで来るランサーは、すれ違いざまの挨拶すら交わしたことはなかった。
そうしてひと月が経ち、エミヤの知っている映画が4本増えた頃、転機が訪れた。
授業が終わり、エミヤは立ち上がった。
エミヤは早めに来ることが多いので、前の方の席に座ることが多い。
振り返ると、ほとんどの学生が席を立ち、出口に向かっていた。
しかし、青い頭の男だけは、机に突っ伏したまま動き出す気配がない。
もしやあの男、寝ているのではないか、とエミヤは眉をひそめた。
周りを見ると他の学生は早々に出ていってしまい、がらんとした教室にはエミヤと寝こけているランサーしか残っていなかった。
どうしたものか。
突然のことに、エミヤは困ってしまった。
放っておいても誰も責めないと思うが、ここで置き去りにするのは、根がお人好しのエミヤには少々憚られた。
これも人助け、慈善事業だと内心言い訳をしながら、エミヤはおそるおそるその男の肩に手を伸ばし、揺さぶった。
「…おい」
「…んー、もうちょっと…」
「たわけ。授業はもう終わっている。さっさと起きろ」
「…え、マジで?!」
がばり、とその男は勢いよく顔を上げた。
きょろきょろと辺りを見回した後、その赤い目がエミヤを射抜いた。
初めて正面から受け止めた眼光に、思わず口籠もりそうになるのを堪え、エミヤは平静を装って続けた。
「…ああ、残っているのは君くらいだ。ここも次の授業で使うのだろう。寝るなら隣の教室にしたまえ」
「え、あ、おお」
「…まだ寝ぼけているのかね?」
未だぼんやりとこちらをみる男に訝しげに尋ねると、彼は慌てて首を振った。
「ああ、いや、悪ぃ。助かったわ」
「礼には及ばん。…ちなみに次まで観てくるものは聞いていたのか?」
余計なお世話かと思ったが、ここまで来たら引くに引けなかった。
痛いところを指摘され、やばいと顔を青くする男に、エミヤは諦めたようにため息を吐いた。
「…『ファイト・クラブ』だそうだ。DVDで観ておけと」
そう言い残し、エミヤはその男の横を素早く通り過ぎようとした。
「あっ、待てよ」
しかし、ぱしり、と男はエミヤの腕を掴んで引き留めてきた。
突然のことにエミヤの心臓がどくり、と跳ねる。
掴まれている部分からじわじわと男の熱が伝わり、エミヤの体温までそれにつられて上がっていくようだった。
反射的に振り払うと、彼は焦ったように、悪ぃ、と小さく謝った。
「…他に何か?」
「違ぇよ。お前、このあと暇?暇なら、起こしてくれた礼がてら、学食で何か奢るぜ」
思わぬ申し出に、エミヤは一瞬虚を突かれた。
この男は、初対面の人間に対して、ここまでする人間なのか。
気安いのか、それとも借りは返さねば気が済まないタイプなのか。
男の意図が、エミヤには全く読めなかった。
しかし、どちらにせよ、残念なことにエミヤはこの後授業があった。だから、彼からの誘いを受けるわけにはいかない。
最も、授業がなくとも、これ以上彼と関わる気は無かったが。
「気持ちはありがたいが、この後授業がある」
「えっ、…あー、そっか。残念。あっ、じゃあ、昼」
「それにさっきも言ったが、大したことではないから礼には及ばん。…じゃあな」
エミヤは何か言いかける男の言葉を意図的に遮り、さっさと出口に向かって歩き出した。
このままここに居ては、ぼろが出るかもしれない。その前に彼から離れたかった。
教室から出る直前、エミヤはもう一度彼のほうをちらりと見た。
青い彼はまだ寝ぼけているのか、相変わらず席で立ち尽くし、ぼんやりとこちらを眺めている。
その視線が、交差した。
「では、また来週に」
そう言い残して、エミヤは教室から出ていった。
いつものペースで廊下を歩いていた足はだんだんと速度を上げ、気付くとエミヤは感情のまま走っていた。
実際、次の授業まで時間はないので、走っていても不自然ではない。
次の授業が行われる教室が遠い場合、この広い大学構内をのんびり移動してると、あっという間に遅刻してしまう。
しかし、エミヤの場合、次の教室はさほど離れていないので、走らなくてもおそらく次の授業には間に合う。
それでも、エミヤは走らずにはいられなかった。
ずっと憧れていたあの美しい獣が、エミヤを見た。言葉も交わすことができた。
嬉しくて嬉しくて、エミヤの感情は激しく揺さぶられた。
正面から見る彼の目は美しく、その赤に吸い込まれそうだった。
初めて自分に向けられた彼の言葉は、エミヤが無愛想な態度を取ったにも関わらず優しいものだった。
それだけで、エミヤの心は昂った。
あの日から。
エミヤはずっと、あの青い美しい獣に恋をしていた。
エミヤは同性愛者ではなかった。
女性を好きになったこともあったし、女性と付き合ったこともある。
しかし、このように心をぐちゃぐちゃにかき乱される恋をしたのは、これが初めてだった。
そして、この感情が万人に受け入れられるものでもないこともわかっていた。
だからエミヤはあの日、己の恋に気付いても、積極的にランサーに関わろうとはしなかった。
遠くから眺め、それで自分の恋心が収まるのを待つことにした。
一時の感情かもしれない。憧れを恋慕と勘違いしたのかもしれない。
そうであることを願い続けていたが、エミヤの願いとは裏腹に、ランサーへの想いは冷めることはなかった。
映画論の授業で偶然彼の姿を見つけたとき、エミヤの心は歓喜に震えた。
冷静な自分は、関わってはいけない、受講を止めるべきだと叫んでいたが、恋する心は止められなかった。
眺めるだけで我慢するから、と言い訳をしながら、エミヤは映画論を受講することにした。
だって、あの授業は彼とできた唯一の接点だった。
学部も違うから、授業が被ることなんてそうそう無い。
授業のある半年間だけでも、彼の視界に入りたかった。
彼と同じ教室で、同じものを眺めたかった。
それだけで、エミヤは満足だった。満足するつもりだった。
しかし。
「よっ、隣いいか?」
次の週、映画論の教室で、ランサーは何の躊躇もなく、エミヤの横の席に腰を下ろした。
思わずエミヤは教室内を見回す。
広い教室はガラガラで、わざわざ自分の隣に座らなくても席は空いていた。
そんなエミヤの視線に気づいたのか、ランサーは続けて言った。
「いやぁ、この授業知り合いがひとりもいなくて寂しくてよ。こうして話せる相手ができてよかったわー」
「…すまないが、先週のあれが初対面だと思うのだが」
「えー、でも、俺は知ってるぜ。お前、アーチャーだろ?」
己のあだ名と言い当てられ、どきりとする。
彼がランサーと呼ばれるように、エミヤは周りからアーチャーと呼ばれていた。
親しい友人が付けたあだ名というわけでは無い。昔からの通り名のようなものだった。
エミヤは幼い頃から弓道をやっており、それなりに名を上げた選手だった。
その神がかった実力に周囲がエミヤをアーチャーと呼び始め、大学の弓道部にもその名を知っている人間が多くいたことから、それがそのまま大学中に広がってしまったのだ。
「…そういうそちらはランサーだろう?」
「お、俺のこと知ってた?」
「まぁ、君は有名人だからな」
そう告げたところで教授が教室に入ってきた。
エミヤが顔を正面に向けると、ランサーも会話を止めて前を向いた。
しかし、授業が始まっても、エミヤは一向に教授の話に集中できなかった。
いつもは空いている自分の右側に、あの美しい獣がいる。
そう考えるだけで、エミヤの右半身が熱くなったような気がした。
異様に長く感じた授業が終わり、荷物をまとめて速やかに去ろうとするエミヤに、ランサーが声をかけてきた。
「なぁ、次の映画、一緒に見に行かねぇ?」
「は?」
エミヤの口から、思わず間の抜けた声が出た。
「えー、だって一人でいくのもつまんねぇだろ?どうせなら一緒に行こうぜ」
にかっと笑いかけてくる男の明るさに、エミヤは軽く目眩がした。
なんという人懐っこい男なのか。
こちらはやましい気持ちがばれないように必死なのに、それを易々と飛び越えて親交を深めようとしてくる。
頼むから放っておいてくれ、とエミヤは思った。
自分は彼の友人になれるような明るい人種ではなく、ただの卑屈な男だ。
