幸せな匂いのお前がいい おかわり!
ランサーという犬とアーチャーという猫を飼っているエミヤの話です。
続きというか、その話に関連する短いお話をいくつかまとめてみました。
『すごいか?エミヤ、俺すごいか?』
前編はこちらからどうぞ→novel/10088570
後編はこちらです→novel/10198946
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Good morning my sweet
遠くで人が動く気配に、浅い眠りから俺は目を覚ます。
小さな物音にピクリと耳が跳ねて、くあっと大きなあくびが出た。
引かれたぶ厚いカーテンの隙間から弱い光が入ってきていて、しばしばと俺は瞬きした後、身を起こしてぶるりと大きく身体を震わせた。
トントントン、と二階からエミヤが下りてくる足音を聞きながら俺もそっちに向かう。
「おはよう、ランサー」
階段を下りきったエミヤにすり寄って軽く頭を撫でてもらう。
おはよう、エミヤ。と、俺は尻尾をぶんぶん振りながらその手に頭を押し付ける。ついでにべろりと手の平を一舐めすると、くすぐったかったのかエミヤが笑った。
良い朝だ。
洗面所に行くエミヤを見送って、俺はリビングに戻る。
棚に前足を引っかけて、後ろ足で立ち上がる。そこには大きな籠にふかふかの布団を敷いたアーチャー用の寝床がある。
おはよう、アーチャー。
尻尾で床を佩きながら言うと、毛づくろいしていたアーチャーはそれを止めてから、柔らかい身体を伸ばして俺の鼻先に自分の鼻先をくっつけた。
おはようの挨拶に、俺の尻尾はさらに激しく振る。
ガキの頃はどれだけ体を伸ばしても、ジャンプしてもこの場所に届かずに、アーチャーが下りてくれるまで情けなく鼻を鳴らしたものだが、俺の体は大きくなったからもう待つ必要はどこにもない。
アーチャー、もう一回、もう一回!と棚に後ろ足を引っかける勢いで体を跳ねさせると、アーチャーは仕方ないとばかりに短く息を吐いて、もう一度体をこちらに伸ばしてくれた。
ちょんと冷たい鼻同士が触れ合った後、ざらりと鼻先に猫の舌が通り抜ける。
俺は嬉しくてたまらずに、ふすんっと鼻から大きく息を吐き出す。アーチャーはもう俺のことなど知らないという顔をして、自分の毛づくろいに戻ってしまった。もう多分、俺が何をしてもこちらを向いてくれないだろうが、俺にはそれがアーチャーの照れ隠しだということがわかっている。
リビングに戻ってきたエミヤに小走りで駆け寄る。
エミヤ、エミヤ!アーチャーがな、と跳ねる俺に、エミヤは「朝から元気だな」と、しゃがんで頬の毛辺りをもにもにと撫でてくれた。
「おう、お前耳どこにやったよ、耳」
その後ろから、奴が腰を折って俺をのぞき込んでくる。
エミヤが朝から構ってくれるのも嬉しくて堪らず、俺の耳はぺたりと頭にそって後ろの方に倒れている。
何だ、お前もいたのか。
「クー、早いな」
「あー……」
くあっと俺に負けない大きな口を開けて、奴があくびをする。
「んんー、もうちと寝てたいがなぁ」
男と会話しながらもエミヤの手は俺をしっかり撫でてくれるので、俺はぐいぐい近づいてふんふんとその首筋からエミヤの匂いをいっぱい嗅ぐ。
べろんとエミヤの頬を舐める。エミヤの手が柔く遮ってくるが気にしない。ふんすふんすと、嗅ぐ匂いは大好きなエミヤのものだが、最近エミヤの匂いには奴の匂いが混ざっている。気に食わないが気になるので、俺はいつも以上に念入りに匂いを嗅いでは、べろべろと褐色の頬を舐める。首筋に鼻を突っ込むのも俺のお気に入りだ。
「コイツがなぁ、朝からディープな起こし方するからなぁ……」
