【槍弓】罅(ひび)の種族
現パロ槍弓。
ランサーとアーチャーはいかにして恋に落ち、いかにして世界でただ2人だけの種族として一緒に生きていくことにしたのかのお話。
ランサーの血をアーチャーが飲んでますので、苦手な方はご注意ください。
SF槍弓企画に寄稿させていただいたものに、後日談(立香視点槍弓)を加えた完全版です。
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「ランサーと旅に出る、って……どこにどのくらい?」
「決めていない」
簡潔に答えた私に、凛は思わずといったふうに目を見開いた。空になった彼女のティーカップにポットから紅茶を注いでやりながら、そう言えば幼い頃の凛は紅茶に角砂糖をかならず二つ入れていたな、と思い出す。七つ年下の隣家の子供は、十八歳に成長した今、いつの間にかストレートの紅茶を嗜むようになっている。
「決めていない、ってどういうことよ」
「本当に決めていないんだ。最初にどこへ向かうかくらいは案もあるが、その先がどうなるかはわからない」
「ちょっと待ってよ、本当に?」
「私が冗談を言うと思うかね」
「あんた、たまに変なタイミングで笑えない冗談言うじゃない」
机に肘をついてひたいを抑え、黒檀の机の表面を睨むようにしている凛は、子供と大人のあわいに立つ者特有の不安定な美しさでぼんやりと発光している。凛自身は、そんなことには微塵も気がつかないだろうが、その光はこの先数年経てば賞賛と妬みを集めてやまないレーザーのように変化するだろう。
ほとんど手をつけていない自分のティーカップの琥珀が、触れてもいないのにうっすらと揺らめいている。紅茶を淹れるのも久しぶりだった。ランサーはコーヒーしか飲まないからだ。
「戻ってこないつもりね」
ようやく顔を上げた凛の言葉は、まだるっこしさを嫌う彼女らしく、私はわずかにほほえんだ。
「それも決めてはいない」
「てことは戻ってこないってことでしょう」
「禅問答のようだぞ、凛」
「はぐらかさないでよ」
目を細めた私の表情をどうとったものか、彼女は少しだけ語気を強めてそう言った。はぐらかしているつもりはないよ。ティーカップに指をかけながらそう答える。嘘ではない。嘘ではぐらかせるほど確かな答えがないからだ。凛が求めているのは、私がどこへ向かい、いつ戻ってくるのか、それとももう戻ってこないつもりなのか、それについての確証だ。だが、確証はない。予感もない。ただ、旅に出るという、それだけが凛に教えられることだった。
「出発はいつよ」
「ひと月のうちには」
「すぐじゃない」
「すぐではないさ」
「私にはすぐよ」
凛はくちびるを尖らせて、剣呑な視線のまま私を射抜いた。そうやって拗ねたような目をしていると、やはりまだ子供に見える。というより、私の目が彼女を子供としてしか認識していないのかもしれない。生まれ落ちた頃から知っているのだ。それも無理はなかろう。
「あんたがそういう口調で話すときって、私がなに言ってももう聞かないのよね。止めたって無駄なんでしょう。でもいい、出発してそれきり連絡絶つようなことしてご覧なさい。何が何でも探し出してひっぱたいてやるわよ」
「ふむ、まあそうするだろう君は想像に難くないな」
「ひっぱたかれたくなければ、絶対連絡よこしなさい。ハガキでいいから送ること。そうね……三ヶ月に一回で手を打ってあげるから。それが最大限の譲歩よ」
最大限の譲歩にしては尊大に発された言葉が、凛の思いやりだというのはわかっている。了解した。そう頷くと、凛はため息をひとつついてからぽつりと言った。
「これだけは教えなさいよ。旅に出る、って決めたのはあんた? それともランサー?」
「魚? 肉?」
「肉だ。手羽が安かったのでみぞれ煮にした。こら、ランサー、ステイだ。鍋を開ける前に手を洗ってこい」
帰ってきたと思ったらキッチンに直行してきたランサーを押しとどめて洗面所に追いやると、ランサーはくくられた青い髪を翻して素直に従った。すぐに戻ってきて、まだコンロに向かっている私の肩に顎を乗せて手元を覗いてくる。肩に当たる顎の骨の固さにももうすっかり慣れたものだ。