自分と一緒にいても彼に得はないだろうし、関わって、なんとつまらない奴だと彼に失望されるのも嫌だった。
それに、自分は彼のように万人に優しさ振りまけるような人間ではない。
優しくされては、その分だけ期待してしまう卑しい人間だ。
その優しさを勘違いして、自分が余計な期待を抱くことだけは避けたかった。
「君にはたくさんの友人がいるではないか。寂しいのなら、私でなくとも彼らと行けばいいだろう」
「そりゃ言えば付き合ってくれる奴はいるけどよ、どうせだったら少しでも映画に興味がある奴と見てぇじゃねぇか」
横で寝られてもシラケんだよ、と彼は不服そうに呟いた。
確かに次に選ばれた映画は、史実を元にした一人の医師の男の話で、割と重いテーマの映画だ。興味のない人間が付き合いで観るには、確かにキツイものがある。
なんと答えようか考えあぐねていると、ランサーはにかっと笑ってスマホを出してきた。
「じゃ、決まりな。お前いつ暇?あと連絡先、教えてくれ」
「は?」
「は、じゃなくて、スマホ持ってんだろ?」
手をこちらに差し出される。
呆気にとられてその手を眺めていると、ん、とさらに催促されたので、不自然にならないよう、とりあえず手早くロックを解除してスマホを渡す。
「お、かっこいいの使ってんじゃん」
彼の褒め言葉に頰が熱くなるのを感じるが、首を振って慌てて平静を取り戻す。
「いや、というか、君と一緒に行くとは一言も…!」
「いいじゃねぇか、そんな難しく考えんなよ。ただ映画見るだけなんだし」
な、と笑顔で言われ、エミヤは盛大に混乱した。
そうなのか。ただ映画観るくらいなら、そこまで親交のない人間を誘うのか。そういうものなのか。
人付き合いがあまり得意ではないエミヤには、よくわからなかった。
しまいには、ここで自分がゴネればゴネるほど、彼に過剰に反応していると証明することになってしまうのではないか、という焦りが、エミヤの中に生まれだした。
それに、エミヤには次の授業もあり、早々にそちらに行かなくてはいけない。
それらの焦りから、エミヤは男の申し出を受け入れざるをえなかった。
おそらく今回限りだろう。そう、エミヤは自分を納得させることにした。
一度行けば、この男もエミヤがつまらない男だとわかって、もう誘ってこないかもしれない。
彼につまらないと失望されるのは辛いが、仕方がない。
一度だけだと思えば。
彼のためだと思えば、傷付くことも。
「…わかった。予定が合えばな」
「ん。あ、次お前授業だったか。じゃあ、また連絡するな!」
彼はそう言って、エミヤのスマホをこちらに放り投げ、楽しそうな笑顔を浮かべ、軽やかな足取りで教室から出て行った。
誰もいない教室に残ったのは、突然のことに未だ戸惑っているエミヤと、連絡先が1つ増えたスマホだけだった。
そして、ついに彼と約束した日が来てしまった。
正直、エミヤは予定が合わず、このまま約束が流れることも期待していたのだが、そんなことは起こらなかった。
待ち合わせした駅で会った時からご機嫌のランサーとは対照的に、エミヤは朝から憂鬱で仕方がなかった。
彼から失望されたくないがための距離を取っていたのに、なぜ自ら失望されにいかなくてはならないのか。
映画を観たらすぐに帰ろうと、それを支えに過ごしたのに、観終わった後はランサーに強引に店に連れていかれ、なぜか夕食まで一緒に取るはめになった。
こうなればヤケだ、とエミヤはランサーから求められるがままに映画の感想を喋り倒し、ランサーの食事の仕方に小言を言い、徹底的に思うがままに振る舞った。途中、意見がぶつかり、言い争うことすらあった。
ここまで傍若無人な態度を取れば、いくら彼でもさすがに嫌気がさすはずだ。
そうなれば、今後この男は自分のようなものを誘うこともなくなるだろうし、授業で隣に座ることもなくなる。
きっと、会話することも。
そう思っての態度だった。
だったのだが。
「アーチャー。次の映画観んの、いつにする?」
「なんでさ?!」
ごく普通にかけられた言葉に、思わずエミヤは叫んでしまった。
ランサーと映画を観た次の週の授業。
ランサーはあたりまえのようにエミヤの横に座り、授業の後、当たり前のようにエミヤを次の映画に誘ってきた。
そんなエミヤの反応が面白かったのか、ランサーはけらけらと笑っていた。
「…ランサー、次の映画は大衆向けのわかりやすいアクション大作だ。それこそ私じゃなくて、君のお友達と行くといい」
「いいじゃねぇか。俺が誰と行こうと勝手だろ」
「それはもちろんそうだが、私は映画はひとりで観たいんだ」
「えー、俺はひとりで観たくねぇ」
「そんなものは知らん!」
「いいじゃねぇか。同じ授業を取ってるよしみとして、一緒に行こうぜ」
「断る!第一、私と観に行っても特に面白くもないだろう!」
「そんなことねぇよ」
さらりと返された言葉に、エミヤの動きが止まる。
「確かにお前は小言も皮肉も多いし、うっとおしい事もあったが」
「…フン、それはすまなかったな」
「それを差し引いても、お前と映画観て話すんの、面白かったぜ」
にかっと笑いかける男は殺し屋かもしれない。
冗談抜きでエミヤはそう思った。
その笑顔に、エミヤの心臓はいともたやすく目の前の男に刺し穿たれてしまった。
そうして。
エミヤとランサーは週に1回、一緒に映画を観に行くことになったのだ。
「へぇ、アーチャーってば、かわいい恋してんのね〜」
「凛。まだ授業中だ」
「はーい、すみません、先生」
目の前に座る黒髪の少女に、エミヤは溜め息を吐いた。
ここは、エミヤがアルバイトで家庭教師をしている家だ。
幼馴染が来年受験ということで、その父親から正式に依頼されたのだが、この娘は家庭教師が必要とは思えないほど優秀だった。
「お父様はね、私のことが心配なのよ。父親としてそばに居られない分、何か手をかけたいの。それだけよ」
海外赴任の父と離れ、ひとりで広い屋敷に住まう娘はそう笑っていた。
エミヤ自身も親とは離れ、一人暮らしをしている。
しかし、自ら出てきている自分と、必要に迫られてひとりでいる娘とは立場はまるっきり違うだろう。
それにエミヤは一人暮らしをしているとはいえ、この辺りが地元だ。心細いことなどない。
この少女は、昔からひとりでいた。それを心配した彼女の父親が、親交のあったエミヤの父親に頼み、少女とエミヤの家族は幼い頃から共に過ごしてきた。
そしてこの少女----遠坂凛は、エミヤの実の弟に片思いをしている最中でもあった。
「…私のことはともかく、君もアレと進展はあったのかね?せっかくこの前、私が気を利かせてやったのに」
「はぁ?!あんなのただの嫌がらせじゃない!アンタにアイツが好きそうな服を見繕ってもらおうとしたのに、まさかその待ち合わせにアイツが来るなんて!」
「そういう好みに私は疎くてね。愚弟本人に聞いた方が早いと思ったのだが」
自分で言うのもなんだが、弟にはかなり鈍感なところがあり、凛も昔から苦労をしていた。
だから何かのきっかけになればと、先日エミヤが凛に付き合うようも言われていた買い物に、自分の代わりに弟を派遣したのだ。
あの愚弟も、鬱陶しいくらいに自分と凛の仲を何度言っても疑ってくるものだから、ならばと引き合わせてやったのに、いざ二人きりになったら何もしなかったらしい。
これだから腑抜けなのだ、とエミヤは心の中で弟を罵った。
「ぅぐっ、わ、私のことはいいのよ、私のことは!それより、週に1回の映画デートの話よ!」
「…私は毎回断っているのだがね」
この娘は頭も切れるし、勘も良い。
エミヤの恋心をあっさりと看破し、ニマニマと笑いながらその行方を気にしていた。本音は、自分の恋ばかり弄られるのが悔しく、なんとかやり返すネタを探していた、というところだろう。
はじめはなんのことだと誤魔化していたが、それ以上隠すなら噂の想い人を見に大学へ乗り込むとまで言われ、本気でやりかねないと危惧したエミヤが根負けし、全て話してしまった。
彼女はこう見えて口は堅く、他人の恋を吹聴するような人間ではない。
だから、話しても問題はないだろうと思ったのだ。
「順調そうじゃない。でも冬休み中はお休みかぁ。会えなくて残念?」
