星と犬 【槍弓】
F1パロ槍弓、これにて完結。
総集編として出した本が完売して一年経ちましたので、終章をこちらに上げさせて頂きます。
本にした物は編集や校正をしておりますが、こちらは一番最初に書いたものをそのまま、まあつまりはいつも通り一発書きのもの掲載いたします。
と言っても大した違いは無いのですが。多分。
思いの外多くの方に愛読していただき、感謝の気持ちで一杯です。
スパークの申し込みしました。
錬鉄さんの総集編とか出す予定です。
……出せるよな?
ifの物語として別冊で刀剣男士ゲイボルクも出せれば良いなと思います。
刀剣男士ゲイボルクは槍弓になるから錬鉄さん本編とは分けますけどね。
あとは現パロの槍にょた弓とか計画中。
錬鉄さんの方はあとで発行部数のアンケート取ると思います。
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陽炎の上がるサーキットも、響くエンジン音も、全てが、遠い。
会場内のどよめきすらも、耳には遠く。
ただ、モニタに映るその壁を、動かぬマシンを。
悪夢のように、動けぬまま見せられ続けていた。
ランサーがF1デビューして七年目のグランプリ。
初戦、第二戦、第三戦と走り抜け、第六戦を終えた現在の順位は同率四位。チャンピオンを目指すには悪くないポジションだ。
第七戦の行われるここへ移動して、マシンの状態を見終えたアーチャーは久しぶりにランサーと過ごしている。
「あっちいなあ、相変わらずここは」
「それが良いのだろう、君は」
ホテルは空調が利いていて、外の暑さを感じさせない。それでも肌で感じるこの地域独特の空気感に鼻を動かすランサーに、アーチャーは冷たい茶を用意しながら笑った。
「んな事言ったか、オレ」
「言ったな。サーキットの暑さはこの時期のここが一番良い、とね」
生まれ育った故国には無い暑さとうだるような熱気が心地よいのだと、太陽に愛されたと一部で賞される男は笑って答えていた。
さて、あれは何年前のインタビューだったか。
「オマエ、ホントオレの事は良く覚えてるよな……」
レーグだってそんな細かいところまで覚えてねえぞ。そう呟くランサーの顔は、何だかんだで嬉しそうだ。愛する人間が自分のことをよく知ってくれているのが嬉しいと、そう顔に書いてあって、アーチャーは思わず顔を背ける。ドライバーのことを知るのもマシンの調整に重要な事だからな、と言ってはみるが、それが言い訳にしか聞こえないだろうことはアーチャー自身にもよく分かっている。その証拠に、ランサーは口元を抑えてくつくつと笑っているのだからどうしようもない。
「さっさとシャワーを浴びてこい! 外食するのだろう!」
羞恥に任せて怒鳴りつければ、おお、怖い怖いとおどけながらシャワールームに引っ込む青い髪。アーチャーは真っ赤な顔のまま、ランサーのスーツケースを開いて中身を整理しながら彼を待つことにした。
この辺りの国特有の、香草をたっぷり使った料理を気に入っているランサーは、必ず来国初日に外食をする。今日は何処に連れて行かれるのかと、不安三割期待七割で、アーチャーは黙々とランサーの荷物を整理するのだった。
食事をして、ほろ酔い加減で、レースが終わるまではお預けだからと愛し合って。
当たり前の朝を迎え、フリー走行が終了したその直後。
一本の電話が、トラブルを告げた。
「ランサー、すまん」
「あん? どうかしたのかフェルディア」
ランサーのマネージャーであるフェルディアからの電話。
「とんでもないでっち上げしやがった」
詳しくはこれから送るFAXとURLを見てくれと言われ、一旦通話を切る。
何があったのかと首を傾げながら歩いていると、スタッフの一人が顔を青くして走り寄ってきた。
「ランサーさん!」
「おう、お疲れさん。どうした、何かトラブルか」
「マシンの方はこれからです! それよりもランサーさん、これ!」
スタッフが手にしていたタブレットを差し出す。
そこには、ランサーととある女優が車の中で顔を寄せあっている写真が写っていた。
