あいくるしい君、此処では幸福を欲しがりたまえ
現パロ槍弓です
※弓に翼が生えていますので閲覧はご注意ください。ふんわりした設定なのでふんわり読んでいただけると幸いです
ツイッターであげたものに加筆しました。ツイッターで読んでくださった方々ありがとうございました
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自宅アパートの玄関扉を開けると、びゅう、と風が頬を撫でて外へ逃げていった。
八帖ワンルーム。家具はベッドとローテーブル、ふたりがけの小さなソファ。玄関とキッチンはこぢんまりとしていて、その割にバスルームはだだっ広いけれど、特に困ってもいないし助かってもいない。相場がよくわからないから、この物件が高いほうなのか安いほうなのか判断しかねる。ただ、金持ちが住んでいるようにも、盗みに入ったところで満足な成果は得られるようにも見えないアパートなのは、ほとんどたしかだ。だというのに。
「おい」
部屋のいちばん奥、狭苦しいバルコニーへ続く窓が派手に突き破られていて、なにかがそこにいた。
自分よりもう少し体格のいい男だった。こちらに背を向けて窓ガラスの破片が散乱する床に膝をついてしゃがみこんでいた彼は、かけられた声にぴくりとその大きな身体を揺らして、それからゆっくりと後ろを振り返った。
「なにしてんだ、てめえ」
つうか、それはなんだ、と。コンビニの袋を持った手をあげて彼の背中を指差した。袋の中の缶ビール三本がぶつかりあって音をたてる。場にひどくそぐわない軽薄な音だった。なんとなく今夜はもうこのビールにありつけない予感がしたし、そもそもビールを飲む気分ではすっかりなくなっていた。
彼の背中、右の肩甲骨あたりからは翼が生えていた。薄暗い部屋の中、月明かりに照らされたそれは青白く浮かびあがっている。反対側にも同じものが生えていれば見応えはあっただろうけれど、左の肩甲骨のあたりには右の翼よりふたまわり以上小さくて不格好なそれがくっついているだけだった。
「窓を、」
窓を、割ってしまった、と彼は言った。そんなことはわざわざ教えられなくても見ればわかった。真冬の深夜の風が部屋の中へどんどん吹きこんでくる。つめたい風に吹かれて、不格好なほうの翼から抜けた羽根が数枚舞いあがった。
「はあ、おいこれ以上部屋を散らかすな。 その背中のふざけたモンをどうにかしろってんだ……ったく、私は天使ですなんぞ抜かすなよ」
がしがしと頭を掻いてため息をついた。この奇特な男を警察に突き出すのも、背中にくっついたコスプレ道具について問いただすのも、窓の修理業者の電話番号を調べるのも、飲みそこなった缶ビールを冷蔵庫へ仕舞うことすらも、今は面倒に感じられた。深夜一時過ぎ。終電を逃して、けれどタクシーを拾えるほどの手持ちもなく、三駅分の距離を歩いてきたのだ。アルコールへの欲求がなくなった今は、一刻も早くベッドへもぐりこんでしまいたかった。分厚いダウンジャケットを脱ぐことと、ベルトをはずすこと以外は、今夜はもうなにもしたくなかった。
「……はは、そうか」
そういうあらゆる億劫さを呼んだ元凶である片翼の男は、あろうことか声をあげて笑いだした。真っ当にわきあがってきた苛立ちは奥歯を噛んでやり過ごそうとしたけれど、思わず眉間にしわが寄るのはどうすることもできなかった。そんなこちらに構うことなくおかしそうに笑うそいつの手が、ガラス片を寄せ集めていたのかあちこちが切れて血だらけなのに気づく。いよいよ本当に、なにがそんなにおかしいんだか。次の言葉に迷ってそいつの血まみれの指先と月明かりを吸ってきらめくガラス片とを見つめていると、彼の視線がまっすぐにこちらへ向けられた気配がして顔をあげる。天使か、と。彼が言う。口もとにはおだやかな笑みがにじんだままだったけれど、たった今までの笑いなど一分も含まないような、ひどく真面目な声色だった。
「君には、私がそのような神の御使いに見えるのか? 深刻に、目が悪いようだ」
自嘲気味に、困ったように、あわれむように、眉根を寄せて小首をかしげた男は、またこうも付け足した。
「それに君のほうがよっぽど天使のように美しいと思うがね」
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かちかちかち。聞き慣れない音に、ふっと意識が浮きあがった。
ランサーは小さくうなって、身じろぎ、かちかち、薄くひらいた目で音のするほうを確認しようとして、ベッドのすぐそばに置かれたコンビニの袋に気がついた。ああ、結局ビールは冷蔵庫へ入れなかったのだったか。かちかち。
寝起きでうまくまわらない頭でそこまで考えて、あの袋の中にはガラスの破片が入っていることを思い出した。缶ビールを出した袋へ、床に散乱したガラス片と羽根と血のにじんだティッシュを入れた。はて、なにが割れて、なんの羽根が抜けて、どこを怪我して――
「おはよう」
もう昼前だがね、と。彼は、そこにいた。かちかち。割れた窓から吹きこむ風がカーテンを揺らし、カーテンレールがひっきりなしに音をたてる。週明けから寒波がやってきていて、ひんやりとした強い風がよく吹いた。
彼は、ベッドを置いているほうとは反対側の壁際で姿勢よく正座をしていた。あいかわらず立派な片翼を広げている。腿の上の彼の手に無数の絆創膏が巻かれているのが見えてからようやく、ランサーは昨晩のことすべてを思い出し、眠た目をこすりながら顔をうずめた腕の中で低く朝の挨拶を返したのだった。
「電線に引っかかって、左の翼が千切れてね。 それでバランスを崩して落ちて、君の部屋の窓を突き破ってしまったんだ」
断じて盗人などではない、と主張する彼の黒いワイシャツをめくりあげたのは、眠気覚ましのコーヒーのためにケトルを火にかけているときだった。
周りではあまり見かけない浅黒い肌の背中を無遠慮にまさぐって、その翼が本当に直に生えていることをたしかめてからようやく、ランサーは彼の話を真面目に聞く気になった。
名前を訊ねると、私のような者にとって名前は特別な意味と力を持ち、時には弱点にもなりえてしまうから教えられないと断られた。アーチャーと呼ばれているから君もそう呼んでくれ、と、言われた。そんな馬鹿正直な前置きなどせずに、はじめからただアーチャーだと名乗ればいいものを。そう思ったけれど、ランサーは口にはしなかった。
「天使様は善者だもんなあ」
ランサーも呼び名で名乗った。天使でも善人でもないので、アーチャーがしたような丁寧な説明はあっさりと省く。
「だから、私は天使ではないと言っただろう」
ケトルがぴいぴいと鳴った。インスタントコーヒーの粉をマグカップと湯呑みに入れて湯を注ぐ。牛乳と砂糖はどうする、と訊ねると、話を中断されたことに不服そうな表情を浮かべたアーチャーがブラックでいいとそっけなく返してきた。
テーブルにマグカップを置き、壁際から動かないアーチャーへ湯呑みを差し出す。まだどこかむすっとしたアーチャーは、しかし律儀に礼を言ってからそれを受け取った。
「なら悪魔のたぐいか? そんな綺麗な翼で?」
ランサーは苦笑しながらテーブルの前に腰をおろし、マグカップのコーヒーをすすった。熱いコーヒーが喉を落ちてゆく。昨日の夜からずいぶんと風通しのよくなった部屋の中ではその熱が心地よかった。
「ああ、この翼が美しいのはそう、たしかだな」
アーチャーはランサーの言葉に口の端をわずかに吊りあげた。湯呑みを持つ手は、昨晩ランサーが応急処置として貼った絆創膏に覆われている。これぐらい放っておいてくれてかまわない、とのたまう彼を無視してありったけの絆創膏を使った。半分以上の絆創膏のパッドには血がにじんでいたがもう替えは残っていない。あとで包帯を買ってこようと思った。
「でもこれは、借り物のようなものなんだ。 だからたまにうまく飛びたいほうへ飛べないことがある。 ……いつか大きな失敗を犯してしまうとは思っていたが、まさか電線に引っかけてしまうとはね」
やれやれというふうに肩をすくめたアーチャーは、それから、悪魔でもないぞ私は、と取ってつけたように続けた。
「神の御使いでも、死の象徴でもない」
私は――
「世界の歯車なんだ」
まあなんともリアクションに困ることを次から次に言うやつだと思った。ランサーはコーヒーを飲みほしてしばらく思考をめぐらせる。けれど会話の続けられそうなうまい言葉は思い浮かばなかった。これ以上彼に質問をしても理解に苦しむことが増えるだけだと思った。
ランサーは横目で自称「世界の歯車」の男を見た。浅黒い肌に掻きあげられた白髪、黒いワイシャツとパンツ、上背があり筋肉もよく鍛えられている。不揃いでありながら美しい真っ白なその翼がなければ、ランサーだってきっと彼のことを天使などとは思わなかっただろう。世間一般的なイメージである、神様の周りでラッパを吹きながらふよふよと飛んでいる赤ん坊や少年少女のような姿形をしたものとは、彼はあまりにもかけはなれすぎている。
「ごちそうさま。 コーヒーなんてひさしぶりだった」
感謝の意味合いをこめているつもりなのか、こちらを向いたアーチャーがぎこちなく笑う。エンジェルスマイルとはほど遠い。彼は笑うのが下手なようだった。あどけなく笑いながら人のことを貶めたり褒めたりしていた昨晩のあれは、ではいったいなんだったのだ。
「……」
「……ランサー?」