「仕方ないだろう。あちらは留学生だ。母国に帰らなくてはいけないさ」
「でも、もう休みも終わりでしょ?そろそろ帰ってくるんじゃない?連絡取ってるの?」
「…」
「その沈黙は取ってるとみた!」
「やめろ、凛!人のスマホを勝手に触るな!」
机に置いてあったスマホを、凛の手に渡る前に素早くエミヤが奪う。
その時、タイミングよく、エミヤのスマホからメッセージの着信を知らせる音が鳴った。
見ると噂のランサーからで。
凛がにたりと笑った。
「私に気にせず返信していいわよ、先生。なんなら私が特別に一筆添えてあげましょうか?」
「謹んで辞退する。君はさっさとその問題を解きたまえ」
別に今すぐ返事しなくてはいけないものでもない。
凛の目が問題に向くのを確認してから、エミヤはスマホをマナーモードに切り替え、鞄に仕舞った。
ランサーとエミヤの奇妙な付き合いは、なんの問題もなく未だに続いている。
週1回の映画を始め、凛には言っていないが、それ以外にも数度食事をし、酒を飲んだ事もあった。
何がランサーの琴線に触れたのかはわからないが、エミヤはどうやら彼に気に入られたらしい。
2人は基本的な考え方が全く違うため、意見がぶつかる事もよくあった。エミヤも自分の考えを曲げなかったし、向こうも変えなかった。
しかし、その度に彼は面白そうに目を細めてエミヤを見た。
あの槍を振るっていた時のように、ぎらりとした赤い目がエミヤを射抜く。
その度にエミヤは酒を飲み、動揺する自分を誤魔化し続けたのだ。
「終わったわよ」
凛の声に顔を上げる。
解答を確認すると1問を除いて全て正解だった。その1問も、ちょっとしたミスから起こったもので、内容理解には問題はなさそうだ。
間違っている箇所を指差してやると、凛は悔しそうに唸った。
「うそ〜!今度こそは全問正解だと思ったのに〜…」
「相変わらず君は詰めが甘い」
「う"ぅ、次こそは…」
その時、再びエミヤのスマホが震えた。
すぐに止まると思われたそれはなかなか鳴り止まない。
凛に断って廊下に出て、着信を確認する。
先程まで噂をしていた男からだ。
一瞬迷った後、エミヤは通話ボタンをタップした。
『帰ってきたぞ、アーチャー!遊びに行こうぜ!』
元気いっぱいという声がアーチャーの耳に突き刺さる。
散歩に行きたがる犬のようだと、思わず笑いが込み上げてきた。
「ふ、たわけ。こちらはバイト中だ。また後で連絡す」
る、と言おうとした時、唐突に膝から力が抜け、エミヤの体ががくんと沈む。
膝をつく直前、赤い悪魔がニヤリと笑いながら、力の抜けた己の手からスマホを奪い取るのが見えた。
どうやら、この悪戯娘に後ろから膝かっくんをされたらしい。
まさか愚弟を派遣したことへの仕返しか。
びしり、とエミヤの額に怒りのマークが浮かびあがった。
「どうも〜、初めまして〜。アーチャーの教え子です♪」
「凛!!」
「いつも、アーチャーがお世話になってますー。おほほほほ」
「凛!!!電話を返せ!!」
どたばたと広い廊下を軽やかに逃げていく凛。
足はエミヤの方が早いが、凛は反射神経がよく小回りが利く。
生まれ育った広い家を、凛は縦横無尽に駆け回った。
「やだー、ランサーさんたらお上手ですねー」
「待て、凛!」
「そりゃあ付き合いが長いですからねぇ。あ、アーチャーのご飯って食べたことあります?私のアーチャーは料理も上手なんでー、とても美味しいんですよー?」
「いったい何の話をしてるんだ?!凛!」
「え?えぇ、もちろん、誕生日とかに。絶品でしたよ〜」
「待てと言っているだろう!」
何とか追いついて、急いで凛の手からスマホを奪い取る。
画面を確認すると、とうに通話は切れていた。
「凛!」
「ふんだ。この前のお返しよ。アーチャーのアピールが足りないようだから、代わりに言っておいてあげたわよ。感謝しなさい」
「頼んでいない!」
手早くランサーに、教え子がすまないとメッセージを送る。
この娘は、賢い癖にこういう突発的なことをしでかすから油断ならない。
ぎろりと睨みつけると、拗ねたように凛が言った。
「いいじゃない。アーチャーは遠慮し過ぎなの!もうちょっと欲張っても大丈夫よ」
「…どうしてそう言い切れる」
不満気に呟くエミヤに、凛は笑った。
「そうねぇ、女の勘よ」
「お前の作った飯が食べてみたい」
「またそれか」
しつこく食い下がるランサーに、エミヤは溜め息まじりに答えた。
大学が再開されて数週間。
凛から情報を得てしまったランサーは、しつこいくらいにエミヤの手料理を強請ってきた。
「だから。私じゃなくとも、君に料理を作ってあげたいと思っている女性はたくさんいるだろう。そちらに作ってもらうといい」
「それは関係ねぇだろ。俺はお前の料理が食べてみたいんだって」
いつものように、映画を観た後。
その帰り道でも、ランサーは飽きもせずに、なぁ、なぁ、と声をかけてきた。
男の吐く息も白い。
今日は、雪が降り出しそうなほど寒い夜だった。
気付けば、ひょんなことから始まったこの男との外出も、残りわずかになっていた。
彼と観た映画はとうに10を超えた。
残る授業はあと2回。共にみられる映画は今日のを除いてあと1本。
その後はテスト期間に入ってしまい、意識しなければ彼と会うことはほとんどなくなるだろう。
未練がないといえば嘘になる。
元は会話すらできない間柄だったのに、それが手料理を強請られるところまで近付くことができた。
正直、嬉しくないはずがない。
しかし、この男はもともと人懐こい男だった。
今は、たまたま知り合った料理が上手いらしい男に甘えているだけなんだろう。
あの授業が終われば、彼はきっとまた別の気に入った人間を見つけ、そちらに行く。
エミヤのことなど綺麗さっぱり忘れて。
ああ、言われてみればそんな奴もいたな、と言われる存在に成り下がる。
そう思うと、なんとも言えない寂しさが、エミヤの心の中に広がった。
もうちょっと欲張っても大丈夫よ、と、脳内で赤い悪魔が囁く。
ほんの少し。
ほんの少しだけでも、彼の中に残りたい。
それは、厚かましい願いじゃないのだろうか。
そう願っても、いいのだろうか。
「わかった」
急に立ち止まって振り向くと、ランサーは驚いたような顔をした。
自分から言っておいて何だその顔は、とエミヤは苛立った。
しかし、口に出したものは撤回できない。
「この後時間があるなら、家に来るか?簡単なものでよければ作ってやる」
「…えっ、マジで?」
「言っておくが、たいしたものはできないからな」
「マジで?!行く行く!え、お前ん家?行っていいのか?」
「…別に君の家で作っても構わないが、まともな調理道具があるとは思えん」
「やっ、お前の家行きたい!俺の家、今凄ぇから」
彼の家の惨状を想像して、エミヤは思わず吹き出してしまった。
笑いながら彼の顔を見ると、ほのかに頬が赤くなっていた。
さすがに彼も恥ずかしかったようだ。
「笑ってしまってすまない。帰りにスーパー寄ってもいいか?2人分となると、いつもの量では足りないから、少し買い足したい」
「…っ、ああ、いいぜ。荷物くらい持つ」
「そうか、それは助かる」
結局その日は夜も遅かったため、スーパーにあまり良い食材が残っておらず、作れたものは鶏の水炊きと、簡単な副菜くらいだった。
いかにも肉が好きそうな彼には物足りないメニューだろうと謝れば、めちゃくちゃ美味いから気にするなと言って、彼は綺麗にご飯を平らげた。
それはエミヤにとって、もったいないくらい幸せな時間だった。
まさか、彼とこうして共に家で食事をできる日が来るなんて、半年前は想像すらしていなかった。
だからだろうか。
エミヤは、思わず言ってしまった。
彼が、「こんな美味い飯ならもっと食いたい」と言った時に、嫌じゃなければ弁当でも作ってやろうか、と。
言った瞬間、エミヤはしまった、と思った。
いつもエミヤは自分の弁当を大学に持って行っている。
だから1人分も2人分も変わらないと思って言ったのだが、どこの誰が、こんなむさい男の手作り弁当など食べたがるのか。
調子に乗ってしまったと、焦ってランサーをみると、彼は予想通りきょとんとこちらを見ていた。
