蜜月よりも甘い
クー・フーリン・ミードを巡る槍弓のあれそれ。
初めてクー・フーリン・ミードという名前のお酒を知り、今日飲んでみたのですが、思いのほか優しい味わいでびっくりしました。蜂蜜酒自体がそういう味なのだといわれればそれまでなのですが……。それにしても、英雄の名前がそのままお酒になるなんてロマンがありますよね……。
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「クー・フーリン・ミード?」
その日、カルデアのキッチンは珍しく閑散としていた。
聞き慣れない単語に、エミヤは片眉を上げる。
ミード――蜂蜜酒。
だが、その前についた名前が問題だった。
クー・フーリン。アイルランドの誇るケルト神話の大英雄。
そのミードときた。
「そう!クー・フーリンの名前が入った蜂蜜酒の名前!」
キラキラとした笑顔で語ってくる目の前の少年は、まだ酒を飲める年齢でもないだろうに「すごいよねえ」と笑っている。
人類最古の酒、蜂蜜酒。ヨーロッパでは古くから親しまれ、ハネムーンの語源ともなった縁起物だと聞いてはいるが――。
「英雄の名を冠した酒……か」
ケルト文化において、蜂蜜酒は不死の飲み物として伝えられている。同時に、クー・フーリンの伝説にも登場している。
しかし神話上で彼が蜂蜜酒を愛飲している描写はあれど、クー・フーリン・ミードなどという酒の名前は見たことも聞いたこともない。
「マスター、その話はどこで?」
問いかけるエミヤに、少年――藤丸立香は少しだけ得意げに胸を張った。
「えっとね、ダ・ヴィンチちゃんが持ち込んだ資料の中にあったんだ。現代の日本で造られてる蜂蜜酒なんだって。英雄の名前を冠する企画酒、みたいな?」
「……なるほど」
現代。企画酒。
そう言われれば、確かに辻褄は合う。英雄の名を借り、物語性を与え、味に付加価値を持たせる。商業としては悪くない手だ。
――だが。
「よりにもよって、クー・フーリン、か」
呟きは自然と低くなる。
その名を口にしただけで、胸の奥がわずかにざわついた。
「あはは……そこ引っかかる?」
相変わらず仲が良いのか悪いのか。立香は苦笑を浮かべながらそれでも話を止めることはない。
「クー・フーリンも飲んだかもしれないお酒……興味深いよね!」
「マスター、君は未成年だろう」
「ま、まだ飲むなんて言ってないよ!」
訝しげな視線を向けるエミヤに、慌てた様子で訂正する立香。
「しかしミードか。料理なら隠し味やソースなんかにも使えるな」
「お酒を料理に使うのってよく聞くよね!蜂蜜酒も使えるんだ!」
感心したように目を輝かせる立香へ、エミヤは豚肉の味噌ソテーにラム肉の蜂蜜酒煮込み、蜂蜜酒のソースなどのレシピを羅列する。
こうしてみると、ミードというのも悪くない。
……あの男の名を冠するものなら、なおさら。
「……で。そのミードはどこに?」
エミヤの問いは、あくまで何気ないものを装っていた。
知的好奇心。資料確認。現代文化への理解。
どれも尤もらしい理由は即座に用意できる。
だが返ってきた答えは、あまりにも軽かった。
「え?ないけど?」
立香は首を傾げ、悪びれもせず即答した。
「資料に名前が載ってただけだよ。実物はカルデアに持ち込まれてないって」
「……ない?」
反射的に聞き返してしまった自分に、エミヤは内心で舌打ちする。
必要以上に間が空いた。声も、少しだけ低くなった気がする。
「うん。だって企画酒でしょ?たまたま資料に混ざってただけみたい」
あっさりと言われてしまえば、それまでだ。
存在しない酒。
飲めないのなら、気にする理由も、本来はない。
――はずなのに。
「……そうか」
そう言いながら、エミヤの視線は無意識にキッチンの棚へと流れていた。
そこに蜂蜜酒の瓶など、あるはずもない。
分かっている。分かっているのに。
(ない、か)
胸の奥で、何かが小さく引っかかった。
クー・フーリン。
その名を冠した酒。
彼が生きた時代には存在し得なかった、現代の蜂蜜酒。
(本人は、どう思うだろうな)
名を勝手に使われたことを面白がるのか。
それとも一笑に付すのか。
あるいは――味を確かめてみたいと言うだろうか。
想像は、勝手に膨らむ。
「エミヤ?」
「……何だ」
「蜂蜜酒……欲しかった?」
「いいや、そこまでのことではないさ」
即答したものの、立香の目は疑わしげだった。
だがそれ以上追及されることはなく、話題は別の方向へ流れていく。
それでも。
エミヤは、もう話を聞く前には戻れなかった。
存在しないはずの酒。
それでも確かに「ある」と知ってしまった名前。
(……クー・フーリン・ミード、か)
英雄の名を冠した、甘い酒。
彼が笑いながら杯を傾ける姿が、やけに鮮明に脳裏に浮かぶ。
――もし、あったら。それはどんな。
そんな仮定が、頭を離れない。
飲むつもりなど、なかったはずなのに。
酒に弱い自分が、触れる必要などなかったはずなのに。
それでも心のどこかで、彼の名を冠したものを、彼より先に知ってしまったことが、妙に落ち着かなかった。
(……馬鹿馬鹿しい)
自嘲しても、思考は止まらない。
ないはずの酒を、ないはずなのに、どうにかして確かめたくなっている自分がいる。
それがすべて、クー・フーリンという男に惚れているせいだと、エミヤは認めないまま、静かに息を吐いた。
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- 寿司のシャリFeb 2nd