白い指が、ちょいと俺の鼻をつまむ。やめろよ、と俺はその指を避けるが、男はからかうように俺の黒い鼻先をつつく。
「散歩はもう少し遅い時間でもいいんだぞ」
「顔中舐められてみろ、嫌でも起きる」
立ち上がったエミヤの口に、奴は自分の口をくっつけた。
「なっ……」
「おはようのちゅーくれぇいいだろ、こいつらだってやってるじゃねぇか」
「おはよ、うの……ちゅ、う……」
壊れたおもちゃみたいにぎこちない動きと発音で言った後固まっているエミヤの口に、もう一度男が触れる。
「おはようさん、エミヤ」
「クー!!」
エミヤが大きな声を上げて、からからと男が笑う。
この男が家に来て、エミヤは今まで見たことない顔をたくさんするようになった。
怒ってるけど、楽しそうだな。
エミヤが楽しいと俺も嬉しい。
はたはたと無意識に揺れた尻尾が、何となく見上げて目があった赤いそれにゆっくりと止まる。
「お前もおはようさん。散歩行くから、ちと待ってろ」
男は苦笑して、ぽんぽんと俺の頭を叩いてから顔を洗いに行った。
朝の散歩は奴の役割になったようだった。散歩は好きだし、奴との散歩は嫌いじゃない。
散歩。散歩だな。
玄関のところにひっかけてあるリードを咥える。
「おい、待ってろっつったろ」
散歩、散歩に行くんだろう。
「行くって行くから!待てっつってんだろ!着替えさせろ!!おい、コラ!!」
早く行くぞ!!
俺が突撃しまくるせいで、奴が何か言っているが俺には全くわからない。
なんせ、俺は犬なのだから。
君の側
柔らかい座布団の上でくつろぐアーチャーの体全体を囲むようにして、俺はそこに座り込んだ。体を伏せて、小さな頭に軽く自分の顎を乗せて落ち着くと、アーチャーは迷惑そうな顔をしたが、その場から動くことはなかった。さすがにずっと顎は置いておけないから、すりと横にずらして、揃えた自分の前足の上に置く。
そうしていると、アーチャーが俺の耳の付け根辺りをべろんと舐めてから今度は、アーチャーが俺の頭に顎を置いて落ち着いた。
くるくると鳴るアーチャーの喉の震えを直接感じる。
二匹寄り添うとあったかいので、俺たちはよくこうして暖を取る。自前の毛皮もあるし、部屋の中はあたたかいから必要ないといえばそうだが、こうしていれば心がぽかぽかするからこれでいいと心底思う。
「なんつーか、アイツら仲良いな」
ソファでそれを見ていた奴が言った。俺の耳はそちらを向いたが、アーチャーとぬくぬくすることを優先させる。
「しばらく冷戦状態みたいな時もあったがな」
「アーチャーがよくあれだけ許してもんだ」
「アーチャーは難しい猫だからな。しかし、アーチャーはランサーを自分が育てたくらいに思ってるのではないだろうか」
「育てたァ?」
「私は犬より猫派だったし、今まで動物を小さい頃から育てたことがなかったから……。どうしたらいいかわからないことも多くてな……ランサーは小さい頃はやんちゃが過ぎることが多くて手を焼いていたが、アーチャーがよく面倒を見てくれた」
「へぇ。面倒ねぇ」
「……猫パンチがすごいんだ」
「猫パンチ」
「ランサーが悪さしてると、猫パンチがこう……。特に相手がアーチャーだと、それがまた容赦なくてな。仔犬相手に一切手加減なしなんだ」
そうだったな。アーチャー、小せぇ俺に手加減なしだったな。あの猫パンチ食らうと、吹っ飛ぶんだよ、俺の体。
あれすごかったなぁ。
「ランサーが丈夫だったから良かったものの、何度肝が冷えたことか……」
アーチャーは覚えてるか?と聞くと、返ってきたのは寝息だった。絶対寝たふりだ、これ。
「ふぅん……」
男はどことなく不満げに声を上げて、エミヤの体にすり寄る。
エミヤの腹に手を回して、額を肩にすりつける。
