水底の日々 後編
■大変お待たせしました。前編(novel/9217985)の続きです。
■書いていくうちに設定がフラフラして泣きそうでした。おかしなとこにはそっと目を瞑っていただけるとありがたいです……。機会があったら手を入れたいですが今はもうそんな気力はない。
■表紙お借りしました(illust/50222895)
■スタンプやブクマ、コメントなどありがとうございます!何よりのご褒美です
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ぱち、と目が覚めたのはちょうど普段起きている時間だった。しかし身体を預けているそれはいつもの感覚ではない。途端に全く知らない場所に放り出されたような感覚に襲われたがすぐに昨夜を思い出す。
そう、一度はいつものように共にベッドに入って、ここはソファで。つまりここは二人の家で、
刹那、エミヤの胸を鋭く何かが刺し貫いた。
ヒュグ、と行き場を失った息が不格好な音をたてる。比喩などという生易しいものではない。真実、心臓を貫かれたような衝撃だった。だがエミヤの心臓は止まることなく暴れ回っている。
ソファの上で激痛に喘ぐエミヤの中で、パチンと何かが弾ける音がした。
閉じ込められていた中身がひとつ。唐突に始まった二人の生活、デートと称してショッピングモールに行って。
パチンと弾けてまたひとつ。隣のキャスターとお昼を食べて話して。
パチンパチンと弾けるたびに忘れたことも、忘れたことすら記憶から消えてしまったモノも蘇る。
暗い水底、ドルイドの腕、そして怒りに満ちた声。あれはなんて、
「ふざけるなよ弓兵」
無機質な部屋に赤と青と、それから――。
痛みが消えるのも唐突だった。あとに残るのは息を切らし、溢れてきた記憶を受け止めきれないエミヤのみ。
そろそろと素足を床につけて洗面所まで身体を引きずるように移動すると、冷えた水で顔を洗う。念入りに繰り返してから鏡に向き直った自分の顔はどこか見たことのないような顔だった。やけに鋭い瞳が鏡の中からエミヤを突き刺す。それは何かを責め立てているような。緩慢に瞬くタイミングは同じ。確かに自分であるはずなのに、他人であるかのように睨みつける。
エミヤはぐ、と強く瞼を閉じて鏡から視線をそらした。のんびりと答えを探している時間もない。振り切るようにさっさと身支度を整えて店に降りた。
黙々と開店のために生地を焼いたりこねたりしていると、少しずつ頭は冷静さを取り戻す。
クー・フーリンと生活する日々、それは確かに忘れたことすらも知らずにいたエミヤの記憶だった。しかしそれでも不可解な点はある。これはキャスターに訊かねばならないだろう。彼は何か知っている口振りだった。
そうと決まればあとはその時まで待つのみだ。ひとまずは店の方に集中することにした。
忙しい昼を乗り切り、昼食を片手に裏口から出てきたエミヤは呆然と立ち尽くしていた。
キャスターの診療所はそこにはなかった。建物すらも存在せず、柵で囲まれた土地は草がボサボサと無造作に生えている。昨日までそこに何かあった気配は微塵もない。ほとんど手入れされていない売地、といった様子だった。
硬直から解けたエミヤが向かいの店に駆け込んで尋ねても、そこは見た目の通りもともと空き地だったという。そればかりかキャスターのことを知っている者もいなかった。
そういうことだったのか、と今まで忘れていたキャスターの言葉を理解する。こうなることをあの時点で彼は知っていたのだ。
そしてエミヤはひとつの結論にたどり着く。
「閉じ込められている……?」
カチリ、と重要なピースが埋まる音がした。
唐突に始まった世界や夢、そして存在ごと消えてしまったキャスター。たとえその実感がなくともここは現実ではない。痕跡ごと建物が綺麗さっぱり消えるなど現実ではありえないのだから。
ひたひたと冷たいものが足元を満たす。エミヤはじくじくと痛み始めた心臓を押さえるように鷲掴んだ。
さて、あれから現状を整理してみると、やはり現実ではない何かに閉じ込められているようだった。考えるに至った要因はキャスターの存在以外にもいくつかあるが、エミヤの記憶が不自然に途切れていることが大きい。現在思い出せる最も古い記憶はあの唐突に世界が始まったところ、クー・フーリンと向かい合って朝食をとっていたあの日。それより前は完全に白紙だ。