「どういうことだフェルディア!!」
ホテルに戻り、改めてマネージャーに電話をする。電話の向こうの声は突然の事態の収拾に疲れの見える声だったが、それでも昔なじみであるランサーのリアクションは予想していたのだろう。きわめて淡々と事実を告げていく。
『今確認中だよ。ただ、向こうの所属事務所には確認してみたんが、あちらさんも寝耳に水らしい。完全にパパラッチの暴走だな』
注目を集めたい人間が、わざとスキャンダラスな写真を撮らせるのは昔から使われる手法だが、今回の場合は男女双方にその理由が無い。むしろ事実無根の記事に大迷惑だ。
この雑誌は程度の低い、下品で下劣、あること無いこと載せるので有名な雑誌ではあったが、それでもこうして世間に流れてしまうとやはり影響は出る。
「ならさっさと手を打ってくれ。それと、こっちには現物の雑誌が入ってきてないんだが、他になんか余計な事書かれてなかったか」
送られてきたURL並びにFAXは、ランサーのスキャンダル記事の一部しか出ていない。ウェブ記事が不完全なのは仕方ないが、雑誌を切り取ってFAXしているはずなのに中途半端なのはおかしいと、ランサーの感が告げている。
『お前はどうしてそう、鋭いのかな』
「何があった」
溜息をついたフェルディアに、ランサーが低い声で問いただす。
『お前自身の事じゃないよ』
「……じゃあ誰のことだ」
『アインツベルンと衛宮切嗣。と言えば分かるか?』
思わぬ名前に、ランサーは咄嗟の言葉を失った。アインツベルンは知っている。今はやや落ち気味であるが、誰もが知る有名なメーカーだ。数十年前はF1にも参戦していた筈である。だがそれ以上に問題なのは。
「どうして今、その名前が出てくる」
『こっちが聞きたい。あの事故の原因は衛宮氏のせいじゃないと公式に訂正されたのに、知らない馬鹿が居たんだろ』
衛宮切嗣。
今から二十年以上前、ある事故の前までは第一線の技術者としてモータースポーツ界で知られていた人物であり。
『記事は送る。お前自身の口から、アーチャーに教えてやれ』
「……エミヤ」
エミヤ・S・アーチャーの養父だった男だ。
これと言ったマシントラブルも無く、順調に整備の終わったアーチャーがホテルに戻ったのは、それでもすっかりと日が落ちてからだった。
スタッフ達が何か言いたげにしているのには気付いていたが、目の前のことに集中しろとレーグと二人で檄を飛ばしながらの作業であったため、どちらかというと精神的に疲れが来ている。
そのレーグも、作業終了後何か言いたそうな顔をしていたが、それをぐっと飲み込んで、アーチャーを早くホテルに帰れと促した。
『ランサー以外の人間から話を聞くな』とだけ忠告して。
そして、そのランサーはと言えば、アーチャーの帰還を彼の部屋の前で待っていた。
「……お疲れ」
「……ただいま。こんなところで何をしているんだ、君は」
「お前を待ってた。オレの部屋に来い」
着替えくらいはさせろというアーチャーの声を無視して、ランサーは彼の腕を引く。その様子と、スタッフ達の間に流れていたただならぬ雰囲気を思い出し、アーチャーはひとまず大人しく従うことにした。
「もういいだろう、手を離してくれないか」
ランサーの部屋に連れ込まれ、ベッドに座らされたところで、痛い、と苦情を漏らすと、ランサーは慌ててその手を離した。驚いた様子を見るに無意識だったのだろうが、掴まれていた腕は赤くなっている。
その腕をさすりながら、アーチャーは率直に尋ねた。
「で、何があった。レーグや他のスタッフ達も様子がおかしかったが」
すっ、とランサーの顔から表情が消え、アーチャーは驚いた。いつも表情豊かな彼の、そんな顔は見たことが無かったからだ。
「まずは、これから読んでくれ」
手渡されたFAXの束。その一枚目で、アーチャーは大体の事情を理解する。
ランサーと親しげな女優の組み合わせに、胸がざわつくものの、それ以上にほっとした。よっぽど悪いことでは無いかと心配していたが、この程度だったか。
なんだ、君のスキャンダル記事など数年前は当たり前だったろう。