「何だ、クー」
「……もっと聞きてぇ。俺がいなかった時の話」
「……」
「何があったとか、どんなこと考えたとか、感じたとか」
「……何だ、君。意外と寂しがり屋なんだな」
「うるせぇ、お前のことは別なんだよ」
何だ、お前もぬくぬくしたいならずっと側にいればよかったのに。
ニンゲンって不思議だな、と言うと、そうだなと返事が返ってきた。
ふんっと面白くなさそうに鼻を鳴らすアーチャーは俺の知らない何かを知っているのだろう。知りたいような知りたくないような……というか、
やっぱりアーチャーは寝たふりだったんだな。
でも怒ってる匂いはあんまりしない
「クー!!」
腹からのエミヤの大きな声に、びゃっと俺は身をすくめた。
エミヤがご立腹してる時に出す声は、大きくて低くてとても怖い。
何だ、何だと声のするリビングをのぞいてみれば、奴がエミヤの前で正座していた。
「タバコはリビングで吸わないと約束してただろう!」
「悪かったって!つい!ついな!!」
「それだけじゃないだろう?」
腕を組んで威圧感を出すエミヤの沈黙に耐えきれず、男が口を開く。
「……今月、二箱目デス」
テーブルの煙草の封は開いたばかりだ。
「君の嗜好に口を出す気はない。しかし、健康を害すると君もわかっているんだろう?ここへ来た頃からの約束なのに、君ときたらいつもいつも……私が許し続けると思っているのかね?それに、ここで吸うと、匂いが残るし家具に染みがつく。君の喫煙に私の許可などいらんのだろうが……」
長々と始まるエミヤのお説教。俺は何を言っているのか全然わからないが、エミヤが怒っているのと心配しているのと、エミヤの低い声がとても耳に心地よいってことはよくわかる。
それに、奴が悪いことしたんだろうってことも。
俺と奴はよく一緒にエミヤに怒られる。
散歩の時に、暴走した俺にひっぱられて背の高い草のいっぱい生えた草むらに突っ込んで草と泥だらけになって帰ってきた時とか、奴が飛ばした平たいオモチャを追いかけて川に飛び込んで水浸しになった時とか(あの時は、ずぶぬれの俺のぶるぶるした時の水に奴が濡れて、帰ってからエミヤの前でもぶるぶるしたのでいつも以上に怒られた。エミヤ仕事行く恰好してたから尚更な)、一緒に冷蔵庫のささみをつまみ食いした時とか色々だ。
奴は俺の後に来た奴だが、俺よりもエミヤのこともアーチャーのことも知ってる不思議な奴だ。俺と同じくらいエミヤのこともアーチャーのことも大好きで大切にしてる。
つまり何が言いたいのかというと、俺は奴のことをわりと気に入ってる。
怒ってるエミヤが怖いが、エミヤが怒ってると俺は悲しくなってくる。
なので、俺は耳を伏せて頭を下げ、
「……なことも、君には些細なことだろうさ。しかし、だからと言って……ランサー」
「おう」
「違う、君じゃない」
奴の隣に並んで座った。
奴は目を丸くしてこちらを見るが、お前、今エミヤに怒られてるんだろう。大人しく怒られろと俺はエミヤの前で頭を垂れる。
「……とにかく、私たちは一緒に暮らしているのだから少し協力してくれても………ランサー」
きゅうと鼻を鳴らして俺は答える。
「私は君に怒っているわけじゃないんだ。少し向こうに行っててくれないか?」
きゅううぅううと俺の情けない声が上がる。
俺、ここにいちゃダメか?と、上目使いで見上げると、エミヤが困ったように眉を八の字にする。
「……一緒に怒られなくてもいいんだぞ?」
ここで、ぐはっと隣の奴が噴き出した。先ほどからぷるぷる震えていたが、限界がきたらしい。
「クー!」
がうっと俺も短く吠える。お前が怒られてるんだろう!!
その日の夜ご飯は少しばかり豪勢だった。
何でだろうな?
