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水底の日々 前編/Novel by カシワメカイ

水底の日々 前編

19,395 character(s)38 mins

■現パロ、の皮をかぶった何か。続きはもう少し先。→後編( novel/9677803
■以前投稿していた同タイトルの小説の加筆修正版。完結の目処が立ったのとちょっと長めなので半分先にあげちゃいます。尻叩き
■表紙お借りしました(illust/50222895

■コメントやスタンプ、いいねやブクマいつもありがとうございます!心の栄養ドリンクになっています
■2/14 二日間ほどルーキーランキングにお邪魔していたようです。スタンプやブクマいいねタグありがとうございます!続きはもそもそ書いています

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 音がする。
 とおく、とおく。
 手をのばす音がする。
 何かを探す音がする。
 それをただ、心地よい水底で感じていた。


「おい、大丈夫か」
 不意に掛けられた声にエミヤははっと我に返った。
 目の前には茶碗を持った見目の良い青年、これはエミヤの恋人だ。名をクー・フーリン。
 二人の間に鎮座するテーブルの上には二人分の食事。クー・フーリンのぶんは半分ほどなくなっていたが、エミヤのぶんは彼の半分ほどの進みだった。
 テーブルを見つめて、それから彼のことを見つめると、視線の先で表情を呆れたものに変えた。
「クー?」
「ぼんやりしたまま呼びかけにも反応しねぇ。いくらなんでも心配になるだろうが」
「ふむ」
 呼ばれたのだろうか。
 エミヤは内心で首を傾げながら味噌汁に口をつける。慣れているはずの味は何故かひどく懐かしかった。作ったのは自分自身だし、味付けは変えた覚えはないのだが。
 ついでになんだか頭のはたらきが鈍く、はっきりしない。頭の中の引出しが何かに引っかかって上手く開いてくれないような、もどかしい感覚が纏わりついている。
 力尽くで開けようとしてもどうも開きそうもない。仕方なく目の前の恋人を頼ることにした。
「その、おかしなことを言っていると承知の上で訊くが……、私は今、君と朝食を摂っていた、のか?」
 違和感を端的に言うとそういうことだ。目の前に現実は存在するのにそれを受け入れられないような。
 まるで彼に話しかけられたあの瞬間に、目が覚めたような。
 もぐもぐと咀嚼する彼の眉間にしわが寄っていく。
 ああやっぱり、どう考えてもおかしなことだろう。たった今言ったことを取り消そうとしたが、それよりも口の中身をしっかりと飲み込んだ彼が言葉を発する方が早かった。
「疲れてんのか?たしかここンとこ忙しそうにしてたしな。ぶっ倒れる前に休むことを覚えろお前は」
 そして出てきたのは呆れの言葉ではなく心配する言葉だった。エミヤの身を案じているのがよく分かる声音。それはなんだか調子が狂うような気がしてならない。
 恋人のことを心配する。そんな当たり前のことなのに。
 それにしても働きすぎ、働きすぎなのだろうか。言われるほどオーバーワークである自覚はエミヤにはない。
 しかし彼が言うのだから、少なくとも彼にはそう見えているということで。
「そ、うだな……。気をつけるよう意識する」
「そうしとけそうしとけ」
 とりあえずは意識しておくことにする。エミヤの場合、これでもだいぶ変わることを彼も経験済みだからなのだろう、あっさりと納得して食事を再開した。エミヤも食事に向き直る。
 ぴかぴかの白米に味噌汁、ハムがくっついた目玉焼き、昨日の夕食に出した味の染みた大根。さらにもうほとんどを胃に収めた彼の傍にはイカの塩辛が入った容器が鎮座している。
 イカの塩辛、もうずっと食べていないような気がする。
大根を食べながら塩辛をもらうかどうか考えていたが、彼の声に思考が塩辛から引き剥がされた。
「今日は暇か?」
「一週間分の買い出しに行く予定だが」
 唐突な問いで危うく意味を理解する前に通り抜けていってしまいそうだったが、内容自体は簡単なもので意識せずとも口から答えがこぼれ落ちる。
 そうだ、今日は定休日。エミヤが週に一度の買い出しと決めていた日だ。よってヒマではない。
 目玉焼きの白身を箸でさいて口に運ぶ。黄身を追い詰めるようにじりじりと食べ進め、最後はくるりとハムで巻いてくちに放り込んだ。
 そうやってエミヤが食べ進める間、鮮やかな赤の瞳はその様子をやわらかく眺めている。その視線に込められているものに背中を何やら走り抜けていったが、それは一拍かけて無視する。
 割った大根を口に入れ、飲み込んでから何故と問いをのせた。それにクー・フーリンは至極簡単に答える。
「俺も行こうと思ってな」
「家でゆっくりするのではなかったのかね?」
 たしか数日前だったか、次の休みはゆっくりしたいと言っていた、はずだ。
 が、目の前の男は気が変わったとあっさり言った。その後箸で最後の大根をかっさらい、一口で収める。このときもごもごと喋らないのは教育の成果だ。いいことだ、とエミヤも残りの大根を口に運び、じんわりと染み出す味をたのしむ。
「それもいいけどよ、今は一人で過ごすよりもお前と過ごすほうがいい。デートだデート」
 が、クー・フーリンが投げてきた豪速球のせいで大根が勝手に喉奥へ滑り降りていった。危うく気管に紛れ込みそうなところをなんとか胃の方へ押し込む。
 恋人とする外出がデートと言うならば、まあ、間違いではないだろう。間違いはないのだが。
「君……、もっと言い方をだな」
「あ?間違っちゃいねぇだろ。それよりどこに買い物行くつもりだったんだ?」
「近所の商店街だが」
 エミヤの買い物といえば基本的には最寄りの商店街。いいものが手頃な値段で、それも近くで手に入るならばわざわざ遠出するメリットはない。が、クー・フーリンはそれを却下した。
「ショッピングモールに変更な。あの映画館も入ってるとこ」
「おい、わざわざそっちまで行かなくても、」
「近場でデートって高校生の放課後デートみたいじゃねぇか。悪いとは言わねぇけどせっかくだ、ドライブも兼ねてあっちまで行こうぜ」
 決まりな、と笑うと空になった食器を手に立ち上がる。そしてエミヤが反論する前にキッチンへと引っ込んでしまった。こうなってはもう決定したも同然だ。エミヤは溜息をついて言おうとした言葉をゴミ箱に突っ込むと残りの朝食をかき込んだ。