慌てて、冗談だ、と言おうとしたら、彼は顔いっぱいに喜色を浮かべて嬉しそうに頷いた。
そうして。
エミヤは2週間後の最後の授業の日に、彼に弁当を作ることになったのだ。
ランサーのために買った使い捨ての容器に、彼が好きそうなおかずを詰めていく。
生姜焼きにだし巻き卵、ひじきご飯。彩りを考え、いつも以上に気を配って作った弁当。
蓋を閉め、エミヤは緊張を吐き出すように、深く息をした。
そんな想いの詰まった弁当を入れた鞄の横で、最後の授業が始まる。
教授がこの半年観てきた映画の総括と、テスト代わりに提出するレポートの説明、それと、今までよくやったという労りの言葉を述べている。
それらが何の滞りもなくエミヤの上を過ぎて行き、授業は何の問題もなく、いつも通り終わってしまった。
ぽっかりと胸に穴が空いたような気分になる。
毎週何の労力もなく彼と会えていたのに、それが終わってしまった。
これで本当に、彼との繋がりがなくなってしまうのだろうか。
隣に座るランサーと軽く言葉を交わし、約束の弁当を渡す。
すると、彼の方から昼食を一緒に食べないかと誘われた。
エミヤは、彼とはこれで終わりにしたくなかった。授業がなくなってしまっても、彼とは会って話したかった。
この半年で、エミヤの恋心は遠くから眺めるだけでは満足できないほど欲張りになってしまった。
ここまで育ってしまった。
エミヤは、そんな思いを抱えて、彼からの申し出を承諾した。
もう一度だけ頑張ろう、とエミヤは小さく決意をした。
この昼食で何とか彼との繋がりを残せるように。
これで彼と終いにならないように、もう一度だけ、と。
昼前の授業が終わった後、エミヤはランサーと約束をした教室に向かった。
そこはあまり人の来ない空き教室らしい。
緊張で口から心臓が飛び出そうになるのを堪えながら教室に入ると、ランサーが手を挙げてこちらを呼んだ。
「お、アーチャー。来たか」
そこにはランサーと、知らない女生徒がいた。
髪が長く、スタイルも良い、モデルのような女性だった。
戸惑うように彼女を見ると、ランサーは思い出したかのようにエミヤに告げた。
「あ、言ってなかったな。俺の彼女だ」
「エミヤくん、初めましてぇ」
一瞬、すべての音が止まったような気がした。
わかっている。
わかっていたはずだ。
彼は毛色の違う自分を面白がって構っていただけだ。
そこに興味以上の友情、ましてや愛情など発生するはずもない。
そうだ、どうしてそれを忘れていてしまっていたのだ。
彼は魅力的な男だ。女性が、この男を放っておくはずもない。
わかっていた。わかっていたはずなのに、どうして自分はこんなに傷付いているのか。
「…彼女も一緒に食べるなら、先に言っておいてくれ」
「悪ぃ、こいつが急に来たんだよ」
「えー、最近付き合い悪かったんだし、お昼ご飯くらいいいでしょ?」
不満気に彼女が頰を膨らます。
それを見て、エミヤは呆れたように息を吐いた。そう見えるように、必死に表情を作った。
「やれやれ。では私はお邪魔のようだから、今日は遠慮させてもらうよ」
「えっ?!」
「えぇ、エミヤくんも一緒に食べようよー」
驚きの声をあげるランサーの横で、彼女がわざとらしく残念がる。
わかっている。彼女にとって自分は邪魔者なのだ。
その証拠に、化粧で念入りに縁取られた目が、空気を読めとエミヤを刺してくる。
女の嫉妬は恐ろしい。ここは引いた方が身のためだ。
それに、エミヤ自身、これ以上ここに居たくなかった。
一分一秒でも早く、ここから去りたかった。
「すまないが、恋人の間に割り込むような野暮な男になりたくはないのでね」
彼女にそう断りを入れ、ランサーの方を向いた。
彼が何か言うより先に、エミヤは強い口調で言った。
「ではな、ランサー」
それは、エミヤなりの別れの言葉だった。
今日は散々な1日だった。
あの後も碌なことがなかった。
どれもこれもあの男のせいだ。
あの男が変に優しくするから。必要以上にエミヤに構うから。
エミヤの心の中に容赦なく入ってくるから。
期待をしてしまった。
ありえない期待を。
もしかしたら彼も、エミヤを好いていてくれるのではないかという、期待を。
アーチャー、と彼が自分を呼ぶ声が蘇る。
ああ、嫌だ。
やめてくれ。呼ばないでくれ。
早く己の中から出ていってくれ。
どうせなら、優しくしてくれた記憶を丸ごと奪っていってほしかった。
自分はひとりでいい。ひとりでよかったんだ。
何もあの男にそこまで望んでいなかった。
見ているだけで満足しようとしていたのに。
あの男は、その壁を勝手に乗り越えてエミヤを振り回し、好きな人といる暖かさを教え、言いようもない程の幸せを感じさせ、それに慣れたころにエミヤを崖から突き落とした。
くそ、とエミヤは小さく毒づいた。
弁当についても、あの男から特に連絡はない。
やはり、男の手作り弁当など気持ちが悪かったのか。じゃあ、なぜあんな嬉しそうに頷いたのか。
だから余計なことなどしないほうがよかったのだ。
なにも望まないほうがよかった。
求めても、手を伸ばしても、何もいいことなどないのに。
エミヤはじくじくと痛む手を抱えながら、己のものではない布団の中でキツく目を閉じた。
▽
はじめて見た時は、いけ好かない奴だと思った。
出会ったのはいつだったか。
はじめは、人伝てに聞いた噂だった気がする。
自分がランサーと呼ばれるように、この大学にはアーチャーと呼ばれる男がいるという。
その男はランサーと同い年で、日本人らしからぬ肌と髪の色を持ち、成績も良く運動もできる。
弓道部に所属し、弓の腕は天下一品らしい。
ただ人付き合いが悪く、こちらを見下した物言いをするため、誰とつるむでもなく、いつも一人でいるそうだ。
実際にその男を目にしたのは、大学1年の終わり頃だった。
たまたま大学の弓道場のそばを通った時に、嫌味ったらしい男の声がランサーの耳に飛び込んできた。
なんとなく気になって見に行くと、外から見えにくい弓道場の脇で、向かい合う男女の姿があった。
痴話喧嘩かと思ったが、よくよく聞いてみると、どうやら男が女に何か文句を言っているらしい。なんでも、男に言いがかりをつけてきた奴に女が食ってかかったようで、そのことで男は怒っているようだった。
女の方には見覚えがあった。
彼女も留学生で、女だてらに剣の腕がめっぽう良く、セイバーと呼ばれている女だった。
そしてそれと向かい合う男を見て、ランサーは一目で、その男が噂のアーチャーだということに気付いた。
噂通り、そいつは気にくわない男だった。
言ってることは正論なのだが、なにぶん言い方が悪すぎる。聞いているランサーも苛々してくるほどだ。そこまで愚痴愚痴遠回しに嫌味を言わなくともいいだろうに。
ちょっと間に入ってやろうかと女の顔を見ると、怒られているはずの女は、涙を浮かべるわけでもなく、ただただ驚いた顔をしていた。
そして、女は事もあろうに、未だに嫌味を言う男に笑いかけた。
『心配してくださって、ありがとうございます。アーチャー』
この言葉に、ぴたりと男の声が止まった。
そっと男の顔を盗み見ると、そこには予想外の表情が浮かんでいた。
男の頬は朱に染まっていた。
女の指摘は、どうやら図星だったらしい。
これにはランサーも驚いた。
まさか今までの聞いているだけで腹立たしくなるような言葉の数々は、目の前の女が心配だったから言っていただけだったのか。
『しかし、私も軽率でした。以後、気をつけましょう』
『………うむ、そうしたまえ』
目を逸らし、手を口に当て、もっともらしく頷く男の頬は未だに赤く、その顔は少し幼く見えた。
ついさっきまで気にくわないと思っていた男が、存外かわいらしく見えた瞬間だった。
次に邂逅したのは、2年に上がり新入生向けのオリエンテーションに参加した時。
ランサーは母国で幼い頃から槍を扱っており、大学から留学生代表としてその演舞を見せて欲しいと依頼されたのだ。
自分の見た目が人の目を引くことは知っている。
客寄せパンダにでも使う気かとはじめは乗り気ではなかったが、参加者の欄に弓道部の名があるのを見つけ、考えを変えた。
