後編
翌朝、まだ目覚めて間もないころ。
彼女は昔のことを思い出す。
「たあくん」ではなく「たくあん」と呼んでいたころのことを。
そうなのだ。
幼少期は「たあくん」ではなかったのだ。
なぜそのことを忘れていたのだろう。
彼女は中学一年生のころに、タイポグリセミア現象と呼ばれるものを知った。そのころ、たあくんはまだ小学生だった。そしてたあくんのことを「たくあん」と呼んでいたのは彼女だけだった。タイポグリセミア現象について知ったことがきっかけで、たあくんはたあくんになった。ただし、依然としてたあくんのことを「たあくん」と呼ぶのは彼女だけだった。
確かに「たくあん」と呼んでいた自分。タイポグリセミア現象を新鮮に感じた自分。それぞれが、つい最近のことなのか、それともずっと昔のことなのか、よく分からない。まだ寝ぼけており、自分が何歳なのか、この部屋がどこで何故ここで寝ているのかをうまく思い出せない。
いくつかの印象的な夢を見たばかりで、その余韻もまだ残っている。
ベッドの上でぼんやり部屋の様子を眺めていると、自分が大学生であること、大阪市内で一人暮らしをしていることなど、少しずつ思い出してくる。彼氏と別れたばかりであることも思い出す。今日が土曜日であることも思い出す。レポートの提出期限が迫ったりしていないことも思い出す。
昨日たあくんの部屋で話した内容や、たあくんのVRChat内での行動も思い出す。
早朝の四時ごろに短い時間だけ目覚めた時の夢と、ついさっきの夢が別物であることもはっきり認識する。
急に自由が空から降ってきたような気分になる。自分はどこに行ってもいい。どこに行っても自分は自分でいられる。
最近では珍しく、パソコンの電源を入れずに眠りについたことも思い出す。彼女は起き上がり、パソコンデスクの椅子に座る。しばらくパソコンのケースを眺める。電源を入れるが、VRChatは起動しない。インターネットで民俗学や神話学のめぼしい資料を探し始める。最初は大学の図書館に行こうとするが、蔵書の有無を確認するうちに予定を変更する。大阪市立中央図書館に行こう。蔵書数の多いところへ。
今までずっと避けていたこと。
それは蛇について調べることだ。
あのテキストファイルの中に、蛇は四回も登場するのだ。
出かける直前になって、VRChatをデスクトップモードで起動する。たあくんにフレンド申請を送る。昨日たあくんのほうから送信してもらおうとしていたのに、すっかり忘れていた。
ふと、彼女はVRChat内でディスプレイネームやプロフィールのBio欄で検索を試す。「蛇」「snake」などがディスプレイネームやプロフィールに含まれるユーザー。でもこの探索はすぐに中断して外出の準備を再開する。
外出の準備をしながら、タヌウのディスプレイネームに推測でたどり着くことはできないかと考える。タヌウがVRChatのプロフィールのBio欄に何を書きそうか想像してみる。そういえば『蛇と椅子』のテキストファイルのラストにある「笑うなやあ」はタヌウの影響かもしれない。タヌウがそういう言い方をしたのを何度か聞いた気がする。
フレンド申請のことをたあくんにメールで知らせておこうかと思って文面を考える。でもたあくんは見ないことが多いので何も送らずにそのまま出かける。
彼女は地下鉄で図書館に向かう。地下鉄の中で、今日という一日は蛇に捧げようと決める。
いくつかの本を拾い読みしていくうちに、現代社会論ではなく比較宗教学のほうが面白いのかもしれないと思い始める。高校生のころは、現代社会について考えるのは自分が得意とする領域であり使命かもしれないと考えていた。でも今となっては、現代社会を切り取るためのツールの数々に少しうんざりし始めている。
彼女はしばらくフロイトに寄り道をしたあと、再び民俗学や比較宗教学の棚に戻ってくる。そこで長い時間を過ごす。何冊か本を借り、再び地下鉄に乗り、梅田駅で降りる。結局、借りた本のほとんどは棚にあったものではなく書庫の資料だった。
彼女は地上に出る。「大阪駅前」の交差点でしばらく弾き語りを聴く。いつもの彼女であれば足を止めない。若い女性の弾き語り。タヌウに少し声が似ているな、と彼女は思う。でもタヌウは昔、弾き語りはやらないと言っていた。
美声を聴きながら、タヌウが好きなアニメのことを思い出す。明日が日曜であることも思い出す。明日もタヌウは忙しいフリDAYなのだろうか。
弾き語りを聴くうちに、なゆねは予定を変更することにする。図書館で借りた本が少し重いが、そのままたあくんの家に向かう。
電車の中で、拾い読みした本の内容が頭の中をかけめぐる。本は取り出さない。やがてたあくんの家の最寄り駅につく。駅の改札を出てすぐに猫が二匹、なゆねの視界に入る。片方の猫がなゆねを見つめる。もう片方は人間にまったく関心を示していないように見える。
たあくんはパソコン用ローテーブルの前に座り、考え事をしている最中だった。VRChatをデスクトップモードで起動中であるように見える。でも画面は動いていない。液晶ディスプレイを見つめたまま、何か考え事をしている。自分が来たから操作をやめたのではなく、ずっとその画面のままだったのだろうとなゆねは推測する。
「もうお薬のんだ?」
「……もうこんな時間か。まだのんでない」
たあくんは時計を見ながら言う。
なゆねは部屋の中央のローテーブルに借りてきた本を積む。550mlのペットボトルの水も二本置く。たあくんの横に座り、なゆねも画面を眺める。おそらく、なゆねが行ったことのないワールド。他のユーザーの姿はない。
「俺も……俺もな、記憶って失ってるわけ」
「うん」
「何か重大なことを忘れてる可能性がある」
「そうだね。お薬のもう」
そう言ってペットボトルの水と薬を同時に手渡す。たあくんは受け取るが、顔は動かさない。呆けた顔でじっと画面を見つめたままだ。なゆねは黙って見守る。しばらくしてから、ようやくたあくんは薬を飲む。なゆねは手を喉にあてる。
……ごっくん。
たあくんは何も言わない。もう少し水を飲むのかどうか迷うが、それ以上は飲まない。パソコン用ローテーブルの上に水を置く。
あまり昔のことを生々しく思い出すのは、たあくんにとってよくないことかもしれない。なゆねはそう考える。
「フレンド申請……きてるやろ」
「えっ」
たあくんはようやく右手をマウスのほうへ伸ばし、操作し始める。
「ああこれ? これかあ……これ、なゆねかあ……」
なゆねはフレンド申請が無事に承認されたことを見届ける。
「そういや……そういえばユッキイってあれやな。水を飲まない人かも」
「えっユッキイさん……水を飲まないん?」
「まったく飲まへんてわけちゃうやろけどな。飲食店とかでな、水に手ぇ付けへんと帰るみたいやしな……ペットボトルの水とか飲んでる姿もな、イルビは見たことないって言っててな。半年も付き合っててな、水を飲む瞬間に遭遇しないっていうのは……あっでもその話聞いたのって、付き合い始めてから半年経ってるとは限らんなあ……いつごろやったかなあ……でもまあとにかく、水を飲む姿を見た人はいないらしい」
「水を……水をまったく飲まへんと思ってたユッキイさんが、がぶがぶ水を飲んでいる姿を見て……イルビさんは、あまりのショックで……」
「ふふ」
なゆねは笑いながら少し安心する。そういう冗談が言えるなら、それほど精神状態が悪くなったりはしていないだろう。なゆねは自分の分のペットボトルの水を開けて半分くらい一気に飲む。
「あかんなんも食べてない。なんか買ってくりゃよかった」
「俺は食ったばっかやで」
「そう。たぶんそうやろなあとは思ってんけど。ここってなあ。ほら。ここのすぐ下のコンビニがお亡くなりになったのが痛いなあ」
「近くに別のんができるらしい」
「みたいやなあ」
「あああ……そうやなあ……ちょお待ってて。居間にパンあるわ」
そう言ってたあくんは立ち上がる。
これは珍しい。たあくんがこういう気づかいをするとは。
たあくんは部屋を出ていく。
なゆねは一人だけになる。
いつの間にか、VRChatのワールドには別のユーザーが少なくとも二人いる。英語で会話をする声がパソコン用スピーカーから聞こえてくる。
たあくんはベーカリーバスケットごと持ってきた。パンは六つ。立ったままなゆねにパンを見せながら言う。
「そういえばボードゲームで蛇と梯子っていうのがある」
「ふーん……ハシゴ。蛇と梯子。うんなるほど。カレーパンもらうで」
たあくんはしばらく迷ったすえ、ぎこちなくバスケットを部屋の中央のローテーブルに置く。そしてまたパソコンの前に座る。
「蛇と梯子かあ……知らんなあ……」
なゆねがそう言うと、たあくんはブラウザのウィンドウを出して「蛇と梯子」で検索する。なゆねはカレーパンを食べながら黙って画面を覗き込む。たあくんは三分ほど検索を続ける。その間もずっと英語の会話がスピーカーから聞こえてくるが、早口だから二人とも聞き取れない。
たあくんはまたVRChatの画面に切り替える。
「たあくんは……もうあれなんや。Wikipediaは解禁なんや」
「……そうやなあ。まあ解禁したのだいぶ前やけど」
たあくんは精神状態が悪かったころ、自分のパソコンからWikipediaにアクセスできないように自分で遮断していた。
たあくんは少しだけアバターの視線を動かして、英語で会話を続ける二人のユーザーが視界の中央に来るように調整する。たあくんはしばらく観葉植物のようにじっとしていたが、ESCキーを押してワールドを移動するための画面を出す。
またワールドめぐりが始まる。なゆねは黙って画面を見つめる。
今日は誰もいないワールドが多い。そして、宇宙空間から地球を一望できるようなワールドが多い。そういう気分なのか、そういうワールドがVRChatの中にたくさんあることに気づいたばかりなのか。
「そうや。あのワールド、行ってみよか」
たあくんがつぶやく。
「そうやなあ。行って行って」
そう言うと同時に、なゆねはカレーパンが入った袋を手に持ったままだったことに気づく。袋をゴミ箱に捨てる。チョココロネももらうで。そう言ってなゆねはチョココロネも食べ始める。
ロードの画面が表示されたあとは、地下鉄の駅の改札。スピーカーからは誘導チャイムのサウンド。
なゆねはつぶやく。
「さっきの……蛇と梯子って。ボードゲームのやつ。英語やとスネーク・アンド・ラダーって書いてあったな」
「そうそう。『蛇と椅子』のあれもな、英語とか他の言語で考えないと分からんかもしれんぞ」
「スネーク……チェア?」
「そう。日本語で考えてもだめで、スネークチェアーとして考えなあかんかもしれん。そんで俺な、昨日な、それとは別にな……スネークチェアーテストというのも考えた」
「なんのテスト?」
「チューリングテストってあるやろ。人工知能の」
「分かるよ」
「いろいろ考えとったわけ。ユッキイさんは何かひどいことをしたんやろかと。でも、もしそうやとして、それって一体どこで? という。もしユッキイさんもイルビさんもVRChatユーザーやったとするとな……これはな……そのひどいことをされてもな、普通まず考えるのはな、現実世界でそれが起こったっていうか、VRの中ではないやろ。記憶が失われるほどのショックを、VRの中で与えることが可能やろうかっていうことをな、ずっと考えてて。今のVRChatやとな、記憶を失うようなショックって無理ちゃうかと思ってな。でな……スネークチェアーテストというのがなにかというとやな。それはつまり、スネークチェアーテストに合格したVR空間はな、そこで起こったことによって記憶が失われる可能性がある。めちゃくちゃリアルやから。記憶が失われるほどであれば、そのVR空間はスネークチェアーテストに合格」
「うーん……うん。なるほど……いやでも……それは無理あるやろ。っていうか……いや、何をイメージしてるかってのはよく分かんねんけど。うん。スネークチェアーテストなあ」
たあくんはこうやって会話をしながらも、マウスとキーボードで駅前の広場を探索している。
「あっちょっとたあくん、あの。あそこ。ほら。鏡のあるとこ行ってみてや」
「えっ? ああうん」
たあくんは駅の近くの公園に行く。
「何か見える?」
「なにかって何が?」
「そこに何がある?」
「なにがって。俺の……アバター?」
「うん。いやつまりな、カガミっていうのがな……語源とかな、いろいろ。調べていくとな。蛇やねん。カカっていうのがな。蛇を意味するっていう。動詞のカカルとかもな、蛇と結びつける人もおるな」
「かかる? ……動詞の、かかる?」
「そうそう。カカルってほら、長いもんがこう……長くて柔軟性のあるもんが、こう、ほら」
なゆねは自身の手をクネクネさせる。
「なるほど」
「そういうイメージあるやろ。だからカカルも蛇と関係あるんちゃうかって。あくまでも、そういう説があるっていうことやで。だからカカとか、濁音になったカガとか。カカシとかカガシとか、あのへんだいたい蛇やろ。あとはカガチとか。あとそんで……ほら、カガミとかも。カガミモチって、とぐろ巻いてるやろ。だからカガの身。蛇の体。あるいは、蛇の目とか。そういう解釈があるわけ」
ふーん、カカシ……カガチ……カガミ。
そうつぶやきながら、しばらくたあくんは鏡に写ったアバターを眺める。
たあくんは鏡を離れる。
駅前を少しだけウロウロしたのち、神社へ向かう。
カカシ。カガミ。カガチ。そうつぶやきながらたあくんは移動する。こうして今日も神社へ参拝し、寺へ行き、鐘を鳴らす。
なゆねは今日知ったばかりの知識も披露する。
「虹って……空の虹ってな。これも蛇と同一視されることもあるみたいやな」
「うんうん……うん? ニジって……虹?」
「そう」
「レインボー?」
「そう。レインボー」
「虹かあ……虹なあ……虹も蛇とみなされんのか……」
「ニコライ・ネフスキーっていう人がな、宮古島に来てな。ちょうど百年ぐらい前な。宮古島って、あのほら。沖縄のな。ネフスキーが報告して有名になってんけどな。ティンパブって言ってな。ティンパブで、天の蛇って意味。ティンパブか、あるいはティンパウとか」
「ネフスキー。知らんなあ。百年前かあ」
