幸せな匂いのお前がいい 後
ランサーという犬とアーチャーという猫を飼っているエミヤの話の続きです。
『噛むか?エミヤ、アイツ噛むか?』
前編はこちらからどうぞ→novel/10088570
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「少し、待ってくれないか」
ひどく動揺したように見えたエミヤは、ようやく一言そう言葉を落とした。
「……いくらでも待つさ。随分待たせたのは俺の方だからな」
「『待て』が出来るようになったとでも?」
すりガラスの向こうで男が小さく笑う。
「いや、今すぐにでも飛びかかりてぇ」
一際低い声は唸るように喉の奥でごろついていて、俺は思わず反射的にぐるり喉を鳴らす。攻撃的な雄が、扉を隔ているとはいえ俺のエミヤの前に立っているのだ。仕方ない。歯をむき出しにして低い姿勢をとらないのは、ただエミヤが俺に『ステイ』を命じたからだ。
威嚇だけで我慢しているのを褒めてほしい。後でたくさん褒めてもらおう。
俺の獣の唸り声にエミヤはハッと振り返る。
「ランサー」
わふっと俺が小さく吠えて応え、
「おう」
扉の向こうの男が返事をする。
「……」
エミヤはそれに一瞬怯んだが、俺の方へ近づいてきた。
「ランサー。よく我慢したな。いい子だ。えらいぞ」
俺にだけ聞こえるような小さな声で言いい、手を伸ばして俺の頭に手を置く。ゆるく撫でて、気が立っている俺を落ち着かせるように体を叩く。
嬉しいけど、褒めてほしいのは今じゃない。俺は扉の向こうの奴が気になって仕方ない。
「でも、ちょっとあっちにいてくれるか?俺は大丈夫だから」
大丈夫じゃない。俺はちゃんとわかっている。俺に触れるエミヤを手は震えていた。
大丈夫と、大丈夫と繰り返しながら、エミヤは、俺とさらには自分の気を落ち着けるように何度も俺の頭を撫でた。
「ランサー、大丈夫だ。だから、ここにしばらくいてくれるな?」
そっと首輪を持って、エミヤは俺をリビングの大きなゲージの中に入れた。俺は大きな体で嫌だ嫌だと抵抗したが、エミヤは許してくれずに鍵をかけてそう言った。それはお願いや命令よりも懇願に近くて、どうしようもなく俺を従わせてしまう。エミヤは俺を従わせるのが上手い。でも、それを今やるのはとてもずるい。すごくずるい。
しばらく玄関で何やら話していたようだが、やがてエミヤは男と連れ立ってリビングに入ってきた。
エミヤが奴を家に入れた。それがどういう意味なのか、俺はわかっている。
「犬を飼ったのか」
リビングにいる俺を見てその男は言った。
何だか俺みたいな奴だった。赤い目に青い尻尾は俺とおそろいだ。
「寂しかったか?」
男がゆるく首を傾げて、からかうように言いながらエミヤを見る。
「ランサー!」
荒げられた声に、俺はがうっと答えた。
噛むか?エミヤ、アイツ噛むか?エミヤには内緒だが、鍵がかかっていようと、こんな柵俺にとっては無いのと同じだ。
「ふ、良いボディガードだ。冗談だよ、犬ころ。ジョーダン」
俺はこちらを見る奴をぎっと睨み返す。エミヤに何かしてみろ。ただじゃおかないからな。
「良い目をしてるな。良い犬だ」
俺を観察する目。その奥に潜んでるものが俺にはわかる。コイツはとても危険だ。俺と同じ獣。でも、残念だな。俺はそれしきじゃ怯まない。
「『ランサー』」
男に呼ばれ、俺の耳がピクリと跳ねる。
「犬に俺の名前をつけたな」
すうっと細められた目が、エミヤを見る。俺の喉が勝手にぐるぐると警戒の音を上げる。
「君だって、猫に私の名前をつけた」
エミヤもそんな男に怯まない。当然だ。俺の飼い主は最強だからな!
