残光
目を閉じて、瞼に映る光の残滓に追い縋る。
一条の光もない世界にもとうに慣れきった。
闇も無もおそろしくはなかったし、たとえこの瞳が墨のように塗り潰された真黒い闇しか映さずとも、己の慰みであり希望は、胸の最奥へと大事に大事にしまい込んだはずだった。
時折ひそかに取り出してはそれらを眺めながら、借り物のコレを汚らしい自分が穢してしまうことをこそおそれていた。
目を閉じる。
目を閉じた、と感じているから、己の上瞼はちゃんと眼球を保護するために下瞼と合わさるように下ろせているのだと思う。
そのままパチパチと瞬いてみる。
瞬きなど、久しぶりにした行為かもしれない。そのくらい、意識と記憶が薄れていた。
己と周囲との境界すらも分からなくなる汚泥のような闇の中で、もう殆ど覚えていない、輝ける何かに意地汚く縋り付いている。
それを繰り返すだけの木偶になり下がったのは、果たして死んでからだったのか、もしくは生きている内からそうだったのか。
それすらも覚えていないし、もう己にはそれを判断することができない。
けれど。
自分が持っているものは、確か誰かに返さなくては渡さなくてはいけないものだったはずだと、ただただ奇跡を待っていた。
目を開けて、閉じる。
そのまままた意識を落とそうとして、突如津波のように襲い来る焦燥感にパチリと目を見開いた。
意識が浮上する。
いやまさか意識が落ちていた方が問題だ今ここはどこだいや何時だと気ばかりが焦る中で身を起こし、時計を確認して深夜とも早朝ともつかぬ時間にほうと息を吐く。
寝ていた?
自分が眠っていたという事実がうまく飲み込めず、唐突な孤立感と虚脱感に囚われる。
思わずキョロキョロと目線を漂わせた。
常夜灯などつけていないがサーヴァントの目には関係ない。状況と状態を確認するため、ぐるりと周囲を見回してしまうのはもはや癖だった。今いる場所を見渡してようやく記憶を思い返し、現状を整理する。
そう、ここは凛に都合してもらった仮住まいのアパートの一室で、家具も揃っていたから備え付けのベッドがあって。その、脚を伸ばして寝るには少し小さいベッドの上で、縮こまるようにひとり、眠りに落ちていた。
そうだ、敵襲はない。
厳密に言えば敵が全くいない訳ではないが、少なくとも戦争中ではない。
常に神経を張り詰めている必要はなく、魔力の節約の為、睡眠をとるのはむしろ正しい行動、正しい選択だった。
床についた時から長針が二周しただけの小さな目覚まし時計を睨むように見つめ、ぶるりと首を左右に振ると、もう一度瞳を閉じて横になってみることにする。
眠くはない。
眠くはないが眠ってしまえたらいいと思った。ヒトの真似事をしてこの身を維持するのならば眠るべきだ。
睡魔の一端を掴むべく、意識を遠く遠くへ追いやるようイメージする。
眠った時の意識はいったいどこに行くのだろう?
手放した意識がもう二度とこの身に戻ってこないような気がする、焦りとも諦観ともつかぬザラついた心持ち。だからこそ、意識と実体を持つ仮初めの肉体との回線をぷつりと断ち切るように、苛立たしく己の身体の電源を落とした。
目を見開く。
声は、上げていなかったと思う。ひゅうと細く息を吸い込んだ。
瞬きを忘れた瞳が干からびていくような錯覚に陥って、慌てて目を開けて閉じる行為を繰り返す。
心臓が早鐘のように打ち、息が上がっている。
まるで人間みたいだ。悪夢に飛び起きた人間みたいな挙動だ。作り物の偽物の癖に。
は、と自嘲を含んだ呼気を吐き出す。
首を捻って隣で寝ている男が規則正しく寝息を立てていることを確認し、今度は小さく安堵の息を吐いた。
こんなことで起こしてしまうのは嫌だった。
心配をさせたくないのか、この男に憐憫や気遣いといった情を向けられるのが業腹だからなのかは自分でもわからない。
ただひたすら後ろめたくて腹立たしい。
この男と共寝をすると度々そういう事に見舞われた。
繋がって、同じ布団に包まって朝まで過ごす。魔力の譲渡という題目は便利だ。互いの心理的肉体的ハードルを下げる効果が大きい。添い寝すらも魔力のためだと言えばそういうものだとまかり通った。
目をぎゅうと瞑って、開く。
自ら作りあげた人工的な闇で昏く塗りつぶし、数瞬後覚悟を決めて再び繋げた視界から、隣の男は失われていなかった。
そんな当たり前のことに胸をなで下ろし、ほんの少し、小指の先だけ残念に思う。
ヒトとしては捻じくれきって複雑骨折した精神は、痛みや苦痛を与えられてこそさもありなんと気を楽にしたし、平穏と優しさを注がれると鞭打たれたように自分を責めた。
この男と共寝をして得られるものは後者が多かった。
いくら行為の途中で苦しいだけのものを求めても、憐れんだ男からそれが与えられても。
意識を落とした自分に、反動のように優しいだけの記憶が流れ込んできた。自分が生きている間にすら落として思い返せなくなってしまったような、何でもない、ただ胸が締め付けられるあたたかな記憶。
取り戻せない尊いものを想って、この男との接触を続けるのか。
痛みに対して馬鹿になってしまった己の精神を、柔らかく幸せな記憶は血を流すほどズタズタに切り刻んでくれるからこそ、進んで傷付けられにいくのか。
どちらにせよ最低な理由であるし、相変わらずこの死人は、ここで死んだほうがマシだと自分で思う。
あたたかい布団と、あたたかい記憶。
隣にいる人間から伝わる体温。
幸福すら己の罪咎にする壊れた自分。
深く眠り込み、身じろぎすらしない男の薄く開いた口元を見て、ふとやりきれない想いがこみ上げる。
救われない、救いようのない愚者であるというのは自分と何ら変わりはしないが。
あの時胸に去来した、“もしかしたら”という希望は、確かに眩しい輝きを放っていたのだと認めざるを得ないのだ。
目を覚まさない男を見つめ、男の緊張感の無さに少し呆れながら、自分ももう一度寝に戻ることにする。特にすることもないし、魔力もあるに越したことはない。目を閉じて身体を休めるだけでも魔力の節約になる。
仰向けに天井を見上げて、目を閉じる。
闇に閉ざした瞼の裏側に、横の男の髪色の燠火のような赤がぼやりと残った。
(:2015/11/19)