305.願いとお守り
兵士たちに護送されて、ジャンヌと彼女から裁縫の教えを受けている女性たち数人が領主邸に到着したのはそれから一時間ほど過ぎた頃だった。
「ジャンヌ、こんな時間にごめんなさいね」
「いえ、火急のご用と伺っています。娘を一人で残すのが心配だったので、連れてきてしまいましたが……」
ジャンヌは夫に先立たれ、飢饉で仕事を失って娘とともにエンカー地方に移住してきたお針子の女性だ。村で繕い物の仕事をし、時々メルフィーナの帽子や服を作ってくれる傍らで近隣の女性に裁縫の手ほどきをしてくれている。
そうして彼女の教え子の中から「裁縫」の「才能」が出たくらい、エンカー村に馴染んでいた。
「ジルは客間を用意するから、そこで休んでもらうといいわ。皆は、団欒室に移動しましょう」
こんな時間に領主邸に呼び出され、何が起きたのかと不安を隠せない様子の女性たちの気持ちが少しでも和らぐように、柔らかい声で告げ、先導して歩き出す。全員が席に着き、用意しておいた温かいコーン茶を振る舞ったことで、少しほっとした空気が流れ始めた。
メルフィーナも同じテーブルに着いてお茶を飲み、温みのあるカップで冷えた指を温めながら、改めて告げる。
「――数日後には公表することだけれど、エンカー地方に悪疫が発生した可能性があります。それに伴い、ここにいる全員に賦役を課し、かつ、公表まで領主邸への逗留を命じます」
全員に緊張が走り、五人いる女性のうち、二人が椅子を鳴らして立ち上がりかける。
「どうか、落ち着いて。今の時点では悪疫が発生した「らしい」という以外、何も分かっていないの。兵士たちも総出でその地域を封鎖して、最前線で働いてくれているわ。だから、彼らが少しでも悪疫を遠ざけるためのものを作りたいの」
ジャンヌとその娘は移住してきた人だけれど、それ以外は長くエンカー地方で開拓民として暮らしてきた人たちだ。
家族がいて、村のほとんどの人は顔見知りか親戚だろう。
悪疫の流行と聞かされて、心配にならないわけがない。家族だけでも遠くに逃げて欲しいと思うのも、人の心として当たり前なはずだ。
けれど、今混乱して千々に動くのは良くない結果を招くばかりだ。
なにより、悪疫が発生したのは古くからエンカー地方に住む人たちとは違う、出稼ぎの労働者ばかりが集まる場所だった。
家族や身内を守るために、人は時に、とても残酷になることが出来るものだ。
この二年半、いつも笑顔で生き生きと働いていた自分の領民たちだ。彼らにはそんな選択をすることなく、ずっと幸福でいて欲しいと、願わずにはいられない。
「ごめんなさいね。でも、あなたたちのことは必ず家に帰すし、それまでのお給金もきちんと支払わせてもらうわ。悪疫も今の段階で抑え込めるように、努力するから」
「いえ、メルフィーナ様。私たちに出来ることがあるなら、なんでも言ってください」
中でも一番若いだろう、まだ少女の面影を残した女性が、力強く言った。
「折角こんなに豊かになったのに、悪疫なんかに負けていられません!」
他の女性たちも顔を見合わせて、それからしっかりと頷く。
「悪疫って、悪い風の流行だよね。出来ることがあるなら、なんでもやらなきゃ」
「うん、急に夜に領主邸に――って言われてびっくりしたけど、お針子ばかりだったし、何か急な仕事かなって思ってたから、逆に良かったよね」
「ほら! だから言ったじゃん! メルフィーナ様が私達に変なことさせるわけないって!」
「私だってメルフィーナ様を信じてたけど! 貴族の話じゃよく聞くじゃん、美しい村娘を高貴な客人の慰み者に……って」
「あんたは吟遊詩人の歌を聴きすぎなのよ!」
一人が喋り出すと、わっ、と花が開いたように口々に話し始めた女性たちに、メルフィーナの方が圧倒される。隣に座っていたマリーも、驚いた猫のように目をまんまるにしていた。
どうやら、ここに来るまで大変な誤解があったらしい。
ひとしきり安堵と興奮が交じり合った言葉が出た後、最初に声を上げた女性が不器用そうに笑みを浮かべながら、告げた。
「メルフィーナ様、私達、ずっと貧しい農民で、子供の頃から何度も悪い風が体に入って、もう駄目かもしれないって涙を浮かべた親に抱きしめられたことがあるんですよ」
「実際、うちは兄と妹が、悪い風が入ってそのまま神の国に渡ってしまいました。父も、母も、多分そんなことを繰り返して、私達の家族はエンカー地方で生きてきたんです」
「メルフィーナ様が来る前って、ずっとそんな感じだったよね。冬は特に悪い風が吹くからみんな気を付けようって顔を合わせるたびに言い合ってて」
「秋がこんなに楽しいって思うようになったの、考えてみればほんの最近だよねぇ」
女性たちは明るい口調で言い合っていたけれど、その言葉は裏腹に重い。
「だからメルフィーナ様、私達、一緒に戦います。メルフィーナ様と一緒に」
「収穫祭、私達もみんなで歌を披露することになってるんです。よろしければ、メルフィーナ様も聴きに来てくださいね」
「もっと小さな子たちも頑張って練習してるので!」
