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「フェミニズム活動家男性が性犯罪する病理」から、フェミニズムと日本社会の相性の悪さの根本原因と、苦境を打破する最大の味方はどこにいるのか?という話について

(トップ画像は、この記事で紹介する弁護士の太田啓子さんの著書より)

1●フェミニズムに過剰に帰依する男性は”女性の味方”ではないのかも?

先週、ヒステリック・ブルーという昔かなり売れて紅白にも出たバンドの元メンバーさんが性犯罪で捕まったというニュースが流れていました。

なぜコレがネットで注目されるかというと、この人は以前も性犯罪で懲役12年の実刑を受けて服役していたあと、ネットでかなりアクティブなフェミニズム活動家として知られていた人だからだそうで。

「フェミニズムを主張する目覚めた男性!」を強硬にアピールしていたアカウントさんが実は性犯罪歴があり(これを否認して匿名でやっていたらしい)、かつまた再犯して捕まったとあれば、「それみたことか」的にネットで炎上しやすい案件なのは間違いないですね。

ただ、そういう「それみたことか」感情以前に、「フェミニズムに目覚めた男性!」というのを過剰に押し出している男って女性にとって手放しで「味方」とは言えない部分も結構あるんじゃないかって常々思うところがあるんですよね。

普通に家事の分担に積極的だとか育児にちゃんと平等な主体意識があるとか、やたら性差別的な事を公言する男の友人がいたらたしなめるぐらいのことはする・・・とか言うレベルをはるかに超えて、

「過剰に他の男性たちを断罪して贖罪意識を強調するタイプの男性フェミニスト活動家」

って、遠目にSNSとかで見ていてメンタル的にヤバそうだなと感じることも多くて、結構女性から見てキケンなことも多いんじゃないかという「感覚」を持っている人は、私に限らず結構いると思うんですよ。

そしてそれは単なる偏見とは言えないんじゃないか・・・というのを、犯罪者の長い手記を載せるので有名な「創」という雑誌のネット記事で、「このヒスブル元メンバーさんの手記」を読んでいて明確に思った点があるんですよ。

単なる「ソレ見たことか」的感情による偏見かというとそうでもないんじゃないか、何らかの明確な因果関係があるんじゃないか?と思ったところがある。

アクティブなフェミニズム活動家の男性が実は性犯罪者だった(しかも再犯した)という現象について、SNSでは「こんな状況でどんな男なら信頼していいんだと絶望したくなる」みたいな女性フェミニストの発言も見かけたりしたんですが、この「フェミニズムに”過剰に”ハマる男性問題」を深堀りすることで、その問題意識に何らか解決の方向性が出せるんじゃないかと感じています。

つまりこの記事では、日本社会と「フェミニズム」って相性が悪いところがあるのは明らかだと思いますが、

・その齟齬を解きほぐすための転換点はどこにあるのか?

という分析や、

・今のフェミニズムは(国内外問わず)自分にとっての最大の味方に気づいていない、あるいは敵視してしまっている

という話をしたいというわけですね。

2●ヒスブルメンバーさんの手記に見る「贖罪意識のナルシシズム化」

めっちゃ長い記事だったので興味ある人だけ読んでほしいんですが、犯罪者の獄中からの長い手記を載せるので有名な「創」という雑誌のネット記事で、例のヒスブル元メンバーさんの手記を読んだんですがね。

読んでいて凄い危ういものを感じたというか、なにかちょっとした歯車が狂ったらまた一気に再犯に走ってしまってもおかしくないなにかの「過剰さ」を感じたというか。

たとえばこういう部分ですね↓・・・(刑務所で桜を見ながらお菓子を食べるイベントがあった話に続けて)

その瞬間、私は確実に小さな幸せを噛み締めていた。生クリームとともに。
 税金で犯罪者にそんな贅沢させるなという意見もあるだろう。しかし、単調な生活を送る毎日にあって、このような行事が受刑者に与える心理的影響は決して小さくない。幸せを感じると同時に、改めて気付かされるのである。
 ――ああ、幸せだ。社会からは忌み嫌われるべき存在でしかない犯罪者のオレが、こうして美味しいお菓子を食べさせてもらいながら桜を眺め幸せを感じている。でも、オレの被害者の人たちは事件以降こんな幸せさえ感じることができなくなってしまったのかもしれない。彼女たちは事件の傷とどう向き合い、どう乗り越え、あるいは乗り越えられず今も苦しんでいるのだろうか。本当に、本当に申し訳のない、取り返しのつかないことをしてしまった……。

あとこういう部分も↓・・・(自分はどういう犯罪をしたのかを記述した部分の後で)

〈そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。〉(太宰治『人間失格』新潮文庫)
 逮捕から12年、受刑者としてはちょうど10年の節目を迎える。償いとは何か。被害者の方々に罪を償うにはどうすればよいのか。それをずっと考えてきた。……いや、ちょっと待てよ。その問いの背景には、何らかの方法によって償うことができるとの前提が隠れているのではないか。「償える」と思うことが被害者の苦しみを過小評価した加害者側の傲慢さの表れではないのか。そもそも、加害者(しかも性犯罪)が被害者に対し償うこと自体可能なのか。答えは否である。たとえ死んでお詫びしたところで被害者の傷が癒えるわけでもない。ならば私は償うことさえ叶わない大きな罪を犯したのだという自覚を持ち、一生それを背負って生き続けなければならないのだ。
 懲役刑に服するということはあくまで社会治安を乱したことに対する国家への償いでしかなく、むしろ服役を終え自由を手にした後こそが真の償いの始まりである。自分の被害者に対して償えないのであれば誰に対して償うのか。