 エミヤたちがやって来たショッピングモールはかなり大きく、少し遠いところから足を伸ばす人も多い。食料品や日用品、服や雑貨など大抵のものは手に入るし、ゲームセンターや映画館があればレストラン街もあるので一日を過ごすのも悪くない。今日は平日であったが、それでも中は多くの人で賑わっていた。
「それで君は何を?」
 入って少し進んだ先にあるATMコーナーの傍で一度立ち止まるとクー・フーリンに尋ねる。予定変更してついてきたわりには決めていたらしく、服だ、と一言すらりと返ってきた。
「そろそろ冬物を見ておくのも悪くないと思ってな」
 たしかに秋も深まり冬が向こうから顔を出し始めている。そろそろ準備を始めるのも悪くないだろう。エミヤも次の休みはしまい込んである冬物の点検をしようと心に決める。
「そうか。私は洗剤やシャンプーを買った後に食料品を見ている。先に終わったらそのあたりに来あだっ!?」
 そして買うものを頭の中でリストアップしながら告げるも、言い終わる前にぶった切られた。その正体は仏頂面のクー・フーリンが繰り出した手刀である。
「馬鹿か。デートっつっただろ。バラバラに動いてどうすんだ」
「デッ本気だったのか」
 ひゅ、と伸びる腕。エミヤは大きく一歩下がった。チ、と漏らされる舌打ち。エミヤの予測は正しかったらしい。
「たりめーだろ。おら、先に服だ。ついてこい」
 手刀を崩してわっしとエミヤの腕を捕まえたクー・フーリンはそのまま引きずるように歩き始める。これには大人しくついて行くしか選択肢はなかった。

「お前気ィ抜くとすぐ真っ黒だからな」
「悪かったな真っ黒で」
 クー・フーリンはいくつかある店のうちのひとつに入った。勿論腕を掴まれたままのエミヤも一緒である。そしてまず選べと言われ、仕方ないなと選んだ服に容赦なくダメ出しされ。
 今は彼が選ぶ様子を見ているしかない。しかしこれに関してはエミヤからも一言物申したい。
「この店の服、ちょっと若すぎないか」
 あくまでエミヤの感覚ではあるが若者、大学生あたりとかが好みそうな気がしてならない。エミヤはもう大学生ではない。アラサーというやつである。
 ボトムスを物色していたクー・フーリンはきょとんとして手を止めたが、すぐに動きを再開させる。
「いや問題ねぇだろ、お前童顔だし」
 人が気にしていることを。
 キッと睨んでもあっさりと流し、上下一式選び終わったところで服ごとエミヤを試着室に押し込んだ。
「たしかに今着てるのも悪くないけどよ、絶対こういうのも似合うと思うんだよなぁ」
「おい、」
 当然抵抗するエミヤだが、ニヤリと笑うクー・フーリンに動きを止めた。あまりいい予感のしない類のソレである。
「先に言っておくが、俺が満足するまで続けるからな。早いとこ素直になっておいた方が身のためだぞ」
「は」
 にこり、笑った顔を遮るように閉まるカーテン。着替えたら声かけろよー、とのんきな声がカーテンを通り抜けてくる。
 カーテンに触れると布の端がピタリと壁に接着された。試しに少し引っ張ってみるが、マジックテープでくっついていることを差し引いても離れそうもない。
 つまり逃げられない。
 エミヤは着ている服に手をかけながら彼に付き合う覚悟を決めた。


 最終的にクー・フーリンが選んだ服の中からエミヤがいくつか選んで買ったところでようやく解放された。クー・フーリン自身もいつの間にか隣の店で数着購入していたようで、お互いの手にはショップバッグがひとつ。
 休憩スペースのベンチに座るエミヤはすでに気力を半分ほど使ってしまっているが、隣に立つ彼はむしろ回復しているように見える。散々着せ替え人形で遊んで充実した時間を過ごしたと考えればわからないこともない。エミヤにとっては癪なことだったが。
「それで、次はどうする」
「ちっと早ぇけど荷物増える前にメシ食おうぜ」
 提案に腕時計を確認する。時刻は十一時を少し過ぎたところ。今ならレストランもまださほど待たずに入れるはずだ。反対する理由もない。
 エミヤは立ち上がり、エスカレーターの傍にある案内板の前へ移動した。クー・フーリンもあとに続く。
「何か希望は?」
 和食に洋食、中華にタイ料理なんていうのも入っているらしい。他にもオムライス、ラーメンや蕎麦などもあるようだ。
「んー、……。とりあえず上に移動するか。それまでに考えるわ」
 ざっと文字を目で追ったクー・フーリンは少し悩んでからエスカレーターのステップに乗る。エミヤも彼の後ろに続いて立ち、上へ運ばれていきながら人々を眺めた。
 楽しい時間を過ごしているのであろう人々がつくり出す光景はエミヤの心をあたたかく満たす。彼らが過ごすのは何でもない毎日で、しかしそれが何よりも幸せであることをエミヤは知っていた。
 人々のそういう幸せのために――、
「おい、コケるぞ」
「ん、すまない」
 クー・フーリンの声に反射的に一歩踏み出して、床の下に吸い込まれていくステップから離脱する。レストラン街のフロアは自分たちと似たような考えの人がいるものの、ぱっと見た感じではどの店も予想通り待たされずに入れそうだった。
「で、決まったのか」
「そういうお前は?」
「質問に質問で返すな。……洋食は気分じゃないくらいであとは何でも」
 するりと洋食店の前を通り過ぎながら言うとふぅん、と返事。オムライス専門店の前も通過した。
「じゃ、中華で」
 クー・フーリンが入っていったのは中華料理店だった。
 店員に二人、と告げてさくさくと進んでいく。
 席に座り、店員が置いていった水で一息ついたところで、彼はいそいそとメニューを開いた。
「どうすっかねぇ。この前唐揚げ食べたからな」
「唐揚げ?」
 突如出現した唐揚げにエミヤはメニューから視線を上げて首を傾げる。ちなみにエミヤが好きなのは小麦粉多めの方だが、クー・フーリンが好きなのは片栗粉のみで衣がざくざくしている方だ。普段はふたつの中間で作るが、リクエストされた時は彼の好みに合わせるエミヤである。
「油淋鶏は唐揚げみたいなモンだろ」
「…………」
 間違ってはいないがご飯をよく作っている側としては素直に頷きたくない。エミヤは黙ってメニューに視線を戻した。
 ああ言われると油淋鶏は頼みづらい。せっかくの中華なのに唐揚げを食べている気分になってしまいそうだ。その隣のエビチリのランチセットを食べることにする。
「クーは決まったか?」
「おう。あ、すみません」
 傍を通る店員を呼び止め、メニューを指差しながら注文する。
「ランチセットの麻婆豆腐ひとつ。セットのデザートはごま団子で。お前は?」
 チリ、と何かが頭をかすめる。
「ああ、ランチセットのエビチリで。デザートは杏仁豆腐を」
 以上で、の一言で店員が下がる。まだ何かが頭の隅っこに引っかかっていた。いつまでもしつこく残り、エミヤに何かを伝えようとしている。
「君、麻婆豆腐は苦手ではなかったか?」
 そう、たしか見るだけで思い出すから。たとえ辛くなくとも苦手意識が先に出てしまうのだと……。言って……? いつ?
「好き嫌いが特にないこと一番知ってるのエミヤだろ。お前のメシ食ってて苦手なもの出来るわけねぇし」
 そうだ、当初は全くなかったわけではないが、食べるなら美味しく食べてほしいからと試行錯誤した。今では苦手なものはないと言ってもいい。作れば何でも食べてくれるし、リクエストを言われることはあってもこれが駄目だと言われることはない。
 なら何故……?
「何かと勘違いして覚えてたんじゃねぇか? 気にすんなよ」
「あ、ああ……」
 そうだな、と曖昧に頷く。
 その後運ばれてきた料理を美味しそうに食べるクー・フーリンにエミヤは内心首を傾げながら食べていたが、そのうち疑問は溶けて跡形もなくなった。



