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【吉本隆明「共同幻想論」を読む】 「1,禁制論」 国家とはなにか?  <ことばの森を逍遥する>

国家と国家のあいだで起こる戦争の原因について、個人の心理に擬して説明しようとする言説が世間にはたくさんあります。国家といえども個人の集合体だと見なせば、個人の心理になぞらえて国家を語ることには、それなりの理由と説得性があるようにみえます。じっさい敵に対する怨嗟感情などが、国民ひとりひとりに共有されて、それが戦争遂行の根拠になっているとみえることは大いにありうることでしょう。

けれども吉本は、自身の戦争体験からして、こういう見方には大きな疑問をもったのではないかと思えます。1924年生まれの吉本は、戦争中には10代後半であり、本人も述懐しているように、軍国少年として皇国日本を心から信じていたといいます。ところが、敗戦と決まったとき、少年たちに軍国主義を教えていた大人たちは、徹底抗戦も玉砕もすることは、信奉していたはずの価値観を180度ひっくり返えして、まるで平気であるようにみえたのです。

そのとき多感な少年であった世代の者は、「これはいったいどういうことか?」という衝撃を、多かれ少なかれ受けただろうと思われます。とくに文学や思想に傾倒していた吉本は、この問題をどうにかして解き明かしたいという課題を抱えたのだと思います。もし、国家を構成している国民ひとりひとりの感情や思考の集積が、国家の意志や行動を決めているとするなら、そんなに簡単にみんなが掌を返せるわけがない、これが出発点のようにみえます。

この問題を解くためには、人間とはそもそも何か?国家とはそもそも何か?について、考えなければならないはずです。多数の個人のたんなる集積が国家になるわけではないとしたら、そこにはいったいどんな構造や原理があるのかを考える必要があるということです。

戦争体験によって明瞭になったことは、国家はひとたび暴走をはじめると、国民はそれを制御することができなくなるということです。国民ひとりひとりの意志が国家の行動を決めるのではなく、国民ひとりひとりは国家に隷属させられ拘束されてしまうということです。これは力(暴力)によって強制されるというだけではありません。国家機関が国民を洗脳するという動きはもちろんあるにしても、むしろ国民みずからがすすんで洗脳され飼い馴らされるような流れができてゆくのです。すくなくとも戦争のような局面では、このような動きが決定的に不可逆の流れをつくりだしてゆき、有無を言わせぬ圧力になってゆくのです。この構造を、なんとか解明しなければならない、この課題が吉本にはあったと思います。

では、具体的な記述の内容をみてゆきたいと思いますが、まず注目されるべきところは「対幻想」という概念です。ここで吉本が設定している「対なる幻想」という概念こそ、この論考の独自性の高さを示すものと思われるからです。

『フロイトは人間の<性>的な劇をまったく個人の心的なあるいは生理的な世界のものとみなした。このかんがえには疑問がある。ごくひかえめに見積もっても、この<性>的な劇を<制度>のような共同世界にまでむすびつけようとするときには疑問がある。そこで人間の<性>的な劇の世界は個人と他の個人とが出遭う世界に属するもので、たんに個体に固有な世界とはみなすべきでないとかんがえるべきである。そしてこのフロイトの心的な世界を<対なる幻想>の世界とよぶことができる。』

ふつう、国家や社会などという共同性の問題を考えるばあい、個と共同性がどういうふうに関係するか?というふうに問題設定をするのが一般的です。ルソーにはじまる西欧近代思想では、共同性(一般意志)と個人(個別意志)の関係が直接に問われることがスタンダードです。これに対して吉本は、共同性と個人いう両極の中間に、家族(性関係)というレベルを明瞭に導きいれます。個人/家族/共同性(社会)という三つの段階を想定するわけです。家族(血縁)を想定すること自体は、べつにオリジナルな考えではありません。けれども、家族の概念を「対幻想」という名称で呼ぶことによって、個/対/共同という三つのレベルを構造的かつ原理的なものとして捉える視点を提起したことは、とても独創的だといえるでしょう。