「はー、旨そう。俺、その大根下ろしで煮るやつすげえ好き」
「みぞれ煮という名称を、君はいつになったら覚えるんだ? 冷蔵庫にナムルが入っているから出してくれ」
「りょーかい。七味も出すか?」
「頼む」
それ以上の指示を出さずとも勝手に食卓の準備を整えだしてくれるので、鍋を見る合間にしゃもじを手渡した。ランサーは鼻歌まじりで炊飯器を開け、炊きあがった米をそれぞれの茶碗によそっている。
「なんの歌だ?」
「わかんねえけど、最近よく商店街で流れてんだよな。はやってるやつ?」
「私が君に尋ねたんだぞ。私に聞いてどうする」
ランサーにはそもそも不得意なことなどほとんどなかったが(強いて言えば早起きは苦手だ)、歌もうまいのだ。あれは高校二年の初夏、音楽の授業で独唱を任されたランサーの伸びやかで屈託のない歌声は、当時のクラスメイトたちの賞賛をわかりやすく集めていた。ランサーは当たり障りなくその賞賛を受け流していたが、翌日の昼休み、立ち入り禁止の屋上で弁当を広げていた私のところへやってきて、おまえ好きな歌なに? と尋ねた。
なぜ? 好きな歌があるなら、おまえに歌ってやろうかと思って。別に頼んでいないが。そりゃそうだろ、頼まれてねえもん。
その日以来、ランサーは昼時になると私の隣で菓子パンやらなんやらを頬張りながら、好き勝手に合唱曲やらはやりの歌手の最新曲やらを歌い、私は一曲一曲終わるごとに、律儀に講評をしてやった。ランサーの声は伸びやかで明るく、しかし不意に暗がりを思わせるような色をまとうこともあって、私はたしかに歌ってくれと頼んだことはなかったが、彼の歌を聴くのはいつでも楽しかった。
「怪獣のバラード」
唐突に私が言ったので、食卓に箸を並べていたランサーは顔をあげた。
「なんて?」
「君、最初に私に向かって怪獣のバラードを歌っただろう。それを思い出した」
前後の脈絡など何もなくとも、私がなんの話をしているのかランサーにはすぐわかったらしい。ああ、と頷いて耳なじみのあるメロディーをワンフレーズ口ずさんでから、くしゃっと笑う。
「俺が最初に屋上で話しかけたとき、おまえまじで警戒心丸出しの目で見てきて、ありゃ今思い出しても笑っちまうんだよな」
「当たり前だろう。ろくに話もしたことのない相手が唐突にやってきて、好きな歌なに? などと脈絡のない質問をしてくるのに直面して警戒心を持たない人間がいるか」
「ろくに話もしたことのない相手って、おまえさあ、一応クラスメイトだっただろうが」
しょうがねえ奴、とランサーは笑いながらすっかり食卓の準備を整えてしまう。
今となっては毎日夕食を共にしているが、最初にランサーに食事を作りだした頃は、自分の食事を忘れて彼の様子をじっと見ては、おまえも食べろって、と促されていた。中学生のときに養父がいなくなり、凛の両親に後見のような形をとってもらいながらも、家事と料理はほとんど自分ひとりでやってきたので、自分が作る食事が誰かの口に入るのが物珍しかったのだ。健啖家で好き嫌いもなく、食べるとわかりやすく表情がゆるむランサーに食事を作るのは、そのころから今までずっと、私にとっては楽しみのひとつだ。
空いていく皿を見ながら何気なく、うまいかね? と尋ねると、おまえの飯がうまくなかったことなんかねえし今日のも最高にうまい、と聞いた以上のことが返ってくる。それから机の下で足が軽く蹴り飛ばされて、おまえ今わかりやすく得意げだけど? とランサーは笑った。
「ふん、知っているぞ。君、得意げにしている私を見るのが好きだろう」
「自分でそれ言うかね? まあ好きだけどよ」
ランサーの口にする「好き」という単語は、今も昔も変わりなく私を軽々と打ちのめす力を持っている。打ちのめす、と一言で言ってもその効果は様々で、自分でも手のつけようのないほど高揚するときもあれば、なぜかひどくかなしくなって耐えがたいときもある。そういう時、その感情の苛烈さに似合わずしみじみと、ああ、私はこのおとこに恋をしているのだな、と感慨深くなってしまう。
