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なぜ田村玲子は逃走も反撃しなかったのか?哲学から読む『寄生獣』読書会

食べたパンの数と同じくらい、『寄生獣』を読んだ回数は覚えていない。何度読んでも面白いし、何度読んでも考え込んでしまう。”寄生獣”とは何なのか、シンイチはなぜあんなことをしたのか(あるいはしなかったのか)。田宮良子から田村玲子へどのように変化したのか。一つの疑問が解けると、また次の疑問がわいてくる。

一人で考え込んでてもしょうがない。なので『寄生獣』の読書会があるというので行ってきた。6人で2時間、みっちり語り合ってきた。哲学カフェの読書会ということで、哲学の切り口から『寄生獣』を眺めることができた。

物語構造からすると、最も変化するキャラクターが主人公になる。天涯孤独の身から栄光を手に入れたり、幸運の絶頂からどん底に転落したり、失われた愛・友情・宝を手に入れて、登場人物の中で劇的に変化する存在となるのは、主人公だ。

その意味で、シンイチほど大きく変化したキャラクターはいないだろう。だが、その変化は判別がしやすく、寄生獣という物語の中で一貫性を保っている。

しかし、田宮良子も、シンイチとは別の意味で、大きく変化したキャラクターだと言える。だろう。単純に捕食する「獣」から生前の経歴を乗っ取り、その人格として生きていこうとする。「この種を食い殺せ」という”命令”に反し、人間のような食生活で生きていこうとする。

さらには子を産み、その子どもを守ろうとする。

寄生生物として生まれた存在が、母になるのだ。

この変化は、シンイチの変化と本質的に異なる。シンイチは、ミギーとの共生によって「人間とは何か」を問い直す。身に掛かる火の粉を振り払ううちに、人間としての感情を喪失してゆき、さらには取り戻していく(涙が……)。

一方、田宮良子(田村玲子)は別のやり方で同じ問いを繰り返す。人間を観察し、人間のように振る舞い、人間の感情に触れていく。大学の講義(たぶんモグリ)を聴講し、人を含めた生物の利他行動を学ぼうとする。

このとき「なぜ人は子どもを守るのか」という疑問を抱いたに違いない。

サピア=ウォーフ仮説を田村玲子に適用する

読書会で挙げられた中で、「人間を研究していくうちに、人間のような感情を抱くようになったのではないか」という意見が面白かった。

田村玲子の行動を、サピア=ウォーフ仮説で説明するのだ。この仮説は、簡単に言うと「認識や思考は、使用している言葉に影響される」という考え方だ。

人は、自分が使う言葉の枠組みの中で世界を理解する。小雨、霧雨、春雨、にわか雨、夕立、時雨など、季節や時刻や状況によって細かく呼び名を変えている文化と、rainで済ませている文化がある。そのとき、同じ気象現象に出会ったとしても、異なる経験をしている可能性がある。

本を読んで人間社会を学んだミギーと、映画のビデオで日本語を学んだジョーの「個体差」にも現れている。相手を観察し、持っている知識と状況から合理的に結論を導こうとするミギーと、まずは行動し手っ取り早くカタを付けようとするジョーの性格が対照的だ。

この仮説を田村玲子に当てはめると、少し面白いことが見えてくる。”彼女”は、人間を観察するだけでなく、人間社会の中で生き始める。人間の言葉を使い、人間の制度の中で生活し、人間の学問を学ぶ。

最初は単なる擬態だったのかもしれない。だが、使い続けるうちに、その言葉が前提としている世界観もまた、彼女の中に入り込んでいったのではないだろうか。例えば「母」や「子」、「守る」や「利他」は、寄生生物の世界には存在しない概念だろう。こうした言葉を理解し、使っていくうちに、田村玲子はその概念の中で認識を深め、思考するようになる。

田宮良子の時は、子どもとは、「何かの実験に使う」ための素材であり、「用がなければ食う」ための食糧だった。

田村玲子になり、生物としての母だけでなく、母という概念を内面化していった結果、「子どもを守る」ことを最優先とするようになった。倉森との最後の会話で「自分でも驚いているわ……」と呟いたのは、その証左だろう。

これが、ミギーのこの疑問(そして私の疑問でもある)への答えとなるのかもしれない。

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『寄生獣』第48話「ただいま」より

銃撃の中に身をさらすのは、自殺行為のように見える。もし、”彼女”が寄生生物としての論理で行動するなら、自分の生存を第一に考えるはずだ。

抱いた子に自分のDNAは無い。だが、シンイチから「その子供はおまえのか?」と聞かれたとき「そう……あたしのよ」と答えた(第36話、「あたしの」には傍点)。人間の言語で思考するうちに、選択の基準は変化し、「自分」ではなく「自分の子ども」を守る存在となった。その瞬間、田村玲子は人間の倫理の中で行動する生物となったと言えるだろう。

田村玲子は東福山市で何をしようとしたのか?