ベネディクト・アンダーソンは、ナショナリズムの対象になる近代国家なるものが、それほど古いものではなく、人々の想像の共有によって生み出されたものだということを「想像の共同体」で指摘しました。けれども「想像の共同体」が、そもそもどんなふうに発生し、それが歴史的にどう進展してゆき、どうして近代国家という強固な現実に転化してゆくのか?その道筋を原理的にきちんと解析できるような論理は、いまだに存在していません。「共同幻想論」は、それを解明するための試みとして、とてもスリリングなものだといえます。

個人における精神の病を究明するなかでフロイトが主戦場とみなした「性」的関係の世界、それは人間が個人として精神的に存在するにあたっての、もっとも基底的な関係世界だと、そう吉本は考えたはずです。ただフロイトは「性」を個人的なもの生理的なものとみなしたのに対して、吉本は「性」の本質は幻想であり人間の「性」は自然をはるかに離脱したものであると見なしました。それはもともと社会理論家ではなく、文学者である吉本の真骨頂といってよいのかもしれません。対幻想という問題設定は、まさに文学のメインテーマだといってもいいからです。

個別(特殊)と共同(一般)の関係を追究する西欧の近代思想の流れにあって、性関係を人間の本質として主題化したことは、思想の潮流をラディカルに転換したフロイトの功績としておおいに評価されてしかるべきでしょう。しかしフロイトはじめ、その流れを汲むフロイディアンの思考は、どうしても精神医療という範疇にあるからでしょうけれども、個人の精神の在り方を解析する方向へとむかいます。これにたいして、「性」を個人と個人が幻想を共有する本質的関係としてとらえ、個人と共同性(社会性)のあいだに「性」としての人間(対幻想)という視点を構造的に持ち込んだ吉本の着眼は、この意味でとてもオリジナリティの高いものといってよいのではないでしょうか。

『ここで問題があるとすれば、禁制もまた共同性をよそおっていると黙契とおなじみかけであらわれてくることがありうるということである。このときには、わたしたちはなんによって共同の禁制と黙契とを区別できるだろうか?共同の禁制は、制度から転移したもので、そのなかの個人は幻想の伝染病にかかるのだが、黙契はすでに伝染病にかかっているものの共同的な合意としてあらわれてくる。わたしたちの思想の土壌のもとでは、共同の禁制と黙契とはほとんど区別できないような形であらわれる。禁制はすくなくとも個人からはじまって共同的な幻想にまで伝染してゆくのだが、個人がいだいている禁制の起源がじつはじぶん自身にたいして明瞭になっていない意識からやってくるのである。知識人も大衆もいちばんおそれるのは共同的な禁制からの自立であるが、このおそれは黙契の体系である生活共同体からの自立のおそれとじぶんの意識のなかで区別できていないのだ。いいかえれば<黙契>は習俗をつくるが、<禁制>は幻想の権力をつくるものだということがつきつめられないままでつながっている。』

おそらくここで言われていることは、この国に蔓延する“空気による支配”というような現象に通じていると思われます。黙契は、いわば秩序を維持することへの同意(参加)であり、人間は本質的に社会性のなかでしか生きられない以上、黙契による共同性への同意は、生存のための必然条件と見なされるでしょう。まったく共同性を無視して、それぞれが自分勝手好き放題にやることは社会の破綻を意味します。共同性(秩序)への黙契(参加)は、人間が人間として生きてゆくための条件です。

一方で、禁制は、じっさいにはそれがどんなに不合理なものであっても、共同性によって制度化されてしまうと、個々人はそれに抵抗できなくなるような拘束性を意味します。この国ではこの禁制が、明瞭な法や制度として顕在化しているものだけではなく、なんとなくの“空気”や“同調圧力”のようなものとして潜在的にある傾向がたかいように思えます。明治以降、西欧の近代国家制度をどんどん輸入してきているので、表面的には法治国家・民主制国家のような体裁を整えてはいますが、内実としては黙契と禁制が綯い交ぜになった不明瞭な「掟」によって支配されている部分が多いのではないでしょうか。