なんていうか、贖罪意識が過剰なんですよね。これは本人が悪いというよりも「そういうふうに追い詰めてしまう社会の問題」という感じがするんですが・・・

いやもちろんね、「刑に服したんだから、もう俺は真っ白な存在だぜ!けっ、あの女、ちょっとレイプされたぐらいで俺を訴えやがってチクショー!」みたいになられるのも困りますけど、この手記ぐらい一人の精神で世界の全部をしょいこむような贖罪意識を濛々と自分の頭の中で拡大再生産をしまくってると、潰れちゃうと思うんですよ。

なんで良くないかっていうと、こういう贖罪意識は結構簡単に、「こういう罪の意識に目覚めた俺はフツーにノウノウと生きている奴らよりエライ」みたいな間違ったナルシシズムに暴走しがちだからなんですよ。(フツーに性犯罪せずに生きている人の方がエライに決まってますからね。)

こういう犯罪者の手記で、凄く印象的だったのは、確か秋葉原通り魔事件の犯人氏が手記か著書で述べていたことで凄く納得したことがあったんですが(以下記憶から再生なので表現はそのままじゃないです)・・・

私としても、本当に被害者の方々には申し訳ないと思ってはいます。しかし、反省しろ反省しろ、と言われるが、反省します、悪かったです、と額を地面にこすりつけて煩悶して何か変わるのでしょうか?もし交通事故が起きたなら、その右折レーンで対向車が見えにくかったからだ、などと原因分析をして、そうならないような信号の配置を考えるなどの「対策」を考えるはずです。

みたいな感じで、そういう交通事故に対する態度と同じで、自分の中にそういう衝動があった時にどういうふうにすれば行動せずに済んだのか、そういうことを考えたい・・・みたいな話をしていた記憶があります。

その文章には凄くなるほど!と思ったというか、こういうのって犯罪者本人が言い出すのって「盗みやすい場所においてあったから万引しちゃったんじゃないか!」って万引き犯が開き直るみたいな感じで凄く理解が得られづらい問題だと思うんですが、でもそこをちゃんと考えることが凄く大事なことだと思うわけですね。

3●贖罪意識を自慢する振る舞いの問題

とにかく昨今、このヒスブル元メンバー氏の手記のような、「贖罪意識を自慢げに披露する振る舞い」って、世界中でよく見るじゃないですか。これがなんか、凄く個人的には好きじゃないし、問題の解決に全然役に立たないどころか余計に悪化させる元凶になっているんじゃないかと思っているんですよね。

これは「キリスト教」から来てる文化だと思うんですが、私個人は本質的にはキリスト教徒と言っていい部分があるんじゃないかと自分で思う立場から言うと、こういうのって「良くないキリスト教」だと思うんですよ。聖書にも「人前で目立つように大声で”祈ってみせる”人は、単に自分が敬虔な人間だとまわりにアピールしたいだけで神に祈っているのではない」みたいな話があったはずで。マタイによる福音書のこのへんとかですね。

キリスト教との関わりについてより深い話は興味があればこの記事の末尾で別稿として書くのでそこを読んでほしいわけですが、純粋に「社会運動」的な意味でも、何らかの差別問題を解決したいと思う時に、

・こういう不均衡があるので、それを解決するためにこういう振る舞いはやめましょう。こういうアファーマティブアクション的な制度を作りましょう。

っていうのはいいんですよ。それが過剰なら反発もあるかもしれないが、「そりゃそうだな」と思ってもらえる努力をしていけば一歩ずつでも社会は変わっていくものだからです。

一方で、こういう時に一番良くないなと思うのは、

・強者属性である●●は、もう生まれながらに原罪を背負っている。それを自覚して懺悔しなくてはならない。

みたいな話になっていくことなんですが、コレをやりはじめると社会の中の相互理解が一気に難しくなるし、そもそもこういうこと言い出す人って、本当にその「弱者」の人じゃなくて、「強者属性の中にいる自分が、他の強者属性の他人を”自分に”ひざまずかせたい」という欲求から出ていることがほとんどじゃないかと感じるわけです。(そういう行動が”当事者がわ”にも移入されて永久にコジレ続ける理由となってしまうってことはあるでしょうが)

本当に困っている弱者本人の人は、自分に対する不利益を具体的に解決してほしいと思っていることが多い

が、

その「本当の弱者の具体的なニーズ」を横取り

してしまって、

「他人に対して自分の倫理的優位を主張して相手を跪かせたい」という単なる個人のエゴのネタにしてしまう人たち

が多くて、それによって

余計に感情的なコジレが社会のアチコチに発生し、細かく具体的な「不均衡の解消の工夫」を積んでいけば良かったのに・・・というような問題が永久に解決不能になってしまう

ことって、今の時代世界中であちこちにあると思いませんか?

