映画『うかうかと終焉』
映画『うかうかと終焉』(大田雄史監督、2023年。以下、本作)は「時間」の映画だ。
築100年のとある大学の学生寮。(大学側の一方的な通告により)あと5日で取り壊されてしまう。
ほとんどの学生は既に寮を去っていて、残ったのは東京での就職が決まっている西島伸太郎(西岡星汰)、10年も学生をやっていて寮に居座り続ける美濃部軍平(渡辺佑太朗)を筆頭に、前野中吉(三浦獠太)、児玉香奈枝(松本妃代)、村井均(中山翔貴)と、伸太郎の彼女で2年後輩の渡辺美月(乃中瑞生)の6人。
物語は、美月を送別する麻雀大会のシーンから始まり、些細な事件があったのち、彼女は新居へ行ってしまう。
児玉と村井も引越しの準備を終え、間もなく出て行ってしまう。
そんな中、伸太郎、美濃部、中吉の3人は「大学に抗議し絶対に出て行かない」と頑なに決意しているわけでもないのに、引越しの準備もせずダラダラと暮らしている。
大田監督は、『吉田寮の話としてやりたいとは思わなかった。むしろ京都にはしたくなかった。イメージとしては関西圏の中規模ぐらいの地方都市』とコメントしているが、しかし大田監督自身が京大生だったこともあり、もちろん本作は京都大学・吉田寮がモチーフになっている。
吉田寮がテーマといえば、本作パンフレットで奈々村久生氏が寄稿しているように、NHKの名作ドラマ『ワンダーウォール』(渡辺あや脚本、2018年)が架空の学生寮としながらも明確にソレを扱っているのに対し、本作は「その顛末」とも取れる物語だが、ソレは現在も(法廷に場所を移して)継続中であり、だから本作は完全なるフィクションということになる(つまり、本作はソレを扱っていないということだ)。
冒頭に書いたように本作は「時間」を扱っていて、そこには2種類の時間が流れている。
ひとつは、築100年という「建物の時間」。
もうひとつは、新築当時のバンカラから闘争からシラケの時代を経て、何も信じられない・情熱も傾けられない時代に至るまでの「人の時間」。
その2つの時間を繋ぐのは、「退寮時に壁に言葉を綴る」という寮の伝統だ。
本作は「何も信じられない・情熱も傾けられない」という、誤解を恐れずに言えば「メンドクサイ」現代の若者たちを描いた作品で、上記のように「熱心に大学側に抗議する」とか「抗議のために取り壊しが始まっても居座る」とかそんな情熱もなく、かといって素直に大学側に従うわけでもない若者たちが、この「カウントダウンの5日間」をどう過ごすか、それはつまり、妙に深刻ぶるのか、逆に何もなかったかのように振る舞うか、熱くなるか、感傷的になるか……そういった態度を示さない、というより、そういった全てが「嘘くさい」と知っているために、どう過ごせばいいかわからない、そんな宙ぶらりんな気持ちの揺れを描いている。
それはたとえば、伸太郎と美濃部の計らいで児玉に告白するシチュエーションになった中吉が、言葉を飲み込んで言うセリフに現れている。
卒業が近づくと、こう、みんなやり残したことないかな?みたいに言うでしょ。今やらんと後悔する。みたいな。
でも、期限ぎりぎりになったからって、これまでやらんかったことをやったり、言えへんかったことを言ったりしたって、なんかそれ、苦しいですよ。それまで出来ひんかったことなんやから、それは出来ひんかったことなんですよ。勢いで、はずみで出来たことにするより、ああ、出来ひんかったなーって思っていくほうが、なんか、真っ当とちゃいます?
この気持ちはよくわかる。
私はこのシチュエーションになって何が怖かったかと言えば、従来の青春物語のフォーマットに則って中吉が告白してしまうことで、それはやっぱり(劇中の)若者のリアルから逸脱すると思ったからだ。
だから、この中吉のセリフを聞いて(というか、今引用しながらも)涙目になってしまった。
さらに、それに対する児玉の応えが中吉(と私)との補完(対比ではない)になっていて、私の涙腺は完全に決壊した。
でもね、中吉くん。私は、できれば、言うべきやと思ったことは、言っておきたいねん。たとえ、最後の勢いの、はずみであったとしても。
二人のセリフが対比ではなく補完なのは、両者とも冷静、というより熱くなれない”切なさ"を抱えているから(さらに言えば、結局児玉は『最後の勢いの、はずみ』で本心と違うことをしてしまう)だし、一見両極にも思える二人の会話は、結局のところ「今が特別な時」という共通認識で成り立っているからだ。
この熱くなれない、にも拘わらず、冷静でもいられず、そのどちらかを気取ることすらできない自身の気持ちを持て余している若者たちも、各々何某かの決断をし、やがて伸太郎と美濃部だけが残った。
去って行った仲間たちも、残った二人も、大学と話し合いを続ける自治会委員長も、闘ったところで大学側に勝てるとはハナから思っておらず、寮の取り壊しは不可避だと悟っている(もっと言えば、確信している)。
そしてそのことは、築100年の寮の歴史のちょうど中間点にあたる時間と明確に対比される。
最終日になっても引越しの準備もせずグズグズし続ける美濃部に発破をかけようとしてか、伸太郎は白いヘルメットを被り、角材を燃料にして、ドラム缶の中で美濃部の大切にしていた書物を燃やしてしまう。
激怒する美濃部に対して、伸太郎が言う。
……やりますか。ロックアウト。バリケード2人でつくって。美濃部さんがやるって言ったら、やりますよ。美月も、中吉も。児玉さんだってすぐに帰ってきます。寮を通過していった人たちもきっと駆けつけてくれます。全国のOB・OGが、機動隊の隙をかいくぐり救援物資を投げ込んでくれます。美濃部さんがやるって言ったら、本当にできます。
伸太郎の言葉を聞きながら、私は泣けて泣けてしかたがなかった。独りで観ていたら嗚咽していただろう。
結局、伸太郎は自分の言葉を何一つ信じていない。反対に彼が信じているのは、美濃部が「やろう」とは絶対言わないことだ。
こんな切ないセリフがあるだろうか。
かつて、築100年の寮の時間の中間点に、そんな時代があった。
多くの若者がヘルメットを被り角材(ゲバ棒)を手に共に、大学と、社会と闘った、そんな時代があった。
築100年で取り壊しの決まった寮が最後に綴った物語は、ヘルメットを被り、手にした角材をバットに見立てて野球をする二人の若者の姿だった。
100年続いた寮の物語の時間は、終わった。
伸太郎は壁にこう書いた。
物語の外へ暗闇を進め
独り残った美濃部は日が傾いて暗くなった部屋で、畳にペンキで大きく書いた言葉は、伸太郎への返歌とも言えるものだった。
メモ
映画『うかうかと終焉』
2023年12月29日。@京都・出町座
出町座の近くには同志社大学がある。
その大学には、あの時代、『ニ十歳の原点』(新潮文庫)の高野悦子さんが在籍していた。



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