 水底は心地よい。
 ふわり、ふわり、ゆりかごのよう。
 水と体の境界も曖昧になってゆく。
「――、」
 音。
 探す音。
 手をのばす音。
「――……、――!」
 大きく、掻き回すように何かを探す。
 手を伸ばす。
 ……うるさい。
 コポリ、と口から泡が生まれて上へ。
 ふわり、ふわりと漂っていく。
 途中、かき混ぜられ、崩され、小さな泡の粒になる。
 突然、静寂が訪れた。
「っ、――――!!」
 次の瞬間、探す音が水を掻いた。
 手が意思を持って潜り、近づいてきて、腕を――。

「――――!!」
 エミヤは跳ねるように起き上がった。心臓は早鐘を打ち、嫌な汗が背中をじっとりと濡らす。まるで溺れていたかのように浅い息を繰り返した。
 その隣では上半身を剥き出しにした恋人が眠っている。エミヤとは対象的な深く静かな呼吸。彼の横顔を見つめながら少しずつ息を合わせていく。時間をかけていくらか落ち着いたところでエミヤは静かにベッドを抜け出した。暗いキッチンに音もなく入るとグラスに水を注いで一気に流し込む。
 何か、夢を見た。目を覚ました時にはもう消えてしまっていたが、あまりいい夢ではなかったのだろう。そうでなければこうして飛び起きたりはしない。
 グラスを流しに置き、空いた手で確かめるように腕をさする。当然ながらそこには何もない。
 エミヤの口から自然とため息がこぼれた。ゆっくりと寝室へと戻る。明日の朝も早い。寝不足で仕事をするのは遠慮したいところだ。
 眠っているクー・フーリンの隣に体を滑り込ませ、背を向けると口元まで毛布を引き上げる。
 静かになったはずの心臓が小走りになる。少しずつ、速度を上げて。ぎゅっと目を閉じたその時、肩にそっと触れる手があった。
「す、まない。起こしてしまったか」
「よくない夢でも見たか」
 眠気のない声は確信を持って告げる。誤魔化しは無駄だと悟ったエミヤは仕方なく大したことはない、と返した。
「もう覚えていない」
「飛び起きてただろ」
「大丈夫だ」
 言葉を交わしている間に、肩にあった手はじりじりと侵攻し、しまいには背中に手よりもよっぽど広い温度が張り付いた。隙間を作ろうともがけば、胸にまで到達した手ががっしりと押さえつけてきてどうしようもない。
 それでもなお抵抗を続けていたが、じわりと意識に染み込んでくる睡魔にようやく脱出を諦めた。途端に睡魔の侵蝕は速度を増し、それに伴って目蓋は重くなってゆく。
「おやすみ、エミヤ」
 声が最後に残った意識を引きずり込みにかかる。
 完全に沈む前、白い腕が何かを求めて彷徨っている姿が見えた気がしたが、夢の中に溶けて消えてしまった。