そう口にすると、ランサーは無表情から苦虫をダース単位で噛み潰したような顔に変化する。
「信頼されてるのかされてないのかどっちだそれ」
「ご想像にお任せする。しかし上手く撮ったものだ。この角度ではギリギリキスをしているように見えなくもない。オマケに、後部座席をまるで写していないとはな」
ランサーは、女性を送るときは必ず他の誰かを車に乗せ、決して二人っきりになることはしない。それはアーチャーと付き合い始めてからの習慣であり、自己評価が低い恋人を不安にさせないための努力でもあった。
その努力の甲斐あってか、最初の頃は一々騒動になっていたものの、今ではランサーのスキャンダルはほぼガセとしてスルー出来るようになったアーチャーである。
そこに至るまでが本当に大変な苦労で、浮気や別れたくなったらはっきり言うこと、という誓いを立てたりと諸々あったのだが、ここでは割愛する。
「君はこのご婦人、覚えているのかね」
「ああ。いつだったのパーティーで、スポンサー殿に送っていってあげてくれと頼まれたから送った女だ。後ろには他のヤツもいたよ」
それはつまり、潔白の証人が居るということだ。それならばランサーのマネージャーであるフェルディアに任せておけば、時間もかからずにこんな話は立ち消えるだろう。それなのに何故、ランサーもスタッフも、ここまで緊張感を漲らせているのか。
「オレの潔白は、信じて貰えたか?」
「ああ。なんだ、随分と心配性だな」
君が酔狂にも私を好いているということは、この身を持って知っているつもりだが。アーチャーがそう肩をすくめてみせると、ランサーは安心したように大きな息を吐いた。
「話はこれだけか? ならばもう分かったから、着替えてシャワーを浴びたいのだがね」
そう立ち上がろうとすると、ランサーにまたもや腕を掴まれる。
本題はこっちだ、と。
そして手渡された記事に、アーチャーの目が大きく見開いた。
衛宮切嗣。
二十数年前、アインツベルンにて開発に携わっていた一人である。
彼の専門分野は主に機械制御などで、特に安全面に特化した開発をしていたことで知られる。
しかし、その彼の開発した安全装置を積んだテストマシンが事故、ドライバーは即死。その責任を取る形で彼はアインツベルンを追われ、その後は表舞台から姿を消した。
そして今、その衛宮切嗣の養子がとあるF1チームにおり、奇しくも彼と同じく安全面の開発をしている。
彼のチームのドライバーは現在のF1における宝であり、二十数年前の悲劇が起こらないように祈るばかりである―――。
悪意に満ちた記事内容を読むアーチャーの顔から、表情が抜け落ちていく。その様を見ながら、やはり見せるべきでは無かったかとランサーは後悔したが、もう遅い。
誰かに面白半分や悪意を持って教えられるよりは、自分が告げた方がマシだと考えたのだが、それでも恋人が傷ついていく様を見るのは辛かった。
二十数年前の事故については、当時、アインツベルンは安全装置が作動しなかったが故の事故だと発表した。しかし、その約十年後、新たにオーナーとなったイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの手により、件のマシンには最初から安全装置が積まれていなかったことが公表され、当時の上層部が衛宮切嗣氏に全ての罪を被せたということが発覚している。
事故当時、テストマシンの整備責任者は、衛宮氏が評価を高くするのを望まない上層部の子飼いで、その責任者は誰にも言わず衛宮氏の開発した安全装置を外して、自分の開発した安全装置に積み替えてマシンを走らせたのだ。
それで装置が作動してドライバーが助かっていれば良かったのだが、最悪なことに何も動作せずにドライバーは死亡。責任者は自分の罪を恐れ上層部に泣きついた。そしてその上層部は、F1チームに帯同していた衛宮切嗣に何も検証させず一方的に調査結果を発表し、彼に全ての責任を負わせたのである。
