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Supper? Or Lunch?/Novel by 都築青葉

Supper? Or Lunch?

15,761 character(s)31 mins

夕食か昼食か、それが問題だ。

今回は仮面ファイター成分少なめ、ご飯成分多め。

何やら慌ただしく過ごしている内に2月が終わりかけていました。
その割にはちっとも春の近さを感じられないんですけども。

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 9月5日月曜日。彼は電話で言っていた通り、14時30分ちょうどに店へやってきた。

「いらっしゃいませ」

 店へ入ってきた彼に、にこやかに応対するのもおかしかろうと、先日と変わらないぶっきらぼうさで声を掛ける。彼は今回も気にする様子もなく足取り軽く入ってきて、客の居ない店内をぐるりと見回してから、先日と同じく一番奥のカウンター席へ座った。

「すまねぇな店長サン、遅い時間に」
「ランチの時間からは外れているが、営業時間内だ。さして問題はない」

 平日のこの時間帯は元々客入りも然程多くない。有名俳優である彼が、プライベートで正体がバレることを厭い、他の客が少ないこの時間を狙って店へ来ること自体はそう不思議でもない。不思議なのは、わざわざ電話予約をしてまでこの店に来たことだ。彼がこの近辺に住んでいるという話を聞いたことはないし、先日は出先で偶然見つけたこの店に入っただけなのだと思っていたのだが。
 私は料理人としての己の能力を卑下する気はない。店を持つに足る腕を持ち、オーナーからの信頼を得てここに立っているという自負がある。
 けれど、都内には数多くの名店がある。多忙な彼がわざわざ都心部からやや遠いこの店へ足を運ぶだけの理由があるとは思えない。思いの外、先日のオムライスを気に入った? もしくはカスタードプリンが好物とのことだったので、ブランマンジェが気に入った? いやしかし、それだけでわざわざここまで来るだろうか?
 向けてしまった訝しげな視線に気付くこともなく、彼はペラペラとメニューをめくっている。

「……じゃあ今日は茄子とベーコンのトマトソースパスタ特盛で。ドリンクはウーロン茶アイス、食事と一緒に。あと、食後に梨のシャーベット」
「了解した」

 オムライスではなかった。ついでに言うとデザートもプリン系ではなかった。何故だ。
 だが、あれだけ無礼な応対をしておいて、「実は仮面ファイターランサーのファンで君のこともよく存じ上げているのだが、何故またこの店に来てくれたのだろうか?」などと聞く訳にもいくまい。ここに居る彼は俳優クー・フーリンではなく一個人としてのクー・フーリン。
 他の客と平等に、詮索するような真似などしてはいけない。
 調理をしながら、それにしても彼はトマトが苦手なのではなかっただろうか? と思い至った。だが、彼がメニュー表から自分で選んだ品なのだから、それを指摘するのはどう考えても要らぬ世話であろう。
 求められたことに応じるだけならば然程しくじりはしないのに、自発的に何かしようとするといつもしくじるのだから大人しくしていれば良いのだと、分かってはいるのだが。
 悶々としながら出した本日のセットサラダを、彼が軽く食べ進めるのを視界の端に入れつつ、手を進めていく。しっかりとした歯応えを感じるようベーコンは一cm角に。食べ応えがあるよう茄子は一口大の乱切りに。ベーコンとニンニクの香りを立ち上らせながら炒めていると、彼が「すげぇ腹減ってきた……」と眉をへにゃりと曲げてみせた。
 何だ今の顔は、矢鱈と心臓に悪い。
 予め作っておいた刻みタマネギやニンニク、オレガノを入れたトマトソースと具材を合わせて味を調え、茹でたスパゲッティーニと絡ませれば完成だ。
 出来上がったトマトパスタを「どうぞ」と彼の前に置くと、彼は嬉しそうに微笑んで手を合わせてからフォークとスプーンを手に取った。意外と綺麗な所作でスプーンを駆使し、トマトソースをよく絡ませながらフォークへと大量に麺を巻き付けていく。
 彼の口が大きく開く様は前回も見ていたが、流石に巻き過ぎでは、とまた要らぬ世話が頭に浮かぶ。そんな私の予想など軽々と超えて、彼は大きく口を開けてパスタを口いっぱいに迎え入れた。もぐもぐと咀嚼(そしやく)して、赤い眼を嬉しげに細める。
 この笑顔を見ていると、彼に対するあらゆる疑念が阿呆らしくなってくる。
 彼の思惑など、こうして彼が美味そうに食べてくれること以上に大事なのだろうか?
 愚かなことを考えながら彼が食べる様を見ていると、彼が不意にパスタから顔を上げてニカニカと笑った。

「オレ、トマトってあんまり得意じゃねぇんだけどよ。これは美味ぇな」
「……そうかね」

 今日もろくな返事を言えずに頷くばかりである。特盛パスタが見る見るうちに消えていく様子を眺めながら、小さく息を吐くことしかできなかった。
 食べ終えた口の周りが所々赤くなっているのに気付き、新しいおしぼりを出すと、彼は何故か訝しげな顔をした。