アーチャーがランサーを呼ぶ。むずかしい顔か、面白くない顔をしていたのか、その声はどこか遠慮がちだった。
「いんや、なんでも」
適当にあしらったランサーはマグカップを持って立ち上がった。アーチャーを振り返って手を差し出す。
「カップがなくて悪かったな。 ほれ、湯呑み貸せ」
アーチャーがあわててかぶりを振った。
「いや、せめて片づけくらいはさせてくれ」
「んなこといちいち気にすんな。 だいたい、そんな手で洗ったらあとが大変だろうがよ」
「それなら心配には及ばん。 傷ならもう――っあ、」
最後まで言い終わらないうちに、立ち上がったアーチャーの身体ががくんと揺れる。そのまま前へ倒れそうになるのをランサーはあわてて受けとめた。とっさに手放したマグカップは床へ落ち、ばりんと派手な音をたてて割れた。
湯呑みをぎゅっと握ったままランサーの腕の中へ抱きこまれたアーチャーは、なにが起こったのかわからないというように落ち着きなく視線をさまよわせ、そうしておそるおそるランサーを見あげて、そういえば、と口をひらいた。
「……翼が千切れて失念していたが、ずいぶんと長いこと宙に浮きっぱなしだったんだ。 歩き方を、思い出せない」
「そういうのは早く言え。 失念していたんだがじゃねえぞ狸が」
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アパートから徒歩五分の場所にあるスーパーではめったにまともな買い物をしないので、どこになにが売ってあるのかがさっぱりわからない。ランサーはかごとドラッグストアの袋を片手に店内を練り歩き、適当に目についたものをかごの中へ放りこんだ。豚のかたまり肉、パプリカ、牛乳、キャベツ、あさり、タコ、たまご、カップ麺、アスパラガス、野菜ジュース、等々。
周りから見れば不審以外の何物でもない翼が生えている上に満足に歩くことのできないアーチャーはアパートへ置いてきた。鍵もかけていないし窓も割れたままだけれど彼はきっとどこにも行けないだろう。アーチャーが嘘などひとつもついていないということをランサーは直感で確信していた。背中の翼は本物で、本当に歩くことができないのだ。
「……しょうゆとみそはどこだ」
かごがずっしりと重たくなりはじめてから、アーチャーに買ってこいと言われたものを思い出した。ずらりと並んだ棚のあいだを何度か行き来してしょうゆのボトルを見つけ、ぎちぎちに詰まったかごの中へ入れるのがしのびなくて反対側の脇に挟む。みそを見つけるのには少し手間取った。
アーチャーには食事や睡眠をとる必要がないらしかった。彼いわく、私は天の者ではないがだからといって下界の人間と同じというわけでもない、とのこと。
それなら昼飯がどうの晩飯がどうのと考えなくてもいいのか、となんともなしにつぶやくと、アーチャーは「私に必要なくとも君はきちんと食事をとらなければならないだろう」と不思議そうな顔で言った。
四つんばいでたどり着いたキッチンの冷蔵庫を開けたアーチャーは、盛大なため息をついたのちに我が物顔でランサーに買い物を言いつけた。なんでもいいから食べたいものを買ってこい、肉や魚介類や野菜をバランスよく、と。それからキッチンの棚をあさり、しょうゆとみそは必ず買ってきてくれ、これでは塩味とコンソメ味の料理ばかりになってしまう、ともう一度ため息をついたのだった。
ランサーだって気まぐれで料理をすることはあるけれど、あくまで気まぐれでしかしないので、冷蔵庫の食材は腐らせてしまうし戸棚の調味料には偏りがある。基本のものがなかったり、マニアックなものが置いてあったり。
「つうかあんたが作ってくれんのか?」
「君は自分で作るつもりでこんなちぐはぐで大量の食材を買ってきたのかね?」
帰宅後、小さなひとり暮らし用の冷蔵庫の前で買い物袋の中身を広げていたランサーは、偉そうな口ぶりのアーチャーの声が背後から近づいてくるのに気づいて後ろを振り向いた。壁に両手をついてキッチンまでやってきたアーチャーの膝は面白いくらいがくがくと震えている。指摘すると機嫌を損ねそうな気がしたので、産まれたての仔鹿かよ、という喉の手前までこみあげていた言葉をランサーはぐっと飲みこんだ。
「いやふだん食わねえんだろ? 料理できんのかよ」
「フン、私を馬鹿にしたことを後悔させてやろう」
「……馬鹿にはしてねえんだが」
ランサーの反論をまるで聞いていないらしいアーチャーは壁から手を離してずるりと床に座りこんだ。ランサーの隣まで這ってきて広げられた食材を眺めまわしてふむと一言。頭の中で献立を組んでいるのかあっちやこっちへ食材をわけて首をかしげ、痛みかけの食材ばかりの冷蔵庫を開けてうなる。
アーチャーが動くたびに視界で白い翼がちらつき、時たまに羽根が舞って落ちた。そういえばこの左の千切れた翼はもとに戻るのだろうか。ぼんやりとそう考えたランサーは気の向くままにアーチャーの左の翼へ触れた。キャベツとにらめっこしていた彼がびくっと肩を跳ねさせてランサーを見る。
「なにをしている」
「これ、また生えかわんのかなって思ってよ」
「さあな」
「さあってお前」
アーチャーはいくつかの野菜やパックを冷蔵庫へ詰めながら、これは借り物のようなものだと言っただろう、と言った。ひどく冷めた声だった。
「でもどうにかしねえと、そのままじゃ飛べねえんだろう」
「さすがにバランスが悪すぎるからな」
「それってまずいんじゃねえのか」
「そうだな……。 まあこのままだとすれば、いずれは、」
私は、ついにお役御免ということになるかもな。アーチャーは苦笑を浮かべてそう言って、芝居じみた動きでゆるくかぶりを振った。ランサーは言葉に詰まる。何度か目を瞬かせ、彼が自称「世界の歯車」だということを思い返し、それからまた混乱してなにも言い出せなかった。世界の歯車をクビになるというのが、ただの職無しとなるだけなのか、死や消滅を迎えるものなのか、まったくわからなかったからだ。訊ねていいのかすら判断しかねた。
ランサーの無言をどう捉えたのか、アーチャーが申し訳なさそうな顔をした。それがどうにも胸の内側を引っかく。なにか言わなければ。腹の底から押しあげられるようにしてアーチャーと呼んだランサーは、しかし突然ずいと鼻先へ突き出されたキャベツに素っ頓狂な声をあげた。今日だけのお買い得特価ですよ、と品出ししていた女性店員に勧められるままにかごへ入れたキャベツ。その向こう側でアーチャーがほんの数秒前のつつましい表情を取っ払って、むっと唇をとがらせていた。
「キャベツはもっと芯の綺麗なものを選んでこい、こんな黒ずんだものを取ってくるな」
ダメ出しを受けたということにランサーは一瞬気づけなかった。数秒の沈黙ののちに苛立ちが脳天までやってくる。
「はあ? 文句言うなら自分で買ってこいよクソ天使が」
「君は助言を非難としかとれないタイプか? 哀れなことこの上ないな」
「んだと……」
「だいたい私は天使ではないと言っているだろう、何度言わせる」
目だけにとどまらず記憶力まで悪いのかね、それとも患っているのは耳のほうか、と吐き捨てるアーチャーの手からキャベツを奪いとって床へ置く。立ちあがってアーチャーの両手首を掴んだ。
「おい、なにを」
「立てアーチャー」
歩き方、忘れちまったんだろう?と言って思いきり引っ張ってやれば、立ちあがらされたアーチャーが眉間に深くしわを寄せた。
「やめろ、ラン……っ、ふざけるな、踏んだらどうする!」
「あ? 食いモンは粗末にすんなよ、なに、お前が上手にあんよできればいい話だ」
「クソっ、あ、おい……っ!」
アーチャーの両手首を掴んだまま、右にぐるり、左にぐるり。食材が散乱したキッチンで膝が震えっぱなしのアーチャーを引っ張りまわした。ぐいぐいと後ろへ下がれば、アーチャーはよたよたとした足どりで前へ進む。キッチンを出て、リビングのローテーブルの周りをそのまま数周。ほら、爪先だけで歩こうとするな、踵もきちっと地面につけろ、そう、そうできんじゃねえか。
アーチャーは昨晩からいちばん弱気な顔をして、ランサーの目とみずからの足もとをせわしなく交互に見ながら引っ張られつづけた。
そうして、もう歩ける、大丈夫だから止まってくれ、とアーチャーが懇願じみた声をあげたのでランサーは動きを止めた。いつのまにかランサーの手首をすがるように握り返していたアーチャーの絆創膏まみれの手は熱くなっていた。こういうところは人間と同じなんだなと場違いなことを考える。本人の申告通り地に足をつけてしっかりと立っているアーチャーに、むこうずねを一度蹴られた。
アーチャーはすたすたとキッチンへ戻ってしまった。食材を作業台へあげ、鍋やらまな板やらを出しはじめた。どうやらあの一発だけでランサーの八つ当たり混じりの荒療治を許し、その上食事を作ってくれるらしい。
ランサーは床に座り、ローテーブルに頬杖をついた。キッチンに立つアーチャーの後ろ姿を爪先から頭のてっぺんまで見まわす。片翼の男がキッチンに立っている絵面は、なかなか面白かった。やがてリビングへ漂ってきたおいしそうなにおいに誘われて腰を上げるまで、ランサーはアーチャーの背中を飽きることなく眺めつづけた。