個人的には今欧米で流行っている、なにかの前で「自発的にひざまずいて見せるアピールしぐさ」も好きじゃないです。

もし自分自身がそのテーマにおいて「ひざまずかれる弱者」の立場だったとしたら

「そんなことしてほしいわけじゃないんだよ!」

と思うか、もっと言えば

「そんなことで俺が喜ぶ人間だと思ってるのか?なめんな!」

って怒る気持ちになると思う。

結婚した頃ウチの奥さんが、二人の生活上の改善点について指摘するだけで私がやたら申し訳無さそうにする(逆に高圧的になっちゃったりする時もあったり)ことに毎回「そんな態度取ってほしいんじゃないの!」って怒ってたことがあったんですけど。

「一緒に解決したいと思って話してるのに一々謝られたり申し訳無さそうにしたり高圧的になったりしたら話が進まないじゃない。”そんなこと”でこっちが満足すると思ってたらそのこと自体が失礼だわ」

みたいなことをよく言われていて、最近は「ある種他人事のようにお互いに聞くルール」を採用してから随分とスムーズに改善自体を行えるようになったと思います。

アメリカの黒人差別解消運動の(一部の暴走)に関して同じことを言ってる黒人さんをちらほら見ますけど・・・・

私も黒人差別解消は大事なテーマだと思っているし、アメリカの状況を考えるとBLMの一部が暴徒化するのも手放しには断罪できない気持ちだって持っている(でもこの記事で書いたように明確にNOというべきではあると思います)けれども、「黒人の具体的な被害」を単なるネタとして扱って、関係ない人が「自分のナルシシズムのネタにする」一部の政治活動家の態度は本当に邪悪なものを感じます。

3●そもそも誰かが誰かにひざまずかねばならない構造自体がサステナブルではない

そもそも、誰かが誰かにひざまずかねばならない・・・っていう構造自体がなんというかサステナブルじゃないんですよ。そこで押さえつけた自尊心は時間の経過とともに、絶対バックラッシュがあるからね。さっきの手記みたいに過剰な太宰治的贖罪意識を雑誌発表していたナオキ氏が再犯してしまったように。

そうじゃなくて、

誰の責任でもないし、誰もひざまずく必要はないけど、「同じ社会を構成する平等な仲間」として、よりよい解決策を協力して考えて行こうぜ

・・・ってなるべきで。

「キリスト教の意義」っていうのは、この↑「誰もひざまずく必要はないし、誰の責任でもないから、一人で過剰な贖罪意識を抱え込んで煩悶したりする必要はないよ」という部分にあるべきなんですが、日本でも欧米でも今の世界では、不自然な倫理武装で他人を殴って自分の前にひざまずかせたいという黒い欲望が暴走しまくっていて、それが「差別解消運動のカルト化」を招いて、余計に問題解決から遠ざけてしまっている。

この「立場を超えたワレワレ感」って、一度崩壊すると本当に取り戻すのが死ぬほど難しいものだし、その「ワレワレ感」ベースでないと細かくて具体的な差別解消の取り組みは決して具体化できないんですよね。

この記事↓


で書いたように、雑に「警察予算を削減しろ!」って叫んだからって解決できると思っているのか?現状問題解決ができていないのは全部「あのダメな奴ら」が原因なのか?・・・その点についての欺瞞には本当に「邪悪」な何かが潜んでいる部分がここにはあると私は考えています。

この記事の冒頭で、「家事に協力的とか育児に平等な主体意識があるとか、男友達がやたら性差別的なこと公言してたらたしなめるぐらい」ならいいけど、「男は男というだけで原罪を背負っているのだ!」的なことを叫びまくるタイプは、

「女性の味方」

と言っていいかどうかかなり問題がある・・・と書いたのはそのことです。

もちろん、そういう「フェミニスト男性」たちも、「直近で本当に傷つくことがあって、それでも誰も助けてくれなくて孤立無援に社会にほうっておかれていると感じている女性」にとっては大事なサポーターなのかもしれない。

ただこれも、私は経営コンサル業のかたわら文通を通じて色んな人の人生について一緒に考えるという仕事もしてるんですが、その仕事でつきあいのある複数の「メンタルヘルス」問題を抱えている女性が、これは結構「口を揃えて」というレベルで

「そういう男って、弱ってるオンナを庇護するオレサマが好きなだけで、私の方がが立ち直ってくると幻滅して去っていくんだよね」

みたいなことを言っているのをよく聞くんですが(笑)、まあだいたいにおいてあらゆる「差別解消活動」的にも同じ構造はあるように思います。

じゃあ、本当に社会を変えなくちゃ、と思う時に、日本社会に信頼できる「味方」はいないのか?ってなるんですが・・・そこで、「大事な味方」になりえるんだけど今うまく繋がっていない回路があるんだ・・・というのがこの記事の趣旨なんですよ。

4●「本当の味方」はどこにいるのか?

先月末に書いて一ヶ月間バズリ続けていたこの記事

でも紹介したんですが、大学時代あの上野千鶴子ゼミにいたという社会活動家の坂爪真吾さんの新刊「許せないがやめられない SNSで蔓延する”怒りの快楽”依存症」という本の発売記念ウェブセミナーに参加したら、現代美術家にして種々の活動家でもある柴田恵理さんが結構アカデミックなフェミニズムの総括的な歴史のレクチャーをしてくれたんですが、それによると「第3波フェミニズム」という時期には女性問題を人種問題や経済問題といったより広い視野から多面的に見る意志があったそうですが、SNS時代になってまた「男vs女!」的な対立構図に回収されてしまいがちになってしまった・・・みたいな話をされていました。

ただ、最近何回も引用しているこの記事のオバマ元大統領の言葉「気に入らないものに石を投げつけているだけでは社会は変えられない」にあるように、「自分たち以外の社会」への憎悪をたぎらせてどんどんカルト化していくような運動はSNSでの存在感が高まれば高まるほどに一般社会的な認知が小さくなっていく一方で、「本当に対話する意志がある存在」は今でも消去法的に目立つので、