私がどんな反応を見せようと、ランサーは私を好きだと言う。ランサーが私に十回好きだと告げて、そうするとようやく私も一回だけ、好きだ、と返せるぐらいのペースではあったが、ランサーはそれで十分だと笑って私を抱きしめるのが常だった。
食事を終えて後かたづけをするのはランサーの役目だ。これも、いつの間にか二人の間の習慣になってしまったことのひとつだ。私の趣味がほとんど家事と直結しているので、必然家を保つための作業の比重は私にある程度偏っているが、ランサーはランサーで生活能力の高い人間なので、一緒にいるのが私でなければもっと何でも器用にこなしてしまうのだろう。
皿を洗っている彼の背中、薄いシャツ越しにわかる肩胛骨のとがりを見るともなく眺める。あの出っ張りは羽をもがれた痕であるというのは使い古された文言だが、ことランサーに至ってはあながち間違いでないかもしれない、などと馬鹿げたことを思う。彼の背中に人ならざる羽が翻っているところを想像しても、なんの違和感もなかった。その羽が、純白であろうと漆黒であろうと。
皿を洗い終えたランサーは、キッチンの明かりもリビングの明かりも消して、ソファにいる私のところまでやってきた。すっかり明かりの落とされてしまった部屋だが、カーテンは開け放ってあり、嘘のように丸い月が空に浮かんでいるせいで、部屋はちっとも暗くなかった。まだうっすらと濡れたランサーのてのひらが私の頬を撫でる。私は隣に腰を下ろしたランサーの膝にまたがるようにして乗り上げて、彼の首に腕を回した。
「今日、凛に会ってきた」
「おう、しばらく嬢ちゃんの顔見てねえな。元気だったか?」
「いつも通りさ。旅に出る、と報告したら、連絡を絶つような真似をしたらひっぱたく、と言われた」
「はは、そりゃまたらしいこったな」
「それから、旅に出るのを決めたのは私と君のどちらなのかとも聞かれたな」
「なんて答えたんだよ、アーチャー」
「なんとも答えなかった」
「怒っただろ、嬢ちゃん」
「もちろん」
次に会ったら俺も怒られんだろうなあとぼやきながら、ほら、とランサーが首をかたむける。晒された色のしろい首筋に月の光がすべっていく。かといって儚げなわけではなく、どちらかと言えば筋肉のしっかり浮いたたくましい首である。
私はその首筋に顔を近づけ、彼のなめらかな首筋にそっと歯をたてた。ゆっくりと力を込めると、ぷつっと皮膚が裂ける感触があり、それからすうっと歯が沈んでいく。私のくちびるをあたたかなものが穏やかに濡らす。ランサーの血を一滴もこぼさないように丁寧に歯を食い込ませ、血を啜り、裂けた皮膚を舌でなぞった。錆の匂いではなく、どこか官能的な花の匂いがするのが不思議だった。私を膝に乗せ腰を支えるために手を回しているランサーは、私が彼の血を飲む間おとなしくじっとしていた。
指先までひたひたと満たされる感覚が巡ってから、ようやく私は歯を抜いた。ほんのわずか、ランサーの肩が揺れる。血を啜るために自分の歯で穿った傷口を動物の毛繕いのようにゆっくり舐めると、いつものようにじわじわ傷口は塞がっていき、数十秒後にはどこを噛んだのかすらわからなくなっていた。
息をついて首筋から顔を離したこちらを覗きこんだランサーの指が、私の口の端に残った血をぬぐった。満足したか? ああ、ありがとう。どういたしまして。そう言って笑うランサーの血がなければ生きていけない体に私が変化してしまってから、もう六年が経っている。
ランサーが私の通う高校に転校してきたのは、今から八年前、高校二年の四月のことである。県内一の進学校にはそもそも転校のための枠がほとんどないので転校生そのものが珍しいのと、そこにいるのが信じられないほどうつくしい見目の男だったせいで、校内どころか近隣の学校の生徒までランサーを見に来ることもしばしばだった。
転校初日、白墨ですすけた黒板を背にまっすぐ立ち、あらゆるものを切り裂いて貫いてしまいそうなほど鮮烈な視線で教室を見渡し、クー・フーリンと名乗った彼を見た瞬間に、私の心臓は一度えぐり出されて握りつぶされた。空洞になった胸には代わりとばかりにクー・フーリンへの得体の知れない激情が詰め込まれ、それはあっという間にもう一度心臓の形に編み上げられて、まばたきの暇もなく全身にその激情の毒を循環させてしまう。
