つぶれてもらっちゃ困るんだ。
無くしたくない。
いつかこの場所に知らない建物が建つとしたら、僕はその光景を直視できない。
https://o-temoto.com/akiko-kobayashi/miyotanohiroba/
この文章は、長野県御代田町に有志がつくり、そしていま存続の危機にある「みよたの広場」のクラウドファンディングについて書いたものだ。ただ、クラファンに参加しなくてもこの記事を読んだ人に何かが残るように、と力を尽くして書いた。約4年ぶりのnote。どうか、お付き合いいただきたい。
誰とも話せなくなった男の話
web連載、『弱さ考』にも書いたが、僕は双極性障害を発症し、今も完治していない。ITスタートアップに入社し、「デキるビジネスパーソンになるのだ!」と走り抜けた挙句、倒れた。うつ状態に陥り、働けなくなった。
御代田町に来たのはちょうどその頃だ。
ある夜のこと。家族でご飯を食べていたら、遠くからお祭りのようなざわめきが聞こえる。きっとそう遠くない。音をたよりにその場所へたどりつくと、「みよたの広場」と書いてあった。
大きな橋を渡って「広場」に入ると、たくさんの大人から子どもが集って、地域のお店が出店したり、子どもたちが音楽の発表会をしたりしていた。月一回、この場所で「夜市」を開催しているらしい。真ん中にはキャンプファイヤーさながらの焚き火が鎮座し、ぱちぱちと火をはぜていた。当時、重めのうつ状態で誰とも話せなかった僕は、ずっと一人で焚き火を眺め続けていた。
「焚き火を眺めていた男」を眺めていた男の話
この広場は、「みんなの広場」を目指しているそうで、置いてある道具のだいたいは誰でも使っていいらしい。
ある日、うつで単純作業しかできなかった僕は、「薪をハンマーで割ってさらに小さくする」を無心で繰り返していた。
「あの、夜市でずっと焚き火眺めてた人ですよね?」
おもむろに、モジャモジャ頭の人が話しかけてきた。聞けばここの管理人的スタッフで、名前はジョージというらしい。あだ名だそうだ。
明らかに「お猿のジョージ」からとっている。確信したが、口には出さずにおいた。
「薪、割ってみます?」
ジョージ🐒は大きめの斧を持ってきた。
「空振りしても足元に落ちないように。怪我だけはしないでくださいね」
ジョージが見守るなか、僕はおそるおそる斧を振り下ろす。
「お、なかなかいいっすね🐒」
「ありがとう」と看板に言われて泣きそうになった話
広場の一角には「ありがとうの薪」という場所がある。ここにみんなで割った薪を積み上げていき、イベントなどの時に使うのだ。僕は最初、その「ありがとう」の文字に、一瞬、鼻がつーんとした。あぶない。あやうく涙が出るところだった。
最後に自分が誰かの役に立っていると思えたのはいつだったろうか。
久しぶりにできた薪割りという「役割」。「役割」をもらったことでみよたの広場は僕の「居場所」になった。
それから、開催されているイベントにちょくちょく顔を出すようになった。
月一回のカレーづくりの日は、みんなでつくるこども食堂だ。
この日は、子どもも大人もみんなに「役割」がある。火を起こす人、火が消えないように薪をくべる人、野菜やお肉を切る人、お米を研ぐ人。「ご飯ができたよー」と言って回る人。お皿を洗う人。はじめましての人にも、子どもにも大人にもみんな役割がある。だから、「居場所」になる。
よき「おじさん」になりたいと思った話
一人の子どもが大人へと育っていくには、「ナナメの関係」が欠かせない。伊丹十三という人は、『mon oncle(モノンクル=フランス語で「おじさん」の意)』という雑誌を創刊する際、次のように語った。これが、なんとも粋なのだ。以下、1981年の「文藝春秋」7月号から一部引用する。
伊丹にとって「おじさん」(あるいはおばさん)とは、こんな存在だ。
