龍角散は国替えを経て、常陸国(茨城県)から久保田(秋田市)へ移住した武士の一族だといわれ、何代目かが医者となり、江戸中期には大曲(大仙市)に住んだ藤井某がいたとされ、江戸末期になると久保田と大曲に薬店を開いた。 明治維新を経て、個人経営としては久保田を本店とし、1871年に東京神田、1873年に大曲に支店を開業。

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龍角散の古い資料には「龍角散は元は幕府の医者の処方です。幕府の医者が処方を明かさなかったため、藤井一族が習い行ったもの」と。この幕府とは水戸の徳川家。 水戸光圀に遡る水戸儒学、琴楽、医薬 とは密接な関係であったと言われております。 美郷町のと言われ出した原因はこれ。
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久しぶりに定期。 2014年2月1日~4月6日、秋田県立博物館で開催された「秋田のくすり今昔物語」から早10年。 翌年の2015年3月5日~5月29日には、秋田県立図書館で「ゴ本(ホン)!といえば くすり展~秋田のミニくすり博物館~」が特別展示されました。
3/1(土)に秋田県立博物館で特別講演会「現代にいきる伝承薬~龍角散~」が開催♪(株)龍角散代表取締役社長の藤井隆太氏を講師に迎えます。参加費無料。申込は2/28(金)まで。 homepage3.nifty.com/akitamus… #akita
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Replying to @kenseidoo
これは美郷町が生薬の里構想を打ち出したことに端を発したことですが、六郷町史だけを元にしても、龍角散の本来のエピソードとは異なる部分も多く、美郷町がここまでやらかす前に止めなければいけなかった立場の方が沢山いたのではないでしょうか? ameblo.jp/481655/entry-12607…
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所謂、テセウスの船をやってしまったのは、秋田県の美郷町と仙北市だと言われております。なので、疑問点等はそちらへ問い合わせください。 秋田市と大仙市、東京台東区と千代田区、そして茨城県水戸市に伝わる説と合わなくなっています。 コミュニティで拡散したのは、拡散した人の責任です。
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※藤井家を六郷出身(#美郷町)と書いているのは「六郷町史」のみ。 常陸国(#茨城県)から久保田(#秋田市)に入り、大曲へ移住したと書いてるのは、丸山浩一(日本家系図学会常任理事。家系研究協議会名誉会長)さんの著書です。 他にも国替えの時、国替えの少しあとに久保田へ来たという説が。
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江戸の中期に龍角散の原型となる薬を気に入った佐竹の殿様は誰であったのか? どの資料にもそこが書かれていません。 時期的に久保田藩は佐竹義敦。 佐竹義堯と東京がつけた2代藤井玄信、正亭治らは生まれていません。 藤井玄淵ですらもう1代ないし、2代前ではないかと考えられます。
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劇団わらび座様、龍角散、藤井家の関係者を騙り、龍角散の偽情報を吹聴したり、役所・役場・お寺等と勝手に交渉しようとしていたことが判明しています。 被害防止のため、偽アカウントのブロックをお願い致します。何かご存知の方は通報にご協力ください。
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〜と新聞にこう書いてあった 〜と言われているんですよ 資料には〜 ↑↑↑ 参考までに、資料に書いてあれば正しいのか?ということをいくつかあげてみました。
実は1805年ころに大曲の村(大仙市)にいたというのも、違うんですね。 これは1805年の記録から来ている物で、実際には江戸中期だと言われています。 本来は秋田市、大曲、六郷、東京下町、茨城県に藤井家が住んでいたという話なので、独自の解釈をしないようお願い致します。 あと、これ↓↓↓
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実は1805年ころに大曲の村(大仙市)にいたというのも、違うんですね。 これは1805年の記録から来ている物で、実際には江戸中期だと言われています。 本来は秋田市、大曲、六郷、東京下町、茨城県に藤井家が住んでいたという話なので、独自の解釈をしないようお願い致します。 あと、これ↓↓↓
龍角散の原型があったのは江戸中期。それを佐竹藩として創製したのが1797年だと言われていますので、玄信、玄淵を親子とするのには無理がありますね。 当家が六郷東根の町医者で、藩にあがるようになり、大曲に移住し、江戸にも出たという事実なし。 藤井家は江戸中期、または1805年には大曲にいる。
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Replying to @mugichanomouze
根本的に国替えの後に秋田市に来て、江戸中期には大曲にいたとされます。 龍角散の原型が作られたのは寛政年間(1797年)であり、東京側が2代とつけた藤井玄信は産まれていません。 また六郷村に住んでいたとされる藤井貞民は1809年に死去しており、そこから現在の子孫は産まれません。
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