 エミヤのパン屋はこぢんまりとした店ではあるものの、立地条件とそして何よりも美味しいという評判からなかなか人気がある店である。
 昼食を買いに来る客で賑わう昼を切り抜ければ、あとはもうのんびりと残りのパンを売り切るだけだ。エミヤはとっておいた野菜の破片をベーグルに挟み、簡単にベーグルサンドを作ると裏口から外に出た。店と隣とに挟まれた狭いここは貴重な休憩スペースだ。プラスチックの牛乳ケースをひっくり返し、持ってきた座布団を敷いて腰を落ち着ける。
 さて、と昼食にありつこうとしたちょうどその時、お隣の裏口のドアが開いた。
「お?」
「む」
 出てきたのは白衣に青い長髪を無造作に垂らした男。
「――」
 ばちり、と赤い瞳がエミヤをとらえる。
 瞬間、ぐわんと世界が大きく歪んだ。が、それも一瞬のことで、すぐに世界は平穏を取り戻す。
「キャスター」
 そう、キャスター。クー・フーリンの親戚で、エミヤのパン屋の隣で小児科をやっている男。
「今日のオススメは?」
「たしか二個入りの方のチキンバゲットサンドが残っていたと思うが」
「お、珍しいな。いくらだったか」
「コーヒーメーカーでコーヒーを淹れてきたらまけてやるが」
「マジか。ならちっと行ってくる」
「バゲットサンドだけでいいのか?」
「でかい方ならそれでじゅうぶんだな。もし売れちまってたらなんか適当に二つ見繕っといてくれ」
 こうして休憩がかち合ったときは今日のオススメを訊いてくるし、合わないときは店にやって来てパンの前でウンウン悩んでいる。
 取って返す背中を見送ってからエミヤは店に戻った。目当てのバゲットサンドはちょうどあとひとつ。珍しく運がいいらしい。とはいえ彼のラックはエミヤやクー・フーリンと違って若干高い。そういう意味では当然なのかもしれない。
「――、疲れているのか?」
 ごくごく自然に頭に浮かんだそれは改めて考えるとよくわからないものだった。たしかに運がいい悪いはあるのかもしれないが、果たして若干とつけられるほど細かな違いがわかるものなのだろうか。
「……くだらない」
 ふ、と息を吐いてバゲットサンドを手に取った。レジに通し、あとで代金を入れておく旨を伝えてから外に戻ってくる。男はまだ来ていない。が、すぐに来るだろう。
 案の定ケースに腰掛けたところでパイプ椅子と一人分のコーヒーを持って出てきた。
「待たせたな」
「そうでもないさ」
 片手と足で器用にパイプ椅子を開き、その上にそっとコーヒーを下ろすと白衣のポケットに手を突っ込む。チャリチャリと音がした。
「で、いくらだ」
「ワンコインでいい」
「はあ?」
 どのコインかを正しく理解したらしい。
 ワンコイン、五百円、ではなく百円。元の値段を考えるとキャスターが素っ頓狂な声を上げるのも無理はない。半額以下だ。理由はついこの間の醜態にある。
「この前酔い潰れた時は世話になったからな」
 先程まですっかり忘れていたが、思い出してしまうときっちり始末はつけておかねばと思うわけで。つまるところ口止め料だ。主にクー・フーリン対策の。が、それを素直に受け取るなら苦労はしない。
「大した世話してなかったろ」
「と、言うと思ったからくれてやろうというところを百円にした」
 しかしそれも折り込み済みだ。エミヤの言葉に彼はなんとも言えない表情で銀色の硬貨を差し出したのだった。

「最近どうだ?」
 昼食を腹に収めてからキャスターが煙を食んでいる姿をなんとなしに眺めていると、彼は煙の後にそんなことを吐き出した。見た目も性格も似ている男と同じく、真っ直ぐな言い回しを好む彼らしくない問いだった。
 空になった紙コップを弄り、潰す。
「どう、とは曖昧で答えようがないな」
 彼の言いたいことはなんだろうか。意味を捉えかねて彼に倣った返し方を選んだ。
 そのパスを受けた方は煙を吸い込み、ゆるりと風にのせる。空にふらふらと視線を彷徨わせ、意味のない音を漏らし、なんとかボールをこねくり回している。
「ああ、体調はどうだ。これでも医者なんでね、崩したら診てやるぞ」
 ようやく返ってきたボールはこねくり回していた時間を考えると、なんとも無難な仕上がりだった。
 勿論まけてやるぞ、と口端を上げる彼に思わず呆れが表情に浮かぶ。エミヤは子供ではない。
「この通り別になんともない。至って健康だ」
 無難で軽いパスをこちらも返す。
「へえ、寝不足とかねぇの? 魘されたり、なんてこととかな」
 しかし返されたパスは存外に鋭かった。思わず彼を見つめると細めた赤い瞳とぶつかる。心の中まで見透かされてしまいそうな、そんな真っ直ぐな視線に怯みかけて、しかし違和感に眉を顰めた。
 時々エミヤがうなされて目を覚ますことを知っているのは一人だけ、同じベッドに入る恋人だけだ。それは目の前で言葉を待つキャスターではない。
 偶然なのだろうか。それにしては彼の言うことは的確だった。
 空気がきりきりと音を立てているようだ。もう少し、いやあと少しでそれは、
「いやほら、お前小せぇことであれこれ悩むの得意だろ?」
 が、その緊張した空気をキャスターは遠い彼方にふっ飛ばした。何を今更、といった声音である。
 思わずぽかん、と間抜けな表情を浮かべてしまったのは仕方ないことだろう。しかしなんとも失礼な男である。そのうえ真面目くさった顔で付け加えられる一言。
「夢の中でもあれこれ悩んで考えては眠りが浅くなっているんじゃねぇかと」
 夢の中。
 やはり妙に引っかかる単語だったが、今度はエミヤがそれを斬って捨てた。彼の言葉に疑ってかかったことすら馬鹿馬鹿しい。どうせその原因を手繰り寄せようとすると、掴んだ先から糸そのものがなくなってしまうことも一因だった。
「心配されるようなことは何もない」
 ぺいっと手の中の紙コップをキャスターに投げつけて立ち上がる。時間を確認するといつもより少し早かったが、この失礼な男と一緒にいるよりも働いた方が有意義だ。
 ぺしゃんこの紙コップを軽々と空いていた手でキャッチした彼も、吸い殻を携帯灰皿に押し込んで立ち上がった。あちらもいい時間なのだろう。パイプ椅子を持ち上げ平らにする。
「そうか。ま、何かあったら話くらいは聞いてやる。子供の相手は本業だ」
「何かあっても貴様だけには絶対に相談しないから安心しろ」
 どこまでも一言余計である。エミヤは今更ながら昼食をまけてやったことを少し後悔した。



「……ミヤ」
 誰かが呼んでいる。
「エミヤ、どこにいる」
 聞き覚えのある声。しかし誰のものかはわからない。
「いるのはわかっている。返事をしろ」
 声が辺りを見回す。きょろきょろと視線は彷徨いこちらに背が向いた。
 ここにいる。
 ぷかり、と生まれた泡が上へ漂っていく。
 ふわふわと浮かんでゆき、薙ぎ払われるように崩れ、千切れ、細かくなって。
「なんでンな底の方にいるんだよ」
 呆れた声が降ってきた。
 そして泡が崩れたあたりにぽつりと青い蛍のような光が生まれると、ふわりと迷いなく寄ってくる。底ではより一層眩く感じる蛍は、くるりと私の一周してから目の前で静止した。
 君は一体何なんだ。
 ひとつ、ふたつ、泡が生まれる。
「ん? わかんねぇか? なかなか厄介だな……。まあ■■■■■と呼びかけても反応しなかったからな、予想はしていたが……。おれは■■■■■のク」
 ゆらゆら、ふわふわ。穏やかに揺れていた光が前触れ無くぱちんと弾けて、

