【槍弓】されど愛しき受難の日々【再録】
■ホロウ時空、ふんわり設定。ランサーに突っかかっては自爆しているアーチャーさんの恋心?と、見守る人たち。たぶんラブコメ? 四日間でケンカしたり働いたり、ざぶーん行ったりデートしたりします。巻き込まれ士郎さんが不遇。
■2018-2019に前後編(1と2)で発行した本でした。バレンタインイベントにカレンちゃんが颯爽登場したので、お祝いに再録します。ご覧いただきありがとうございます! そのうち文庫本にしたいです。
6/4追記。
文庫版作りました! よろしくお願いします~
https://ec.toranoana.jp/joshi_r/ec/item/040030911212/
A5版お持ちの方はこちらから差分をご覧いただけます。
https://nashi.booth.pm/items/3001969
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1.
ふいに。目の端に鮮やかな青が映り込んで、アーチャーはそちらへと顔を向けた。
買い物帰りの散歩道、公園前に差し掛かったところだった。
萌える木々も青々と表現されるが、あのような青色は自然界にない。少なくともこの地に足を着けて歩く、ヒトの目の高さにおいては。
あれより他になかろうよ。
天然にあるまじき派手な色彩を纏いながら、何ら違和なく緑に溶け込む男。ランサー。
視線の先に見知った姿を見止め、しかしだからどうしたということもなく、アーチャーは歩みを進める。
互いの生活圏がかぶっているのだ。そりゃあ見掛けることもあるだろう。
残念ながらあの男に用はない。挨拶や世間話――友好的隣人の擬態を必要とする間柄でもない。せいぜい『十月某日。槍兵が昼間から公園に出没、女児を口説く。白シャツは求職用か』と目撃情報を整理し、脳内のデッドスペースに格納するのみだ。
だが、ふと見過ごしてはならぬ予感がしてアーチャーは方向転換し、公園の車止めを抜けた。
住宅街にある公園の敷地はそう広くない。たとえ国定公園ばりの広さだろうとも、鷹の瞳には〝見えて〟いた。それはしゃがんで白い歯を見せる青年と、彼の前で身振り手振りで訴える女児の会話であり、彼らのずっと頭上、木立に引っ掛かった真っ赤な風船であった。
「ほんと? とれるの?」
「おう、任しとけ!」
胸を叩いたランサーが立ち上がる。ひとつ屈伸をした長身の、まさに伸びんとしたその横っ腹に、先触れもないアーチャーの飛び蹴りが突き刺さった。
「ぬあっ!?」
くの字に折れた体はそれは見事に吹っ飛んで、突風に髪をさらわれた少女は目と口をまあるく開けた。
槍兵と入れ替わるように降り立ったアーチャーは、腰を屈め、にこりと微笑う。
「こんにちは、お嬢さん。察するに、あの風船を飛ばしてしまったのかな?」
「う、うん…」
ていうか今、青いのが飛んで行きましたけど!?などと突っ込めるような年齢に至っていない彼女は、新たに現れた大人の言葉にぎこちなく頷いた。
「少し待つといい。宝物はすぐに君の手に戻るよ」
「うん!」
途端に不審げだった表情をぱあっと明るくして、こくこくと頷く。宝物の危機を前にしては、親切にしてくれた行きずりの男の安否などたいそう軽いようだった。
がさりと茂みが鳴った。
「おいコラ、てめコラ」
「やあ、ランサー。このようなところで奇遇だな」
「駆け付け一発、蹴っ飛ばしといて奇遇もくそもあるかい! たった今の記憶も忘れるほどポンコツか、テメェは」
突っ込んだ低木の茂みをまた真っ直ぐに突っ切って戻ったランサーは、体のあちらこちらに葉っぱや小枝をくっ付けていた。散歩中にはしゃぎ過ぎた駄犬のようだと率直な感想を漏らせば、今は単に不機嫌を示している顔が瞬時に怒気を孕むのだろう。
ちいさなレディの前で、物騒はいただけない。
「連戦連敗のナンパ男がいよいよ幼子までも毒牙に掛けようとしているように見えたものでね。取り急ぎ排除したまでだ」
ぐるぐると唸る青い猛犬に、アーチャーは澄まし顔で嘯く。
「ケンカ売りてえならそう言えよ。言い値で買ってやっからよ」
「おや、違ったか。これは失礼した。では私は辞退するので、出来うる限り迅速に彼女の願いを叶えて差し上げろ」
見ての通り、私は両手が塞がっているのでね。と、肩を竦める。
「あァ? おまえが邪魔しなきゃ……、あー…」
槍兵を煽るにしては気だるい半眼と、口元の生笑い。何よりこの意外と律儀な弓兵が、マスター命令により買い出したであろう大量の食材を私闘で腐らす真似をするだろうか?