もしそうだとすると、この国に特徴的な、この空気による支配という共同幻想は、いったいどういうところからやってくるのか、それがこの論考のひとつのモチーフだろうと考えられます。そこで表向きの形式的な国家制度(西欧からの輸入品)などと向き合うのではなく、この国の民俗的な特徴を独自の視点から研究した柳田国男、そして国家成立の経緯を記したとされる古事記に注目したのだろうと思われます。

<黙契>は、あるいは空気のようなもの、明瞭に顕在化されていないけれども当然の圧力として存在する暗黙の縛りのようなものを指していると思われます。かつて山本七平が「空気の研究」で追究したことと重なります。一方<禁制>は、その起源においては個人的なレベルであったかもしれないものが、いつしか制度として確立され、明瞭に顕在化された共同の縛りを指しています。ある意味で<黙契>は雰囲気として存在するにすぎませんが、<禁制>は法に転化することで強制力(権力)として機能していきます。ただし日本では、空気と法のあいだに、はっきりした境界線を引くのがむずかしく、場合によっては、法よりも空気の方が個人を支配する力が強いという傾向を否定できません。

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そのあたりのことを考察するために、まず吉本は、「遠野物語」にある民譚を引きながら、<禁制>の発生する起源を探る記述へとはいっていきます。「遠野物語」では、遠野の村人が深い山中へ出かけて行って、そこで<山人>に出遭うという体験譚がいくつか語られています。吉本はそれらの体験を科学的には幻覚であるとみなして、<入眠幻覚>というキーワードを提出しています。

『・・(略)・・ 猟師は、たやすく山人に出逢い、山人を銃で撃ち、山人と話を交わすという入眠幻覚をうることができるはずである。
 これは、わたしたちがだれでも一度くらいは体験したことのある精神病理学上のいわゆる<既視>体験に似ている。』

民俗学はそういう方向へは考えないけれども、山の中で山人に出逢ったという話は、心理的な幻覚であると吉本はかんがえます。村人には村(共同体)の外部(異界)にたいする恐怖や忌避などの共通感情がそもそもあって、それが深い山中で道に迷うなどの不安に触発されたとき、現実感の高い幻覚となってあらわれるものと解釈しています。じっさいに山の中に村人とは異質の人たちがいたとしても、それじたい不思議なことではないでしょうが、仮にそうであったとしても、あまり議論の本質にはかかわらないことだといえます。なぜなら、ここでは、人間は幻覚や幻聴などを、あたかも現実として体験することがありうるということが重要だからです。

『「遠野物語」のなかの山人譚を入眠幻覚の一種としてうけとったとき、この山人譚とわたしたちの現代的な<既視>体験とどこがちがうのだろうか?』

入眠幻覚は、夢うつつの朦朧状態で見る幻覚ということですが、現代の都市生活でふつうの生活者が入眠幻覚を体験することはあまりないでしょう。ただ、<既視>などはだれでもが体験するようなことであり、心的現象としては、それとあまりちがわないのだと吉本は指摘しています。わたしたちの知覚や体験が、科学的には“まぼろし”でありうることは自明の事実です。異人や妖怪や変化などに出遭う体験を、すべて幻覚で片づけてしまうのはちょっと単純すぎる気もしますが、問題はそのことの当否にはなく、もしある人が異人や妖怪や変化に出遭うのだとしたら、すくなくともその人は、異人や妖怪や変化の存在を無意識のうちにも信じているのでなければならない、というところがポイントです。

『「遠野物語」の山人譚は、猟師が繰返している日常の世界からやってくる<正常>な共同の幻想である。しかし、わたしたちが体験する<既視>は、日常の世界とはちがった場面で出遭いそして感ずる個人の<異常>な幻想として意味をもっている。このちがいは日常生活に幻想の世界をよせる大衆の共同幻想と非日常的なところに幻想の世界をみる個人幻想との逆立を象徴しているようにおもわれる。』