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アーチャーがランサーの仕事について訊ねてきたのは、アーチャーが窓をぶち破ってこの部屋へやってきて数日目のことだった。いつものように日が完全に落ちてから外へ出て、それから日付が変わるか変わらないかという頃にアパートへ戻ったランサーを、玄関口でアーチャーが出迎えた。そんなことは初めてだったので、ランサーは最初の夜にアーチャーがリビングに座りこんでいたときよりも驚いて、思わずアパートの廊下へ数歩後ずさってしまった。
まだ起きてたのかよ、と先にリビングへ向かう背中へ言って、彼は睡眠をとらないのだったと思い直す。そんなランサーを振り返ったアーチャーは、少しの間を置いてから、毎晩出かけてこんな時間に帰ってくるのは仕事なのかね、と訊ねてきた。
「……んー、まあ」
「なんだそのはっきりしない返事は」
だいたい一日数時間の勤務だけで生計が成り立つなんていったいどんな仕事を、と、つらつら小言を並べたてるアーチャーにはずいぶん慣れた。腹立たしいことに、変わりはないのだけれど。
靴を脱いだランサーはさっとアーチャーへ歩み寄り、勝手にどんどん喋る彼のその肩にぽんと手を置いた。
「オレがどんな仕事してるか知りたいか?」
夜の仕事だよ、夜のシ、ゴ、ト、と。
にやあっと笑ってそう言うと、アーチャーは怪訝そうに片眉をあげてからすぐに返答に困ったように視線を床へ落とした。アーチャーが気まずそうに口を薄くひらいたり閉じたりして結局なにも言い出さないので、ランサーは肩が揺れるのを我慢することはおろかぶはっと盛大に噴き出してしまった。きょとんとするアーチャーの肩に腕をまわし、そっと内緒話をするように顔を寄せる。
「どんな仕事想像したんだ? スケベめ」
「なっ……」
アーチャーが目をみひらいた。にやにやと笑うランサーに機嫌を悪くしたのかじたじたと暴れて離れようとする。それを腕に力を入れて許さず、なあどんなことやってると思ったんだ、とおかしさを隠しきれない声で詰め寄った。
アーチャーは顔を赤くして質問には答えなかった。スケベスケベと言うランサーに、今すぐ黙れそうしないとバルコニーから放り投げてやるとアーチャーが怒鳴る。しばらくそれを続け、お互いに今が寝静まりかえった真夜中だということを思い出してどちらからともなく離れた。
ランサーはダウンジャケットを脱ぎ捨ててベッドへと向かう。イヤリングと髪留めをはずした。ほどけた髪を割れた窓から入りこむ夜風が吹きなびかせていく。ベッドへもぐりこみ、壁のほうを向いた。びゅう、と風の音がする。
「やっぱこのままじゃあ寒いよなあ……。 明日にでも業者呼んで直してもらうから、それまでは我慢な」
うとうととまどろみながらランサーはつぶやいた。我慢もなにも私は寒くないのだが、と、アーチャーが静かに返してくる。さっきのやりとりをまだ根に持っているのか少し早口だった。お前に言ったんじゃねえよと抗弁するには、すでにランサーは睡魔に身を預けすぎていた。ひらきかけた口から小さく息を吐いて、ランサーは深い眠りへ落ちてゆく。
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「……チ、チリン……? なんだって?」
「チリンドロンだ」
昨日の夕食のはずだったんだが君が食べずに仕事へ行ってしまったからな、と。嫌味ったらしく言ったアーチャーはまだ半分寝ぼけているランサーの前に朝食を並べた。昼食や夕食はほとんど揃って食べるようになったけれど、朝食だけはいつもバラバラだった。ランサーの起きているのか寝ているのかわからない顔を見ながら食事をするのが不快なのだと言う。
鶏肉のチリンドロンというのは、北スペインの郷土料理らしかった。玉ねぎやピーマンやパプリカと鶏肉をあわせてトマトで煮込まれている。もう少し煮詰めてパスタにかけてもよかったんだが、朝からは重かろう、と、アーチャーはトースターでほんのりあたためたバケットも一緒に出してくれた。
丁寧に煮込まれた鶏肉はフォークで撫でただけでほろほろとくずれるくらいやわらかく、パプリカや玉ねぎはもちろんピーマンにすら甘みが感じられる。パン屋で買ったわけでもないスーパーの安いバケットに、煮汁をうんと染みこませて次々と口に入れた。皿は汁一滴も残らず真っ白になり、それを見たアーチャーはあからさまにランサーのことを食い意地が張っていると馬鹿にしたそうにくすくすと笑っていた。美味いものは美味いのだから、しかたない。
「あんたって料理上手いんだな」
朝食の皿を洗いながらアーチャーに話しかけた。アーチャーはソファにかけてランサーの淹れたコーヒーを飲んでいる。
マグカップはランサーが買ってきたものだった。割ったものひとつを補えばよかったけれど、いつまでも湯呑みでコーヒーを飲ませるのはなんとなく忍びなかったのでふたつ買い揃えた。
「昔、よく作っていたからな」
「食事はとらねえのに?」
「今は君と食べているだろう。 食べられないわけじゃない、そういう必要がないというだけだ」
それに、とアーチャーは続ける。
「よく料理をしていたのは、食事が必要だった頃の話だ」
「……あ?」
ランサーはリビングのほうを振り返った。
「なんだって?」
「そういう頃が私にもあったというだけだ」
「あんた、元は人間だったのか」
ランサーの最後の問いに、アーチャーがようやくこちらを向く。その瞳が一瞬昏く翳ったのをランサーは見逃さなかった。見逃さなかったけれど、その意味までは掴みかねた。
「水がもったいない。 出しっぱなしにするな」
アーチャーはいつものように小言をこぼしてすぐにふいと前へ向き直った。自分から追及されるような発言をしておいてずいぶんな態度だと思ったけれど、アーチャーに干渉するつもりも深くまで踏み込むつもりもないので会話は諦める。
どうせ、彼の翼が生え揃うか彼がお役御免となるかそれらを待つことなく彼が姿を消すか、そのいずれかまでの関わり合いなのだから無理に知る必要もないだろう。
そう自身に言い聞かせながら、ランサーは蛇口をひねった。アーチャーのことはそれきり考えないようつとめる。今日の昼食や夕食のことを考えた。考えはじめて、キッチンに立つ彼の後ろ姿と、彼の美味しい料理と、美味しい料理を頬張るこちらをじっと眺めるおだやかな彼の顔が浮かんだので、ランサーはううんと首もひねった。ひとりぶんの食器を拭き、自分のコーヒー用にお湯を沸かしているうちに、今日は窓の修理業者を呼ばなければと思考をどうにか切りかえた。
軽い気持ちでたまには料理を手伝うと申し出てみたら、思いのほか口うるさくあれやこれやとダメ出しを受けた。先日の口喧嘩を思い起こすに、アーチャーからすれば善意たっぷりの助言のつもりなのだろうけど。
包丁を手に取れば握り方がちがうと言われ、いざ食材を切ろうとすればそんな押さえ方をしていたら指までざっくりだぞと言われ、挙句のはてには君がいるとただでさえ狭いキッチンがさらに窮屈だなとため息をつかれた。あんたの翼のほうがよほど邪魔だと言い返そうとしたけれど、まあたまには誰かとキッチンに立つのも悪くないがね、とアーチャーが付け足したので、ランサーは口ごもってまな板の上のネギをざっくざっくと切るしかなかった。
「あとはこれだ」
「なんだそれ、エグい形してんな」
「生姜だ。 皮をむいたりしなくていいから包丁の背でたたいて割ってくれ」
アーチャーは隣で豚のかたまり肉にたこ糸を巻きつけていた。よく慣れた手つきだったので、縛るの慣れてんな、シュミか?とからかうとアーチャーの耳が赤くなる。このあいだのように蹴りを入れようと構えた彼は、しかしランサーが包丁を持っていることを思い出したらしく心底忌々しいというふうに舌打ちを一度するにとどまった。
ランサーが用意したネギと生姜、アーチャーが縛った豚肉をボウルに入れてしょうゆと酒と砂糖を揉みこむ。肉を寝かせているあいだにゆで卵を作った。それからフライパンで肉の表面を焼き、深めの鍋にそれを移し、漬け汁とネギと生姜も入れた。水をくわえて火にかける。
「手間のかかる料理好きだよな、あんた」
自分のためっつうより人のために作ってたんだろ、と。アクをとるアーチャーを冷蔵庫に寄りかかって眺めながらランサーは言った。アーチャーは不意を突かれたのかわずかに眉を動かして、それからなにかを考えるように視線を宙でさまよわせる。
「……む、そんなに手間のかかるものばかり作っていただろうか? 下ごしらえが必要ないものも、簡単で時間のかからないものも作れるが」
「まあそうだろうなあ」
「手間のかかる料理は気を遣わせていたか?」
「はあ、なんでそうなる。 別に文句つけてるわけじゃねえよ」
なんとなく思ったことを口にしただけだ、とランサーは弁解する。
「そうか、それならいい」
「……んー、まあこれも文句じゃねえんだが、毎日そんな手間暇かけて作らなくたってオレはもっと簡単に作れるようなモンでもいいんだぜ」
ランサーがそう言うと、アーチャーは小さく笑った。普段ほとんど笑わないくせに、ランサーの笑いを狙っているわけでもない真面目な言葉で彼は笑う。最初の夜もそうだった。彼と自分は根本的に価値観がちがうのだろう。価値観だけでなく、倫理観も、身体のシステムも、思考のプロセスも、生きる糧も。自分の真面目は彼にとってはおかしいのだろうし、彼の常識は自分にとっては笑える冗談のようなものなのかもしれない。
アーチャーがゆるく肩を揺らす。羽根が舞った。