「本当の対話型運動」

というのは、時間がかかっても社会を変えていく唯一の手段なのだ・・・というのは、上記の延々一ヶ月も読まれ続けている記事に書いた通りです。

でも「対話」って言っても、全然話にならない男ばっかりで!と憤然とするかもしれない。上記記事で書いたように、

・対話できない相手と無理して対話する必要はない

・対話できない部分では対話できずに炎上させあっているだけでもそれ自体が「重要なコミュニケーション」になっている

わけですが、なかでも

女性側の立場から見た時に「大事な仲間なんだけど理解しづらいパートナー」について、現代の日本のフェミニズムは・・・というか、「現代」とか「日本の」とか抜きで、「古今東西」の欧米由来の社会運動が無視し続けてきた組み合わせがある

んですよね。

その「今はなかなか繋がれていない大事な対話パートナー」について、この記事では深く考えてみたいんですけど。

5●「大事なパートナー」の一歩手前まで来ている2つの本

上記の、今月バズリ続けていた例の記事でも紹介しましたが、一個は「カナダ人のレズビアン同性婚カップルが、男の子を育てる」という極限的な状況の中で、「男の子という存在」にどうやって向き合っていくのか・・・というドタバタを書いた「BOYS 男の子はなぜ男らしく育つのか?」という本。(この記事の紹介についてな上記記事を参照ください)

で、もう一つこれの「日本版」と言えるような本が最近出て、これも面白かったので紹介します。この記事のトップ画像でも紹介したんですが、弁護士の太田啓子さんの

これからの男の子たちへ: 「男らしさ」から自由になるためのレッスン

という本です。

「カルト化するフェミニズム」ムーブメントがネットの中だけで炎上を繰り返しつつどんどん一般社会からの信頼を失っていくのに対して、「本当に対話するガッツ」のあるフェミニズムムーブメントは、なんせ消去法的に目立つので、まとまった形で提示されれば、「カルト界隈」以外まで波及して色んな変化につながることがあるようです。

この太田啓子さんは、シングルマザーとして男の子二人を育てている人なので、「レズビアンカップルが男の子を」ぐらいの”衝撃”ではなく、例えばバレンタインデーとかが男の子にとって、

「自分のモテ度合いを露骨に可視化する、残酷なイベントなんだな」と感じ、自分だってその立場に置かれたら嫌だろうな・・・と、それまで考えたことがなかった男子の心中を想像して反省したものです

みたいな、ある種日本社会ではフツーにあるあまりにも日常的な情景の中での実例を色々と示しながら、「女性の願い」と「男らしさ」との対立に向き合い、その新しい妥結点を探っていく試みという感じです。

特に、小島慶子さん(ネットでは何か発言するたびに炎上してる人ってイメージですが)との対談部分での、以下の部分↓

「女らしさ」の抑圧をなくしたいのであれば、男性が弱さを開示した時にも笑わない、叩かない、むしろ傾聴して承認していく。それが結果的に自分の生きやすさにも繋がると思うんですね。

なんかは(これは小島さんの方の発言です)、幸薄いように見えるネット上の罵り合いの繰り返しの中から徐々にお互い理解してきた「成果」と言ってもいいんじゃないでしょうか。果てしなく続く罵り合いも、お互いを本能レベルで知るためには役に立っていたというか。

この部分に限らず「これからの男の子たちへ」は、男性側の色々なニーズに対しての洞察が、欧米の「BOYS」と比べてかなり深いと感じました。たぶん、欧米のネットに比べて匿名文化なぶん「男側が実名だと言いづらいホンネ」に直接触れることが多いので、そこから鍛えられている部分も多いのかも?

太田啓子さんだけでなく、小島慶子さんの方も、SNSで炎上して回ってくる1ツイートとかの印象とはかなり違う、状況を多面的にフェアに見れる人なんだな、と感じる部分が多い本だったので、BOYSはちょっと”欧米”すぎて読みづらい人にもオススメな本でした。

で、本書の末尾には、

「旧来の男らしさ」に囚われず、かつ、マジョリティとして性差別について物申す・・・そういう男性の、「あの人みたいになりたい」と後進世代に思わせるようなロールモデル

を、男の子の子育てや、色んな活動を通じて、日本社会の中にも作っていきたい、という決意が述べられています。

この記事のトップ画像でも紹介したこの表紙絵の男の子を見る目線というか、

画像3

こういう男の子の顔つき↑には、特に観念的に純粋化したフェミニズム志向だった女性から見て、「女の世界の内的論理」だけで成り立ってはいない女性にとっての「外部的なもの」を感じるんだと思いますが、それがいわゆる「有害な男らしさ」に染まってほしくないが、男性には男性の立場なりの論理があるだろうから、そのあたりの両者のニーズをうまく両方昇華していってほしい・・・という「目覚めたママさん目線」みたいな感じですね。

こういうふうに述べると、いわゆる「男の子を自分のオモチャにしてしまう母親」みたいなのとはかなり違う、多くの男にとっても「なるほど」と思う内容って感じがすると思うんですが・・・・

ただ結構本全体で見ると、これは「BOYS」の方でも思ったんですが、男としてなんか凄い嫌な気持ちになるっていうか、「わかってねーなー」って感じになる部分は正直あるんですよね。「ちょっとしたこと」ではあるんですが、男側のニーズに対する無理解に、(まあ僕のような心の広い男は別としてですけどね!!!!)、一般的にはコミュニケーションが途絶してしまいそうな危うさを感じてしまう。

結果として、太田啓子さんも小島慶子さんも日本のインターネットSNS男性世論的には「最も許さざる不倶戴天の敵のひとり」みたいになってるじゃないですか。

でも「この本」をちゃんと読むとお二人とも印象はかなり違うんですよね。そこの誤解が生まれるのは、「本の中のほんの一部」の、「ほんのちょっとのすれ違い」が原因だと私は感じるわけですね。