しかしふとした刹那によぎるものがある。壁一枚向こう側で浮かんでは消えるものが確かにある。それはきっと今のエミヤが持っていない、取り戻すべき記憶なのだ。
「というわけで温泉に行こうと思う」
本日の夕飯は野菜たっぷりあんかけ炒飯。パラパラ炒飯に野菜たっぷりのあんかけが絡んで優しく包み込む、するする食べてしまえる一品である。
エミヤ作のそれにいそいそとレンゲを突っ込んでいたクー・フーリンは、声を受けてぽかんと固まった。
「お、おう。急にどうした」
「君、今月は二日間有給を取っているだろう。だから私もその日は臨時休業にすることにした」
「明日は槍でも降るのかね」
「やかましい」
掌がじっとりと湿る。しかしそれとは裏腹に口はすらすらと動いた。
場所は決めてある、と有名な温泉地を挙げるとクー・フーリンは遠いな、とぽつりこぼした。心臓を冷えた指でゆるりとなぞられた心地がする。自分は今、いつものような表情を保つことができているだろうか。
「離れたところにある知らない景色のほうが仕事を忘れてゆっくりできるのでは、と思ってな」
不自然に思われないだろうか。変なところはない、はずだ。
しかしそんなエミヤの内心をよそにクー・フーリンは拍子抜けするほどあっさりと頷いた。
「わかった。もしなんか必要なモンがあれば教えてくれ。買っとくからよ」
「ああ、助かる」
まずはひとつクリアだ。
食事を再開させた彼に気づかれぬよう、エミヤは安堵の息をついた。
ひとつの重要なピースを手に入れたエミヤは思う。閉じ込められたというならば、有効な範囲というものがきっとあるはずなのだ。
例えば有効な範囲の端が果てになっていてそこから先はなにもないとか、果てがなくとも一定の領域――この街など――からは何らかの力が働いて出ることができないとか。
エミヤが試みようとしているのはその果てなり領域なりを確かめるというものだ。
平日だったせいか、その日の宿も新幹線もあっさりと取ることができた。運転していくことも考えたが「旅行なんだし楽しようぜ」と言われ、それもそうだなと同意した。とりあえず最寄りの新幹線に乗れる駅までは車で、そこからはらくらくのんびり列車の旅というやつだ。
駅には予定よりも早く着いたので、一息つこうとクー・フーリンがコーヒーショップへ一人で入っていった。エミヤは欲しいものを頼んで送り出し、ベンチに腰掛けている。
駅の構内は平日でもそれなりに賑わっていた。
そう、人が多い。
エミヤの周囲は常に人が多かった。どれも人らしく、意思を持って動いている。少なくともそう見えた。閉じ込めるなら、箱の中身はシンプルである方が作るにも維持するにも手間は少ない。
これだけ手間を掛けているのだ。となると広さにそこまで魔力リソースは……。
「魔力……?」
カチリ、と音がした。
カチリ、カチリ。埋まったピースが次のピースを引き寄せ、大きな空白を瞬く間に埋めてゆく。同時にいくつかのピースが抜け落ちる。まるでここから逃さないと言われているかのように。
心臓を貫かれるような痛み。そのピースで打ち止めになった。
総合すると埋まったピースのほうが多かった。それらがもたらす情報量は一度に渡されるには多すぎる。
「ほら、カプチーノにしといたぞ」
それに溺れて沈んでしまわぬようにすることに精一杯で、エミヤは差し出されたものに一瞬反応できなかった。
「あ……と、す、まない」
我に返り震えそうになる手で慎重にカップを受け取ると、ゆっくりと口をつける。その間にクー・フーリンはエミヤの隣に腰掛けた。
「ぼんやりしてたみたいだが大丈夫か?」
「ああ、意識だけ先に目的地へ飛んでいってしまったようでね。君の声で引き戻されたよ」
「そりゃ気の早いこった」
からりと笑うクー・フーリンは楽しそうだ。それを横目にエミヤはカップを握り潰してしまわないよう気にかけながら中身を喉に流し込む。
飲みながら他愛のない応酬を繰り返していれば、情報はゆっくりと引き出しの中にしまわれていく。
魔術。サーヴァント。カルデア。そう、カルデア。