アーチャーが衛宮切嗣の養子になったのは、この後のことだ。だからアーチャーは切嗣の過去についてあまり知らないし、切嗣も語りたがらなかったので、このことについて直接聞いたことはない。
ただ、
『事故が起こるのは仕方ない。人は完璧じゃないし、予期せぬトラブルだってある。でも、作る側の努力で少しでも減らすことが出来る筈なんだよ』
そう語る養父の声と目を、アーチャーは今でも覚えている。
だからアーチャーは、切嗣の事件を知った後でもずっと信じていた。切嗣の作ったものがそんな事故を起こすはずがないと。
そして、イリヤスフィールの口から事件の真相が語られて、自分の信じていたものが正しかったと知って、アーチャーは嬉しかった。
貴方は間違ってなどいなかった、切嗣。
そう、涙を流した。
そうして決着したはずなのに、今またこうして悪意に晒されている。
確かに今期、ランサー達のマシンにはアーチャーが設計した安全装置が組み込まれている。それは勿論何度も実験を繰り返し、時にはアーチャー自身が身体を張って開発を重ねた、まさに血と汗と、自分で実験するだなんて止めろと殴る勢いで止めようとして、結局止められなかったランサーの涙の結晶だ。
それを、ただ面白おかしい記事を作るために否定されて、アーチャーが傷つかないはずがない。
黙ってFAXに目を通すアーチャーの横顔を、ランサーは黙って見つめる。やがて、全て読み終わったアーチャーの腕が落ち、片手で顔を覆ってしまう。
「エミヤ!」
「……ランサー」
ランサーが今まで聞いたことが無いほど弱々しい声で、アーチャーは彼の名を呼んだ。顔を覆ったまま、抱きしめてくるランサーに抵抗もせずに身を任せる。
「エミヤ、大丈夫だエミヤ。オレも、皆も、オマエの親父さんが正しかったことを、オマエの作った装置が何よりもオレを守ってくれると、ちゃんと分かってる。だから、大丈夫だ」
今、アーチャーが何を考えているか、ランサーには何となく分かる。養父の名誉を再び傷つけられた怒り、チームに迷惑をかけているという慚愧の念。それら全てが自分が原因であろうという、ランサーからすれば見当違いも甚だしい自己嫌悪。
「私、は、わたし、は、っ!」
これが、アーチャー自身への誹謗中傷なら、彼はこれほど傷つくまい。好きなように言えばいいさと、諦めの混じった言葉で通り過ぎるだろう。
しかし、今回はそうではない。この記事は、アーチャーの存在を出しにして彼の周りを侮辱しているのだ。ランサーのスキャンダル記事に添えるためだけの、無色の悪意を持って。
「オマエは悪くねえし、オレも周りも、こんなことぐらいで傷ついたり揺らいだりしねえよ。だから大丈夫だ。な、エミヤ」
何も答えないアーチャーを、ランサーはずっとその腕に閉じ込めていた。
どうにか落ち着いたアーチャーを風呂に入れ着替えさせ、食事を取らせて同じベッドに引きずり込む。
アーチャーが寝付いたのを見計らい、ランサーはフェルディアに電話をかけた。
「フェルディアか? ああ、悪ぃが頼みがある」
来ると思ってたよと、電話の向こうで昔なじみの親友が笑っていた。
翌日。
パドックに現れたアーチャーに、レーグは少しばかり困った顔で笑う。アーチャーは随分酷い顔をしていたが、その目に迷いは無かった。
「ランサーから全部聞いたんだな?」
「ああ、心配をかけた」
「そっか。で、どうやって立ち直った」
妙なことを気にするんだなと首を傾げて、それでも律儀に答えるアーチャーの返答はこうだった。
「安全装置の性能など、発揮する場が無いのが一番だ」
安全装置の性能が発揮される場面とは、即ち事故が起こったときだ。
つまり、あの記事を覆そうとするのは、それはつまり事故が起こって安全装置が評価される状況を望む、ということと同じ意味になる。
そんなことを、一体誰が望むというのか。
「出来ることをやるだけだ。評価が無いのを我々は望んでいるのだからな」
言い切ったアーチャーに、レーグは頷く。それに頷き返して、アーチャーはマシンへと向かった。その後ろにレーグや、様子を見ていた他のスタッフも続く。
誰よりもアーチャーが一番、ランサーの勝利と最速を願っている。そして同時に、誰よりもドライバーの命を大事に思っていることを、彼らは皆、知っていた。