 エミヤはベッドの上で目を覚ました。
「む…………」
 あたまがいたい。からだがおもい。あつくて、さむい。
 頭を枕に乗せたまま首をひねってサイドボードを見ると、時計は普段の起床時間の五分後を示している。エミヤは苦労して体を起こすと引き出しから体温計を取り出した。
 脇に挟んで待つこと少し。目の前に持ってきたそれは三十八度と少しを表示していた。
「うそだろう……?」
 呆然とした呟きの間にも頭はガンガンと痛み、体はこれ以上動くことを拒否している。考えずともわかる典型的な風邪の症状だ。
 そして自覚した途端、症状は一層圧を増してのしかかる。
「んん、…みや?」
 と、ベッドが自分のものではない動きで軽く揺れた。隣で寝ていたクー・フーリンが目をこすりながら身を起こしている。エミヤにとっては多少の寝坊でも、今日の彼にとっては随分と早い時間だ。
「起こしてすまない」
「カゼか?」
 謝罪をするりと聞き流したクー・フーリンにひょいと体温計を奪われる。見られたくなかったが、寝起きにしては機敏な動きを差し引いても今のエミヤには無理な話だ。表示を見た瞬間、眉間にしわを寄せた彼の顔をぼんやりと見ることしかできない。
「熱があるじゃねぇか。今日は店やめとけ」
 それは彼に言われるまでもない。食材を扱っているからには風邪ひきで仕事するなど言語道断だ。店に臨時休業のお知らせを貼って、今日シフトのアルバイトに連絡を入れなくては。
 下に貼ってくるか、という提案には首を横に振る。それくらいは自分でできる。
 クー・フーリンは一拍置いてから頷いてベッドから降りた。そして床に落ちているパーカーを投げてよこしてくる。彼のものだ。
「それならお前でもぴったりだろ。着てけ」
 有無を言わせない声だが、そもそも今のエミヤには反論する気力はない。のろのろとパーカーをかぶってベッドから降りた。
 まずはアルバイトに連絡を入れて臨時休業を伝えようとしたがまだ時間がかなり早いことを思い出す。とりあえず文面だけ作っておいてあとは送信するだけの状態にしておくと、一階の店に下りて臨時休業の札をクローズの札と交換した。連絡はあと一時間ほど経ったら送ればいいのでこれでミッション完了だ。ふ、と糸が緩んだようにその場に蹲ってしまう。
 戻ったら目覚ましのアラームでもかけておくか、と頭では冷静に考えているが体の方はもう限界で、この場でそのまま横になってしまいたいと訴えてくる。それを気力で捻じ伏せ、這うような速度で二階に戻ると、両手を広げる恋人に迎えられた。普段は素通りしてしまうが、今はそれがこれ以上ない救いの手に見える。おとなしく腕の中に収まると彼の両腕はしっかりとエミヤの体を抱きしめた。
「おつかれさん。ベッドまでヒメ抱きで運んでやってもいいぜ?」
「遠慮しておく……。かたをかしてくれ」
 わしゃわしゃと優しく頭をかき回す手は目を細めて受け止め、熱のこもった声をなんとか返す。彼は満足するまで髪を乱してから、エミヤの腕をつかまえて自らの首にかけた。
「おら、気張れ病人」
 引き摺られるように玄関からリビングへ、そして寝室へと移動してベッドに崩れ落ちる。もうここからでたくないと全身が悲鳴をあげていた。
「しばらくしたらメシ持ってきてやるから大人しく寝てろよ」
 クー・フーリンが何かを言っている。それよりも。
「……ちじかん」
「ん?」
「いちじかんで、おこしてくれ……」
 かろうじて言葉を絞り出す。あとは返事を聞く前に速やかに眠りに引き込まれていった。


 ゆさゆさと体を揺すられて、エミヤはのろのろと目を開いた。そこには申し訳無さそうな恋人の顔。
「よく眠ってたんで起こすのもワリィと思ったんだが」
「ん……」
 寝起きと熱で回らない頭がそうなのか、と勝手に納得する。
「時間だからそろそろ仕事行くわ。メシ食えるなら土鍋の中の雑炊食えよ」
 続く言葉は右から入って左へ抜ける前に尻尾を捕まえる。半分ほどは振りほどいて逃げていった。残ったのはご飯が雑炊だということと、仕事に行くということ。仕事、仕事。なんだかよくない響きだ。何故なのか、までは引出しが引っかかってわからない。
「エミヤが作ってた連絡だが、」
 連絡、という単語が引き出しを弾き飛ばして中身をぶちまけた。ガバリと起き上がると途端に目眩が襲い掛かってきたがそれどころではない。クー・フーリンが仕事に行く時間ならとうの昔に開店時間は過ぎている。
 落ち着け、と肩を押す手を払ってベッドから抜け出そうとするが、さすがに健康な彼を振り切るには至らない。
「オイコラ話は最後まで聞け病人。見た感じ誤字もなかったんでそのまま送信しておいたって言いたかっただけだ。心配しなくても返事も受信してるっての」
 ずずい、と目の前に突きつけられたスマートフォン。そこにはお大事にとかゆっくり休んでくださいとか、とにかくいたわりの言葉が表示されていた。受信はだいぶ前だ。
 その事実にエミヤの糸はぷっつりと音を立てて切れた。ズキズキと痛む頭と重くなる瞼。もう起きていたくない。
「近くにスポドリとゼリー一応置いとくからな。じゃ、ゆっくり休め」
 さらりと額を撫でる手がずるりとエミヤの意識を底のない闇へと沈めていく。深いところへ。浮かぶことのない水底へ。逆らう気力があるわけもなく、意識はずぶずぶと沈んでいった。