ランサーは訝って眉を寄せ、あーはいはいと後ろ頭を掻いた。
「わぁーったよ。登りゃいいんだろ、登りゃあ」
大雑把だが馬鹿ではない男は、アーチャーの言わんとするところを察したらしい。
(こんな高さ、屈伸のついでにぽんと跳ばれて堪るか)
そう、出来る限り、とは、常人に出来る限り、の意である。
垂直跳びの世界記録は一三〇センチメートル弱。軽々越えようものなら新聞沙汰だろう。もののわからぬ幼児の前だからと見逃すわけにはいかない。そういった気の弛みが重大事故に繋がるのだ。
自分たちはサーヴァントである。ヒトに擬態し生活する、ヒトならざるモノである。常に意識して行動しなければならない。
縁ある人々に迷惑を掛けぬために、安穏とこの街で暮らしていたいなら、あるいはただ道理として。
望む望まぬに関わらず、居残ってしまった者の責だろう。
「よっと」
自由気ままな男も少々迂闊なだけで、弁えてはいたのだな。アーチャーは満足げに頷くが、しかし。
面倒くさそうに幹を叩いていたランサーは、徐にそこを蹴り付け、跳んだ。
まさかの強度確認だった。太めの枝を掴むと、逆上がりの要領で自身の体を樹上へ引き上げる。四つ這うことなく膝で立ち、ひょいと手を伸ばした。
「ほらよ、捕まえたぜ」
「すごいすごい! ありがとう!」
風船の糸を摘まんですたんと着地すれば、きゃっきゃっと女児の歓声が跳ねる。
アーチャーは頭が痛むのを感じた。善行は素晴らしく、子供の笑顔は幸いであるが、ああ、サーヴァントであることを除いても、この男は古代の野生児なのだった。
「まだ文句あんのかよ。こんくらい、ふつうに出来るだろ」
去り行く子供に手を振っていたランサーがアーチャーを振り返る。無論、こちらを向く前に浮かべていたであろう爽やかな笑顔は拗ね顔に変じている。
「木登りの概念をアップデートしたまえ。貴様の時代ではふつうであっても、」
「いや、坊主」
出来るよな?と訊ねられ、アーチャーの眉がぴくついた。何故それを私に訊く。
「……あれでは背丈が足りん」
「んなら、オレらの体格なら問題ねえじゃん。坊主より動けるくらいでちょうどいいんじゃねえの? オレのは見せ筋じゃねえし」
「ケンカなら買わんぞ」
「安売りはしてねえよ」
しかし訊いたランサーは欠片も他意のなさそうな顔をして、汚れた手のひらや膝を払っている。
なるほど、彼と交流のある人間のうち、サンプル足り得る同性は衛宮士郎くらいか。
(あれもふつうとは言い難いが)
へっぽこ魔術使いであり、そこそこ体も鍛えている。が、この場合、衛宮士郎をふつうでないと言えば賛辞の類になってしまうので、アーチャーが言及できるのは発展途上の背丈しかなかった。
ヒトか化け物かといえばヒト、出来る出来ないでいえば、出来るだろう。少々よじ登る手間が必要だったり、大車輪が懸垂になったり、格好つけて飛び下りた後、痺れた足を抱えて呻いたり、そもそも着地に失敗して地べたに転がるかもしれないが。
「……まあ、マスターを手本にされるよりは、よほどましというものか」
呟いて、なにげなく手を伸ばした。本人が打ち払ってなお、背で揺れる髪に小枝が絡まっていたからだ。
途端、赤い殺気に穿たれた。
アーチャーは動きを止める。表情の一切を消した眼光は、無慈悲な朱槍を突き付けられたのと同じ心地がする。
言うべき言葉も定まらぬままに、はく、と唇を動かした時、ぎゃああん!と怪獣のような泣き声が響き渡った。何事かと二人はぎょっとする。
「ここどこぉ! ままぁー!!」
笑顔でばいばいしたはずの女児が、可愛らしい顔をぐしゃぐしゃにして公園の出口で立ち尽くしていた。
逃げる風船を夢中で追ううちに、帰り道がわからなくなってしまったのだろう。いざ凱旋せんとして、ひとりぼっちであることに気が付いたようだった。
「近所の子かと思えば、迷子だったのか……」
「……どうするよ」
眉尻を下げたアーチャーを、やはり困り顔のランサーが見遣る。泣く子供にしろ泣く女にしろ、甲斐性のない男には荷が重い。
「そういえばあの風船、先ほど商店街で配っているのを見掛けたな」
「それだ。薬局の前だな?」
ランサーがぱちりと指を鳴らす。さすがアルバイターのクラスとも噂される英霊は、商店街の日常風景を知っていた。
手をすり抜けて逃げるほど活きが良いなら、本日もらったばかりだろう。近くに子を探す保護者がいるはずだ。
そこの商店街で見つかればよし、でなければ交番へ届けるしかあるまいが。ともかく知らぬ顔して自分だけ立ち去るという選択肢は、どちらの胸にもなかったのだ。
「うへー、あっちいー」
玄関に荷物を投げ出したランサーは、ばさばさとシャツを扇いだ。
件の女児を肩車して商店街を駆けずり回り、誘拐犯には間違われなかった代わりに母親から御礼責めに遭い、早く帰らないと買った生鮮品が悪くなるからとアーチャーが固辞するもそれは決して言い訳ではなかったので、急ぎ足で衛宮邸を目指したのであった。
無論、常人速度の、だ。自分たちがこれしきの運動で体温上昇や疲労を感じるはずもない。
「なかなかヒトのフリが上手いじゃないか」
先程は真っ昼間の人目ある公園で、ギネス記録のダブルスコアを叩き出そうとしていたくせに。