たあくんは検索のためにブラウザのウィンドウを出そうとするが、途中でやめる。そしてたずねる。
「民俗学方面?」
「うんそう。民俗学者やし、言語学者でもある。スパイ容疑でな、ソ連に帰ってから処刑されてもうたけどな。スターリンにな。やられてもうた。粛清されてもうた。ていうかスパイ容疑はネフスキーの妻ということみたいやけどな。妻が日本人で。妻が日本国のスパイやったということで。真相はよう分からんみたいやけど」
「ああ妻が。なるほど妻が日本人。なるほどね。そのネフスキーの妻……それは……あれかもしれんな。書類とかそういうカタチでは一切残らんような、極秘の組織の一員で……実はその組織は戦後の日本でもずっと生き残ってて……という可能性もあるな。たぶんユッキイさんはその組織の一員で。何か任務とかで、すごいことをやってしまったんかもしれん。特殊な手法の暗殺とか。イルビさんの前で。一般人のイルビさんはそれがすごいショックで。ていうか、なんか今日……なんか人、多いな。土曜の夜やからかな」
「どう……なんやろ」
たあくんは移動を再開する。
駅の近くの交差点で、若い男性の歌声。交差点のカドで弾き語りをしている人がいるようだ。
すでに十人以上の聴衆がいる。
たあくんは声の近くに行って座る。
「これ歌ってる人もユッキイさんの可能性ってあるわけよな」
たあくんはそうつぶやく。
「ああっそれは……どうやろ。歌うかなあ。ユッキイがなあ……ユッキイ歌うかなあ……うーんユッキイ、ここで歌ったりする可能性……でもなあ。もし楽器とかやっとったらな、イルビがそのことをわたしに話すと思うわけ。これってあれやろ。弾き語りやろ。もし音源とか使ってな、ボーカルだけ自分の声入れる場合やとまた分からんけど……これ、このギターも、どう考えてもな、ギター歴半年以内とかはありえへんやろこれ」
二人はしばらく弾き語りを聴く。かなりテクニカルなギター。あっこの歌、聴いたことある。そうつぶやいて、たあくんはブラウザのウィンドウを出して歌詞で検索し、曲名をつきとめる。しばらくそのままブラウザのウィンドウで曲について検索する。
またVRChatの画面に戻すと、もう曲はほとんど終わりだった。
「曲名もメロディーも知ってたけど、曲名とメロディーが結びついてへんかった」
なゆねがそう言うと、それはよかった、とたあくんはつぶやく。
しばらく弾き語りの人によるMCが続く。
そして次の曲が始まる。
次の曲についても、歌詞で検索してつきとめる。ああうん、これは知ってた。そうなゆねは言う。たあくんはすぐにVRChatの画面に戻す。ていうかこの人……この人って。めっちゃうまいな。うんそうやな。これがほんまにユッキイさんやったらおもろいのにな。そうやな。これ、実はユッキイさんで……しかも極秘の組織の一員で……敵国の工作員を拷問してるところをイルビさんに見つかって。イルビさんはそれがショックで。ふふ。それ、拷問はどこですんの? VRChatの中で? いやだからそれが問題でな。VRで拷問っていうのはさすがに成立せんやろ。いやでもあれやで。ショックを受けるのはイルビなわけやで。だから拷問として成立してなくてもな、イルビがショックを受けたらそれでええわけやで。まあ確かにそうやな。じゃあやっぱり、ユッキイさんはVRChatの中でなんかすごいことをしたんかもしれんな。ふふ。でも実際のところ、どんなん? 何をすればそうなるやろ? いやだから。それでさっきの、俺の考えた話に戻るわけやろ。今のVRChatはスネークチェアーテストに合格すんのかどうか。
二人が話しているうちに、いつの間にか別の歌い手がパフォーマンスを始めている。女性の声。
しばらく二人は無言で歌を聴く。
ワールド内の交差点には、この後もいろんなタイプの歌い手がやってくる。
それぞれが多様なスタイルでパフォーマンスを披露する。弾き語りが多いが、音源を使ってボーカルのみのパフォーマンスの場合もある。SYNCROOMによるオンラインセッションの場合もある。
天体観測。怪獣の花唄。フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン。つじつま合わせに生まれた僕等。アゲハ蝶。赤いスイートピー。真夜中のドア。丸の内サディスティック。グラマラス・スカイ。ヒッチコック。ボカロのほうのプラネテス。彗星になれたなら。そっけない。ハレンチ。踊り子。深海のリトルクライ。読み方が難解なバンドのエイプリル。夜明けと蛍。夜空ノムコウ。ストーカーの唄。楓。さわやか会社員。第三の心臓。ヘビースモーク。ドライフラワー。さもありなん。ハナミズキ。プラスティック・ラヴ。エイリアンズ。僕が死のうと思ったのは。灰色と青。
「ああっ、んんんん……」
なゆねは伸びをしながら少しずつ上半身を倒す。
いつの間にかワールド内は人が少なくなり、パフォーマンスを披露する人もいなくなっている。
パソコンのスピーカーからは歌声ではなく、かすかないびきが聞こえてくる。おそらく聴衆の中の一人が寝落ちしたのだろう。
なゆねは寝転がって現実の部屋の壁にかかった時計を見る。
「しまった朝やな」
午前三時五十五分。
まさかこんな時間になるとは。
土曜の夜は終わり、日曜の早朝が始まりつつある。
なゆねは寝転がったまま、液晶ディスプレイを見つめる。
「そういやさっきのやつ……シンプルに、倫理的に許されへんな」
「なにが」
「たあくんが言ってたテスト。ほら。スネークチェアーテスト」
「倫理的に?」
「チューリングテストの場合やと、ほら。機械とやり取りするだけで、相手が人間やと思ったかどうかっていう、それだけやろ。何回やり直しても、別に倫理的に問題ない。でも、スネークチェアーテストの場合はどうやろ。テストというからには、こう、実験の対象っていうか。ほら。被験者か。被験者をな、集めてきてな。それで実験ということになるとな、それはちょっと……被験者に対してな、意図的にな、精神的にショックを与えて。そういうことをやって記憶が失われるかどうかとか、そういう実験というのはなあ、まあそういう。研究倫理として許されないとかな……そういう話に……なるはずやねん……」
話しながら、あくびが出る。このまま寝てしまおうかと思うが、なゆねは急に立ち上がる。
ナチスならやるかもね。そう言おうとしてなゆねはやめる。
そして財布の中身を確かめる。
どうしようか。たまにはたあくんを外に連れ出したほうがいいだろうか。その場合、真っ昼間ではないほうがいいだろう。
パソコンのスピーカーからは、ドラムソロの音が流れ始める。しばらくパフォーマー不在だったが、インストゥルメンタルのパフォーマンスをする人が交差点にやってきたようだ。いびきの音とドラムソロの音が混じり合う。
「なあ、ちょっと外、行かへん?」
「うん? えっ……えっ、今から?」
「駅前のコンビニ行こうや」
たあくんは迷い始める。
スウェットパンツだけを替えようかと考え始める。そして床にあったスウェットパンツの匂いをかぐ。
そのまま着替えるのかと思うと、パソコンのブラウザでtenki.jpの一時間単位の予報を出したりする。
「服、そのままでええから。あと今日のたあくん、全然クサくないで」
「ああうん、まあ……コンビニは昨日も行ってんけどな」
「ああそうなんや。まあええやん」
こうして、なゆねはたあくんを外に連れ出すことに成功する。久々にたあくんと二人で外を歩く。まだ空は暗い。なゆねは駅前のコンビニでサンドイッチと紙パックの乳酸菌飲料を購入する。
財布を手に持ちながら、なゆねは言う。
「千円以内やったら出すで」
「いや、なんもいらん」
二人はそのままコンビニを出る。出てからすぐ、たあくんは少し険しい表情になって言う。
「あの店員、あかんねん」
「うん?」
あかんてなんだろう。
聞いたほうがいいのか、聞かないほうがいいのか。
なゆねは駅前のベンチに座る。
少し建物の陰になっているが、ベンチからさっきのコンビニの看板の光が見える。
たあくんもベンチに座ろうとする。でもすぐに、なんか冷たい、とつぶやいて立ち上がる。
「いや全然冷たくないって。ほら」
「いやなんかおかしい」
「えっちょ待って。えっほら。もっかい触ってみて」
たあくんは恐る恐るベンチのひじ掛けの部分を左手で触る。何度も何度も、じっくり感触を確かめたのち、ようやくベンチに座る。
「えったあくんが昨日行ったコンビニってな、さっきのコンビニ?」
「違う。全然違う。もっと向こう」
そう言って、たあくんはコンビニと反対側のほうを指差す。
どのあたりだろう。自分の知らないコンビニかもしれない。なゆねはそう考える。そしてその方角ということは、さっきのコンビニよりさらに遠い場所ということになる。
なゆねは黙ってサンドイッチを食べる。犬の散歩をするおじいさんが前を通り過ぎる。ここが散歩のルートなのだろうか。
ふと横を見ると、たあくんはウトウトしている。
寝るのか。この流れで、寝るのか。ここで寝るか。でももう朝だもんね。
なゆねはすっかり眠気はなくなったが、妙な気分だ。最近はあまり感じたことのないような種類の、特異なテンション。
人影がない駅前の静けさとは違って、頭の中は騒がしい。
なゆねは先週、このベンチに座りながらあれこれ考えていた時のことを思い出す。このベンチにはなにか秘密があるかもしれない。その秘密はいつか、この街のすべての人が知ることになるのだ。
なゆねは紙パックの飲み物を開けながら、たあくんの体に蛇がからみついていく様子を思い浮かべる。最初は二匹か三匹だけだったが、どんどん増殖していく。やがて何匹かはなゆねの足にも巻き付く。なゆねは気にせず、飲み物を少しずつ飲む。
時々足を動かすと、蛇は驚いて逃げたりする。
でもしばらくすると蛇はまた戻ってくる。
突然、駅の改札付近でシャッターが開く音が聞こえ始める。
営業開始の合図。
さっきより空が少し明るい。
蛇はいなくなっている。
たあくんは相変わらずウトウトしている。
スマホを取り出して、重要なメッセージが来ていないことを確認する。
日曜日の朝だ。
「じゃあそろそろ、行くで」
「えっ? ああ、ああ。うん」
「寝る時もVRChat立ち上げたままにしといてや。たあくんがいるところに、VRゴーグルつけて行くかもしれんし」
「あああ……」
たあくんは曖昧に返事をする。
彼女は帰ってからすぐパソコンを立ち上げる。いくつかメールに返信をする。VRゴーグルを装着するが、すぐにそのまま床の上に寝転がる。現実では絶対にありえないような空を眺める。たあくんの言葉を思い出す。スネークチェアーテスト。なるほど。たあくんと話さなければ、そういう発想は出てこなかった。でも『蛇と椅子』のテキストファイルの謎からは、ますます遠ざかっている気もしてくる。彼女は弾き語りのパフォーマンスでの歌詞を思い出す。今日あの交差点で歌っていた人の中に、やはりユッキイがいたりするような可能性はあるのだろうか。
気がつくと、彼女は駅前のベンチに座っている。
しばらくして、弾き語りが聴こえてくる。若い男性の歌声。でもどこから声がするのか分からない。彼女は外の世界に向けて、これってどっからなん、と問う。えっこれってどっからなん。声が届いているのか届いていないのか分からない。駅前には誰もいない。ここはたあくんの家の最寄り駅とも少し違う。少し違っているけど、グラフィックがリアルすぎる。こんなにリアルにできるものなのか。ベンチは確かにあのベンチだ。あのベンチのことを知っている人がこのワールドの作者なのだ。でもそういう問題ではない。何かがおかしい。弾き語りの声はとぎれとぎれになり始める。
VRゴーグルを外そうとするが、視界が歪むだけでうまく外れない。視界の端にグロテスクな紫色の模様が見える。
顔の周りに圧迫感を感じ、そこで目が覚める。
夢だったことをすぐに認識する。
VRゴーグルをつけてからすぐに寝たことも思い出す。すぐに現実を認識できるのは、圧迫感があるせいかもしれないと考える。自分がどこにいるのかもすぐに思い出す。手を動かして、床の感触を確かめる。自分が借りているワンルームマンションの床。視界には自分の部屋にいることを示すものはない。でも床の感触が確かに自分の部屋。
彼女はそのまま三十分ほど、VRゴーグルを外さずに空を眺めたまま考え事を続ける。頭では、自分の部屋の床で寝転がっていることは分かっている。あまりに非現実的な空を眺めていると、本当はどこにいるのかなんて、どうでもいいことのように思えてくる。
やがて、今日は日曜日のはずだが本当にそうだろうかということが気になってくる。
VRChatのメニューを出して、午前十一時過ぎであることを確認する。もっと長く寝てしまったかと思ったけど、そうでもなかった。早朝にたあくんと二人で座った駅前のベンチで、スマホの画面で日曜日であることを確認していたことも思い出す。
ゴーグルを外さずに、上半身を起こす。手探りでパソコンデスクの椅子を引き寄せ、そこに座る。現実の彼女は椅子に座っているが、VRChat内のアバターは立った状態。自分のいるワールドを歩き回ってみる。ワールドの中に設置された入退室の履歴のパネルが、いつもと違っていることに気づく。たあくんが三回ほど入室していたようだ。なるほどこんな風に表示されるのか。
そういうパネルがあるワールドを自分の「ホーム」に設定していたわけだが、これまで役に立ったことはなかった。
朝に「行くかもしれんし」とたあくんに言っておきながら、たあくんがどこにいるかも確認せずにそのまま寝落ちしてしまったことを思い出す。
タヌウにメッセージを送っておこうかと少しだけ考える。でもこれはやめにする。
メッセージを送る代わりに、VRChatのユーザー検索でタヌウを見つけ出すことは可能かどうか試す。ディスプレイネームさえ分かれば検索は容易だが、タヌウの情報はいまだに分からない。タヌウが設定しそうな名前で検索しても、それらしいものは見つからない。プロフィールのBio欄にほとんど何も書かれていないユーザーの場合は、もしかしてタヌウであることがありうるかもしれないと思う。イルビの場合はどうだろう? ユッキイについては?