「…ざ……るな、ふざ……なよ■■」
 何かが聞こえる。雑音の多いかすかな音。
 誰だ。
 コポリ、と泡が浮かんでゆく。それを探す手はどこにもいない。
 ただ何者かの声だけが水底にかすかに届く。
「それが……にとっ……の現実…? 失……せるな」
 声が届いていないのだろうか。
 何かとても怒っている、のかもしれない。
「クー・…………は貴様…………お優しい……の…在か?」
 クー……。クー・フーリンのことだろうか。
 そうだ、クーは優しい。眩しくてかっこよくて、これ以上ないほど良い男だ。
 ぽこぽこと泡が天井を目指す。
「…い出せ、考え……。クー・フーリンは……にとって、どんな男だ」
 最後の声だけは何故か少しはっきりした声だった。



 目が覚めると部屋はすっかり暗くなっていた。時刻を確認すると、驚くことにクー・フーリンがもうすぐ帰ってくる頃だ。飲まず食わずでこんな時間まで眠っていたなんて、気づいていないだけでかなり疲労が溜まっていたのかもしれない。
 随分と軽くなった体を起こし、枕元のスポーツドリンクを一気に半分流し込む。途端に忘れていた空腹がやって来てエミヤは床に足をおろした。
 汗がベタついて不快だが、ふらつくとか目眩がするとかもない。しかし自分で食べるために食事を作る気力はなかったので、作ってくれていた雑炊を食べることにする。
 さっさと温め、ぼんやりしながらレンゲで掬っては口に運んでいると、ふと目を覚ました時に見つめた天井が頭をかすめた。顔を上に向けてみるが、視線の先はただの天井。穴が空いているわけでもない。
 ただ、記憶を引っ掻くようなもどかしい感覚だけがエミヤの中にあった。ゆっくりと雑炊を食べ進めながら手繰り寄せようとするが、掴もうとすればするほどバラバラに崩れて逃げていってしまう。小さな土鍋が空になった頃、手元に残ったのはひとつの問いだけだった。
 自分にとってクー・フーリンはどんな存在か。
 美しい、ということがぴったり当てはまる男だろう。眩しくて、そんな彼が恋人だなんて、きっと一生分の運を使い果たしている。それくらいには良い男だと思っていた。本人には伝えたことはなかったけれど。
 そんな彼との出会いは忘れもしない。それは、――それは?
 硬質な音が部屋に響く。土鍋とレンゲがぶつかり合う音だった。
 エミヤは呆然とした。
 出会ったのはいつ?
 ――わからない。
 出会ったのはどこ?
 ――わからない。
 付き合うきっかけは?
 ――わからない。
 付き合ってからの思い出は?
 ――わからない。わからないわからないわからない。
 二人の思い出アルバムはまっさらで、シミひとつないことにエミヤは初めて気がついた。
クー・フーリンはどんな存在なのか。
 先程はあっさりと答えられたその問いがエミヤの心に深々と突き刺さる。
 クー・フーリンは……。
 ガチャリ、と控えめな音が帰宅を告げた。
 音を聞いてなお動けず固まっている間にクー・フーリンは静かに部屋に入ってきた。
「起きてたのか、ただいま。だいぶ体調がよくなったみたいだな。大丈夫か?」
 座ったままのエミヤの顔に両手を添えて顔を上向けると額を合わせてくる。一拍置いて離れていくクー・フーリンは柔らかな笑みを浮かべていたが、何故かそれは全く知らないものに見えた。
 エミヤは油の切れた機械のように手を持ち上げて彼の上着の裾を握りしめた。ようやっと絞り出した声は迷子のようなか弱い声。
「どういう、ことなんだ……?」
「どうした?」
 不安げな恋人の顔。それすらも知らない。きっと初めて見た。
「わからない、わからないんだ。君との思い出がひとつもない」
 言葉にするとその現実は重さを増して襲い掛かってくる。ぼろぼろと崩れた時間はすぐ背後まで迫っていて、昨日のことすらわからない。
 耐えきれずに視線を落としたエミヤはクー・フーリンの顔から表情が消えたことに気づかなかった。
「私たちはいつ出会った? どこへ出掛けた? どのくらい長く共にいる?」
 本当に何も知らなかった。どれだけ手を伸ばしても、伸ばした先には何もない。
 忘れたのではない。初めからなかったかのように何もないのだ。確かにあったはずなのに。
 エミヤがひとつの事実に手を伸ばそうとして、しかし暖かな体温がそれを止めた。
「大丈夫だエミヤ。大丈夫」
 耳元で優しく囁かれる声は麻薬のようだった。荒れ狂った頭を沈め、思考をも溶かしてゆく。
「風邪で本調子じゃないだけだ。疲れも、溜まってるだろうしな」
 ぎゅ、と更に力を込めて抱きしめられると、それだけでとろりと睡魔がやって来た。
 ああそうか、風邪と疲れのせいなのか。
 力を抜いて上半身を彼に預けると、外界から守るように抱き込まれる。ここだけが安心できる場所のように。
「寝て起きれば元通りだ。おやすみ、エミヤ」
 柔らかな声は抗うことを許さず、速やかに夢も見ない眠りへと引きずり込む。突き刺さった棘がちくりと痛んだが、それすらも呑み込まれてエミヤの意識は闇に閉ざされた。