「はん、こちとら勤労サーヴァントだぜ。おまえよかよっぽど世間様に馴染んでるっつーの」
「どうだかな」
向けられる手の甲に反省や含羞は感じられず、先の出来事を意識してもいないだろう。
アーチャーはこういう事象があったらヒトはこうするとif構文じみたプロセスで動くが、ランサーの挙動は習癖で反射だ。ゆえに自然体。
要するに、何も考えていないのだ。
「ノドからからだわ。もらったビール飲も」
って冷えてねえわな、と独り言ちて、一度下ろしたレジ袋をまとめて持ち上げる。小さめの袋からはアーチャーが断るも彼が笑顔で受け取ってしまった御礼の六缶パックが透けている。
「よく誤解されているがアルコールはむしろ体内の脱水を促――」
「ぼうずー、むぎちゃー」
「――いや待て」
靴を脱いで上がり框に足を掛ける姿も実に自然で、つい順番待ちなどしていたアーチャーは遅まきながらランサーを制止した。
「あン? 客にはまず麦茶だろ?」
「自分で客を名乗るな、図々しい。何を勝手に上がろうとしている? そもそも何故ついて来た?」
至極当然の疑問である。いつの間にかレジ袋を分け合って持っていたのは、ぐずる女児にねだられた手繋ぎや肩車の余波だったか。
「行き先が同じだったってだけだろ。おまえの家ってわけでもあるまいし」
ゆるく首を傾げて答えられたそれもまた、ごく当たり前のことだった。
「うち、冷蔵庫ねえんだよなー」
これ台所に持ってときゃいいんだよな?と、そこだけは指示を求めてランサーは廊下を歩いていってしまう。
アーチャーが隣を併走していた彼より食材のほうを気に掛けていたように、彼の関心事も、己が賞味するかもしれない買い物袋のほうにあったのだろう。ここは共通の知り合いの家なのだ。例えばランサーが家主や居候の誰かと約束をしていたとしても、アーチャーの知るところではない。
否、その居候にはアーチャーのマスターも含まれる。主人のテリトリーを侵す他所のサーヴァントを排除することに、特段の理由が要ろうか。
「おい、ラン……」
足音荒く畳を踏んだアーチャーは眇めがちの目を丸くした。
常に片付いているこの家にしては珍しく居間のテーブルに湯呑みが置き去りになっており、それをランサーが手にしていたのだ。顔の高さに持ち上げて、今にも口を付けようとしている。
「貴様ッ、腐っても護国の英雄たる光の御子がなんとさもしい真似を…ッ!」
「何いきなり褒めちぎってんだよ、気色の悪い」
「誰が褒めたか、貶したに決まっているだろう」
駆け寄って湯呑みを奪い取ろうとすれば、もちろんこっちも厭味ですが何かと避けられる。使いこなしている俗な文法は、俗世間に染まり切ったろくでもない同居人の影響だろうか。
「新しい茶を入れてやろうと言うんだ。ふざけていないで寄越せ」
本気でないとはいえ、繰り出した手をすいすいと避けられるのが腹立たしい。
「いやあ、なんか愉しくなってきた」
「たわけか!」
ランサーの足はおよそ五十センチ四方から食み出さず、乱雑に振り回しているようでいて湯呑みの水面を乱すこともない。
気付けばますます業腹である。私相手に縛りプレイとはいい度胸だ。
「騒がしいと思ったら……、おまえらひとんち壊すなよ」
奥にいたらしい家主のお出ましだった。
「よう、邪魔してるぜー」
「はいはい。いらっしゃい、ランサー」
彼もやはり揉める英霊二騎より放置されているレジ袋のほうが重要らしく、中身を覗くなりぱぱぱっと分類して適所に仕舞う。もはや家を破壊されなければ御の字だという諦めの極致なのだろう。
一応、買い出しありがとなと掛けられた労いに、貴様に礼を言われる筋合いはないと答える大人げないアーチャーである。実際、士郎に頼まれた用事ではない。
「何をぼうっと見ている」
「え、何やってんのかなって」
「たわけ! 貴様こそ止めないか、この変態男が舐ろうとしているのは凛の使った湯呑みなんだぞ!」
「ぇえ?」
いくつかある客用湯呑みはどれも同じ柄だが、テーブルに開きっぱなしの魔術書の近く、ひとつきりぽつんとあったのだから、一目瞭然だ。途中で別の手引書でも必要になったのか、少し席を外しただけのように見える。
「おまえの言い方のが変態くせえわ。ねぶる、とか」
「黙れ、現行犯」
アーチャーが見咎めなければ、それのみならずランサーが口を付けたものをまた凛が飲んでしまったかもしれないのだ。
おぞましかろう!と告発したのに、
「そんなこと、ランサーがわざとやるわけないだろ」
誰より憤っていいはずの士郎は呆れ顔をしていた。
「だよなあ、坊主!」
「間違ってひとのお茶飲んじゃうとか時々あるし。ランサーは古代のひとだから、特に誰のとか気にしないで、冷めてて飲みやすいくらいにしか思わなかったんじゃないのか?」
「……だよなあ、ぼうず…」
喜色を浮かべたランサーは一転、容赦ない援護射撃に被弾して首を項垂れた。援護の内訳は悲しいかな、培った信用ゆえでなく、アーチャーの白眼視と変わらない。
アーチャーはぎろりと士郎を睨む。
「凛が穢されても構わぬと?」
「それ、俺に厭味言いたいんだろうけど、遠坂に聞かれたら過保護英霊って指差されて笑われるからな。ランサー、新しいお茶入れるから……」
「おう、頼まあ。そもそもオレは飲もうとしたんじゃなくて、匂い嗅いでただけなんだがな」