そこの「ディスコミュニケーション」について踏み込んで考えてみたいんですよ。それはそのまま、フェミニズム(に限らずあらゆる先鋭化する社会運動的なもの)がこの社会について見逃している「死角」について理解する扉にもなるはずで。

6●ロッカールームカルチャーの連帯がつなぎとめているもの

「BOYS」の方に、「ロッカールームカルチャー」の話が出てきたんですが・・・

ロッカールームカルチャーというのは、体育会系の部活とかの一員が、ロッカールームの中で女性や同性愛者に対して侮蔑的な発言とかをしまくることで連帯感を深めようとするカルチャー・・・みたいな感じの欧米の用語です。

ただ、BOYSに出てきた、元NFLのプロアメフトプレイヤーでは珍しくゲイであることを公言しているウェイド・デイビス(ちなみに黒人)の発言が凄く印象的だったんですね。

「スポーツ選手は同性愛嫌悪的だ、というイメージが広まっていて、特にアフリカ系アメリカ人のアスリートは同性愛に否定的で、寛容でないと思われています。この見方があまり根強いため、実際には黒人コミュニティやロッカールームに存在する、愛情と需要と支援のストーリーを耳にすることはありません」

この発言↑を引用しながら作者が言おうとしていることの趣旨は、あちこち別の話が挟まれているので私が順番を入れ替えて要約すると、

ロッカールームカルチャーの中で「同性愛者や女性を仲間内で罵ってみせたりする」ことは単に「絆の確認」のために行われているだけで、本当に女性を嫌悪したり同性愛差別をしたいと思っているわけではない。その証拠に、絆を感じる仲間であるウェイド・デイビスがカミングアウトしても、そのチームメイトは誰ひとりとして否定的な反応を示すことはなく暖かく迎えてくれた。

つまり、「チームの同胞意識を確認しあうカルチャー」は、どんな人種、ジェンダー、セクシュアリティであろうとも、チームメイトはチームメイトなのだ・・・という意識を醸成する源泉にもなりえるのだ。

・・・ってことなんですよ。

昨年、今のフェミニズムの限界がどこにあるのかというブログを書いたらやたらバズって、アチコチ紹介されたあげくうちの父親まで「読んだぞ」って連絡が来たことがあったんですが(笑)その記事でも「”悪いホモソーシャル”を敵視するあまり”良いホモソーシャル”をも破壊しようとしないでくれ」という趣旨の話をしました。

で、女性活動家は、このメカニズムをわかっていなくて、

「悪いホモソーシャル」から脱却させようとおいやる時に、「良いホモソーシャル」まで破壊しようとしてしまう。しかしそれなしに社会は成り立たないから、結局「悪いホモソーシャル」が温存されてしまう結果になる

・・・というのが、私が経済問題から社会問題から何に発言する時にもいつも伝えたいと思っている大問題なんですよね。

「悪いホモソーシャル」を攻撃する時に、ちゃんと「良いホモソーシャル」で置き換えようとしないと、男社会がどんどん分断されていくんですよね。

「ロッカールームカルチャー」が有機的にちゃんと繋ぎ止めていた男たちのうち、馴染めなくて離脱してしまう層が出てくる。問題は「そういう男」だって社会の中で生き続けているわけですよ。

「女の気持ち」的に切り離してしまいたい!っていう衝動から女性活動家は結構直裁的に「そんなキモい男なんて死ねばいいのに」的なことネットで言いまくってるのを見るんですが、しかしそうやって「ロッカールームから追い出されて放流された男」を強制収容所に入れて毒ガスで皆殺しにするわけにもいかないんだから、そういう男は「その社会」に対する敵意をグルグルと溜め込んで社会の中で生存し続けるわけですよ。

で、結果として社会の中で「女性に対して具体的に加害する」例だって増えます。

なんかこうSNSでの空中戦とか、物凄く些細なポリコレ的配慮に対してあまりに厳しく糾弾する姿勢が社会を覆ってくると、森の木が山の土壌を抱え込むような役割を果たしていた「ロッカールームカルチャー」がその社会の構成員の男を保持しておく力が弱まってしまって、「余計に良くないことが起きる」っていうのが、女性活動家からはなかなか見えない現象なんですね。

日本って、基本的に「ポリコレ的なマナー」に対して欧米ほどウルサクなくて、意識高い立場からはギョッとするような発言とかが放置されていたりする社会だけど、一方で「実害」的な犯罪統計とかで言えば段違いに安全な社会だったりしますよね。

このあたりに、「悪いホモソーシャル」と「良いホモソーシャル」の問題があるんですよ。

私は、大学卒業後マッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入って、こういう「グローバル特権階級」的なマネジメント様式がローカル社会の人々の実情から果てしなく遊離したようなことをやり続けることの無理はいつか暴発するだろうという危機感からノイローゼ的な状態になって、その後「恵まれた立場から見ていては全然わからない社会の実情を知る」とかいってアレコレ放浪しながら色んなブラック企業で一員として働いていた時期があったんですけど。(なんでそんなことしてたか詳しくはこちら)

その時に、諸外国だったらスラム街になっていてもおかしくないような層でも、日本ではギリギリの倫理観とか安定性が保たれている理由はどこにあるのか?といろいろと体感する中で理解したのが、この「良いホモソーシャル」の問題なんですよね。


7●サムライしぐさとナイト(騎士)しぐさ

ここで「サムライしぐさ」と「ナイトしぐさ」と私が呼んでいる2つの態度について考えてみたいんですが。

あなたが、もし例えばコンビニの店員に怒鳴ってるおっさんとかがいた時に、どういう対処をするか?イメージしてみてほしいんですよ。

欧米のSNSでよく動画がシェアされてバズる傾向にあるのは、そういう時に「店員の側」に立って、

おい、なにしてんだテメー!あっち行け!シッシッ!