 エミヤの風邪はそうたちの悪いものではなかったらしく、翌日にはすっかり快復して通常通り店に立った。
 風邪をひいた日の夜の記憶は靄がかかってはっきりとしないが、クー・フーリンは甘えてきて可愛かったなどとのたまったので、無理にこじ開けずに厳重に封をして奥底に沈めておくことにした。醜態は掘り起こさないに限る。
 そんなことよりも、とエミヤはソファに置いた尻をもぞもぞと動かして気まずさ、いや気恥ずかしさを紛らわせる。気にせず黙って本でも読んでいればいいのかもしれないが、足を柔らかく温める体温と、恋人曰くの幸せの重みが物語の世界に没頭することを許してくれない。ゆるく開いた足の間に陣取り膝に凭れ掛かっているのだから、エミヤが身動ぎしているのは当然気づいているはずだ。しかしながらクー・フーリンは目を閉じたまま反応しない。さらりと青糸をすくっても同じである。
 ふむ、とエミヤは軽く引っ張って彼の反応を見る。やはり反応しないことを確かめ、いそいそと手にした髪束を三つに分けた。右、左、右、とさくさく手を動かせばあっという間に三つ編みの完成である。それの毛先を器用に押さえたまま、もう一本同じく編んでエミヤは思案する。
 もう一本編みたいが押さえるのが難しい。すでに一本目が少し緩くなってしまった。やはりヘアゴムやピンがあったほうがやりやすいか。
 手が届く範囲にヘアゴムの代用になるものはないかときょろきょろしていると、足の間の体が震えていることに気がついた。ぎくり、と固まると震えはますます大きくなる。
「ッ、クー!」
 ぐんと足を閉じるととうとう彼はこらえきれずに声を出して笑い始めた。ビッと三つ編みを引っ張ってやると悲鳴を上げるが、笑い声が小さくなっただけで消えるには至らない。
「いやあんまり夢中だからよ。満足するまでどうだ?」
「結構だ」
 ぱっと手を放し、根本に指を差し込んで解く。引っかかることもなく指は滑り、解けた後は変にうねったりもしない。シャンプーやトリートメントのCMに出られるのでは、と思ったものの口には出さなかった。
「しっかしお前は髪伸ばさねーの?」
 編みはしないが手の中で意味なく髪をいじり回していると、見上げてきたクー・フーリンは唐突にそんなことを訊いてくる。エミヤは試しに髪を伸ばした自分というものを想像してみたが、すぐさま打ち消した。
「ないな。君のように綺麗に伸びないだろうし手入れも面倒だ」
「伸ばしてみないと綺麗に伸びるかどうかはわからねえだろ? それに俺のは喜々として手入れするんだから面倒ってことはないと思うけどなぁ」
「少しズレた例えだが君は自分だけのために毎日食事を作る気になるのか?」
「あー……、たしかに。その感覚と近いかもな」
 意味のないやりとりをぽんぽんと交わし、穏やかに笑い合う。何でもない時間がこの上なく愛おしい。
 幸せとはこういうことをいうのだろうか、と考え、チリッと何かが脳裏を掠める。けれど手を伸ばす気にはなれなかった。代わりに意識を股の間の恋人に向ける。
 すり、とエミヤの太腿に頬を寄せるクー・フーリンは視線に気がつくと流し目を寄越した。赤い目でそれをされるのは随分と心臓に悪い。思わず両目の上に手を置くと、彼はくつくつと笑ってその手を外した。
 彼が目を伏せて掌に唇を落とす。ちらりと覗く舌がエミヤを石像のようにしてしまう。ゆっくりと移動し、手首に到達すると甘い痛みとともにひとつの印が生まれる。
「愛してるぜ、エミヤ」
「ッ……ずるいな、君は」
 本当にずるい。自分の武器が何であるかをわかった上でこういうことをするのだから。おかげでエミヤはイチコロだ。
 エミヤはペチンと余った手でクー・フーリンの両目を覆い、肌の色でごまかしきれないそれを隠したのだった。



 なんだかここのところ引きこもっているような気がする。
 定位置のソファに座り、文庫本を広げたところでエミヤはふとそんなことを思った。そんなことはない、と異を唱える声が掻き消しにかかるが、それを無視して立ち上がった。家でゆっくりしたい気持ちが大きかったが、それでも何故か体は勝手に出掛ける準備を進めていく。
 まあ気分転換も大切だろう。結局は自分にそう言い聞かせ、決心が鈍らぬうちに家を出た。
 勇んで外に出てきたものの、明確な目的があったわけではない。
 あてもなくぶらぶらと歩き、途中本屋に入って表紙を眺めて回ってから電車に揺られて少し。パン屋のイートインスペースで焼きたてのエピと紅茶をお供に一息つく。どこへ行こう、と文明の利器と相談し、近場の美術館に決める。じっくりと時間をかけて見てから出てくると、昼食の時間は通り過ぎておやつの頃合いになっていた。
 やはり外出して正解だった。家で本を読んでいてはこの充実感は得られなかっただろう。思っていた以上に良い気分転換になったことに満足しつつ、せっかくだしこのまま遅めの昼ご飯を食べて、と思案しながら歩いていたエミヤは自分の名を呼ぶ声に足を止めた。
「クー?」
 恋人の名を口にし、いやいやと首を振る。恋人は夕方まで仕事だ。
 気のせいか、と歩き出そうとし、
「エミヤ!」
 肩を叩かれ驚いて振り返った。そこにいたのはクー・フーリン、ではなくキャスター。なるほど、咄嗟に間違えるわけである。
「一人だなんて珍しいな。もう一人はどうした?」
「クーなら仕事だ。私だって一人で外出するさ」
 白衣を脱いだキャスターはクー・フーリンと瓜二つで親しい人間でも咄嗟に見分けがつけられない。そのためかどうかはわからないが、キャスターが好んで着る服はランサーが選ばないようなものばかりだった。
 今も体の線を隠すような服装で、おまけにマフラーが口元を覆っている。
「そういう君こそ今日は仕事ではなかったのか?」
 当然のように隣に並ぶキャスターと揃って歩きながらエミヤはふと尋ねる。が、彼の返事はあっさりとしたもので、休診日だと一言。
 休診日は今日だっただろうか。疑問が頭をもたげるが、当然キャスターのほうが詳しいに決まっている。エミヤはそうかと頷いておくにとどめた。
 賑やかな大通りを無言で歩く。二人の空気はその賑やかさが含む雰囲気からは程遠く。
 細い糸が両端からキリキリと引かれているような。一歩、一歩と進むたびに少しずつ手繰られて、やがてピンと張って。
 大通りから逸れた道に入る。少し進むだけで静寂が緩やかに辺りを満たす。
 キャスターが三歩前に出た。踵を返し、立ち止まる。赤い目に貫かれてエミヤの足も動きを止めた。
 一拍。糸は限界まで張り詰める。
「お前にとってのクー・フーリンは、優しいだけの男なのか?」
 彼の口から零れた問いは鋭く記憶を引っ掻いた。
 その問いを知っている、はずだ。しかしそれはどこで。どこにも。
『クー・フーリンは貴様にとって、どんな男だ』
 瞬間、声が重なって、糸が切れた音をとらえた気がした。
 奥底に沈めた箱の封が弾け飛び、中身がぶちまけられる。怒涛の勢いで流れ出る、知らないはずの記憶。勢いに、量に、内容に、頭が爆ぜてしまいそうだ。
 ぐらぐらと地面が揺れる。立っていられず崩れる体は力強い手に支えられた。
「おい、まだ意識を飛ばすなよ。ほら、ちっと足動かせ」
 冷静さを失わない声は荒波で転覆しそうな小舟を導く強さを持っていた。エミヤは荒れ狂う思考に目眩を起こしながらも、なんとか足を引きずって進む。カラン、と音がした。何処かに入ったようだ、とかろうじてわかった。
「ああ、大丈夫だ。ちょっと気分が悪くなったみたいでな。奥の席借りていいか? それとコーヒーと今日のハーブティーを頼む」
 嫌になるほど長く感じた距離を歩き、ようやくどこかに腰を下ろす。ファミレスなんかでよく見かける壁際席のソファだった。ぐらぐらする視界に耐えかねテーブルに伏せるとキャスターが肩を揺らしてくる。
「ほら、目に当てれば楽になるだろ」
 差し出されたのは濡れたタオルだった。ホットタオルかと思いきや冷たい。エミヤはありがたく受け取って広げ、目と額にあてがった。