瞬間、ぴしっと空気が凍った。
「……ん? なんだ?」
湯呑みを受け取るために手を差し出した士郎と、もはや関係なしと背を向けようとしていた弓兵がそろって目を剥いた。跳ね上がった色違いの眉はよく見ればそっくりの形をしている。
その彼らが聞き分けクイズのように重ねて言葉を発したのだ。
「遠坂の、飲み残しの…!」
「匂いを嗅いでいた、だと…!?」
「「変態じゃないか!」」
「えっ」
思いがけず迫られて、ランサーは後退りしてしまう。
「よもやそこまで落ちぶれていたとは! 情けないっ」
「落ちぶれたとまでは言わないけど、そういうのはよくないと思うから没収させてくれ!」
難しい年頃の少年はともかくとして、確実に言い掛かりを付けていたアーチャーまでもが貴様は犬かと嘲らないあたり、本気の色を帯びている。
「ええっ、そっちのが大事ォ!? 嘘だろ、だって」
ランサーを古代人と言うのであれば、悪いものではないか確かめるのは匂いくらいしかなかった時代の人間である、ということも考慮されて然るべきなのだが、変態の所業と認識されたが最後、両者ともに聞く耳は持っていないようだった。
「さっさと手離さないか、ランサー!」
「いや、ちょっと待てって――、あっ」
台所の主に返そうとしていたのに、無理に奪われそうになるとどうしてか抗ってしまうものだった。
アーチャーの速度に合わせて躱した、そこに遅れて伸ばされた士郎の手があったのだ。偶然に湯呑みの底を突く形となり、ランサーの手をすっぽ抜けた。
宙でくるりと回り、重力に従って落下する。
「…………」
かつん、ころころと幸い割れなかった湯呑みの転がる音を残して、衛宮邸の居間は重苦しい静寂に包まれた。
被害者を除く二名はこんな時どんな顔をしていいかわからなかったが、幸運値のワーストっておまえだったんだな、と同情したし、それを言えば剣の雨が降るんだろうなとも思ったので口を噤んでいた。
「……衛宮、士郎…ッ」
へたれた前髪から水滴を垂らすアーチャーが怨嗟を叫ぶ。
「今の俺か!?」
「悉く、貴様所以だろうとも」
「オレ見たぜ。弾き飛ばしたの坊主の手だった」
「あっさり売った――!?」
はじめにアーチャーと揉めていたはずのランサーが、こちら審判ですとばかり一抜けを決め込んでいる。
とばっちりだ!と士郎は嘆くがしかし、ランサーがキッチンから取ってきたおそらく床を拭くための台布巾をそっとアーチャーの頭に被せるようなことでもなければ、己に向いた弓兵のターゲットマーカーが外れることはないだろう。
「確か貴様の要望は、家を壊すな、だったか? 小僧」
不穏に片頬を吊り上げたアーチャーが、ぺきっぽきっと指の骨を鳴らす。
「家の中身も壊しちゃダメに決まってるだろー!?」
ヒトとか特にダメ、絶対。
士郎が縋るように見遣ったランサーは頼もしく頷いて、流れ弾処理は任せとけ!と親指を立てる。いや、そうじゃない。家を護ってくれるのはありがたいけどそうじゃない。
あの手がもう一度握り込まれれば、そこに現れるのは剣か弓か、はたまた。
「殺される前にゃ助けてやるって」
「安心しろ、半殺しにしておく」
「何一つ安心できない!」
事あるごとにいがみ合っているこのおにいさんたち、士郎に対した途端にタッグを組みやがるのだから性質が悪い。
特にアーチャーだ。常にフラットなランサーと比べ、あからさまに突っ掛かる先を変えるのだ。
「三分の二にまけてやろう」
「どっちを!?」
脳裏の円グラフがきゅーっと割合を変える。増やされたのは生か死か。
褐色の腕にぱりっと燐光が走り、士郎も身構える。
「アーチャー、ステイ!」
瞬間、少女の号令が響いた。
名は体を表す、凛とした声である。
アーチャーは憮然とそちらを向いた。
「……ランサー、でなく?」
なんでオレだとぼやくランサーは床にしゃがんでおり、本人を除いて「まあ、犬っぽいけど」と思わないこともなかった。
「あんたよ、アーチャー。率先して床を拭いてくれているひとを止める理由があって? まったくもう、ちょっと目を離した隙に何やってんの、士郎まで!」
これだから男どもは!と、まるで掃除をサボって雑巾野球で遊んだ挙句にバケツをこぼしたクラス男子を叱る委員長のようである。原因を作ったランサーだけがお叱りを免れていることに、士郎もアーチャーも解せぬと渋面を作る。
単に、従者1従者2と一応お客様の違いかもしれないが。
「凛、買い出しは済ませた。あとは小僧に聞け」
面倒くさいと顔に書いて、アーチャーはさっさと消えようとする。
「待った! ストップ! 霊体化禁止!」
止めたのはまたも凛である。主人のただならぬ様子に、文字通り輪郭を薄れさせていたアーチャーが戻ってくる。
実体を解き切ってはいなかったので、濡れた髪はそのままだ。シャツの肩口にぽたりと雫が落ちる。
まだ用があるからと引き止めるならまだしも、彼女は妙なことを口走らなかったろうか。
「……遠坂?」
「嬢ちゃん?」
逸早くうっかり被害の気配が察せられたアーチャーは苦虫を噛んでいる。
視線の集中を浴びた凛はてへっと舌を出した。
「あのね、魔術薬入れてたの、それ」
霊基が絡んで妙なことになったら、困るじゃない?