魅惑の空間
ヒトが床に座って新聞とか広げる後ろ姿。その脇のところ。
俺はあの空間が堪らなく好きだ。
むずむずしてきて、どうしても鼻から顔を突っ込みたくなる。
エミヤにそれをすると、ちょっと笑って頭を撫でてくれるから、尚更俺の大好きな空間になった。
鼻の長いところを爪で優しくカリカリされるのとか、最高に気持ちが良い。
俺はそのまま座り込んで、エミヤに大きな体を押し付けて甘える。俺の毛がくすぐったいのか、エミヤが喉の奥で小さく笑う。
新聞を読む邪魔はしないぞ、俺は賢い犬だから。
その代り、エミヤと一緒になってその黒いのがいっぱい書かれているのを眺める。
ニンゲンって大変だな、と思っているとエミヤの手が俺の体を撫でてくれた。
無意識なその手が俺は最高に嬉しくて、はたはたと尻尾を揺らしてしまうのだ。
お、今日は奴が新聞を読んでいる。
いつもと違う形だが、魅力的な空間に変わらないので俺はいつものようにその脇の下に顔を突っ込んだ。
「お!」
奴はニカっと脇から出て来た俺に笑いかけると、
ぎゅっと、その脇を、
締めた。
びっくりして俺は頭を抜こうとするが、男が抜けない程度に力をいれているのでそれが敵わない。パニックになって、俺はジタバタと体を動かすが、どうしたっても抜けない。
抜けないのだ。
うぅううと喉の奥から物騒な唸り声が出るが、男はカラカラと笑っている。
「おらおら、出てみろぉ」
お前楽しんでるな!俺はちっとも楽しくないぞ!!
ぐ、ぐっと体を引くが、首のところががっちりと押さえられている。
首を振ってガチガチと奴に歯を立てようとするが、そもそも届かない。
俺の忍耐がそろそろ限界になってきたところで、ふいに男が手を離した。
お前、何するんだよ!とがうがう言いながら、男の体に体当たりする。
「あはははははっ!悪かったよ、悪かったって!!」
アーチャーが猫パンチするみたいに手を出して、がぶがぶと奴に噛みつく。もちろん、牙は立てない。俺の猛攻に奴が床に倒れ込む。それに乗り上げて、がぶがぶする。男がくすぐったそうに楽しそうに笑い声を上げている。コイツはエミヤよりたくさん声を上げて笑うんだな。
そうしていると、男が起き上がって今度は俺をわしゃわしゃと撫でまわし始めた。遠慮もなにもない手が、散々に俺の毛が逆立つくらいに撫でまわす。
「ほら、ここか?ここだろ!?」
時折、めちゃくちゃ気持ちいいところをガシガシ撫でていく。クソ、本当にコイツ撫でるの上手いな……!!
その手に噛みつこうとしたり、前足で妨害したりとはしゃいでいると、その騒ぎに様子を見に来たエミヤが呆れた声で言った。
「君たち、何してるんだ?」
あ、エミヤだ。
俺は起き上がって、ぶるりと体を震わせる。散々に弄られて、俺の毛並みはぼさぼさだ。
「ランサー……。おいで、ブラッシングしてあげよう。……何で君も来るんだ」
「俺も並んでたらブラッシンクしてくれんのかと思ってな」
「……君のブラッシングは風呂の後だ」
「マジで?」
「あぁ。ランサーと同じようにピカピカのツヤツヤにしてやろう」
「へぇ!そりゃ楽しみだ」
と言って、奴は風呂に行ってしまい、その間にエミヤは俺をピカピカのツヤツヤにしてくれた。
俺みたいにブラッシングされるのかと思っていたが、風呂の後に何だかんだ言いながら二人は寝室に消えた。
翌朝、奴は俺とは違う感じにピカピカのツヤツヤだったが、エミヤはなぜかボサボサになってた。
トックン
「ようし、ほれほれ。この赤いのわかるか?」
と、奴が平たいのを俺の前でひらひらとさせた。何だ何だと俺は首を傾げる。
朝の散歩の途中。いつも休憩する河川敷の原っぱだ。
「いいか。これ、このディスクだ」
赤くて平たいのを俺の前でちらつかせる。どうしたらいいんだ?と思っていると、奴は数歩離れて小走りで、それをさっと俺の前に横切らせた。思わず、その赤いのに噛みつく。
「よし!そうだ。よーしよしよし」
頭を撫でられた。赤いディスクとやらと同じ赤い目が楽しそうに笑っている。
何だかよくわからないが、これは噛んでいいやつなんだな。俺はきちんと学んで、それを口から離す。
男がさっきよりずっと離れて、ディスクをちらつかせながら後退する。俺は本能に従って姿勢を低くし、それを追いかけながらまたがぶりと噛みつく。
「よぅし!いいぞ!!お前才能あるんじゃねぇか?」
また褒められる。そうか。これは追いかけて噛みついて遊ぶやつなんだな!