 しばらくして飲み物が運ばれてくる頃には、目眩は治まり頭痛もだいぶマシになっていた。エミヤの前に出てきたのはカモミールティーでたちのぼる香りがトゲトゲした気持ちを和らげてくれる。
 心を鎮め、キャスターを見据える。彼はただ静かにエミヤを見つめていた。
「あの声は君だったのか?」
 あの声。水の底にいたエミヤを見つけ出し、話しかけてきた蛍のような光。キャスターはまあな、と首肯した。
「■■■■よりは細かいことに適性があってな」
「……? 今なんて言ったんだ? よく聞こえなかった」
「……やはり簡単にルールは曲げられんか。追い出されないだけマシだが」
 一瞬遠くなったキャスターの声を聞き返すと、彼は難しい顔で一人納得する。
「俺じゃ因果が足りんらしくてな、ルールの中で動くことしかできん。アイツならもしや強引に引っこ抜くこともできたろうが……こういう芸当は不得手だ。うまくいかないもんさ」
 立ち位置を取られていることも大きいだろうがな、と続けるキャスターの言葉をエミヤは半分も理解できない。異国の言語を聞いているかのようだ。
「意味がわからない。わかるように説明してほしいのだが」
「悪いな、ここはルールに強く縛られるから詳しく説明できねぇんだ。特に俺は誤魔化して無理に介入した部外者でね、些細なことで弾き出されちまう。ただもう慎重に進めていく時間の余裕もない」
 弁明もやはりエミヤには理解できない。説明できないという事実しか頭に入ってこなかった。
 治まった頭痛が再発してしまいそうだ。エミヤが眉を寄せるとキャスターは一度言葉を切った。
「今夜だ」
「何がだ」
「今夜、お前の疑問に少し答えてやる。夢の中でな。ただし一度きり、これ以降はおそらく答えてやれんだろう。忘れるなよ」
 キャスターは立ち上がる。いつの間に彼の前のコーヒーカップは空になっていた。
「今夜は一人で寝ろよ。お代はここのコーヒーでかまわん。じゃあな、■■■■■」
 聞き取れない何かを最後にキャスターは去ってゆく。後には冷めたハーブティーと困惑から抜け出せないエミヤが残された。


 普段からダブルベッドで寝ているエミヤにとって「一人で寝る」というのはなかなか難しい。まさか事情を素直に話すわけにもいくまい。散々悩み、結局はクー・フーリンが寝入ってから起き出しソファで寝ることにした。今の季節、ソファで寝るには少々寒いができないこともない。
 何食わぬ顔で共に食事をし、クー・フーリンが風呂に入っている間にソファの後ろにブランケットを隠した。これで準備は完了だ。ソファの後ろなんてそう見る場所でもないので見つからない、はずだ。
 そして寝る時間になって共にベッドに入り、彼の寝息が深く穏やかになったところでもぞもぞと寝返りをうつ。それでも変わらない呼吸を確認して、エミヤは静かにベッドを出た。
 ソファに座ると昼間のキャスターの姿が蘇る。素直に一人で寝ようとしているが、そもそも人の夢の中に出てきて、なおかつ好き勝手できるのだろうか。できるわけもない。
 けれど、エミヤは素直に彼の言に従っている。
「まあ、出てこなくとも困ることはないな」
 夢を見なければそれはそれでいい。エミヤは無理に自分を納得させるとブランケットを被って目を閉じた。



 そこは知らない世界だった。
 真っ暗な水底ではない。
 無機質な、しかし明るい、どこかの廊下。
 カリカリと思考が絶えず引っ掻かれる。
 この場所を知っている? けれど記憶の中にはない。
 ザザッと画面が乱れるように世界が歪み、次の瞬間にはひとつの部屋の中。立ち位置は言うならば監視カメラといったところか。明らかに自分はそこに存在していない。
 部屋の中には人が数人立っている。黒髪の少年と、ピンクの髪の男、美人な女性。そして青い髪の男が二人。現実でもよく見る、けれど服装はまるで違う。
 そんな者たちがベッドを囲んで何か話しているようだが、音は全く聞こえない。映像だけの映画はこうなのだろうか、とぼんやり思う。しかしそれでも深刻な空気だけは伝わってきた。
 その中でも青髪で浅葱色のフードを被った男――姿が違えどきっとキャスターなのだろう、と何故か即座に理解できた――は目を閉じ、手をベッドに伸ばし集中している。
 腕が伸びる先、手が触れるのは。
 白い、灰のような髪。それの持ち主は、灼けた褐色の。鋼色は閉ざされて、
「……私?」
 見慣れない服装だが、それは紛れもなく――。

「そこまでだ」

 腹の底を冷やす声が世界に響いた。
 ぐん、と体が抗えない力で外側に引っ張られる。
 世界から弾き出される。
 ずぐん、と胸が痛み、次の瞬間世界は闇に沈んで消えた。

Comments

  • ちりころ
    February 11, 2018
  • そー
    February 10, 2018
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