召喚されて。自分はサーヴァントで。目の前にはマスターが。隣には盾の少女と、それから、誰かが。サーヴァントは自分だけではないはず。が、他の存在は霞がかっていたり、黒く塗りつぶされているかのように思い出せない。抜け落ちたか、まだ埋まっていないのか。
手の中のカップが空になる頃にはすっかり普段の調子を取り戻していた。
「そういや昼メシはどうすんだ?」
「ローカル線に乗り換える時、少し時間があるので駅弁を買おうと思っている。向こうに着いてからだとおやつの時間帯だからな」
「いいな駅弁!」
肉あるといいなとわくわくしているクー・フーリンをよそにカップを潰して立ち上がった。彼も残りを飲み干しエミヤに続く。
「そろそろホームに移動しよう」
時間は頃合いよく十分前。現在いる場所はホームまで少し遠いので早めに動いたほうがいい。
頷くクー・フーリンと並んでエミヤは歩き出した。
道中は至って平穏だった。新幹線に乗り込みいくつか駅を通り過ぎ走ること約二時間、降りた駅で宣言通り駅弁を買う。肉が食べたいクー・フーリンは牛めしがみっちりつまったものを選び、エミヤは地元特産の野菜をふんだんに使った鮮やかなものにした。
人の少ない電車の中、ボックス席で向かい合い、昼食に舌鼓を打ちつつ長閑な景色を眺めること一時間。目的の駅で降車した。
多くの人で賑わう場所からは少し離れているが、無人駅ではない。駅員に切符を手渡して改札をくぐった。
「自然の多いところってのは新鮮だな」
拳を振り上げて伸びをするクー・フーリンに、そうだな、と返しながらエミヤの思考は目まぐるしく回転する。
自宅からずいぶん移動してきたが果ては見つからず、街から出られない、なんてこともなかった。人は多いわけではないが、ちらほら見える人々に不自然な点も見られない。手掛かりになりそうなものは見当たらなかった。
「お、送迎来たぞ」
だが果ても何もないとわかっただけでも収穫だ。あとは人の多い場所に行って不自然なところはないかだけ見ればいい。
クー・フーリンと送迎車に乗り込み本日の旅館に向かう。今回選んだのはすぐ傍に様々な店が並ぶ賑わったエリアにある旅館だ。フロントで手続きをし、鍵を受け取ってひとまず部屋へ。中を見たクー・フーリンは目を輝かせて駆け込んでいった。
「広い! おいあれあるぞ! 縁側もどき! うわすげえ!」
「はしゃぐのはいいが部屋の備品を壊すなよ」
スパーンと障子を開け放った彼に釘を刺すと、音もなく閉められた。素直でよろしい。
まずは一息、とテーブルの上のお茶セットで二人分のお茶を淹れる。一通り見て回って満足したらしい彼の前に湯呑を置いてやるといそいそと飲み始めた。
エミヤもふ、と息を抜きながらこれからの予定を考える。実のところ、旅行については細かく計画を立てていなかったのだ。しかしこの近辺は賑わっていて、歩いて見て回れるところが多い。ゆっくり回ればちょうどいい時間になるだろう。
饅頭の包装を剥がしながら思考をふわふわさせていると、視線がエミヤの手元に注がれるのを感じた。剥き終わった饅頭を差し出すと口が近づいてきて指ごとぱくりと食いついた。顔が引っ込めば残るのは空っぽの指のみ。むぐむぐと食べる彼は満足げである。行儀悪いと眉を寄せればサービスだと返ってきた。そんなサービスはいらない。
「温泉に入る前に旅館の周りを散策しようと思っていたのだがどうだろう。足湯も多くあるらしい」
「そうだな、見て回ってからのんびりつかる方がいいんじゃねえか? あちこち動くなら時間多めに確保しておいたほうが後から融通がきくしな」
クー・フーリンが返事と共に剥いてくれた饅頭をくれる。ありがたく手で受け取りぱくりぱくりと食べながら立ち上がった。思い立ったら動くに限る。彼の方も賛成のようで、ボディバッグを引き寄せている。
「それじゃ行くとしますか」
先を行く彼に続いて入口へ。ドアを開ける直前、振り向いて唇を奪っていく彼に謹んで拳を贈りながら散策へと出発した。
古く美しい通りは観光名所にもなっているだけあって、多くの人が行き交っていた。店を覗き、財布の紐を緩めながら小腹を宥めて進んでゆく。そして旅館へ戻る前にお洒落なカフェでひとやすみすることにした。なんとこのカフェ、店の中に足湯につかれる席があるのだ。面白がってクー・フーリンが入っていったのがきっかけだった。