ユーザー検索に熱中し初めてすぐ、この探索は一時間だけにしようと決める。実際に彼女は一時間だけで打ち切る。やみくもに試しても仕方がない。まずはタヌウからディスプレイネームを聞き出そう。
そして彼女はいくつかの滞留を解消する。そのためだけの外出もする。ここしばらく、パソコンのパーツを購入したり設定したり、VRChat内を散策したり。そういったことで遅延が発生していたものごと。遅延というより、忘却というべきかもしれない。
もちろん忘却とはいっても、彼女の場合は思い出すことができないというわけではない。記憶を失っているわけではない。イルビの症状とは違うのである。適切なきっかけさえあれば、はっきりと思い出せる。彼女にとっては、ただシンプルに面倒であったものごと。新鮮な対象によって一時的に脇に追いやられていただけのものごと。
夜になって帰宅し、一度も開いていなかったHTMLやCSSの本を読み始める。彼女はすぐに勘所を思い出し、テキストエディタでHTMLを実際に自分の手で書いて試す。
深夜二時ごろ、なゆねはVRChatを立ち上げる。
たあくんがオンラインなので、たあくんのところに行く。誰かと話しているのかと思ったが、そうではなかった。
なゆねが手を振ると、たあくんはジャンプする。
「聞こえてる?」
なゆねがそう問うと、たあくんは何かを打ち込み始める。
「きこえてる」
たあくんのアバターの頭上に、テキストのメッセージが表示される。
よかったよかった、なゆねはそうつぶやく。
「なゆねの声がでかい」
「なゆねの……こえが……あっそうなん。えっどうしよ。設定変えよかな。えっ音って、割れてる?」
「我てはいない」
うん?
どういう意味だろう。
「割れてはいない」
ああ……なるほど。
たあくんって、Wikipediaは誤字脱字修正から入ったのにな。やはりチャット形式だと、たあくんでもミスをするのか。
なゆねはマイクの設定を少しだけ変更する。
そして移動を提案する。
「あのワールド行こうや」
「いいね」
昨晩、たあくんが遅くまでいたワールドへ二人で移動する。昨晩はたあくんの視点を横で眺めていただけだったが、VR越しにたあくんのアバターを見ると、まったく違う印象だ。デスクトップモードということもあるだろうが、想像以上に観葉植物だ。
あれなん……今日はお寺で鐘は鳴らさへんの。さっき鳴らしたしな。ちなみに神社のおみじくじは小吉やった。そうなんや。あんな、そういえばな……卍のマークってあるやろ。仏教寺院の。マンジ? マンジ。あのほら、反対方向にするとナチスのマークになるやつ。ナチス? 反対方向??? あのう……ほら。なんて言ったらええんやろ。あっこのワールドって……ペンないんか。駅前にはあったっけ。まあええわ。えっと……ほら。この手の動き、見て。これ。……ほら。わかった。たいへんよくわかりました。な? 分かるやろ? 卍。そうそれそれ。そのマーク。その卍のマークって、二匹の蛇らしいで。そうなんや。そうそう。これも蛇か。そうこれも蛇。そういや、昨日言ってたスネークチェアーテストな。あれ、倫理的に実験が気軽にやりにくいって話、したと思うけど。それ以外にもな、いろいろ無理あるかも。無理あるっていうかな、VR内かどうかっていうのがな、あんまり意味ないようなケースありそうでな。例えばな、ナチスのマークでな、発作を起こす人がいるとするやろ。いやそういう人が実際にいるかどうかは知らんけど、例えばの話やで。そういう人の場合はな、ナチスのマークで発作を起こしてまうからな、VRかどうかっていうのがな、関係なくなる気がするわけ。ああなるほどな。確かにそうかもな。まあ、俺が考えとったんって、発作じゃなくて記憶を失うってことやけどな。でもなゆねが言いたいことは分かる。うん……分かるやろ。そんでまあ、結局、記憶を失うっていうのも……たぶん関係性が重要になってくるんちゃうかな。イルビとユッキイのことについてもな。例えば、メッセージの文面をVRChatのワールドの壁に映し出すようにしとくとするやろ。例えばの話やで。そこでイルビが非常にショックなメッセージを受け取ったとするやろ。イルビの側はVRゴーグルつけて、VRChatの中におって。でも送ったユッキイの側は、単に外出中にスマホでメール送っただけやとするやろ。それってたあくん的にVRの中? それとも外? ていう。そういうことになりそうな気もすんねん。それはたしかにそうかもな。
翌日は月曜日。
やはりこの日も夜はVRChatの中でたあくんと話す。
この日のたあくんは荒廃した世界のワールドばかり行きたがる。おそらく人類は滅亡しているか、非常に少数のみ生き残っているであろう世界。
たあくんて『五十回目のファースト・キス』観た? なにそれ。映画。ドリュー・バリモアのやつ。しらんみてない。ドリューバリモアって人の名前? そう女優。リメイク版もあるみたいやけどな。わたしが観たのはドリュー・バリモア出てるやつな。まあ、あの映画ってあんま、たあくん好みちゃうかもしれんけどな。あれもなんか、記憶の障害、扱ってて。短期記憶やけどな。あとあれは心的外傷じゃなくって。頭部の外傷のほうやけどな。物理的な外傷。でな、これ映画の最後でな、「オーバー・ザ・レインボー」のウクレレバージョン流れんねんけどな。そう言ってなゆねは、ワールドに設置された動画プレイヤーでハワイのシンガーが歌う「オーバー・ザ・レインボー」を再生する。しばらく二人はその美声を聴く。そういえばここにもレインボー。そうなゆねは思う。ああそうそうこの動画ってな。十億回以上再生されてんねんで。そうなんや。これでまたわたしが一回、貢献してしまった。いやそれはわからん。うん? なんで? なんかVRChat内のどうがはカウントされんというはなしもある。えっそうなん? あんまくわしくは紫蘭けど。あんまくわしくは知らんけど。そうなんか……ていうかこれってな……えっこれって、動画ってな。わたしのパソコンとたあくんのパソコンとな、それぞれのパソコンからYouTubeにな、バラバラにアクセスしてる感じなん? そうなってるはず。間違いない? たぶんまちがいない。そうか。じゃあ今のも、再生回数としてカウントはされてなくても、実際のアクセスとしては少なくとも二回あったわけや。そういうこと。そういえばたあくん、ふだん引きこもってるわりには動画の持ちネタが少ないな、なんかないのかな。ちょうどなゆねがそう思ったタイミングで、たあくんは聞いてくる。ダニー・デヴィートが椅子から出てくるどうがみた? ふふ、なにそれ。椅子から出てくんの? 椅子からって……椅子の内部からってこと? うん。ソファ的な椅子? そうそう。ガバアッて? そういうかんじ。
しばらくの間たあくんは静止した状態のままになる。
別のウィンドウで検索しているのだろうか。
あった。
そう言ってたあくんは急にまた動き出す。そしてテレビドラマ『フィラデルフィアは今日も晴れ』のシーンから切り出したと思われる動画を、ワールド内の動画プレイヤーで再生する。
なるほどこういうのを隠し持ってたか。
ちょっとトイレ。そう言ってなゆねはVRゴーグルを外す。
なゆねはトイレで、タヌウの友達のことをどこまで話すべきか迷う。話すとしても、今日話すべきかどうか。
なゆねはコーヒーをマグカップに注ぐ。パソコンデスクの上にマグカップを置き、しばらく迷ってからVRゴーグルを着ける。
そういえば俺、メメントはみてるわ。え? ああ、うん。『メメント』なあ。はいはい。『メメント』めっちゃおもろそうやなあと思っててんけどな。わたしはまだ観てないねん。あと俺チャーリーズエンジェルもみてるわ。ドリュー・バリモアの一作目の。二〇〇〇年公開の。音声認識システムのはなし。そうなんや。……あんな、そういやな、タヌウの友達がな、Unityとか詳しい人探してて……あっそうや。ちょっと待って。この動画プレイヤーな……これ……ちょお待ってや。動画プレイヤーがつまめるとこあったはずやねん。こないだ、たあくんがUnityに詳しいかどうか聞いたやろ。えーっと。あったこれや。移動しよ。ここ。
二人はワールドを移動する。
移動後は、他のユーザーがいきなり入ってくることができない状態に設定されている。
たあくん、さっきのダニー・デヴィートのやつ、もっかい再生してみてや。ちょっと待って。はい。おーけー。そうそれそれ。でな。ここな、ほら。これ。ここの動画プレイヤーやったらな、こうやって……つまんだりできるやろ。こうやって、回転させたりとか。動画としては再生された状態のまま、こうやって自由自在にな、動かすことできるやろ。そうやな。こういうのがな、認知行動療法っていうかな。あるいはなんか、広い意味での暴露療法とかな。そっち方面の。暴露療法って分かるやろ? 名前だけ知ってるけど。ていうか動画プレイヤーつまむのがそんなに重要なん? まあ……うん。そういうのが有効なんじゃないかっていう議論があるわけ。実効性のことは知らんで。じっさいの治療でそういうのがあるわけじゃないってこと? どうやろ。日本ではそんなに一般的じゃないかも。動画プレイヤーで動画って。それがばくろ療法って。つまり恐怖の対象を動画で再生するとかそういう話? そう。まさにそう。暴露療法の定義の正確なところは知らんけどな。まあ結局これって、被害者と加害者を両方、動画の中に登場させるっていう。ていうか実際はまあ、いろんなパターンありうると思うけど、わたしが聞いたのはその……被害者とな、加害者がな、両方動画の中に登場するっていう。その動画をな、被害者の側が用意するっていう。なるほど。おっさんが腰をふりまくってるとかな。なるほど。まあそういう、いろいろ。例えばの話やけどな。他には? そうやなあ……腰を……ふりまくってるとか。他になんかないんか。でな、なんかな、そういう。プライバシーとかいろいろあるわけ。そもそもそういう映像を用意するってことがな。どういう連想を生むかっていう話でな。まあ普通に考えてな、若い女性がそれを用意するわけやからな。今やったらAIとかそういうので、動画を用意すること自体は簡単にできるわけやけどな。男性が自分の楽しみのためにそういう映像を生成するっていうのと全然ちゃう話になるからな。被害を受けた側のな、女性がな、そういう動画を用意するわけやからな。そんなんもし流出したらどうなるっていうことになるしな。仮にAIやってことがバレバレやとしてもな、誰がどういう目的でそんな動画生成したんかとかな、いろんな連想が生まれてまうやろ。実際の映像じゃないからそれでオーケーとはならんやろ。でな、これってな、実際に記憶の中にある場面が重要やからな。組み合わせが重要やから。動画の登場人物。その場面をな、こういう風に動画で再生しつつ、回転させたり、遠ざけたり、音を小さくしたりとか。こういう……ほらこういう風にな。でも別にそれ顔がバッチリ判別できる動画じゃなくていいんじゃないのか。体格だけとか髪型だけとかで。そうかもね。それはそうやね。そのあたりどうなんやろね。えっこれってな。VRChatの中の動画プレイヤーで動画再生すんのって、必ずどこかの動画サイトとか、そういうとこにある動画じゃないとだめなん? ああそこな。そこは俺も気になる。えっなゆねって。localhostがどういうことかっていうのは分かんの? ああなんとなく。自分しか見れないとかそういうことやろ? まあそういうこと。基本的には。ローカルにWebサーバー立てて、ローカルにある動画ファイルに自分しかアクセスできないようにして。そういう動画をVRChatの動画プレイヤーで再生すんのは、いちおうできる。他のユーザーから見えなくていいんやったら。このあたり、俺はあんまりちゃんと試してないけど。でもとりあえず再生ができるっていうのは確か。ローカルの動画を。でもワールド内の他のユーザーがいる場合とかに。どこまで情報が伝わってしまうかっていうのはワールドによると思う。別にVRChatというサービスを利用してやる必要はないとかそういう話になるかも。うん……うんうん。そう。VRChatである必要はない。そこ。そうなるやんな。一人だけでやるんやったら、VRChatというプラットフォームを利用してやる必要ないとか、そういう話になるやんな……そのへんがほら、Unityに詳しいかどうかっていう話に戻ってくるわけ。Unityやったら、インターネットにつながずに完全にローカルだけでいけるんちゃうかっていう。まあこの、Unity詳しい人探してんのはタヌウの友達でな。タヌウってのは、バンドやってる子な。で、どっちかっつうとタヌウはな、イルビは演技してるだけちゃうかとか……そういうの疑っててな。そういう感じやったから。今は分からんけど。そのタヌウの友達はな、イルビの記憶の件を知ってもうて、なんかすごい興味を持ってしまったというか。まずはわたしがタヌウを説得して、で、タヌウがその友達にあんまり詮索せんとってって説得したっていう、なんかそういうこともあったりしてな。まあその友達にとっては、自分の研究のこととかいろいろあるんやろけどな。ちなみにその人って医学部ちゃうねんけどな。あっ待って。