「あんた、誰にでもこうなのか?」
「こう、とは?」
「……いや、何でもねぇ」

 彼は首を横に振っておしぼりを受け取り、口周りを拭った。何かおかしかっただろうか?
 その後、梨のシャーベットも満足げに食べ終えて、彼は機嫌良く「ごちそうさん!」と手を合わせた。

「ホント、何食っても美味いな」
「それはどうも」
「言っとくが、世辞じゃねぇぞ」

 私の返事があまりに簡素だったからか、彼はムッと唇を尖らせて見せる。君が世辞など言う性分ではないことは知っているし、君が私などに世辞を言う謂(いわ)れがないのは重々承知している。
 頷いた私に彼はむうと小さく唸ったが、結局それ以上は何も言わずに席を立った。

「チップは不要だ」

 レジ前で彼が財布を出すのに先んじてそう言うと、彼は眉を妙な形に曲げて唸った。

「迷惑だったか」
「そうは言っていない。だが、君はまだ年若いだろう。何を思ったか知らないが、あのように多額のチップを出すよりも他に使うべき所があるだろうと思ったまでだ」

 今度は赤い眼を真ん丸にして、彼は「はぁ?」と小さく声を零した。
 彼の若さを侮っているとも取れる発言だが、またしてもチップをもらう訳にはいかない。売れっ子俳優の彼としては大した額ではないのかも知れないが、こちらからすると一食のランチに対してあまりにも額が大き過ぎた。心臓に悪い。

「年若いって……。あんた、オレと大して変わらねぇくらいの年じゃねぇの」
「君は大学生、もしくは大学を出て間もない年の頃と見たが。私は三十路に近いぞ」

 正確には、彼が23歳で私が29歳なので、6歳違いである。大学近くにある店なのだから、彼を大学生と見るのは至って自然な発想だと思うのだが、彼は口元を押さえて何やら考え込んでいる。
 矢張り無礼であったか、と様子を窺っていると、彼は指先で頬を掻いた。

「金については心配要らねぇよ。会社員って訳じゃねぇけど、真っ当な手段で稼いでる」

 そんなことまで疑っているように見えたのだろうか……。
 だが、こうなってしまってはこのまま彼の職業について白を切り通すしかあるまい。

「君がどんな職に就いていようが私の知ったことではないが、金銭の使い途はよく考えることだ。余計な世話だろうがな」

 一介のファンとして、彼が金銭関係で身を持ち崩すことがないようにと願うのは当然のことだろう。……いや、矢張りこれは全く以て余計な世話である。

「変なこと言う店長サンだな、あんた」

 彼は鷹揚に頷いて、小さく笑みを浮かべた。寛容過ぎるのでは?

「分かったよ、これからはチップなしにする」

 財布からちょうどの額を出した彼に、安心したのも束の間。
 今、『これからは』と言ったか?

「じゃあな、また来るぜ」

 彼の発言を上手く脳内処理できない私を一人置いて、彼は店から出て行ってしまった。

 結局、その日の夜になっても脳内処理は終わらなかった。
 今更ながら確認のため、仮面ファイターランサー第一回『天理人道! サダメの変身』を見直したが、矢張り昼間の男はクー・フーリンで間違いなかった。






 9月27日火曜日。先週は9月初旬の暑さなど忘れたかのように雨が降り続き気温も下がっていたのだが、今週は晴れ間が覗き、今日などは30度近くまで気温が上がっていた模様であった。とは言え、夜ともなると暑さも和らぎ、秋を感じさせる時期になってきた。
 時刻は21時20分。21時頃までは、夏休みが終わろうとしている学生達が小さく騒ぎながら酒を飲んでいたが、先ほど会計をして出て行ったので、店の中は静かなものである。
 唯一音を出しているテレビはバラエティ番組を流していて、来月から始まる恋愛ドラマの番宣のために、クー・フーリンが出演している。
 テレビを横目に見ながら、今日はもうこれで店仕舞いだろうか、と考えていた矢先に、店の電話が鳴った。

「お電話ありがとうございます。Cafe SOLでございます」
[あ、店長サン?]

 一声で彼だと分かったが、今まで一度も聞いていないのだから、名を呼ぶ訳にもいかない。迷ってから、誰でも印象に残りやすいであろう外見的特徴のみを挙げる。

「青い髪に赤い眼の、君か」
[あ? ああ、そうそう。今店の近くまで来てんだけど、まだやってるか?]
「ああ、22時までは営業している」
[他に客は?]
「居ないが」
[よっしゃ、じゃあ5分くらいで行く]
「……ああ、お待ちしている」

 電話を切ってからふとテレビを見ると、ちょうど画面内のクー・フーリンがにこやかにコメントをしているところだったので、即座に別のチャンネルへ切り替えた。
 5分も経たない内に店へとやってきた彼は、私が「いらっしゃいませ」と言うと、「おう、今日も悪いな店長サン」と軽く手を挙げて返した。先日と同じく一番奥のカウンター席へ座り、メニュー表をペラペラとめくるのだが。