「はーあったけー……。俺クリームあんみつ食べるわ。お前は?」
「……夕食前だぞ。私は羊羹くらいがちょうどいい」
「羊羹って意外と腹に溜まんじゃね?」
「見た目の問題だ。君のは見るからにボリュームがあるだろう」
「別腹とか言うだろ。それにこれくらいならメシも余裕だわ」
「む、羊羹だと抹茶とセットにできるのか……」
「俺玄米茶で」
額を突き合わせメニューを覗き、エミヤは抹茶セットでつける和菓子を羊羹に、クー・フーリンはクリームあんみつと玄米茶に決めた。待っている間の話題は足元のそれである。
「しかしすげえよな……蛇口をひねると温泉が出るのか?」
「水路のようにしているのではないか? 店を閉めるときは……田んぼであるだろう、水を引き入れるところに木の板を差し込んで流れを変えるような……下を少し開けて差し込めば水量も調節できる」
「お前いつから農家になったんだ」
「パン屋さんだが」
ああでもないこうでもないと賑やかに足を温めていると甘味はすぐにやって来た。丼と言っても差し支えない器がクー・フーリンの前に、エミヤのところには艷やかな羊羹が乗った皿が置かれる。
「ちょっと待て、貴様でかい方にしたのか!」
「やっぱ美味いもんはたくさん食べたいよなぁ」
たしかに彼の前のクリームあんみつはぴかぴか真っ白の白玉に色とりどりのフルーツとたっぷりクリームでそれはもう美味しそうだが、それとこれとは話が別である。
だがこれしきで怯むようなら苦労はしないのである。ハイハイとおざなりな返事をしながら手を合わせ、さっさと食べ始めてしまった。
「クー!」
「ほら、あーん」
挙句の果てには白玉が乗った匙をエミヤの口にねじ込む始末だ。もちもちの白玉を噛み締めながら早々に諦めることにした。
その後ぺろりと平らげて旅館に戻り、温泉を満喫してから夕食となったが、クー・フーリンはやはり綺麗に完食していた。あれがいいこれが美味いいいなこれと本当に美味しそうに食べていたので、あんみつは別腹とやらに入ったのだろう。
そして食休みの後、今度は露天風呂に肩までつかっている。ここは渓流の近くなので空気がひんやりしており、少し熱めの湯がちょうどよい。ふ、と息を抜くと同じタイミングでクー・フーリンも気の抜ける息を吐いた。
「やっぱ温泉はいいな……。疲れが溶けるわ……」
「身体も溶けそうじゃないか君」
にしても、とエミヤはなんとなしに水の音に耳を傾ける。旅行に来てから彼の距離のとり方が近くなったような、一言で言うなら甘えてくるような。今だって露天風呂は貸し切り状態なのに、すぐ隣でゼリーのようにふにゃふにゃしている。
「クー」
「おー?」
「近くないか? 誰もいないのだから広々とくつろいでもいいと思うのだが」
そっちの方とか、と少し離れた場所を指した途端、ふにゃふにゃゼリーがコチンと固まった。ぱちりと瞬くその表情は思ってもみなかったと言わんばかりのそれだ。
「いやか?」
「は?」
「俺とイチャイチャするのはいやか?」
ずい、と綺麗な顔が間近に迫る。エミヤが仰け反り距離をとろうとするが、そのぶんだけずずいと迫ってくる。仰け反るのにも限界で、せめてと顔を背けるしかなかった。
「そ、の聞き方はずるくないか?」
「そうか? 俺はお前とイチャイチャしてぇけどよ、お前が嫌がることをしたいわけじゃない。だからちっと加減してやろうかと」
したかったのか、イチャイチャ。一緒に暮らしている時点で満足だったエミヤはそんなこと考えたことなかった。
で、どうなんだ? と追撃するクー・フーリンは逃がすつもりはないらしい。白旗をあげたのはエミヤの方だった。
「嫌じゃ、ないが……」
「照れるってか? 照れたエミヤの顔も可愛いから安心しろよ」
「かッ、それは安心できることじゃないだろう!」
離れろ! と肩を押しやると彼は意外にもあっさりと離れていった。
「ま、からかうのはこのくらいにして、恋人らしいことをしたくなったんだよ」
しかしすぐ隣に落ち着いたクー・フーリンは穏やかな顔でそう言った。更にお前もそうだと思った、と続ける。
普段あまり甘えてこないエミヤが急に旅行に行くと言い出したのは、彼風に言うとイチャイチャしたかったからだと受け取ったとか。まさか本当のことを言うわけにもいかずに口ごもると、それを照れていると捉えたらしい。わしゃわしゃとエミヤの頭をかき回した。