「手間がかかるとかかからないとか、そういったことは気にしたことがなかった。 最近料理をしているときに思うのはもっぱら、今日も君が美味い美味いと言って私の料理を食べてくれるだろうか、ということくらいだ」
心底おかしそうに笑いながら言うので、ランサーはアーチャーの言葉が本気なのか冗談なのかわからなくなった。ただアーチャーがこの手の冗談を口にするのを聞いたことがなかったし、冗談だったとして、冗談に振りまわされて耳を熱くしている自分がひどくいたたまれないと思った。本気であってほしいという思いと、しかし本気だったならそれはとんでもなく恥ずかしくまた喜ばしいことだと混乱する気持ちがないまぜになる。
ランサーは思わずみずからの耳を触った。指先はひどい熱を感じた。これは言い訳のできないくらい赤くなっているかもしれない。
挙動のおかしいランサーに、アーチャーが首をかしげる。
「ランサー? なにかおかしなことを言っ――」
そのとき、玄関のインターホンが鳴った。ランサーとアーチャーは同時に動きを止め、おもむろに玄関のほうへ視線を向け、そしてランサーが先に口をひらいた。
「窓の修理業者呼んでたんだった……」
「ああ、そういえば昨晩そんなことを」
「おいアーチャーどこかに隠れろ」
「は、」
アーチャーの腕を掴んで引っ張っていこうとすると、彼は困惑しながらもその場に踏みとどまろうと力をこめた。
「待て、なぜ私が隠れなければならない」
「背中から翼生やした男なんぞいたら怪しまれるだろうが」
「……」
ふたり揃って電波な野郎かラリラリな夢見てるやつだと思われてえのか、オレはそんなの御免だぜ、と。抗うアーチャーを強引に引っ張ってゆく。ランサーの言いぶんにも一理あると認めざるをえなかったのか、しぶしぶ腕を引かれるままについてくるアーチャーがふたたび抗議の声をあげたのは、ランサーが玄関近くの扉に手をかけたときだった。
「おい、浴室でいいだろう! どうしてここなんだ!」
「あ、そうか、風呂があったな」
まあどっちも変わんねえよ、と、アーチャーをトイレに押し込む。
「かかっても一時間くらいだろう。 ちと我慢してくれや」
「クソ……」
「トイレだけにか」
「地獄に落ちろ」
蓋をおろした便器の上に座らされた片翼の男というのは、絵面として面白いというか、背徳的というか。至極一部向けのマニアックなアダルトビデオのパッケージを見ているようだった。ランサーはそこまで考えて思わずふっと笑った。それをどう受け取ったのか、アーチャーの眉間にしわが寄る。二度目のインターホンが鳴った。
「じゃあ閉めるぜ」
「あ、待てランサー」
「んあ?」
アーチャーが身を乗り出してランサーの腕を掴む。
「鍋の肉だが、あのまま弱火でおとしぶたをして四十分くらい煮るんだ。 たまに肉をひっくり返して味の染み具合にムラが出ないようにしろ。 それからゆで卵を入れて、またおとしぶたをして二十分だ」
頼むぞ、と言うアーチャーの顔がなかなか真面目だったので、言われたことをきちんと頭に叩きこむ。掴まれた手をほどいて、その頭を戯れにくしゃりと撫でた。
「おう、任せな」
ランサーは歯を見せて笑い、トイレの扉を閉めた。大声で玄関先へ返事を寄越して早足で玄関まで向かいながら、扉の閉まる直前、視界のすみに映ったアーチャーの面食らった表情を思い出してランサーはまた笑ったのだった。
「あとは卵を入れて煮込むだけか」
「おうよ、アーチャーの言う通りにやったからばっちりだぜ」
修理には一時間もかからなかった。幸い、業者からトイレを貸してくれと言われることもなかった。
業者が帰ってからトイレを開けると、アーチャーがなぜかいぶかしげな表情でじろじろとこちらを見ながら出てきたが、すぐに部屋に立ちこめるしょうゆのにおいに気づいてキッチンへ行ってしまった。
「少々火が強かったみたいだが」
「焦げてたか」
「いや、煮詰まりが早いというだけだ。 仕上がりが濃くなるかもしれない」
「じゃあ酒だ、酒」
アーチャーも飲もうぜ、とアーチャーの背中をたたいた。彼は少し悩んだ様子を見せたが、ではつまみになるようなものも作ろうと頷いた。
窓の閉めきられた部屋の中はずいぶんと静かだった。ふたりぶんの声、アーチャーのまだわずかにぎこちない足音、肉の煮える音。窓も直ったのだから暖房をつけてはどうかね、真冬なのだから寒いだろう、とアーチャーが言うのでエアコンのスイッチを入れた。古いエアコンが低い稼働音を響かせる。
音はそれだけだった。鳥のさえずりや車のエンジン音、電車の走る音も、子どものはしゃぐ声も聞こえない。ランサーもアーチャーもお互いによく喋るわけではないから、会話がないかぎり部屋の中は本当に静かだった。これがおだやかな時間というやつかもしれないと思った。なるほどこれは悪くないな、とも思った。
「ふむ、タコがあったか。 じゃがいもも入れてガーリック炒めにしよう」
冷蔵庫の中を覗きながらぶつぶつとメニューを思案しているアーチャーの声を聞きながら、ランサーはリビングへ出てソファへ立ったまま寄りかかった。くあ、とあくびをひとつしてベッド脇のデジタル時計を見る。もう十五時をまわっていた。
「なあ、アーチャー……」
コーヒーでも淹れるか、という言葉の続きが喉でつっかえた。いつもさっさと冷蔵庫を閉めろとランサーに注意するアーチャーが、ひらきっぱなしの扉に触れたままじっと窓の外を見ている。ランサーはアーチャーの視線をたどるように窓の外へ目を向けた。
「――」
なにかが外で燃えていた。百メートル以上離れているこのアパートからでも立ちこめる黒煙と燃えさかる炎がはっきりと見てとれる。あそこはたしか、市民会館だったか。
ランサーはしばらく窓の外の炎を見つめつづけた。静かな部屋の中、耳の奥、きっと煙にのまれてしまうであろう悲鳴がいくつも聞こえた気がした。奥歯を噛む。悲鳴は長いあいだランサーの耳の奥に居座った。途中でアーチャーになにか話しかけられたけれど、オレンジ色の獰猛な炎から目を離すことができなかった。
■■■市民会館を全焼する火事は通報から四時間半で鎮火に至った。隣接する空き家と自転車屋が半焼、電線が焼けて辺りは一時停電となった。その日市民会館では、近くの小学校の学芸発表会がおこなわれていた。生徒を含む十八名が死亡、九十名以上が火傷などの重軽傷を負い、一部は病院に搬送された。いまだに五名が行方不明となっており、消防隊や警察が現場を捜索、また火事の原因も慎重に捜査が進められている。
酔いというものを、今晩のランサーは掴み損ねていた。缶ビール一本だけでは当然だったかもしれない。
アーチャーが作ってくれたタコとじゃかいものガーリック炒めも、特製のネギだれがたっぷりかけられたやっこも、キャベツときゅうりのピリ辛ごまサラダもどれも絶品だった。ふたりで作った煮豚も言わずもながら。缶ビール一本ではやはりもったいなかったな、とランサーは白い息を吐いた。
ランサーはふと街灯の下で立ち止まり、舌打ちをしてうなじを掻いた。どうもこういうことは、何度こなしても。
ふらりと歩き出してアパートを目指す。あと数分もすればアパートが見える。ランサーは夜空を仰いだ。煙のせいか、消火剤のせいか、空はひどく濁って白んでいる。夜更けの寒さにあまり鼻がきかないけれど、なんとなく煙くさい気もする。
「少し遅かったな」
玄関扉を開けるとリビングからアーチャーが出てきた。アーチャーはランサーの顔を見るなり眉をひそめた。鈍色の彼の瞳を見返すと、そこにはひどく疲れた自分の顔が映りこんでいる。
「……コーヒーでも飲むかね?」
「いや……」
「ではホットワインを作ろうか。 生姜で作っても美味いぞ」
気をつかわれているのを嫌でも肌で感じた。ふだんはずけずけとなんでも物を言うアーチャーは、そのくせこういうときにかぎってやわらかくなろうとするから、こちらは腹の底のなんともいえない気分を発散する術を失ってしまう。でも彼はなにひとつ悪くない。ただ気づかいをうまく断る言葉を探すだけの余裕は、今は持ち合わせていない。
ランサーは一言コーヒーを断ったきり、まともな言葉を発することなく靴を脱いでアーチャーの横を通り過ぎた。冷蔵庫を開け、残っていた缶ビールを取る。かしゅ、と缶を開けて一気に中身をあおった。胃が一瞬熱を帯びたけれどそれはすぐに収束する。ふたたび冷蔵庫の扉に手をかけたランサーは、しかしアーチャーの視線を背後に感じて二本目を諦めた。
「ランサー、」
「寝るわ」
ベルトを抜き、ジャケットを脱いだ。髪留めとイヤリングもはずしてベッドへ入った。いつものように壁のほうを向く。しばらくしてアーチャーが部屋の照明を落とした。
静かな夜だった。ものの四十分ほどで取りつけられた新しい窓ガラスは、外部のあらゆる音をきつく追い払っていた。夜風の音もしないし、夜道を歩く酔っぱらいの声もない。その上アーチャーは物音ひとつたてない。彼は、息をしているのかすら怪しい。
静かすぎる夜だったから、ランサーはなかなか眠ることができなかった。ぼうっと壁を見つめて、耳の奥の悲鳴を聞く。
「目ぐらい閉じろ。 眠れなくても、目を開けているのと閉じているのとでは得られる休息の質がちがう」
暗闇の中でアーチャーが言った。ランサーはアーチャーに背を向けている。まあまったく本当に、彼は何者なんだか。
「眠りもしねえ天使様が知ったような口をききやがる」
「安心しろ、経験則だ」