突然、スマホの着信音。
誰かと思ったら、親からの電話。
「ごめんなんか親から電話や」
そう言って彼女はVRゴーグルを外す。
電話は実にどうでもいい内容。
いらだたせる内容でなくてよかったと彼女は思う。
コーヒーを淹れたまま忘れていたことに気づく。電話が終わり、彼女はコーヒーを飲みほす。
ごめんごめん、で、なんやったっけ。そのUnityの話ってあれか。イルビさんがきおく失ってる件とはまた別ってことやんな。うんそうそう。イルビの場合、記憶がないから、そもそも何らかのショックな場面っていうのがあったとは限らんわけ。具体的な場面っていうのがな。関係性とそれが解消されたっていうその事実こそが重要って可能性あるから。動画を使ってどうこうっていうのは、記憶が残ってるから成立するわけやからな。記憶が残ってしまってるからこそな、その記憶の中のな、強烈な異物っていうかな。そういうのをコントロールするっていう話でな。鮮明に記憶が残ってしまってんのにな、めっちゃ鮮明やのにな、でも言語化が難しいっていうかな。そういう鮮烈な記憶をな……そういう場面をな。自分ではどうしようもできなかった場面をな、動画として用意するわけやから……で、この話っていうのはな。イルビとユッキイの話とは直接は関係ないねんけどな。でもまったく関係ないとも言い切れんというかな。わたしとタヌウの間ではな。なんでかって言うとな……その、わたしとタヌウの二人の間ではな。ユッキイってたぶんUnityとか詳しいんちゃうか、とか。そういう話をしとったわけ。ずっと。それってイルビの新しい彼氏が適任ちゃうんって。あ、新しいっていうのはユッキイのことな。イルビがまだユッキイと付き合い始めたばかりのころな。ちゃんとUnityに詳しくて……秘密を守ってくれてな。でも今年に入ってからな、イルビのそういう症状が発覚してな、ユッキイってほんまはどんな人なんやろってなってしまって。なるほどね。ところでそういうのって男女逆のばあいも想定されてんのか? ああ……そこなあ。まあ、もちろんあるやろね。男女逆もそうやし、男同士とかもあるやろね。でもまあ絶対数としてはたぶん、圧倒的に女性が被害者で男性が加害者のパターンが多いやろね。実際のところ、イルビが記憶を失うほどのショックがあったってことが、なんかわたしにとってはショックやったわけやけど。でも何らかの加害行為っていうか、そういうのが実際にあったのかってのは全然分からん。どうしてもそういう連想って生まれてまうけど。でも実際のところ、分からんのよな。あのイルビのゾッコンぶりを知ってるとな、イルビのほうが暴走してなんか変な行動をとってな。ユッキイは単に逃げ出しただけっていうな、そういうのもありえなくはないわけ。単に逃げ出したっていうだけでも、イルビにとってはものすごいショックやったやろうしな。
この翌日は火曜日。
彼女はイルビとカフェめぐりをすることになる。
イルビはいつもと変わらない。
強いて言うなら、この日もイルビが聞き役に回っていることが、珍しいといえば珍しい。
一軒目のカフェでは、報告も兼ねて彼女が自分のことを話し続ける。最近、彼氏と別れたという話。その周辺事情のこと。自分で頭の中を整理しながら話す。
さんざん迷ったあげく、彼女は二軒目のカフェでユッキイのことを切り出す。
でもユッキイの存在はやはり覚えていないというイルビ。イルビとユッキイのツーショット写真を見せても、やはり覚えていないという。あらためて『蛇と椅子』のテキストファイルも見せてみる。やはり何も思い出せない。
「えっ蛇ってな。イルビは蛇で何を連想する?」
「うん……蛇。うーん……長い?」
「他には?」
「ふふっ。長いこと……以外は……巻き付く」
「うんうん」
「家を守る」
「うんなるほど」
「エデンの園、とか? いちおう学校、キリスト教系やったし」
「うんうん」
そうだ。イルビは中高一貫の女子校出身で、キリスト教系の学校だ。
彼女も女子校だったが、キリスト教系ではない。
「あとは……あとほら……吉兆?」
「ああ……うんうん。なるほど?」
「蛇が現れると良いっていうけどなあ……でもなんか、いきなり毒ヘビとか部屋におったら怖いけどな。ていうか、毒持ってるかどうかとか、どうやって判断すればええんやろっていう……」
「そうやなあ……うん……うん……」
これぐらいにしておこうか。あまり根掘り葉掘り聞くのもよくないかもしれない。
そして今も昔も、詩は書いていないというイルビ。暗号に関心を持っていた時期もないという。『蛇と椅子』のテキストファイルをあらためてじっくり読んでも、自分に関係があるものだという感じがまったくしない。何かを思い出しそうになってつらいだとか、そういう感情が湧いてきたりもしない。
彼女は借りたVRゴーグルが快調に動いているという話もする。VRChatの話も。イルビはほとんど自分には何の関係もない話としてそれを聞く。イルビはResoniteやclusterなどの、VRChat以外のVRSNSのことも何も知らないという。VRChat内で自分が写っている写真のことも思い出せないし、タヌウのイケメンアバターのことも思い出せない。タヌウがVRChatの中で何度もイルビと会ったという主張も、どうしても信じられないという。声がそっくりのなりすましなどの可能性は本当にないのか、ということを言ったりもする。
イルビが「もうVRゴーグル返さなくていいで」と言い出したりするのかどうか、彼女は気になってくる。VRに興味がなさそうではあるが、そういうことは言わないイルビ。本当に自分が購入したものなのかどうか、自信が持てないということもあるのかもしれない。でもレシートにあったポイントカードの会員ナンバーは確かに一致しており、購入にイルビが関与したことはほとんど疑いがないよねということをお互いに確認する。そうそう、またなゆが聞いてくるかもなあ、と思って。最近あんまこのポイントカード使ってへんねんけどな。いちおう持ち歩いてんねん。そう言って、ポイントカードを財布から取り出す。
彼女はポイントカードを持ったまま、窓の外を見る。こんな風に二人でカフェめぐりをするようになったのは、イルビがユッキイの記憶を失ってからだということを彼女は思い出す。『蛇と椅子』のテキストファイルが自分に送られてきたからこそ、何か思い出せることがないのかと何度もイルビに働きかけるようになり、話す機会が増えたのだ。
もうイルビには新しい彼氏もいる。自分の好奇心が不必要にイルビの人生を混乱させたりすることがないよう、彼女は意識的にイルビの新しい彼氏の話もする。
本当はもう、最後のチャンスかもしれない。あの『蛇と椅子』のテキストファイルの謎を解くのは。彼女ははっきり、焦りを感じる。今この謎を解いておかないと、もう永遠に謎のままになる気がする。謎を解くプロセスにおいて誰かが傷つくのは避けたい。真相は判明するけど全員が傷つくというような、そんな流れにはなってほしくない。でもそう考えるのはエゴでしかないのかもしれないとも思う。
三軒目がある予定だったが、二軒目での話が想像以上に長引いたため二軒目でお開きとなる。二軒目の時に雨がふり始めたということもある。
新しい彼氏の話になってからは、イルビもよく話すモードになった。聞き役に回っていたのは、単に意識的にそうしていたというだけなのだろう。
手がかりといえるものは何もない。
どんどん謎から遠ざかっている気もする。
どうせお前には分からない。
お前には関係のないことだ。
真相など知らなくていい。
そんな風に言われている気もしてくる。
でも彼女はずっと『蛇と椅子』のテキストファイルのことが気になっている。
ある時、なゆねとたあくんの二人はVRChatの中で、古代ギリシャの医術の神アスクレーピオスについて考える。死者ですら蘇らせることができる能力を持つ神。再生や回復の象徴としての蛇。アスクレーピオスが使役する蛇は、WHOや日本医師会のマークとしても登場する。あんな、このアスクレーピオスの蛇ってな、救急車のマークにもなっててな、救急車の側面にそのマークあったりすんねんで。そうなんか。それは考えたことなかった。じゃあ俺が乗った時の救急車にもついとったんかな。たぶんな。すべての救急車にこのマークついてんのかどうかは知らんけどな。
また別の機会には、漫画『カイジ』の「オレが蛇に見えた」や「蛇でいてくれてありがとう」というセリフについて考える。邪悪で狡猾なイメージとしての蛇。そういや俺はパチンコ屋って行ったことない。そうなんや。わたしは一回だけある。そうか。たあくんにとってギャンブルは漫画の中にしかないのかもしれないとなゆねは考える。しかしたあくんは、どこそこの作業所でギャンブルが横行し、巧妙な搾取があるというような話も始める。なゆねにはそれが真実なのか、妄想的な解釈が含まれているのか判別できない。
さらに別の日。『神に追われて』という本の中で、蛇に「おまえには水を飲む権利はない」と言われるエピソードが登場することについて考える。再び宮古島のことが話題にのぼる。
干支の話になったりすることもある。イルビが巳年の生まれでないのは確実だが、ユッキイについては巳年の可能性がある。もしそうなら、ユッキイは二〇〇一年生まれということになる。
記憶の話になることもある。自分の好きなように特定の記憶だけ消すことができるとしたらどうするか。自分を守るためにそういう消去が可能だとしたらどうするか。逆に、自分の特定の記憶を消去することが人助けになるような状況はあるのか。他者の記憶を消すことができるとしたらどうするか。記憶を移植することは可能なのか。なゆねは『メン・イン・ブラック』を観たかと問う。たあくんは観ていない。たあくんは『月に囚われた男』を観たかと問う。なゆねは観ていない。
なゆねがテキストファイルの中の「蛇」と「椅子」だけに囚われすぎているのではないかとたあくんが指摘することもある。個人的に俺はやっぱり「モック」は重要やと思う。なんで突然「モック」なん。「蛇」がくるやろ? 「椅子」がくるやろ? そのあとなんで「モック」?