俺は楽しくなって、ディスクを咥えたまま尻尾を振る。テンションが上がってきたぞ。
「いいか。今から俺とお前でこれの特訓をする。俺たちでエミヤを驚かせてやろうぜ」
赤いディスクを縦にぽんと放って奴が言う。俺は「エミヤ」の言葉に反応して、ますます激しく尻尾をふる。
そうして、俺たちのトックンは始まった。
決戦は土曜日
いつもの散歩。いつもの河川敷の原っぱ。
唯一違うのは、そこにエミヤがいることだ。
「よし、気合いれろよ。エミヤの前のだからってとちるなよ」
フガフガとすでに興奮している俺の体を撫でさすって、軽く叩いて落ち着かせながら奴は俺の首輪からリードを外す。
「クー」
「大丈夫だって。朝早ぇから人いねぇし、コイツちゃんと帰ってくるから」
そういえば、エミヤと散歩してた時はリード外したことなかったな、と俺は思ったが、出てきた赤いディスクを前に意識がそちらを向く。
「フリスビー?」
「そうとも言うな。よっしゃ!まずは一発、行ってこい!!」
軽く投げ放たれたディスクを追いかけ、俺は走り出す。
いつもよりゆっくりした速度のそれをジャンプして口でキャッチする。こんなの簡単だ。そのまま引き返して、ディスクを奴に渡す。
「すごいじゃないか!」
「だろぉ?でも、まだまだだよなぁ?」
示されるままに、奴の足の間を八の字で通り抜ける。
足の下から放たれたディスクを先ほどよりずっと短い距離で掴まえて、取って返したと同時にまたそれを奴の手へと。それから、腰を折ったその背中をジャンプして飛び越える。
「よっしゃ、行けぇ!!」
くるりと背中から思い切り投げられたディスクは、いつもよりずっと速く力の入ったものだった。
エミヤの前だからって気合入れ過ぎてるのはお前の方だぞ。
放たれた瞬間に、俺は弾丸のように走り出した。身を低くして、思い切り地面を蹴る。体が熱くて、四肢に力が漲る。赤いディスクを一直線に追っていく。
俺ってこんなに早く走れたんだな。
少しばかり速度が落ち、下降してきたディスクめがけて思い切りジャンプする。
俺の顎はきちんとディスクに届いた。ガツッと固いそれを歯で受け止める。
勢いをそのままにまた走り出す。
「おし、よくやった!おい、おい、まだ終わってねぇぞ!コラ、こっちだ!!」
エミヤの許へと。
「ランサー!すごいじゃないか!!」
だって、エミヤがそこで褒めてくれるならそちらに行くに決まってる。
すごいか?俺、すごいか?褒めてくれ。たくさん、褒めてくれ。
耳を倒して、尻尾をちぎれんばかりに振りながら、俺はエミヤの足に体をすりつける。
「おい、俺にディスク戻して終わりなんだよ。最後までやれって」
咥えたままのディスクを引っ張って、呆れ顔で奴が言った。
「しかし、さっきのはよくとれたな」
えらいえらいと撫でられる。嬉しいな。いっぱい頑張ったもんな。
「君たち、練習してたんだな」
「俺も犬飼ってたからな、一度やってみたかったんだよ。優秀だったぜ、お前の犬」
「そうだろう、ランサーはとても賢いんだ。待て、何で私を撫でる」
「いやぁ、可愛くて」
「たわけ!」
と、エミヤが照れ隠しに言葉を続けようとする前に、奴はディスクを出す。
「ほら、お前も投げてみるか?」
「いいのか?!」
何だ。エミヤが投げるなら俺もっと頑張るぞ!