ひとめぼれなどと名付けられるものではない。そもそもあのとき、私の中にあったのはまだ恋ですらなかった。あの男に近づいてはいけないという大音量の警告と、なにを犠牲にしてもあの命を手に入れろという強迫観念が正反対からぶつかり合って、ガンガンと耳鳴りがする。あげく、彼を見ていると沸き上がる出所のわからない強烈な憧憬に五感をじかに揺さぶられて息もできない。かろうじて彼から視線を引き剥がした私は、嵐のような混乱のただ中にいた。自分でも、この激情になんの説明もつけられなかったからだ。今まで、そんなふうにコントロール不能の状態に陥ったことなどなかった。
私にできたのは、ランサーという呼び名であっという間にクラスにも学校にも馴染んだ彼に近づかないようにすることだけだった。結局その努力も、あの日屋上に現れたランサーがすべてたたき壊すことになるが。
今でもときおり、あのままランサーをやり過ごして彼に関わらず進んでいく道があったのか考えることがある。可能性だけは常に無限に増殖し続け、しかし私に選ぶことのできる道は常にひとつしかなかった。
屋上で隣り合って昼食をとるのが習慣になってから、教室内でもランサーが私の隣を陣取るようになるまでにさほどの時間はかからなかった。互いに事情を抱えた一人暮らしであることがわかってからは、なにかと理由を探し出して、ランサーは私の家を訪れた。彼の食事を作ってやるようになったのもこの頃からだ。成績は常にトップを私と争っていたくせに、普段はバイトに明け暮れていたランサーは、そのうち私に自分の分だと言って食費を渡すようになった。
高校卒業、大学入学と共にランサーと私が同居するようになったのを、周囲はさして驚きもなく受け入れた。そもそも高三の後半は、ランサーが自分の借りているアパートに帰るほうが珍しかったくらいだ。私たちは同じ大学を選び、しかし興味のある学問は違っていたので、学部だけは別々のところに進学した。
ランサーが転校してきた日に私を襲った彼への激情と憧憬はずっと私の身のうちにあった。しかし、二年の間にそれを飼い慣らし押し殺すことを覚えたつもりでいた私は、彼と暮らすことにも同じ大学へ進学することにも異存はなかった。というより、もうその頃にはすっかり、彼が私の人生と関係のない場所へ行ってしまうことに耐えられなくなっていたのだ。
そうやって二人で暮らすことを選択して、無事に大学一年としての新生活をスタートさせてすぐ、それは起こった。
その日、図書館の閉館間際まで資料閲覧をしていた私は帰路を急いでいた。街灯の少ない裏道を通り抜けようと細い路地を曲がった瞬間、どっ、と体に衝撃が走る。え? 思わず口から漏れた間の抜けた声を自分の耳が捉えてから、一拍遅れてまぶたの裏に白い光が飛び散った。それが痛みだと気付くのと、必死で下げた視線が私の脇腹に突き立てられた大振りの刃物を捉えるのはほとんど同時だった。もう一度体に衝撃が走り、今度はてのひらに砂利を感じる。倒れたのだ。どうして? 刺されたからだ。誰に? わからない。キャンパスの連絡掲示板に、最近通り魔が出没しているから気をつけるようにというやる気の感じられない掲示があったのを、やけに冷静に思い出した。犯人の姿は見えない。そもそも顔を下にして倒れ込んでしまったので、見ようとしたところで無駄だったろう。脇腹の灼熱が無慈悲に引き抜かれ、次に聞こえた絶叫は、引き抜かれたナイフが背中に突き立てられたことによって私の喉から押し出されたそれだった。剥き出しになった五感が直接炎で炙られているような痛みが意識を遠のかせていく。泣きたくもないのに自分が滂沱の涙を流しているのだけが、やけに鮮やかに感じられた。ああ、これはもうだめかもしれない。ランサー。ランサー、君の顔が見たい。本能が死を予感したこんなときですら、私の脳裏をよぎったのはその名だった。