「おまえなあっ、そんなあてつけがましいことしなくても、風呂入ればいいだろ! 水でいいならせめてシャワーにしろよ!」
「ええい、喧しい! 一刻も早く洗い流さんと、突然猫耳が生えたり幼児になったりするかもしれんだろう!」
「何言ってんだおまえ!?」
凛の可愛らしい自白により再びシーンとなった居間をすったすったと横切ったアーチャーが、無言でキッチンの流しに頭を突っ込んだのだった。
人道的に風呂を勧める士郎を腕一本でいなし、蛇口からフルスロットルで噴き出す水道水をざんざと白頭に浴びている。
「遠坂ぁ…」
士郎はちょっとこいつに命令してくれというつもりで凛を見遣ったのだが、
「もちろん調合は部屋でしてたわよ? ビン詰めだけシンクでやろうと思って。だってこぼしたら嫌じゃない。まさかビンを取りに戻った五分かそこらで、頭から被るやつがいるなんて思うわけないでしょー!?」
「まったくだ」
ランサーの同情的な相槌すら追い討ちに感じられたのか、いいわよいいわよどうせ私のせいなのよ、紛らわしいことして悪うございました!と、主人のほうも拗ねてしまってどうしようもない。
どう考えても、ひとの使っていた湯呑みを勝手に取り合っていたおにいさんたちが悪いような気がするのだけれども。アーチャーに至っては自業自得の香りがする。
「ビン詰めをしようとして肝心のビンを忘れる心境とはどのようなものか、一度聞いてみたいものだな、マスター」
水道を止めるついでに凛の喉もキュと鳴らしたアーチャーが、濡れ髪を掻き上げる。
「遠坂だって悪気があったわけじゃない。謝ってるじゃないか」
すかさずタオルを差し出した士郎は凄絶な流し目にあってたじろぐが、負けじと逞しい胸板にそれを押し付ける。気遣いではないのだ。床に水滴垂らして歩かれては困るのと、己の未来の可能性が『海辺の夏男特集』的なグラビアポーズを取っているのが見るに耐えなかっただけなのだ。
アーチャーはハッと鼻で笑った。
「悪気がない、か。それは、この世で最も性質の悪いもののひとつだな」
「おまえな…」
言い種に呆れる士郎の目の前で、こちらは性格の悪すぎる従者の姿が霧消する。
「あ。おい」
ややあって忽然と現れたのは、開け放した居間の敷居を跨ぎながらだ。
霊体化と実体化を経て、弓兵の外見はリセットされている。乾いたというより、濡れていなかったことになった。
得体の知れない薬はすっかり洗い流され、ただの水なのだから、楽早の乾燥法をとっても問題はない。
「もう少し様子見たら? 何かあったら寝覚めが悪いわ」
「そうかね、ではさっさと退散しよう。君の寝起きがひどいのを私のせいにされては堪らない」
仇敵のようなサーヴァントに親切にもタオルを差し出してやった己の歩み寄りを、はい無駄、と嘲られたも同然の士郎は顔の赤らむ思いで、とっとと帰れと戸口のアーチャーを睨む。
「どうせ実験の手間が省けたとでも思っているのだろう? モルモットならそこの男に譲るよ。私は御免被る」
アーチャーは黒い服を陰に溶かすように出て行った。
「えー、オレだってそういうの間に合ってるわ。じゃあな嬢ちゃん、またなー」
バイト教育の賜物か、意外とまめに台布巾を洗って干していたランサーも、ひらと手を振って帰っていく。
そういえば彼は何をしに来たのだろう。もとより気まぐれに食卓に誘われるような陽気者だが。
「あれ、大丈夫なのか?」
台風一過のごとき疲労を感じつつ、士郎は凛に訊ねる。
「平気よ。サーヴァントが浴びてくれる分にはちょうどいいってなモンよ。あいつ、やたら勘が鋭いし目敏いし、手強いったらないんだもの」
テーブルに突っ伏して猛省していたはずの彼女は、むくりと起き上がるなり柄悪く吐き捨てた。
このマスターにして、だったか。モルモット発言もあながち間違ってはいないのだから、アーチャーも毒を吐くはずだ。しおらしい態度に絆されるのは契約書に判を捺すようなものと骨身に沁みているのだろう。
「そりゃサーヴァントだしなあ……。遠坂、お茶飲むよな?」
「うん。ありがと、士郎」
明日の我が身を遠くに見ながら、とりあえず台所に立つ士郎である。
そうは言っても、凛が作っているのは英霊専用の栄養ドリンクみたいなものだと聞いている。まるで毒でも盛るような算段の真意は、己の従者を案じてのことだ。
赤い弓兵曰く。こちらへ渡す魔力は最低限で構わない、ごくつぶしの使い魔に宝石など費用対効果を考えたまえ、いざという時? 君は己がサーヴァントのクラスも忘れたのかね? なに、従者の身は弁えているよ、泥水を啜ってでも君の元へ馳せ参じればいいのだろう。と、取り付く島もないらしい。
無視して潤沢に魔力を流せば細いパスさえ切られてしまう。だから凛はあの手この手で、ほうっておけば隠遁しそうな従者の〝健康〟を考えているのだった。