ってやるやり方ですよね。これを「ナイト(騎士)」しぐさと呼びたい。

でも僕はちょっとこういう「ナイトしぐさ」は苦手で、自分だったら絶対やれないな、って思うんですよ。昔からそういうタイプだったけど、先述の「恵まれた立場からはわからない世界を体験するためにアレコレ」とかやった後からはどうしてもコレはできないな・・・って思うようになった。

かわりに、僕がよくやる(結婚してからは奥さんにキケンだからやめろって言われてあんまりやってないですが)のは、逆に「騒いでるオッサン」の方に近づいていく方法なんですよ。

「おっちゃん、何があったん?ちょっと話聞いたるから外出ようや。店員さん困ってはるがな」

とかいって「店員さん」から「オッサン」をどんどん離して行こうとする。コレを私は「サムライしぐさ」って呼んでるんですけど。

これを読んでいる読者のあなたも、日本人(の特に男)なら、「ナイトしぐさ」はできないけど「サムライしぐさ」ならできるな・・・って人、結構いると思います。

今でも覚えてるのは、コンビニで騒いでるオッサン客をなだめつつ外に出したら、突然軍隊式の直立不動の姿勢を取って、深々と頭を下げたあげく

「す、すまんかったー!!!」

って大声で泣き始めたことがありますよ(笑)

たぶんこれ10年ぐらい(もっと?)前の話なんでその頃騒いでるオッサンは戦中派が混じってたんでしょうね。今だと団塊の世代だと思うのでまた違う人種かなと思いますが、なんにせよこういうオッサンもどこかに「包摂」されないと自分の中にある攻撃性をどう扱っていいか困ってるんだろうな・・・と思う体験でした。

要するに、「糾弾する側」に立って「糾弾される側」に「あっち行け!」ってやるナイトしぐさだと、そこから切り離された男の行き場所がなくなるわけですよね。「ロッカールームから追い出してしまう」ことになる。

SNSで騒いでいる女性活動家とかは、「キモい男」が目の前からいなくなって気持ちいいかもしれないし、「ほんと、あんな男信じられないよねー」とか言ってくる男とワチャワチャするのは一瞬楽しいかもしれませんけど、その「切り離された男」を収容所に入れて抹殺することもできないんだから、そういう男は「同じ社会」の中で放流されて、恨みを溜め込んで生き続けているわけですよ。

でもここで、「ロッカールームから追い出さないサムライしぐさ」でなんとか包摂しておけば、その「キモい男を思う存分SNSで断罪して喝采を浴びたい女性」からすると不満もあるでしょうけど、その男はとりあえずその社会への帰属意識を失わず、最低限の遵法精神も失わずに包摂されて生きていくことになる。

何度も言いますが、この「ナイトしぐさがあまり歓迎されないが、サムライしぐさでちゃんと包摂されている機能が生きている」からこそ、日本社会は細かいセクハラとかは確かに放置されてるかもしれないが、比較的夜道を歩いても安全とか「致命的な犯罪」に合う率は低い構造になっているんだと、私は上記の「いろいろの体験」から確信してるんですよ。

とはいえ、じゃあ日本じゃあ細かいセクハラとかも我慢しろ!って言うのか?・・・・と思うかもしれないけど、そうじゃないんですよ。

「ロッカールームの包摂力」を破壊しないようにしながら、「女性側の要望」をちゃんと社会の末端まで伝播させていく工夫をするべきだ

ということが言いたいんですね。

8●あらゆる「新しい改善点」を、すべて「サムライしぐさ」で抱き込んでいく

この「良いホモソーシャル」なんてなくて、男女とかないあらゆる個人がそのまま尊重される社会じゃダメなのか?・・・って思う人もいるかもしれないし、まあ遠い未来にそうなったらいいかもね、ぐらいは私も思いますけど、でも「良いホモソーシャル」をうまく使うことの意味は、現状はとにかく大きいと私は思います。

なんでかというと、女性側(女性に限らずあらゆる被差別側)が、「嫌なことは嫌だ」と気軽に言える回路はそれ自体大事だからなんですよね。

いちいち全部相手の事情も配慮して・・・とかなると大変だし、嫌だよ!って簡単に言える社会であることは大事です。

でもその先で、ちゃんと「良いホモソーシャル」に受け渡して、男社会の中で、

「まあ、気持ちはわかるけど、さすがにそういうことするのはやめようぜ」という「気分」

が共有されて末端まで広がるように持っていくことが大事で。

ここで「良いロッカールームカルチャー」が「社会の一部の恵まれた階層以外」にまで広がっていくためには、ある程度「ワンクッション置く立場性」が大事というか、

「女性が言うことは多少ウルサイって思う時もあるし、言い返すべき時には言い返すべきとは思うけど、さすがにそれはやめておこうぜ」

的な態度が必要なんですよね。「多少発言者からは距離を取りつつワレワレ感を醸成していく」みたいな仕組みが現時点ではかなり有効なので、そこに「男女の役割わけ」を残しておく意味は今のところあると私は感じています。