なぜ、寄生獣たちは、市長を擁立し、市ぐるみで群れをつくろうとしたのか?

この疑問に対し、第29話でミギーが答えているが、「静けさを保ちつつ食糧を確保していくために、数十万単位の人間個別の情報を管理・把握するため」が正解に近いだろう。

だが、田宮良子はこれに、どのように関わっていたのか?作中ではあまり語られず、シンイチからの質問には「さあ、よく知らない」とはぐらかし(人間っぽい!)ている。

この疑問に、ハンナ・アレントの『人間の条件』を援用した解説が面白かった。

アレントは人間の営みを3つの段階に分けている。

  • 労働:食べ物を得る、生き延びるといった生命維持
  • 制作:道具や制度、文化など、持続する人工物の創造
  • 活動:人と人との関係を結び、公共空間での言論や政治活動

アレントは、人間の自由とは3つ目の「公共空間での言論や政治的活動」にあるとし、消費社会や全体主義により、この自由が奪われていると主張した。

この視点から見ると、寄生生物は、最初の「労働」の段階にいる。つまり、「食べる」ことだけが目的だ。人間を捕食し、生き延びる。それだけになる。

だが、”彼ら”は次の段階に入る。寄生生物どうしが連絡を取り合い、役割を分担し、組織的に行動する。市長を擁立し、都市の行政に入り込み、社会の仕組みを利用する。これは、単純な捕食ではなく、「制作」の段階になる。

田宮良子は広川と組むことで、「食料を確保するための社会システム」を作ろうとしたと言えるだろう。東福山市の人口は約50万、これだけあれば、寄生生物は安定した食糧を確保できる。

そして、田宮良子は次の段階を考えていたのかもしれない。

それは「活動」だ。単なる組織ではなく、「人と共に生きる社会」を作る段階になる。もし、寄生生物がこの段階に到達できたなら、それは単なる捕食者ではなく、一つの政治的存在になる。第1話のモノローグや、第55話の広川の演説により「増えすぎた人間を間引くため」という文脈に引っ張られがちだが、軍事利用できるプレデター部隊としての未来もありうる。

その未来が、どんな未来なのか、ついぞ知ることはできないが、寄生生物と人間が、どのような関係を結ぶことができるのか、その問いを考え続けていたのかもしれぬ。

“彼女”の計画は破綻し、「仲間」だったはずの寄生生物からも狙われるようになる。合理的に考え、一糸乱れぬ組織づくりができるという見込みは、予想外なほどの個体差、個性の衝突により崩れ去った。

その意味で、田宮良子は寄生生物としての限界を感じていたのかもしれぬ。「後藤」のような、か弱い最強の個体を作り上げることはできても、統率された組織として活動を維持していくことは適わない。人間ならそこで絶望を感じるかもしれないが、田村玲子は「ああ そうか」と思うだけだろう。

もちろん、田村玲子は市役所の包囲戦など知らない。だが、このままでは人間に追われ、狩り取られていく未来が見えていたのかもしれない。だから、警官隊に囲まれたとき、逃げることも戦うこともしなかったというのは、人間という生き物を理解してしまったが故の選択だったのかもしれない。

こんな感じで、『寄生獣』を哲学から読む読書会だった。

私は、『SFマンガで倫理学』を紹介しながら、生物全体のバランスや生態系そのものに価値があるとする「エコセントリズム」vs「人間中心主義」という人間が生きるために生態系を守る価値観との戦いの構図を紹介した[URL]

他にも、シンイチが後藤を殺さなかった理由を、望遠鏡の倫理で読み解いたり、ガイア思想に抗い主人公が最後にした決断を『風の谷のナウシカ』と比較したり、「母という存在」を泉信子と田宮良子を重ねてみたり、ラカンの大文字の他者をシンイチの行動に適用したり、さらなる深読みの手がかりをもらえた。

哲学カフェ アテナイの散歩道の主催の藤沢さん、参加者の皆さん、ありがとうございました。

おまけ:会場近くの青島食堂のラーメンがめちゃくちゃ美味しかった。

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