「なんだか嬉しい存在だと思うんですね。その人が居てくれるというだけで、なんとなくホッとするようなね、なんか気が楽になるような」
「親の価値観に(閉じ込められているところに)風穴をあけてくれる」
(親はケガを心配して教えてくれない)「カーブの投げ方を教えてくれ」る。
そしてこっそり「コーヒーなんかを飲ましてくれたりする」。
一言で言えば、伊丹十三は、「親だからこそ果たせない役割がある」と言っているのだ。親が無意識に閉じる世界に、風を通してくれる人たち。
今、僕の娘には、広場で出会った、互いに名前も顔もわかっている「おじさん・おばさん」的存在が軽く20人はいる。そして、子ども同士でも、学校も学年も超えたナナメの関係が築かれている。この広場には、もう何千、何万もの「ナナメの関係」が結ばれている。
用事の話
娘はいつしか、驚くほどの広場っ子となっていた。広場では毎週水曜夜は必ず焚き火イベントがあるのだが、娘はそれを大の楽しみにしていて、初回からなんとまだ一回しか欠席していない。
極寒のとある日、「今日も行く?」と、(内心「今日はやめとく」の返事を期待しつつ)聞いてみたら、娘は嬉しさを隠せない様子で言った。「う〜ん、でもあるからなあ〜」。
そう、「ある」んだよな。
娘からすれば、焚き火は自分の「役割」がある「用事」なのだ。甲斐甲斐しくマシュマロの上手な焼き方を教えたり、チキンラーメンのお湯が足りているかを見張ったり、火は一瞬なら触っても熱くないことを教えたりと、とにかく忙しいのだ。
僕もそうだ。薪を割る用事があるから広場にいく。焼き芋をする用事があるから行く。「今日はみんなで焚き火エリアの防寒工事をする」用事があるから行く(月に一度「広場づくりの日」があり、みんなで広場をつくっていく)。なお、どのイベントも「はじめまして」大歓迎だ。
「用事」があるから人は集まる。いや、本当は誰かに会いたいのだけど、何もないと集まれないから、「用事」をつくる。
「用事」をアウトソースすることがサービスとなりお金を生むこの世の中で、わざわざ「用事」をつくってみんなが集まるのがおもしろい。
きっと、集まりたい人はたくさんいるのだ。ただ、人は集まることだけを目的としては集まれない。そこには何か「用事」が必要で、焚き火を囲んだり、薪を割ったり、カレーを作ったり、「役割」があってはじめてそこが「居場所」となる。そこから、ナナメの関係性が生まれていく。
ちなみに、ただ遊びにくるだけの人も大事な「役割」を果たしている。ふらりと遊びにきてくれる人たちこそが、この場所を「広場」にしてくれているのだから。
まだここに何もなかった頃の話
僕はただ雑草が生えていただけだったこの場所が、広場になるまでを知らない。
(この記事のほとんどの写真は仲間にもらった)
やっぱりこの場所はなくしちゃいけない。
会うはずのなかった人が出会う場所。ただ会うだけでなく、ナナメの関係が生まれる場所。
この場所はまだまだこれからも無数の「用事」を作り出していく。「役割」を生み出していく。そして、僕以外にもいろんな人の「居場所」になっていくはずなのだ。たった3年ぽっちで無くなってもらっては困るのだ。
僕は前のマンションに6年間住んだが、ついに一人の名前も知ることなく引っ越してしまった。
近所の公園にも数えきれないほど通ったが、誰かに話しかけることも、話しかけられることもなかった。そこには用事も役割もなく、ただ与えられた機能だけがあった。
みよたの広場は違う。そこに関わる人でつくっていく。子どもも大人も。用事を、役割を。だからこそ、関係性が育つ。そして居場所になる。
きっとこの場所がいつか、「失われた地域コミュニティの新しい形だ」と振り返られる日がくる。「まちの真ん中にこんな場所があることが、御代田のいちばんの魅力だ」と言われる日がくる。
