自らの名を冠したJUNKO SHIMADAブランドで、パリコレに参加し続けて40年以上。80代の現在も現役・第一線で活躍し続けるファッションデザイナーの島田順子さん。まだ海外旅行も大変な時代に20代でフランスへ渡り、2012年にはフランス芸術文化勲章シュバリエを受章。ただ、渡仏当時はパリで仕事ができるとは考えていなかったといいます。その半生から、「好き」に突き進むことの大切さを探ります。

(1)サボり、遅刻当たり前の劣等生が単身パリへ ←今回はココ
(2)パリの名デザイナー集団にアポなしで飛び入り
(3)82歳現役の島田順子「40、50代はまだ子どもよ」

デザイナーになりたいとは思っていなかった

 1941年、千葉県館山市に生まれた島田さんは、6人姉妹の三女。絵を描くのが好きで、高校時代には芸大に入りたいと思っていたといいます。

 「私は、デザイナーになりたいと思ったことはなかったんです。ただ当時は戦争で夫を亡くした人も多かったし、母が最初の夫を亡くしたりして苦労したから、自分の子どもには1人で生きられるよう手に職をつけさせたかったのね。それで服飾専門学校なら行かせてあげると言うから、デッサンが関係しそうなデザイナー科に入学しました」

 島田さんが入学した杉野学園ドレスメーカー女学院(以下、ドレメ)は、オートクチュールのようにデザインから縫製まで手掛けられるように教える専門学校。課題も多かったといいます。

 「デザイン画を描いたり、生地を選んで買いに行ったりするのは好きだけど、コツコツ縫うっていうことができなくて。近所に洋服の仕立屋さんがあったから、課題はそこで縫ってもらっていました。だから私はいまだに服が縫えないの(笑)」

「服飾専門学生時代は、課題を仕立屋さんに出すような劣等生だったの」
「服飾専門学生時代は、課題を仕立屋さんに出すような劣等生だったの」

  3年間のデザイナー科でしたが、卒業したのは22歳。

 「遅刻が多かったり留年したり、卒業証書はあげないって言われたくらいの劣等生で、卒業にも時間がかかったの。でも、卒業したら実家に戻って来いと言われていたから、帰らないため先生に就職の紹介をお願いしに行った。そうしたら『あなたが就職!? 絶対無理よね?』って(笑)。でも結局いくつか紹介してくださって、ドレメ出身のすてきな先輩が在籍していらっしゃる会社に就職したんです」

 キャリアの初めは、京都の「丸増」という会社の関連会社。オリエンタルという松田千代先生のデザインチームに配属されたことでした。紡績メーカー製の生地にプリントを施してアパレル店へ納入するプリントコンバーターを行う「丸増」は、日本のテキスタイルビジネスで中枢を担う会社の一つで、デザイン室では同社の生地で服を加工するための見本デザインを作っていました。

 「その会社にいらした先輩がドレメの杉野先生と仲良しだったおかげもあると思うけど、デザイナーが何人もいる中で、なぜか私は個室をもらえていたんです。当時からデザイン画は得意だったし、いろんなことが割と簡単にできてしまった。だから生意気だったんでしょうね。

 相変わらず遅刻の大将だし、午後になるとすぐに『市場調査です』とか言って渋谷へ映画を見に行って。すぐに眠くなっちゃうから、ジャズ喫茶に入ったらいい気持ちになって、気づいたら夕方になっていたり。今考えるとその会社には本当に失礼なことをしたと思うけど、多分私がサボっているのはみんな知っていたと思います(笑)」

 自称不真面目な勤務態度でも、実力が認められていた島田さん。ただ、それを一生の仕事にするつもりはなく、1年ほど働いたところで退職し、憧れだったパリへ渡ります。