アーチャーは天使云々の部分には、もう触れなかった。それきりまた音ひとつたてなかった。
経験則ってなんだ、やっぱり人間だったんだろうが。そう問い詰めてもよかったけれど、目を閉じると口をひらくのが億劫になった。指先から力が抜ける。どうかやすらかに、ねむりますように。
ランサーはまぶたの裏で炎と倒れてゆく影を見つめ、耳の奥で悲鳴とサイレンの音を聞きつづけた。
4.5
寝息はとても不規則だった。
ランサーが身をよじり、シーツのこすれる音が部屋に響く。吐く息が震えていた。どす、と鈍い音。長い脚が壁を蹴ったのかもしれない。ベッドとは反対側の壁際に座るアーチャーからは見えなかった。
正座を崩さないまま、アーチャーはランサーの背中から窓のほうへ視線を移した。カーテンの隙間からわずかに光が漏れている。煙と消火剤で空が濁っていてこれほどの光だから、今夜の月はずいぶんと大きくて明るいのだろう。
「……」
ランサーがまた身じろいだ。息づかいは依然として乱れている。
アーチャーは腿の上に置いた手の中にひと振りの剣を形づくった。暗闇の中で月光よりもささやかな光の粒子が舞い、アーチャーの右手で集束して短剣となったのだ。よくよく手に馴染んだその剣の柄をしっかりと握る。アーチャーは音をたてない。剣を手に、ベッドへ視線を戻してそのままゆるやかにうなされつづける彼の背中を眺めた。
うるさい夜だった。アーチャーはどちらを切るか迷い、また迷ってしまったことになんともいえない気持ちになって、部屋じゅうをうろつき跳ね返る音たちに思考を阻まれた。答えを見出だせなかったアーチャーは、夜が明けるまでついぞそこを動くことはなかった。
5
肩を揺さぶられて、ふと意識が浮きあがる。ちゃぷ、という水音、肌に張りつく湿り気、熱。心地よかった。身体を取り巻くすべてが心地よくて、浮上した意識がふたたびぬるりと下のほうへ落ちかかって――
「ってえ」
あともう一歩でゆるやかに眠れるというところで思いきり頭をはたかれた。ランサーは顔をあげる。白く霞む視界で、仁王立ちのアーチャーがあきれたような表情でこちらを見下ろしていた。
「あ?」
「身体をあたためてこいとは言ったが、風呂で寝ろとは言ってない」
もしや溺れてるのではないかと一瞬でも心配したのが馬鹿だった、とアーチャーが吐き捨てる。
買い物の帰り、雨に降られた。どしゃ降りだった。見事な濡れねずみになって帰宅したランサーに、明らかに雨が降る雲行きだっただろう、と開口一番に悪態をついたアーチャーは買い物袋を受けとってバスタオルを投げつけてきた。風呂を沸かしてるから入ってこい、身体を冷やしたままでは風邪をひく、と言われたランサーは髪を拭いていた手を止めてぽかんとしてしまった。
傘を持たずに出かけた自分が濡れて帰ってきて風邪をひくのを危惧して風呂を沸かしたのか、この男が、と。正確に物事を理解したあとは、腹の底からじわじわと気恥ずかしさのようなものがこみあげてくる。思わず手で覆った口から「あんたはいい嫁になれるぜ」という言葉が飛び出しそうになったのできゅっと唇を引き結んだ。からかいではなく本心だったけれど、そういうたぐいの文句を好まないアーチャーは確実に機嫌を損ねるだろうと思った。昼食と夕食が抜きになるのは避けたい。
食事を抜いたところでどうなるわけではないはずなのに、毎日三食出されるアーチャーの手料理に甘やかされている身体はどうにかなってしまうような気がした。
余計なことは言うまいと口を噤んだランサーは湯気のたちこめる浴室へ向かったのだった。
「気持ちよくてよ、ついな」
「ついじゃない。 もうあたたまっただろう、あがれ」
アーチャーはくるりと踵を返して浴室を出ようとする。浴室の湿気のせいか、翼が心なしかぶわっと膨張しているのが少しおかしかった。ランサーはアーチャーを呼び止めた。
「昼メシは?」
「炒飯だ」
「チャーハン」
彼にはめずらしく手間のかからない簡単な料理だと思った。それこそランサーにも作ることができそうなくらいの。
明日は雨でも降るのか、いや雨はすでに降っているか。浴室の外へ消えてゆく後ろ姿を眺めながらぼんやり考えていると、ふと、昨日の昼間のやりとりを思い出した。律儀なやつだと笑ったランサーの声は、アーチャーには届かない。
チャーハンはとても美味しかった。いつもと同じように、ひねりのない言葉で「美味い」と言うと、アーチャーはどこかいつもよりも嬉しそうな顔をした。
手の込んだ料理よりもチャーハンを褒められて喜ぶのか、と首をかしげながら食事を進めていると、出来を確かめるようにゆっくり食べていたアーチャーが手を止めた。
「ずいぶんと練習したんだ」
「チャーハンをか?」
「というか、中華料理全般を」
「はあ、昔付き合ってたカノジョが好きだったとか?」
当てずっぽうに返したランサーに、前々から思っていたが君はなんでも色事と結びつけないと思考が進まないのかね?とアーチャーがげんなりした声を出す。
「昔親しかった人の作る中華料理がとても美味かった」
「で?」
「オレも負けまいと思ってだな」
「張り合ったのか、わざわざ」
「……」
アーチャーの作ったチャーハンは贔屓目を抜きにしても本当にとても美味しかった。彼の親しかった人がこれを上回る腕だったのか、彼の負けん気が今やその人を上回るほどになっているのか、どちらかはわからない。けっして気をつかったわけではないけれど、ランサーは短い昼食のあいだいつもより美味い美味いと繰り返した。
アーチャーが気恥ずかしそうに、また照れるように口もとをゆるめるから、ランサーはそのたびに「これはクセになるな」と考えてしまった。
その晩ベッドを抜け出したランサーは、壁際で正座するアーチャーを晩酌に誘った。眠れないのかね。アーチャーは少しの沈黙ののちにそう訊ねてきた。夜更かしがしてえ気分なんだよ、と答えると薄暗闇の中でアーチャーが笑った気配がした。
「いいだろう、では酒を取ってきてくれ」
腰をあげたアーチャーは部屋の奥へ行き、カーテンとバルコニーへ続く窓を開けてふちに座った。脚はバルコニーへ投げ出している。ランサーは冷蔵庫から缶ビールを二本取ってアーチャーの隣へ腰をおろした。彼にならって脚を伸ばす。
「寒くねえのか、ここ」
「私にそういう感覚はない。 ああ、でも君は」
そこでアーチャーが言葉を切ったので、ランサーは彼のほうを見た。アーチャーもこちらを向く。
「……いや、君も大丈夫だろう」
「あ? まあ酒飲むし、たまにはこういうのもいいんじゃねえか」
缶を開け、乾杯をしてビールを飲む。月の大きな夜だった。昼間の厚い雨雲はすっかり流れていた。月明かりだけでじゅうぶんにアーチャーの表情を見ることができる。
「断られるかと思ったんだがなあ」
「晩酌の相手をかね」
「ああ」
あんた小言ばっかりだからてっきり不要な夜更かしはよせだかなんだか言われるかと、と続ける。言いながらにやりと笑うと、アーチャーは一瞬だけむっとしたがすぐにおだやかな顔になってゆるく首を振った。
「誰にだって眠れない夜はあるだろう。 死にたい夜も、誰かに会いに行きたい夜も、あてもなく走りまわりたい夜も、頭をかきむしって叫びだしたい夜も。 あって当然だからな、私が付き合ってどうにかなるのならいくらでも付き合おう」
「なら、あんたにもそういう夜があるんだな」
「あったかもしれないな」
「……あんたが付き合ってくれたところで、どうにもならねえかもしれない」
アーチャーは、ランサーの言葉に鼻で笑った。
「フン、ひとりの夜は長いぞ。 余計でよくないことばかり考えてキリがない」
「天使様の経験則だな」
「なんとでも言え。 ――まあ、君に誘われなくとも」
今夜はちょうど、月を見たいと思っていたんだ。アーチャーは前へ向き直ってビールを呷った。
「天体観測が趣味なんざ似合わねえな」
「趣味だとは言っていない。 ただこうして月光の下で誰かと話していることが、ひどく懐かしく感じられるだけだ」
アーチャーの目はぼんやりと宙を見つめていた。いつどこの月光の下を思い浮かべているのかランサーにはわからなかったし、本人から言い出さない以上は訊ねるつもりもなかった。
ランサーとアーチャーは、しばらくのあいだとりとめのない話をしたり、沈黙に身を任せたりして時間を過ごした。お互いに二本目の缶ビールを開けた。
今夜の月は大きく、丸く、明るかった。会話がちょうど途切れたタイミングで、ランサーはなんともなしに「月、綺麗なモンだな」とつぶやいた。アーチャーがきょとんとした顔でこちらを見て、それからくすくすと笑い出す。その言葉はあまりむやみに口にしないほうがいい、特に女性の前ではな、というアーチャーの言葉の意味がランサーにはてんでわからなかった。どうして月を褒めてはいけないのだろうか。
何度問いただしてもアーチャーは意地悪げに笑うだけで理由を教えてはくれなかった。腹立たしさはあったけれど、アルコールで頬を赤くした彼が笑う横顔を見ていたら、理由なんていうのはだんだんどうでもよくなっていった。
「あそこは、見事に丸焦げだな」
ふと、アーチャーが言った。酩酊と夜風とアーチャーの隣の心地よさにぼうっとしていたランサーは、しかし彼の言葉がなにを指しているのかすぐにわかった。わかってしまった。ビールをすすりながらバルコニーの柵のあいだから月明かりに照らされた街を眺める。その中央に真っ黒に焦げた建物だったものが見える。