「『アーチャー』」
言ってから、男は息を吐くように小さく笑った。ほどけるようなその顔に、エミヤが息を呑む。
「アーチャーは元気にしてるか?……お。おぅ、やっぱりそういう反応すんのな」
アーチャーは俺たちがリビングに戻ってきた時にはすでに、一番高い戸棚の一番上でじっとこちらを見下ろしたまま動こうとしない。ちょっとした置物みたいだ。
「エミヤ」
男に名前を呼ばれて、エミヤが肩を震わせる。
「なあ、エミヤ」
呼ぶ声に甘さが混ざり、思わずというようにエミヤが白いまつ毛に縁どられた目を伏せる。
「こういう時は、目を反らすな」
男が伸ばした白い手に、思わず俺はここ一番の声でがうっと大きく吠えた。
一度吠えるともう耐えきれず、俺はゲージの中で体を跳ねさせながら男に向かって吠える。俺の重くて大きな体に耐えきれず、大型犬用のでかいゲージが凄まじい音を立ててガタガタと揺れた。
「ら、ランサー!」
男の手から逃れ、エミヤが慌てて俺のゲージの前に膝をつく。ばうばうと吠えたてる俺は、真正面にきたエミヤに怯んで、二の足を踏む。俺は男に吠えたいのであって、大切な主人のエミヤに向かって牙をむきたいわけじゃない。
「ランサー、落ち着け。大丈夫だ。ほら、俺が何かされたわけじゃないだろう?」
そんなこと言っても、エミヤ。お前、ちっとも大丈夫じゃないじゃないか。
「しゃーないだろう。俺がソイツのテリトリーでお前に手を出したんだから」
「なぜ君がこの子の肩を持つんだ!」
「だって、なあ?」
エミヤの向こう、涼しい顔をしてるアイツに腹が立つ。お前のせいでエミヤが困ってるんだぞ!
「俺が悪い。急に知らない奴が来たらビビるだろ。それに、急に帰ってきたのは俺だ」
「……」
男がエミヤの背中に話しかける。エミヤは表情の読めない顔をしている。何て顔をしてるんだ。
「帰ってきたと言うのか。君は、この家に」
「あぁ、帰ってきた。ようやく、お前のもとに。ここが俺の家だ」
「……そうか」
目の前のエミヤの様子にすっかり俺は戦意喪失してしまって、はっはと荒い呼吸を繰り返した後に、くうっと鼻を鳴らした。
「エミヤ。俺は言ったぞ、必ず帰ると」
「疑っていたわけじゃないさ」
小さく息を吐いて力を抜き、エミヤは奴の方に振り返る。
「なら何だ?」
鋭い視線に貫かれ、エミヤは何か言おうと口を開いた。言葉の先を見越して、男の目が細められた。
「何でもない、なぞ言ってみろ。ぶっ飛ばすぞ」
「物騒だな」
「はぐらかすなよ。今、下手なことしてみろ、お前の後ろのボディガードが何するかわかんねぇ」
俺のことを言っているのはわかって俺は一声がうっと吠えた。何でお前がほらな、って顔するんだ。
俺はぐいぐいと細い柵に体と長い鼻面を押し付けた。少しでもエミヤの近くに行きたかったからだ。その気配がわかったのか、エミヤがこちらを見てほんの少し笑った。
「ただ……」
俺がいるゲージの柵に体をもたれさせ、柵からはみ出た俺の毛を撫でて視線を落とす。
「長かったな、と思って……」
がしゃんっと俺がゲージの柵を大きく鳴らしたのと、奴が大股でエミヤに近づき手を伸ばしたのとほとんど同じだった。
うぅぅうと俺は低く唸り声を上げる。
「ランサー、大丈夫だ」
大丈夫、大丈夫だと繰り返す。それは俺に言っているようでもあり、その腕の中の男に言っているようでもあった。
ぎゅっと男はエミヤに抱きついている。俺がたまにひどく甘えてエミヤにそうするみたいに。
「ランサー」
すぴっと俺は鼻を動かす。
その声はまるで泣いているようなのに、エミヤの匂いは幸せのそれで、俺はちょっと混乱する。
「おかえり、ランサー」
エミヤがまるでその匂いを嗅ぐみたいに、男の肩口に顔を埋めた。