(遠坂はおまえに泥水なんか啜って欲しくないんだってのにさ)
おそらくアーチャーのほうもマスターに負担を掛けまいとしているのだろうが、互いを案じるがゆえに互いが苦労するだなんて、それこそ無意味な意地の張り合いではなかろうか。
意地の張り合いといえば。
「なんであいつら、ちょくちょく一緒にいるんだろうな?」
不思議である。
「消去法じゃない?」
凛が湯気を立てる湯呑みを受け取っていかにも適当に言う。
「消去法?」
「女の子相手だとなんだかんだ気を遣っちゃうでしょ。ヒトには深入りしない。そこで他の男どもはというと――」
街中で鉢合わせし、会話の成立する、遠慮のいらない相手はお互いくらいしかいないということか。
お盆を脇に、座卓へ座りながら士郎は眉を寄せる。しょうがないから、なんて、それはなんだか嫌だなあと思ってしまったのだ。
(……あいつに友達作って欲しいとか思ってんのか、俺は)
真っ当に気の合う仲間と笑って騒いで楽しんで。〝真っ当〟がどんなものか、いまいちわからないけれど。
頭痛を起こすような内心を吐露していれば、「あらあ、ひとの振り見て我が振り直したい気分にでもなった?」とにやけられたことだろう。
でもそれなら、あいつも誰かと一緒のほうがいいと思ってはいるのだな。
いつ消えてもいいから魔力など不要、なのではなく、頑張って消えぬようにするからと、凛に告げた悪態の裏にあるのはそういう意味だ。
少しだけ、安心する。
「ん、あれ? なあ、遠坂。『サーヴァントが浴びる分には』って言ったよな。それってもし、俺に掛かってたら?」
「………」
「………」
ずずーっとお茶を啜る音だけが無情に響く。
「……えっと。遠坂、お茶菓子食うか?」
「ええ、いただくわ、衛宮くん」
今日も衛宮家は平和である。いやまったく、ほんとうに。
白くてふわふわしたものを、綿毛というらしい。
屋敷を出て、角を曲がっていくアーチャーを見止めたランサーは、そのようなことを思い出していた。いつだったか、人懐こく足元に擦り寄ってきた白い子猫を見下ろして、「綿毛のようだな、飼い猫か?」と彼が言ったのだ。
それを復唱しただけで睨まれたのは、何故睨むと思わなかったあたり、被害妄想でもないだろう。本人に自覚のあることのほうが、ランサーにはおもしろかった。
その綿毛が、ぐらりと揺らぐ。
「ランサー…」
アーチャーが倒れ込んだ先はランサーの腕の中だった。ほんの数メートル、前後して歩いていた長身が傾ぐ前に駆け寄るなど造作もない。
「どこがいい?」
もう一歩も動けそうにない男に短く問う。
「―――…」
「了解」
彼が素直に答えたためしはないが、あるいは答えることで己が依頼したようになるのが嫌なのだろうが、何と答えたいかは知っている。
マスターに見つからないところ、だ。
さて、得体の知れぬものを摂取してしまったと知った時、ひとはどうするか。
例えば喉に指突っ込んで吐き出して、懇切丁寧に胃洗浄。
この男はそれをやったのだ。
汚い話のようだが、体内を巡る魔力の喩えだ。トカゲの尻尾切り、タコの肢切りでもいい。ただ、赤ゲージが点滅するまで削ぎ落とす馬鹿はいない。
対魔力の低さから、妙ちきりんなことになるよりはましだと思い切ったのだろう。悲観的に、やたら愉快な憂いを口走っていた。
「で、猫耳は生えそうか?」
器用なのは、後ろ頭から立ち昇る怒気で会話できるおまえか、オレか。そんなに世話をされたくないのなら、ひとの目の前で倒れるなというのだ。
「テメェのマスターの作ったモンだろう、ちったあ信用してやれよ」
塒に運び入れた男の図体を、己の座るスペースを作るため奥へと追い遣る。
この上なく(彼女のうっかりと被害を甚大化する優秀さを)信用しているゆえだと皮肉られるかと思えば、足蹴に対する苦情すらない。口を開くのも億劫か。
「別に悪さするモンじゃあなかったぞ。オレたちにはな」
「………」
「言う暇なんかなかったじゃねえかよ」
それでも当初転がされた仰向けから、にじりにじりと動いてきっちりこちらへ背を向ける姿勢に変えたのだから、その強情さには舌を巻く。
「だいたい言っても聞かねえし。あーあ、嬢ちゃんに脇腹の靴跡見せりゃ、どうぞどうぞとメシでも酒でも快く出してくれたろうになあ」
弓兵に雷は落ちずとも罰は当たったようだが、己も当てを外しているのでは痛み分けだ。
ランサーはアーチャーの広い背中に凭れて座り、煙草を吹かす。投げ出した足の先は出入口の幕を捲り、おざなりに換気に努めている。
伏せっている者を枕に非道に寛いでいるようでいて、これでもランサーは鋭意お裾分け中だ。触れたところから流れる微々たるものを、アーチャーは己の器に溜めていく。