「……ああ、見てるだけで焦げくせえ」
「まだ見つかってない人もいるのだろう?」
「らしいな。 あと三人だったか」
今朝からの捜索で新たに二人の遺体が発見された。身元確認の最中らしい。行方不明者は残り三人。
ランサーは奥歯を噛んで市民会館の跡地から視線をそらした。あの場所にいまだ残されているのは上級生の生徒二人と施設の事務員一人だった。ランサーはそれを知っている。三人の遺体が取り残されている場所もそれぞれ知っている。でもそれを誰かに教えるわけにはいかない。口出しはできない。ここにいますよ、あそこにいますよ、なんて。どこかの国の昔話に登場する犬ではあるまいし。また、心から人間を愛する慈悲深い神でもあるまいし。
「らんさー」
気分のよくない思考を続けていると、ふとアーチャーに呼ばれる。アーチャーのろれつは早くもあやしかった。なにかと目ざとくて、たまに遠い昔を見ているような、古びた剣に似た色の彼の瞳はうつろなままランサーへ向けられていた。平生の鋭さはすっかり鳴りをひそめている。
「もう酔っちまったのか? つうかそれ以前にお前は酒に酔うのかよ……」
「おれはよっていない」
「そういうのを酔ってるっつうんだよ」
アーチャーから飲みかけの缶を奪って床へ置く。ほら寝るぞ、と、彼の腕を引いて立たせようとした。こんなことを前にもやったような気がしたけれど、ふらふらのアーチャーが寄りかかってきたのでランサーは考えるのをやめて介抱に専念することにした。
アーチャーの腕を肩にまわしてずるずるとベッドまで引きずってゆく。らんさー、らんさー、と何度か呼ばれて、そのたびに返事をしたけれどなにを言っているのかさっぱりわからなかった。ベッドの上にアーチャーを転がす。翼が下敷きだと痛そうだったから身体を横を向かせた。
「おやすみアーチャー」
あーとか、らんさーとか、ぼそぼそ言うアーチャーにかけ布団をかけながらそういえば彼におやすみと言ったのは初めてだなと思った。
「らん、さー、おやすみ」
「おう」
「いい、ゆめを」
「……」
窓とカーテンを閉めると、部屋はふたたび暗闇に包まれた。アーチャーと自分の飲み残しを喉へ流しこんだランサーは、缶を片づけてソファへ寝転がった。
目を閉じる。アーチャーを晩酌に誘う前よりも心は落ち着きを取り戻していて、気分もよかった。ああこれなら眠れそうだなと思いかけたところで、指先と首の後ろに寒気を感じた。まぶたの裏に突然炎が立ちのぼって、ランサーははっと目をひらいた。暗い部屋の中、炎が大きくなる。目をひらいても閉じてもなにも変わらなかった。
いくらあたりを見まわしても、炎と、炎と、煙と、その奥にまた炎。誰かが泣き叫んで、それがすぐに聞こえなくなる。サイレンと怒号と、悲鳴と、また炎。
「――っクソ」
ランサーは身体を起こして小さく悪態をついた。荒っぽく頭を掻いて、暗闇の中で目を瞬かせる。
「……」
ランサーはのっそりと立ちあがってベッドへ歩み寄った。アーチャーは規則正しい寝息をたてて眠っていた。アーチャー。小さな声で呼ぶ。アーチャーは目を覚まさない。
――ひとりの夜が長いと言ったのはあんたのクセに。勝手に寝ちまって、ひとりにしやがって
ランサーは眠るアーチャーをうらめしげに見下ろした。見下ろしたまましばらく時間がすぎ、やがてランサーは静かにベッドへとあがった。かけ布団をめくって狭い空きスペースに身体を横たえる。こちらを向いているアーチャーの顔を覗き見たけれど、わずかに眉を動かしただけで目を覚ます様子はなかった。
「……はあ、ったくよ」
なにしてんだか、オレは。
少しだけ迷ってから、ランサーはアーチャーを腕の中へ抱きこんだ。ベッドはひとり用なのだからこうでもしないと男ふたりでは落ちてしまう、と、誰が見ているわけでもないのに下手な言い訳を考えた。そもそも自分がベッドへあがらなければよかったのではないか、という正論には気づかないふりをした。
アーチャーの身体はあたたかかった。人間ではなく、神の御使いでもない、世界の歯車という謎の彼は、とてもあたたかかった。ランサーはアーチャーのぬくもりに目を細めながら、当然といえば当然か、と胸中でひとりごちた。美味しい料理を作って、風呂を沸かして、いちいち小言を寄越して、時折下手にもあどけなくも笑う彼が、つめたいわけがなかった。
ランサーは目を閉じた。手探りでアーチャーの頭に片手をまわしてその髪をくしゃりとやわく混ぜた。アーチャーのぬくもりが睡魔を呼ぶ。眠気に身を委ねながら、首の後ろの寒さに気づく。ごまかすように、腕の中のぬくもりをきつく抱きしめた。心は少し疲れていた。ランサーはゆっくりと眠りの底へ落ちてゆく。
6
幸福には翼がある。つないでおくことはむずかしい
フリードリヒ・フォン・シラー 『メッシーナの花嫁』
幸か不幸か、刃の気配と殺気には敏感だった。考えるより先に、ランサーの身体は洗練された動きを見せる。
呼びつけた朱槍を強く握った。切っ先は振り下ろされた刃を正確に弾き、それから相手の手のひらを貫いた。身体を跳ね起こした反動でぐっと相手の懐へ身を乗り出す。そこでランサーは、さきほど感じた殺気が、たいした殺気ではないことに気がついた。ただ、おだやかで安らかな部屋の中ではそれはあまりにも異質で、ランサーの眠りを妨げるにはじゅうぶんだったのだ。
相手はもはや自分を葬ろうとはしていない。けれど、半端なところで急に身体は止められなかった。相手の手を貫いたまま槍をベッドに突き刺した。その腹を跨いで乗りあげながら、シーツに広がってゆく赤い血液を見る。絆創膏も、包帯も、あの晩の翌日にドラッグストアで買ったから大丈夫だ。なにが大丈夫なのか、次の瞬間にはわからなくなった。
ランサーは槍を握ったまま、弾かれて床へ落ちた刃に視線をやる。めずらしい形をした短剣だった。そのままみずからの下で手を串刺しにされているアーチャーを見る。アーチャーの頬に、ランサーの額から垂れた汗が落ちた。君、汗をかくんだな。手を貫かれても眉をひそめすらしなかったアーチャーが、そう言って目をみひらいた。
「ああ、半分は人間だからな」
ランサーは赤い目を細めた。カーテンの隙間からは薄い光が射しこんでいる。夜は明けているらしい。
「あと半分は?」
アーチャーが訊ねる。
「なんだろうなあ」
「死神だろう」
「わかってんなら訊くなよ」
血はじわじわとシーツに広がってゆく。アーチャーの翼にも血が飛び散っていた。
「いつから気づいてた? はじめはオレのことを丸っきり人間だと思ってたろう」
ひと月にも満たなかったけれど、それでもアーチャーとはしばらく同じ時間を共有した。彼の作った料理を食べて、ひとつ屋根の下で夜を過ごし、コーヒーカップを手にのんびりと窓の外を眺め、とりとめも脈絡も嘘もない話をした。
しかし今、ランサーはアーチャーの殺気の消滅を感じてもなお槍を抜いて、昨晩のように窓際に腰かけて話をする気にはなれなかった。槍を抜いてしまえば、彼はたちまちどこかへ消えて、もう二度と出会えないような予感があったからだ。ランサーの槍は、魂をも捕らえる。こうしているかぎりは、アーチャーはどこへもいくことはできない。
「変わった男だとは思っていたがね。 あれほど妙ちきりんな買い物をするやつを他には知らない」
「その話はいいだろうが……」
これまで本気で踏みこもうとしなかったお互いの深いところの話をしようとしている。きっと、アーチャーがここへやってきてからいちばん大切な話だ。それを自分たちは、血の跳ねたシーツのわだかまるベッドの上でやろうとしている。笑えるようで、なぜか、ひどくしっくりきてしまった。
「……君、私をトイレに押しこめたことがあっただろう」
「あ?」
「あそこには、トイレットペーパーがなかった」
食事の必要はなかったのだろう、と、アーチャーが眉尻を下げる。そうではないと言い返したかったけれど、それは否定しようのない事実だった。
「浴室にはシャンプーもボディソープもなかった。 君はたまにトイレに行ったりシャワーを浴びたりしていたが、いくら振りでもそれくらいは買い揃えておけ。 詰めが甘い」
苦笑いするしかなかった。まったくもって仰るとおりだ。
「夜に出かけるのは、魂を狩るためか?」
「人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ。 彷徨ってる魂を見つけて、連れ帰ってきてただけだ」
「ここへ?」
「知ってたんだろう、それも」
ランサーは首を傾ける。
「連れ帰ってくる理由がわからなかった」
「もうわかってんだろう」
「憶測の域を出ない」
「言ってみろよ」
「君が真実を話せばよかろう」
状況にそぐわないえらそうな口調でアーチャーは言った。言っていることは正しいけれど、いかんせん態度が気にくわない。彼は自分の前では最後までこういうやつなのだろうと思った。
「……逝けない魂と一緒に眠ってやらなきゃ、オレは魂を送ってやれねえ。 半神だからな、スムーズにできることとできねえことがある。
そこらへんを彷徨ってる魂のほとんどは死んだことをうまく理解しきれてねえか死んだ直後で気が立ってんだ、死者が気を立たせるなんざおかしな話だがな。 ……で、そういうのを捕まえて、一緒に眠って、落ち着かせてやって、天に送る。 効率の悪い死神だと思うだろう? まあ真実ってのは得てしてそういうモンさ」