もしかしたら、あの男もいるのかもしれない。
そう思ったのだ。
オリエンテーションに使われる大学の体育館は広い。
新入生は2階の客席から見下ろす形で、いろいろな部やサークルの紹介を見ていく。
そしてとうとう弓道部の番になった。
茶色い床に緑のシートが引かれ、その向こうに丸い的が置かれる。
ランサーの出番は弓道部の次だ。
隅の方で体をほぐしながら待っていると、そこに白の上衣に黒の袴を身につけたあの男が現れた。
荘厳な雰囲気に場内が静まり返る。
弓道部の紹介をする声が聞こえてくるが、ランサーの耳には入ってこなかった。
見えるのは、あの男だけ。
そこには研ぎ澄まされた刃物のような、鋼の目を持つ美しい獣がいた。
男が放ったのはたった一矢のみ。
しかし、ランサーの目を奪うのは、それだけで十分だった。
放たれた矢は的の中心を貫き、男が去った後もしばらくそこにあり続けた。
何とも言えない高揚した気分が、ランサーの胸の内に広がっていく。
あの鋼の目に心を奪われたまま、ランサーは己の槍を振るった。
良い。あの目は良い。とても美しかった。
あの目が、己に向いてくれたら。
その日、ランサーは久しぶりに、心の底から湧き上がるものを感じたのだった。
ランサーがその男を気に入ったからといって、その後、特に接点ができるわけではなかった。
学部も違うため授業も基本的には被らない。
ごくたまに大学構内ですれ違う程度だが、己のまわりには常に人がいたので、その状態であの男に話しかけるのは憚られた。
転機は夏休み明けの10月だった。
その日、ランサーは去年から話題になっていた授業を見にいった。
水曜の1限に行われ、週に1本必ず映画を見なくてはいけない、かなり厳しいと噂の授業だった。
周りの奴らは面倒だからパスと言って取らなかったが、ランサーは興味があった。
その担当教授は、映画評論で有名な男だった。
何かの道を突き詰めた奴は、必ずそいつだけの信念を持っている。ランサーはそういう男の話を聞くのは嫌いではなかった。
そしてその教室で、ランサーは偶然、あの男を見つけたのだった。
ランサーは朝に弱い。
1限なんてもってのほかだ。
しかし、その授業は唯一できたあの男との接点だった。
毎回毎回遅刻ぎりぎりだったが、それでもランサーは休まずに通い続けた。
噂通り男は真面目な性格らしく、いつも前の方に座り、背筋を伸ばして教授の話を聞いていた。
後ろの方に座るランサーには、その後ろ姿しか見れなかったが、たまに横を向いた時にちらりと顔が見えると、なぜだか少し嬉しい気持ちになった。
授業が終われば、男は荷物をまとめてさっさと出ていってしまう。
だから、1ヶ月経ってもランサーはあの男と直接話したことはなかった。
しかしある時。
なんとかその日も遅刻は免れたランサーだったが、前夜の飲み会が悪かったのか、うっかり授業中に眠ってしまった。
そして、あの男の声で目を覚ましたのだ。
あの鋼の目が、己を見ている。
寝ぼけた己にぶっきらぼうな言葉が降ってくる。
愛想のない言葉だったが、紛れもなく、それはランサーを気遣って放たれた言葉だった。
まさか自分にそれが向けられるとは思ってもいなかったランサーは、しばらく呆然としてしまった。
もう少し話をしたくて引きとめようとしたが、彼は授業がある、と足早に去っていった。
去り際、彼がうっすら笑みをのせて言った、また来週、という声が、不思議とランサーの耳から離れなかった。
そこからは。
今まであいていた距離を詰めようと、ランサーは男が戸惑うのも無視して一気に押した。
初めて隣に座った時の顔は今でも覚えている。
ランサーは二度見をする人間を初めて見た。
空いてる席がないのかと焦って周りを見回している心境も、ランサーにはありありとわかってしまった。
驚かせて申し訳ないと思いながらも、ランサーは近付くチャンスがあるのなら、それを絶対に逃したくはなかった。
それから押しに押して映画も一緒に見ることができた。
基本的に、ランサーとアーチャーは映画の感想にしてもなんにしても意見が全く合わなかった。
無理やり連れ込んだ食事処でも、アーチャーはランサーの食べ方にいちいちケチをつけた。やれ箸の持ち方がおかしいだの、茶碗の持ち方が汚いだの。
ランサーの周りの人間は、みんなランサーの意見に従う。
ランサーの感想に同意し、ランサーと反対の意見をいってくる人間はほとんどいない。
自分の箸の持ち方がおかしい自覚はあったが、誰もそこを直せと言ってくるやつはいなかった。
多くの人間が自分に気に入られるためにそういう態度をとっていることはわかっていたが、ランサーにはそれが物足りなかった。
しかし、アーチャーは違った。
堂々とランサーに食ってかかり、自分の意見を言ってきた。
それが、ランサーにはたまらなく面白かった。
その後もランサーはしつこいくらいにアーチャー絡み続け、なんとか毎週一緒に映画を観て、食事ができるようになった。
この頃から、ランサーはなんとなく、アーチャーが自分を避けたがる理由がわかるようになってきた。
アーチャーはことあるごとに、君はたくさん友達がいるのだから私なんぞに関わらずとも、と言ってくる。
確かにランサーに友人は多い。
声をかければすぐに飲み会もできるし、暇な時もすぐに遊び相手も見つかる。
女も一緒だ。彼女にも、一晩の相手にも困ったことはない。
そんなランサーと比べて、アーチャーは常に自分を卑下していた。
その度にランサーは、そんなことはない、お前も俺の友達じゃねぇか、と伝えたが、アーチャーは何も答えず呆れたように笑うだけだった。
アーチャーは自分を面白くない、つまらない男だという。
ランサーに言わせれば、そんなことはなかった。
アーチャーほど、ランサーを昂らせてくれる男はいなかった。
そんな気難しい男の数少ない友人に、自分がなりたかった。
しかし、アーチャー自身がいつもそれを拒絶した。
君と並び立つには、自分はふさわしくないと。
それを聞くたびに、ランサーはなんとも言えない気持ちになった。
年明け。
母国から慣れ親しんだ日本に戻り、彼女によりも先に、いの一番にあの男に連絡をした。
正直なところ、最近は恋人といるよりも、あの男と遊んでいるほうがずっと面白かった。
冬休みが始まってすぐに母国に帰ってしまったため、休みの間はあの男とほとんど会えず、クリスマスも正月も一緒に過ごせなかった。
だから、少しでも早くあの男との間を埋めたかった。
会ってたくさん話したかった。
しかし、メッセージを送っても既読すらつかない。
我慢できなくて思わず電話をかけると、繋がって呼びかけた先には、いつも通り呆れたように笑う男がいた。
ランサーの気分がどんどん上がっていくのを感じる。
約束だけでも取り付けてしまおうと思っていた矢先、アーチャーの声が不自然に途切れた。
そして。
『どうも〜、初めまして〜。アーチャーの教え子です♪』
知らない女の声がした。
高揚していた気分が、一気に氷点下まで下がった気がした。
「…へぇ、あいつにこんな可愛らしい教え子がいたとはねぇ」
『やだー、ランサーさんたらお上手ですねー』
後ろでアーチャーが、リン!と怒鳴る声がする。
そう言えば知り合いの娘の家庭教師をしていると聞いていた気がする。
それがこの娘か。
「ふーん、随分仲いいんだな」
『そりゃあ付き合いが長いですからねぇ。あ、アーチャーのご飯って食べたことあります?私のアーチャーは料理も上手なんでー、とても美味しいんですよー?』
「嬢ちゃんは食べたことがあんだな?」
『え?えぇ、もちろん、誕生日とかに。絶品でしたよ〜』
私の。
私のアーチャー、ときたか。
モヤモヤするものが胸の中に広がり、ランサーの口から飛び出そうになる。
それをランサーは理性で必死に押さえつけた。
「なら俺も今度作ってもらおうかな。じゃあな、嬢ちゃん」
それだけ言って、ブツリと通話を切った。
もう繋がってないスマホを見つめ、ランサーはため息と共に空港の床にしゃがみ込んだ。
「あーあ、らしくねぇなぁ、俺」
普段はもう少し余裕があるんだが、と、くしゃりと己の髪をかき乱した。
時間はどんどん過ぎていく。