「……ありがとう」
じわりと、メルフィーナの胸に温かいものが宿る。
明るく言い合っていても、彼女たちだって不安が払拭されたわけではないだろう。
それでも前向きに、そう言ってくれている。
問題が起きれば対処するのは領主の仕事だけれど、この土地を守り健やかな明日を迎えたいというのは、きっと領民たちも変わらない願いだ。
――今日のことを、彼女たちの言葉を、ずっと忘れないわ。
この先も領主として、誇りを持って生きていくために。
心に刻まれた。そんな気がした。
* * *
「皆に作ってもらいたいのはこれです」
植物紙を配布すると、女性たちはそれを手に取り、不思議そうな表情を浮かべた。
「みんなが来る前に、見本として1つ縫っておいたものがこれよ。こうして顔の下半分にかぶせて鼻と口を覆い、両端の紐を結んで自分の顔の大きさに調節するわ。ひとまず今夜でエンカー地方の兵士たちに行き渡る数を作るわ」
セドリックが運んできた布がテーブルに広げられると、女性たちは一瞬息を呑む。
「あの、これって、すごくいい布じゃないですか?」
「先日商人から買い付けたものよ。服を縫おうと思っていたけれど、型紙に合わせてどんどんハサミを入れて構わないわ」
用意したのは、メルフィーナの冬の室内服を縫うための、柔らかい上等な綿だ。
現在、エンカー地方にいる騎士と兵士はセレーネに付けられて入れ替わるようにマリアが来訪したため、そのまま駐留になっている二十三人と、エンカー村から志願して訓練を受け兵士になった者が十人ほどだ。
室内着用の布はマリーとマリアとコーネリア、レナもそろいで作るつもりだったので、量は十分にある。
「これで、悪疫を遠ざけることが出来るんですか?」
「ほんの少しだけね。無事を願う、お守りのようなものだと思ってくれればいいわ」
前世で手軽に手に入った合成繊維や不織布は、こちらの世界ではまだまだ未来の技術だ。
もしメルフィーナが作ることが出来ても、それが科学的に、医学的に使用に耐える物か判断することもできない。
悪疫が空気感染するウイルスならば、飯場を封鎖しその境界を守っている兵士たちも、感染のリスクにさらされることになり、結局はこれも徒労に終わるかもしれない。
それでも飛沫感染や感染源に触れた手指でうっかり顔の粘膜に触れるような事態を減らすことは出来る可能性はある。
手洗いと感染源への接触の注意を強く促すと同時に、顔にマスクをつけることで常にそれを意識して欲しいという願いもあった。
「一日に一回取り換えて火にくべてもらうから、日数分作り続けなければならないのだけれど」
「こんなに上等な布をですか!?」
布は粗末なものでもそれなりの高級品だ。貴族の室内着に使われる厚手で、それでいて柔らかい綿の布となっては、それだけで裕福な商人にとっても立派な財産のひとつになる。
マスクという概念のないこの世界の人々に、悪疫の最前線に立ちながらマスクを適切に洗浄し、運用することまで求めるのはハードルが高いだろう。
汚れた手で触れたマスクを使い続ければ、リスクは余計に上がる。
手指の洗浄を徹底してもらい、毎日清潔なものに取り換えるほうがいいという判断である。
既にエンカー村に滞在している大獅子商会に手持ちの布の購入の打診をしているし、それでも足りなければ、自分の手持ちのドレスにハサミを入れるつもりだ。
女性たちは一瞬黙り込み、それからそれぞれを窺うように視線を交わし合って、頷いた。
「ほんの少しでも、私達が兵士の安全を守れるんですね」
「ええ、きっと力になるわ」
メルフィーナが頷くと、ジャンヌがぱん、と手を打つ。
「裁断はロジーが一番上手だから、任せるわ。縫製はララとミリアムとルイーザで、リーゼは私と最終的な仕上げと調整を分担していきましょう」
「はい!」
「こんないい布にハサミ入れるなんて、緊張する」
「それ言ったら針を入れるのも緊張するよ。うう、失敗しないようにしなきゃ」
「針で指を突かないようにね」
「一番突いてるのはロジーでしょ」
「だから裁断役なんじゃん」
「あ、マスクを縫ってもらう間は、清潔を保つためにお喋りは控えてもらうことになるわ」
いつもわいわいとお喋りしながら裁縫をしていたのだろう、女性たちは一瞬黙りこくって、それからこくこくと頷いた。
口元をきゅっと引き締めて、ロジーと呼ばれた少女はみるみると顔が赤くなっていく。
「息はしていいのよ。――ロジー」
「っ、はい!」
「ララ、ミリアム、ルイーザ、リーゼも、しばらく窮屈な思いをさせてしまうかもしれないけれど、よろしくね。きちんと休憩も取ってもらって、滞在中は領主邸の料理長の、絶品の食事を振る舞うから」
エドの腕前は兵士たちや文官用の宿舎の料理人たちの口を介してエンカー地方ではすでに語り草になっているらしく、女性たちはぱっと表情を明るくした。
こんな時だからこそ、小さな希望と喜びを重ねていくことも大切だろう。
「私も次の動きがあるまでは、ここで一緒にマスクを縫うわ。――私たちに出来る戦いを、していきましょう」