「別におかしいことじゃねぇだろ、恋人なんだしよ。俺は嬉しかったぜ」
「そうなのか……?」
「そ。なんだったら今夜、」
「しないからな」
惰性で頷く前にぴしゃりと言い放つとすごすごと引き下がるクー・フーリンだった。ちぇ、と残念がる彼を横目に、ふとエミヤは彼とそういうことをしたことがないと思い出す。始まってからも、ひどい虫食い状態の現実にも――現実に恋人がいたのかは現状定かでないが――そういうことをした記憶はない。そういうことをしてもいいのでは、と思いはするのだが何故かその気にはならないのだ。溜まるものは溜まるので一人で抜いたりはするのだが。しかし恋人がいるのに右手が恋人とはこれいかに。セフレか、セフレなのか。勿論右手が。
それでも、彼のことが好きであるというこの感情は本物であると心のどこかが叫んでいた。現実の世界にはまだマスターと盾の少女しかいないのに、クー・フーリンはこの世界が作り出した恋人なのに。それでも、この感情は作られたものではないと力強く叫ぶ。
けれども、何かが足りないこともまた事実で。
「そろそろあがろうぜ。あんま入ってっとのぼせちまう」
隣で悶々と考え込んでいるとは知らないクー・フーリンがざばりと立ち上がる。これ以上考えても答えに辿り着きそうもないそれは、一度頭から消し去って彼の後に続いた。
時間は穏やかに過ぎた。おかげで旅館を後にする頃には疲れはすっかり吹き飛んで、心なしか身体も軽くなったような気もする。しかし現状を整理する気分は身体とは裏腹に重苦しい。流れる景色を目で追いながらもエミヤは現状を整理していた。
結局ここは現実とも言えるほどの精巧さが隅々まで行き届いている。綻びがなければ閉じている形跡もない。本当に果てがないのか、それとも何かまだ気づいてない鍵が落ちているのか。ともかくあまり時間はない。帰ったらまた調査を始めねばならないだろう。
とりあえずはそう締め括ると景色から視線を外した。と、こちらをじっと見つめる存在に気づく。
「クー?」
その顔は何故か深刻だった。例えるなら、これから殺しに行くと昏い決意を固めたような。
「なあ、俺を捨てるつもりなのか?」
「はあ?」
が、その口から放たれたのは予想の斜め上のことだった。思わず間の抜けた声を出してしまったのも仕方のないことだろう。ぽかんとするエミヤを目にしても彼の表情は緩まない。
「深刻な顔で悩んでいる恋人がいたらそれは別れ話について考えてると言われた」
理由もまた斜め上だった。誰にと尋ねれば同僚だと返ってくる。なんとも迷惑な同僚がいたものである。いや同僚もまさかこんな深刻に取られるとは思わなかっただろう。彼だか彼女だかはわからないが気の毒といえば気の毒である。
エミヤはため息をついた。そして二人の間のテーブルに置かれた彼の手をそっと包む。
「君のことを、あ……、あ、いしているのに別れるわけないだろう。あれだけベタベタイチャイチャしておいて、何を不安になっているんだ。君らしくもない」
ぴくりとクー・フーリンの手が反応する。するりとエミヤの手の下から抜け出し、きゅっと握りしめる。
「なあ、ずっと隣にいてくれよ。一緒にいてくれ」
彼の声が、耳をくすぐる。ゾワリ、と背筋を何かが駆け抜ける。エミヤは何故か頷くことを躊躇い、曖昧に笑うことしかできなかった。
旅行でわかったことはあまり多くない。そして残された時間もまた、あまり多くない。エミヤは静かに胸へ手を当てる。トクトクと規則正しい鼓動と、しがみつくように蟠る違和感。早く、手段が残されているうちに核心に迫らねばならない。
土鍋に蓋をしながら改めて決意したところで玄関の方から鍵を開ける音。帰ってきたようだ。
「帰ったぞー!」
もうそんな時間だったのか、と時計を確認する間にドタバタと気配は近づいてきて、のっしりと背後から覆いかぶさってきた。
「なあおかえりのキスは?」
「たわけ、手洗いうがいをしない者にその権利はない」
首にかかる腕をベチッと叩いてやると、ぱっと離れて慌ただしく洗面所へ向かっていく。エミヤはため息をついて火を止めた。