「さあ、予選だ! 天候は晴れで一日安定しているということだから、エンジンの高熱対策とタイヤの状態チェックを忘れるな!」
アーチャーの声に、スタッフが一斉に応と答え、パドックに活気が満ちる。
その様子を、ランサーは少し離れたところから、安心したように見ていた。
本戦当日。
三番グリッドからスタートしたランサーは、順調に順位を上げて、レース半ばでトップを走っていた。
マシンに問題は無く、久しぶりに表彰台の天辺を狙える条件は揃っている。
雨が降りそうだが、レースが終わるまでは保つだろうというアーチャーの判断でタイヤは通常のままだ。
あとは最後のタイヤ交換を問題なく終えられるかどうかだろう。
ランサーも、アーチャーも、スタッフの全員がそう考えていた、レースも終盤にさしかかろうという時。。
「そろそろ交換だな」
「ああ、準備を始めよう」
と言っても大した準備は無い。あくまでも交換であり、手慣れているスタッフ達はいつでも準備万端だ。
あとはどのタイミングでピットインさせるかだが、その辺は監督の裁量になる。
監督の指示を待ちながら、サーキットの様子を写すモニターに目をやる。丁度、ランサーが周回遅れの群団の後ろに付いたところだった。隣で見ていたレーグが呟く。
「抜かしにくそうだな」
「ああ。いっそこの状態でピットインした方が楽かも知れん」
カーブの続く場所で、一台ずつならまだしも複数の車を追い抜くには向かない場所だ。ホームストレートまでは我慢だなと苦笑いして、モニターから視線を逸らす。もうすぐ目の前を通るマシンを肉眼で見たく、アーチャーはサーキットの方へ足を向けた。
周回遅れの一群が通り過ぎ、その直ぐ後をランサーのマシンが駆け抜けていく。
一瞬で駆け抜けていくその残像を、名残惜しく見送り、パドックに戻るアーチャー。
その、数瞬後。
ぐしゃりという破壊音。
そして、大きな破裂音と、何かが硬い物にぶつかる音が響いた。
誰もが、モニターを見つめたまま動けなかった。
周回遅れの数台のマシンのうち、ランサーに煽られて焦ったのか、その中の一台が無理な加速をして他のマシンに接触。二台揃ってコースアウトしたところを、ランサーのマシンが通り過ぎようとして、前の二台が接触した際に飛び散った破片を踏んでしまいタイヤがバースト。そうして、コントロールを失ったランサーのマシンが減速しながらも壁に激突。
後から映像を見れば、そういう流れだったという。
しかし、その場では誰もそんな事を把握出来ている筈も無い。誰もが目の前の現実を信じられずに、言葉を失い立ちすくんでいた。
セーフティーカーが走り、レーススタッフが救助に走る。二台のマシンのドライバーは、自力でマシンを降りる程度に無事であったようだが、ランサーはノーズの潰れたマシンから自力で下りようとする様子が見られない。
腕が、運転席からはみ出て、ぐったりとマシンの横に垂れ下がっている。
生きて、いるのだろうか。
それは、恐怖ともいうべき疑問だった。
沈黙と、その恐怖に耐えかねて、誰かが叫びかけたその瞬間。
「何をぼうっとしている! まだレースが終わったわけでは無いぞ!」
その場にいたスタッフ達が一斉に目を向けると、そこには眉間に皺を寄せたアーチャーの姿があった。
「ランサーはリタイアだが、我がチームはもう一台、必死で走っているマシンとドライバーがいるだろう! 自分たちの役割を忘れるな!」
叱咤するアーチャーに、それでもまだ同様の抜けきらないスタッフ達が戸惑う。その様子に、アーチャーはふっ、と少しだけ顔の力を抜いた。
「ランサーならば大丈夫だ。皆、私の力を知っているな。彼の脈も呼吸も、私の耳にははっきり聞こえる。骨の一本くらいは折れてるかもしれんが、ちゃんと生きているさ」
自身の特異体質――異常に発達した五感――でランサーの無事を確認しているというアーチャーの言葉に、スタッフ達はようやく生気を取り戻した。そしてそれぞれの仕事に戻る。その姿を見守るアーチャーに、レーグはそっと近寄った。