「やっぱ、結構昼と夜でメニュー違うんだな」
「ランチメニューの方が好みかね」
「いや、そうじゃなくてな。夜のも美味そうなのばっかだから困ってんだよ」

 彼は苦笑しながら、本日のおすすめのページで手を止めた。

「茄子と鶏ササミのポン酢和え、イカときのこのアヒージョ、イワシのトマト煮。以上で」

 ライスなどは不要なのか、と問おうとしたのだが、それよりも早く彼の口が開いた。

「あと生中」
「……了解した」

 仮面ファイターランサー開始時は19歳だった彼だが、現在は23歳。当然酒が飲める年齢であることは分かっていたのに、何となくショックを感じている自分がいた。
 そんな私の脳内など知る由もない彼は、私が手渡した生ビール中ジョッキを嬉しげに受け取り、ごくごくと喉を鳴らしながら4分の1ほどをあっと言う間に飲んで満足げな息を吐いた。
 清々しいまでの飲みっぷりに感嘆していたいのは山々だが、料理の手を次々と進めなくては先にビールが消えてしまいそうだ。ビールの合間にお通しのカボチャサラダを食べながら、そう言えば、と彼が切り出してきた。

「先々週くらいにも店に電話したんだが誰も出なくてよ。休みだったのか?」
「先々週……」

 その頃と言えば、臨時休業を設け、仮面ファイター好きの知人数人で別荘に集まり、料理番として腕を振るっていた辺りであろうか。二泊三日で、旅費は別荘を所有している知人持ち。更には別の知人が手配した最高級食材を使って好きに腕を振るって良いという好条件。
 全員推しのファイターが異なるので、それぞれがブルーレイもしくはDVDBOXを持ち寄って熱いプレゼン大会。最終的には酒も入ってどんちゃん騒ぎ――。という、一年に一度の大盤振る舞い会だったのだが。
 決して彼にバラす訳にはいかない。私が会へ持って行ったのは当然、仮面ファイターランサーブルーレイBOX全12巻だったのだから。仮面ファイターランサーの素晴らしさについて小一時間ほど力説してきたのだから。

「ああ、9月は近隣の大学が休みなのでな。遅い盆休みのようなものを取っていた」
「盆休みってことは、地元帰ってたのか?」
「……そんなところだ」

 彼の顔を見ていられず、目を伏せる。地元には、この店ができる少し前に帰ったきりなので、かれこれ二年半近く帰っていない。そんなに遠い訳でもないのだが。

「へぇ……」

 彼はそう呟いたきり、何か考えている様子で黙り込んだ。今の話の中に、何か不審な点でもあっただろうか。
 それはさておき茄子と鶏ササミのポン酢和えを出すと、彼はパッと顔を上げて箸を割った。
 すんと鼻を鳴らしてから、綺麗な所作で箸を使う。一口食べて、彼は少しだけ首を傾げた。

「ゴマ油?」

 ああ、鼻を鳴らしていたのはそのためだったか。その通りだと頷くと、彼はまた微笑みながら箸を進めていった。
 その後ビールを二杯、ツマミを二品追加して、結局彼が帰ったのは二十二時三十分頃だった。



 



 10月7日金曜日。昨日は30度超えの暑さだったが、今日は最高でも25度前後の、何とも過ごしやすい秋晴れの日である。
 突然彼から電話が掛かってきて予約を受けるのも、三回目ともなると何とか心が慣れてきた。
 今日も客が居ない14時30分頃にやってきて、いつも通りに一番奥のカウンター席に座った彼は、珍しくメニュー表を見てしばらく唸っていた。本日のランチメニューの、日替わりランチのタンドリーチキンと、鮭のクリームソースパスタの文字の上を指が何度も彷徨う。いっそのこと両方中盛で注文してはどうか、と提案する前に、彼は意を決したらしく、パッと顔を上げて真っ直ぐに私の目を見た。

「日替わりランチライス大盛! それから食後に、ホットコーヒーとイチジクのタルト!」

 苦渋の決断だったのだろう。グッと眉間に皺を寄せている。
 予め来る日が分かっていれば、もう少し融通のしようもあるのだが。……いや違う、平等でなくては。他の客にはしないサービスまで、彼にしてはならない。個人的な感情でそれをやってしまっては、オーナーに申し訳が立たないではないか。
 迷った末に選ばれたタンドリーチキンは無事に彼のお気に召したようで、「何だこれ、鶏すげぇ柔っこいな」だの「あんたが作ったカレー味のもん全部好きだわ」やらと言って赤い眼を細めながら嬉しげに食べていた。食後のイチジクのタルトも「すげぇサクサクしてる、カスタードも甘過ぎねぇし」と言って、瞬く間に平らげてしまった。
 今日は時間があるのか、ゆっくりとコーヒーを飲んでいたのだが。ふと何かに気付いたような顔をして店の入口に視線をやった後、向き直って私を見た。