旅行でやたらスキンシップをしてくるようになったクー・フーリンであるが、それは帰ってきてからも変わらなかった。いってらっしゃいとおかえりのキスは当たり前で隙あらば素早く唇を奪っていくし、何よりやたらあちこち触れたがる。救いといえばそのままベッドになだれ込まないことくらいか。
相変わらずする気にはならないし、あちらもそういう素振りは見せない。まあ困っていないからそれについては良しとしておく。
「エーミヤ。ほら、手洗いうがいしてきたぞ。おかえりは?」
いそいそと権利を得て戻ってきた恋人がねだる。今度は拒否する理由がない。諦めておとがいに指を添え、ささやかなおかえりを贈った。
「俺の恋人は照れ屋で可愛いもんだ」
「ほう、鍋はいらんとみえる」
「からかってるつもりはねぇんだがな」
「なお悪いわ」
エミヤが離した唇を追いかけリップ音をひとつ置いてからようやく距離をとる。
なんというか、世の恋人たちはこんな甘やかな距離感で過ごしているのだろうか。感心する。しかしそれは自分たちにはどこか違和感がつきまとう。おかしくない、けれど何かが違う。きっと自分だけなのだろう。なら目を逸らしておくのがいい。
違和感もそこから引き出される疑問も、まるごと底に沈めると夕食の準備を再開した。
「だってよ、お前気持ちよさげにぐっすり、そりゃもうぐっっっすり寝てたんだぜ? そのまま寝かせてやりてぇって恋人の優しさ以外に何があるよ」
「にしたって十一時近くだぞ! いくらなんでも寝過ぎだろう!」
ぴかぴかの朝日、いやすでに朝日ではない。なにせ時刻はもう十一時近い。ともかくレースカーテン越しに降り注ぐ光に満ちる部屋には、のんびりした声とそれを責める声が飛び交っていた。
ことはベッドの中で起こった。
冬の入口となればベッドの誘惑は強いものだ。それはエミヤたちのベッドもまた例外ではない。だがしかし、朝に強いエミヤはちょっと前までは連戦連勝だった。そも、パン屋の朝は早い。となると自然と耐性がつくものだ。
が、最近はどうも辛勝だったり、敗北だったり様子がおかしい。決定的なのは今朝だった。意識が浮上しても瞼がくっついてしまってどうしようもない。休日だしよかろうとぐずぐず毛布に懐き、ようやく腕を伸ばしてスマートフォンで確認すると、時はすでに予定時刻よりも桁を増やしていた。左右どちらもだ。悲鳴をあげて飛び起きるのも無理はなかった。
「いいじゃねぇか休みくらい。それにおかげでブランチスペシャルプレートが食べられるんだぜ? いい事づくしだ」
「よくない! こんな晴れの日の午前を惰眠を貪って潰しただと……? 貴様には洗面所の洗濯物が見えんのか!」
ちなみにブランチスペシャルプレートとはたっぷりサラダとウィンナー、チーズオムレツにコーンスープとフルーツヨーグルトがついたボリュームたっぷり愛情たっぷりふんわりパンケーキプレートのことである! 食べられるのはエミヤだけというレアな一品、だそうで。だが残念ながらエミヤの頭の中は洗面所に積み上がる洗濯物で占められている。
「洗濯物ならもう外で日の光を浴びてるぜ。お前の仕事は俺の愛情たっぷりプレートを味わって感想と愛してるを言うことだな」
が、クー・フーリンの一言でその洗濯物はドサドサと崩れて消えた。
「なに……? 今日の当番は私のはずだが」
「だから恋人の優しさってやつだっての。素直に受け取っとけ」
いつから恋人は神様か仏様になっていたのだろうか。ではなく。エミヤは眉を下げてしかし、と食い下がったが彼は取り合わない。結局はエミヤが夕食に愛情をたっぷり込めることで決着がついた。
決着がつけばブランチを味わう余裕も出てくる。
「君、いつの間に綺麗なオムレツが作れるようになったんだ。しかもチーズオムレツ……」
「そりゃ身近にお手本がいるからな。で、感想は」
「……美味い」
パンケーキは綺麗な焼き色がついているし、チーズオムレツは中身がとろりと半熟だ。全体的な見た目もよろしい。ボリュームもあるのでおやつを挟めば夕食までもちそうだ。
パリパリとウィンナーを齧りながらエミヤは最近の戦績に頭を悩ませる。
とにかく朝起きられない。以前なら保険のアラームがなる前にすっきりと起きられたのに、今はアラームに叩き起こされたり気づかずに半時間ほど寝過ごしたり。明らかに冬の誘惑のせいではない。