だから、次に意識が覚醒したとき、当のランサーの腕の中で彼を見上げていることに気付いた私が、つまりこれは死後の世界の願望が見せる映像かと思ったのは、当然といえば当然であった。体は鉛のように重く冷たく、口内に溢れた血がくちびるの端からぼたぼたと垂れて、錆の味で舌が痺れている。この世の災厄を一身に引き受けたような表情のランサーが、あと少しで救急車が来るからな、とひどくやさしい声音で言うのを聞きながら、私はさっき気絶したときとは真逆の場違いな安心感を覚え、ゆっくりと意識を手放した。
二度目の覚醒は病院だった。まぶたにしみこむ白い天井より先に、パイプ椅子に座ったままベッドに突っ伏してうたた寝している蒼穹の髪が目に入る。かろうじて動く指先で、彼の髪に触れた。痛みはあるが、感覚は鈍く遠い。強い麻酔か痛み止めを打たれているのだろう。それでも生きている。彼に触れることができる。よかった。ランサーを置いていかずにすんだ。
何のためらいもなくそう思った瞬間、喉元に感じたことのない強烈な疼きが走った。最初、それがいったいなんなのかわからなかった。今までに経験したどんな感覚ともどんな感情とも似つかない。たとえることすら適わないようないびつで奇妙な疼きだ。最初は怪我によるものかと思い、次に目覚めが引き起こした混乱かと思い、それからようやく私はその疼きがある強い欲望の引き起こすものだと気付いた。
血が欲しい。
はっきりとその欲望に気付いた瞬間、思わず笑い出しそうになった。荒唐無稽、意味不明の欲の塊だったからだ。私には人を痛めつけたいという願望もなければ血を見たいと思うような趣味もない。通り魔に刺されたショックでよほど混乱しているのかもしれないがしっかりしろ、と自分を叱咤しようとして、抑えきれない乾きが皮膚の内側から沸き上がってくるのを感じた。
欲しい。耐えられない。欲しい欲しい欲しい。ベッドにうつ伏せたランサーの首に歯を突き立て、皮膚を破り、思うさま彼の甘い血を飲んで、この途方もない乾きを癒したい。
絶望によく似たその欲望が目をくらませる。横たわった体が形のない欲望に犯され蹂躙されているも同然で、筋道だった思考などなにひとつできなかった。と、パキンという乾いた音がして、反射的に音がしたほうへ視線が吸い寄せられたと思ったら、私の目は信じられないものを見ていた。さっきランサーの髪に触れてそのままだった自分の指先が、まるで亀裂の入った石のようにひび割れていく。切り裂かれているとか、怪我をしているとか、そういうたぐいのものではない。生体組織が硬化して、経年劣化により亀裂を生じさせていく。あえて表現するとすれば、それがしっくりくるようなひび割れ方だった。見る間に人差し指の先がぼろぼろと崩れ始める。
それを見て私は思わずランサーの名を呼んでいた。昏睡から目覚めたばかりで掠れた声だったが、私の呼びかけにランサーはすぐ目を覚ました。私が意識を取り戻しているのを見て、ぱっと表情を明るくしたランサーは、しかし私の絶望と混乱がないまぜになった顔を見て異常事態に気付いたようだった。
「どうした、どっか痛えのか」
何をどう説明しようもなくて、ひび割れ崩れていこうとする指先を彼に差し出すと、ランサーはぎょっとしたように目を見開いたあと、ぱっと私を見た。
「原因わかるか」
最短の時間で最大限の対処をしようとする冷静さで選ばれた言葉だった。
「わからない」
「対処方法でもなんでもいい、おまえのわかることがあれば教えてくれ」
問いかけられた瞬間、ばちっと回路がつながる。理屈も何もなく、この崩壊とランサーの血が欲しいという欲望が直結しているのを悟って、考えるより早く口が動いていた。
「君の血を飲ませてくれ」
異常と言っても差し支えない私の唐突な言葉に、ランサーは一瞬も迷わなかった。
「血なんかおまえに全部やる」
差し出されたランサーの腕に本能のままにかじり付いて、加減も何もなく歯で皮膚を裂き、あふれ出す血を飲みくだした。ひと啜りごとに指先のひび割れが復元していくのがわかる。そうやってランサーの血でくちびるを汚しながら、私はいつしか水が土にしみこんでいくようにごく自然に、自分が血を飲まなければ生きていけない何者かに作り替えられてしまったのだと理解していた。この世界の闇に蠢く魔術や異形について、凛や切嗣から聞いてぼんやりと知ってはいたものの、自分が浸食されることなどこの瞬間まで想像もしていなかったのに。