「そういやぁよ、店長サン。前から聞きたかったんだが」

 何を探ろうとしているのやら、赤い眼が真っ直ぐに私を見据える。動揺が透けて見えぬよう、小さく一つ息を吐いてから声を出す。

「何かね」
「この店の名前、『SOL』っつうのはどういう意味なんだ?」

 ……ついにこれを問われる日が来たか。
 『仮面ファイターランサー』に登場する、ランサーを陰ながらサポートする秘密組織『Support Of Lancer』通称『SOL』から取ったものである。開店するに当たってあらゆる条件をオーナーの要望通りにした店であるが、これだけは私の要望で決めたものだ。
 オーナーから「これなら元ネタが特撮だとは分かりにくいから、良しとしましょう」とOKをもらった名称である。
 とは言え蛇の道は蛇。現在この店で月に一度特撮会をやっている知人の大半は、この店名に釣られて来店した者達だ。
 当然、主演である彼からも、いつかは問われるものと覚悟していた。
 だが、彼に白状する訳にもいくまい。お互いの安寧のために、このまま隠し通さなくては。

「音階のソの音をイタリア・フランス式で表記すると『SOL』という綴りになる」

 私の言葉が予想外だったのだろう、彼は「は?」と声を漏らし、赤い眼を真ん丸に見開いて驚いている。このまま空っ惚けてて押し切るしかない。

「どうしたのだその顔は。まさか分からないのかねソの音が? 日本式ではハニホヘトイロハのト。英米式ではCDEFGABのG。かの有名な家庭教師女史が青い空と……いや、これは日本語訳詞版の話か。ともかく、『SOL』というのはソの音を意味する」

 決して嘘は言っていない。店名を決める際に『SOL』という単語に妙な意味がないかと調べに調べた内容そのままである。だからどうした、という話なのだが。
 彼は私の斜め上の回答に対し、ふむと唸ってからこう問うてきた。

「実は店長サン、料理人になる前は歌手志望だった、とか?」
「いや、そうではないのだが」

 歌手よりも君に近い辺りを志望していたことはあったが。それこそ、店名の由来以上に知られる訳にはいかない話だ。……口にしてから、嘘になろうと肯定しておいた方が、面倒が少なかったであろうことに気がついた。どうやら自分は、彼の前であまり嘘を吐きたくないらしい。隠し事をしている時点で、嘘を吐いているのと大差ないだろうに。

「違うのか? あんた、良い声なのに」

 彼があっけらかんと言った言葉に、一瞬ビクリと体が跳ねる。

「あれ、もしかしてあんまり自覚なかったのか? 低くて深くて……ちょいと苦くて、どっか甘くてよ。でもしつこくねぇ感じ」

 不意に、酷く喉が渇いた。彼に他意などないと分かっているのに、あの人の言葉を思い出してしまう。忘れてしまうべきだと、自分でも分かっているのに。

「……菓子の、ようだな」

 やっと捻り出した返事は大した面白みもなかったのだが、彼はクスリと声を漏らして笑った。

「菓子っつうよりは、あんたそのものって感じだけどな」
「は……?」

 今度は私の方が目を丸くする番だった。どういう意味なのだ、それは。
 彼はヒラヒラと手を振って「分かんねぇならいいさ」と言って席を立った。
 彼はそれ以上何も言わず、さらりと会計を終えて立ち去った。
 彼が店を出てすぐ、足を縺れさせながら厨房へと戻った。縋るように蛇口へ飛び付いてコップ一杯の水を飲み干す。冷たい水が臓腑を滑り落ちていく感覚で、どうにか落ち着くことができたが。一体、何だったのだろうか……。






 10月20日木曜日。昼間は28度近かった気温は、夕方ともなると落ち着き、何とも秋らしい日和である。
 今夜は毎月第三木曜日にこの店で催している、知人との特撮会――と言っても、知人の一人が延々とマイクを持って歴代仮面ファイター主題歌を歌い続け、他の知人達はそれを聞いているのやらいないのやらという顔で、私の料理をつまみながら延々と特撮談義に花を咲かせるという、まとまりがあるようなないような会なのだが――の日だ。
 19時からの開催が定例なのだが、17時前の今、気の早い知人が既にやってきてカウンター席に座っている。えらく難しい顔をしながら、カタカタと音を立ててモバイルPCに何やら打ち込んでいるのがこの知人の常だ。ふと顔を上げたかと思えば、口から出てくる言葉は「カフェインと糖分を寄越せ」のみなので、こちらも本日のデザートの中から彼が好みそうなものを適当に選んでコーヒーと共に無言で出す。
 今日のデザートから選んだのはスイートポテト。滑らかな舌触りが自慢の一品だ。
 チラリと一瞥してから右手はキーボードを打ち続けたまま、左手で軽く手に取った。然程大きな口でもないのに、たったの三口で完食してしまった。どうやら、手が離せないほど筆が乗っているらしい。普段ならば流石に一旦手を止めて、菓子を食べ終えてからまたキーボードへ向かうのだが。
 最初の頃は何度か注意したこともあったが、何度言っても聞かぬので諦めるより他なかった。他の知人は傍でその様子を見て「揃いも揃って融通の利かぬ頑固者共めが!」と言って何故か大声で笑っていたが。
 左手をおしぼりで雑に拭ってからコーヒーを啜り始めた知人を見て一つ息を吐く間に、店の電話が鳴った。

「お電話ありがとうございます。Cafe SOLでございます」
[よう、店長サン。今日、これから行っても大丈夫か?]