アーチャーは表情ひとつ変えることなくランサーの話を聞いていた。シーツに染みた血は鮮やかさを失い、手のひらの上には血溜まりができている。こいつの血も赤いのか、と考え、それははじめの晩から知っていたことだったと思い直した。
「それで、」
鈍色の瞳がなにかを見極めるように細められる。
「逝かせるのに手間取っていたのは、あの火事で死んだ者の魂なのかね」
「……ああ」
結局あの火災では二十三名が命を落とした。そのほとんどの魂があの現場でふわふわと宙を漂っていた。
生徒と教師と施設職員たち、とりわけ生徒の魂は逝くことをためらった。死への恐怖におかされているのか、自分が死んだことをわかっていないのか、家族ともう一度会いたいのか、叫んでも助けが来なかったことを恨んでいるのか、ランサーにはわからなかった。悪夢にうなされつづけた。夢の中でああしたいこうしたいのだと叫んでくれれば対処のしようもあったけれど、魂たちがランサーに見せるのはひたすらに炎と煙だった。いまだに半数以上の魂が、この世にとどまっている。
「ガキってのはなあ、昔っからどうも苦手なんだ。 苦手っつうか、扱いがわかんねえっつうかよ……。 ガキのあやしかたも抱きかたも知らねえ。 泣かれちまったり、しょげられたりすると、もうお手上げだ」
こんな人数になると尚更な、と、ランサーは肩を竦める。アーチャーの瞳には途方に暮れた自分の顔が映っていた。
アーチャーが口をひらいてなにかを言おうとして、それをやめた。視線が宙をうろつく。ランサーはアーチャーの言葉を待った。
「……君の子どもの扱いが下手というのもあるかもしれないが、火災現場なんて実際炎と煙ばかりだからな。 魂がそれしか見せてくれないのではなく、本当にそれしか見ていないのだろう。 あんなところでは熱いことと、息が苦しいこと、自分はきっとここで死ぬのだということしかわからない」
「……」
アーチャーの声は淡々としていた。その瞳にわずかな翳りを見た気がした。
「それも天使様の経験則ってやつか」
「さあ、どうだったろうな」
「だいたい本当に天使じゃねえのかよ」
「そうだと何度も言っている」
「……じゃあよ、」
世界の歯車ってのは、具体的に何者なんだ、と。ランサーは身をかがめてアーチャーの鼻先まで顔を近づけた。
「君が知る必要はない」
「オレだって正体を明かしてやったんだ。 世の中ギブアンドテイクだろうが、経験豊富を気取っておいてそんなこともわからねえか」
煽るように片眉をあげる。アーチャーはすぐにむっとした表情を浮かべ、それからため息をついた。
「――私は、世界中の人を幸せにするための機構だ。 世界に選ばれた誰かを幸せにするためならなんだってする。 選ばれなかった他の誰かを殺したり、悪魔を追い払ったり、天使に土下座をしたり。 まあでも、殺す仕事が格段に多いな。 世の中他人を恨んでいる人間の多いことといったらかぎりない。 理解しかねる話だがな。
誰かが死ねば、大抵は誰かが悲しんで不幸になる。 世界には必ず一定数の幸福な人間と不幸な人間がいる。 私はその後者の中から、世界が選出した幸運な不幸な人間に幸せを提供する」
「……ふ、」
不毛だ、と言いかけてランサーは口を噤んだ。喉もとで待ったをかけられたその言葉は、アーチャーの在り方を否定するものだ。
アーチャーや世界が介入しなくとも、世の幸と不幸はあちこちを行き来する。生涯幸福な人間なんてほとんどいないだろうし、逆もおそらく然りだ。そんなことのために彼は、これまで血で手を汚してきたのだろうか。やりきれなさに、ランサーは歯噛みした。手に力が入る。槍がずぶ、とさらに深く刺さったけれど、アーチャーは痛みに顔をゆがめることはなかった。他人の幸福などのために、彼はこうなってしまったのだろうか。
「……それで」
喉が熱かった。ひさしぶりの感覚で、それが怒りのせいなのか虚しさのせいなのか悲しみのせいなのか、判断しかねた。ランサーは声を声を絞りだす。
「それで、あんたは……、誰かの幸福のためにオレを殺そうとしたのか」
ランサーは床に落ちた短剣を目で指した。
「ちがう」
アーチャーは目を伏せた。言い訳や嘘を考えているようには見えなかった。真実を伝えるための言葉を慎重に選んでいるようだった。
朱槍に貫かれたアーチャーの右手は青白く変色していた。あんなに、あたたかかったのに。アーチャーの手を掴んで部屋じゅうを引っ張りまわしたときのことを思い出した。血を浴びてきたはずの彼の手は、きちんとあたたかかった。場違いにも、今それを思い出した。
「……いや、ちがわなくは、ないかもしれない」
アーチャーの唇が震えている。
「君が、うなされていたから……。 どうにかしたかったんだ。 君が、おそらくは死者の魂に苦しんでいるのだろうと思っていたから、切ろうとした」
ただ、と、アーチャーが言いよどむ。
「どちらを切ろうとしたのかは、私にもわからない」
「……」
「君を救いたかった。 この数日ずっとうなされる君を見て、どうにかしたいと思っていた。 だが私には、君を苦しめる魂たちを切ればいいのか、苦しむ君を切ればいいのか、わからなかった。 世界の意志で動いていた私には、どうすれば君を助けられるのか、わからなかった」
だから剣を振り下ろしたあの瞬間でさえ、自分がどちらを切ろうとしていたのかわからないのだと言う。
ランサーは言葉に詰まった。アーチャーが世界の意志なしでは満足に物事を決められない生き物なのだとして、それでも彼は自分に料理を振る舞い、風呂を沸かし、眠れない夜に付き合ってくれた。なにを思ってそうしたのだろうか。ランサーにはわからなかった。訊ねてもよかったけれど、きっと彼にもわからないことだろうと思った。わからないことをこれ以上増やすのは、なんだか気が引けた。
「いいさ、どっちだって」
それは本心だった。
「どっちだって、あんたがオレを助けようとしてくれたことには変わりねえだろう」
「……」
ランサーの言葉に、アーチャーは安心したように表情をゆるめた。おだやかなその顔にランサーの胸がざわつく。ああ、こういう感覚は、よく知っている。
「……アーチャー、その安らかに逝くみてえな顔はやめろ」
「私は人間としてすでに死んでいるのだが」
「そういうことを言ってるんじゃねえ」
アーチャーは困ったように笑った。相変わらず下手くそな笑いかただった。
「……いいじゃないか、送るのが君の仕事だろう」
「……」
「君とすごした時間はとても、しあわせだった」
槍を握る指先がわななく。ぎゅっと力をこめ直した。胸のど真ん中に居座る別れの予感を、ランサーはどうにか振り払いたかった。あと少しだけ。まだ話をしたいし、彼の手料理が食べたい。孤独を忘れたのはいつぶりだっただろう。まだそれを思い出すには、心の準備ができていなかった。
「だが、私がしあわせになるにはまだ早い」
アーチャーはきっぱりと言いきった。
「順番がちがう。 世界にはまだ不幸な人々がたくさんいる、私のしあわせはそういう人々がいなくなってからの話だ」
「……ド阿呆め」
ランサーはそう吐き捨ててうなだれた。そういう道理ならば、アーチャーの幸福は永遠にやってこないことになる。
「それでいいと本気で思ってやがるのか」
「さあな。 だがこれは、私が望んだことだ。 誰にも泣いてほしくないと、そう望んだ結果」
ランサーは眼球の奥に熱を感じていた。それがどういう感情によるものなのかはわかりかねた。ただ彼が、自分自身にしあわせを許していないことが耐えがたいほどに痛々しかったのはたしかだった。
「……あんたの魂、オレが逝かせてやろうか」
アーチャーの手のひらからずるりと抜いた槍の切っ先を、彼の左胸にあてがう。自分の幸福を願えずにひたすら他人のそれのためにしか身を燃やせないのなら、そんな魂は眠ってしまえばいい。そう思うと同時に、ランサーは、死を用意することでしか誰かを救えない自分に愕然とした。
しばらく視線が絡んだまま、互いの口もランサーの腕もアーチャーの血まみれの手も動くことなく静かに時間がすぎた。ランサーが沈黙にしびれを切らして口をひらきかけたところで、アーチャーの赤黒い風穴のあいた手が槍の先端をするりと払った。ランサー、とアーチャーが呼ぶ。
「自分で望んだことだ、なかったことにはしたくない」
「なかったことにはならねえさ。 あんたは少ししくじって死神にやられるってだけだ」
「だがここで君の仕打ちを受け入れてしまったら、誰も泣かずに済む世界を諦めることになる」
「ならねえよ」
「なるさ」
「ならねえと言ってるだろう!」
部屋じゅうに響く怒声に目をみひらいたアーチャーの胸ぐらを掴みあげた。アーチャーの上体がシーツからわずかに浮く。
このわからずやめ、と詰って、あえぐように息を吐いた。頭の中はぐちゃぐちゃだった。彼の手料理の味と、煩わしい小言、つたない笑顔、肌のぬくもりを覚えている。ああこんなやつがつめたいわけがないと思った。それなのに、彼は自身にとことんそうだった。
「ああ――、私はどうしようもないわからずやかもしれないな」
「……」
「だが、こういう在り方しか知らないんだ」
アーチャーは目を伏せた。その所作に罪悪感や気まずさのたぐいはなく、このやりとりをここで終いにしようという気概だけが感じられた。ランサーはなにも言い返さなかった。生き様や在り方にああだこうだと言ったところで、そうたやすく修正や変更のきくものではないからだ。どうしたって自分にはアーチャーの在り方に納得がいかない。けれどそれは、アーチャーの在り方になんの関係もないことだ。