あの男の隣に自然に居られる時間も、残りわずかとなってきた。
縁が途切れてしまう前に、あの男の料理を食べてみたかった。
あの娘が食べて自分が食べていないのは、どうしても我慢ならなかった。
男はなかなか首を縦に振らなかった。
それでもゴネてゴネて、寒い冬の夜に、あの男はようやく頷いてくれた。
その夜、ランサーは初めてあの男の部屋に行った。
自分のとは違う、綺麗に整頓された1DKの部屋だった。
今までランサーが訪ねたどの部屋よりも綺麗だった。というか、そもそも物自体少なかった。
必要最低限の家財しか置かれて居ない部屋。
ランサーは、それをほんの少し、寂しく思った。
簡単なものだと聞いていたが、出された料理は全て美味しかった。
店、出せるんじゃねぇ?と言うと、そんなわけないとアーチャーは呆れたように言ったが、その顔はほのかに嬉しそうだった。
こんな時間がずっと続けばいい、とランサーは思った。
授業が終わっても、この不器用な気難しい男とこうやって過ごしていきたいと。
その自分の気持ちが何に由来するものかわからぬまま、ランサーは残ったご飯を掻きこみ、幸せの味を噛み締めたのだった。
本当に他意はなかった。
アーチャーと弁当を食べる時に、これからもこうして一緒に食事をしようと誘うつもりだった。
授業が終わるからといって、それで終いにはしたくなかった。
なんとかしてあの男との繋がりを残しておきたかったのだ。
だが、その場にたまたま彼女が現れた。
付き合ってはいたが、最近はアーチャーと共にいる方が面白く、形だけの関係に成り下がっていた女。
そろそろこの彼女ともお別れかと思っていた矢先だった。
ランサーは失念していた。
アーチャーはランサーと比べ自分を卑下していたことを。
心地よい関係が続きすぎて、浮かれてしまっていた。
あの男は食事の場にランサーの恋人が現れようものなら、遠慮してどこかに行くに決まっている。
わかっていたはずなのに、最後の最後でしくじった。
あの男の作った弁当が嬉しくて、いつもより気分が舞い上がって、そのことをうっかり忘れてしまった。
ではな、とあの男は言った。
また来週、とは続かなかった。だって、授業は終わってしまったから。もう、2人並んで受けられる授業は、今日が最後だった。
うっすらと傷ついた笑みを浮かべ、あの男は去っていった。
ランサーにもわかった。
あれは別れの言葉だと。
「わぁ、クーのお弁当、美味しそー。どこで買ったの?」
走り出そうとした足を、間延びした女の声が止めた。
見ると、女はランサーの弁当の蓋を勝手に開けていた。
中には美味しそうな色とりどりのおかずがぎっしりと詰められていた。
きっと食べれば、幸せを感じる味が広がるのだろう。
あの日、あの男の部屋で食べた食事のように、きっと言いようもない多幸感がランサーを包んでくれるはずだ。
しかし、食べるなら、あの男のそばで食べたかった。
美味いと言えば、照れたように皮肉を返す男のそばで。
ランサーは無言で女の手から弁当を奪い、鞄にしまった。
「えー、食べないのー?…って、ちょっと!」
ランサーはそのまま部屋を飛び出そうとしたが、一旦足を止め、女に向いた。
「悪い、好きな奴ができた。別れてくれ」
ぎゃんぎゃん喚く女を置いて、ランサーは教室を飛び出した。
足の速さには自信がある。
うまくいけば、どこかで食事をしているアーチャーを捕まえられるかもしれない。
そうしたら、さっきのことを謝って、もう一度やり直すのだ。
自分の気持ちがどういうものか、ランサーはようやく気付けた。
自分はあの男の特別になりたいのだ。
あの男を独占して、あの男の全てを自分に向けたいのだ。
こんなものは友情ではない。友達に向ける感情ではない。
これは醜い執着だ。
ただ、自分の感情を押し付ける醜い行為だ。
そんな自分が醜い何かに成り下がってでも、ランサーは、あの男が欲しかった。
あの美しい獣が欲しかった。
校舎を飛び出して、食堂のある建物に向かう。
その前にはベンチが置かれ、そこで食事を取っている学生も大勢いた。
ここにいるかもと視線を巡らせば、見知った金髪がいるのに気付いた。
「セイバー!」
「ん?ランサーではありませんか」
彼女は弁当をひとりで食べていた。
たしか彼女とアーチャーは知り合いだったはずだ。アーチャーを見なかったかと尋ねようとしたランサーの目に、彼女の持つ弁当の中身が飛び込んできた。
ランサーが先ほど見た弁当の中身と、嫌になる程そっくりだった。
よく見ると、弁当箱も女は持つには暗めの色のデザインだ。
サイズも、どう見ても男物だろう。
「…ふぅん、随分美味そうなもの食ってんじゃねぇか」
「これですか?さっき急遽教授に呼ばれてしまったと、友人が丸ごとくれたのです。あ、もちろんはじめは断りましたよ。しかし、このままだと捨てることになると言い切られまして…」
「へぇ」
「あ、ランサーは知っていますか?アーチャーという同い年の男性で、料理がとても上手なんですよ」
「…食べたこと、あんのか?」
「彼の料理ですか?ええ、もちろん!学部は一緒ですし、剣道場と弓道場は近いですからね。まだ1年だったころ、部活後に度々空腹で死にそうになっていた私に、見かねた彼がいくつかご飯を差し入れてくれたのです。彼は分かりづらいですが、優しい人ですから」
ぎり、と自分の歯が擦れる音が、頭の中に響いた。
ああ、羨ましい。
セイバーも、家庭教師先のリンとかいう娘も、ひどく羨ましい。
あいつらは、ランサーの一歩前を平気で進んでいく。
ランサーがゴネてゴネてやっと手に入れた料理も、あいつらは簡単に手に入れている。
ランサーよりも簡単に、あいつの一歩内に入っていくことができる。
それが、吐きたくなるほど羨ましかった。
だらりとランサーの体から力が抜けたような気がした。
そうだ。思い返せば、初めてあの男を見たときも、あの男のそばにはセイバーがいた。
騎士道精神に溢れた、凛々しい少女剣士。
あの男には、こういう女がふさわしいのかもしれない。
常識的に考えてそうだろう。
男と女であり、彼女は初めからアーチャーの心情を見抜いていた。気難しいアーチャーの心をわかってやっていた。
自分は舞い上がって、きっとあの男を傷つけた。
どちらがふさわしいのかなど、一目瞭然だ。
「…昼飯、邪魔して悪かったな、セイバー」
彼女に背を向けて、元いた教室に戻る。
あの女もいなくなっていた。
席に座って愛しい男が作った弁当を口に入れると、腹立たしいくらいに美味しかった。
順調にテスト期間が過ぎていく。
何度かあの男に連絡を取ろうとしたが、糞真面目なあの男はテスト期間中はそっとしておいた方がいいかと思い、やめた。
一度くらいは構内ですれ違えるかとも思ったが、そんな奇跡は起こらなかった。
あの男に会ってどうしたいのか、ランサーにはよくわからなかった。
弁当の感想も、結局伝えられていない。
面倒なあの男は、そういう細かいところを気にする節がある。
それで己のことを少しでも気にしてくれているのなら。
そんな仄暗い喜びが、ランサーの中に浮かんだ。
そんな時だった。
テストも終わり、学食で友人達と話していた時。
弓道部に彼女ができたと騒いでいた友人が、とんでもないことをランサーに言ってきた。
本人としては仕入れた噂話を仲間に聞いて欲しかっただけかもしれない。
きっとそうだろう。
しかし、今のランサーにそれは聞き流せなかった。
テスト期間に入る直前に、弓道部のとある学生が、家庭教師先の娘を庇って怪我をしたという。
その娘に言いよる男がいて、その男の恋人と名乗る女が包丁を持ち出し、娘に斬りかかったらしい。
そこにその弓道部の学生が鉢合わせ、身を呈して守ったそうだ。
「えー、包丁とか普通にヤバくない?死んじゃったの?」
「でも、俺普通にテスト受けてるそいつ見たぜ。だから大した傷じゃなかったんじゃねぇの」
「うん、私も昨日見たー。いつも通りに見えたけど」
「さすがだよねー。女の子庇って怪我するとか超かっこいいー。漫画みたーい」
「でもさー、ぜってーそいつ、その女に惚れてたって!」
「えぇ、でも相手、高校生でしょ?ヤバーイ、ロリコンじゃーん」