「アーチャー」
「嘘だ」
何を聞きたいのか分かっているとばかりの小さな言葉に、レーグは表情筋の動きを殺した。そうだ、この騒がしいサーキットの中で、いくらアーチャーの五感でもランサーの心音まで聞き取れるはずが無い。
それでも敢えてアーチャーは、そう嘘を言い切った。スタッフ達を恐怖から救うために。ひいては、もう一人のドライバーのために。
「すまん」
「何がだね」
「俺がやるべき事だった」
レーグは心の底から謝った。恋仲であるランサーの事故に、誰よりもアーチャーが平静で居られる筈がない。それなのに彼は、チームのためにランサーの生死を偽った。アーチャーの心情を考えたら、それは自分がやるべき事であったはずだ。例え推測でも、アイツが死ぬわけ無いだろうと言い切って、皆の不安を軽くするくらいは出来ただろうに。
気にするなとレーグに答えるアーチャーの手が、硬く握られて震えている。
モニターには、ランサーがタンカに乗せられていく姿が映っていた。
ランサーが緊急搬送された病院の廊下で、アーチャーは監督と共にランサーの処置が終わるのを待っていた。
運んだ救急隊員の話によると外傷は見当たらず、バイタルも正常だが、こちらの呼びかけには応えないという話だった。
頭を打っている可能性があると、運ばれたランサーはまずはCTやMRIを撮り、その上で異常が見つかれば手術に踏み切るという。
今はただ、医師が出てくるのを待つばかりだ。
他に人が居るはずなのに、何も音がしない。ここに座って何時間、何分経ったのか分からない。見上げた時計は読めても頭が理解を拒否している。
どうして、こんな事になっているのだろう。
どうして、ランサーはあの表彰台に立っていないのだろう。
どうして、どうして。
そんな答えの無い疑問だけが頭を回る。
そして、その疑問が、全ては自分のせいではないかと、最悪の回答を選ぼうとしたその時。
小さな音を立てて、処理室の扉が開いた。
「ドクター、ランサーは!」
監督が出てきた医師に詰め寄る。つられて立ち上がったアーチャーと監督の姿を交互に見て、医師が口を開いた。
「いっってぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
処置室から聞こえた、聞き覚えのある大きな声。いや悲鳴。
アーチャーと監督は思わず顔を見合わせ、次いで揃って医師の顔を見る。
聞こえたでしょう、と医師は笑う。
「脳震盪で意識を失っていただけで、幾つかの切り傷と打撲以外は元気ですよ」
検査結果も異常なしです。
付け加えた医師に、監督は大きな息を吐き出し、アーチャーはその場に崩れ落ちたのだった。
頭を打っているから様子見のためにと入院を勧められ、特別室に一泊することになったランサーは、監督やレーグとの面会を済ませて、今はアーチャーと二人きりの時間を過ごしていた。
が、しかし。
「エミヤ、なんでオマエそんなに離れてるんだ」
ベッドの上に上半身を起こしたランサーに、何故かアーチャーは近寄ろうとしない。数歩離れてこちらを見ているだけだ。
オレなんかしたか。もしかしたら汗臭いのか。
くんくんと自分の匂いを嗅ぐランサーに、アーチャーは小首を傾げる。
「何をしているんだ、ランサー……?」
「いや、オレが近寄れないほど臭いのかと」
「そんな訳ないだろう」
ズバッと即答するアーチャーに、じゃあなんでオマエこっち来ないんだと不満を口にすれば、暫し迷った後に恐る恐るランサーに近づいてきた。
「ほら、座れ」
腕を捕まえてベッドの端に座らせる。大人しくその力に従ったアーチャーは、どこか夢を見るような目でランサーを見つめていた。
「どうした?」
「……触れたら、消えるのではないかと」
これは夢で、君はあの時死んでいて、触れたら消えてしまうのではないか。
そう考えたら、触れるのが恐ろしかったとアーチャーは告白する。
「人を勝手に殺すな。ほら、触れ触れ。オレはちゃんとここに居るだろ」