勿論何もせずにいたわけでもない。アラームの回数は共に寝ている彼を思うとあまり増やせないが、寝る時刻を早くすることはした。しかし睡眠時間が増えるばかりで効果はあまり出ていない。どうしたものか、と頭を悩ませるのはエミヤばかりで、起きられないとクー・フーリンに相談しても「そうでもないんじゃねぇか?」と気にした様子もない。
「ごちそうさま。食器は私が洗おう」
「最後まで甘えてればいいだろ。さて、食後はどっちだ?」
「コーヒーで頼む。しっかり目が覚めるようなものがいい」
まあそれでもたまにはいいか、と考えてしまうあたりよくない。はいよと皿を片手にキッチンへ消えるクー・フーリンを見送りながら頭を抱える。ブランチに釣られるとは情けない。普段は逆の立場だというのに。とにかく致命的な寝坊だけはすまいと心に決めて、彼が戻ってくるのを待つことにした。
ふと目が覚めるとカーテンの向こうは茜色に染まっていた。クー・フーリンの腕に囲われて布団に潜っているエミヤはぼんやりとカーテンを見つめている。頭が霞がかっていて、このまま心地よさにひたってしまえと囁きが響く。けれどそれよりも喉の渇きを強く感じ、そっと腕の中から抜け出した。
ひたひたと素足のままキッチンまで歩いてくると冷蔵庫を開ける。あると思っていたミネラルウォーターは入っていなかった。それどころか中身は空に近い。仕方なく閉めて水道水をグラスに注いだ。ぐい、と一気に流し込むと、思ったよりも冷えていた水が喉を滑り落ちる。
靄を流し、胃へ落として意識をはっきりさせる。
その瞬間、エミヤはようやく目を覚ました。
だんだんと起きられなくなっていったことも、店を開けている時間が短くなっていったことも。
クー・フーリンも気づいたら家にいる時間が長くなっていって、抱きしめてベッドに誘って、そのまま目覚めるまでぐっすりと眠って。
それなのに何事もなく現実は回っている。パン屋を遅く開けても早く閉めても誰も何も言わないし、彼が家にいる時間を増やしてもスマートフォンに連絡は入らない。二人を置いて現実はどこまでも進む。それを目の当たりにしながら、何故かその異常を認識できていなかった。
睡魔の猛威は頭を悩ませていた頃よりも深刻で、はっきりと起きている時間が半分以下になっている。こうなるまでどれほどの時間が経過していたのだろう。今となってはもうよくわからない。
震える手で胸に手を当てる。心臓近くに蟠る違和感はずいぶんとかすかになってしまっていた。
本当に、時間がない。
コップをシンクに置いてエミヤは早足に移動する。パジャマ代わりのスウェットのまま、裸足に靴をつっかけて家を飛び出した。
あてもなく走るエミヤの姿を通りの人間は誰も気にすることがない。近所の花屋の前を通過しても、店先の店員はこちらを見向きもしなかった。サラリーマンと肩がぶつかっても、エミヤを視界に入れることすらしなかった。駅の改札を強引に通過しても誰も咎めない。
時間がない。けれどここから出る方法をまだ手にしていない。手遅れという単語が浮かんで、消えた。
世界は広く、緻密で、閉じている。
ここでおしまいなのか。
静かに絶望が足元から忍び寄る。なりふり構わず逃げるようにホームから線路に降りたが、やはり誰も気にした様子はない。実はもう自分は存在しておらず、ここにいるのは残り滓だけなのかもしれない。そんなことを思い始めたエミヤだったが、ふと視線を線路の先に向けて固まった。
見つめた先の線路は途切れていた。文字通りなにもない。
それは世界の果てだった。
「な、んだと……? ほんとう、に……?」
呆然と歩み寄ると手を突き出す。指先が硬いものに阻まれ、世界の外には指一本出られない。本当に閉じ込められていた。
しかしあの時、クー・フーリンと旅行した時はこんな近くに果てなんてものはなかった。世界はどこまでも続いていて、エミヤの立てた仮説は間違いだったはずだ。
エミヤを消すために世界が閉じてきているというならそれまでだが、こうして獲物に悟られるような愚行はしないのではないか。
考えろ、ここを逃せば本当に出られなくなる。見えない壁に手を当てたまま、今までのことを整理する。
何故こんな近くに果てがある? あの旅行と異なる点は? 核はどこにある?