さて、ここは何を言っているのか、ちょっとわかりにくいところです。入眠幻覚と既視体験は、心理作用としては似ているけれども、構造的にはべつのことだといっています。入眠幻覚は、人々によって共同化されている幻想が先にあって、はじめてそれを体験できるものです。幻想は共同化されているものですから、その共同体の内側ではまったく<正常>な体験です。これに対して既視体験は、まったく個人的な思い込みのようなもので発生するものです。この二つが、個と共同の<逆立>を象徴しているというのですが、どういう意味かはすんなりとは理解できません。

この「個と共同の<逆立>」というのが、この本のいちばんのテーマなわけですが、どうしてこれが<逆立>であるのかを、吉本はほとんど説明していません。<逆立>は、当然のことだからなのか、ちょっと言葉では説明できないことだからなのか、本の全体を読めばわかるはずのことだからなのか、いろんな言い方が可能でしょうが、しかしここが了解できないと、この本の主旨が理解できないことになってしまいます。
わたしなりの解釈をすこし試みてみます。まず共同幻想の性質ということについて、こんなことが指摘できると思います。多くの人によって共同化された幻想、それは幻想(嘘)であるにもかかわらず、“共同化されている”というそのことによって、つまりだれにでも共通に存在するということによって、それが幻想(嘘)であることはだれにも認識できないはずで、けっきょく幻想(嘘)であるにもかかわらず“現実”として機能してしまうということです。ようするに、共同幻想は、現実として独り歩きしてゆくということです。

では、なぜ、それは個人幻想と<逆立>するのか?ここが問題です。もし幻想(嘘)がほんとうに十全に共同化されているのであれば、だれもがそれを信じているのですから、<逆立>することはないのではないのか、そう考えられます。

逆立の前提として考えられることは、こういうことではないかと思います。ひとつには、規模の問題ということがあるのではないでしょうか。ちいさなサークル等であれば、共同性と個とが矛盾や軋轢を起こす頻度はすくないでしょう。けれども、大きな組織になればなるほど、共同性と個とはどんどん距離がはなれてしまいます。もしそこに矛盾や軋轢が発生すれば、個にとって共同性は圧倒的な抑圧として作用するほかない、つまり<逆立>するしかないという事情です。

もうひとつは、自由度というような観点からも考えられます。規模の問題にリンクしますけれども、大きな規模の組織は、フレキシブルな柔軟性をもつことが難しく、どうしても制度として固定化してしまうという傾向があるだろうと思います。個には、それなりの自由度があって、ある程度は柔軟な変化が可能であるにもかかわらず、共同性は固定性から逃れられないので<逆立>が際立つというような事情です。

しかし、それだけで、必ず<逆立>するというような強い言葉で、その関係を規定してしまうことができるでしょうか?ここには、やはり権力という問題が介在するはずです。共同幻想論では、権力の発生機序や、その構造や、その存在理由については、あまり触れられることがありません。あくまでも「自己幻想」と「対幻想」と「共同幻想」、この三つの幻想関係ついて解明することがテーマとされています。権力がこの世に存在していることは既定の事実であるため、そこはいったん括弧に入れてもいいということかもしれません。いずれにせよ、<逆立>の意味を解き明かすためには、そもそも権力関係とは何かを、ほんとうは問わなければならない気がします。

ここでは、なぜ<逆立>が必然なのかについては、いったん留保することにして、この先の記述を読み進んでみたいと思います。

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吉本は、共同幻想を問題にする論考の入り口として、まず禁制(タブー)という切り口から接近していきます。やや長い引用になりますが、こんなふうに述べています。