僕はその日に向けて、もう役割を負っている。だから運営スタッフでもクラファンの発起人でもないのに、こんな文章を書いている。
「お金を出してほしい」とお願いするのが後ろめたい話
このクラファンは広場の存続のためにある。だから僕は「可能なら、ぜひみなさんもお金を出してください」とこの場で頭を下げる。どうか、お願いします。それだけの価値がある場所なんです。
でも、やっぱり「お金を出してほしい」と正面から頼むのには、後ろめたさが残る。だからせめて、言葉を尽くして説明してみたい。
もしあなたがこの記事でみよたの広場を初めて知った人だとして。
このクラファンにお金を出すことの意味は、いったいどこにあるのだろう。
先日、ゆうすけがうちに遊びに来た。ゆうすけとはジョージ🐒の本名である。いまはもう、ただの友人なのだ。
彼は広場をつくってきただけあって、DIYはなんでもできる。その日、僕は「庭に薪棚をつくりたいから一緒に考えてほしい」と相談していた。
「こんだけいろいろしてくれるんだったら、お金払うよ」
僕がそう伝えると、ゆうすけ🧑🦱は言った。
「いやいや、そんなすぐ清算しようとしないでいいから」
そうか。
何かを消費と捉えると、お金は清算のためのツールだ。
お金は、ときにとてもドライに見える。なぜなら、お金は関係をいったんそこでリセットさせるからだ(それが必要な場面はたくさんある)。
ただ、お金はあえて未清算の状態にしておくことで、「関係性を始める・続ける」ためにも使うことができると、僕はゆうすけの一言に気づかせてもらった。
このクラファンはさまざまなリターンを用意している。ただ、どうしても未清算の部分は残る。クラファンはその存在意義から言って、等価交換ではありえない。
だから、このお金から関係をはじめませんか。みよたの広場と。そこに関わる人々と(オンライン上に、支援者も入れるDiscordという場をつくります)。
もし広場を存続させるという「役割」を担ってくれたなら、実際に足を運べなくても、みよたの広場はもうあなたの居場所なのだ。
本当のリターンとは何なのかという話
もうすぐ春が来る。
もし近くにいるのなら、草でも一緒に刈りませんか。もし遠くにいるのなら、クラファンが終わっても、みよたの広場のチャレンジと、そこで起こる出来事を見守っていてくれませんか。
日々の様子はインスタで発信されている。近々、ポッドキャストも始まるようだ。
最後に。
この広場をいま走り回る子どもたち・これから来たるべき子どもたちが、大きくなったとき「あの広場ってなんかおもしろかったよね」と振り返ってくれること。
そのときには、もう自分は顔も名前も思い出せない1人の「おじさん」になっているだろう。それでも、僕にとってそれ以上のリターンはありません。
あらためて、ご支援をどうかよろしくお願いします。
クラファン実施の背景と今後の見通し
これまで広場の運営は、日本財団の「子ども第三の居場所」助成金に支えられてきましたが、2025年3月で助成期間が終了します。
運営が始まった当初からずっと、土地の貸主である町と家賃の交渉を懸命につづけてきましたが、「前例がない」という壁に阻まれており、存続が危うくなっています。
※2026年度以降については、年間1万円支援してくれるフェローを集めることで継続していきたいと考えています。



コメント
3「いやいや、そんなすぐ清算しようとしないでいいから」
金銭価値が目的化し、主従が逆転した私たちの価値観に気づかされる、素敵な言葉ですね。
ありがとうございます!そうなんですよね。ハッと気付かされました
私も強いビジネスパーソンになりたくて3社目で事業開発をやっているのですが、全くうまくいかなくてふさぎ込んでいる時に井上さんの記事や著書を拝見しました。
非常に救われたので何かしらの形で支援させていただきたく、また何かの折にクラファンを復活していただきたいです。