たあくんはユッキイの声も気になるという。ユッキイの過去や周囲のことを探る必要はない。同じ大学なのだからユッキイの声だけを確認することはできないのかと問う。VRChatで見かけるあの人は実はユッキイなのでは? 実はこの人がユッキイなのでは?
二人でVRChatの中で弾き語りを聴きに行くこともある。「少女レイ」の歌詞について議論したりもする。
このようなやり取りと並行して、なゆねはHTMLやCSSの勉強を続ける。独自ドメインを取得してみたりもする。
木曜日の夜になり、外は土砂降りの雨。
彼女は久しぶりにパソコンで映画でも観ようかと思い始める。
最初は『メメント』を観ようとするが、動画配信サイトにログインしてから気が変わる。ドリュー・バリモアが出演する二〇〇〇年公開の『チャーリーズ・エンジェル』を観ようとする。
でも再生を開始してから五分ほどの時点でタヌウからメッセージが来て中断される。夕方にVRChatのディスプレイネームを聞き出そうとするメッセージをタヌウに送っていたのだが、その返信が今来たのだ。結局、またしてもはぐらかすような内容。実際に会って頼み込んだら教えてくれるだろうか。しばらくメッセージのやり取りを続け、タヌウは忙しくてずっとVRChatを起動していないらしいことも知る。
タヌウは日曜日を丸一日ずっと一人で自由にすごせるようにするために、平日に予定を詰め込むようになったのかもしれないと彼女は考える。
VRゴーグルは無理だが、安物のマイクを購入し、たあくんにあげようかと彼女は考え始める。安物だと音量は大丈夫だろうかと心配したりもする。たあくんの声、ただでさえ聞き取りにくいしね。
自分はずっとVRゴーグルを装着してVRChatに入っているのに、たあくんはずっとデスクトップモードで、しかも無言勢であるということについても考える。VRのことだけではない。自分とたあくんの間には、明らかな格差がある。子供のころはこのようになるかもしれないなんて、想像もしなかった。この非対称性がVRによってさらに際立っているかもしれないと考える。でも、もしかするとたあくんが無言勢で居続けることによって、たあくんの特性を曖昧にする効果があるのかもしれないと考えたりもする。他のユーザーとはほとんどコミュニケーションをとっていないように見えるが、実際のところどうなのだろう。他のユーザーからたあくんの振る舞いがどう見えるのか。まあ、無言勢だしね。しょうがないよね。まあ、デスクトップモードだしね。しょうがないよね。そんな風に思ってくれることにより、強い先入観からスタートすることがなくなることはあるだろうか。
役割としての強力な非対称性により、大多数の人間との特性の違いがウヤムヤになる状況についても考える。
講師と聴講者。動画配信者とリスナー。書き手と読み手。治療者と患者。無人島で一人で暮らす人。戦場における、単独行動がメインのスナイパー。
そのまま『チャーリーズ・エンジェル』の続きを再生しようかどうか迷う。スマホの電源を切っておけばよかったかもしれない。でも彼女は、静止した画面を見つめながら、再び特性の違いや社会的逸脱について考え始める。そして映画の続きを観ずにウトウトし始める。
このまま、日々を続けることも可能ではあった。
この安定を心地よいと感じる自分がいることもはっきり自覚している。
『蛇と椅子』のテキストファイルについては、諦めのような感情も強くなってゆく。
専門家に依頼して強引な調査を決行しない限り、永遠に分からないような種類のものなのかもしれない。
あるいは、謎めいているなどと考えるのは彼女の主観にすぎず、三十秒くらいで書いた他愛もない詩でしかないのかもしれない。最初から、ただ笑い飛ばしてすぐに忘れてもらうようなものとして送ったのかもしれない。
彼女は未来のことが気になってくる。
たあくんは今後、どうなるだろう。
今は安定している状態と言っていいのだろうか。どんな風に安定するのがいいのだろうか。ほどよい変化が起こることはあるだろうか。
何らかの変化があってほしいと思ってしまうのは、良くないことだろうか。
今のたあくんにとって、wikiはどのような存在なのか。
ほどよい意外性を提供することは可能なのかどうか。
ほんの少し。もしほんの少しだけ冒涜的になることが許されるならば。彼女はそう思い、たあくんと話した内容を擬似的なwikiのサイトにしようと画策する。閲覧者が自由に編集したりはできない。自由に新しい項目を追加したりもできない。動的なサイトではない。HTMLやCSSの勉強にはうってつけだ。
それぞれの項目は、彼女とたあくんが読めば、イルビのテキストファイルに関連したものだと分かるようになっている。第三者が読んでも、まったく意味が分からないように慎重に言葉を選ぶ。おそらくタヌウが読んでもすぐには気づかないだろう。
さっそくファイルが増えすぎて困っている自分に気づく。やはりこういうものはプログラムで動的に生成するのが正解なのかもしれない。あるいは最初からwikiのシステムをサーバーにインストールすればよかったかもしれない。
木曜日の深夜、あるいは金曜日の早朝。
独自ドメインの設定がうまくいっていることを確認する。
新しいドメインでアクセスできるかどうか、たあくんに確認してもらおうと考える。
コーヒーを淹れながら、たあくんにサイトを見せる前に「青空文庫」で江戸川乱歩の「人間椅子」を読んでおこうと思い始める。そして彼女はパソコンの画面上で「人間椅子」を読み始める。後半になって、この小説はかつて読んだことがあるということに気づく。でもどこで読んだかは思い出せない。同じように「青空文庫」だろうか。それとも文庫本などの紙の本だろうか。
そういえば、VRChatの中に「青空文庫」のデータを取り込んだワールドもあった気がする。あそこにも「人間椅子」はあるだろうか。
およそ百年前の小説。
この小説の中にも一箇所、「蛇」が登場する。もっと早く読んでおけばよかったかもしれない。
彼女はイルビにメッセージを送る。
「最近なんか小説とか読んだ? 江戸川乱歩とか好き?」
三分ほどしてイルビから返信。最近はあまり小説は読んでいないという。そして乱歩作品は小学生の時に少年探偵団のシリーズを読んだかもしれないが、中学生になってからは読んでいないという。絵文字が多用された文面を彼女は見つめる。
しばらくの間、彼女は江戸川乱歩や丸尾末広で検索する。X内で乱歩に言及しているポストを探す。やがてヴォイニッチ手稿について調べ始める。
イルビが送ってきた『蛇と椅子』のテキストファイルには「蛇」が四回登場するが、「蝶」も二回登場する。この「蝶」の近くには必ず「待って」があることについて考え始める。テキストファイルは「ゆっくりゆっくり」で始まっていて、「笑うなやあ」で終わっていることについても考える。
彼女は医療占星術についても調べ始めるが、これは早めに切り上げて残りのコーヒーを一気に飲みほす。
そしてVRChatを起動する。
たあくんて、ヴォイニッチ手稿ってどう思うん? なにそれ。ああはいはい。ヴォイニッチ写本。あんまよく知らんけど。入院してた時にヴォイニッチ写本スラスラよめるって主張してたひといたのは覚えてる。入院患者で。ああなるほどね。あんな、江戸川乱歩の「人間椅子」な、さっき読んでんけどな。昔、読んだことあったわこれ。完全に忘れとったわ。そうか。人間椅子ね。乱歩ね。俺は二銭銅貨はよんだ。あれも暗号のはなしやな。俺は人間椅子といえばバンドのほう連想するけどな。うん、バンド……バンドってロックバンド? そう。この人間椅子に、はりのやまという曲があってな。ふんふん。「針の山」? そうそう。これが俺のつらい人生を代弁してくれてるようでな。うん……うーん。そうなんや。そう。なゆねは検索して歌詞を確認する。なるほどね。でもこれは……うーん。たあくんがこんな風に思うことのないように、それなりの時間とエネルギーを使っているつもりではあったのだが。まあ、作詞した人が自分のことを調べ回っていて、歌詞によって自分を遠回しに批判しているなどと考えたりするよりはマシなのかもしれないね。なゆねはそんな風に考える。いつの間にか、たあくんがワールド内の動画プレイヤーに何かをセットしたのだろうか。急に音楽ライブの録音らしき音が聴こえ始める。おそらくこれが「針の山」なのだろう。二人はしばらく動画プレイヤーのほうに体を向けて、映像を眺める。あと蛇のほうについてはホワイトスネイクがある。蛇のほうについては……ふーん? それもバンド? そうそうこのホワイトスネイクに。ロング・ウェイ・フロム・ホームという曲がある。そうなんや。この曲には夜通し歩くというかしょがある。うーん……うん。そうなんか。そう。つまり夜通しで歩くっていうのが前編で針の山の歌詞のほうが後編という。そういう解釈がなりたつ。「蛇」ときてから「椅子」やから。いや、えーとそれは……それはちょっとどうなんやろ。うーん、両方とも一発屋とかやったら、まあ……でもこのバンドって両方とも、有名な曲って他にもいっぱいあるんちゃうん? そうかも。
二人はワールドを移動する。
今日公開されたばかりのワールド。Xで多くのユーザーがこのワールドのことを話題にしている。
ここめっちゃ綺麗やな。そうやな……あんな、これまでの我々の成果。サイトにな、してみてん。成果ってなにが。えっだからほら。つまり……我々の調査。よくわからんけど。うん、まあ……ちょっといっぺん、見てみてや。
なゆねはVRChatの中でURLを教える。
たあくんは「みてみる」と打ち込んだきり、微動だにしなくなる。
ずっとサイトを見ているのだろうか。
何の反応も返ってこなくなったので、たあくんをこのワールドに置き去りにしたまま他のワールドをめぐる。
時々たあくんのところに戻ってきても、ずっと同じ姿勢のまま。
結局、たあくんはそこで三時間ほどずっと静止したままだった。そして急にVRChatからいなくなる。
寝たのか、あるいは回線のトラブルなのか。
金曜日の夕方から夜の九時ごろまで、彼女はVRゴーグルをつけたまま寝る。
たあくんはあれからずっと、VRChatを起動していないようだ。どうしたことだろう。
またサイトをいじろうかと思うが、たあくんの反応を見てからにしようと思い直す。そしてVRChatでまったく関係ないユーザーとコミュニケーションをとったり、弾き語りを聴いたり。
例の交差点で弾き語りを聴きながら、江戸川乱歩の「人間椅子」のオチについて考える。イアン・カーティスの伝記映画『コントロール』のことも思い出す。先週の日曜日にタヌウがこの映画のことを話していた。でもこれはずっと前から観ようと思っていた映画でもある。
VRゴーグルを外し、スマホの電源を切り、映画『コントロール』の再生を始める。
「きっと どれか効く」。作中で医者がそう言っていることが印象に残る。実際にイアン・カーティスにそう言ったのだろうか。
そうだね。
どれか効く。
観終わってからコーヒーを淹れる。彼女は寝不足が続いている。
土曜日の朝、彼女は急に不安になる。
やはりwikiのスタイルにしたのはまずかったかもしれない。
そう思いながらも、VRChatをデスクトップモードで立ち上げたまま、サイトの更新作業をする。たあくんの反応を待ってからにしようと思ったが、やはり今やってしまおう。
「人間椅子(小説)」と「人間椅子(バンド)」と「ホワイトスネイク」の三つのページを作成し、アップロードする。
トップページには「新しく追加された項目」のコーナーを新設し、そこに新しい三つのページへのリンクを追加する。
こういうちょっとしたことも手動で追加することになるから、やはりプログラムで動的に生成するのが現実的ということになるのだろうと考える。
この日、彼女は学校には行かず、いくつかの用事を済ませる。
たあくんが言及した映画『月に囚われた男』のことが気になってくる。
スマホのブラウザでVRChatのサイトにログインしたままにして、たあくんがオンライン状態になっていないかを時おり確認する。でもサイトのURLを伝えてからずっと、たあくんはオンライン状態にならない。
彼女は何度も、伝記映画『コントロール』の内容を思い出す。
「きっと どれか効く」。
あらためて「少女レイ」の歌詞を検索して確認したりもする。わたしは踏み込みすぎたのだろうか。「仕掛けた」のだろうか。わたしは、いかなる意味においても治療者ではない。そのことをもっと強く自覚していなければならなかったのではないか。
たあくんが入院した時の主治医とのやり取りを彼女は思い出す。あの主治医と話す機会はもうないのだろうか。あの主治医がwikiのスタイルのサイトを見たらどう思うだろうか。
これまで自分がよかれと思ってとっていた行動はすべて、いじめのような構図になっていたということはなかっただろうか。
日曜日の朝、やはりたあくんはVRChatを起動していない。
まさか自殺とか……
考えたくないことを想像する。
たあくんは自殺未遂をやらかしたことはない。でもその気になったら、確実に絶命するようなやり方で一気に旅立ってしまいそうでもある。