『じぶんにとってじぶんが禁制の対象である状態は、強迫神経症とよばれているもののなかにもっとも鮮やかにあらわれる。そしてこの状態はあらゆる心的な現象とおなじように、例外なく共同の禁制と逆立してあらわれるはずである。しかし、<正常>な個体は大なり小なり共同の禁制にたいして合意させられている。そしてこの合意は黙契とよばれるのである。黙契においても対象となるものはかならずある。そしてその対象はある共同性の内部にある。<かれ>の意識にとって対象が怖れであっても崇拝であってもいいことは、禁制のばあいとおなじだが、ただ<かれ>の意識は共同性によって、いわば赦されて狃れあっているという意識をふくんでいる。禁制ではかれの意識はどのように共同性の内部にあるようにみえても、じつは共同性からまったく赦されていない。いわば神聖さを強制されながらなお対象をしりぞけないでいる状態だといえる。禁制の対象が<共同性>であったばあいの個体にとっても事情はおなじである。ある幻想の共同体が、ある対象を、それが思想であっても、事物であっても、人格であっても共同で禁制とかんがえているとき、じつはそのなかの個人はその禁制の神聖さを強制されながらその内部にとどまっていることを物語っている。わたしは、ここでたくさんの現代的禁制とそれにたいする諸認識の真相を例としてあげることができるだろう。しかし、それらはおおくはつまらないものである。禁制が支配している共同性は、どんなに現代めかしていて真理にたいしてラディカルにみえても、じつは未開をともなった世界である。』

フロイトが明らかにしたように、人間というものは100%自分の意志で自分をコントロールしているわけではありません。自分ではコントロールできない部分、つまり無意識が必ず残ります。“残る”というと小さい部分のようですが、じつは意識よりも無意識のほうが本質的かつ不可避だということもできます。なぜなら、意識は意志によって変えられるものですが、無意識は自分ではコントロールできないものですから、場合によっては暗黙のうちにそれに強いられるしかないものだからです。

禁制(タブー)は、自分たちで自分たちの意識を縛るものです。それは、法と刑罰に代表される強靭なものから、世間の空気、同調圧力、思いなし、共感、絆・・・などの緩やかなものまで、さまざまなものがありうるでしょう。けれども、禁制(タブー)のようなものは、どんなに科学的意匠をまとっているようにみえても、未開の心性の延長であると吉本はいいます。おそらく、それは個々の禁制(タブー)の中身に根拠があるかどうかということではなく、無意識の通路を媒介とするとこで、個々の意識が共同性の意識(共同幻想)によって拘束されるという構造そのものが、未開の心性によって維持されているからだということでしょう。

禁制の場合、個々の意識は、共同性の内側にあるけれども、けっして共同性から赦されてはいないという言い方は、共同幻想の両義性をよく表現していると思えます。個々の意識にとって共同幻想は外部からの強制力として働きますが、また個々の意識はその共同性に内包されていることで安心を受け取ることができるのです。

個々の心的な過程の側からみれば強迫神経症に似ているというのは、なかなか適切な比喩ではないでしょうか。たとえば、借りてもいない借金(負債)を返さなければならない脅迫観念に取りつかれているという神経症を考えてみるとします。じっさいには借金をしていないのですから、この脅迫観念に、現実的な根拠はありません。けれども借金を返済しなければ、彼は罪悪感に苛まれ苦しくて仕方ないわけです。それが偽りだと意識できていても、脅迫は簡単には消えません。彼としては借金を返せばとても楽になり安心できるはずだという観念から解放されることはありません。神経症は病ですから、借金を返す行動を実際にとったとしても、その行為によって物事が解決するわけではなく、強迫観念はその後も繰り返しやってきます。

強迫神経症の場合、その症状がやってくる原因は、錯綜していたり混乱していたりするはずですが、たぶん個人的な精神生活領域に求められるはずです。個人的なものなので、周囲の共同性とは一致せず、病(特殊性)として現象するほかありません。しかし、もしこの脅迫観念が、共同幻想に由来するとしたらどうでしょうか?その場合は、当該の観念が共同体によって共有されているわけですから、個人的な脅迫性ではないわけであって、病(特殊性)としては現象しないはずです。客観的な根拠からいえば不合理な脅迫でしかないものでも、それが共同体の全員に共有されているのであれば、だれもそれを不審(異様)に思う者はいないはずです。むしろ彼は、その共同の観念に従うことによって、安定や安心を得ることができるはずです。