「ひと……?」
かちり、と小さな音。それは最も重要なピースだった。闇が光に照らされていくように空白が埋まる。そして浮かび上がる答えは。
「間に合ったぞ、キャスター」
胸に手を当て小さく呟いてから、果てに背を向け駆け出す。向かう先はひとつ。
もうすっかり見慣れたドアを開けると玄関に恋人が立っていた。驚いた顔で見つめてくる。
「どこに消えたかと思ったぜ。せめてメモとか残してけよ」
ほっとした顔の彼の言葉には触れずに、デートに行こうと誘った。
「勿論今からだ」
「今からって、お前デートにスウェットで行くのかよ」
「なに、些末な問題だよ。すぐにどうでもよくなる」
にこりと笑みをつけてやればクー・フーリンは怪訝そうにしながらもわかったと頷いた。
クー・フーリンの手を引いて半分ほど夜になった空の下を歩く。夕方の賑わいを見せる商店街を抜け、辿り着いたのは高校の校庭。休日の夕方となれば職員室と思しき場所はすでに明かりが落ちている。
広い校庭の真ん中でエミヤはクー・フーリンに向き直った。
「放課後デートってやつか? けどよ、腹減ったし食ってくか帰るかしようぜ」
一歩、彼が距離を詰めようとする。
「近づくな」
鋭い一言は彼をその場に縫い止めた。どうしたんだ、と思いやる言葉をかけられても、エミヤの心の表面を滑っていく。
「貴様は何だ? 誰なんだ?」
「何って……お前の恋人のクー・フーリンだろ? 冗談にしてもちょっとひどくねぇか?」
ムッと眉にシワが寄る。クー・フーリンは滅多にこんな顔をしなかった。優しくて、気が利いて、恋人思いで。
「投影開始」
身体に染み込んだ、その言葉を口にする。
心臓のそばの違和感がするりと溶け、数え切れぬほど握った剣が現れる。白い刃を突きつけ、エミヤは美しい笑みを浮かべてみせた。
「貴様はランサーではない」
一瞬で命を摘み取られる状況に追い込まれてもなお、短い間、優しい恋人だった何かの顔は穏やかだった。
「ランサー、ね」
その一言でそれがすべてを悟ったと知る。しかし牙を剥くでもなく、それはただそこに立っていた。
「生憎だが俺は間違いなくランサー、クー・フーリンだ。なにせお前の記憶をもとに、戦いを知らずに生きたという枠に当てはめただけだからな」
普段と変わらぬ声で言いながら、ゆるりと意味もなくエミヤの周りを歩く。じりじりと距離を詰められて、首元に刃を突きつけるとおっと、とおどけて足を止めた。
「ま、そんなことはどうでもいい。お前にとっても意味ねぇだろ? 俺を偽物扱いしたってことは、な」
その言葉にエミヤは言葉を返さない。返す必要がなかった。わざわざ答え合わせをするまでもない。それは知っているのだから。エミヤがこの世界の核を見つけ出したことも、どうすればいいかも。だからそれは穏やかな姿勢を崩さないのだろう。
ここから出るただ一つの方法はこの世界の核を壊すこと。今までは物だと思っていたからこそ見つけられなかったもの。
物ではないとしたら? 自由に世界を移動し、それを中心に世界が成り立っているとしたら?
スポットライトで照らすように、そこだけを作りさえすれば低コストで緻密な世界をどこまでも広げられる。
そしてその中心、移動する核は。
「貴様こそ、この世界の核だ」
恋人ではない、けれど現実でもたしかに好意を向けていた相手の姿をしたもの。それを壊す。そうしなければ出られない。
エミヤは向けていた刃をゆっくりと下ろした。彼はそれを眩しい笑みで見つめていた。何度も見た笑顔。その表情のまま、腕を上げてエミヤを包み込もうとして。
彼の顔が強張った。
「やはり貴様はクー・フーリンではないよ」
引き締まった肉に白黒の刃が潜り込む。ずぶずぶと裂いて沈み込む感触は、エミヤの記憶をもとにしているだけあってやけにリアルだった。もっとも、こんな深手を負わせたことは今までなかったのだが。
何故、と唇が音もなく形をつくる。化物を見るような目。化物はそちらだろうに、となんだか笑い声を上げたくなった。
「この世界でのイフのように穏やかな感情が皆無である、と言えば嘘になるだろう。だがな、」
ズ、と刃を引き抜くと、引き寄せられるように彼の身体が倒れ込んでくる。じわじわと濡らしていく感覚は、偽物であっても甘美ですらあった。
「私たちはな、得物を手に殺気をぶつけ、全力で相手をねじ伏せようと殺し合うことにこそ、最も興奮する馬鹿者だ」
穏やかな時間も悪くなかった。戦うことを知らずに生まれ育てば、ああして日々を重ねることもあり得たかもしれない。
だがもしもに意味はない。自分も彼も、戦うためのモノなのだ。
パン、と剣が花弁のように散って消える。同時にずるり、とエミヤの身体に沿って崩れ落ちる身体を受け止めると、優しく地面に横たえてその上にまたがった。鮮やかな瞳はとろりと溶けたままエミヤを見つめている。
白く太い首に手を添え、耳飾りのついた耳に口を寄せる。
「愛しているよ、クー・フーリン」
添えるだけの手に力を込める。
固いものが折れる感覚を最後にエミヤの意識はブラックアウトした。