それは滴々と、満ちる静寂に似ている。
虫の音に鳥の声、たまに風の起こす葉擦れ。
このテントは誰の土地かも知れぬ林の中にランサーが張ったものだ。無断とはいえ、人避けを敷いているので立ち退きトラブルとは無縁である。
悠々自適のテント暮らし。とまあ、聞こえ良く謳ってみるが、実のところランサーとて現マスターの横暴から逃亡中の身の上だ。ひとのことは言えない。
正直、彼と自分とでは、反抗期の家出と虐待事案ほどの差がある気はするが。
バイト以外に予定があるでなし、今日はこのままごろごろと引き篭もって過ごすのもいいだろう。
「………」
「あ? 何か言ったか?」
アーチャーの肋に肘を付いて振り向くと、すんとした横顔には相変わらず閉店の札が掛かっている。再度聞き返したところで悪口雑言しか返るまい。
「あんまりぶすくれてっと嬢ちゃんちに放り込み行くぞ。こんなとこでへたれてるより、よっぽど早く回復するだろうよ」
遠坂邸にはアーチャーの専用充電ポイントである召喚陣がある。どのみち敵対サーヴァントと見做されるランサーは彼を館内まで運んではやれないが、つまりは結界に触れて凛を呼び付けるぞ、という脅し文句である。
「せめて抱かせてくれりゃあな」
口うるさい男がけむいと文句を付けて出て行くまで、自分は果たして何本の煙草を浪費すればいいのだろう。
ついでに隅のほうに発見した灰皿へ手を伸ばす。アーチャーを転がした時に一緒に押し遣ってしまったようだった。
「……っ」
少し体重を掛けたくらいで大袈裟に息を飲まれ、はて、彼はどこか傷めていたろうかと視線を下向ける。
どうせ先と同じ無視の横顔があると思えば、アーチャーは目を開けていた。
首を捩り、彼を腕で跨いだランサーを見て、信じられぬとばかり瞠目しているのだ。
ああ、誤解しやがったな。すぐにぴんと来た。
抱くというのは抱き枕の意味合いで、単に接触面積の話だ。物を取る都合でそうなったに過ぎないこの体勢も、見様によってはまるで獲物を組み敷くようだろう。
「おまえさん、好きだったろう。時短とかそういうの」
ランサーが顔を近付けると、アーチャーは顎を引く。
そういえばそんな手もあったと教えられたところで、男相手に採用するつもりなどなかったが。
「ああ、オレが触ると穢れるんだったか」
よほどひとを見下して単位面積あたりの伝導率だの一説ぶち上げそうな男の驚愕ぶりは、なかなか揶揄い出がありそうだった。
爪の先を触れただけで、鋼の瞳が泳いでいる。
「舐ってやろうか……?」
殊更にいやらしく見えるよう、てろりと唾液を絡めた舌を突き出した。
たかが食器の共有をおぞましいと喚き散らした男だ。直に口を舐められようものなら、蛇を投げ付けられた女子のように悲鳴を上げるか、恥も外聞もなく泣きを入れるか。厭味と皮肉で出来ている口から、詫びの言葉が飛び出すかもしれない。
「……ラン、サー」
「ぅん?」
笑い出しそうになるのを堪えて、ランサーがもう少しばかり顔を寄せた時だ。
「き、きみは、わたしのことがすきなのか…っ?」
限界まで仰け反った後頭部をシートに減り込ませてアーチャーが言った。
――は?
思考が真っ白になった。
それこそ目の前の男の白い髪のように。
「はあっ? ――ぅぐ!!」
思わず起き上がったところへ打突が入る。
テントを突き破って、木の幹に背中を打ち付けたランサーはげふげふと噎せた。吐き捨てた唾には血痰が混じっている。咄嗟に身を退かなければ鳩尾を破られていただろう。
いや、見事なカウンターだ。男捨て身の乙女セリフは面罵より痛烈だった。
一閃が走る。
「よもや」
ポールを切られ、ひしゃげたテントが中央から倒壊する。
「名高き光の御子殿に、動けず救援を求める者を嬲らんとする下劣な趣味があろうとは」
武装を纏ったシルエットは暗雲を背負い、ランサーを見下ろす眼は見下げ果てている。黒いブーツが胸を踏んだ。
「私の言い掛かりは期せずして正鵠を射ていたということだな」
「言い掛かりって言っちゃった!? つかテメェ、動けるんじゃねえかよ!!」
「動けないとは言ってない」
「あ、垂れたオレの唾液舐めたのか?」
ギン!と音を立てたのは、堪忍袋の緒を千切った白刃と、これでいて挑発したつもりのない朱槍だ。
「ただの確認、だっつーの!」
体重掛けて押し切ろうとする刃を吹き飛ばす。
「ちょびっとでそんだけで充填できんなら便利じゃねえかよ。おら、口開けな」
「ふざけるな! 誰がそんな汚らしいッ!」
二合三合と打ち合いながら、「汚えだとぉ!?」「汚いだろうが!」「面倒見てやったのに!」「頼んでない!」と子供じみた口喧嘩をし、長槍得意の間合いまで押し戻されたアーチャーが自ら後方へ跳ぶ。