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さて、吉本は後記で、遠野物語を取り上げたのはたまたまだ、というような言い方もしていますが、なぜ柳田国男の遠野物語でなければならなかったのかについて、こんなふうにも述べています。

『かれ(柳田)が遠野の村人が語ったという聞き伝えのどこに興味をおぼえたかは、その文章からすぐに了解される。それは、しぼってみれば村人たちの<恐怖の仕方>ともいうべきものである。恐怖の迫真力は、直接体験にちかいほど大きいとしよう。そして直接体験からへだたって、たとえば村の古老の誰某の体験だとか、村の誰某が実際に体験した話を聞いたのだが、というような媒介が入りこむほど、迫真力がおとろえると同時に虚構が入り混じり、虚構がますにつれて<恐怖>は、いわば<共同性>の度合を獲得してゆく。「遠野物語」は、この又聞き話とそうだ話という位相で直接体験と接触している。この独特な位相が柳田民俗学の学的な出発の位相をよく象徴しているということができよう。』

明治以降、西欧から輸入された近代合理主義に席巻され、異人や妖怪などが登場する民譚が、不合理で無意味なものとして切り捨てられてゆくなか、柳田国男はそういうところにこそ大切な何かが隠されているという嗅覚のようなものをもって日本民俗学の始祖となったわけです。おそらく吉本も、西欧から輸入された間に合わせの合理主義的な制度を捏ね繰り回しても、この国の本質は掴めないだろうと考えたはずです。

恐怖や不安のような感情は、人間にとってたいへん本質的なものと考えられます。自然と一体化して生きている他の生物たちは、直接的な危険に遭遇したとき、たとえば捕食者に見つかったときには震え上がる恐怖を感じるかもしれませんが、人間のばあいのように幻想にもとづく得体のしれない恐怖や不安を感じることはないだろうと推測されます。人間というものは、長い歴史のなかで、自然と一体になった直接体験を、徐々に意識的なもの(観念)に転化するようになったことにより、感情を刺激する要因をも抽象化するようになったと考えられます。喜びや安心のようなプラスの感情は、おそらく恐怖や不安のようなマイナスの感情が先にあって、その「マイナスがない」状態を基礎とするはずです。どう処理すればマイナス感情をうまくコントロールできるかは、人間にとって究極の課題だと思われます。

民譚のなかで触れられる「恐怖の体験」は、このマイナス感情を処理する場合の人間の基本的な習性のようなものを表わしている、そうみなしたということでしょう。個人が向きあう直接的な恐怖体験、それは“お話”として周囲の人たちに共有されて徐々に抽象化されてゆくことで、恐怖の直接的な衝撃性を弱めてはゆきますが、共有化されたものとして飼い馴らされて、ある種の普遍性を獲得してゆくのではないでしょうか。

『しかし、すべての怪異譚がそうであるように「遠野物語」の山人譚も高所崇拝の畏怖や憧憬を語っている伝承とはおもわれない。そこに崇拝や畏怖があるとすればきわめて地上的なものであり、他界、いいかえれば異郷や異族にたいする崇拝や畏怖であったというべきである。』

この指摘をどこまで言葉通りにとるかは、やや留保がいるように思います。他界への崇拝や畏怖などを喚起するものが、じっさいの異郷や異族との接触経験だろうということは、おそらくその通りなのかもしれません。国家成立以前の状態を氏族社会の段階であると想像するならば、自分たちの親族(氏族)集団を内側の世界だと考え、他の親族(氏族)集団を外側の世界だと考えることは自然なことといってよいでしょう。けれども、歴史時間的な経緯として考えるとき、まず孤立した集団が先にあって、のちにその集団が、他の孤立した集団と出遭うという想定がその通りかどうかについては留保がいるのではないでしょうか。ある一定のエリアのなかに、複数の独立した集団がバラバラに暮らしていた状態をかんがえるばあい、それが原始的な段階であったとしても、そこに暮らす人々には全体を俯瞰するような認識が十分になされていたと、そう考える必要があるのではないかと思われます。