 いつもと変わらぬ調子で彼の声が流れてくるが。ちっとも大丈夫ではない。今カウンター席に居る知人は、推しは違えど仮面ファイター好き。恐らく私と同じで、声を聞くだけで彼がクー・フーリンだと気付いてしまうだろう。騒ぎになるのは避けねば。忍びないが、断るしかあるまい。

「今夜は貸切で、今もその準備をしているのでな。応対はできない」
[ちょっとだけでも駄目か?]

 クッ……! そのように残念そうな声を出されても無駄……。

[どうしても、あんたの飯が食いてぇんだけどよ]

 電話口から流れてきた言葉に何とも返せず、沈黙すること約10秒。

「サンドウィッチのテイクアウトはどうだ。夕飯とするには少々物足りないかも知れないが、これならば準備できる」
[おう、食いてぇ! メニューに載ってるの見て、前から気になってたんだよな!]

 返答を捻り出した私に対し、先ほどと打って変わって明るく転じた彼の声に、もしや演技だったのかと頭を抱える。だが、撤回する訳にもいくまい。

「カツサンド、パストラミビーフのサンド、サーモンとクリームチーズのサンド、たまごサンド、季節の野菜サンドなどがあるが」
[あー……どれも食いてぇけど……。パストラミってアレか? 肉の周りに黒胡椒がびっちりくっついてるヤツか?]
「ああ、そうだ」

 正確には黒胡椒だけでなく様々なスパイスが混ぜ込まれているのだが、それを指摘するほどの気力がない。先ほどの彼の発言が未だに尾を引いている。

[じゃあそれと、サーモンとクリームチーズのサンドと、野菜サンド一人前ずつ!]
「了解した……と言いたいところだが。君一人でそんなに食べるのか?」
[だって昼食ってねぇから腹減ってんだもんよ]

 彼が事も無げに言った言葉に、思わず耳を疑う。

「な……何を言っているのだ君は! もう17時だぞ他の店へ入るなりコンビニで購入するなりすれば良かっただろうが!」

 店長としてはあるまじき発言かも知れないが、人間としては正しい判断だろう。万が一にでも倒れたらどうするつもりだ……。
 そんな私のお節介な内心など、彼に伝わるはずもなく。

[言っただろ、あんたの飯が食いてぇんだって。そういう気分だっただけだ]

 彼のちょっと拗ねたような声が聞こえた瞬間に、喉から妙な唸り声が飛び出しそうになったが、必死に押し留める。

「褒め言葉として受け取っておく」

 私の押し殺した声をどう受け取ったのか、彼は電話の向こうで困ったような声音を出した。

[……怒ってんのか?]
「怒ってはいないさ」

 ただ、私が勝手に心配していただけだ。君が、かつてランサーを演じていた強い男が、自分の所為で倒れてしまうのが嫌だから。

「とにかく、先ほどのオーダー通りにサンドウィッチを作っておく。15分ほど時間を潰してから来たまえ」
[おう! 楽しみにしてるぜ!]

 彼の返事を聞いてから切れた電話を置くと、何やらドッと疲れた。いや、グッタリしている暇などないのだ、彼が来る前にサンドウィッチ三人前を作り上げなくては……。
 その時ようやく、己へ向けられている視線を感じた。この場に居るのは当然、先ほどからカウンター席に座っている知人のみである。キーボードを叩いていた手は止まり、何故か私を凝視している。

「どうした? いつぞやのように、第一回と新フォーム登場回と馬鹿ギャグ回と味方の死亡回と最終回を一遍に見たような顔をしているぞ」

 そう言えば、彼が二度目に来店する前、初めてこの店に電話を掛けてきた後に私の顔面の奇妙さを指摘してきたのはこの知人だった。聡い男だ、あまり迂闊に話しては気付かれかねない。

「なに、少々厄介な客がテイクアウトを依頼してきただけだ」
「『厄介な客』なぁ……?」

 知人は私の言葉に何か引っかかりを覚えたようだが、私は気にせず手を動かし始めた。
 彼を店内へ入れず知人と鉢合わせさせないためには、早々にサンドウィッチを完成させて、入口で待ち構えるのが最善策だろう。手早く済ませねば。