時間差で擲たれた双剣をランサーが石突で跳ね除ければ、くるりと回した穂先ではすでに弓弦が引き絞られている。
装填の手間要らずなのだから便利なものだ。
「ま、数撃たなきゃ当たらねえもんなァ!」
「貴様の槍の話か?」
一言でよくも癇に障ることを言う。
「穿ってやるよ」
「しね、変質者」
本命が中ればいいのだと、捻じれる照準はぴたりと牙を剥く猛犬を射抜いていた。
此度こそ、その〝矢〟が朱槍に弾かれることはなかった。放たれる前に消失したのだ。
「ちっ、馬鹿が」
弓もぼろりと崩れ、ばかりか褐色の指先までも薄らいでいる。ランサーは相殺されずに彼を穿つところだった朱槍を寸でで霧散させ、素手で胸座を掴んだ。突進の勢いそのままに、幹へと叩き付ける。
呻いたアーチャーはしかし嗤っている。
「ふん、手ぬるいことだ。腕がなくとも足の刃が貴様の首を刈るやもしれ……」
「黙ってろ」
末端から欠けていくのであれば最後まで嘲り続けたであろう唇を塞ぐ。色の抜けた睫毛の瞬きが、ぼんやりと見えていた。
まったく、つまらぬことで水を差す。
この男は動けたのではない。〝動かした〟のだ。存在の維持に使うようなところまで、戦闘技能のほうに回した。残量の計算違いはただの馬鹿だが、自壊を計算に含めたのなら大が付く。
「ッ、」
驚きから返ったか、ぽかりと開けられていた歯列ががちっと咬み合わされた。
ランサーが痛みに顔を顰めると、舌先から水っぽいものの湧き出す感触がする。より濃く生命の溶けた体液だ。鉄の味の区別も付かぬと己の唾液腺までが喜んで躍り出す。
混ざり合ってこぼれそうなそれを、捩じ込むまでもなく、啜られる。
んく、と喉を鳴らして飲んでいる。
「ん……はぁ…っ」
二の腕を掴まれて、彼の指が実体を取り戻していることに気付く。宣言通り、首を飛ばしに来るだろう。
「ぁ、ふ……」
「んっ?」
しかしその手は、ランサーの首を抱き寄せた。
肩をなぞってうなじに添い、やんわりと頭を包む。後ろ髪を逆撫でるような手のひらにさわっと肌が粟立った。
「いっ…! いへぇいへぇ、ン、ぉい、痛えって!!」
次第に出の悪くなって不満らしく、裂傷を抉っては吸い上げている男を力尽くで引き剥がす。
「テメェはオレの舌ぁ千切る気か!」
「ふぇ…?」
正気の怪しいアーチャーは、鈍色の瞳を水飴のように蕩かしていた。紅なんぞ引くわけもない男の唇がやけに艶やかだ。地黒の頬には朱が上っている。
ランサーが怒鳴り付けると、珍しく平地になっていた眉間に、みるみる渓谷が作られる。
「貴様っ! 何のつもりだ、施しなどいらん…!」
「いや、遅ぇわ」
赤子みたいにちゅうちゅう吸ったくせに。
「くっ……」
間髪入れぬ混ぜっ返しに遭い、歯噛みしてアーチャーはタッと地を蹴った。思わず差し出したランサーの手を赤い布がすり抜ける。
「致し方あるまい。貴様が勝利者だ。今日のところはな」
ほんの少し前まで動けなかったとは思えぬほど身軽に木立の間を飛び上がり、梢を鳴らすことなくその姿を掻き消した。
一度きり振り向いて、ランサーを睨んでいった表情はひどく憎々しげだった。
「……おまえも跳んでんじゃねえか…」
ここに人目があるのか? あるとしたら貴様の敷いたご自慢の人避けが突破されたということになるのだが? と、つい彼の声で自答してしまったが、間違いなくそのようにせせら笑うことだろう。
裂かれ、吸われた舌がまだ妙な具合に痺れている。
まさに身を切って助けてやって、ああも不服そうにされる謂れはない。
が、あれはもしや、ランサーに勝つつもりだったのだろうか。
施しが我慢ならぬのなら、勝利者として心置きなく奪えばいい。多少自壊しても、相手を倒して食ってしまえばチャラになると――そこまでがヤツが計算か?
あくまでも勝利のためのベット。
だとしたら、それはなんと槍兵好みの。
自然、口角が吊り上がる。
「なるほど。獲物はオレのほうだったか」
そりゃそうだ。渇望する者の前に転がった魔力の塊だ。そも、弓とはソレを射るものである。
生き存えるだけなら請えば済むことなのだから、やはり馬鹿は馬鹿だけれども。
地面に手枕で寝転がったランサーはポケットから取り出した煙草を咥え、指先に火を灯そうとして――、やめた。
血の混じる口の中は最低の味だったが、もうしばらく味わっていてもいいかと思ったのだ。
(……でも、テントは建て直してってくんねえかなあ…)
己が王国の残骸がカサカサと風に遊ばれている。
ちょっとした遊び心のツケとしては高いものに付いたようだった。
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- わんわんおNovember 26, 2024
- November 18, 2023
- April 25, 2022