馬鹿だなと笑い、アーチャーの手を取って自分の頬に当てさせる。ほら、ちゃんと温かいし、消えないだろうと片目を瞑ってみせると、アーチャーの手のひらが、その感触を確かめるようにランサーの頬を撫でた。
「温かい、な」
「おう」
「生きてる、んだな」
「オマエを置いて死ぬかよ」
「っ、私が、きみを、しなせたかと……っ!」
先日の記事のことを引きずっているのだろう。鋼色の瞳を揺らすアーチャーを、ランサーは傷の痛みも忘れて抱きしめ、何度も口付けた。
「たわけ。オマエが作ってくれたあの安全装置が働いたから、オレは大した怪我もなくこうしていられるんだ。オマエがオレを助けてくれたんだ」
そんな事はない、私は何もしてないと首を振るアーチャーを、ランサーは更に力を入れて抱きしめる。ランサーの目から、熱い物が流れてくる。
「ありがとうなエミヤ。オマエがオレを助けてくれた。オマエが命をかけて開発してくれたおかげで、オレはこうして生きている。ありがとうな。本当に、ありがとう。愛してるぜエミヤ」
「っあ、らんさー、らんさ、らんさーぁぁぁ!!」
ありがとう。愛してる。ありがとう。
子供のように泣きじゃくり、二人ぐったりと脱力したまま、一つのベッドに横になる。
怪我人と一緒に寝るのはとアーチャーは困り顔をしたが、互いに互いの体温が恋しい事は明白。故にポーズだけの抵抗はすぐに収まり、二人向き合って闇の中を過ごしている。
「ぶつかったときな」
「うん……?」
「意識が落ちる前に、一瞬、知らないんだけど何か見覚えのあるおっさんが出てきて、ぶん殴られた」
突拍子も無い話に、アーチャーが二度三度瞬きしたのが気配で分かって、ランサーはぎゅっと繋いだ手を握った。
「うちの子を泣かせたんだから殴っても良いだろう、だとよ」
あの一発のせいでオレの脳震盪が長引いた気がするんだが、あれ、オマエの親父さんだよなと苦笑いするランサーに、アーチャーはぽかんと口を開けた。黒髪の和服姿に無精ひげの生えた枯れた感じの男だったと聞いては、切嗣の特徴と一致すると答えるほか無い。
「オマエにごめんね、ありがとう、って言ってたぞ」
僕のせいで辛い思いをさせてごめんね、そして、僕の思いを継いでくれてありがとう、と。
本人に直接言えば良いだろうと思ったのが伝わったのか、だってあの子、僕が直接行っても、自分に都合の良い幻影だって信じてくれないんだもん。だなんて唇を尖らせていた。
「切嗣が、そんなことを?」
「ああ。だから、たまにおっさんが夢枕に立ったら、会いに来てくれたんだって素直に喜んでやれよ」
ランサーの見たこれこそ、幻影かも知れない。死者は語らない、動かない。それでも、誰かが誰かに伝えたいことは確かにある。それが死者の形を借りていたとしても、少しくらいは許されるのではないか。
それと同時に、『シロウを、よろしくお願いします』
最後に、そう言い残して消えていったあの男は、間違いなくアーチャーの父親だったと、ランサーはそう思うのだ。
「オマエが、親父さんを敬愛してる理由が、少し分かった気がしたぜ」
あれだけ深い愛情を注げる人間は、世界広しとはいえそうは居まい。勿論、ランサーも負けるつもりは無いが。
気合いを入れるランサーに、アーチャーはまたもや瞬きをしたのだった。
繋いだ手が双方熱い。
二人とも睡魔が近いことが分かって、今日のうちにこれだけは伝えておかなければと思ったことを、ランサーは静かな決意とともに口にした。
「なあ、エミヤ」
「何だ」
「幸せに、なろうな」
アーチャーからの返事は無い。
ただ、繋いだ手にぎゅっと力が込められた。アーチャーの、これが精一杯の答えなのだろう。
強く握り返した手の熱さをただ感じていると、小さな声が鼓膜を揺らした。
「クー・フーリン」
「ん?」
暫しのためらいの後、控えめにアーチャーは告白する。
「ずっと、君と。
―――生きていけたら、いいな」
「いけるに決まってるだろ。オレとオマエが望むなら、この先
―――いつまでもな」
太陽の光に、その輝きを見失っても。
暗い雨雲に、その姿を見失っても。
私の中に、星はある。
オレの隣に、犬はいる。
ずっと共に、歩いて行ける。
了