やさしいまほうつかい【web再録】
2020年11月に発行しました「やさしいまほうつかい 夏のひみつ」の二つの話をいれた短編集より「やさしいまほうつかい」をweb再録します。
どちらをお読みになられたいかのツイッターのアンケートに、ぽちっとお答えいただきありがとうございました!
当時、本をお手に取って下さったり、通販して下さった方々もありがとうございます。
web再録にあたりまして、下記のあらすじと注意をよくお読み頂くようお願い致します。
お読みになられてからの苦情等は受付いたしません。
よろしくお願いします。
ネグレクトを受けている幼いセタンタとそんなセタンタを誘拐するアーチャーの話です。
※注意※
あらすじのように虐待・ネグレクト等の描写を含むセンシティブな内容になっております。
そちらをご了承の上でお読みください。
物語以上の何らかの意図やメッセージ性はありません。
センシティブな内容ですが、性的な描写はないためにR18のタグはつけておりません。
発行した本は「夏のひみつ」の内容にそういった描写があるためにR18表記をしておりました。
再度になりますが、お読みになられてからの苦情は受付いたしません。
どうぞよろしくお願い致します。
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「私はまほうつかい……」
そう言って差し出された手を、今でも鮮明に覚えている。
始まりはいつだったか。
思い出すのは、ゴミ溜めのような小さな箱のような部屋。薄暗く汚れ、嫌な臭いが籠っていた。
幼い子供は、その部屋でじっと息を潜めて生きていた。
やせ細った手足を畳み、ぎゅっと小さな体を更に小さくして、部屋の隅に座っていた。
子供にはセタンタという名前があったが、その名前で呼ぶものはいなかったので、子供自身すらも忘れていた。
玄関の扉が開くのは数日に一回。それには良い時と悪い時がある。
良い時は、女が、子供の母親が、まるで動物に餌でもやるように、食べ物が放り込む。
いや、それを待つだけの子供は、動物に等しい。何せ、その量と来たら数日分の食料にはほど遠く、次にいつ来るかもわからない。いつも腹を空かせた幼い子供は獣のように、子供はそれを貪り食べる。
悪い時は、子供の母親が、部屋に入って来る。彼女の部屋なのだから、それは当たり前だ。
甲高いヒールの音を、子供は敏感な耳で聞きとる。聞き取って、どちらかとじっと待つ。食べ物が放り込まれるだけならば、体の力を抜いてすぐに食べ物に走っていく。
そうでなければ、母親が部屋に入ってきたのなら、黄ばんだ壁に体を押し付けて、じっと待つ。
母親は気性の激しい女だった。
思い出せるのは白い肌と、真っ赤な口紅を塗った唇。きつい香水の臭い。激しい罵倒、泣き叫んで崩れる化粧で、彼女の涙は澱んだ色をしていた。
嵐のような人だった。
投げつけられるバッグやその辺りに転がっていた生活用品。
鈍い痛み。その掌が振り上げられると、鋭い痛みになる。
子供は口を固く結び、声を上げない。ただ、目だけは女を見ていた。
「何よ、その目!!その目が……その目がいけないのよ!!」
子供に出来るのは、嵐が行き過ぎるのを待つだけだった。
その日はそう、秋の良く晴れた日だった。
子供の母親は、朝から散々子供を嬲った後に、子供をベランダに放り出して鍵を閉め、自分はさっさと出かけてしまった。
夏の薄着のまま外に出された子供は、ベランダの隅でじっと体を小さくして、時が過ぎるのを待った。
コンクリートの壁に囲まれたベランダは、栄養不足で未発達な子供の背丈では顔を出すことも出来ず、また、仮にそう出来たとしても、子供はそうしようと思いもしなかった。
小さな部屋とこのベランダだけが、子供完結した世界なのだから。
じっとコンクリートの地面を見たとしても、見上げて空を見ようなどと思いもしない。
けれど、その日は違った。
カラリと聞こえた音。それは、隣の部屋からだった。子供はますます体を小さくして、ベランダの隅、コンクリートに体を寄せる。隣の部屋に隣接したベランダの壁は、そうしていればのぞき込まれでもしない限り、子供が見えることなどない。
だが、ふいに自分のいる場所が陰り、子供は身を震わせた。
目を大きく見開いて、そろりと首を動かし、恐々と上を見上げる。
青い空と対照的な白い髪。
褐色の肌。
その男は鋼色の瞳を見開いていたが、子供も同じように目を見開いた。
瞬間、子供は両手と両膝を使い、獣のように四つ足で走って反対側の壁に縋った。
子供はそれで逃げたつもりだった。男に背を向けベランダの壁の隅で体を強張らせ、小さく丸まる。
そうすれば男から丸見えだったが、子供にわかるわけがなかった。
やがていなくなると、子供はいつものようにじっと息を潜める。
「……こんにちは」
けれど、声がした。今まで聞いたことが無い様な、低くて柔らかい声だった。
子供は体を強張らせたまま、反応を示さなかった。自分に声をかけられたなど、思いもしないからだ。
「こんにちは」
また声がした。
「……」
沈黙が下りた。いつまで経っても男がいなくなる音がしないので、子供はそろそろと首を動かして後ろを振り返った。
子供に届かないベランダの壁から腰から上が出るほど背の高い、体格の良い男だった。
彼は困っているようななんとも言えない曖昧な顔で、子供を見ている。
やがて、男は言った。
「私はまほうつかい」
耳に心地の良い低い声は、真っすぐに子供の耳に入った。
男の鋼の瞳がこちらを見ているので、子供はそれから目が離せなかった。
「君にまほうで良いものをあげよう」
男は自分の部屋に入り、しばらくして、手に箱を持って戻ってきた。
箱には長い紐が取りつけられていて、それを使ってするすると子供のいるベランダに箱を下ろした。なんともいえない柔らかい匂いが、子供の鼻に届く。箱の中からは何かが湯気を立てていた。
「これはまほうの飲み物で、君のものだ。私は戻るから、飲みたくなったら飲むといい」
男はそう言うと、部屋の中に戻っていった。
「……」
子供はしばらく固まっていたが、やがてそろりと箱に目をやった。箱の中身はわからないが、何かとても良い匂いがするのは確かだった。
「……」
辺りを見回し、誰の目も何の音も無いのを確かめ、それでも辺りを警戒しながら子供はゆっくりゆっくりと箱に近寄った。
箱には大きなマグカップが入っていた。
子供はおそるおそる手を伸ばし、マグカップに指先が触れると驚いてばっと手をひいた。
その温みを、子供は知らないのだ。
なんともない指先を確認しながら、子供はまたマグカップに手を伸ばす。つるりとしたそれに触れて、くんくんと鼻を近づけた。マグカップに入った白い液体。
良い匂いにつられて、子供は顔ごとマグカップに突っ込む。丸いふちに阻まれて、子供の鼻先に白い液体がつく。顔を上げ、べろりとそれを舌で舐めとると、子供は口を開いて息を飲む。
甘いその味を、子供は初めて知った。
勢いよく、小さな両手がそのマグカップを持ち上げ、飲み干していく。
小さな喉が鳴るほど、一生懸命に夢中で飲み込んでいく。
切れて血の滲む唇が痛かったが、そんなことは関係が無かった。
やがて、中身が空になると、子供は自分の唇をべろんと舐めて、名残惜しそうにマグカップもべろべろと舐めた。
温かいそれで、強張った体が解けるような不思議な気持ちになった。
自分から見えることはない、隣の部屋に目をやる。今までと同じように、そこには何の気配もない。けれど、確かに子供の手にはマグカップが握られている。
それが、子供とまほうつかいの出会いだった。