「生きとったら返信して」
そのように一行だけ書かれたメールをたあくんに送信する。
正午ごろ、たあくんの家に電話してみる。
誰も出ないかもしれないと思って切ろうとした時、たあくんの母親が出る。
朝は確かに家にいた。でも珍しく、明るい時間帯に出かけた。早朝から長時間シャワーを浴びていたが、これはよくあること。行き先はよく分からない。おかしな言動は特にない。コンビニに行くような様子でもあったが、それにしてはもう四時間以上が経過している。
だいたいそのような内容。
なるほど、今朝はちゃんと生きてたか。
でもどこに行ったというのだろう。
たあくんのことは気になるが、今日はこちらにも用事がある。その用事のタイミングがまだ分からないから、いつでも外出できるようにはしておきたい。もし人と会うとしたら自宅付近となるため、たあくんの家に行ってしまうのは避けたい。
彼女は念のためタヌウにメッセージを送っておく。
「今日ってヒマ? 一人だけの時間をつくりたいところ、たいへん申し訳ないねんけど。人探しっていうか」
そして彼女は『月に囚われた男』を観始める。
たあくんが観た映画。
強く推薦していたわけではないが、語り口が少し気になる。何かあるかもしれない。そう思ってこの映画をチョイスする。
スマホの電源は入れたままにしておこう。
映画は彼女が想像していた内容とはかなり違っている。サム・ロックウェルがトイレで血を吐くシーンでは、なんとなくたあくんに似ているかもしれないと思う。でも実際には、たあくんが血を吐いているところは見たことがない。
エンドロールになり、タヌウからの返信は来ていないことを確認する。
でもメールにはたあくんから返信が来ている。
期待していなかったのでこれは意外だ。
「ちょっと出かけてた。またすぐ出るけど、とりあえず曲のリストを送っておく。VRChatの中で複数のユーザーが歌った曲。」
テキストファイルが添付されている。
三十分前に送信されたメールだ。
いったん帰宅して、メールを送信してまた出かけたということだろうか。
添付ファイルを開いてみて、何故か見てはいけないものを見てしまったという気分になる。このようなリストを作成していたとは、夢にも思わなかった。でもこれは、いずれじっくり確認することにしよう。そう思い、このリストをスマホでも確認できるように転送する。
それにしても、どこに出かけるというのだろう。家の近くだろうか。電車に乗ってどこかに行くのか。四時間以上外出して、帰宅してから「またすぐ出る」のだとしたら、かなり珍しいことのはずだ。
別のメールも来ていて、今日は人と会う必要がなくなったことも確認する。今日のうちに片付けることが不可能になった用事。でもとりあえず、待機する必要というのはなくなった。
たあくんの家に電話してみる。
今度は誰も出ない。
スマホをパソコンデスクの上に置く。
しばらくスマホを見つめる。
とりあえず、図書館に行こう。
まだ返却期限は来ていないが、図書館で借りた本は何冊かを借りたままにしておき、何冊かについては今日のうちに返そう。
出かける前にたあくんにメールの返信をしておくべきか少し迷う。
でも返信はせずに彼女は家を出る。
図書館でバッタリ、たあくんに会うかもしれないと彼女は期待する。でもたあくんの姿は見当たらない。この大阪市立中央図書館は、たあくんもたまに利用しているはずの場所ではある。ただし、ここで実際にたあくんの姿を見たことはない。
彼女は何冊か民俗学の本を拾い読みする。
でも今日は何も借りない。
図書館をあとにし、西梅田駅の近くのジュンク堂に向かう。
以前このジュンク堂のコンピューター関連のコーナーで何度か偶然たあくんを見かけたことがある。二日連続でいたこともある。
でも今日は、コンピューター関連の棚の周囲にたあくんらしき人はいない。ここにいないとしたら、やはりジュンク堂でもないか。
目立つ場所に旅行雑誌があるのに気づく。
沖縄の特集。こういうところにも天の蛇の解説があったりするんだろうか。そう思ってパラパラとめくってみる。すぐに雑誌は棚に戻す。
しばらく店内をウロウロしてみる。
もしここにいるとしたら、おそらく文庫や新書ではない。漫画のコーナーはビニールのおかげで立ち読みができなかったはず。
いた。ここにいた。
精神医学の棚の前。
たあくんはしゃがんだ状態で何かを読んでいる。統合失調症の本を立ち読みしているのだろうか。
いや座り読みか。
なゆねはそろりそろりと近づいていく。
たあくんのすぐ隣にしゃがむ。
「あっ違った。ピエール・ジャネか」
「うわびっくしたあ!」
たあくんは心底驚いたという顔。
ごめん、そこまで驚くとは思ってなかった。
でも元気そうでよかった。
「死んだかと」
なゆねがそう言うと、しばらくたあくんはなゆねの顔をまじまじと見つめる。そして不満そうに言う。
「死にはせん」
たあくんは本を手に持ったまま棚を見つめる。
「薬はのんだぞ」
それはよかった、そうつぶやいて、なゆねは手を伸ばす。たあくんの喉を触ろうとする。
「やめろ触んな」
たあくんは体をのけぞらして避ける。
あっそうなる?
そうなるのか。
たあくんは本を棚に戻して、しゃがんだままボソボソと語る。
「沖縄の人と出会ってな。VRChatでな。一年だけ大阪市内に住んでたことあるらしいけど。その人、このジュンク堂にも何回か来たことあるらしい。で、その人がやってるゲームをな。四日前に……水曜に始めて。あれは……ヤバい。あれはちょっと中毒性がな。これはまずいと思ってな。魔力がある。パソコン自体は毎日起動してんねんけどな。でも起動すんのはなるべく一日に一時間だけにしようと思ってな」
「そうやったんか」
「あの……あれはなんやねん。なゆねがつくってた、あのサイト」
「ああ。あれなあ。あれはこれまでの研究成果をな、wikiのスタイルでな」
「誰かに見せたんか」
「誰にも。たあくんだけに見せた。これからも、誰にも見せへん」
「そうか……ていうか、あのサイトって、URLが分かったら誰でも見れるんちゃうん」
「そうかもね。でも検索エンジンを避ける設定はしてる。検索エンジンっていうか……検索エンジンのクローラーか」
「そうか」
「あのサイトが完成に向かうにはな、やはりたあくんの協力が不可欠やねん。今な、一個一個ファイルを手で編集してな。新しい項目とか追加してもな、そういう一覧も全部イチイチ手でやってるからな。そういうのとかな、Pythonで動的に生成するようにしてほしいわけ」
「やらんぞそんなん」
「このままゲーム中毒になるよりましやろ」
「ゲーム中毒っていうか……ゲーム中毒……ていうか……なんていうんか……脳の配線が変わる感じがする」
「なるほど……脳の配線。うん……脳の配線なあ。あっそうや。たあくん、今からウチこおへん? ちょっとVRゴーグルつけてみてや」
「あああ……」
二人は歩き始める。
一階のロビーにある喫茶店の入り口でなゆねは立ち止まる。
ここって軽食もあるんかな……あるなあ。どうしよ。どう? ここでカレーでも食べてこか。俺はもう帰りの電車賃しかないぞ。そんなんええから。
こうして二人はカレーとコーヒーを注文する。
ご飯いらんって、電話しとかんでええの? そんなんせえへん。メシ時に家にいる時もあれば、いない時もある。最近はもういちいちなんも言ってこおへん。ふうんそういうもんなん。まあここ三週間ぐらいずっと、連続して家で食ってたけど。晩めしについては。そっか。じゃあいちおう、用意してるかもな。そうかもな。でもその場合はまた朝になってから勝手にこっちでレンジであっためて食うからええねん。そうなんか。もう、あれなん。wikiは襲いかかってこおへんの? なにが。入院する前、言っとったやろ。ああ、うん。wikiな……あのころはまあ、いろいろな。すべてがwikiでつながってて……なんか、夢の中にもwikiが出てきて……いやでも、夢の中のwikiはまともっていうか。普通にパソコンでアクセスできるし。普通に誤字脱字の修正とかできるし。起きてる時のwikiのほうが、おかしくてな。たまに、wikiの項目と自分の体が合体してる時があるっていうか。そうなんや。襲ってくるわけではないん? いや、襲ってくることもある。確かに襲ってくる感覚があった。あのころは。すべての国の軍が、何らかの形でwikiとつながってて……全部、つながってて。俺はその実態を知る必要があった。あのころ、wikiは危険な存在ではあったけど、同時にあらゆることのヒントがあった。そんな風に考えるのが病気の症状でしかないとか、それはまあ理屈としてはそう。理屈としてはそうやねんけど……でもwikiに実際にヒントがあった。これは理屈じゃない。実際に役立っていた。俺だけがその秘密のつながりを知ってて……
スマホが振動する。タヌウから返信だ。
「誰を探してんの?」
一行だけのメッセージ。
そういえば人探しがどうとか、そういうメッセージを送ってしまったんだった。大げさだったかもしれない。
なゆねはすぐに返信する。
「ごめんもう見つかった。堂島のジュンク堂におった。いまジュンク堂で一緒にご飯たべてる」
「そうなんや。ジュンク堂の中で食べてんの?」
「いや違う。同じ建物内の一階の、ロビー喫茶」
「そうなんや。私も梅田おんで」
……なるほど。
これはもしかしたら……ちょうど良い機会なのかもしれない。
「ちょっと……どうしよ。あんな、ちょっと紹介だけ、しときたいっていうか……タヌウって。あの、話、したやろ。バンドやってるっていう。VRChatも詳しい」
「うん」
「一瞬だけ、会ってみる?」
「別にええけど」
カレーが到着する。
二人は黙ってカレーを食べ始める。
あのころのwikiは、たあくんの頭の中だけにあると思っていた。他人から見ればそうでも、wikiの項目と合体しているというのは、頭の中だけの出来事とはいえないということになるのかもしれない。少なくとも本人にとっては。
あんな、実はな、マップつくっててん。マップってなにが。たあくんが行方不明になってな、帰ってきたあとな。その旅の足取りをな。そうやったんか。たあくん、記憶がところどころないって言っとったけどな。デジカメのデータをな、整理していろいろたあくんに見せてた時期あったやろ。あれな、たあくんな、記憶はたぶん、残ってるわけ。ほとんど。もしかしたらなんか重要なことを忘れてるとかな、そういうのもありうるけどな。でもな、重要な通過点というかな、そういうポイントをな、全部覚えてたわけ。たあくんは。前後関係がな、ちょっとあやふやっていうかな。時系列っていうかな。訪れた順番とかがちょっと……記憶が混乱してるかもしれんけどな。でもたぶんな、たぶんやでこれ。たぶんやけどな、それぞれの街はな、ぜんぶ記憶に残ってるっぽいんよな。
「ウィィィ」
タヌウが来た。
今日もアコースティックギターをかついでいる。
これは予想通りだ。
急になゆねは、たあくんの寝ぐせが気になってくる。
タヌウはコーヒーだけ注文する。
これからなゆねの家に行き、たあくんにVRを体験してもらうつもりであることを話す。それはぜひ自分も同行する必要があるとタヌウは言い出す。
地下街を歩きながら、そして電車に乗ってからもずっと、なゆねとタヌウはパソコンの設定やパーツの話をする。一段落してから、電車の中でようやく紹介モードに入る。
「あっそうそう。ほんで、こちらがたあくんやけどな。極めて優秀なPythonハッカーやけどな、Unityのことはあんまり知らんらしい」
「どうもー」
タヌウはかわいくあいさつ。
たあくんは軽く会釈。少しぎこちない。
それにしても、まさかこの三人で電車に乗ることがあるとは。
「えっタヌウって……女子校やったっけ」
「そうやで。中学と高校」
「えっキリスト教系? じゃないやんな?」
「ちゃうちゃう」
「そうやんな……」
座ろうと思えば座れるが、誰もそれを言い出さない。
タヌウはスマホを取り出す。
たあくんはずっと黙ったまま。そして表情が固い。
電車の中だからか、それともタヌウがいるせいか。あるいは両方だろうか。やはりさっき、強引に寝ぐせを直しておくべきだっただろうか。
今日のたあくんは、年季が入ったプータローという感はある。でも、ちぐはぐで不気味な感じというのはしない。病的な感じもしない。たまたま服の組み合わせがまともに見えるからだろうか。
なゆねは腕を組んで、二人を交互に見比べる。
寝ぐせが少し気になるところではあるけど、無精ひげがちょうど良い長さ。やはりそうだ。うまくコーディネートさえされていれば、たあくんとタヌウはお似合いなのではないか。そうなゆねは思う。でもヴィジュアル面でそのように見えたとしても、性格的に相性が良いといえるのかどうか。それに、たあくんの病気のことをタヌウがどう思うか。
そういえばさっき、確かにたあくんは「やめろ触んな」と言った。外だからだろうか。
なゆねもスマホを取り出す。いくつかのメッセージに返信をする。
そして「針の山」の歌詞をあらためて確認する。
窓の外に目を移す。