 10月24日月曜日。昼間は最高気温でも19度。曇りが多く、寒さも増す頃となってきたが、今日は一日晴天であった。
 先日――彼がサンドウィッチをテイクアウトして行った日は、無事知人にバレることなくサンドウィッチを渡すことに成功したものの、どうやらその後も上の空だったらしく、知人に『厄介な客』について問われては何とかはぐらかし、その日の特撮会をやり過ごしたのだった。
 受け取る際に彼は「ありがとうな!」と言って笑っていたが、彼が私の料理を目の前で食べないことなど初めてなので、どうにも気になってしまったのだ。
 名称だけでどのサンドウィッチにするか決めたが、気に入らないものはなかっただろうか? 彼は大丈夫だと言っていたが、矢張り三人前は多過ぎたのではなかろうか?
 とは言え、それを確かめる術などなく。彼がもう一度来店するのを落ち着かない気持ちで待つことしか、私にできることはないのだ。……彼がいつ来るとも知れぬのに。
 そんなことをつらつらと考えているが、20時過ぎの今、店内には女子大生の四人連れが一組、二人連れが一組、男女のペアが一組、夕食を食べている最中だ。酒を嗜んでいる席もあるので、追加オーダーが入るやも知れぬ。こうして厨房に立っているからには、そうそう気を抜いていてはいけないのだ。
 そんなとき、店の電話が鳴った。もしやという気持ちとまさかという気持ちを綯い交ぜにしながらも電話を取り、いつも通りの挨拶を。

「お電話ありがとうございます。Cafe SOLでございます」
[よう、店長サン。今日あと5分くらいで店行っても良いか?]
「……は」

 彼が発した言葉に、反応できない。

「今日は、他に客が居るが」
[ん? ……そりゃそうだろ。つーかいくら平日でも、この時間に客が居ない訳ねぇだろうさあんたの腕なら]

 料理の腕を褒められた、のか……? いや、今それは問題ではない。それよりも問題なのは、彼が他に客が居るのを構わないと言っていることだ。
 どういうことだ? 彼が必ず来店前に電話を掛けてくるのは、無用の混乱を避けるべく、人が居ない時間に来店するためだと思っていたが。客が居る頃合いだということを承知の上で来店しようとは、一体何事だ?
 分からない。だが、流石に彼とて考えなしではないのだろう。

「……了解した」
[おう、じゃあまた後でな!]

 その電話を切った後、店内へ入ってすぐの所に置いてあるマガジンラック、そこにあるテレビ雑誌の表紙がクー・フーリンであることを思い出した。これを見られては、流石に彼を知らないと言い張るのは難しかろう。
 店内の客に不自然がられないよう、マガジンラックを整理するフリをしながらテレビ雑誌を引き抜く。そんなにコソコソせずとも、それぞれお喋りや目の前の料理に夢中なので、わざわざ私に注目する者など居なかったが。
 本当に約5分後、彼は店へとやってきた。他の客も居る手前だろう、いつもならばカウンター席へ座ってすぐに外すサングラスとキャップは、流石に被ったままにしている。
 彼を知らないことにしているのだから、夜間に店内でサングラスとキャップを着用したままであることを不審に思う素振りを見せた方が良いのだろうか? いや、しかしそれを指摘してしまっては彼が困るだろうから、特に触れない方が良いのだろうか?
 妙にそわそわしてしまう内心を落ち着けるべく、手をしまい込むように腕組みをする。そんな私を見て彼は何か言いたげにしていたが、サングラス越しではいつも以上に分からなかった。
 ディナーメニューをあちらこちらとめくった彼は、結局また本日のおすすめのページで手を止めた。いつもよりやや小さな声で、メニュー表を私へ見せながら問うてくる。

「秋鮭の……リエット? って何だ?」
「本来はフランス料理の一品で、豚肉や鶏肉、ウサギの肉などを脂肪と共に煮溶かした保存食だが、この秋鮭のリエットは鮭とクリームチーズ、白ワインなどをフードプロセッサーで混ぜ合わせてペースト状にしたものだ。バゲットに塗って食べる」
「へぇ?」

 どうやら、聞いたことのない品だったらしい。首を傾げながらも、期待に唇を緩ませている。

「じゃあそれと、鶏の山椒焼き、たっぷりきのこのバターソテー。それと生中な」
「了解した」

 彼が、最初の生中と共にお通しとして出した柿のドレッシングサラダを食べている間に、4人連れの女子大生達が会計に立つ。少しヒヤリとしたが、カウンター席は目に入らなかったようで、彼に気付かれることはなかった。
 続いて、軽くトーストしたバゲットを添えた秋鮭のリエットを出す。先ほど説明したものの、出されたサーモンピンク色のクリームに、彼は赤い眼を丸くした。「はーん、こういうのか」と声を上げてから、早速リエットをたっぷりとバゲットに塗った。
 ガリッバリッと音を立てながら齧り付き、いつもよりゆっくりと咀嚼してからニマリと笑う。