「でも普通どうでもいい奴かばうわけないだろ?怪我までして!」
「えー、じゃあエミヤくん、ロリコンなのー?ショックー」
ぎゃははと自分を取り巻く笑い声に、自分の体温がすーっと下がっていくのを感じる。
家庭教師先のリンという娘のことは、ランサーはだいぶ前に聞いていた。
あれは弟に惚れているのだと、あの男は言っていた。
アーチャーの電話の邪魔をしたのも、少し前にアーチャーが焼いたお節介への仕返しだと。
あの男の本音など、ランサーにはわからない。
もしかしたらあの男は、本当はリンのことが好きなのかもしれない。
それでもいい。間違っていない。横恋慕かもしれないが、それも正しい恋のあり方だ。
そこにランサーはとやかく言えない。
あの男が誰を好きになろうと、何か言う権利をランサーは持っていなかった。
だが。
感情のままに、ランサーは足を振り上げた。
目の前にあった大きめの机が蹴り上げられ、ガタン、と跳ねる。
その音に、下品な声が一瞬で止んだ。
学食中の視線が、ランサーに集まる。
「…気分悪いから帰るわ。それと」
ランサーは、あの不器用な男の行動を嘲笑うことだけは許せなかった。
「そんな穿った見方しかできないんなら、その目、俺が全部くり抜いてやろうか」
ぎろりと殺気を込めて睨むと、アーチャーを笑っていた連中がびくりと体を震わせた。
弱いくせに。
強いものに群れるしか能のない生き物のくせに。
お前らに、あの美しい生き物を貶す資格などない。
「じゃあな」
にっと笑って、食堂を出る。
それからランサーは一気に駆け出した。
向かう先は、一度だけ行ったことのある、あの男の家だった。
話を聞いた時、最初に浮かび上がったのは怒りだった。
どうして自分に言わなかったのか。
ひどい怪我だったのか。
ひとりで大丈夫だったのか。
自分はお前のように美味い飯は作ってやれないが、手助けできることだってあったはずだ。
それとも、自分はまだ、お前に頼られるほどの人間にはなっていないのか。
どうせあの男のことだ。こんなことは連絡するまでもないとか、また自分を卑下して、ひとりで要らぬ苦労を背負っているのかもしれない。
連絡することすら、思いつかないのかもしれない。
でも、きっとあの男は知らないのだ。
自分がこれほどまでに、あの男を心配していることを。執着してしまっていることを。
それはそうだ。一言もそのことを伝えていないし、伝えたところで、あのめんどくさい男は信じないに決まっている。
それでも。
ランサーは、かの男に伝えたいと思ったのだ。
あの男はああ見えて、実はとても繊細な心を持っている。
今回のことでも、余計なことで傷ついてるに決まっている。
必要以上に自分を追い詰めている気がする。
そんな時に、自分がそばにいることができたら。
そばにいられたら、そこまで思い詰めなくても大丈夫だと。
考えすぎだと笑い飛ばしてやって、優しい言葉で慰めることはできなくても、お前が落ち着くまで、そばにいることはできると。
愚痴ならいくらでも聞いてやる。お前の皮肉も全て受け止めてやる。それくらいならできる。
そうすれば、お前は少なくとも寂しくないだろう。
アーチャー。
ランサーの頭に、幼い顔で笑うアーチャーの顔が浮かんだ。
アーチャーは滅多に笑わない。
たまに気を抜いた時や不意をつかれた時に、思わず溢れた笑みを見るのが、ランサーは好きだった。
そうだ。あの男があんなふうに笑っていられるなら。
自分は、それだけで。
電話をするのももどかしく、ランサーはアーチャーの家まで駆けていった。
そして、これでもかと言うほどインターホンを連打する。
扉が開き、不機嫌な顔をした男が出てきた。
男の表情が驚きに染まりきる前に、強引に扉を掴んで体を部屋の中に滑り込ませる。
息を吸って、思い切り吐き出す。
「怪我したって、どう言うことだ、てめぇ!」
▽
なんの連絡もなく、突然部屋に飛び込んできた男に、エミヤは目を白黒させた。
あの、ランサーと最後に会った日。
食べる気が失せた弁当をたまたま会った学部の友人に託し、散々な気持ちで家庭教師先に向かったエミヤを待っていたのは、可愛い教え子が、家の前で見知らぬ少女に斬りかかられる瞬間だった。
とっさのことで機転が利かず、エミヤは気付けば、凛に向かって突き出された包丁の刃を両手で掴んで止めていた。
エミヤに包丁を奪われた少女は、そのままヘナヘナと尻もちをついた。エミヤの手から流れる血を見て、自分のしでかしたことに気付いたらしい。
大事にしたくはなかったのだが、斬りかかる瞬間を目撃してしまった近所の年配の女性が、エミヤの血まみれの手を見て悲鳴をあげて警察に通報し、凛もパニックを起こして救急車を呼びつけ、辺りは一時騒然となった。
さすがに救急車は辞退しようとしたのだが、大泣きする凛にタックルされ、半ば強制的に病院に連行され、両手の処置を受けた。
両手の掌はざっくりと切れてしまっていたが、縫うほどではなかったのは幸いだった。
多少痛むが、鉛筆を握れないほどではない。
何せこれからテスト期間だ。手を使えないのは困る。テスト期間を終えても、きちんと治るまでは部活にも参加できないだろうから、診断書をもらい、一応顧問にも連絡しておくことにした。
痛む手で方々に連絡しながら病院を出ると、そこに真っ赤な目をした凛と目を釣り上げた弟が待っていた。
弟に凛を泣かせたことを詫びると、「そうじゃねぇ!」と怒鳴られた。
大した怪我ではないと2人に言うがなかなか納得せず、その日は引きずるように実家に連れていかれた。
そして、久しぶりに寝る実家の布団で、今日は本当に散々な日だったと、エミヤは痛む手を抱えて眠りについたのだった。
それから。
なにかを忘れるように、エミヤはテストに打ち込んだ。
じくじくと掌が痛むたびにあの日のことを思い出しそうになったが、奥歯を噛んで、必死に記憶に蓋をした。
今はそんなこと考えてる暇はないのだ。
これでテストの点が悪ければ、変に凛が気にするかもしれない。
だからエミヤは、意地でもいい点数を取らなくてはいけなかった。
今日はテストも終わり、そんな緊張からようやく解放された日だったのだ。
鉛筆を握ったり、包丁を握るたびにじくじく痛んだ怪我もだいぶ良くなった。
そんな晴れやかな気分を打ち破るかのように、けたたましく鳴らされる呼び鈴。
文句の1つでも言ってやろうと扉を開けたエミヤは、まさかの光景に言葉を失った。
まさか、あの男が家に来るとは。
部屋に強引に飛び込んできた男は、開口一番、思いきりエミヤを怒鳴りつけた。
「怪我したって、どう言うことだ、てめぇ!」
「…とりあえず、少し落ち着いてくれないか。近所迷惑になるのだが」
部屋に上がるように促すと、男は不満そうにこちらを睨みながら靴を脱いで入ってきた。
この男はどういうつもりでここに来たのだろうか。
彼の後ろで揺れる髪を見ながら、エミヤは余計な期待をしないよう、厳重に心に蓋をした。
フローリングの上に置かれたクッションに、男は腰を下ろした。
何か飲むかと尋ねると、いいから座れと、よりにもよってランサーの隣を叩いた。
言われた場所に座るわけにもいかず、少し離れたところに腰を下ろすと、ランサーが苛立った顔で立ち上がり、わざわざエミヤの隣にどかりと座った。
「なぜ近付く必要がある?!離れろ!」
「うるせぇ!俺はお前の言い分なんか聞かねぇぞ!というか、怪我だ!どこだ?!」
「いちいち喚くな!…これだ。別に君が心配するほどのものでは」
とりあえず大きなガーゼが貼られた右手を差し出すと、それをガバリと掴まれた。
「痛い!そんなに強く引っ張るな!」
「あ、わ、悪ぃ」
手を触られた気恥ずかしさから怒鳴ると、へにゃりと弱った彼の声が返ってきた。
彼は痛ましいものを見る目で、エミヤの手をじっと見つめた。
その視線に耐えられなくなり、もういいだろうとエミヤはランサーの手を振り払おうと、右手に力を込めた。
しかし。
「おい、いつまで握ってる気だ」
ランサーは、エミヤの右手から手を離そうとしなかった。
「おい、ランサー」
「ここに来るまでの間、お前に何言おうかずっと考えてたんだが」