もし、そうであるならば、異族(他者)との接触は、敵対や恐怖の対象であるばあいもあるでしょうが、融和や親近の対象であるばあいもおおいにありうるはずです。人類の始原的な状態が、必然的に異族(他者)との対立であったというホッブズ的想定は、ある種の偏見ではないかという気がします。現状の自然界を観察してみても、生物と生物との関係は敵対が基礎になっているとは、とうてい思えません。ある条件で敵対することが避けられないとしても、俯瞰的な目で見れば自然界は共生がベースになっているはずです。地上的な目で見ても、他者との関係のベースは、すくなくとも敵対と共生の両義性が本来的であると考えるべきでしょう。

ときには異族(他者)と敵対もありうる長い時間がつづくなかで、異族の世界を<他界>という“想像的なもの”として疎外してゆく過程があり、もう一方には、それと死者の魂がゆく場所としての<他界>のイメージが結び合わさってゆくような過程を想像することができます。その<他界>のイメージが、いつしか高い山の上や海の向こうに投影され、抽象化され固定化されることは十分にありうることと思います。<他界>というものは、恐怖や排除の対象でもあると同時に、崇拝や憧憬の対象でもあるという両義性をもつものであって、直接的に具体的な異族(他者)を意味するものとはいえないように思います。

『わたしたちの心的な風土で、禁制がうみだされるための条件はすくなくともふた色ある。ひとつは、個体がなんらかの理由で入眠状態にあることであり、もうひとつは閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちにもかんがえているときである。この条件は、共同的な幻想についてもかわらない。共同的な幻想もまた入眠とおなじように現実と理念との区別がうしなわれた心の状態でたやすく共同的な禁制をうみだすことができる。そしてこの状態の真の産み手は、貧弱な共同社会そのものである。』

このような記述からは、吉本の歴史進化主義のようなものが垣間見える気がして、すんなりと肯うには抵抗のある部分です。未開で貧弱なせまい共同社会では、幻覚のようなものがいとも簡単に共同幻想に転化され禁制を生み出してゆくのだという言い方は、人類は歴史が下るほど進歩してゆくのだという臆見を前提しているようにみえます。現代社会に住むわたしたちは、ほとんどが都市生活者であって、山中で入眠状態に陥ることは少ないでしょうし、その生活の条件や形態は、古い時代とは大きく変化したといっていいと思います。また社会体の構成も重層化したり複雑化したりしていて、それを「高度化」したという言葉を使うなら使ってもいいと思います。そういう意味では、貧弱な共同社会とは呼べないでしょう。

西欧近代の思考法によれば、人間は歴史が下るにつれてどんどん意識的になり、この世界を意識的に把握できるようになるのだから、やがて人間は世界に従属されられるところから解放され、人間が世界の主人になることができるという前提があると思います。吉本はマルクス/ヘーゲルの考え方をベースにしながら、いわゆる歴史的発展史観に立っていることはまちがいないと思います。それは、理想とすべきものが、自立した自由な個人の実現であるということとリンクしています。この西欧近代に発する人間主義は、疑う余地のない真理といえるのかどうか、疑義を払拭することはできないように思います。もちろん、いわゆる反動でしかないようなものを除いて、これを超えるような理念が、現在の世界にあるとは思えませんし、これを覆すということは、そうそう簡単なこととは思えません。もちろんわたしなどにその力はまるでありません。けれども、この考えを無条件に肯ってよいものかどうかは、検討されてしかるべきことだろうと思います。

※太字の『 』内は、吉本隆明「共同幻想論」(河出書房版)よりの引用です。

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