さっきわたしは、たあくんに「一瞬だけ、会ってみる?」という言い方をした。この言い方は少しだけ、ずるいかもしれない。この流れは、騙し討ちのようになってしまっているという可能性はないだろうか。
こうして三人で会うことは、たあくんにとって良いことなのかどうか。ずっとあとになって、たあくんは今日のことをどう思い返すだろう。あの時すぐ帰ればよかった、そんな風に思う可能性があったりするのだろうか。
今のわたしの存在は、たあくんにとって侵入的すぎるという可能性はあるだろうか。でも侵入的であることを完全に避けようとするのなら、たあくんとは一切関わらないほうがいいということになる。そもそも、この世界に他者が存在しているという事実そのものが、たあくんにとって侵入的であるようにも見える。
なゆねは自分の人生についても考える。
窓の外を流れていく、夜の都市部。これから進む先に自分の人生にあるものが、針の山だとは思いたくない。ほんの一時の刺激を求めたために、そのあとずっと針の山を進むことになるのはイヤだ。でも同時に、すべてが穏やかな状態になることを維持するために、何の刺激もなくなるのはイヤかもしれない。
針の山を避けようとして、人生を棒にふってしまうようなことにはなりたくない。
なゆねはふと、たあくんが送ってきたテキストファイルの存在を思い出す。曲名のリスト。しばらく日を置いてから、自分の部屋でじっくり確認したほうがいいだろうと思っていた。それを今、自分のスマホに表示する。
あらためて確認すると、納得がいくものもあれば、意外なものもある。
知っている曲もあれば、知らない曲もある。
うん。なるほどね。
複数のユーザーが、歌った曲ね。
たあくんというフィルターを通したものではある。でも実際にリストアップされたものを見ることでしか得られない何かというのはありそうだ。
リストは先頭が「ヒッチコック」になっている。
この順番には意味があるのだろうか。
どうして「ヒッチコック」?
検索して、「ヒッチコック」の歌詞を確かめる。
うん……うん。なるほど。なゆねは映画『月に囚われた男』のことを思い出す。心優しき人工知能ガーティーくんの背中に貼られていた「KICK ME」のポストイットを思い浮かべる。
他にもいくつかの曲名で検索し、歌詞の内容を確認する。
そういえば、タヌウと有名曲の歌詞について話したことはほとんどない気がする。タヌウはバンドではオリジナル曲ばかりだと言っていた。そして作詞や作曲はタヌウではない。
それにしても、タヌウは今日もかわいいね。
ボブカットが似合ってる。
アコースティックギターもサマになってる。
なゆねは再び窓の外を見る。
窓ガラスに映った虚像としてのタヌウの顔とギターを交互に眺める。
わたしには、タヌウのような行動力はない。
タヌウのように生きたいわけではない。
そうではなくて。
なゆねは、タヌウの歌声を思い出す。
「あんな、『楓』って……タヌウ、『楓』歌えるやろ……」
なゆねは一度だけ、カラオケでタヌウの「楓」を聴いた。ほとんどプロのような完成度の「楓」。あまりタヌウはカラオケに行かない。
自分に話しかけているということにタヌウは気づいて、顔を上げる。
なゆねはタヌウの目を見て続ける。
「そのな、タヌウの……アコースティックギターってな……もしかしてタヌウって……弾き語りで『楓』歌える?」
「ああうん。『楓』やったらいける」
「そうやんな、そうやんな……あんな、弾き語り……」なゆねは窓の外を見る。「えっ、ちょお待ってや……これ……えっと他には……」再びスマホに目を移す。「えっと……『ラグトレイン』もいけるんちゃう?」
「えっなんで知ってんの? まあ歌えるけど。でもめっちゃ最近やで。弾き語りのレパートリーっていえるようなったんは」
「そうやなあ他には……他……『ヘビースモーク』」
「いける」
「他は……他は……」
なゆねはそこで固まる。
しばらくの間なゆねが黙ったままなので、タヌウは再び自分のスマホのほうに意識を集中する。
なゆねはつぶやく。
「あんな、もしかして……もしかして……」
この時、一つの可能性がなゆねの頭に浮かぶ。
そういう……可能性は……あったりするのか?
もしかして、そういうことなのか?
あれは、そういうことだったのだろうか?
なゆねは「ヘビースモーク」で検索する。歌詞を表示する。スマホを見るなゆねの目が大きく見開く。少しだけ涙で視界がゆがむ。左手でスマホを持ち、右手で自分の口を押さえる。
なゆねの様子がおかしいことにタヌウが気づいて、顔を上げる。たあくんもなゆねのほうを見る。たあくんが一度も見たことがないような表情。
なゆねは少しずつ、体をのけぞらせていく。
後ろに倒れそうになる。
「危ない危ない危ない!」
タヌウが突然叫んで何人かの乗客がこちらを見る。
だめだ。
立ってられない。
なゆねはしゃがみこむ。
そうとしか思えない。
これはもう、そうとしか考えられない。
それ以外ありえない。
なゆねは手にスマホを持っていないことに気づく。スマホが消えた。床に落ちている様子もない。どこへ消えた? しばらくして、さっき咄嗟にスマホをポケットに入れたことを思い出す。
スマホを取り出すと、画面はまだ「ヘビースモーク」の歌詞が表示されたままだ。
やはり間違いない。
おそらくこの推測は正しい。
なゆねはしゃがんだままつぶやく。
「ちょっと、あの。次で……次で降りよ……次ってどこやろ……人って少ないかな……」
タヌウに。
歌ってもらおうタヌウに。
実際に歌ってもらうしかない。
「では一曲、やらせていただきます」
タヌウは駅のホームの端で、お尻をつけて座る。
ギターをかまえ、咳払いをする。
周囲にあまり人はいない。
なゆねが一度も利用したことのない駅。
夜だと、それなりに響くかもしれない。
「あっちょっとあんまり。他の人に聴こえないように。静かに」
なゆねはしゃがんだ姿勢になって言う。
たあくんはどうしていいか分からず、立ったまま成り行きを見守る。
なゆねはもう一度念押しする。
「な? 静かに静かに」
タヌウは急に残念そうな顔になる。
「ウッソオ……なにそれぇ……めっちゃその気になってんのに……いつからそんな残酷なこと言うようなったん、なゆ……まさかそんな子に育ってるなんて……」
「いやいや、ちゃうって。ちゃうって。ちゃうから。あの、ゆっくり、静かに。そういうタヌウが聴きたいねん。今、そういう気分やから。そういうモード。そういう……ムード?」
「しゃあないなあ」
そしてタヌウは「ヘビースモーク」のサビの部分だけを歌う。小さな声だが、ウィスパー気味で洗練された歌い方。
「ちょっと、あの、ほら。もっとぎこちなく歌ってみて。ぎこちなく」
「ぎこちなく! そういうリクエストかあ。ぎこちなく。うん。そういうリクエストは、なかなか新鮮ではある」
「いやあのほら。タヌウってな、今年になってからやろ。アコースティックギター、かついでんの。去年の十一月あたりってな、タヌウ、アコギ練習し始めたばっかりやったんちゃう? その時の。その時にどんな感じやったか知りたいわけ」
「えっどうやろ……練習し始めたばっかの時……ああでも、そうかも……ずっとエレキしか触ってへんかったし」
「いや、まあええわ。その時を再現するっていうかな、こう……始めて弾く曲っていうか。自分の音域を確かめながら、この曲ってこのキーでいけるやろか、指の動きが、指の運びってこれでええやろかっていう……」
「ああ、声域を確かめながらっていうのは、分かる。それやる時はある。特に高いほうが出るかどうか、試しながらみたいな」
「そうそう。それやってみて」
「ヘビー、スモークゥ……」
「そうそう! そういう感じ」
なゆねはそう言って、駅員さんがこちらに注目していないか確認する。なんとなく、たあくんも周囲を見渡す。
「ちょっともっかい。もっかい。あんな、あんな。大胆に切ってくれてええねん。つながってなくてええねん。こう……一音、一音。やさしーく、やさしく。指の運びと、音程と。不安を感じながら、でもちょっとずつ、こう……確かめるように……」
「ヘビ、イス、モー……」
「それ! それ! そこ!」
「今のかあ……今のそんなにええんか。だいぶ変わった性癖をお持ちやな」
「ちゃうちゃう。ちょお待って。これ。見てや。この、あのほら。イルビの。ここ。イルビが送ってきたテキストファイルのな、『蛇 椅子 モック』っていうとこ」
なゆねはスマホの画面をタヌウの顔に近づける。
タヌウは真剣な顔でそれを見つめる。
確かにある。「蛇 椅子 モック」の箇所。
「蛇 椅子 もう」という箇所もある。
「ヘビ……イス……いやこれ、ええっ? ヘビ。イス。モック……ヘビ。イス。これは……いやちょっと待てよ。これ。いや……ありうるなあ、これ……」
「ありうるやろ。ありうるやろ。でな、これな、これな……誤変換とか、そういうことじゃないと思うわけ。そうじゃなくて。これってあの、人間が打ち込んだんじゃなくて。あのほら、音声の識別っていうか。音声認識? あのほら。個人の識別じゃなくて。識別のほうじゃなくって……なんていうの? ほら」
なゆねはたあくんのほうを見る。
急に話を振られて、たあくんは戸惑いながら言う。
「えっ何が? 文字起こしとか……そうゆう?」
「文字起こし……文字起こし! イルビはな、文字起こしをな、やってたわけ。たぶん。人間が打った時の誤変換やとな、こうはならんと思うわけ。これな、自動じゃないとな、絶対こうならんはずやねんって」
「ちょっと待ってよ……ちょっと待ってよ……AIの……AIの文字起こし! なんかそういやイルビ、AIの文字起こしのやり方をユッキイに教えてもらったとか言って……ユッキイ、そういうのも詳しいから……なんかそんなこと言って……そんで私、音声をリアルタイムで外部に送信するんじゃなくてイルビのパソコンでローカルで完結するんやったらええでって言ってな……確かにあった。そういうの……そうやって! これ間違いないかも。でもあれって十一月……いやそうかも。十一月かも。なんか……あっ思い出したアアァッ!」
タヌウは目を見開いて叫ぶ。
「VRChatの中で! 歌った! 歌ったっていうか。イルビが、ほらその、文字起こしやってみるからって。AIの文字起こしで二人の会話をテキストにしてみるとか言って。そんで、私がわざと、イジワルっていうか……わざとギターを。ギター出してきて! そんでなんか歌った! イルビの前で! 曲はちょっと分からんけど。まわりには他のユーザーいなくて……イルビだけがおって。イルビの前で歌った! そん時なんか、設定したばっかとかで! 文字起こしの。自分の声で試したけど、他の人の音声ではまだ試したことないとか、そういう感じで。で、なんかほんのちょっとだけな、試してからな、すぐストップして。で、その文字起こしの結果をな、こっちに送ってくるようなこと言ってな。でも全然、送ってこおへんかってな。いつになったら送ってくるんやろとか思って。ていうかその前に、メッセージに返信が返ってこおへんようなって……しばらくしてから、あの文字起こしのやつどうなったんって聞いたらな、文字起こしって何? とかそういうこと言い出して。だから、それが最初やわ。そう……それ、最初。私がなんかおかしいと思ったんは。最初はまずユッキイのこととかVRのことじゃなくてな、文字起こしのことを思い出せへんっていう、な。そこやねん。そこがまずあってん。文字起こしって何? とか。いやいやマジでコイツなに言ってんのやろって……なんで文字起こしのこと忘れてんのやろって。それが最初やわ」
「そう。そう……そう。そういうことや。そういうこと。整理すんで? 整理すんで? あんな、イルビとタヌウの会話をな、AIの文字起こしでな、試そうとするわけ。音声から、テキストのデータにするのを。イルビが。その文字起こしの最初の試験でな、大切な最初の試験で……タヌウが歌い始めたわけ。『ヘビースモーク』を。練習し始めたばっかの『ヘビースモーク』。イルビはその展開を想定してなかった。それで早々に打ち切って、生成されたテキストファイルをタヌウに送ろうとする……送ろうとすんねんけど……」
「私には送られてない。なんでか分からんけど、なゆのほうへ。なんでやろ? これ。誤送信?」
「うんたぶん。送り先を間違えた。送信先を間違えて……タヌウに送ろうとしたのに、何故かわたしに送ってしまった。そう考えると、辻褄が合う」
今までしゃがんだ姿勢だったなゆねは、お尻をつけて座る。
立ったままだったたあくんも、しゃがんだ姿勢へとゆっくりと移行する。
三人とも黙ったまま、誰かが口を開くのを待つ。
なゆねはスマホを取り出して時刻を確認する。
「しまったもうこんな時間」
なゆねの家でのVRお試し会はまた今度にしようということになる。なゆねはたあくんをいったん家に帰す必要があると強調する。タヌウは、ちょうどよかった、二人でたあくんの家に押しかけようと言い出す。
いやそれはちょっと、いきなり知らん人が行くのは……わたし以外の人間が来るのって、どうなん? そういう可能性って想定されてんの?