唐突に語り出したランサーに、エミヤは思わず口を噤んだ。
「お前が怪我したって聞いて。そこまでひどい怪我じゃないとは聞いてたのに、見るまで正直落ち着かなかった」
「…」
「ここに来て、いつも通りのお前を見て、俺は心底安心した。あの日、変に別れちまったから、前のように話せるか少し不安だった」
それはエミヤの方もそうだった。
あれはエミヤの態度が悪かったのだ。ランサーのせいではない。
それがランサーを不安にさせてしまったのなら、少し申し訳ないような気がした。
「…あの女とは別れた」
「…そうか。可愛い恋人だったのに残念だな。振られたのか?」
「俺が振った。…他に好きな奴ができたんだ」
ひゅっ、と喉が鳴った。
落ち着け。傷付くのは筋違いだ。
エミヤは笑みを浮かべながら、いつものように皮肉を口にした。
「それはそれは。君も存外恋多き男なのだな」
「たぶん、ずっと好きだったんだ。気付けずに、ずるずるとここまで来てしまった。全く、我ながら情けねぇ話だ」
じくじくじくじく。
掌の傷が痛む。
エミヤの心も。
血を流しているかのように、じくりと痛みが広がってくる。
押し込めろ。
流れ出るな。
もう少しだけでいいから。
「…そうか、百戦錬磨に思える君も手こずることがあるのか」
「てめぇのことだからな。エミヤ」
突然投げつけられた言葉に、心臓が止まったかと思った。
体の中の熱も何もかも、すっぽりと抜け落ちてしまったような不思議な感覚。
この男の言っている意味が、全くわからなかった。
ぎゅう、とランサーの手がエミヤの右手を握った。
痛い、と文句を言うべき口が動かない。
ランサーは、まだ俯いていた。
そのことに感謝しながら、エミヤは必死に言葉を掻き集めた。
今、自分がどのような顔をしているのか、わからなかった。
「…は、君もそんな冗談を言うとは」
「冗談な訳ねぇだろ。殺すぞ」
「ころ…?!」
さっきとは違う意味で驚いた。
「はぁ、冗談のわけねぇじゃねぇか…」
息を吐きながら、ランサーは握っていたエミヤの手に頬ずりするかのように、そっと顔を当ててきた。
「ら、ランサー」
「冗談なぁ。俺もまさか男に惚れるたぁ思ってなかったさ。でも、好きになっちまったんだ。しょうがねぇだろ」
嘘だ、と言おうとしたエミヤの目に、俯いている男の耳が見えた。
それは、じんわりと赤くなっていた。
「本当は言うつもりなんてなかったんだけどよ、どうしても我慢できなかった。お前がこうして怪我しても、家族でも友達でも恋人でもない、ただの知り合いの俺は、噂でしかお前の動向を知れないんだと思い知らされた。お前が怪我をして苦しんでいても、俺が気付かなきゃ、それを知らずに終わってしまう。お前がひとりで傷つくのが、俺は嫌だった。せめて、俺はお前のそばにいたかった」
ようやく顔を上げた男は、どこか吹っ切れた顔をしていた。
「お前はめんどくさい奴だが、どこかお人好しなところがある。お前に正面から好意をぶつければ、それを無下にはできないことも。だから俺は、そんなお前に甘えることにした」
エミヤは今、どんな顔で、彼の話を聞けばいいのかわからなかった。
あの男が。
あの美しい獣が。
エミヤのことを。
「好きだ、エミヤ。俺の思いは受け取らなくていいが、お前を心から愛し、心配している男がここにいることを、絶対に忘れるんじゃねぇぞ」
用はそれだけだ、とエミヤの手に唇を落としてから離し、男は立ち上がった。
その足を、エミヤは反射的に両手で掴んで引き倒した。
重力に従い、ランサーはそのままビタン、とフローリングの床に体の前面を打ち付けた。
「痛ってぇ!なにすんだ、アーチャー!」
「言うだけ言って帰る気か、馬鹿者!」
「当たり前だ!こっ恥ずかしくて長居できるか!俺はこう見えて繊細なんだ!」
「たわけ!こういうのはきちんと返事を聞いてから帰るのが礼儀だろう!」
「返事?どうせ振られるんだから、聞きたくねぇ!あ、でも振られても好きだからな!嫌がっても友達関係は続けるからな!」
「好き好き連呼するな、恥ずかしい!わ、私が!」
それは、エミヤが生きてきて一番勇気を振り絞った瞬間だった。
「…………………君を、振るはずないだろう」
語尾は小さく消えそうだったが、ランサーの耳にはしっかり届いたようだ。
ランサーは獣のごとき俊敏さで、がばりと体を起こし、エミヤの肩を掴んだ。
「…えっ、マジで?」
自分は今どんな顔をしているのか。
震えそうになる唇に力を込めて、エミヤは頷いた。
「マジで?!…え、セイバーは?リンは?!」
なぜここにふたりの名が出てくるのか、エミヤは眉をしかめながら答えた。
「せ、セイバーはただの友人だし、彼女には恋人がいるはずだ。あと凛は教え子だ。それに、弟の想い人に手を出すほど私は飢えてはいない」
「…えっ、マジで?」
「…君はさっきからそれしか言えないのか」
「…えっ、アーチャー、俺のこと好きなの?」
真正面から改めて問われ、思わず目をそらす。
「なぁ、エミヤ」
本名で呼ばれ、心臓がどくりと跳ねる。
顔が熱い。
エミヤは、自分の肌の色に感謝した。
ランサーのような白い肌だったら、きっと茹でたタコのような色になっていたに違いない。
「エミヤ、本当に?」
彼からの視線に耐えきれず、諦めたようにエミヤは隠し続けた本音を吐露した。
「…ああ、そうだ。身の程知らずと笑うか?」
「まさか」
即座に返された言葉に、エミヤは思わずランサーを見る。
そこには信じられないものを見るような目をした男がいた。
「なぁ、本当に?」
「…ああ」
「本当に俺のことが好き?」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ」
「…マジで?」
「しつこい!何回も言わせるな、たわけ!」
「なぁ」
「っ、今度は何だ?!」
「キスしていいか?」
馬鹿か、と怒鳴る前に、がばりと美しい獣に抱きつかれ。
バランスを崩したエミヤは、強かに背中を床に打ち付けたのだった。
◇
部屋の中にぴちゃ、と水音が響く。
長い口付けで溢れた唾液を舐めとるかのように、唇を舐められた。
文句を言おうと開いた口の中に分厚い舌が強引に入り込み、口腔内を蹂躙していく。
押し返そうとした己の舌は簡単に巻き取られ、じゅ、と吸われた。
それだけで、ぞくぞくと背中に何かが走っていく。
「…っ、あ"ーーーーー!いい加減離れろ、たわけ!」
エミヤは理性を掻き集め、自分を壁に押し付ける男を全力で引き剥がした。
もう掌に貼られたガーゼは取れている。
怪我が治ってから少し経った。もう夜にじくじくと痛むこともない。
押し返された男は不満そうに唇を尖らせた。
「なんだよー。お前も乗り気だったじゃねぇか」
「玄関で盛るな!犬か!せっかくの休みだから、遊びに行こうと言ってきたのは貴様だろう?!」
「そうだけどよぉ。なんかこう気合い入れた格好してるお前見てると、ムラっときて」
「わかった、犬か!犬なんだな!」
「犬って言うな!…でも、お前がそういうプレイしたいんなら、付き合ってやるのはやぶさかでも」
「地獄に落ちろ!この駄犬!」
べ、と舌を出したランサーに、エミヤは手に持っていた鞄をその顔に投げつけた。
それを華麗に避けたランサーが、真っ赤な顔で怒るエミヤをケラケラと笑う。
「悪ぃ、悪ぃ、調子に乗った。気を取り直して出かけようぜ」
ランサーは玄関に落ちている鞄を拾い、エミヤの方に放った。
それをエミヤが受け取り、疲れたように息を吐いた。
「…君といると本当に余計な体力を使う」
「刺激的でいいじゃねぇか。俺は楽しい」
ランサーが玄関の扉を開けると、眩しい日の光がエミヤの目に飛び込んでくる。
それを背に笑うのは、あの青い美しい獣だった。
「さぁて、今日も遊ぼうぜ。エミヤ」
おわり
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夢を詰め込みました。すみません。UBWのせいで、エミヤが尊くて尊くて仕方がない。
フェイクいれまくりましたが、作中に出てきた映画論っぽい授業は受けたことがあります。
人生で一番映画を見た半年でした。