ここで「”気持ちもわかる”ってなによ!そんなやつ、一ミリだって情けをかける価値なんてないわ!あんたも同じ気持ちだっていうの!?」とか言い出すのが一番良くない。

そういうふうに焚きつけると、この記事の冒頭で書いた「過剰な見せびらかしの贖罪意識」とかが横行して、結局社会のほんの一部が熱狂しているだけのカルトになってしまい、普通の人がどんどん参加してくれなくなる

結果として、

”建前としての綺麗事”は物凄く神経質に守られる社会になりつつ実際に不幸な事例の数は減らないどころか増える

ことになりますよ。

男女の間に入って仲裁するような役割になるといつもコレが大問題で、女の人は自分の目の前で「ナイトしぐさ」で「キモイヤツ」を「即刻処分」してほしいと思いがちなんで、その女性の気持ちはとりあえず「まあまあ」とか言いながらある程度は受け止めつつ、騒いでるオッサンを店の外まで連れ出したあとで、「気持ちはわかるけどさあ、そういうのやめようぜ」的に落着させていく必要があるんですよね。

この「サムライしぐさのパートナー」は、女性問題における女性に限らずあらゆる社会活動において物凄く重要なんですが、現状「改革を迫る側の運動家」が、「そういうタイプの人が動きやすい働きかけ方」が全然できていないんですよね。

板挟みになってる「サムライしぐさの執行者」からすれば、改革側の要求が過剰に「ナイトしぐさ」寄りになったらそれに答えてると逆に孤立してその集団内部での影響力がゼロになってしまうわけですから、「なんでさっさと私に同調してそのキモいヤツを斬り捨てないのよ!」みたいなエネルギーを発されると無視せざるを得なくなるんですよ。(↑このパラグラフが凄い大事なんで何度か読んでいただきたい。)

ここは物凄く「微妙な」テイストの問題なんですが、欧米の「BOYS」よりも日本の「これからの男の子たちへ」の方が「この問題」に対してかなり鋭敏に、「ほんのあと一歩」のところまで来てくれている感じがしたので、日本女性のそのあたりの「察する力」って世界的にも見てやっぱり凄いんだなって思うところではあるんですよね。

だからほんとね、その「あと一歩」をお互い工夫して乗り越えられたらいいなって思ってるんですよね。

9●フェミニズムに限らずあらゆる社会運動において同じ問題が存在する

これは、例えば外国人差別問題とかでもそうなんですよね。世の中には

外国人差別するなよ!この、日本人であることしかプライド持てない、個人としては何者でもないクズどもが!

みたいな「ナイトしぐさ」をしまくる人がたくさんいるんですけど、ほんとこういうの良くないよなって毎回私は思っています。

そりゃあなたは「日本人であること以外にもプライドを持てる恵まれた存在」かもしれないけど、そうじゃない人もいるんだ・・・という、いわゆる「自分の特権性を自覚すべきタイミング」ってココのことじゃないの?って話ですよ。

そういう「ナイトしぐさ」が横行すればするほど、物理的な作用・反作用みたいな厳密さでもって、「言われたとおりに差別的なことを言いまくる人」も増えるんだ・・・という体感が私にはあります。

こういうの、もっと「サムライしぐさ」で抱き込んでいかないと解決できないんですよ。

地元の友人とかが外人フォビア的な発言した時に私がやるとしたら例えばこういう感じ↓です。

「いやいや、そりゃいきなりコンビニの店員さんが外国人やったらちょっと緊張するけどもやな、わざわざ日本語覚えて日本に働きに来てくれてるんやで?ありがたいことやんか。しかし、あんな複雑な業務母国語以外でやるとかなかなかできへんで、マジで超凄いと思うわ〜」

これ↑、前半でちゃんと「相手の気持ち」を抱きとめてることが大事なんですよ。

そりゃ慣れ親しんだ環境に、コミュニケーションしづらい新参者がいたら警戒心があるのは当たり前。あなたがもしそう感じていないなら、決してあなたが彼らより高潔な人格者だからじゃなくて自分はそういう国際的な感覚を身につけられるぐらい「恵まれた特権的な育ち」をしてるってだけの話です。それを受け止めた上で、後半では受け流し気味にだとしてもある程度明確に「たしなめる」部分を明確に示すコミュニケーションをしていけば・・・

フェミニストの人とかあらゆる先鋭的な社会運動家は、冒頭の元ヒスブルメンバー氏のような人の方が「味方」で、すぐ動いてくれない「サムライしぐさのパートナー」は「敵」に見えているかもしれないけど、それは誤解なんですよね。

そこの断絶を超えられるかどうかが大事なんですよ。

あらゆる問題において、「改革を迫る側」が、この「サムライしぐさのパートナー」を見つけて、そのパートナーが動きやすいような働きかけ方をする必要があるんですよね。

そういうふうに「下地づくり」を普段からしておけば、いざコロナ禍の中での永住外国人の帰国問題・・・といったような課題が発生しても、スムーズに政治的に解決して、実際の対象者がある程度の透明性を持ってちゃんと暮らせる状況を維持できるんですよね。

先月書いた「茂木外務大臣が突然物凄く感じ悪い答弁をした問題」↓は、まさにここのところの齟齬について書いた記事だったんですよね。

10●ここまでの話をよりマクロな構造から捉え返してみると・・・

この記事は、ここ最近のnoteで毎回述べているこの図そのものなんですよね。

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黒人差別を解消する活動が、その具体的積み上げでなく「糾弾する自分に酔うナルシシズム」に乗っ取られないようにしないといけない。

女性差別を解消する運動が、「男性の原罪に気づける目覚めた俺様のナルシシズム」に乗っ取られないようにしないといけない。

戦争で望まぬ被害にあった人への補償問題が、その問題に擬態した無制限のナショナリズム同士の争いに乗っ取られないようにしないといけない。

今のトランプ大統領にまつわるあれこれのアメリカの混乱を見ていると、こういう「一段上からメタに状況を理解する機能」は、アメリカから追い出されつつあるように感じたりするところがあります。

しかしそれは、上記の図のように、米中対立時代に、「米国の外側」に、ちゃんと「柔らかく受け止めて新しい着地点を作り出してくれる外部者」を本能的に感得しつつあるのではないか?