受け入れあって、わかちあって、なんて冗談じゃない。否定する気はないけれど、否定しないことが精いっぱいだった。その背に翼を持ちながら、薄氷の上を裸足で歩くようないき方なんて。
「ランサー」
別れの予感は今や部屋に満ちていた。深い愛着があったわけでも、特別な出来事があったわけでもない。同じものを食べて、取るに足りないことでむきになって、おかしなことで笑って、いくつかの話をした。ただそれだけ。何千年ものあいだ、毎日毎日この世の人間がせっせと繰り返してきたことをやっただけ。本当に、ただそれだけ。それだけのことを惜しんでいるのが、悔しいくらいだった。
「今夜はとっておきの料理を作るつもりだったんだ。 作れなくて、残念だ」
「だったら言うんじゃねえよ、いっそう惜しいだろうが」
「惜しいと思っているのかね」
アーチャーは笑った。さいごまでこちらの本気に笑う、失礼な男だと思った。
「惜しんで悪いかよ」
「いいや、まったく」
「――さいごにひとつ、いいか」
ランサーは朱槍を仕舞った。この段にきてどこかへ消えてしまうほどアーチャーは不誠実ではないはずだった。
「結局あんたはどうしてオレのところに来た」
その問いに、アーチャーは間抜けに口をぱかっとひらいた。さいごのさいごでそんなことを訊ねられるとは夢にも思っていなかった、というような顔だった。
アーチャーは少し口ごもった。ランサーの顔を見つめ、それから横を向いていつまでも朝食の時間がはじまらないテーブルのほうを眺めた。ベッドからの景色があまりにも新鮮だったのか、それともランサーの質問がむずかしかったのか、アーチャーは黙って数十秒そうしていた。どうしてと言われてもな、とやがて話しはじめる。
「本当に偶然だった。 私の仕事に、そもそも君はなにも関係なかったんだ。 私がヘマをして君の部屋の窓を突き破った。 最初に話しただろう、それがすべてだ」
「本当に?」
「もともと私はそういう存在としてうまれたわけではなく、人間として死んだあとに翼を授かった。 自分のものじゃないんだ、これは。 だからいまだに、うまく飛べない。 あの日電線に引っかからなかったとしても、いずれはこういうことになった」
「……」
「はあ、なにが納得いかないのかね」
真実とは得てしてそういうものだと、君も言っただろう、とアーチャーはため息まじりに吐き出した。
納得していないわけではなかった。そういうものだと頭では理解している。けれどこの出会いがなにか必然的な力によって起こったものだったとしたら、などという夢想が頭の片隅にあったのも事実だった。人間の真似事をして、脳みそがおめでたくなっていたのかもしれない。
「……まあ、そうだな、強いて別の言い方をするなら」
アーチャーがふとつぶやいた。
「運命、というやつだろうな」
「…………はああ?」
今生の別れの空気にはあまりにもそぐわない声をあげたランサーの胸ぐらを、今度はアーチャーが掴んで引き寄せた。鼻先どうしが触れあうほどの距離、アーチャーがこれまででいちばん下手な笑みを浮かべてランサーの視線を迎え入れる。
「こういうめぐりあわせをそう呼んだ男がいたのだ。 まったくもって、忌々しい言葉だ!」
7
つい、いつもの調子でマグカップをふたつ用意してインスタントコーヒーの粉を入れてしまった。ケトルの湯を注ぐまで気づかずに、瓶に戻すのも面倒で、ランサーは片方のマグカップをひっくり返してもう片方に粉を寄せた。湯はなみなみに注いだけれど、馬鹿みたいに濃いコーヒーが出来あがってしまった。
マグカップを手にベッドへ腰かける。ふわ、と羽根が舞った。シーツには変色した血液の染みがある。こんなものがあっては魂たちをこわがらせるとは思ったけれど、ランサーはそれを横目で眺めただけで新しいシーツを買うことを考えなかった。
「……まあ、洗えば薄くはなるだろ」
コーヒーを飲み終え、マグカップをシンクで洗った。日は暮れかかっていた。
ランサーは冷蔵庫を開けた。食材の詰まった棚を見まわす。用がないならさっさと扉を閉めろと叱る声はない。
食材はたくさんあった。肉も野菜も、調味料も。たくさんありすぎて、彼が今夜なにを作ろうとしていたのかさっぱりわからなかった。これだけ食材があるのだからなにか作ろうと思った。けれど、なにも作りたいものはなかったし食べたいものも思い浮かばなかった。
叱る声がないので、ランサーは扉を開けた冷蔵庫の前で食材たちをぼんやりと眺めつづけた。
8
「あすは生きるだろう」と君は言う。いつも「あすは」、「あすは」と君は言う
ならば言ってくれ、ポストゥムスよ、その《あす》とやらは、いつ来るんだ
マルティアリス 『エピグラム』第五巻
八帖ワンルーム。家具はベッドとローテーブル、ふたりがけの小さなソファ。玄関とキッチンはこぢんまりとしていて、その割にバスルームはだだっ広い。バスルームなんてシャワーしか使わないのだから、浴槽をもっと小さくしてその分キッチンがもう少し広ければ、と思う。
料理が得意というわけではないが、好きなほうではある。いつからか好きになった。
「鍵……鍵は……」
アパートの階段をのぼりながらパンツのポケットをあさる。右手にはスーパーの袋がぎちぎちに食いこんでいた。ちょうど同時にきらしたしょうゆとみそを買ったのだ。家を出る前に冷蔵庫の中を確認し忘れたから、適当にいろいろと食材を買ってしまった。さて、今夜はなにを作ろうか。
玄関扉を開けると、部屋の中になにかがいることにすぐ気がついた。彼はソファの背に、えらそうに腰かけている。あの晩のように窓は割れていなかった。
「窓割らなくても入ってこれるんじゃねえか!」
ランサーは声をあげた。左右揃った彼の翼は、美しかった。けれどそんなことを褒める間柄でもないので、とりあえず悪態をついた。彼がフン、と鼻で笑う。
「あれは事故だと説明しただろう。 やはり記憶力もよくないようだな」
それより、君、と。ランサーを頭のてっぺんから爪先まで眺めまわしたアーチャーが苦笑する。
「人間に、おちたのだな」
「……はっ、」
今度はランサーが笑う番だった。オレが人間になったから、あんたはここに来たんだろう、と。
「あの頃すでにイエローカード状態だったんだよ、子どもの魂を送るのに失敗しすぎててな。 そこにあの火事の失敗が重なって見事クビってこった」
「失敗したのかね、結局」
「誰かさんが救ってくれねえまま姿消しやがったからな」
「人のせいにするな、自分の仕事だろう」
それに、とアーチャーは腕を組んでランサーへじっとりした視線を送る。
「こうして今、君のもとへ来た」
「たわけが」
ランサーはアーチャーの言葉を一蹴した。靴を抜いてどかどかと部屋へ入る。スーパーの袋を床へどさりと置き、おい食べ物を粗末に扱うな、というアーチャーの小言を聞き流して彼の目の前まで歩み寄った。
「なあにが君のもとへ来た、だ。 これも世界の意志ってやつなんだろう?」
「まあ、そうではあるが……」
「馬鹿正直かよ、そこはオレに会いたかったって嘘でも言えや」
中指を立てたが、それはアーチャーに振り払われた。
「誰が言うか、そんなこと」
「神様業をクビになった不幸なオレをしあわせにしてくれるんじゃねえのかよ」
「……他に、なにかあるだろう」
本来これは本人に訊くことではないが、とアーチャーは肩を竦める。羽根が舞った。真っ白で、やはり天使のようだった。
「ランサー、君はなににしあわせを見出す?」
君の幸福のために、私はいくらでも尽くそう、と言うアーチャーの顔が真面目だったので唇をかたく引き結んでいたけれど、それはなんとも熱烈なプロポーズのようで恥ずかしかった。見放されては困るので、それは一生口に出すまいと思った。
「そうさなあ……」
ランサーは顎に手をあてて考える、素振りをした。答えはとっくに決まっていた。失ったしあわせをもう一度味あわせてほしかった。ランサーの答えを静かに待つアーチャーの目を見返す。しあわせはすでに半分、手に入ったようなものだとも思った。
「あんたの手料理が食いてえ。 なんでもいいから、オレのためにまた作ってくれよ」
食材はめいっぱい買ってきたばかりだしな、と、後ろで中身を垂れ流しているスーパーの袋を指すと、アーチャーはあからさまに驚いた様子を見せた。そんなことでいいのかと言いたげだったけれど、彼はそうは言わなかった。彼はきっと、人のしあわせを「そんなこと」などとは言ったりしないのだろう。
「……料理を作れば、いいのかね」
「おう」
「君のために?」
「そんで一緒に食ってくれると、嬉しいんだがなあ」
「はあ、」
困惑のまじる返事だったけれど、ついぞ笑うのが下手くそだったアーチャーの口もとがゆるやかに弧を描いているのをランサーは見逃さなかった。
「……そうか。 私の料理などで君がしあわせになってくれるのなら、それはとても、喜ばしいことだ」
「ほら、じゃあ晩メシ考えようぜ」
ランサーはアーチャーの手を引く。アーチャーは床に脚をついた瞬間少しよろめき、しかしすぐに体勢を立て直してランサーのあとをしっかりとついてきた。
アーチャーの手はやはりあたたかかった。ランサーは腹からこみあげてくる言い表しがたい激情にまかせるようにして、彼の手を握る指先にぎゅうっと力をこめたのだった。