たあくんは、なんとも言えん、とだけ応える。
あんなタヌウ、なんて説明したらいいか……わたしは半分、親戚みたいなもんっていうか……いや実際は全然、親戚ちゃうねんけど……
結論が出ないまま、たあくんの家の最寄り駅に到着する。
しばらく三人は駅前で立ったまま話す。
「ちょっともう! 立ったまま話すぐらいやったら! 行くでどっか。ファミレスとか。ほら。この近く。一軒あるやろこれ」タヌウはしびれを切らし、スマホで近くの店を探す。「一軒これ、すぐ近くで……えっこれって二十四時間かな……あっ二十四時間やな」
ファミレスに着いてから、三人は整理を始める。
タヌウはこの三週間ほど、一度もVRChatを立ち上げていない。だからたあくんがVRChat内でタヌウと接触したことはない。
たあくんは曲をリストアップすることはしたが、こういう真相を想定していたわけではない。また、リストの順番に特別な意味を持たせたわけではない。
おそらく『蛇と椅子』のテキストファイルは、文字起こしによってイルビの発言とタヌウの発言が混じっている。どの部分がどちらなのかを完全に特定するのは今となっては難しい。
VRChat内で「ヘビースモーク」のサビの部分をイルビの前で歌い始めた時、イルビが笑い出したこと、それに対してタヌウが笑うなと言ったことをタヌウは思い出す。『蛇と椅子』のテキストファイルのラストの「笑うなやあ」はおそらくタヌウの側で間違いないだろうと結論づける。文字起こしによって生成された内容がイルビにとっては笑える内容だったため、まずイルビが笑い始めた。それに対して、タヌウが「笑うなやあ」と言った。おそらく、ちょうどその「笑うなやあ」のタイミングで文字起こしをストップし、いったんまずはこの内容をタヌウに送ろうとした可能性が高い。
イルビが失ったのはユッキイ本人の記憶だけではない。ユッキイから教えてもらったことの中で、ユッキイとの関係が終了すると同時にその知識が不要になったようなものは、一緒に忘れてしまった可能性が高い。だからVRだけではなく、AIの文字起こしのこともごっそり忘れてしまったと考えるのが妥当。
VRとはまったく関係のないような、ユッキイと一緒に行った飲食店やライブコンサートのことなどをイルビは忘れている。このため、イルビが忘却したいことの中核が実はVRであるという可能性は極めて低い。あくまでも、中核はユッキイという存在。
『蛇と椅子』のテキストファイルの中の「なんか来た」という箇所から、文字起こしを試験しているまさにその時に何らかのメッセージが来たという可能性を考えることも可能。さらに前後の状況から、これはユッキイからの別れメッセージである可能性がある。イルビがそれを読んだ直後はまだ、ことの重大さというものを認識していないわけだ。この推測が正しいとすると、『蛇と椅子』のテキストファイルというのは、イルビにとって衝撃的なメッセージを受け取った瞬間が記録されたものだという可能性が出てくる。でもこれらは推測でしかない。
本当にこれでいいのか、どこかに考慮し忘れているポイントがないか、三人は何度も何度も確認する。
ユッキイについての人物像は分からないままだし、イルビと別れる前後に本当は何があったのかも分からないままだが、身の危険を感じるなどのよほどの特殊な状況がない限りは、ユッキイについて調べたりするのは控えようということについて合意する。
確実な証拠がない限り、ユッキイによる何らかの加害行為があったことは前提にしたりせず、そういう主張があったとしても安易に同調しないようにすることについても合意する。
三人とも口数が少なくなってきたころ、なゆねは不用意にイケメンアバターの話を持ち出してしまう。そのため、タヌウは急にまた元気になって延々とイケメンアバターやその改変の話をし続ける。どうやら、VRChatを起動していない日でも、アバターの改変作業だけをすることはあるらしい。
ひとしきり話し終えたあと、午前三時ごろになってタヌウは急に帰ると言い出す。
「やっぱ帰るわ。タクシーで」
「えっうそ?」
「急遽、確認しなきゃならんことができた。ちょっといろいろ。こっちもいろいろありまんのや。イルビとかユッキイとはまた、全然関係ない件でな。まあそういうわけで。今日はありがとね。たあくんも。またね」
たあくんはぎこちなく会釈する。
タヌウはテーブルに二千円を広げたままで置き、その上から透明のアクリル伝票差しを置く。そして足早に店を出る。
二人は少し呆然としてその姿を見送る。
なゆねが知る限り、タヌウとたあくんが直接会って話すのはこれが最初で最後である。
我々としても、タヌウとたあくんが物理的に接触した唯一の機会として捉えるのが妥当である。
そして『蛇と椅子』のテキストファイルについてはその起源が明確になったわけだが、ユッキイがどんな人物であり、イルビとの別れの前後に何があったのかというのはその後も不明なままだ。
我々としても、そこはやはり謎のままだ。
タヌウが帰ったあと、二人はwikiのスタイルのサイトのことを話す。
あのサイトはもう閉じよう。
短い期間だったが、役割は終えた。
あるいは、活躍する前に賞味期限が切れた。
二人はモーニングの時間が始まる前にファミレスを出る。
そして駅前に戻り、なゆねはりんご紅茶を二本購入する。一本をたあくんに手渡す。
二人ともベンチに座る。
今日は早朝のわりには暑い。
夏の始まりの濃厚な気配。
なゆねはつぶやく。
「ヘビースモークかあ……」
二人はほとんど同時にプシューという音を立てる。
あんな、だいぶ前な、統合失調症の人は根元まで吸うって、たあくん言ってたな。そうやったっけ。そういえばそうかもしれん。俺はまったく吸わんけどな。そうかもね。でもまあなんつうか、比喩としてのタバコっていうのもあるやろ。たあくん、間違いなくヘビースモーカーやで。タバコは吸ってへんのかもしれんけどな。そういうもんかね。俺はノーコメントにしとくけど。
犬を連れたおじいさんが通りかかる。先週の日曜日も見かけた人だ。毎日ここを通るのかもしれない。犬はなゆねのほうをちらりと見て、一瞬だけ目が合う。おじいさんはこちらを気に留めず、そのまま去ってゆく。
犬のチョコチョコとした足取りを眺めながら、なゆねはスマホを取り出す。YouTubeにアクセスする。
そして「ヘビースモーク」の再生を始める。
弾き語りバージョン。
両手で静かに、慎重に、二人の間にスマホを置く。
二人はしばらく神妙な顔つきでそれを聴く。
でもサビのあたりでたあくんは笑い出す。
いいねその顔。
なゆねも笑い出す。
ちょっとほら、また今度。VRやりにきいや。なゆねは笑いながら言う。なんか他の、ほら。VRのゲームとか用意しとくし。『ハーフライフ』とかあのへんの。そうやな。俺が良いグラボとか購入できんの、何年後になるか分からんしな。そうやな。まあ別にそんなええやつ買わんでもええかもしれんけどな。
たあくんはその後もVRChatを起動する機会はあった。しかし水曜日に始めたばかりのゲームに再び没頭していくことになる。VRとは関係のないゲームである。しばらくは高頻度でたあくんの家を訪れていたなゆねだったが、たあくんのあまりの熱中ぶりに、なゆねは少しずつ足が遠のいてゆくことになる。
たあくんはこのゲームに八ヶ月ほど熱中し続け、突如として飽きることになる。
飽きてから、たあくんはPythonの勉強を再開する。いくつかの小説を書き始めたりもする。いずれの小説も完成まで至らずに放置する。
当時、なゆねだけがそれらの小説を読んだ人間である可能性が高い。
内容としてはその後のなゆねの作品には何の影響も与えていないと考えるのが妥当だろう。ただし、なゆねが読むからこそ、我々が想像する以上の何かをそれらの小説から受け取っていたという可能性もある。
スマホで「ヘビースモーク」弾き語りバージョンの動画再生が終わったあと、二人はしばらくベンチに座ったままイラブーについて話す。
天の蛇。
地を這う蛇。
それとは別に、ウミヘビだっている。
そして沖縄ではこのウミヘビがイラブーとして飲食店で提供されているという。
いつか、沖縄でイラブーをごちそうするね。
なゆねはそう宣言したりもする。
判明している事実としては、なゆねはその後、一人で沖縄に行き、一人でイラブー汁を注文することになる。
もちろん、なゆねの窺い知れないところでたあくんがイラブーを食すという機会があった可能性について、考えてみることは可能ではあるのだろう。その場合は我々はその事実を知ることができないということになる。
でも我々が知るように、なゆねがイラブーをごちそうするという、その約束が遂行される日が来なかったのは確かである。
駅のシャッターが開く音が聞こえる。
なゆねは立ち上がって言う。
「月曜やなあ……そいじゃまた」
「うん。また」
なゆねは駅の改札へ。
たあくんは自宅へ。
こうして、どうということのない月曜日が始まる。いかなるハプニングも起こりそうにない月曜日。そして実際、この日は何も起こらない。
そして確かに、その後も二人は何度も会うことになる。
だがこのベンチで話したのはこれが最後だ。
朝までずっと話したりするような機会も、これが最後だ。
この二人が共同で何らかの謎に取り組んだりするのも、これが最後だ。
二人の共同作業については、まだこれから検証されることを待っているような、いくつもの論点が見え隠れするといえるのかもしれない。
なゆねの若かりしころの雑多な出来事について、我々は過剰な意味づけをすることは控えなければならない。しかし同時に、明らかに重要であるような出来事を過小評価することもまた、避けなければならないのである。