そう思ってしまうぐらい、アメリカのあまりに「壊れっぷり」には、もうアメリカはとにかく「先鋭化して問題を顕在化する役割」であり、「柔らかい現実解への着地」はアウトソースしてしまっていいのだ・・・という世界的なリ・バランスが行われているのかも?と思うところはあります。(これについては、今話題のトランプ氏の姪が書いた暴露本の話をしながら次回のnoteで書きます)

ここ最近のnoteで毎回書いているように、過去10年20年、日本は色々と「変化を嫌う」国で、経済面でも、ポリコレ的な面でも「遅れている」と感じて絶望したりする意識高い系の人が多かったですよね。

しかし、アメリカがあそこまで混乱し、米中冷戦が明らかに世界大戦の危機すら覚えている時代には、「サムライしぐさ」で「社会の紐帯をギリギリ繋ぎ止めていた」日本社会の可能性はこれから大きいと思います。

要するに、「サムライしぐさ」で「ロッカールームから社会の末端の男を男を追い出さない」ということは、この図↓で言うと、右側の「ジェル状の柔らかく受け止める物質を包んでいる袋」を決して破かない・・・ということだった

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のだ・・・ということが言えるでしょう。

フェミニズム的な女性に限らずあらゆる欧米的発想で生み出される政治活動は、「この点」を理解しておらず、普通に相手を信頼して浸透させていけば一歩ずつ変わっていけるものを、「自分と考えが違うグループ」との相互コミュニケーションを途絶して「断罪する怒りのナルシシズム」を貪っているから混乱してしまうわけです。

結果としてこの「ジェル状の袋」を破かれてはそのローカル社会が成立しなくなってしまうので、防御反応から余計に差別感情なり何なりが激化してしまうことになる。物凄く血も涙もない独裁でしかローカル社会の安定性を維持できなくなってしまっている国も世界中に数多くある。その一番巨大なものが中国共産党政府の強権姿勢だと言えるでしょう。

過去10年20年のあいだあらゆる「意識高い系」の呪詛の声を飲み込みつつ、それでもこの「ジェル状の袋」を破かないように守ってきた私たち日本人の社会が持つ価値をこれからうまく活用していけば、ポリコレ的な課題でも、経済活動的な課題でも「どんどん変化していける」国になって、どこにも希望がない分断と罵り合いの時代のあたらしいオリジナルな希望を提示していけると私は考えています。

この記事だけではうまく伝わらないかもしれませんが、私の著書や最近のnote、ファインダーズでの連載などをお読みいただければ、その「大事な仲間」との連携方法について、全く新しい理解が立ち上がってくるはずだと思います。

一緒に、米中冷戦の時代の混乱を収める新しい人類の希望を、私たち日本発に掲げていきましょう。

さて、今回の記事の無料部分はここまでです。

以下の部分では、上記でも多少は書いた「キリスト教」との関わりについて、もう少し突っ込んで書きます。

昨今世界中で、「過剰な懺悔しぐさのナルシシズム」みたいなものが暴走しがちなのは、そういう態度が今まで欧米社会が非欧米社会を「一方向的に教化」していくための基礎になっていたところがあるんですよね。

これはここ数百年ぐらい欧米社会の考案したシステムを人類全体で共有するフェーズにおいては、こういうナルシシズム的なもので対話回路を問答無用に遮断しておくことは必要なことだったんですよ。

ただ、それがグローバルなシステムとしてちゃんと定着した後、そのシステム自体の問答無用性がローカル社会の実情をうまく吸い上げられないことが今度は最大の問題になってくると、徐々にパワーバランスが変化してきて、非欧米社会と欧米社会が平等に対置され、その上で「実際に人々が幸せに暮らすにはどうすればいいのか?」という「イデオロギーの結果責任」的なものが問われる時代になってきたわけですね。

そこで、過去数百年の「欧米社会による非欧米社会の教化」の時代には必要だったこの「キリスト教精神の過剰な部分」の問題をアップデートしなくちゃいけなくなってきた・・・ってことなんだと私は考えています。

で、上記にも書いたように、個人的に”凄く本質的”なことを考えると自分はキリスト教徒だなって思っているんですよね。どんな教会が言ってることも信じてないし属してもないけど、まあ哲学的に宗教を捉える思考法が得意な人には、倉本圭造の活動の中にある「キリスト教的なもの」について感じる部分もあると思いますが・・・

そういう意味で、欧米社会が今陥ってしまっている問題と、キリスト教の本来的なメッセージ(だと私が考えていること)の間の齟齬はどういうところにあるのか?というような話を、以下の有料部分ではします。

それは、前回の記事の有料部分で書いた「この社会における知識人の義務」という話や、少し前に書いた「ポリコレ的に純粋化した正義で他人を殴りまくるムーブメントの暴走は本人たちの自称とは全く逆に現代のファシズムそのもので、現代社会におけるカール・ポパーの”開かれた社会とその敵”的なチャレンジが必要な課題なのだ」みたいな話にも繋がります。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者は読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

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