「美味ぇ。初めて食ったが……これ、何つぅんだろうな。すげぇ鮭の味がすんだけど、生臭くはねぇっつうか。ビールよりはワインの方が合うんかね?」

 君、食レポは苦手なのだろう……。と言いかけたが、すんでの所で推し留めた。一般人は食レポなどしない。
 彼は嬉しげに食べるだけで絵になるので、その手の仕事が来ても然程困らないのだろうし。
 未知の食べ物を楽しむ様子を見ていたいのも山々だが、私にも他に仕事がある。先ほど退店した女子大生達の席を片付けている間に、次は男女のペアが席を立った。
 会計を終えて戻ると、ジョッキの中身は残り少なくなっていた。

「この鮭のヤツももちろん美味いんだがよ、バゲットも美味ぇ」

 ニマニマと笑いながら、彼はまた一つバゲットを完食する。5つ出したはずのバゲットだが、いつの間にやら残りはあと一つしかない。
 生中を飲み終えた彼がもう一杯追加してから、ふと首を傾げてこう問うてきた。

「バゲットっつったらよ、この間のサンドウィッチ滅茶苦茶美味かった。中身ももちろんだけど、パンもふわふわでよ。流石に、パンまでここで焼いてるんじゃねぇんだよな?」
「いや、お隣の『ベーカリーヴィクトリア』のものだ。サンドウィッチ用のパンだけでなく、このバゲットや日替わりランチのパンなど、この店で使っているパンは全てな。この時間ならばもう営業終了しているが、昼間来たときにでも買っていってみるといい。僭越ながら、味は私が保証しよう」

 彼は「へぇ」と小さく呟いてまた一口バゲットを囓る。
 お隣のパン屋は味が良く、値段も大学生に優しく、その上店長の人柄も良い。近所の誼(よしみ)で、この店ともあれこれと提携してくれている。

「ああ、店長は美しい女性だが口説くのはおすすめしないぞ。旦那様と愛らしいお子さん達が居るからな」

 薄く笑ってそう言うと、彼は小さく「あん?」と声を漏らした。

「何であんたの飯食いに来てんのに、女口説かなきゃなんねぇんだよ」

 彼の言葉に、今度は私が「は?」と声を漏らす番だった。当然冗談だったが、まさかそんな返事が彼の口から出てくるとは。サングラス越しの眼は、答えにまごつく私を注意深く窺っているような気がする。

「それは……」

 ろくな返事が出てこないが、それでも調理の手は止めない。きのこのバターソテーの仕上げに醤油をチラリと掛けて、皿に盛ってカウンターへと出すと、気が逸れたか「すげぇ良い匂い!」と喜んで皿に手を伸ばした。
 彼がそれを食べる間に空いた席を片付け、鶏の山椒焼きの準備をしている間に、まだ追加があるだろうと踏んでいた酒を嗜んでいる女性二人連れが、会計をと声を掛けてきた。
 もう少し時間が掛かるだろうと思っていたのに、彼以外の客は居なくなってしまった。
 彼は女性二人が店から出て行くのを見計らって、てっきり今日はそのままで居るのだろうと思っていたサングラスとキャップを外した。
 ジュウジュウと音を立てて焼けた鶏肉に、山椒が香る一品を出す。彼は一口食べて、赤い眼をグッと細め、声を潜めたりなどせずに「カーッ! ビール滅茶苦茶合うなこれ!」と叫んだ。
 矢張りサングラスを外していた方が、目元まで見られるので表情が分かりやすく、喜んで食べてくれていることが一目で分かる。……少し前までは表情が分かることによって何度も動転していたくせに、慣れとは恐ろしいものだ。
 洗い物をしながらも、先日のようにもう何品か頼むのだろうか、と彼の様子を窺っていると、「なぁ、店長サン」と呼ばれた。

「今日はどうしても、あんたに話さなきゃならんことがある」

 その声は何とも静かなのに、何故か私の心臓は騒々しく音を立て始めた。この静けさは、今までの人生で何度か経験したことがある。何か重大な告白をしようとするときの決意に満ちた声だ。嵐の前の静けさというヤツだ。
 一体何を言う気なのだ、クー・フーリン。

「何だ? 料理に関することか?」
「違ぇよ。どうやらあんたは知らねぇようだが、オレは俳優をやってる」

 隠しているのではないのか、何故自分からバラすのだ! 君は何を考えているのだ本当に!
 叫び声が口から飛び出そうになるのを耐えると、喉がグゴッと妙な音を立てた。

「……そうか、何処かで見た顔だとは思っていたが。俳優だったか」

 何と失礼なことを言っているのだ私は! 実際は自宅のテレビ横に、『仮面ファイターランサー』ブルーレイボックスを、彼の主演作を! 堂々と鎮座させている癖に!
 だが、今更撤回などできない。彼には嘘を吐きたくないなどと考えていた癖に、嘘を連ねることになる。平静が保てているか甚だ怪しい。