六年前、十九歳の五月の夜の出来事だった。
「なあ、あれいると思うか? 飛行機乗るときに首にはめる枕みてえなやつ」
「そんなものがなくとも君はあっという間に寝るんじゃないのか? そもそもそれは飛行機に乗る直前に言い出すことかね。だからもっと前もって計画をたてて必要なものをピックアップしておけとあれほど言っただろう。なにをへらへらしているんだ」
「いや、俺最近気付いたんだけど、おまえが飽きもせず俺に小言いってんの見るの好きなんだよな」
「最悪の趣味を発見するんじゃない。小言は改善のために言っているのであって、君を喜ばせるために言っているのではないし、そもそも私の注意を小言ととらえるな」
人々のさざめき行き交う空港でそんなふうに言い合いながら、私とランサーは故郷を離れた。
私と旅に出てくれないか。ここへ、もう戻っては来ないかもしれないが。
数ヶ月前の夜更け、突然そう言った私に、ランサーは何も聞かずに屈託なく笑って、そこにおまえがいるんなら俺はどこで生きたって同じだぜ、と答えた。つくづく奇特な男である。
理由くらい聞いたらどうだ。理由なんざ、おまえが言いたくなったら言やいいんだよ。君な、そういう雑な生き方をするんじゃない。
そう言う私の腕をとって引き寄せながら、明日色違いのでかいスーツケース買いに行こうぜ、と笑ったランサーは、初めて彼を見たあの最初の日と変わらぬ鮮やかさをまとっていた。
飛行機を二度乗り継いで十五時間、そこからさらにトラムに揺られてたどり着いた異国の海辺の小さな町を、いつ終わるとも知れぬ長い旅路の最初の目的地に選んだのはランサーだった。この町の海辺の写真を昔雑誌で見かけてから、ずっと来てみたかったのだという。私には預かり知らぬ様々なつながりを持っているらしいランサーがつてを辿って、ひとまず半年間、町外れの青く塗られた古い農場を改築した物件を借りてくれた。家具や家電はほとんど揃っていると聞いていた通り、生活にはなにも問題なさそうな家の様子を一通り見て回ってから、私たちは荷物を置いて海のほうへふらりと散歩に出た。
空も音も色も何もかもが物珍しく、生まれ故郷を離れてはるか遠くへランサーと二人だけで旅に出てきたのだという実感がようやく沸き上がってくる。
白漆喰で塗られた家と、半分放置されたようなオリーブ畑の間の道を縫ってぶらぶらと歩いているのは、私とランサーだけである。そのうち、かすかに波の音が聞こえてきた。
「潮の匂いする」
「さすが、鼻がいいことだな」
「あ、おまえそれちょっと悪口じゃねえの」
顔をしかめたランサーの指が、するりと私の指をさらっていく。絡めた指も合わせたてのひらも、お互いの体温はたしかにそこにある。私たちが何者であろうと、生きていることだけはたしかだった。
「ランサー」
「うん?」
「最初は、あのとき私を刺した通り魔が魔術師か化け物かとにかくそういう何か得体の知れないもので、そのせいでこんな体になったんだと思っていたんだ」
六年前の、あの血に塗れた夜の話を私からランサーに向かってしたことは一度もない。怪我に伴う治療の話や、警察からされた取り調べの話をすることはあったが、私がなぜランサーの血を飲まなければ体を保てない生き物になってしまったのか、その原因について触れることはなかった。私がその話をランサーとしたくないと思っているのを、おそらくこの聡い男は敏感に感じ取っていたのだろう。私にはランサーの血が必要で、ランサーは私に血を分け与える。私たちの間にはただその関係だけがあって、それはなぜだとかどうしてだとか追究しようとはしなかった。
六年越しに初めて唐突にあの夜の話を始めた私に、しかしランサーは少しも動じた様子はなく、かえって繋いだ手に力を込めた。
「でも違った」
「そうだな」
「あの日、私を刺したのはただの人間だろう。どこのどいつか知らないが、とにかくたまたま警察に見つからなかっただけの犯罪者でしかない。私をこんなふうに変質させる力などあるわけもないどこかの卑怯者だ」