跳ねながら、投げられるのを待つ姿勢に入ると、エミヤが楽しそうに笑った。
休みの日の朝の散歩は、エミヤも一緒に行くようになったので、俺はとても嬉しい。
「これで合点がいった」
「何だよ」
「たまに君の服の背中のところにランサーの足跡がついているのが心底不思議だったんだ」
「げ。マジかよ。叩いてたつもりだったんだが……」
ある猫に名前がついたこと
私は猫だ。くすんだ白い毛を持つしがない猫だ。
何の変哲もないただのつまらない猫である。
どこで生まれたかもわからない私は、野良として町に住みついていた。
まあ、時折誘われればヒトの家の飯も食っていたので、半野良とも言えるか。
猫としての可愛らしさも愛想もない私が、ヒトに飼われることなどありえないと思っていた。
薄汚い路地で暮らす私は、いつか惨めに一匹で死んでいくのだと、思っていた。
「よう。お前さん、この町でよく見かけるな」
あの男がそうやって私に話しかけるまでは。
塀の上にいた私は、それは驚いてびゃっと体を跳ねさせた後にさっと身を翻して逃げた。
「つれねぇなぁ」
アイツにそっくり。
男がそう呟いたことを、勿論私が知るはずがなかった。
「よぅ、べっぴんさん。良い天気だな」
「今日はそこか。もっと手の届く場所にいてくれると嬉しんだがねぇ」
私が毎回逃げ出してしまうのにも関わらず、男はよく私に話しかけた。
何度もそうするので、絶対に手が届かない場所では私が逃げることもなくなるほどにその男は私に話しかけてきた。
「なあ、アーチャー」
いつしか、奴は私をそう呼ぶようになった。
まるで愛しい者を呼ぶように、面映ゆそうに熱のこもった声で私をそう呼ぶ。
「いつかお前さんが触らせてくれるようになるといいんだがねぇ」
全く、本当は誰にそう言いたいんだがと、思う私と男の距離はその頃にはすっかり近いものになっていることに私は知らないふりをする。
「アーチャー」
何度も繰り返し、繰り返して呼ぶその名前が、いつか本当の名前になる予感がその時にはもうしていたのかもしれない。
「なあ、猫飼わねぇ?」
瀕死の私を救った男は、私に家を与えた。
「アーチャー……。ランサーは行ってしまったよ……」
私に似た男がそう言って、私は途方に暮れたその体に、自分の体を摺り寄せた。
あーちゃ、あーちゃー!!
ネズミみたいに小さな体をした青い毛並みの犬は、あの男にそっくりで、こちらの都合も考えずに突撃してきて私を苛立させるところさえも似ていた。
アーチャー!
いつの間にか、私の何倍もバカでかくなっても、甘えたがりになってしまったのは困ったものだ。
「アーチャー。おいで、ご飯にしよう」
「お、今日はサンマか!」
「クー!ちょっとは待ちたまえ」
アーチャー!飯!飯だぜ!!
いつの間にかその名前は私に染みついて、もう名無しに戻れそうにもない。
全く、困ったものだ。
幸せの場所
家の中で居心地のいい場所はアーチャーがよく知っていて、俺はよくその姿を探す。
その日の一番気持ちいい場所は、たっぷりと日差しが差し込む二階の窓際で、アーチャーはそこで香箱座りでうとうとしていた。
その側にももう先客がいた。エミヤだ。
昼過ぎのこの時間には珍しく、体を横たえてすうすうと寝息を立てている。
俺も俺もとアーチャーとエミヤの間、ついでにエミヤの脇の下に頭を突っ込む。鼻先にはアーチャーの白い毛が触れる。
「ん……ふふ、ランサー」
俺の気配にエミヤが目を開き、とろとろとした顔で笑ってから頭に手を置いてくれた。それから、すうっとまた眠ってしまう。
あったかいし、エミヤもアーチャーもいるし、とても気持ちが良い。
くあっと俺はあくびをして、日向の中で目を閉じる。
「お。」
幸福に満ちた光景に、男は短く声を上げる。音を立てないようにしながらスマートフォンのカメラで何枚もその様子を写真に収めると、ふっと柔く微笑んだ。
幾度の困難も衝突も、幾日も積み重なった寂寞も焦燥も、この光景に辿り着くのならば悪くないものだと思えてしまう。
光の中に横たわる愛しい男の側に膝をつく。そっと触れて、さらりと髪を撫でる手にも起きない程に無防備な姿に胸がつまる。
同じように体を横たえ、夢から醒めぬように緩く抱きしめて男も眠りにつく。
あたたかなその場所は、まさに幸福の匂いに満ちていた。