「テレビは然程見ないのでな。しかし、その俳優様が一体何かね?」
「俳優様だなんて大したもんじゃねぇよ。現にあんたはオレのこと、知らなかったんだしな」

 彼はそう言って、眉を下げて苦く笑う。違うのだ本当は君が演じたランサーのファンなのだ、あのとき確かに光を与えてくれたのだ、そんな君にこんなことを言わせるなど。
 許しがたいことであるはずなのに。
 私の口は、私自身の心を裏切る言葉を連ねる。

「もう一度聞くが。君が俳優だからと言ってどうかしたのかね? それを聞いたところで、私のような一介の料理人にできることなど何もないぞ。料理人の演技でもする予定が合って、私に料理指導でも依頼したいのか? 私は指導には向かない人間だぞ、専門家を当たれ。それとも、撮影現場へケータリングのご依頼か? 生憎この店はそのようなサービスは」
「待った」

 勝手にベラベラと捲し立てる私を、彼の静かな声が止める。

「オレは仕事に繋げようとしてこの店に来てんじゃねぇ。ただ、あんたの飯が食いたくてここに来てんだよ」

 静かな怒りさえ孕んでいるような眼が、真っ直ぐに私の目を射貫く。何故怒っている?
 ……もしや、私の誤解を厭うほどに、私の料理に心を寄せてくれているのだろうか。
 だとすれば、己の眼から涙が零れ落ちていないのが不思議なくらいだった。私の料理がまた無事に人を、あんなにも焦がれた人を、喜ばせることができたのならば。それは慮外の歓びだ。
 何も言わない私に嘆息し、彼はガリガリと頭を掻いた。

「……俳優だなんて名乗った所為で、妙に身構えさせちまったか。だが、これからあんたに言っときたいことのためには必要な前提なんだわ」
「言っときたいこと?」

 何なりと、と言ってしまいたいのは山々だが、固く口を噤んで彼の言葉を待つ。

「まだ外で言っちゃあまずいんだが、半年後……来年の春頃から刑事物の撮影が始まる予定でな? 前は……あんた知らねぇだろうけど、『仮面ファイターランサー』ってのに出ててよ、そこそこ鍛えてたんだが。随分経って体が鈍っちまってるから、鍛え直そうと思っててよ」
「はぁ……」

 それは、ランサーではないにせよ、アクションを演じる彼を見られるということだろうか? 何とも喜ばしいが、それが一体私と何の関係があるのだろうか。

「体は鍛えるがあんたの飯も食いたい。だから今日を最後に白飯やパンは控えて小盛で頼むが、あんたの飯が嫌になったとか、そんなんじゃねぇからな!」
「はぁ……?」

 真剣な顔で何を言うかと思えば、そんなことか。だが、彼が何も言わずに小盛に変更するようになったら、要らぬ心配をしていた気もする。その辺りがバレているのだろうか。
 しかし、ただ炭水化物を控えるだけでは良いとは言えまい。

「それだけか? トレーニング段階にあわせたメニューを用意することも可能だが」

 しまった、つい口に出してしまった。「その気もないのに肩入れし過ぎるとろくなことにならないんだから、気をつけなさい」と言われているのに。

「良いのか!?」

 だが、彼が顔を輝かせ、こちらへ身を乗り出しながら言うので、今更引っ込める訳にもいかない。……彼相手ならば、滅多な事態にはならないだろう。

「今まで通り、事前に電話をくれるのならばな。だが、今日のように来る5分前に連絡をするのは止せ。何かと対応が面倒だ。だが安心しろ、君が来ている店だと宣伝する気はないし、サインを飾らせて欲しいなどという気もないさ。但し、オーナーにだけは報告させてもらうぞ」
「おう! そんぐらいなら軽いもんだ!」

 ニカニカと笑う彼が、不意に手を差し出してきた。はて、何か渡すものなどあっただろうか。頼まれたツマミは全て出したはずだが。

「シェイクハンドは嫌いか?」

 彼の言葉に、慌てて組んでいた腕を解く。こちらも手を差し出すと、彼の手が迷いなく私の手を掴んだ。私の古びた切り傷や火傷痕が散らばった手とはまるで違う、傷のない美しい手だ。先ほどまでビールを飲んでいたからだろう、ほんのりと温かい。
 彼が、クー・フーリンが。画面越しに見ていた存在が今ここに居る、目の前で生きているのだと、否応なしに私へ教えてくる。

「じゃあ、改めて。オレはクー・フーリン。今は……とりあえず、あんたの飯のファンだ」
「どうも。私はCafe SOLの店長エミヤ。……君が良き客人であり続けてくれることを願うよ」

 晴れやかに笑う彼に、私が返した笑顔は歪だった。
 こうなってしまってはもう、私も君が演じたランサーのファンなのだ、と言える日は永久に来ないのだろう。


Comments

  • ヒサギ

    読み終えたあと動悸が激しくなるくらい好きです!!!

    April 9, 2019
  • ノナ
    March 10, 2018
  • あや。
    March 7, 2018
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