一向に車通りのない道を横断すると低い塀があり、その向こうはもう砂浜だった。塀が崩れて途切れているのをくぐって砂浜に踏み出すと、スニーカーのかかとがやわらかな砂に沈み込む。
「人である君の血を飲まなければ生きていけない異質な何かに私が変化してしまった。最初はそう思った。でも、そうじゃない。逆だろう、ランサー」
私は立ち止まった。手は繋いだまま、正面からランサーをまっすぐ見る。出会ったばかりの頃は、皮肉に笑うふりをして視線を逸らすばかりで、彼をこんなふうに正面から見ることはできなかった。ランサーが私に、こうやって視線を合わせることを教えてくれたのだ。
「君の血を飲まなければ生きていけないように、あの夜、君が私を変質させたんだ。先に人でなくなったのは私ではなく、ランサー、君だ。そうだろう」
「いつ気付いた?」
ランサーの声は、無音の宇宙の果てにたった一人で佇んでいる誰かの呼吸よりもなお静かだった。
「病院で最初に自分の状態の説明を受けたときには、もう予想はついていた」
「まいったな。ほとんど最初からじゃねえか」
ランサーは苦笑した。
「君の腕の中で覚醒したとき、私の口の中には血が溢れていた。今でもあの味を覚えているよ。外傷によって血を吐いたからだと思っていた。だがあとでたまたま担当医に尋ねたときに、喀血はなかったと言われたんだ。つまり、あれは私の血じゃなかった。消去法で考えれば、どんなに筋道だった理由が思いつかなくても、あれは君が私に飲ませた血だ」
「それだけか?」
「いや、あともう一つ。現場検証に立ち会ったときに言われたんだ。出血量は夥しかったのに、不思議なほど軽傷で本当によかった、と」
アスファルトに染み込んだ私の血は警察による洗浄でも落ちきらないほどだった。そしてたしかに、刺された瞬間に実際感じていた傷の深さや痛みは、病院で目を覚ましたときには不自然なほど軽くなっていたのだ。
「それを繋ぎ合わせて考えれば考えるほど、荒唐無稽ではあるがたったひとつの結論にたどり着くしかなかった。君が本当は何者なのかまではわからないが、あの夜、死にかけていた私の傷を治癒して生きながらえさせるために、君の血を使ったんじゃないのか」
ランサーは数秒の間、波打ち際のほうを見ていた。初めてあった日から、なにひとつ変わることのない美しい横顔は、今この瞬間も私のこころのやわい部分をかき乱し、ありとあらゆる困難を打ち倒してでもこの男の隣にいたいという激情をかき立てる。
「本当は、おまえを人のままでいさせてやりたかった」
ランサーはゆっくりと私に視線を戻しながら言った。透き通った紅い光彩に、海の青が混じり込んでいる。
「俺がおまえを見つけたとき、医療技術でどうにかなるような状態じゃないのはすぐにわかった。俺の血を飲ませれば傷は治る。けど、そしたらもう人には戻れねえ。なあアーチャー。おまえが旅に出ようなんて言い出したのも、自分があの夜から年をとらなくなったのに気付いたからだろ」
私は黙ってうなずいた。自分の肉体年齢が十九のまま止まっていることに気付いたのは去年だ。今はまだ周囲も特に気付いてはいないだろう。けれど、あと数年したらきっと誰かの疑念を引く。そうなる前に、と思ったのだ。
「おまえの言うとおり、俺はもうずっと人じゃない。別にバケモンてわけでもねえけど、とにかく人間の範疇に収まるような何かでないのは確かだ。年も取らない。絶対に死なないってわけじゃないかもしれんが、少なくとも半分不老不死みたいなもんだ。俺の血を飲ませれば、生き延びられはしても、そういう途方もない生き物におまえを変質させちまうのはわかってた。あげく、元々人だったおまえを無理矢理変質させたせいか、俺の血を定期的に摂取しないと成立しない不完全なもんにしちまった。正直、そこまでは想定してなかったんだよ。だからおまえの指先が硬化してひび割れてんの見たときは肝が冷えた。……おまえにそんな不完全なもんとして生きてけなんて生き方を押しつける権利、俺にはないのにな」
「それは後悔か?」
「いいや」
ランサーの声に迷いはなかった。彼が背に背負う海も空も、ランサーの持つ青の潔さの足下にも及ばない。
「何度あの瞬間を繰り返したとしても、俺はおまえをあのまま死なせる選択はしねえよ。おまえを人でいさせてやりたかった。けど、おまえを死なせる気もなかった。だったらどっちかを選ばなきゃならないからな。勝手におまえの人生ねじ曲げて、不完全な異形に作り替えちまったことを、恨みたければ恨んでくれたって別にいい。それでも俺は、おまえに生きてほしかった」
「……どうして、そこまで」
今まで一度も理由を聞いたことはなかった。なぜ私の隣にいるのか。なぜ私と暮らすのか。なぜ、私をそうまでして死なせまいとしたのか。
ランサーはあっけにとられたように私をまじまじと眺めてから、私のいっとう好きな笑い方をして言った。
「そんなの、おまえに心底惚れてるからだよ。それ以外に理由なんてあるわけねえだろ。知らなかったのか? エミヤ」
ランサーはするりと私の手を離して、一歩下がった。強い風が吹いて、ランサーの髪がまるで一枚の絵のような完璧さで翻る。
「おまえさんが信じようが信じまいがかまわんが、俺たちは数えきれねえくらい何度も何度も邂逅してきたんだぜ。んで俺はどうしても一度でいいからおまえと人として生きてみたくてな。反則みてえなやり方で世界の法則ねじ曲げてその願いを叶えようとした結果、俺自身はこんな人でも神でもねえ得体の知れないもんとして転生しちまうし、おまえは俺の記憶もなんもかも失って勝手に生きてやがるし。やっぱ願望機なんてろくでもねえな」
ランサーの言っていることの意味はまるでわからない。わからないのに、初めて彼を見た瞬間、私の中に沸き上がった強烈な激情がもう一度くっきりよみがえってくる。そうだ、私はあの時からずっと彼に憧憬を感じていた。どうしようもなく理由のない懐かしさ。
「信じる。君を信じている、ランサー」
まるで別の私が背を押したように自然とそう口にしていた。ランサーは手を伸ばすと、まるで小さな子供にするようなやり方で私の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「馬鹿。そういうことはもうちっとちゃんと考えてから言え」
「君に言われたくない」
「俺はもう飽きるほど考えたっつうの。おまえさんを見つけるために何年待ったと思ってんだ」
そのままランサーは波打ち際に向かって歩きだした。歩きながら、まだ立ち止まっている私に向かって声を張り上げる。
「これでもうおまえに隠してることはなんもねえよ。さっき言ったとおり、恨むなら恨め。おまえを人でなくしてでも生かしたのは俺のエゴだ。俺はどうあってもアーチャー、この先もずっとおまえと生きていきてえけど、選ぶのはおまえだ。今すぐきびすを返して俺の前から消えたって俺にそれを責める権利はない。それでもどうしたって、俺はただおまえに惚れてんだ。それは覚えててくれよ」
ランサーは言いながら波打ち際へどんどん進んでいく。その背中に羽根はない。そうだ。ランサーが、私が、人でないからいったいなんだ。死ねないことがなんだ。混じり合った血で私たちの魂はとっくに癒着して、私にはランサーが、ランサーには私が浅ましいほどの必死さで必要なのだ。
引き絞った弓のように張りつめたこころが、もう我慢できないと叫んでいる。終わらない命、気が狂うほどの長い長い時間が私たちの前に待っているとしても、ランサーさえいてくれればそれでいい。そうだ。どうせ私たちはもうこの世でたった二人の種族になってしまったのだ。君と生きたい。死ねなくとも、いつか私たちより先に世界が終わるのだとしても、君と二人で生きていたい。君が繋いでくれた私の命を、君の隣にいるために使いたい。
気付いたときには砂浜を蹴って走り出していた。海と空の境界線の真ん中で、どうしても捨てられなかった恋そのものである男の背中を抱きしめて、声を限りに言ってやらねばならない。
ランサー、君と一緒に世界の命が尽きる瞬間を見に行きたい。
背中からしゃにむにしがみついた私を、驚いたように振り返ったランサーにそう叫ぶために、私は深く深く息を吸い込んだ。